はてなキーワード: 心停止とは
(※夜中に記事を見て勢いで書いていますので、最新のガイドラインに準拠した内容であるか査読していません。蘇生に実際に携わった経験が複数回あり、ICLSで複数回トレーニングを行っている者が経験と記憶を元に書いていることをご了承ください)
現時点では専門家としてのコメントが見当たらなかったので少しだけ書きたいと思います。
救命の専門家かと言われると自信はありませんが、院内でも心停止→心臓マッサージとなると、蘇生後(あるいは蘇生しながら)ICUに入るのがセオリーです。当然、院外から運び込まれます。もつまり、私たちは「蘇生がうまくいった人」「蘇生がいまいちだった人」「蘇生がうまく行かなかった人」のその後を実際に見ている立場です。
まずは、倒れた方が速やかに蘇生して何よりです。搬送されたその後は気になりますが、いろいろな意味で、これが一番良かったことです。
僕たちは定期的に、より高度な人形(胸を押す深さを記録したり、電気ショックを実際に行うことができるなど)でトレーニングを行いますし、実際に院内で心停止に対応したことも一度や二度ではありません。
慣れている僕たちでも、単純な運動としてもかなり疲れますし、頭をフル回転させて原因検索と現場のマネージメントを行うので、終わった後はどっと疲れます。慣れない一般の方であれば、アドレナリンがドバドバ出て、興奮が冷めたころにものすごい疲労を感じられたのではないかと思います。本当にお疲れ様でした。
そして、文面を見る限りでは、バイスタンダー(居合わせた人)としてのあなたの対応は間違っておらず、正しい処置をされています。安心して下さい。一番言いたかったことはこれです。
・脈拍について
もし本当に心臓が止まっていたら、あるいはとても弱い拍出しかなかったら「脈は触れない」ので探す必要はありません。
例えば、熟練者が1~2秒で「脈があるorない」と判断し即座に心臓マッサージを開始するのであればそれでもいいかもしれませんが、反応と呼吸がない(もしくは死戦期呼吸という喘いでいるよな呼吸)の時点で心停止とみなすため、特に非熟練者では今回の対応が正しかったと言えます。
私は肋骨どころか胸骨を折ったこともあります。仕方ありません。何もしなければ死んでしまうので、よくぞ続けてくれました、という所存です。
患者さんはICUで「胸が痛い」と言います。実際かなり痛そうです。いろいろな痛み止めの薬などで対応しますが、リハビリをし、退院されていきます。それは初期対応が的確になされ、障害がないあるいは軽微であったからこそです。
・時間を記録していること
大相撲の件でもどなたかDrが言及していましたが、心停止~蘇生の時刻を記録しているのは非常に重要なことです。心停止の時間が長くなれば、心拍や呼吸が戻ったとしても、脳がダメージを受けて植物状態のように意識が戻らない方もいます。心停止~心拍再開の時刻がわかれば、脳のダメージがある程度予測できます。しかし、一般の方がムリに記録する必要はないと思います。できるだけ早く心臓マッサージを始めること、良質な心臓マッサージを可能な限り絶え間なく続けること、AEDを適切に使用できること、これが優先です。余裕があれば時間の記録をお願いします。
心臓マッサージはもちろん生死の問題です。しかし、同時に社会復帰できるかの問題でもあります。
蘇生までの時間が長かったときは上記のように、身体は生きていても意識は戻らずずっと寝たきりのままになるかもしれません。
あるいは脳がダメージを受け、言葉がうまく使えなかったり、身体が十分に動かなかったりするかもしれません。
早くAEDにつなぎ、電気ショックで心拍再開することや、心拍再開するまでに胸骨圧迫が上手に行われて脳に血液が通っていることで、こういった可能性、程度が少なくなるということです。
そういう意味において、今回のケースは、蘇生が早かったこと、そしてバイスタンダーであるあなたが速やかに適切な処置ができていたこと、倒れられた方にとって幸運だったと思います。
最後に、環境について(誰も交代しようとする人がいなかったこと、駅員さんの情報共有?など)は残念に思うことがいくつかあります。
特に、駅員さんを含めて誰も心臓マッサージを交代しようとしなかったこと、AEDを持ってきてくれなかったことです。
今回のようにすぐに心拍再開しなかった場合、5分も経たずにあなたの心臓マッサージは「有効なもの」ではなくなります。そして、AEDの装着と解析はできるだけ早いほうがいい。
医師でも看護師でもない素人だけど、駅で倒れた人が意識と呼吸がなく、顔も真っ白になってたから心臓マッサージ(胸骨圧迫)した。
直接的に効果があったのかはわからないけど、息を吹き返したので良かった。
救急隊が来るまでにある程度(寝ぼけてるみたいな状態だけど)意識も回復していたので、たぶん大丈夫だと思う。
十年くらい前に地元の消防署で上級救急救命講習(横浜市の例:http://www.ydp.or.jp/guidance/kousyu02.html)を受けたことがあるだけの素人でも、たぶん役に立てた。
ほんと良かった。活かす機会が実際にあるなんて思って受講してなかったけど、あるもんだ。
受けてなかったら手を出せてなかったし、あの周りの様子だとたぶん他の人がやっていたって可能性も低かったと思う。駅員さんもこちらが言うまで心臓マッサージとか考えてない風だったし。
講習受けてて本当に良かった。今度、もう一度行こうと思う。
思ってる以上に強めの力だから。十年前でもちゃんと習って覚えておけば、体が覚えていた。
これ読んだ人はできれば講習受けてみてほしい。身近な人が必要な状態にならないとも限らないし、即座に開始できると有意に救命率上がるらしいから。
意識と呼吸がないのに、心臓マッサージできる(というかやるという発想?の)人が他にいなかったみたいで、周りに数十人いたけど交代要員はいなかった。駅員さんも交代の素振りや提案とか全然なかったんだけど、そういう講習って受けてたりしないのかな…。今回は幸い交代が必要なほどの時間もかからず息を吹き返したから、良かった。
私も今後誰かが倒れて、看護師さんらしき人がたとえ既にいたとしても、それが一人だけだったら「プロがいるなら大丈夫だろう」なんて思わずに交代要員として居た方がいいかくらい提案しようと思った。
今回実績解除したから、他の未経験の人よりは交代要員として役に立てるかもしれないし。
駅員さんいっぱいいるんだからマニュアルあるだろうし誰かしら持ってきてくれるだろうと思っていたけど、甘かった。救急車は普通に駅員さんが呼んでくれた。
息吹き返したあとに、「AED、いらないですかね?」って聞かれたくらい。次回こんなことがあったらガイドラインどおり、まず最初に指名してAED持ってきてもらう指示を出す。
「これもしや肋骨折れたか?」って頭をよぎったけど、「いやこんな簡単には折れないよねきっと」と思い直してそのまま続行した。
"適切な心臓マッサージは肋骨の骨折を伴う"なんていう話もあるようだし、もしかしたら折れてるかもしれない。だとしたらたぶん3,4本折ってる。ごめんなさい。
正直私がやった心臓マッサージが適切だったかもわからないけど、でもあの状況ではやらないとか止めるとか、私にはできなかった。
心臓マッサージ開始してからちょっとの間は全然反応もなくて、たぶん1,2分で息を吹き返したんだけど、その間、自分の手の触れている・押している・目の前の人がこのまま亡くなってしまうんじゃないかとめちゃくちゃ怖かった。そんなわけないのに、このまま亡くなったら自分のせいかもとすら一瞬思った。
変にこわばったようになってた口元がふっと動いて、呼吸が再開されたときは本当に本当にほっとした。
連想したのも不謹慎かもしれないけど、祖母が亡くなるのを看取ったときは"息を引き取る"っていう言葉のとおり、本当に最後の一呼吸は吸って、そのまま吐かずに亡くなった。
まあ、両方ともそう見えたってだけかもしれないけど、両方とも言葉通りだったから、なんかすごいなって思った。
結構大きな駅の、それも救急車が止まれるような地上の出口から一番遠いようなホームだったから、結局救急隊が来たのは人が倒れてから20分近く経ってからだった。
かなり遅い時間だったのもあって、たぶん駅員さんはよくある泥酔した人に救急車呼ぶみたいな感じで呼んでたんだと思う。救急隊は全然深刻そうじゃなくて、ホームに上がってきてからも近づいてくるまで駆け足じゃなく普通に歩いてきていたし、倒れた時に意識と呼吸がなかったことも全然伝わってなかった。
だから、倒れた人の連れの人と救助者(私)を(どっちがどっちか)確認して、リーダーらしき人が即座にこちらには何も聞かずに帰そうとしてきた。
情!報!共!有!倒れたのがただの酔っ払いだったら駅員さんがあんなにいるのに残ったりしないよ…。
ほんと、駅員さんってこういうときのマニュアルってないものなの???
