はてなキーワード: 自己分析とは
僕のどこがダメだったんだろう。
という質問の答えを自分で書いているのに気がつかない恐ろしさ。
そう思っていながらも固執しているところ。
相談所が間に入っているから押しかけるわけにもいかないし、これ婚活でなかったら、なんで連絡よこさないんだって家まで行くレベルなんだけど、婚活で出会った相手は結婚が決まるまでは友達以下なんだろう。
それも連絡を寄越さないだけで実家にまで来るなんて常軌を逸しているので
立派なストーカー予備軍。
さっさと切り替えて次に行けばいいのにこれに続いて「僕のどこがダメだったんだろう」
あくまで直すのは「僕が納得するまで説明をしてくれた場合」で、
「僕が直してもいいと判断した場合」でないと「直す努力はして あげない 。」
要するに「直してやってもいい」という上から目線がこの一文から溢れ出ている。
それは決して思いやりではない。
「ただのブス」で済む話を、なにを長ったらしく自己分析しちゃってんのかしら?
ブスはブスなりに無駄なこと考えず明るく振る舞えばええのよ。
私は現在大学3年生です。周りには早くも就活に精を出す人達がいます。インターンシップを受けたり、セミナーや説明会を聞きにいったり、果てには就活塾なるものにお金を出して通っている人もいます。
さて、就活業界は就活生の競争を煽ることに躍起になっていますが、ほんとにキモいです。勘弁してください(笑)
ここまで自己分析ができたんだったら改まってこれから注意すればいいんじゃない?
確かに連絡もしないで先にバスに乗ったことは自己中だと思うけど、一生関わりたくないとかいうレベルじゃないから救いようがあるよ。
私からのアドバイスだけど、相手を女の子(できれば守ってあげたい年頃の子)だと思って行動するとうまくいく。
たとえば相手が女の子で一緒に行動してて先に乗ってると思ってバスに駆け込むかい?
相手が女の子ってだけで変わると思うんだよなー。
彼女ができないのは自分中心になってて出会うチャンス自体が少ないのかもしれないし、一人に慣れすぎてどんどん自己中が悪化してってるんだよ。
いつも恋人がいると相手ありきの考えがあるし、それがいつものことだから自己中な選択より二人でどうしたいかを優先することが多いから自然と身に付く。
こればかりは君を責められない。彼女がいなかったんだったら身につかなかったのは仕方ないことだ。
言いたいことはわかるし、言いたくなる気持ちもわかるんだけども。
ということだよね。
でも例えばさー
って言う人に
『本当にだらしない奴は自分で自分をだらしないとか言わない』とか言わないじゃん誰も。
『私ってサバサバしてるから』とか
『俺って変わってるから』とか
そういう時ばかりじゃない?『本当の○○は自分で○○とは言わない』って言われるの。
どこがどう違うんだろうな。
サバサバや変人でも自己分析することも話の流れでそれを吐露することもあると思うんだけど。
つか実際ネットとかだとキチ○イ自称してる人って、けっこうマジでヤバげな人多いし。
あとよく言われるのは『本当のうつ病』とかかな。
うつ病とかになる心配がないのなら今の会社に残留したほうがいいと思うな。
自己分析をちゃんとやった上で、今の会社に入れたというのは、会社にとってもあなた自身にとっても相性がよかったのだと思う。
多分システムの発注とかがメインの会社なんだろうけど、そういう会社でコードを理解している人材ってのは、受注側にとってはありがたい存在なんじゃないかな。
あと、Web業界が華やかに見えるって、そりゃネット上で露出が多いから外からみたら華やかに見えるだけ。芸能界が華やかに見えるのと一緒。
表に出てくるのはきれいなところだけってことを実感で理解していないと、多分「こんなはずじゃ・・・」になると思う。
「未経験」の看板に頼るのか、今の会社で空き時間を使って何かを作って、「経験者」の看板を持つのか。前者の方が楽だけど、失敗したときに失うものは大きいと思うよ。
「採用の決め手となる何かが足りない。やりたいという熱意が見えてこない。たとえ、貴方が熱意を持っていたとしても、この面接で感じとることができない。後日、もう一度面接をしましょう。そのときまでに、もっと業界研究をして、弊社に入りたいということをアピールできるようにしておいてください。」
一次面接の壁を突破し、なんとか辿り着いた二次面接。そこで、社長さんに言われたセリフがこれだった。
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僕の今の状況を説明しよう。
