はてなキーワード: 常人とは
常人では思い付かない切れ味
読み取れないお前がアスペ()
(…自分がアスペって事実は何も変わらないので虚しい煽りだわ)
以下もともと書いてた事
やめとけやめとけやめとけ
相手はほぼ確実にアスペルガーだ。あなたは確実にカサンドラ症候群になる。ググってください。今後その彼氏にも、周りに彼の奇行を話してもあなたの感じた不満や違和感は永遠に共感されない。自分だけが抱えることになる。辛いぞ。自分の考えだけど、もしADHDだけなら人の心は持ってるが、アスペは人間とは脳が別の生き物だと思ってる。
生き物が違うから人間の話が伝わらないし、もし万が一努力して人間界への適応頑張ってるアスペだったとしても限界があるんだ。
定型発達なら普通に備わってて生まれた時からオートで働いてる人としてのセンサーがいくつも元々ぶっ壊れてるんだ。もともと無いんだ。
例えば、人との適切な距離感とか。心の機微を感じ取る能力とか。
「知って」「意識してその感覚を培っていこう」と努力しないと身に付かないし、
そしてまだ気付いてない常人が普通に持ちえる感覚が何百とある。
もともとその感覚は無いから。真似して「多分こんな感じだろう」と想像するしかないんだ。
【証明の程度】
主要事実について、どのような状態(心証の度合い、証明度。41 頁参照)になったとき
に、当該事実が認定できるといえるかにつき、判例(最判昭50.10.24 民集29-9-1417、最
判平12.7.18 集民198-529)は、因果関係の証明に関し、経験則に照らして全証拠を総合検
討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明する
ことであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るも
主要事実について立証責任を負う者は、当該主要事実について高度の蓋然性をもって真
実であるとの確信を抱かせる程度の立証を要する(本証)。これに対し、当該主要事実につ
いて立証責任を負わない者は、その事実の存否について真偽不明の状態に持ち込めば足り
ることになる(反証)。上記の事実認定の構造のイメージ図(8 頁)は、主として本証につ
https://www.courts.go.jp/saikosai/sihokensyujo/sihosyusyu/syusyugaiyou/minsaikyoukan/index.html
ざっとよんだ限り、裁判は真実を追求する場ではなく、レスバトルすると解釈することもできるな
むろん、レスバトルの過程で真実がわかることがあるが、大阪王将事件のように晒した側が嘘つきの前科者で、直接証拠がない状況だと裁判所の判断もそういうのに引っ張られることになる
昔オタク男が「荒川弘は出産しても一度も連載休まなかったのに女は出産程度で産休だの大騒ぎして情けない」的に持ち上げているのをよくみた。
私が帝王切開だったのもあるかもしれないがどう考えても無理。
傷のダメージより連日連夜の育児負担でズタボロだったし絶対無理。
男で言うなら手術で腹切ってから休憩もせず即仕事に行くレベルの超人。
荒川弘のコラム漫画も指が切れたのに医者に行かずに自分でくっつけたとか、赤ちゃんはテーブルに縛って仕事に行ったとか、凄い話ばかりだったし、多分北海道は女も相当強くないと生き残れない土地なんだ…。
家の近所は雪も十年に一度くらいしかつもらないし、ヘロヘロな私が行ったら吹雪に埋もれ死ぬだろう的なイメージを持った。
そういうわけで絶対引っ越したくない土地だったのだが最近ママ友さんが引っ越すことになった。
サンバカーニバルで踊ってるときに知り合った白人と結婚されたのだが「夫が雪国に住んだことないから行ってみたいと言い出して急に北海道で語学教師の仕事を決めてきた」と移住することになったらしい。
死ぬな頑張れ。
その日は彼氏とデートだったので、めかし込んでいたわけであるが、如何せん、デート先が中華街だったものでしこたま食べてしまって腹が苦しかったわたしは、帰りの電車は座って帰ることを切望していた。
この時間帯ならガラガラであることは知っていたので、予想通りのガラガラの電車に乗りこみ、わたしは椅子に座って帰路についた。
満腹感と電車の揺れが、朝から歩き回って疲弊した身体に心地よく、睡魔がわたしを襲う。その睡魔にあらがえずにうとうと、と船をこぐ。