最初にホーム担当らしき三人くらいがすぐに駆け寄ってきて、あとから追加で三人くらい来てたけど、20分の間に救急隊を構内に案内する人とかに情報共有することできたんじゃないのかな。改札からホームまでの間に、最低限の容態を伝えたりできなかったのかな。
もしすぐに息吹き返してなかったら・または一回息吹き返してもまた急変していたとしても、救急隊はホームに上がってくるまでその状況を知らされてなかったのかと、怖い。
心臓マッサージそのものよりも、救急隊の方とのやり取りの方にあとからだんだん不安になったので。
<息を吹き返してから15分弱、駅員さんと共に呼吸や脈を確認しながら状況説明のために待機>
<救急隊到着>
救急隊リーダー(以下救)「(倒れたのは)この方ですね。お連れの方と救助者は?」それぞれ確認
救・私に向かって「お礼を言うことくらいしかできないんですが…ありがとうございました。」と私を帰そうとする
私「あ、あの、心臓マッサージをしたので、状況をお伝えしたいんですが」
救「えっ…、心臓マッサージしたんですか?」
私「はい。倒れられて、意識と呼吸が確認できず、顔色が白くなっていたので、hh時mm分頃から1,2分ほど心臓マッサージをして、呼吸が回復しました」
救「看護師の方ですか?」
私「いいえ。ただ、消防署の救急救命講習を受けたことがあります」
救「脈は取られました?」
救「あー、ですよね…。わかりました。お礼を言うことくらいしかできないんですが、ありがとうございました。」
<お連れの方と駅員さんにもお礼を言われて、帰路へ>
という感じ。
脈を確認してないと伝えたときの反応が「確認もしてないのに心臓マッサージしたのか」っていうものに見えたので、
帰りの電車内で、「やったのが間違いだったのか?余計なことしたのか?私がやったのはただ倒れた人の肋骨を無駄に折ったかもしれないだけなのか?」ってすごい不安になったし、悩んだ。この間の土俵上の件を見て安易に真似した出しゃばりか、って思われたのかな、とか。
家に帰って落ち着いて、JRC蘇生ガイドライン(http://www.japanresuscitationcouncil.org/wp-content/uploads/2016/04/1327fc7d4e9a5dcd73732eb04c159a7b.pdf)を確認したらやっぱり心臓マッサージの前に脈を取らなければならないとは書いてなくて、意識と呼吸がなければすぐさまとにかく心臓マッサージするべきらしくて安心した。
もちろん患者が目の前にいて、ただの協力者に気を配ってる場合じゃないのはわかるけど、せめて「"ちなみに"脈は取りました?」って言ってくれていれば、追加情報として欲しいだけなんだなって分かったからあそこまで不安にならなかったな。
ガイドラインには
CPR に熟練した医療従事者が心停止を判断する際には呼吸の確認と同時に頸動脈の脈拍を確認することがあるが、市民救助者の場合、その必要はない。
ともあるから、多分期待されて聞かれただけなんだと今は思っている。
この間の土俵上の件のとき、ふと疑問に思ってくも膜下出血などの脳疾患でも心臓マッサージしてよいのかを日本循環器学会のプレスセミナー質疑応答ページ(http://www.j-circ.or.jp/about/jcs_press-seminar/index06.html)で確認して、ブコメに書き残したので覚えていた。読んだだけだったら忘れてたかも。
「開始の時間を記録しておいた方がよい」ということもブコメに残してそれも覚えていたので救急隊に開始時刻伝えたけど、メモを取るでもなく普通にスルーされたから、それはどうでもいいのかもしれない…。
人が倒れてから2分経ってないくらいで開始できた、そういう判断に至れたのは、あの件があったときにはてブで横断的に情報を読んでブコメして覚えていたから。はてブやっててよかった。
以上です。読んでくれた人いたらありがとう。
今更ですが書き方が良くなくて誤解を招いている部分があったので、訂正を。
救急救命講習の例として横浜市を挙げたのは私が横浜のものを受けたからであって、件の駅は、横浜駅ではないです。
紛らわしい書き方をしてごめんなさい。
また、駅員さんの対応の件を意見として申し入れては、という反応もいただきましたが、
救急隊が来るまでの間に駅員さんには住所氏名電話番号を伝えてあって、面が割れていて、しかも毎日使っている駅なので、ちょっとその勇気はないです。
当日の行動はちょっとの躊躇いを振り切れた必死さが上回ってどうにかなりましたが、本当はより広く影響を及ぼせるかもしれないそちらの方には、どうにも踏み出せません。
やっぱり私には人より特別な勇気などないし、勇者なんかじゃないんだと思います。
でもそういう普通の人間でも、知っておけばなんとか行動することができるかもしれない、という風に読んでいただければ幸いです。
多くの方に読んでいただけて、いつかどなたかのお役に立てそうで、とても嬉しいです。
ありがとうございました。
西部邁はもうこんな国嫌だとか自分の人生は無駄だと嘆いて入水自殺した。
言論人だから、何か行動で訴えないから、無駄になってしまったという面もあるが、
選挙の時期をずらしてこの時期を選んだというのが本当であれば、迷惑をかけないで死ぬという選択が自殺だったという事なのだろう。
しかし、仮にそうだとすると、自らの論を死ぬ気で張れない人であり、また、人に迷惑をかけない程度の言論は無駄に終わるというようなものだ。
人に死んででも成し遂げろというのは特攻を想起するし、やるべきではない。特にまだ先の長い若い人はそうであると思う。しかし、仮に一秒後に死ぬ人であれば、十分生きる時間は変わらないとして、自爆テロでも死亡率が高い偉業でもやってもいいのかなぁと思ったりもする。
どう死期を悟るかだが、
死に至る主因を財力や体力の条件下で排除する努力をすれば、どの程度の時間が残されているかは本人も体感で分かると思う。これが見積もれればそれに向かって体とかがいつまで動くかとかを考え計画を仕込めるだろう。場合によっては数ヶ月とかでなく、数十年前から計画する事だって可能だ。 もちろん、一秒さえ惜しいというなら心停止になったら起動すると言った仕掛けも準備できる、はず。
そう、考えているとイスラム原理主義者が自爆テロで死んでいく人や特攻した人って死期の見積もりの主因が狂ってるよなと思うなあ。
ありがとうございます。とてもおもしろいです。
いくつか追加で疑問が湧いたのでお答えいただければ幸いです。
「喜び」の機会が奪われても存在しない者に取っては何の不都合もないのに対し「苦痛」を受ける機会がなくなるのは誰にとっても(存在していなくても)良い事です。
非存在には不都合はありませんし、未来も過去も機会もなく、したがって良い事、というのもありえないのでは?