24歳で大学院の修士課程を卒業。学生時代、十数社の企業や団体の採用試験を受けたが、どこも通らず。しかし、不採用だった1社から、契約職員のお誘いが来て、1年間の契約で働くことになった。しかし、契約更新はしてもらえず1年で退職。そして、25歳。就職先が見つからずに、ニートになってしまった。(厳密には、求職活動中の人はニートとは呼ばないらしいが、読者の方にとってはこの表現の方がわかりやすいと思うので、こう表現する。)
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学生(大学院生)の頃は、受ける企業を少数に絞って、就職活動をすることにしてた。手当たり次第に受けるよりも、少ない企業に絞って企業のことを深く研究したほうが、企業側には熱意が伝わるだろうと思ったからだ。さらに、この戦略をとる理由としてもう1つ挙げられるのが、僕はあくまで学生なので、卒業研究に専念したいという思いがあったということだ。僕はもともと、勉強や研究が好きで、就活なんていう雑用は早く終わらせたかった。
企業もなるべく、研究だとか開発というような色合いの強そうなところを選んで受けた。それなりに、入りたいという意志があった。
しかし、結果はどこも1次面接で不採用。筆記試験はほとんどの企業で通るのに、面接になると落ちる。
その結果、「こんなに入りたいという意志があるのに、落とすなんてひどい」という負の感情と「どうせ、僕はどこを受けてもダメなんだ」というモチベーションの低下が生まれた。それでも、周囲の人の支えにより、少しずつ企業や公共団体の試験を受けて行った。そして、2月。ようやく就職が決まった。1年の契約職員だけど。
そして、僕は1年間そこの会社で働いた。しかし、やっても失敗ばかり。イメージしていた仕事とは全然違う。職場の人との意見は合わない。円満な人間関係を作るために、もしくは職務を遂行するために、素の自分を殺し、つねに偽りの自分を演じなければならなかった。「言いたいことが言えない」という状態がずっと続いた。(1つだけ補足すると、いわゆるブラック企業ではない。福利厚生はちゃんとしているし、法律はちゃんと守ってるし、離職率も低い)
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僕は、再び、就職活動をすることになった。僕は今までの失敗の原因を「自分の性格と企業の求める人材像の不一致」と考えた。だから、自己分析を入念に行った。自分の心と向き合う作業。自分の今までの経験を踏まえて、自分の性格を見つけ、ノートに書き出してみる。例えば、僕は学生時代によく先生に質問することが多かったことや、研究をして新しいことを発見するのが好きなことから「好奇心が旺盛な性格」であることに気づいた。
問題は、ここからである。自分の「好奇心が旺盛な性格」にピッタリ合う職場はどこにあるのかということである。この問題には、「手当たり次第受けてみる」という作戦を取ることにした。幸い、ニートの僕には時間があった。企業を手当たり次第受けることに何の時間的制約も受けなかった。さらに、この作戦にはもう1つ利点があった。それは、心理的な安定が得られる点である。志望企業が2社ある内の1社から不採用通知がくるのと、志望企業が20社あるうちの1社から不採用通知が来るのでは心理的な負担が違う。20社のうち1社落ちても、たかが1社落ちただけで、まだ19社残ってると自分の心に言い聞かせることができる。また、学生時代に感じた「あれだけ熱心に調べたのに」という怒りも感じない。不採用通知が心のなかで穏便に処理されるのだ。
こんな流れができているもんだから、テスト(面接)の段階では、既に次に受ける企業のことを考えているという始末。
僕は、就職活動が順調に進んでいる。そう思い込んでいた。しかし、状況は何一つ進んでいなかったのだ。僕は、就職活動というイベントを行っただけで、「就職先を決める」という本質を見失っていた。
そして、「手当たり次第受けてみる」作戦の決定的な問題点が浮き彫りになった。それは、熱意の不足、もしくはやる気のなさである。僕の就活のスタンスは「僕はこんな性格の人間です。採用するかしないかは、御社が決めてください。」という形であった。「どうしても御社でなければダメなんだ。」「御社で働きたいんだ」という熱意が欠けていた。それが、不採用の原因となってきたのだ。
考えてみれば、僕には、「どうしてもやりたいこと」や「どうしても欲しいもの」がなかった。企業に落ちても「別にいいや」、雇用契約が更新されなくても「まあいいや」、恋人に別れようと言われても「しょうがないや」。いつしか、僕は、何かを追い続けるということをしなくなった。
自分自身も含めて、ぼくの周りの悪人はみんなやつが犯人だとわかってた。
合理的に説明出来る根拠なんてないし、感覚的なもの。悪人には悪人がわかる。
良い人にはわからないとおもう。
操作担当者はよほど自信があったんだと思う。悪人捕まえることに特化した選抜訓練されてるから。