まどろむ感覚が心地よいが、完全に意識を手放す醜態は公衆の面前で晒すわけにはいかなかったので(これは自分のプライドと美学の問題)、なんとか意識を持ち堪えていたときのことである。
三人がけの椅子の右端に座っていたわたしは、左端に男が座ってきたことを視界の端で認めた。
いつもなら人が近くにいることを認識したら、あとはもう何も気に留めないのだが、この日ばかりは違った。
男が、定期的にこちらを向いてくるのが分かったからである。じと、と嫌な汗が首筋を伝った。その嫌な感覚に眠気はぶっ飛び、頭は完全に覚醒する。
スマホを弄ってネサフをして気付いていないフリに努めていたが、明らかに男はこちらを何度も凝視してくるばかりか、柔軟のようにして、身体をこちらに向けてくるのがわかった。流石にきもちが悪い……と警戒心を強めた。
しばらくして男が「眠気のために身体が揺れる」演技をしだしたのがわかった。
何故か演技と断定するのかと言われたら根拠には薄いかも知れないが、電車で眠いのを我慢してるときって、身体の揺れって電車の進行方向と逆に体を戻そうとするよね?少なくともわたしはそうだ。
だって重力と慣性の赴くままに船を漕いでたら、そのうち車内をスピンしていく羽目になるだろうから。怪我したくないから、眠るのを我慢しようとして、眠くても意識的に大きく身体を起こしたり姿勢を正したりするはずだ。
しかしながら、男にはそれが見られない。こちら側のみに身体が揺れるのを繰り返しながら、地味に距離が近寄ってくるのだ。
となると、「あ、こいつ停車の勢いにかこつけて胸に飛び込めるように距離をはかってきてる」となんとなく予想がつく。
肌がピリつくのがわかる。こいつが仕掛けてくるのは一駅後か、二駅後か。ただらぬ緊張感だが、わたしは努めて冷静を装った。
向かいにすわるお姉さんが不安そうにわたしを見ている。確かにこんなやついたらそんな顔もするよね、と思う。思っているだけで逃げないのは、過度な緊張感のせいで、「席を移動する」という択がすっぽり頭から抜け落ちていたのだと今にして思う。
そして一駅後、停車のタイミングより一拍おくれて男が倒れ込んでくるのがわかった。
瞬間、わたしは男に対して背中を向け、膝を抱えるようにして限界まで身を小さくした。
胸、もしくは膝にダイブされるくらいなら背中にぶつかるほうがマシだと感じたし、男のダイブが避けられるなら御の字だと思ったからだ。
──男の頭はわたしの抱えた膝のわずか数センチ横を横切り、そして椅子から転落した。
あまりの近さに「うっっっわ!!」と叫んでしまったが、それよりもガッドン!!といった鈍い衝撃音もなかなかインパクトがあった。たぶんひっくり返ったから、後頭部から床にダイブしたんだろう。あまりの勢いのよさと痛みに男が足元で呻いている。気持ち悪い。
向かいのお姉さんがドン引きしている。そのやや離れた位置に座る男性もドン引きしている。わたしもドン引きしている。だって足下やぞ。
男はふらり、と立ち上がった。
ふらふらした足取りは、演技なのかガチなのか。判断がつかないが、向かいのお姉さんのほうへ男がたたらを踏んだ。おいまじか。「ヒィ…」とお姉さんが小さく悲鳴をあげながら、首をすぼめて男の手から逃れようとしていた。
最終的にお姉さんの後方にある窓へ手をついた男は、そのまま無言でふらふらと降車した。
向かいのお姉さんと男性と目が合う。二人とも強張った顔をしたいた。たぶんわたしも似た顔をしてるだろう。
張り詰めた空気感は、男が降車した直後に扉が閉まり、発車したことで少し和らいだ。ふう、と大きく息をついたことで、失っていた冷静さを取り戻そうとする。
彼氏や男友達、あるいは弟と一緒に居るときにはこんな珍事には遭遇しない。したことがない。決まってエンカウントするときは一人だ。
第三者から見ても知人だとわかる男がいる女には、エンカウントしてこないんだろう。選んでやってるんだろうな。──とわたしは辟易とする。
経験上、白い肌のヒョロガリの男がエンカウントしてくる。今回もそうだった。
体型に恵まれていない男性でも勝てると思って、女性ひとりを狙ってきているのだろうか。
ばかやろう、こちとらパチンコ台抱き上げられる怪力女だぞ!などと胸中でひとりごちていたのだが、ある種の現実逃避だ。直接的な被害はなかったとはいえ、流石に胸に燻るなんとも言えない不快感は消せなかったからだ。
