はてなキーワード: 孤立とは
子供のころから、変人奇人扱いされ、大学は何とか卒業したものの
精神科で発達障害と診断され、アスペとADHDがあり、さらに軽度のうつ病まであるという。
精神科でコンサータをもらうのだが頭が痛くなるし、続けられない。
ネットで、中国漢方や中国鍼が発達障害に効くというので調べてみた。
http://matome.naver.jp/odai/2144593817648033801
上記を読む限り、効果はそこそこあるらしい。
今度は
なぜ中国医学は難病に効くのか―脳神経外科医がみた「不思議な効果」
http://www.amazon.co.jp/dp/4569620205
上記の本を読むと、発達障害ではないものの手足が動かなくなるような難病が漢方で治ったらしい。
・日本では西洋医学の医師がほとんどなので四診して証を見れる医師がほとんどいない。
・日本の漢方(古方派)や鍼は、かなり簡素化されており弁証論治をしないので、軽度の疾患なら治せても難病対応は難しい。
・西洋医学の治療では、慢性疾患等の症状は抑えられても治すことは難しい。
ということで、中国漢方と、中国鍼を行っていて評判の良い漢方薬局と中国鍼のところに話を聞きに行きました。
どちらも健康保険が効かないことが最大の難点。
まだ1か月ですが、以下の状況になりました。
・毎月2万の漢方代がかかる。
・なんだが、心が安らいでイライラやおこることがなくなった。
漢方薬局曰く、ADHDは肝の異常で脾がやられてさらに気血両虚という状態らしい。
さらに難病になると中医学の知識が必要になる場合が多いとのこと。
長く続けると治るともいうので続けるつもり。
問題は金だけど。
http://anond.hatelabo.jp/20160310211304
感情で言えば「死ね」は我が事であるがゆえの親愛と憎悪の罵倒です(思春期に「死ねクソババア」と思ったことのないものだけが石を投げなさい)。
こんな一般人なら普通に読み取れ読み飛ばす修辞(本筋はそこでないから)が、まるで自分に向けられているように感じてしまう夜郎自大ぶりをせめて恥じればいいのに。出来ないからしょうがないね。
本筋からは外れついでに言っとくと、「平和ボケ」とかわかりやすすぎなんだよ。
だいたい第2次世界大戦とかシリアとか「劇的な死」しか想定できず、もっと複雑で普通で長い時間がかかってめんどくさい老衰高血圧孤立痴呆要介護骨折床ずれ壊死感染症でまだ死ねないみたいな四苦を想像できないところも中学生レベルで残念。
考えて欲しい。若いうちはまだいい。一人旅も楽しいだろう。一人遊びも悪くはない。
ちょっと気になったので書かせてもらうけど、知的障害と発達障害、重度身体障害は
で、何がカギになるかというと、生活上での自立がどれほど可能かだと思う。
たとえば重度身体障害があると日常生活において複数の人の手を借りなければ生活ができない。
人工呼吸器やその他の医療器を使わなければいけない場合はそのぶんだけの費用が当然かかってくる。
そして身体障害というのは交通事故などでも後天的に起こりうる障害である。
偶発的な事故でも起こりうる。誰の身にも降り掛かる可能性がある。
知的障害となると程度にもよるが、付き添いの人がついていないといけない。
この人たちは善悪の区別がつかないので「見たかったから」という理由で他人の赤ちゃんをいきなり線路に投げ込む
というような多害行動にいきなり出る場合がある。
突然暴れたり、公共の場所で性器を露出しながら歩いたりと、常識というものが存在しない世界に生きている人である。
まず発達障害の人で排尿が一人でできないという人はまずいないだろう。
公共の場所で性器を露出して、かつ何が悪いのかわからないという事もない。なぜなら知的な障害はないからである。
発達障害のつらさは「一見、正常の人間に見えるがそうではない」というところにある。
発達障害の人は症状に個人差があるため、性質に合った職場に巡り会えた場合は仕事を継続して続けることができる。
しかしながら、発達障害の場合付き添いの人がついていなければ生活できないという人はほとんどいない。
障害の程度、どのくらい他人の生活を浸食するか、どのくらい他者の時間を奪うかという視点は重要だと思う。
もちろん差別的な考えだからこんなことは匿名ダイアリーでないと言えない。
とくに性的にさかりのついた知的障害者はただただひたすらに迷惑な存在だ。もちろん少数でしかないが。
電車の中で性器を露出していじりつづける男、自分の乳首を露出してひたすらにいじり続ける女、こういうのを見るとお願いだから