でも説明することは難しい。IT犯罪の立証が想像以上に難しいことがわかったのが今回の成果。
ゆうちゃんは自分より頭の良い人たちが右往左往してるの見て気持ちよくなっちゃったんだと思う。
彼は自己分析でサイコパスって言ってたけど、それでもまだ中途半端に良心が残っていて、エンディングは自分が逮捕されることずっとイメージしてたんだと思う。よくわかる。
真っ黒だったらあんなことしないよ。
佐藤弁護士もにゃん語使いもほんと良い人なんだなってことがわかったし、広告にもなったし、良かったと思う。
今回おもしろかったのは、オウム上祐もそうだったけど、本人話してるの見てるうちに犯人じゃないかも?と思ってしまう怖さ。
上祐の場合話がうまかった、で納得してたけどそうじゃない。
拘置所とか刑務所に入ってみればよくわかるけど、悪党はべつに我々と同じなんですよ。
極めて普通の人。
だからそういう人たち見てると、ああ、かわいそうに病気なんだなって思う。
病気なんですよ。
今日ニュース見てて、いろいろ面倒な話は置いておいて日本に皇室があって良かったなあ、 的なことを思った。理由もなくそんなこと思ったりするのは子供の頃の自分ならムキー! てなった感じの話なんだけど、とにかく素直にそう思ったんだから仕方ない(笑) 自己分析もやればできるけどしないでおこう。 倉本圭造 https://twitter.com/keizokuramoto/status/459326054490853376
倉本圭造の言論には
たとえばこんなふうに
「今日ニュース見てて、いろいろ面倒な話は置いておいて日本に倉本圭造殺せと主張する人たちがいて良かったなあ、的なことを思った。理由もなくそんなこと思ったりするのは子供の頃の自分ならムキー!てなった感じの話なんだけど、とにかく素直にそう思ったんだから仕方ない(笑)自己分析もやればできるけどしないでおこう。」
防衛線張りまくるあたりも小物感を醸し出している
倉本圭造がツイートで書くのをためらった「良かったな」と思ったこととは
もちろん皇室ではない
それによって形成された戦後民主主義だ それを「皇室」と呼んで
戦後民主主義に対して、子どもの頃の倉本圭造はムキーと反発していて
素直にあって良かった 日本国憲法あって良かった
素直に思えているけれど それについては
やればできるはずの自己分析を 倉本圭造は、したくない(嘲笑)
倉本圭造のメンタリティは 大日本愛国ナントカ的な昭和陸軍的なものから
一言で言うなら「倉本圭造の団塊の世代化」「倉本圭造の永六輔化」だ(爆笑)
これだけは言える
結論を言うと、男が自信をなくし、その穴埋めが熟女に向かっているのだ。
僕は20代後半だが、今まで年上の女性としかセックスしたことがない。
積極的にナンパしているし、知り合う機会があったら熱心にデートに誘っている。
そのゴールはセックスだ。基本的にヤリ捨てしている。付き合う気はないし、結婚なんか論外だ。
なぜ僕が年上女性とのセックスにこだわっているのか自己分析してみると、日本の闇がわかった。
男と対等に振る舞うことを覚えた女性たちと、接するのが恐ろしいのである。
すると、どうなるのかというと、男は二つの方向に分かれる。
同年代の女性が怖いけれど、セックスはしたくてたまらない男は、熟女へと向かう。
しかし、恋愛市場だと若い方が価値があり、熟女は品質が落ちると考えられている。
この屈折を利用して、熟女好きたちは己の欲求を解消しているのである。
僕は社会的には上の立場の熟女にタメ口で話し、セックスまで持ち込むことにたまらない興奮を覚える。
熟女好きはそうやって男としての自信を取り戻しているのだ。
では、熟女に興味ない、あるいは生身の女性とのセックスに興味ない人間はどうなるのか。
ネットサーフィン中に気づいたことがあったので。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%AF%94%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA
この項目を読んでいるときに、自己分析の完成形だなぁとふと思ったわけです。
どのような性格か、その根拠(具体的な事例、他人の評価など)が的確に示されていて、
尚且つ私達の抱くのび太の像を客観的に記しているので、これくらい分析できれば書く(or話す)ことに困らないなぁと。
こんなに上手くやれないとは思うけれど、参考にしながら自己分析を進めると上手くいくような気がした。
「ASD診断基準変更、の報に、これからアスペルガー症候群じゃなくなりそうな一自閉症者が思うこと」(ここまでタイトル)