まあ、つまるところ、これを機にボクシングでも習おうかと思って近くのジムの体験を申し込んだ。
変質者のソロ討伐出来ないときついな、と思ったのもあるけど、今後ソロ討伐の機会がなくとも、それを習うことによって得られるスキルなどは有益になると思ったからだ。
自衛できるように、手段と知識があるに越したことはないだろう。備えあればなんとやら、だ。
しかしながら、備えることの大切さを実感したとはいえ、あのジットリとした嫌な緊張感は不快だった。
全神経を逆立てて警戒するのは、想像以上に精神が摩耗する。自衛のために常在戦場の心構えで警戒しろ、というのはいささか不条理ではなかろうか。そんなの常人ならば耐えられまい。
ただ、警戒することなく日常を送りたいだけだ。戦場でもあるまいし、兵士でもないのだから。
この日常にスパイが紛れ込んでいて、いつ襲われるかわからない!なんてハラハラ感を日常に求めているわけではないのだ。
性別に関係なく「兵士のように精神をすり減らしながら警戒することなく日常をおくれる」ということこそが、モラルある人間の成せるものではないだろうか。それこそが正常な人間の営みだと思うのだ。
どちらか一方に配慮や負担を強いるのも、理性ある文化的な人間的な営みとは言い難いとは思う。
人間的モラルが欠如しているというか。人間的に相互に思いやる気持ちがあれば、世界のバグを少しでもデバッグできるんじゃないかと思うが、どうやらそうもいかないらしい。ああなんて素晴らしき現世、やってらんねーな。
嫌なエンカウントから思う愚痴が思ったよりも壮大になってしまった。
少なくともわたし自身はデバッグ出来るように、他者に思いやりのある人間でありたいと望むが、悪意がある限りは今回のように意図を持って回避、あるいは悪意を返すのだろう。南無三。
スゴいじゃん600コメント
風呂キャンセル界隈。別に明日も出かけないんだからいいだろ、二日入ってなくても。
さっきテレビで、ラーメン食べるときチャーシューから食べれば太らない!?みたいなテーマの番組がやってたから、ぼーっと見てた。いや、胡散臭すぎるだろ。麺を先に口にした場合、体がデンプンに反応し、インスリンの量が急上昇して太りやすい状態となる。チャーシューから食べると糖の吸収が穏やかになる。とのことらしい。チャンカワイが三日間9食ラーメン食って、少し体重減ってたけど そりゃ、間食抜きである程度量の決まっているものを三食(例えラーメンだとしても)食えば体重が減るだろ。てか、ラーメン食べるときに胃の中が空っぽの状態じゃなきゃ意味なくない?知らんけど。例え体重は減ったとしても、体の状態は最悪で早死にルートであろう。(笑)意味の分からない番組だったから最後まで見てないから、詳しくは知らない。なんかこんな感じで、一生頭の中がどうでもいいことでグルグルしている。ラーメンの次はこれ、Xで見た中学生の娘に縮毛矯正をさせるべきか?のポスト。ぼくも中学生の時に、母親から進められて縮毛したなと。それでいうと、歯列矯正も。約10年弱位かけて綺麗な歯を手に入れ、口開けて笑えるようになった。今となっては、めちゃくちゃやってよかったことだしさ もちろん有難いと思ってる。でも、当時自分の意志ってあったっけ?自分の意志の根底にはいつも母がいて、怒られないために行動している。ということに気付いた時、絶望した。そんで、いつの日からか「親に怒られること」を回避する癖がつくようになってた。したい、ほしい、好きなものも言えなかった。そんなぼくを、何をしているかわからない子供、何考えてるかわからない、おかしいって言われて、親戚間でもボロクソに言われてる。従兄弟たちが話聞いてくれたりしたこともあったけど、裏では更生施設ぶち込めば?とか辛いアピールかよ。とかラインでやり取りしてたもーん。ガーン。軽い気持ちで母の携帯を見たら、パニック発作起こしたが、まあ知れて良かったのかもね。尚更、(するつもりもないけど)誰も信用できないな。いつか、お前らの所有物じゃねえんだよ、意思あるんだわ って言えたらいいけどさ。
人生に呆れ、生きる活力がない、現状どうにかしたいけどマイナス思考が止まらない。どうしたらいいのかわからない。常人からしてみたら、こんなの「分かってもらえなくて死を願う生存本能に抗う特別な人間」とか他責(←これら、実際に言われたことで~す)とか思いますよね、日記だから許してくれ。ここでやっと吐き出せるんだ。
前クールの放送前、『しかのこのこのここしたんたん』の公式MAD(?)が大バズりしていたのを覚えている人は多いと思う。
