はてなキーワード: 原住民とは
ピンクハウスみたいなワンピース着てピンクハウスみたいな日傘差したアラフォーくらいの女二人がさ、横並びで歩いてきたんだよ、前も見ずにぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋りながらさ
広い歩道なのに日傘のせいで道幅の殆どを専有してて、皆半身になって横を通り過ぎるんだけどさ、俺も(うわ、来た来た)と思って避ける準備してたんだけどさ、前方約3メートル先を行くインド人っぽい兄ちゃん四人がそいつ等の日傘を邪魔そうに手で払い除けながら横切ったらさ、車道側のピンクハウスが「キャッ!」とか言いながら超オーバーリアクションでゲームみたいなのけ反りモーション披露して、あろうことか横並びのまま更に幅を広げて立ち止まるのよ
んで、うぜえなと思いながら俺も若干車道にはみ出しながら横通り過ぎようとしたらさ、二人がハンカチで口元押さえながら眉間にしわ寄せて「くっさぁ〜いぃ」みたいな表情でお互いに目配せしながら後ろ見て、インド人っぽい兄ちゃんの体臭嗅がされたうえに突き飛ばされて加害された!的なアピールしてんの
俺さ、こんときピンクハウス✕2を思わずぶん殴りそうになったわ
確かに前方の兄ちゃんたちはなかなかのクミンスメルを醸してたよ、今日はカレー味のもの食いたくないな、くらいにはさ
でもさ、それって彼らが産まれた国の遺伝子や文化によって不可抗力的に身に付いたものであって、そこを目に見える形で嫌悪するのって人種差別以外の何物でもないわけじゃん?
なのにこのピンクハウス共は横並びで日傘差して歩行者の往来を妨害して加害してた事実を注意された後ろめたさを誤魔化すために、ぶつかり行為(実際には邪魔な日傘払い除けられただけ)されて悪臭嗅がされた私かわいそう!みたいなアピールを依然として歩道塞ぎながら前方の歩行者と隣のピンクハウスにしてくるわけよ
まあ皆無視して半身になって避けてたけどさ
「世の中の全ては主人公たる自分に配慮するのが当然だろ?」みたいな思想を持ってる奴はネットでかなり可視化されたし、そういう馬鹿が一定数居るのは理解してはいたけどさ、いざ実際に目にするとこいつらなんて下劣な人間なんだろうって辟易したよ本当に
氷河期のジジババにアクシーズファムなんてわからないだろうからそれとよく似たピンクハウスに例えたんだよ
ちなみにピンクハウス再ブームは4年くらい前からあったけどジジババには関係のない話
differential ブコメ、ピンクハウス男性が近所に複数いるってかなり珍しい住環境だ/「道路に広がって歩く」と「払い除ける」行為、迷惑と加害ぐらいの差はあると思うけどな。あとPH40もだが、増田も差別的言説ではある
ピンクハウスを避けるために車道にはみ出してる時点でこっちのほうが危険を被ってるだろ
お前馬鹿?