DSM改定で「アスペルガー症候群」の診断名がなくなったらしい。「社会コミュニケーションの障害」「限定した興味や反復行動」に絞った結果、有病率は1/4程度に減ることが見込まれるとか。自分は大学時代に診断を受けた「アスペルガー症候群」の人間になるのだけれど、まっさきに思ったことは、「なんだかなあ」だった。Twitterで呟こうと思ったらひどく長くなってしまったので、匿名ダイアリに投稿してみることにした。昨今いわれる「一記事800字ルール」から大きく逸脱していて読みにくいと思うのだけれど、勘弁願いたい。
アスペの本質は「心の理論」の障害じゃなくて、感覚の取得機能の異常(異常というか、「社会適応に必要な情報だけを拾えない)だ、という風に、(旧診断基準では「アスペルガー症候群」と診断されていた)自分は考えている。考えている、だけだとアレなので、一応つけくわえると、以前、お世話になった先生に確認したところ、「その考えは間違っていない」というような事を言われたので、おそらく間違えてはいない(一応、そんなような研究結果もあったと記憶している。まあ、私は学究者ではなく一当事者なので、エビデンスが若干いいかげんなのは許してもらいたいのだけれど。
人間の感覚には、いまどきのカメラのように「オートフォーカス」機能がついている。それも、大変高性能な。これが、オートマじゃなくってすべてマニュアルなのが自閉症(=アスペルガースペクトラムだ。たとえば、誰かが「それ」と言って何かを指差したとする。定形発達の子供は、「指示の対象に目線を向け、そ話者が何かしらの指示または主張を行うに備える」という一連の処理を、ごく自然に身につける。しかし、自閉症者の視界は、蟻の視界だ。「特定の範囲の、限られた情報」だけを拾うことができない。まず、「人間の輪郭」を意識するのが難しい。うごき、を俯瞰してみることができない。そして、「手振りの意味」を理解するのには、もっと時間がかかる。
指差した先を意識すればよい、と学んだとしても、その後がまた大変だ。自閉症者のせまい視界は、「それ」として指し示された物体「以外のもの」を意識できない。あたかも同化するように自閉症者の意識は「それ」とひとつになってしまう。指示、という行為の先にある意図へ辿り着けない。本人の記憶にも残らないような小さい自分に、こんな小さな「ロス」をくりかえして、自閉症者の社会能力は定形発達者のそれからどんどん遅れてゆく。
自閉症者は往々にして、「世界と自分とのあいだに、一方通行の分厚い硝子の壁がある」という表現をする。入ってくるものは、ときに自分たちに害を与えるけれど、こちらがわから触れることはできない。氾濫した感覚世界に、ドナ・ウィリアムズが自著のタイトルとして記したように、「何者でもなく。どこでもいない」自分だけが残される。興味が限定されるのは、何かしらア・プリオリな原因があるわけではない。単純に、あまりに「細かすぎ、多すぎる」情報の波に晒されていることの裏返しだ。自閉症者は、その複雑すぎる世界を規則化するために自らひねりだしたルールにより所を求める。あるいは、数字や言葉などの「より強固で、確実な」曖昧さの無い世界に逃避し、没入していく。
さて、ここで重要なことがある。成長が遅い、ということは、「いずれ追いつく可能性がある」ということだ。IQが高い場合は年齢が上がればコミュニケーション能力は(或る程度は)向上する。限られた環境であれば適応できるようにもなる。IQが低いと、成長速度が社会が要求する適応レベルに追いつかないので、わかりやすい「知恵遅れ」になる。旧DSM水準においては、診断の多軸性、「コミュニケーション能力の障害」以外の細かい部分こそに、自閉性の障害の本質があったように思う。高機能な自閉症者(これまでの診断基準でいう「アスペルガー症候群」、言語機能に遅れがあるものは「高機能自閉症」)は、往々にして、その能力と努力によってコミュニケーション能力が向上させ、また、社会の中で自分が受容されるポジションを獲得し、
あたかも「社会に適応した」かのように振舞うことができるようになることもある。けれど、知覚過敏や感覚から来る負担の大きさ、ある種のデリケートさ(適応しても処理量は変わらないせいで疲れやすい)、過集中傾向、カクテルパーティ効果への適応不可能などは歳を重ねてもあまり改善しない。二次障害との複合で、ひどくなる場合もある。そして二次障害。我らが最大の敵である二次障害だ。慢性的に感覚的に、また社会的にストレスを受ける環境による鬱や神経症、PTSD様の症状(瑣細な感覚刺激からフラッシュバックを起こし、日常生活に支障が出る)なども、かなり改善させづらい。というより、社会に出ている多くの自閉症者は、コミュニケーション能力の障害以上にこれらに苦しめられることとなる。これらの人間に、「アスペルガースペクトラム」の診断基準から外れたとき、医学はどのように対応するのだろうか?