要はすぐにパッタリ逝くんじゃなくて、だんだん滅びるんじゃないかな?って。
どうも、日本のどこかで働いている正社員、女性です。既婚です。夫も普通に仕事していて、私も普通に稼いでます。たぶん同世代の男性よりちょっと多めに貰えてます。その分頑張って仕事してます。まあ、普通の人に言わせたらがんばりたりないとか、いろいろ言われるかもしれないけど、個人的に頑張ってるつもりなので許してください。
最近の日本死ねタグとか、保育園落ちたの私だタグ等を見ていると、本当に今の日本って子供作るメリット無いな…と思ってしまいます。だから、日本は消滅しろと思う。というか、この現状が続けば消滅しろ!と願わなくても消滅すると思う。そのうち。たぶん私が死んだ頃だと思うけど。
もし、今の現状もし私が子供を作って育てたとしてもまた仕事に戻れるとは思えない。仮にも技術職なので産休、育休明けでもたぶん仕事はあると持ってます。だけど、今みたいに家事ほったらかして仕事なんてできなくなるし(夫ごめん)、子供が熱出したりとかしたら大変。仕事も休むことになってしまう。
そんな状況ではとてもじゃないけど、職場に迷惑をかけてしまうから仕事なんてできない。今でも仕事休むと迷惑かけてしまうので。
しかも、妊婦期間中はいろいろな人にいたずらされる。子供を連れて電車やバスに乗ると下りろと強制される。
(私の場合は自由がきくこともあるので、車移動が増えそうだけど)
もし、障害児が生まれたら仕事何それおいしいの。状態になってしまうわけで。それを避けたいから遺伝子検査やると人権侵害?私の人権はどこに行ったの?
遺伝子検査で引っかからない場合もあるんでしょ。その場合はどうすればいいの?一家心中が最適解ですかね?
私の親はそれを承知で私を育ててくれたかもしれない。けれど私の母は専業主婦で父親は仕事一筋で家事なんて一切やらない人間でした。そういう家だったら確かに子供作ってもし保育園NGだったとしても生きていけるかもしれない。でも、その分貯蓄がないから大学には行かせてもらえないかもしれない。
あとね、意外に保育園の友達って重要だよ。それがないと一気に孤立→いじめだから。
(私は一応大学に行きました。学費等はすべて奨学金。大学のときの生活費も基本全部バイト。唯一払ってもらったのは家賃だけでした。)
今の私みたいな苦労をさせるのであれば正直子供作りたいとは思いません。高い税金ぐらいだったらいくらでも払います。まだ無認可保育園に入れるより安いし。
当然のことながら、話す相手はいない。卒業式でも、一人でボーっとしてる時間が長かった。親も察したのか、遠眼でボーっとしてる俺を眺めていた。
正確には無いこともないが。
一応、存在価値が無いんだけど、居ておかせてもらえるだけありがとうございますなんだけど。
というか、なぜ皆リア充側なんだ?
同級生の内、80%はリア充。10%はリア充になろうとすればできるけどしない奴。10%は真性非リア。
俺は真性非リアの奇形なんだけど、努力してリア充軍団にいじられてる、いわゆるキョロ充。いや、充実してないから、単なるキョロ。
キョロってるけど、別にリア充になりたいわけじゃない。生きるために仕方ないからキョロってる。
ネットで陰キャラとか言ってる奴って、リア充的行動をすれば、リア充になるやつが多いんだろうと思う。あるいは、超絶リア充だけ見てるリア充。
おれの場合は、努力してリア充になれないタイプ。完全に非リアの末路。
非リアとだけ絡んでいたいんだけど、マジで俺の学部には非リアが少なかった。
背が高い奴は、それだけでリア充的振る舞いが似合う。
ようするに、キョロってる俺は、ブサメンチビ発達障害である。仕事なり以外では付き合っても他人に対してデメリットしか与えない人間である。リア充的行動が『似合わない』人物である。
そういうキョロは、当然リア充には見下され、ドキュンには馬鹿にされ、女からもシカトされている。
でも、完全に輪に入らない精神病系の奴とは違い、一応、生きることに努力している。
輪に溶け込めなくても、嫌われていても、一応席だけ確保してもらえてる立場にはなれている。
そこまでしてやっても、心がささくれだつだけである。
下位リア充(いわゆるドキュンか?)の鬱憤を晴らすおもちゃにされて終わるだけである。
でも、やっている。
だって、俺には社会的な奉仕しか生きる意味は多分無いから。完全に孤立しても、いいんだろうけど。そうすると多分俺は本当に生きた意味がなくなってしまう。
ああ、身長があればなあ。なんで160前半なんだろう。ああ、イケメンならなあ。なんで奇形顔なんだろう。ああ、発達障害が無ければなあ。