再追記
あのね、最近はよほど安いものでない限りワンピースって腰と背中回りに伸縮性があってインナーで二重三重重ね着する前提の構造になってて、多様な季節に対応できるようになってるの
なのに多分画像検索でわかった気になってコンテクスト読まず判断した童貞チンボとババアなんだろうね、ピンクハウスからアクシーズファムを連想してアラフォーならリリアンカラットじゃね?ってたどり着く奴が一切居なかったのは引くわ
っていうか今古着界隈でピンクハウス再ブームだしアラフォー日傘女でヒラヒラワンピって言ったらこれ一択でしょうに
確かにここの原住民って世の中の流行りを知らなすぎるから俺の親と同じ平均年齢50〜60代かもしれんね
今ツイのインフルエンサーの間でここでお気持ち吐くの流行ってるんだけどさ、氷河期世代って俺らの親世代だからあんたら相当憎まれてるしこれからめちゃくちゃ叩かれると思うよ
当方、ヨーロッパ某国にいるので、先日クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を視聴することができた。
同日公開だった方向性の全く違う『バービー』との造語がミームになるなど、英語圏を中心に話題になっているが、『オッペンハイマー』は原爆開発のマンハッタン計画を指揮した物理学者の伝記映画であるため、日本での公開は未定であるという(しかも8月が近いこの時期なので)。
ネタバレ等は気にしないで書くので、情報を入れないで視聴したい向きは注意されたい。
戦中の原爆開発まで、戦後の赤狩りによるオッペンハイマーの失脚、さらにその後のストラウス(オッペンハイマーへの個人的因縁から裏で糸を引いた人物)の議会公聴会だ。
また、最初のマンハッタン計画までを除けば、基本的に法廷劇である。
当方は英語のリスニングに慣れているとは思うが、聞き逃した事柄もあった。日本語字幕で見ればこの苦労は少なかったかもしれない。
さらに3時間と長い。劇場は結構混んでいたが、途中で携帯を見たり同伴者と話したりするガキ共もいた。
映画的なクライマックスは、一応ロスアラモスでの原爆の爆発実験に置かれており、中盤に訪れる。
これによってオッペンハイマーはプロメテウスとなり、世界に滅亡をもたらす「死」となる。
オッペンハイマーはこの後苦悩し、戦後の水爆開発に反対し、それが戦後の公職追放の憂き目を見る仇となる。
日本人として気になる広島・長崎の描写は、直接行うことは避けられている。
しかし、罪の意識に苛まれる主人公が投下後にロスアラモスの職員を前に演説する際、喜びを口にしドイツに落としてやりたかった(オッペンハイマーはユダヤ人)と盛り上げながらも、皮膚がポロポロと崩れ落ちる幻影を見せる(これは『はだしのゲン』での描写が思わず想起された)、職員向けの広島視察報告会で残虐な写真を想像させるリアクションを演じさせる、という程度は行っている。
などと軽い調子で話し合う場面は生々しい。
僕は被爆地出身ではないし、広島に高校の修学旅行で一度訪れた程度なのだが、上述の演説中のフラッシュバックの場面では、被爆者が受けた残酷な苦悩を思い、思わず涙がこぼれた。
これはアメリカ人が憎いとかどうのという話ではなく、(戦後も含めた)歴史という大きな対象と個人との対比に心が動いたという話と言えようか。
あとちょっと思ったのは、爆発前のカウントダウンはAVのJOIみたいな効果がある。
個人的営為の究極であるAV鑑賞と、大衆娯楽にする装置であった映画館での映画観賞との接続は興味深い。
アメリカ合衆国の原罪のようなものも、映画に盛り込まれている。
まず、ロスアラモス研究所を作った砂漠は原住民の土地であり、オッペンハイマー自身が戦後にインディアンに返せと言う台詞がある。
原住民から取り上げて作った研究員の居住空間は、まるで西部劇の舞台である。
ガランとした土埃舞う道、左右に並ぶ木製の建物。
妻がシーツを取り込む場面はフォードにありそうだし、ロスアラモスに引っ越してきたオッペンハイマーの妻はサルーンがあれば完璧ねと言う台詞もある。
事程左様に西部劇的な舞台が用意されるが、アメリカ合衆国が西部劇で描いてきた神話や、その自警的な暴力性と法による支配との相克は、これまで様々な映画で繰り返し取り上げられてきた主題である。
この映画でも、原爆を無事作り終えて職員に肩車されるオッペンハイマーの背景には、星条旗がはためく。
オッペンハイマーはナチズムへの反発から、アメリカ軍の原爆開発をリードする役目を引き受けた。
科学と政治の関係というテーマは、コロナ禍での専門知の活用、学術アカデミーの問題、そして2011年の原発事故など、日本でも問題になってきた。
この映画のテーマはもちろん原爆というプロメテウスの火である。現代的なテーマである。
しかし今一度思い返してみると、科学、共産主義、資本主義の関係にも踏み込まれているのではないかと思う。
科学の進展と共産主義は切っても切れない関係にある。ソ連は科学を推し進め、オッペンハイマーもマルクス主義(科学的社会主義)に興味を持つなど、科学者も共産主義で楽園が訪れるのではないかと期待した。
しかし共産党による独裁となったソ連は崩壊し、その混乱を収めたプーチンがウクライナに核の脅しをかけている。
では資本主義の勝利かと言えば、その限界が指摘されて久しい。アメリカ合衆国は共産主義への恐怖から赤狩りを進める。さらに戦争に勝つために原爆まで作ってしまった当事者である。
この映画は、冒頭で述べたように3分の2が赤狩りに関するものである。
原爆の映画ではあるのだが、共産主義と科学に関する映画と考えることもできよう。
3時間という長尺の映画であるが、これだけ多様で重層的なテーマを盛り込み、商業作品にしたクリストファー・ノーランと製作チームの意欲は素晴らしい。
しかし、あくまでもアメリカ国内の話であるという感じもする。ソ連、そしてヨーロッパや中国の動向も薄い。
そして日本では、まずもって娯楽作品ではないから、商業的成功は見込めるのかは分からない。
フランス暴動:数百人の警官が負傷、数千人のデモ参加者が銃撃で逮捕される中、知っておくべきこと
抗議活動により警察官270人が負傷、2,000人以上の参加者が逮捕された
交通停止中に 17歳の少年が死亡したことを受けて、暴動がパリ郊外を襲い、すぐにフランス全土の他の町や都市に広がったが、なぜ状況はここまで制御不能になったのだろうか?