私事になるけれど、自分は二次障害への対応に、かなり苦労した。「病気になる原因」というのが感覚的な特性と、それによって経てきた生育環境に大きく拠っているために、一般的な治療方針やアドヴァイスがあまり役に立たないためだ。普通の人間は、ごくふつうの家庭で(母親は多少厳しくて神経質だったけれど)そこそこ健康に育ったにも関わらず、重篤なフラッシュバック症状(いわゆる「自閉症パニック」の主原因になるもの)を抱えたりしない。精神科、に行って自分が求めた治療を受けられたケースはとても稀だった。最初の二件くらいは適当に薬を出されて、経済的に継続困難なカウンセリングを勧められて終わり。結局、これではらちがあかない、と感じて(また、「はっきりさせるために」)実家に帰って診断を受けてきた、知的障害者向けの施設の外来の先生、そして、某k橋先生(統合失調の大家である)との出会いが、自分にとっては得がたかったけれど、必要な治療を受けられないままの人は未だ多いと思う。数年前にアルバイトを探していたとき、2ヶ月ほど支援センターにお世話になる機会があった。自分の大学時代と比べてこの数年、随分とサポート体制が整ったのだな、と感じて感心した(そして、その実現に走り回ったであろう人々に敬意を覚えた)、それからしばらくしての今回の報だった。
未だに「心の理論」ありきの「アスペルガー症候群とは」みたいな文章はよく見る。精神医学の世界って当事者も臨床も置いてけぼりなんだな、遅れてんなあ、というのはずっと思っていたけれど、今回の改編でよりその印象は強くなった。二次障害が軽くなって、今の生活が忙しくなるにつれ、自閉症を取り巻くもろもろの社会的状況に興味を向ける機会が減ってしまったので、偉そうに論じる権利は無いのだけれど、「まだこんなに遅れているの?」と、失望にも似た気持ちになったことは否めない。
私は診断をうけたとき、その時点で、もともと積極奇異タイプだったこともあり、社会能力自体はかなり改善していた。コミュニケーション能力に重きを置く診断基準だと、今はそのように診断されるかかなり怪しい。当時は、二次障害が今より重かったのに加えて、義務教育期間を終えたことで、それまでの細かな「不便(大学でお世話になった先生曰く『目に見えない腕の欠如』」がいちどに明らかになり、社会的な困難が顕著になっていた時期だったため、「診断が下っている」ことに、自分は自己分析の面で、そしてひとから助けを得る上で、随分と助けられた。この障害がときに致命的なのは、コミュニケーションの障害よりもっと前のステップ、感覚すること、世界に。社会に働きかけること、「関わる」ことそのものに困難を抱えるからだ。「コミュニケーション能力」だけに重きをおいて、障害の本質をばっさり切ってしまった新基準に、本来の意味で自閉性の障害を抱えた人間たち(ここ数年で顕著になったように、世間においてけして少なくない)を、フォローできるとは思えない。
自由業で不安定な生活なので、定期的に、「障碍者手帳を得るべきか」に迷うのだけれど、この機会に行動すべきかなあ、と、また、少しだけ迷っている。職種的に実感する機会は少ないのだけれど、「診断を持っている」というのは、「障碍者の枠に入れられる」ということであると同時、「自分の特異性がア・プリオリなものとして理解され、社会的に許される」手続きでもある。<そして、負担の多い日常に対してシステム的なバックアップを受けられる、というのはとんでもなく大きい。
以前は、手帳を取るなんて甘えだ、と思っていた。実際、生活しはじめると、やるべきことをやるために、使えるものを使わないことこそ甘えなのではないか、と思う。今のうちに診断書もう一回出してもらって、支援センターに相談に行くべきかなあ。けれど、ここまで「診断されない人間が出る」ことに異を唱えておきながら、自分はいつも立ち止まってしまうのだ。生きることに混乱を抱えるのが、自閉症者特有の事象であるはずはない。そんなことは重々承知していて、その上で、おそらく定形発達であれば経験しなかったであろう経験を、自分は重ねてきている。そして、思ってしまうのだ。自分のこれは、この、抱えた差異と、それによって生じる無数の困難は、自分が経験し・乗り越えてきた沢山のことは、果たして「障害」なのだろうか、と。無論、この逡巡が、社会的に「障害」とみなされるか、サポートを必要とし、サポートを得ることで社会の構成員としての生活を送ることへの困難が軽減される人間が存在するか(そして、自分がそのサポートを必要としているか)、という観点とは、デリケートながら別の問題だ、ということも重々承知しているのだけれど。