拒否権は存在と同時に生じるもので、どこから存在、生であるかは議論が分かれるかと思いますが、着床を生としたら拒否権をもたないものを中絶するのも道徳的に良くないのでは?
また相手の拒否権なしに何かを行うことが非道徳的かは明白ではない難しい問題だと思います。意識不明の心停止者に拒否権はありませんが、蘇生処置を施すのは非道徳的でしょうか?非道徳的とする立場も当然あると思いますし、そういう考え方も良いとは思いますが、明白とは言いがたいのではないでしょうか。
おっしゃるとおり、容認することと善とし肯定することとは違うと思います。ところで反出生とは出生すなわち生殖行動を容認できない立場ではないのですか?容認はできるのですか?
はじめに、このブログは、産まれたお子さんが心臓病と診断された親御さんに向けて書いている。同じような経験を知りたくて、少しでも安心材料がほしくて検索を繰り返したが、あまり見つからなかった。なので、自分の経験が少しでも、誰かの参考や支えになるといいと思う。
「大動脈狭窄」といって、文字通り大動脈が狭い。そのため血液を送るたびに血管と心臓に圧がかかり、酷いと手術が必要になる。
産まれたあとにわかったもので、最初は産まれた病院で様子を見ていたのだが、詳しく調べたほうがいいと循環器専門の病院を紹介されることになった。大きい病院で、日本でも有名な医師がいる病院だった。
七ヶ月になったある日、そこで受けたカテーテル検査で、検査の最中に心停止を起こした。
結果から言うと、今のところ術後の経過は良好で、子供は元気に育っている。もうすぐ二歳になる。
発達は少し遅いが、好奇心旺盛で、乗り物が大好き。よく笑い、よく食べ、自分なりに一生懸命しゃべっている。最近はイヤイヤ期なのか、自己主張も激しくなってきた。
話を戻そう。心停止を起こした数日後に血管の緊急手術、肺の状態が落ち着かずさらに数日間、胸を開いた状態で集中治療室(ICU)に入っていた。狭くなった血管と、弁の形成が手術内容だった。その間、人工心肺と輸血で命をつないだ。執刀してくださった医師、輸血をしてくださった全国の皆さんには、感謝してもしきれない。この場で心から御礼申し上げる。
集中治療室を出てからは、小児集中治療室(PICU)にうつった。人工呼吸と麻酔で眠る日が続いたが、徐々に麻酔を減らし、意識が戻った。うっすらと目を開けて、か細い声をあげる子を見て、涙が出た。生きている。生きるために、がんばって生きている。
幸い、術前に説明されていた感染症などはまったくなかった。人工呼吸から酸素管理にきりかえ、すぐにPICUを出たあと、一般病棟にうつる。そこからは一週間の入院で、早かった。
検査だけのはずだった入院から、ひと月ほどたっていた。退院後は在宅の呼吸管理も必要なく、入浴や生活の制限もなかった。
ただ、寝ていた日が長かったせいか、完全にすわっていた首は新生児のようにぐにゃぐにゃになっていた。それもひと月ほどで元に戻ったが、毎日注意して過ごした。
大きな手術を乗り越えて、麻酔で眠っていた時間も長かったので、発達や今後の病状に不安があるのは今でも変わらない。それでも、生きているだけで奇跡のようなものだと思っている。
長くなったが、親御さんには、たとえカテーテル検査であっても病院と医師選びをしっかりなさってほしい。うちの子は検査中に心停止を起こしたから助かったのだ。紹介してもらった病院も大きい病院で、運がよかったのだ。
一人でも多くの子が、病に負けずに元気になるように。一人でも多くの親御さんが、お子さんと穏やかな日を過ごせるように。それを願って毎日、子供と過ごしている。
今死んで生き返りましたれぽの作者が炎上している。
不摂生な生活を続けた結果脳がやられて心停止してから、家族や友達や医療関係者の支えで復活する実録漫画で、ピクシブで人気が出て単行本にもなった。
何故炎上しているかというと、Twitterを使って集団でネットいじめをしてしまったからだ。
二次をやっているアカウントで自分の気に入らない小説を書いた作者を叩き、糞だから読もうと晒して周囲に広め、隠語を作りバカにし、「殺せたらそれでいい」「懐にチャカあるやん」「人を殴るときは殴った感触が欲しい、でないと生きてる実感がない」こんな感じで作者に殺す犯すなどとみんなで叩き「みんなが戦闘民族だったの好感度上がった」「すごい一体感だった」と苛めで一致団結し粘着し続け1ヶ月でその作者を撤退させた。
しかし撤退させた作家が別アカの絵の方では人気だったとかで、そこからやったことが明るみになり、他のジャンルでもそうやって苛めて気に入らない人の筆を折ってきたとかで苛め集団が炎上。
http://www27.atwiki.jp/isikarisyuuraku/pages/1.html
多分炎上する前は、復活できて良かったですね、感動しました、元気になってくださいね、と思われていたろうが、今は死んで生き返ってやったことが苛めとか最低、自業自得で家族を自律神経失調症にしたり苦労を掛けたのに感謝がない等々言われ、以前なら病気再発でもしたら、心配して同情してたであろう多くの人も、今は大病の後も不摂生続けてたし自業自得ですませそうだ。
うちで飼ってた猫が亡くなった。
夜七時過ぎくらいにうちに帰ると、ドアを開けるなり娘が
「みーちゃんが息をしていない!」と大声で泣き叫んだ。
慌ててその場へ向かうと、押入れの手前下のちょうどそこだけフローリングになってる和室で静かに横たわってた。
体に触れるとまだ温かかったが、確かに息をしていなかった。
触れるとどんな時でも猫らしくぐるぐると嬉しがるのにまったく微動だにしない。
ふと見ると失禁というか、床には尿が大量に流れていた。
ともかくこのまま置いておけないと判断して、マンションのゴミ庫にあるダンボールを取りに行こうと玄関を出ようとするとちょうど買い物に行っていた妻が帰ってきたところだった。
「みーちゃんが亡くなったようだ」
と告げると妻は一瞬で表情を変えた。
ダンボールを取ってふたたび戻ると妻は動物病院に電話していた。
おそらく心停止して10分以上は既に経ってるから動物病院でも無理だろうと思いつつ、ダンボールにタオルを敷いてそこに入れた。