ヘンリー・ジャクソン協会の共同創設者で事務局長のアラン・メンドーサ氏は、「そこで起きていることは、国内のイスラム系移民人口の統合に失敗した結果だ」とフォックスニュースデジタルに語った。
「伝説のフランスは、原住民と同じ進歩や成功の機会を持たないゲットー化されたコミュニティの日常生活の現実からは遠く離れている」と彼は語った。「フランスの忘れ去られたコミュニティは、もはや忘れ去られたままではないことを示しています。」
「バンリューで感じられたくすぶる怒りは、爆発するための火花を必要としていましたが、暴動や略奪という形での無秩序を常に歓迎してきたフランス社会の無秩序な緊張によって今利用されています。」
5日間の暴動期間中、全国で合計2,000人以上が逮捕された。フランスのエマニュエル・マクロン大統領も暴動を受けて予定していたドイツ訪問を延期した。フランス内務大臣は土曜日、逮捕者の平均年齢は17歳だったと発表した。
統一SGP警察FO組合のグレゴリー・ジョロン事務局長は、警察は「フランス国内のこれほど多くの都市で、このような都市暴力は18年間初めて見た」と語った。
警察は火曜日の朝、パリ郊外のナンテールで、ネーヘル・Mという名前だけが判明したこの少年を逮捕した。ネヘルさんは配送ドライバーとして働いていたが、警察官2人と話すために車を止め、警察官が彼の車に近づき、交通ルールを破ったと説明したと検察官は述べた。
警察の報告書とソーシャルメディア上で拡散されたビデオの矛盾もあり、事件の正確なきっかけは依然として不明である。フランス24紙によると、警察はネヘル容疑者が警官の1人に向かって車を運転したと発表しており、ビデオには警官の1人が彼に武器を向けて「頭に銃弾を受けるぞ」と言っている様子が映っている。
ネーヘルは黄色のメルセデスを運転した。車には2人が乗っていたが、当時彼は無免許だった。伝えられるところによると、彼は以前の交通停止に従わなかったために拘留されており、9月に少年法廷に出廷する予定だった。
その後、警官はネーヘルを撃ったとみられるが、車はわずかな距離を走行して突然発進し、ネーヘルはその場で死亡した。警察は加害警察官を拘留し、金曜日に容疑をかけて自発的過失致死の容疑で捜査を開始した。
ロイター通信によると、警察官の弁護士ローラン・フランク・リエナール氏はフランスのテレビとのインタビューで、依頼人は運転手の脚を狙ったが、車が発進する際に衝突し、胸に向けて発砲したと述べた。報告書によると、同容疑者は「明らかに(警察官は)運転手を殺したくなかった」と述べたという。
家族の弁護士によると、ネーヘルさんはアルジェリア系とモロッコ系で、犯罪歴はなかった。彼は地元のラグビークラブでプレーし、貧困地域の人々が見習いを受けるのを支援することを目的としたプログラムに参加していた。ネーヘルは電気技師になるつもりでした。
マクロン大統領はこの危機に対してさまざまな反応を示しており、当初は銃撃事件を「不可解」で「許せない」と表現していたが、その後抗議活動を非難し、暴力が増大している原因はソーシャルメディアからビデオゲームに至るまであらゆるものにあると非難した。
マクロン氏は、TikTokやSnapchatなどのソーシャルメディアプラットフォームが、特にネヘルさんを射殺した警察官の個人情報がプラットフォーム上で出回った後、暴動をあおるのに役立った、と主張した。同氏は、政府がソーシャルメディアサイトと協力して「最も機密性の高いコンテンツ」を削除し、「無秩序を呼びかけたり、暴力を激化させたりする」ユーザーを特定すると述べた。マクロン大統領はまた、国内の法執行機関内に組織的な人種差別があったことを否定した。