http://anond.hatelabo.jp/20131218192932
元増田さんの文章を何回か読んでいると、元増田さんの言う「好き」ってのはプロの人達がよく言う「好き」なのかなぁと予測する。「何か」をやっていて楽しかろうが辛かろうが、それでもつい考えたりやったりしてしまう「何か」。人生における血肉のような存在。
ほら、長嶋茂雄さんとか学生時代から「素振りしないと気持ち悪くて寝れない」とかって言ってたけど、そういう感覚なのかなぁと。単純な「快楽があって楽しい」ではなく。
今ってちょうどコミケに同人誌出すために、印刷所の締め切りに向けて同人サークルさん達が阿鼻叫喚の様相をあちこちのSNS(Twitterやブログ)やライブストリーミング配信(ニコ生やUstream)を通して呈している時期なんだけどww
その同人作家さんたちの抱いている「それでも同人誌を作るのが好き」という感情が、ここの元増田さんの言っている「好き」と同義なのかなぁと。
毎年毎年、締め切りに向かって超苦しいことはわかりきってるのに、それでもコミケといった同人誌即売会・同人イベントに参加し続ける同人サークルさんたち。モンスターエナジーやらレッドブルやらユンケルやらを煽りながら深夜まで原稿に手を入れる作業+出勤という生活を何日も何週間も続ける猛者たち。
時々「毎年こんなことやっててマゾすぎワロタwww」って同人作家さんたちに(ちょっと捻くれた)心配の声をかける人が後を絶たないんだけど、どのサークルさんも大体声を同じくして言うんだよね「だって同人作るの好きだから辞められないんですww」って。
もちろん同人誌づくりの原点は人によって異なる。特定の作品が好きだったり、キャラが好きだったり、同人コミュニティそのものが好きだったり、単純に絵を描くことやモノを作ることや小説を書くことが好きだったり。
でも結局、同人サークルさんたちは同人誌(や同人CD、ガレキと呼ばれる立体作品等)を作って同人イベントに出店し、色々な人達と交流するという点では変わらない。
そんな酸いも甘いもある事を毎年毎年続けていく。
なぜなら「同人が"好き"だから」。(正確には、同人イベントで出す○○に関することが"好き"だから)
こんな風に、酸いも甘いも含めて全部愛するというか、親しみを持って接するというか、そういう感情が元増田さんの言う「好き」なのかなぁとこちらは感じ取った次第。
だとしたら、これは簡単なようで難しいかもねぇ。自分の気質に触れる部分に気づけるかどうかというお話だもの。「快」も「不快」もひっくるめて好きな、自分の心身の一体となっている対象を探すのは中々どうして難しい。鏡なしで自分の顔体を把握しようとするものというか…
だからこそ後半の「コレクション」の例が出てきたんだろうけどねー。鏡の代わり。自分自身を写しとるトレーシングペーパー。デスマスクのような粘土か何かで体のどっかの型を取るもの。
案外、「人に自分自身について聞いてみる」ってのもありかもわからないですね~。僕最近就活界で流行りの自己分析ってちょっと嫌いなんですけど、「友人や家族に自分の事について、経験等に基づいて聞いてみよう!」ってのは自分自身について気づいてないことについても知ることができる、って面ではいい気がしますね~。
俺はコンテンツプロデューサーとしてキャリアを積んで、現在はIT企業の経営をやっている。
そんなアングルから観察していると、プログラマーはクリエイターと同じように映る。