ふと、もう一人いるはずの息子のことが気になり、和室に引きっぱなしになってた布団をめくるとそこでゲームする息子がいた。
動物病院では、先生が酸素吸入しつつ心臓マッサージをしてくれたが、息を吹き返すことはなかった。
状況から、最初は押入れの段の上にいたが、そこから降りようとして失敗して落ちてしまい、頭を打ってしまって打ち所が悪く死んでしまったのではないか、とか先生と話したけど、遺体解剖するわけでもなく原因は分からない。
昨日まで、というか家にいた妻や子供の話では夕方まで、老いたとは言えそれなりにいつもと変わらない様子だったらしいし、腎臓は高齢とともに少し弱っていたが大した病気もしたこともなく、食事だって普通にとってたし排尿排便もまるで問題なしで、体重だって至って普通、予兆は全くなかった。年に一回の三種混合ワクチンも欠かしたことなく、その際にいつも軽く診断もしてもらってたし…。何れにせよ、原因は分からない。
うちにその亡骸を抱えて帰ると娘は依然として泣いていたが、息子がその死を理解できず、亡骸をみるもののすぐにゲームしようとしたので流石に妻が怒った。
でも、ほんとに理解できなかったようで、いずれ目を覚ますとでも思っていたらしかった。不意に息子が「これからどうなるの?」と聞いてきて「明日役所に引き取ってもらって焼かれることになる」と答えた時点で理解したらしく、突然大泣きしだした。
今年で17歳になる筈だった。
妻と結婚する年に、一人暮らししていた俺のマンションに妻が予告もなく生まれて間もない子猫を友達から貰い受けて連れてきた。
だから付き合いとしては多分、家族の中では一番長く付き合ったのが俺だろう。
彼女(※雌である)は子猫時代、恐ろしく元気でやんちゃだった。
俺は引っかき傷が耐えなかった。
あまりにとんでもなくやんちゃだったので俺も彼女をビシバシ叩いた。
そんなもんでやんちゃが止まることはなかったけど、カーテンを上るのだけは止めてくれたのが懐かしい。
思い出は語り尽くせないけど、なんとなく最近、死期は近いだろうなとは思っていた。人間にすれば90歳位だし。
亡くなって、実のところ、自分自身は特に悲しいとか感情は湧いてこないのが不思議。これからじわじわくるのかな。
16年と11ヶ月。ありがとう。俺がそっち行くまでまだ大分あるけど覚えててくれるかな。覚えててくれたらお前が一番気持ちよかったらしい尻尾の付け根をいっぱい叩いてやるからな(笑)
父親はずっと片思いだった相手。
年齢的にも自分はもう次は望めないかも、と思ってたから、妊娠は素直にうれしかった。
「出来てた」って伝えたら、「今大事な人がいるから一緒には育てられない」と。
…つい負けて「産まないほうがいい?」なんて聞いてしまった。
当然のごとく「俺は産まないほうがいいと思う」なんて返事が返ってきた。
そりゃそうだ。
でも30代にもなって否認もせず無責任に中田氏する男だとは思わなかったから、ちょっと面喰った。
「それでも産みたい」って言ったら「その産みたいっていうのは自分だけの意見じゃん。俺の意見はどうなるの?」と返ってきた。
何言っても無駄だ、と思った。
以前、DVの男から逃げたときと同じ、相手が切羽詰まって逆ギレされるパターン。
私が長いこと片思いしてたのは周知の事実だったから、私の妊娠を知ったバカが噂に流したりした。
出産したら転居しようとも思ってた。
それでも少しずつ、味方になってくれる人が増えて
一人でも何とかやっていける、って自信ができたところ
へその緒が巻き付いての心停止。
出産予定日まであと3週間だった。
促進剤を使って、産声を上げない男の子を、一人病院で出産した。
目も開かない、生まれてきた青白い体を見て、
ちいさいちいさい棺にすがりついて泣いた。
家族に自殺者がいるから、先に命を絶つことの罪深さはわかっているはずだけど
もう、死んでもいいよね、って思った。
あとどれだけ待てば、私は幸せを作れるんだろう。
アレの使用説明の講習とか受けるとな、運がいいと記録テープを聞かされる。
ある高校生が突然心停止して倒れたときの救護のやりとりの記録だ。その子の母親の半狂乱の叫び声が残ってるんだ。
泣けるぞあれは。恐ろしい記録だ。
子どもは結局命が助かって、確か後遺症もなくて恙ないはずなのに、なぜかあの記録は決定的に取り返しがつかなくなる瞬間のものみたいな感じがする。
或いは3.11でもいい。まだネットにいくらでも映像が残ってるだろ。
目の前で人が渦に飲まれて消える映像が。
必死に走って逃げてきたのに波ののたうち一つで人が消える瞬間が。
いや、人間が表現することでしか立ち現れてこないものはあるしそれはそれで非常に価値があるんだが、
強制的に涙を排出させるという点では世界とそこに起こる出来事そのものに勝るものなど何も無い。
泣ける映画?小説?音楽?絵画?カスだ。人生の二次創作に過ぎない。
涙は何の本質でもない。ただ目玉のところにある小さいパイプがちょこっと広がって水がダダ漏れるようになるだけだ。
一度パイプが拡張されると二次創作でも涙が出るというだけの話だ。二次創作を通してオリジナルが見えるからだ。
漏れた水自体はその記号にすぎない。そんなものに本質的な価値などない。そんな心の動かされ方に意味はない。
そんなものに固執している限り、他人とコミュニケーション取ってまで伝えたり分かち合ったりしたいと思えるものが得られるわけがない。
飼い猫を安楽死させた時の話。
某所で捨てられていたところを拾われて、友人のつてで我が家で飼うようになってからちょうど3回目の秋だった。小柄でかわいいメス猫だった。外から帰ってきた様子が明らかにおかしかったので動物病院に運び込んだ。外傷はなかったがさまざまな検査の結果、危険な状態で即日死んでもおかしくない数値を示していた。
自力で食べ物どころか水も飲めない。エコーでもレントゲンでも内臓の損傷具合は判別できなかったが、明らかに外的ショックによるダメージが血液検査の数値に表れていた。連日の点滴と抗生物質投与、手探りの治療の日々がつづく。治療が功を奏したのか、跳ね上がっていた肝臓と腎臓の異常値はみるみる下がっていった。痛がるそぶりも見せなくなった。光明が見えた。