ネーヘルさんの母親は警察が「アラブ人の顔」に暴力的に対応したと非難し、一部の観察者らによると、大規模でサービスが行き届いていない北アフリカ系移民(主にイスラム教徒)と警察との間に潜在的な緊張があることに注目を集めた。
ネーヘルさんには犯罪歴はなかったが、2021年以来5回警察による検査を受けており、停止命令に従うことを拒否していた。停車のほとんどは、無免許運転や無保険、虚偽のナンバープレートの使用などでした。
このビデオと、隠蔽工作のような印象を与えた警察の矛盾した証言は、一部のフランス国民の怒りを引き起こし、最初のデモ参加者につながった。ニューヨーク・タイムズ紙の報道によると、デモ参加者らは、ネーヘルさんの死はフランスの法執行機関の根底にある人種差別の表れだと主張している。
事件以来、デモ参加者らは警察と激しく衝突しており、デモ参加者が警察官に石や花火を投げつけたり、車両やゴミに火をつけたり、建物を汚損したりするなどして逮捕者が増加している。
最初の抗議活動はナンテールで発生したが、3日目までにパリ本土、マルセイユ、リヨン、トゥールーズ、ストラスブール、リールなど他の町や都市に広がった。
マルセイユの暴徒らは銃器店を強盗し、狩猟用ライフルを奪ったが弾薬は受け取らなかった。
土曜日、マクロン大統領は、抗議活動と暴力的衝突が拡大し続ける中、物議を醸しているエルトン・ジョンのコンサートに出席したにもかかわらず、国内の危機に対処するためドイツへの旅行をキャンセルした。
彼は抗議活動への対処方法を決定するために国会の緊急会議を招集し、最終的に抗議活動の鎮圧に4万5000人の警官と装甲車両を投入することを決定した。当初、法執行機関は約9,000人の警察官のみを配置していた。
土曜夜の時点でロイター通信は、マルセイユやニースなど国内各地で散発的な暴力が勃発しているものの、状況は落ち着いていると報じた。来年のオリンピック開催地であるパリでは、ソーシャルメディアが抗議活動参加者にシャンゼリゼ通りに集まるよう呼びかけたとされ、警察はシャンゼリゼ通りの警備に警察官を増員した。
フランスのジェラルド・ダルマナン内務大臣は、テレビニュースチャンネルで 政府が 非常事態を宣言するかどうかとの質問に対し、「端的に言えば、いかなる仮説も排除するつもりはなく、選択します。今夜以降に共和国大統領の判断が分かるだろう」と述べた。
オレがたぶん高校生か大学生くらいの時代までは、まことしやかに言われてたと思うんだが。
南米アマゾンの奥地だか、アフリカ方面の奥地だかを探検やら調査研究やらに行ってきた人いわく:原住民たちの話す言語は、数の概念が未発達で、1つ、2つまでは数えるが、3以上はみんな「たくさん」という意味の言葉しかない。
これ、最近はトント聞かなくなったよなーw きっと昔は人種差別意識とか偏見とかあって、そういう風に思い込んでたというか、だからアイツらは未開で原始的なんだよ〜って揶揄する傾向が出てたんじゃないかと。
常識的に考えたら、夫婦と子ども2人だけでも「4人」だし、そっち方面の乳幼児死亡率が高い環境なら、子ども3人4人とかもざらにあるんだから「5人」「6人」の区別は当然つくし、言い表す言葉だってあるに決まってんじゃんw
逆に、オレら含めて文明の大いに発達した先進諸国の言語でも「人、人、人」とか「叩け、叩け、叩け」みたいに3つ同じことを繰り返したら「たくさん」「無数に」ていう意味で通じるじゃん。
デカ足と細いすねのバランスがちょっと義足っぽいとおもったら彼は手だけなんだっけ?