小説家が文章書くのが好きなように、ミュージシャンが作曲が好きなように、漫画家がマンガを描くのが好きなように、プログラマーはプログラミングが好きなのだ。
具体的な共通点で最も印象的なのは、他のクリエイターと同じように、きついかい? と質問すると「プログラミングはきついよ」と嬉しそうにいうところだ。これは小説家や、音楽家、漫画家とまるっきり同じ笑顔で言う。
これはこのクリエイター、プログラマーに限らず、プロスポーツ選手など真の現場主義者に共通している。
野心を抱えたまま、現場についていて、現場の楽しさに気付いて没頭している経営者の卵タイプは楽しんでいるんだろうが、こういう顔は出来ない。
そして、この手のクリエイタータイプは経営や管理に興味が少ない事が多い。
興味ないふりしても、本当は興味があるんだろう。いっぱい兵隊を動かしたいだろう。誤魔化すなよ、誰でも権力が好きなんだから。と主観的に決め付ける。
ああ、このプログラマーは自己分析が出来ていないな。とレッテルを貼りつける問題の原因にしかならない最悪のケースもある。
もちろん、彼らも経営に興味が全くないということはないのだが、プログラミングを辞めてでも経営をやれと言われたら、断りたい気持ちになる人が多い。
要するに、プログラマーにとってのプログラミングは、経営者にとっての経営ぐらい楽しいものなのだ。
プログラマー35歳定年説を提唱して、無理やり管理をやらせようとするのは愚策の部類に入る。脅しで人を動かすのは交渉カードが尽きた上での最後の最後に周囲と相談しながら進めるべき手段だ。
そんな言い方よりも、君がプログラミングを楽しめる環境はこれまでみんなで作ってきた。しかし会社は次のフェーズに入った。これからは若いプログラマーたちが、これまで以上にプログラミングを楽しめる環境を作る必要がある。その為には、君はプログラミングを離れることになる。君には、会社のために、若いプログラマーたちの為に、より良い環境づくりを一緒にやってもらいたい。の方が能動的に動いてくれたケースが多い。
プログラマー上がりの管理者が伸び伸びとした開発組織を作れるのは、経験からこういう観点を元々持ち合わせているからだ。
クリエイターや、スポーツ選手に管理や経営をやってもらいたい時も同じ言い方が望ましい。
ちなみに、従業員を兵隊扱いするような旧式の管理術が正しいと無反省に信じ込み、試行錯誤なしで実行し続けるタイプの管理者、経営者については、俺と考え方も生き方も全然違うので、これからも遠くからお互いを天体望遠鏡で観察し合う関係でひとつ。
続きその2。ちょっと日が空いちゃったけど。
ま、マイペースに書いていこう。
よく後輩に聞かれるのは、「この時期は何をしたらいいのか」と「どうやって企業を探したか」あたりだろうか。
僕がこの時期にしていたのはTOEICとかSPIの勉強ぐらいか。
まずTOEICに関してだけど、あれの点数が有用になるのは800以上になってからだと思う。
「700以下:書かないのと同じ 700~800:まあまあ 800以上:少し加点」だろうか。
書かないことで減点されることなんて殆ど無いだろうし、他に魅力があれば雇われる。
同期の内定者に、院で400前半なんて人もいたぐらいだし。
そして、TOEICで加点されるには相当な点数が必要だと思う。
上に800以上と書いたけれど、860以上でようやく意味がある、ぐらいかもしれない。
そんなわけで、TOEICはこの時期はあまり役に立たない気がする。
もちろん、会社によってはペーパーの英語試験を課したりするから、英語の勉強が無意味とは言わないけれど。
SPI等の勉強は、問題形式を知っておく程度にはやった方がいいかもしれない。
参考書は、わざわざ買わなくても大学の就職課などで貸してくれることがあるのでそれで十分。
苦手な範囲があった場合は、あとからネット上の問題でも解けばいい。
やっておいたほうがいいことがあるとすれば、前回のでも触れた「他者より優れている点」をしっかりとみつけることだろう。
自分がそう思っているだけではなく、他の人を(企業の採用担当者を)納得させられるようなものが必要になる。