ところが今度は赤血球数がどんどん下がっていく。体内で出血が起こり血の絶対量が半分になり輸血をせざるを得ない事態になった。獣医さんの飼い猫からの輸血の結果、数値は予想以上に良化し彼女の様子も若干持ち直したように見えた。輸血後、自力で食べられるようになることを獣医も自分も期待したがそれは叶わぬ期待だった。ミルクを注射器で飲ましていたが、やがてそれも吐くようになった。家ではじっとして動かない。
吐く間隔は日増しに短くなっていった。吐瀉物は緑色に変化していった。胆汁ではないかというのが獣医の見解だった。点滴で栄養を補っていたがみるみるやせ衰えていった。4.1kgあった体重は3.6kgまで落ちた。彼女が吐くたびに回復への期待は薄れていった。腸のどこかが物理的に閉塞している可能性が高まった。体力が弱った状態での外科手術はかなりの危険をともなうとのことであきらめざるを得なかった。
10日目、動物病院でまた吐いた。吐いたあとは今までにないひどい苦しみ方だった。血液検査もできず点滴だけ済まして連れて帰ることになったのだが、点滴の最中も落ち着く様子を見せず非常に苦しんでいる様子がありありと伝わってきた。もうこれ以上苦しめる姿を見るのはとても耐えられそうになかった。自分から安楽死の処置を急遽申し出た。苦渋の決断だった。
奥の処置室に移動させ、獣医がゆっくりと麻酔剤を注入していく。荒かった息の間隔が少しずつ長くなって瞳孔の反応がなくなっていく。猫は死ぬときに目を閉じない。意識がなくなったことを確認して心停止させる薬剤を注入していく。ほどなく苦しそうに上下していた胸やお腹の動きが止まった。一部始終を見ているのはさすがにつらく、こらえていた涙で視界がにじんだ。
症状は虚血っぽい感じだ。
手が冷えているのか、あたたかくなっているのか。脈は速くなっているのか、遅くなっているのか。意識や感覚は正常か、異常があるのか。血圧は上がっているか下がっているか。吐き気が伴っているか伴わないか。手足のしびれがあるかないか。皮膚はつやつやしているかカサカサしているか。それらの症状によっては虚血以外の症状かもしれん。とにかく原因がわからんとどうしようもない。
仮に虚血だとすると、原因はいろいろ考えられる。
心臓の血管がつまって心臓の動きが弱まって酸素を運ぶ血が流れない。
血は流れているけど肺が弱ってて酸素をうまく取り込めない。
心臓も肺も機能してるけど血液がおかしくなってて酸素をうまく取り込めない。
どこか内臓に傷害があって内出血してて血が足りない。
その他にもいろんな原因が思いつくけれど、診断しないとわからん。
たとえば虚血性冠動脈疾患の場合だと、心筋梗塞が起きたり、心臓がどんどん壊死して脈拍が混乱して心停止したり、心臓は動き続けても脈拍の異常で大きな血の固まりができて、それが脳梗塞を引き起こして突然死が起きたりする。
単なる食べすぎでも、人によっては息苦しくなってしまう場合があるけれど、虚血の場合だと、可能性は少ないけれど、突然死に直結するケースもあるから、すぐに重大な病気でないことを確認するべきだろう。
なにもしないで神に祈るという選択肢もある。
その人がどうしたいのかにもよるな。
音声合成DTM製品「VOCALOID2 CVシリーズ」の第二弾である「鏡音リン・鏡音レン」を用いて作られた一連の楽曲作品。詳しくは検索。
小説とか漫画とか劇化もされてるようだけどそっちはノータッチなので除外。なんか詳細設定とか山のようにあるらしいけどあくまで元動画とその歌詞に情報源を絞る。
前者はある国で暴政を敷いた愛らしい王女が革命によって倒されるまでのことを歌った歌、後者はその王女に仕えた召使いの視点から同じ一連の出来事を歌ったもの。
YouTubeとかに死ぬほど転がっているのでこの文章を読む人にはできれば聞いといてほしい。ネタバレを含むので。『悪ノ娘』から先に。
英語版ならEnnという人? が歌ってるやつの歌詞が好きだな。情報量が多くて。
身も蓋もない言い方だけど「売れてる」から。
ニコ文化が中高生とかOTAKU中心に大人気とは知ってましたが劇って。コミカライズくらいまではわからんくもないが劇。
ファンとはいえそこまでのめり込むほどか。何がそんなに優れてるっつーかウケてるのだろう、という話です。
「優れてるからウケてるんじゃねーよ」というお話はあるでしょうがまあそこはおく。ぶっちゃけ「優れてない」点はいっぱい挙げられるし。
たとえば物語終盤の交代劇とかバレねーわけねーからね常識的に考えて、とか。
・仮にも国のトップなんだから、立てるならもっとマシな影武者を立てるのが普通というもので、脱がした瞬間バレるようなのに気がつかないとか革命が総崩れしかねない。
いや史上の狂乱というのは往々にしてそういう熱狂が高じてもはや狂気〜みたいな面があんだろうことは否定しないけど、そんなの後世には物好きな歴史家とかにケツの毛までひんむかれるレベルまで分析されるのが当然なんだからさ。恥ずかしい性癖が伝わっちゃってる為政者が今どんだけいると思ってんの。読んでないけど正直小説版にはクビ落としてから替え玉と判った革命軍の偉いさんとか偽史として押し通してきた『召使』側の話を証明しちゃったアマチュア研究家とかが裏で始末されるドロドロとかがきっとあった! と信じている。三次創作。
・本物も見物に戻ってくんなよ。そこでバレたらすべてがガチで水の泡よ。危険すぎるだろ。
…とか、突っ込みどころはとってもたくさんあるわけなんですね。文化ルーツもしっちゃかめっちゃかだとかそもそも歌詞がちょっと拙いとかね。
にも関わらず、絶賛者とかいっぱいいる作品でもあるわけで。合唱とか英語版とかあって再生回数すごいし。
何がそんなに人を酔わせるのかしら。それがロマンスというものなのか。
いやねーだろ。これロマンスじゃないじゃん。中世の騎士物語とかほんのちょっぴり読んだことあるけどコレジャナイ感すごいじゃん。
三大悲劇って言われてるけど悲劇ですらねーだろと言いたい。少なくともwikipedia曰くの古典主義的・新古典主義的「悲劇」では絶対ない。
それでは「これ」は何なのか?