「(電通)マーケティングの巧みさ」が賞賛されていたように記憶している。
が、俺は懐疑的だった。
「本当にこの勢いに見合うアニメなのか?」と。
また、「ボーボボの再来」とも言われていたように覚えているけど、あれは常人が描ける漫画ではない。本当にそんなことが可能なのか?と。
それが放送を見るうちたちまち夢中に……とはならなかった。
「やっぱり俺の言ったとおりじゃないか!」と思った。顔芸にしろスローモーションにしろ率直にいえばスベッていて、これで1クール持たせるつもりだとは到底思えなかった。
2話を見る。スベってる。3話を見る。スベってる。……と見ていくうち、しかしこの作品は何ごとかではある、と思うようになった(5話は普通にちょっと面白かった)。
愛すべきスベりっぷり? それはある。しかし確実に「愛せない」スベりっぷりもこの作品には刻み込まれている。
その両者を浴びていくうち……なんだかシビれてくるものがあるのだ。
作者や製作陣に敬意を表すると、意欲作ではある。
キャラクターがいわゆる「百合媚び」をしないからこそのキャラの可愛さがある。
これ見よがしに「関係性の進展」を描かないところも個人的な好みだ(終盤にばしゃめとあんこに関しては描かれたが)。
のこたんが消えると言う「フリ」があった。
なのでこしたんが奮闘し、色々あった末に魔法が起きてのこたんが帰ってくるみたいな話なのかな……と思っていたら消えるのは「ウソ」で、のこたんがせんとくんとの試合で爆弾を落としまくると言うエンド(?)。
あれは痺れた。日常系では「魔法」が問題を解決するわけだが、『しかのこ』では「爆弾」が問題を解決するのだなと。
ここでの本題ではないので省略するが、他にも「日常系との違い」が強く意識された作品ではあった。
話を戻そう。
この『しかのこ』のくだらなさ、そして見続けていると痺れてくる感じ……これは貴重な体験のようにも思うのだ。
だって考えてみてほしい。タルコフスキーの映画だってカフカの小説だって基本的には退屈だ。
ただそれを味わっていくうちにビリビリくるものがある……と言うものではなかったか?(個人の感想です)
少なくともこうは言えるだろう。「つまらない」は「贅沢」なのだと。
アニメに限らず、今の世の中(主語がデカすぎるが、続ける)、面白いもので溢れかえっていると思う。
寸分も目を離さないように設計されているもの、気が利いているもの、巧みな工夫が施されたものetc.
そしてこのサブスク化によって、私たちは時間さえあれば無限に面白いものに触れられるようになった。『Rate your music』など、最近はレビューサイトも充実してきている。
もちろん、それは良いことだ。クソアニメばかり掴まされてきた若い頃と比べると、良い時代になったなと思う。
でも裏面では、面白いものに内心うんざりもしているんじゃないか?
大げさにいえば、「面白さというエコノミー」にナッジされ搾取されている私たち……ということだと思う。
ただ具体的に、「面白くない作品、感動させられない作品、心を揺さぶられない作品」があってもいいと思うのだ。
(これはいわゆる"クソアニメを面白がる"態度と近い。俺はそれを認めた上で、ズレる面があると言いたいのだが、ここでの本題ではないので置いておこう)
そして勘違いしないで欲しいのは、俺の『しかのこ』への想いは決して"いわゆる"作品愛ではないことだ。
上に書いたとおり、ギャグはかなり滑ってると思った。またそのゆるさ・たわいのなさを愛でるにしても「愛せない」と感じる側面がある。
しかし、一見矛盾しているように感じるかもしれないが、この愛せる部分と愛せない部分の共存、それこそが真の「愛」じゃないか? と感じるようにもなった。
俺が講釈を垂れるまでもなく、今は「いいね!」が氾濫する時代である。「推し」も然りだ。
またアニメ評論に関していえば、一見客観的・中立的な技術的分析が背後に大きな「好き!」を隠し持っているというケースは多々ある(そういう世界なんです)。
それらを否定する気は全くない。
自分はどちらかといえば「批評(批判)」には懐疑的な立場だ。作品のポテンシャルを引き出すよりも削いでしまっている、あるいは作品を読めてないだけ、ということの方が多くないか? と思う。
何より、好きな作品の批判を見るのは嫌なものだ。それから推しのVtuberもいる(複数)。