自己PRにバイトやサークルをあげる人はよくいるが、企業側から見てみればバイトやサークルを頑張った学生なんていくらでもいると言うか、ほぼ全員がそういうアピールをしてくるわけだし。
そこを自己アピールで話したいのなら、他よりも抜きん出た何かが必要になるだろうし、それが無理なら他の方向から攻めるべき。
というか、攻める業界や職種を決めるために、「他者より優れている点」を探すのだけれど。
自己分析ってことになるのかなこれ。
どうやって企業を探したかについては、これは他の人に聞くのが一番いいと思う。
就活を既に終えている同期や前年度に経験している先輩、院だったり浪人してたりすれば学部や高校時代の同期など、近い世代の人に色々聞いてみた。
専門が一致しなくとも、大手は手広く手掛けていることが多いから自分の専門にあう部門もあることが多いし、気にかけてなかった業界を知るきっかけにもなるし。
そういえば、よくある話なのかは分からないけど、一番最初に受けた企業は、間違ってアルバイト用みたいな簡単な履歴書で提出したのに部長面接まで進んだってのがあります。
これから数ある企業をエントリーしなくちゃいけないのに「その企業が大好きで大好きでたまらない!!その企業じゃないと就職したくないんです!!」なんて人は極稀だし、採用側も、数あるエントリーした中の一つだろう程度で見ている訳で、「その企業じゃなきゃいけない志望理由」という定義で書くとまず詰むし、ましてや知名度のない企業だと、薄っぺらい理由になってしまう。
ならどうすりゃええねんってことだけど、具体的にその「企業の良いポイント」をピックアップして羅列するといい。
つまり、「適当にエントリーして、適当に面接したワケじゃないんだよー、ちゃんと御社のことをすごく調べて、こんないいところがあるから、エントリーしたんだよー」ってのをアピールすることが志望理由になるんだと思う。具体的には、ちょっと調べないと分からないような仕事の実績だの、アピールポイントだの。そういうのに興味を惹かれて、また自分もしてみたいだの言っとけばいい。
志望するならそれくらいは調べられるよね?
学生風情にそんなもの期待してないっての。たかが学生なんだから。あとよく言われるけど、正直何をしたとか、実績だけ言われても、それが本当に会社に役立つか疑問符だしね。「全国大会行きましたー」って、うちIT企業なんだけど、何か役に立つのそれ?って感じ。あと学生ウソつくし。
まあ面接の中で、自己PRするだけの論理力と、ちゃんと意図を掴められるコミュニケーション力、自分を表現できても、どうせ自己満足で終わって、相手が何を欲しているかなんて考えてないんでしょ?あと笑顔とかの愛想がいいかどうか、最低限の身なりはなっているか、その辺は気にするところだろうけどね。自己PRになるポイントくらいは、ちゃんと自己分析して、論理立てて説明できるようになったらどうか。
就活ってやつは「選ぶから大変」「大企業ばかり目指すから落ちる」「連敗する人は自分自身に問題がある人」
って思ってわりと楽観視していて、普通の生活を送っていればなんとかなるだろうと思っていた。
就活サイト等が解禁される12月1日になってようやく求人をみるようになったし、だいたいやりたい業界(出版系)って決めていた。
あるほどエントリーする企業も選んでとりあえず保存みたいな感じで一週間くらいたったのが今日。
いざその企業にエントリーしようとおもってみたところ、志望動機が書けない。
自己分析なんて「自分のことを表現すればいいだけ」って思っていたけど、いざ白紙を目の前にするとなにも浮かばないし、その企業にとって自分は何が出来る?って考えたらどの企業でも共通するような漠然としたことしか浮かばない。
たぶん企業は「うちの会社じゃなきゃできないこと」みたいなのを期待していると思うんだけど、「その企業でしか出来ないこと」が浮かばない。
の2つさえ問題なければきっと内定もらえると思うんだけど、それを何十社とこなしていくのってそうとうメンタルにくるよね。
なめてたけどみんなすごい。