まあアレじゃん。ジェンダー界隈でいう性役割意識がどうこうとかあと男の娘ブームとかなんかそんな。
あとこれ国家の皮をかぶった家庭悲劇なんですよね。一種のセカイ系というか。
このお話は王家に生まれた男女の双子のうち女が王家に残されて(おそらくは凄い抑圧とか受けて)暴君になって、男はどっか養子とか?出されて召使いとして戻ってきたつーことになっていますが、男をイエに残して女はよそに嫁がせるつーのがどっちかというと鉄板ですよねこういうの。
「なんでそんなことになっちゃったの」というのはきっと小説版とかが政治の派閥抗争がどうのとかに絡めて辻褄つけてると思うのでおいといて、「よくこれでウケたな」ってーのをですね。
この作品は基本的にすごいストレスを(受けたくないに決まってるけど)受けなくてはならない人間が見るとツボに来るようにできてるんスね。
よく何かこう、最近の若者は〜的な文脈で、男が女っぽくなっただの女が強いだのと言われますよね。いや印象だけど。自分の観測範囲内の話だけど。観測範囲内でもいい加減下火っていうか言い古されて説得力がアレな言説だけど。
少なくともこの作中ではまさに男がやるようなことを女がやっているわけで、そこんとこのギャップがウケてるっていうのはあると思うの。
鏡音リンってキャラクタ的には妹系ってんですか? 笑顔がかわいくてドジで〜みたいな感じだと思うんだけど、それが女故子ども故の残酷さみたいなのを全力発揮してるあたりのギャップもあると思う。
そう、彼女は良い為政者ではない。聖母聖女は齢14で「お金が足りなくなったなら〜、愚民共から搾り取れ〜♪」なんて言わない。普通の女でも言わない。
彼女はむしろ聖女みたいな女に恋人取られたら相手の国ごと潰して復讐する程度にはやりたい放題の女のコ☆です。
しかもそのレベルの人格破綻者まで「最初は無垢だった、ホントは彼女は悪くない」的な補足が入るわけです。これもウケたツボだろう。
イエのあれこれとか人間関係でむっちゃ我慢とか強いられてるけど正直破裂したい、けど破裂したらあとが面倒だけど破裂したいけどあああああとか思ってる人間にはとてもツボ。
破裂したい人間がなぜ破裂しないかって、破裂すると崩壊するナニカがあるわけで、この王女の話は破裂してナニカを崩壊させてしまったってことなので「ああ、あんな風にならないためにも我慢がんばらなきゃなー」とか、「私がしてきた我慢は正しかった!我慢しなきゃああなってた!ざまあwww」とかいろいろと解釈できて美味しい。
それだけなら単なる破滅劇なんだけれども、これを悲劇にするのが王女と対になる召使いの存在ですね。『悪ノ召使い』は『娘』よりもあとに発表された作品ですが、何千回単位だった再生回数を100万くらいまで押し上げたらしいっす。
「顔の良く似た」召使いは(内緒になってんのか知らんが)召使いってことになってるが王女と双子です。これをまず物凄く突っ込みたい。王家の血縁が人に使われる側に回ることのあり得なさとか。でもまあそれはいい。
召使いは破裂しそうな王女のそばであれこれ世話を焼くわけです。王女の命令なら惚れた相手も暗殺してくる。それくらい自分を殺している。
ある意味王家という枷つけられてる王女と完全に同類なわけですが、召使いはそれほど人格破綻してないというか暴君的な方向に爆発しそうではない。
彼には「王女のため」という大義があるからです。彼が背負っても良かったモノを彼女に背負わしたら歪んでしまった、王女がこんななってるのは彼にも責任がある。
だからその責任を果たすためなら、ほんのちょっぴりの「自分」も捨てられる。盲目的に尽くせる。
完全に「家庭なるもの」の中で板挟みになるガキそのものですね。あとほんのりとした近親愛。これがツボをつく。
オチはもうその最たるものですね。自分を殺して殺して殺して…の召使いは本当に自分を殺してしまう。王女はその代わりに助かる。
要は例えば機能不全気味家庭のお子様らには神話のように美しい物語だということですおわり。
鏡音リン・レンなるソフトは作中やファン間でも双子ってことになってますが公式的には「鏡に映るもうひとりの自分」的な感じではっきり双子ではないらしい。
というのもなんかこう、意味深ですね。
怖ェなーと思うのがこの作品が世界規模ですごい再生回数稼いでるという事実。
機能不全家庭の子どもにばかりウケてるわけじゃねーとは思うが、でも例えば上で述べたような「この身代わりはあり得ねーだろ常考」みたいな意見はたぶん野暮としてブーイング浴びるだろうし、きっと小説版あたりで「そうするしかなかったんだよ…」みたいなことが切々と説かれていたりして要するに反論として封殺されることが明らかなわけです。
実際には例えば召使いの行動として「二人で一緒に逃げる、最後まで王女のそばにいて守り通す」みたいなのがあっても良かったはずだし一昔前なんてそれで逃げ切れなくて死んじゃってーみたいなのが悲劇のテンプレ化してたような時代があった気がするんですが、そうならない。
何というか、すごい絶望的で、しかもその絶望が絶望のまま肯定されて同類間で共有されてる感がする。
そういう方法で絶望が連鎖して伝播しているような感じがするのです。
漫画家のとり・みき氏の言葉(の引用の引用)だけど、こういうのがある。
人が涙を流すのは必ずしも作品の出来とは関係がないのだ、と。
かつて自分が何かに感動した時にできた涙腺回路のようなものが頭の中にはあって、そこにピタリとはまるような場面だの言葉だのを見聞きしてしまうと、涙というのはどうやら自然に流れる仕組みになっているらしいのである。歳をとると涙もろくなるというのは、つまりそういう回路のパターンが増えているからではないか。
個人的にこれは結構ガチだと思っているんだけど、一点だけズレてる部分がある。
ここで書かれてる涙腺回路の起動スイッチである「感動」っていうのが、自分個人に限っていえば何か崇高なものに触れて心を動かされたとかではなくて単純に傷つけられたときのことを指すようになってんのね。
つまりこの文章に則って言うと、自分はある一定の場面とか言葉だのを見聞きしてしまうと自動的に繰り返し繰り返し傷つくようになってしまっている。
恐ろしいことなんだけれどこの「回路」が結構強固で、俺はこいつを潰しておかないと日常生活が送れないっていうレベルでいろいろと不便。具体的にいうとAED講習で実際の救命現場の録音(子どもが突然心停止して倒れたそばで手当てする人とか救急車呼ぶ人とかその子の名前を狂ったみたいな大声で必死で呼び続ける母親の声)聞いたときとか、アレ本当は命が助かる感動的な場面のはず(「とりあえずはもう大丈夫です」まで録音されてたはず)なんだからすごくイイ話だと理屈では思うしわかってるんだけど生々しいやりとりそのものがあまりにもショッキングでしばらく「親子」みたいなキーワードで突然ぼろぼろ泣くようになって本当に困った。もうすぐ一年になる例の津波関連も未だにいろいろな場面でダメージ。直に被災したわけでもないのに。