一般人より圧倒的に強いのに長期的に見れば滅ぶのはそいつらで生き残るのは一般人たちって展開あるよね~
そんなことを「都会風を吹かさないよう」などと書かれた田舎の提言を見て思った。
移住者が定着しなければ過疎化で地域が消滅するのに、なぜか向かえる側が上の立場で一見尊大に見えてしまうような言葉遣いがなされている。不思議ねー。
地域の力関係で言えば原住民のほうが上だけど滅びに瀕しているのもまた彼らだよね。
個の力は強くて社会にも上手く潜めかけていてさらに超強い変異種の田村とか後藤とかがいる。
我々はか弱い
は名言。個では勝てなかったり寄生ありきだったりと表面上の強さと内実の弱さのギャップを表した言葉。
だから「都会風を吹かさないよう」も逆のギャップを含んだ名言だとおもう。移住を募る弱さと妥協はしたくないという強気の心持。割り切れない人間くささが出てて非常にいい。
あとはジョジョの柱の男とか?エイジャの赤石ってどんでん返しがあるけど作中では女居なくて滅亡濃厚。三人になる前でも人口少なくて日光に弱くて睡眠時間が長いってそのうち人類に滅ぼされる要素が多いよね。
クロノトリガーの恐竜人も肉体的にも技術的にも太古の人類を圧倒してたけどラヴォスの落下と氷河期で滅亡が決定してる。それをわかっているアザーラさんの人気も高し。
ほかにも多分いろいろあるだろうけど、こいつらはどんなに強く振舞っても未来は無いってところで俺らとしては哀れみを含んだ感情を抱いちゃう。そこが魅力でもある。だから限界集落のみんなも正直、当事者にならなければかなりオイシイ、気骨がある、エンタメとしていいキャラしている。
こういった展開はラストが重要なので、ぜひそのまま有終の美を打ち立てて欲しい。具体例があまり出ないけど好きなシチュなので。
1676年6月20日
「聖なる神は、長く打ち続き苦しみを与えんとするその摂理をもって、この地に住む異教徒の原住民とのこの戦いにおいて、この荒野にある契約の民 たちに対して辛い思いを約束し、体験させてきたが、神は審判のさなかにあっても慈悲の心を忘れていないことを我らに知らせるため、我らの罪に対して不快な 気持ちを抱いているときも神の足台たるこの大地のことを忘れず、父親の慈愛と思いやりを多くの不思議な形で示された。また、敵がもたらさんとする荒廃の危 機から多くの町を救い、とりわけ最近は、かつて我らが感じていた不利をなくし、敵に対する優位を我らの仲間の多くに与えてくださった。我らが絶滅しないこ とが神の慈悲であるのなら、いかなる程度であれ敵が失望または壊滅させられることは、間違いなくそのしるしであり、我らは深く感謝する。そして、多くの慈 悲を示していただいているにもかかわらず、神に感謝の祈りを捧げず、迫りくる苦難にあっては不平ばかりを言って神を苦しめる無分別な人間だと神がみなすこ とを、我らは恐れる。
そこで、本評議会はここに会合を開き、本月6月29日を、厳粛に神に感謝を捧げ、神のご加護と恩恵を称える日とした。我らが受けた神の慈悲を例 示することは可能だが、神が与える苦難を感じている者たちもまた、神が我らの元に立ち戻られることを渇望してきたことを、我らは疑わない。そして神が我ら を、神を称え賛美する者たちと見てくれることを、我らは疑わない。本評議会は、この管轄区域に属する各聖職者、長老および人々に対して、我らすべてが神の 慈悲によって促されたのと同じ嘆願の気持ちを、厳粛かつ真摯に持ち続け、ここにいる我ら全員が、イエス・キリストの名において歓迎される生きた勤行とし て、自らの肉体と魂を神に捧げるよう求める」