閑話休題。
だから例えば映画とか小説なんかで「泣ける」みたいのを売りにしてるのは基本見ない。
そういう作品は大体が回路起動ツボを外していて(かつ、他の例えば大爆笑回路の起動とかには結びつかないので)白けるが故に、そしてごく少数の作品は客観化が十分でツボ自体から適切に距離を取れるが故に、涙腺回路起動までに結びつくことは滅多にないんだが、それでも見ない。
何が楽しくてそんな自傷行為をせねばならんねん。
でも例えばナイフは指を切るだろうとかわかるけど、この作品で泣くようになるだろうとか普通は読んだり聞いたりするまではわかんないわけじゃん。
で、『悪ノ』シリーズも回路の起動スイッチになってしまったので、困ったなー。と思っている。前述の録音ほどの威力はないしもうだいぶ整理して削いだんだけども未だに人前ではこの曲聞けねえ。
あの召使いの台詞で泣かねー奴は人じゃねーみたいなコメントが動画についていたりして、それを「気持ちはわかる」と思ってしまう。
気持ちはわかるけど、実際問題召使い馬鹿だし王女も馬鹿でみんな馬鹿すぎて救いようがないと思う。「崇高なものが犠牲になる」みたいな楽しみ方は視点が狭すぎて阿呆だと思う。
いろんな人が感動してファンになって翻訳とかされてるのはわかるけど、作品としては全然優れてないと思うのです。
他の作品と比較してどうとかではなく、あの物語自体にもっと洗練の余地があるということ。
そして洗練されるとたぶんあれは悲劇オチ(と取ってつけたようなハッピーエンド後日談)じゃなくてちゃんと喜劇にもなれたはずだなー、悲劇にしてももっとレベルの高い悲劇になれたはずだなーと思うということです。
「物語の洗練」を。
機能不全家庭の傷なめ的なものでなくて、もっとちゃんと救いとか絶望とかが欲しい。
具体的にいうとこのネタで小説でも書いてそれで旅行のためのおこずかいとか稼いでみたいんだけども、まあおこずかいにならなくてもいいから二度と回路起動スイッチにこのネタで手を触れられる奴がいなくなるように自分でパテを塗っておきたい、そのために小説を練ってみたい、ということでした。
すでにやってる人いるけどねそれ。舞城とかね。でも最近なんか舞城も振るわないっていうか、「その先が欲しいんだけど!」みたいなあたりで止まっちゃってる感するからね。ジョジョノベライズ期待してます。
元増田です。
なるほど、そういうことなのかもしれませんね。
死の理由についてはちょっと私にも分かりかねます。
少なくとも今と同じ考え方を続ける限りは分からないのかもしれません。
ただ、反論している方の意見が混迷に陥っているのは、明らかであるように思えるのです。
だって、死の理由として心停止を挙げてしまうと。
心臓が動き出したことが生の理由として適解になっちゃうじゃないですか。
まあ根本を辿るなら、母に産んでもらったところ、ですかね。
何にせよつまり、生の理由もまた存ずると言えるようになってしまって、彼の最初の意見はやっぱり蔑ろになってしまう。
なのに心停止とかいわゆる『死因』であるところのものを堂々と『死の理由』として挙げているのはどうかなー、と思う訳です。
そうじゃなくてこう、何故クオリアがあるのかとかそういうことを私は話したかったんです。
あたし・・・実は・・・ナースなんだ。
ずっと、黙ってて、ごめん。・・・隠してて、ごめん。
でも、どうしても言えなかったの。
あたしがナースだって知ったら、きっとみんな離れていっちゃうって思って。こわくて。
わかってる。わかってるよ。
ナースは国家試験を通った人だけがなることができる、人の命に関わる重要な任務だって。
でもね・・。
でもね、全然ちがうんだよ。
あたし、みんなが思ってるようなキレイなものじゃないんだよ。
あたしは汚れている。
あたしの手は、汚れているんだよ。
ナースになったとき、すごく嬉しかった。天使になったような気でいたの。
あたし馬鹿だから、人の命を救うんだ!なんて、本気で思ってた。
でもね、全然違ったんだよ。
国から言い渡されたナースの任務は全く別のものだった。
人の命を、まるでナイチンゲールのように平等に助けるようなものじゃなかった。
あたしたちナースに課せられた任務、・・・・それは、ふるいわけ だった。
生きるべき命と、それ以外の命のふるいわけ。
そして、それを見守ること。
ねぇ知ってた?
この世界には、あるんだよ。こんな日本のど真ん中にね、平然と、あるの。
どうなっても大丈夫な命っていうのが。
ナースはね、それを見守るの。
そこにあるだけで、まるで医療が行われているかのような錯覚を起こさせる。
あたしの仕事は、そうやって、平等に医療が行われているかのように見せる暗幕みたいなものだったの。
人なんて、全然、救えなかったよ。
救う義務も権利も、この任務にはなかったの。
例え、その人がどうすれば助かるか、明確に解っていたとしても、
あたしたちは医師の命令が無いかぎり、何一つの医療行為もできない。
あたしたちには薬も酸素も与えることはできないの。
ただ、ただ、走って先生を呼びに行くだけ。そして伝えるだけ。
夜なんかになれば、一つの病院に一人か二人とかしかいないの。
「先生、吐いている人がいます!」
「先生、胸が苦しい人がいます!」
「先生、脈が弱い人がいます!」
「先生、腹痛でもがいてる人がいます!」
懸命にナースたちが叫んでた。
でも医師は一人。
私も声を荒げて「苦しい人がいます!」って叫んだの。
でも、ここでもふるいわけが始まる。
経済状況、年齢、地位。そんなものが病状と一緒くた になって命令が言い渡される。
「とりあえず酸素を」
その日、10秒ごとにナースコールが鳴った。
「苦しい、苦しい、まだ苦しい」
「もう少しだけ待ってください、今先生、来ますから・・」
何度も先生のもとに走ったけど・・・。
あたしは先生に背中側から叫んだ。
「酸素をしても、まだ苦しいみたいなんです!」
「酸素を上げてみて!」
その患者だけじゃない。
「トイレに連れて行ってください」
「シーツが汚れたから替えてください」
「薬を飲ませてください」
「テレビがつかないんのですが」
「眠れません」
廊下を走る。
忙しさに言葉が荒くなる。
認知症の患者さんがエレベーターに乗って外に出て行こうとする。
遠くの病室で、人工呼吸器の異常アラームが聞こえる。
必死にあたしもふるい分けた。
今、一番いのちの危険がある人から、一番苦痛を感じている人から、手を差し伸べなきゃ。
「いつになったら来るんだ!」と言われても。
「遅い」と言われても。
私は頭を下げたり、ちょっと言い争ったりもしながら、
「苦しい、苦しい、苦しい」と言う人のとこに走ったよ。
唇から色が消えていた。冷や汗をかいていた。
あたしは心臓だ!と思った。
あたしは医師の指示を待たずに心電図の検査をした。狭心症の波形だった。
急いで先生に連絡した。
「狭心症の波形です。ニトロ内服させていいですか?!」
「いや、波形を見ないとわからない、ただこっちの処置があるから、10分後に行く」
患者は胸を掻きむしるようにしていた。
「待てません!飲ませます!」
あたしは医師の指示無くニトロを内服させた。患者の苦しさはスッと納まった。
それは駄目なことだったけど、一人の患者を救ったことに、あたしは浮かれてたの。
貧相な正義感をぶら下げて、意気揚々とナースステーションに戻ってきたの。
ナースステーションの・・・・
ナースステーションのモニターの一台の波形が、フラットになってた。
あたしは急いで病室に飛んだよ。
でも、亡くなってた。
喋れない患者さんだった。
ナースコールも押せない人だった。
あたしは、その日、目の前の苦しい人に夢中で、モニターなんか見てなかった。
それでもね、・・・あたし、まだ、ナースなんだよ・・。
先生は患者の家族に「いつ何があってもおかしくないご年齢でしたから・・」と告げた。
患者の家族は「ありがとうございました」と涙を浮かべて頭を下げた。
そして、あたしにも「看護婦さん、ありがとね」と言ったの。
大好きな、患者さんだった。
この人が歩ける頃から知っていて、喋れる頃から知っていて。
「自分は寂しがり屋だから、最期は家族に手を握ってもらいながら逝きたい」と言っていた。
あたしが新人の頃から知っていて、注射が下手だったのも知っていて、
「おまえは俺が育てたようなもんだ」が口癖だった。
「まぁ、・・・歳だったし、家にも帰れないって言ってたからなー」
と先生があたしの背中ごしに言った。
あたしはモニターの記録を見てたの。
その記録には、波形が狭心症から心筋梗塞となり心停止するさまがしっかりと記録されていた。
歳だから死んだんじゃない、そこには心筋梗塞で死んでく命があった。
でも、そんなこと全部まるめこんで、死んじゃって仕方ないっていう命が、そこにはあったんだ。
似たようなことはざらにあった。
何人もの人が、私の手のひらから零れていったよ。
でも、あたし・・・ナースなんだ。
誰も、辞めろって言わないの。
ナース同士は実情がわかってるから、言わない。
国はきっと、全部知ってて、それ込みで「それが仕事だ」と言うかもしれないけど。
いや、言わないか。国は、何も言わない。きっと。
救えたかもしれない命を、ナースは一番わかってる。見えてしまう。
医師の指示が適してないのも、判断が遅いのも、治療がのってないのも、全部わかってる。
それでも「あの時!」と、自分の行動と判断を何度も振りかえる。
その向こうにはいつも「あのとき、こうしておけば」が、くっきりと見える。
でも、救えなかった責任も、見過ごした責任もナースには問われない。
ナースって・・ほんと、なんなんだろうね・・・。
くすり一粒すら出せないのに、
検査一つ指示できないのに、
命に関わることなんて、一つも独立してできないのに、
どんなに辛くてもナースしか呼べないなんて。
そしてあたしたちは色んなものを抱えて、あなたの前に立つ。
先生が来ること、来れないこと、
できる治療があること、ないこと、
色んなことを知りながら、なにも変える力もないままに、
さも救いの天使が舞い降りたかのような顔で。
医療が崩壊していく。
全然止められない速度で。
その砂上の城で、あたしは見てるんだ。
沈んでいく人の命を。
20歳か。若いな。
32歳で、
の4人の火葬に立ち会ってきた俺が話してみる。
祖父と叔母は30年近く前に亡くなった。
当時の火葬炉はまだ脱臭機能も無く、人間のリンが燃えた臭いが火葬炉を開けた瞬間にむわっと来るんだぜ。
それは俺の視覚ではなく、嗅覚に突き刺さったよ。
祖母が亡くなったのは17年前で、伯父が亡くなったのは4年前。
その時の火葬炉は脱臭機能が付いて改善されたので臭いはほとんど無くなったけど、子供の頃のリンの燃えた臭いは今でも忘れない。
伯父は先物で失敗して奥さんと子供に逃げられた。一人暮らし、突然の心停止、蘇生、痴呆症の介護を経て亡くなった。
入院している間は金もないので、生活保護で最低限の医療だけ受けていた。
そんな状況なので葬式も無し。俺とお袋と伯母と別れた元嫁と子供2人の7人だけでの密葬。
火葬炉のボタンをぽちっと押すだけ。後は粛々と遺骨を拾って、元嫁が遺骨を引き取っていった。その後連絡は取れていない。
そんな寂しい最後だけは迎えたくないと思ったな。
他人の迷惑について考えたり、自分が死んだ後の事を考えたり、死ぬとき痛いだろうなとか苦しいよねとか、きれいに死にたい(笑)とか考えているうちは、自殺を実行することは当分ないんだよねぇ。
自殺についての認識を誤っていたりとか、「自殺」という言葉の響きに心のよりどころを求めていたりとか、理由はさまざまだけど。まだこの世とお別れするステージに到達してないのだよ。たぶん。
うつ病を自殺の原因とする説は有力だけど、うつ病の原因を自助努力なしには取り除けない限り、うつ病は単に自殺に至るステージのひとつとして存在し続けるのだろうね。たとえるのならば、ある種の生物が変態に至る「さなぎ」の状態かな。病気とかじゃなくて。あげ足取られる前に書いとくけど、「さなぎは生き物が生きるための…」はわかってますって。ただぼくの中で「生きる」「死ぬ」はイコールなのね。電灯のスイッチのON・OFFとか、エレベーターの「上へ参りまーす」「下へ参りまーす」とかと同じ。
5、6年前に一度心停止に至る自殺未遂をしたことがあるんだけど、生還してその後一度として「あー、生きててよかった」とか「生きてるうちが華なのよ。死んだらおしまいよ」とか思ったことがないなぁ。ましてや「やっぱり人ってあったかい」とかね。「あの時死んでりゃよかった」とはよく思うけど。
自殺の前後あたりの記憶を喪失してしまっていて、また、知っていそうな周囲の人に聞いても口をつぐんだままなんで、果たしてなにが直接の引き金になったのかとか、自分でも詳しくはわからないんだけど、まぁだいたいの想像は付く。
ただ、ふと気付くと身内を含め、自殺の原因に関連するとおぼしき人たちが恥も外聞もかなぐり捨てて自己保身に汲々している姿には、かなりドン引きだった。猟奇サスペンスか、はたまたブラックコメディの世界。人ってフィクションでもなんでもなくこんなことできるんだぁ、とひたすら呆然。
人の生と死にまつわる感動のトゥルー・ストーリーってな小説や映画は多いけど、ぼくはいつも途中で「うそやーん」「そんなヤツおれへんやろー」になってしまう。愛だの恋だのいう話もおんなじ感じ。
知らないほうがいい事、気付かないほうが幸せなことって、世の中にはいっぱいあるよね。マジで。