でも、しょうがない。一定確率で俺みたいな偏ったハズレクジ引く人間は出る。
整形でも、すればよかったんだろうか。
リア充になるのはとっくに諦めてるし、女に相手されるのもとっくに諦めてるんだけど。
能力を磨くってのは、こりゃ努力なわけだから。その分野で勝てればいいのかなって思う。
能力なんて磨いてもなんの意味も無いかもしれないが。世の中よくなるかもしれない。
俺みたいな奴がいなくなってほしい。だから、世の中もっとよくなってほしい。
そう思って、仕事の能力を付けるぞ。くらいが俺の今の生きる意味。
そう思ったが。開始10分で帰った。
余りにも、辛くて、いたたまれなかった。
家に帰ったら、超絶美人のAVを見て抜いた。初川みなみ。超カワイイ。
当然のように、ゴキブリ並みの扱い。多分女からしたら俺と絡むのはデメリットしかない。
イケメンとかリア充はメリットあるから、そういうレベル高い女が絡む。しかし、俺には何の女も無い。
でも、いい時代だなって納得した。
昔は、こういうAVが無かった。AVで納得できるってでかいよね。
これだけでも、選択できる時代でよかったなーって納得した。
やっぱ、世の中、顔とか身長だと思うよ。少なくとも、大学生まではそうだわ。
だけど、能力とかは流石に努力だと思うわ。そこは慰めだと思う。
こういう話が盛り上がる様は知性の堕落だ。きのこたけのこ論争や犬派猫派なんかと同じだ。一見ファイティングポーズを取っているようでいて、その内実は当たり障りのないどうでもいい事だ。みな「そんなの勝手でしょ」で消化できることが暗に分かっているから、空気を読んで安易にノってしまう。そんなぬるま湯に浸かる姿勢は、はてな匿名ダイアリーを愚弄している。もっと人間の心の闇、ネットの闇に切り込む鮮烈な一閃のようなエントリを書くべく、みなが知恵熱を出すべきだ。角が立つような物言いもするだろう。そのための匿名なのだ。その思想を茶化してスカしてみせるような、日和ったネタ、短文のイチャモン、それらは存在してもいいがメインになるべき器ではない。
増田は遊びではない。仕事につかれた人間が息抜きにやるしょうもない作業ゲーの如きものに成り果ててはならない。試行錯誤を繰り返し最適パターンを見いだし、体に刻みこむような、そんな本格的ゲームのように、どっしり腰を据えて、マジになって、世の中や人間に対して、怒りや憎しみや不満を大いにぶちまけてほしい。別に議論にしなくていい。建設的でなくてもいい。狭窄で偏屈な主張でいいから、ただただ本気の筆致を感じる文章を読みたいし、書きたい。少なくとも自分にとって、心に残った増田はすべて本気の熱を感じるものだった。
この論にべつに共感してくれなくてもいい。どうせこのエントリはブクマもトラバも0だ。あってせいぜい「キモっ」だ。そもそも長文で、しかもトラバである時点でまともに読まない人間が多いだろう。暇を持て余したニートが何かほざいてる、とでも察されて、「触れちゃいけない人」感を全員が感じ取り、協調するように何事も起きないままネットの海に埋もれていくのだ。そういう孤立的な状態や無反応を極度に恐れる空気があるから、くだらなくても何か盛り上がるネタや、他人をひっかけるレス乞食のような物言いをする人ばかりになっていく。そして自分の尖った体系的な意見を表に出せる人が極端に少なくなる。言えてせいぜい、感情的な短文の罵倒だ。twitterを想像してもらうといい。これが現代のコミュニケーションの病理であり、他愛無い話がぐんぐん伸びて幅を利かせる理由だ。たまに飛び出る長文ブログがやたらと炎上する理由でもある。だからあえて今ここで、孤独に醜態を晒す。「空気を読まない」を実践する。そんな訓練ができる場が、ここなのだ。
実際この論がかなり偏屈で、他人に無茶を求めていることは自覚している。けれど、世の中にあふれる偏屈を見て見ぬふりして、なあなあにしていると、気づくと自分も何らかの偏屈な思想を一部取り込んでいるものだ。そしてそれに無自覚でいる人が多くなると、ついにはヒトラーやトランプ氏のようなポピュリストの主張が支配的になるような事態に結びつく。だから自分の中の偏屈の種をさらけ出し、また他人がひり出した偏屈の種に向き合って、大真面目に思いを馳せ、「我がふりなおす」時間が大切なのだ。実は、そんな意識は誰しも持っている。誰もが日常のなかで他人の偏った主義主張に触れ、無意識のうちにメタな視点を持っている。だから、他人の考え方につっかかって、自分の中で醸成されたバランス感覚を披露したくなる欲求は常にあるのだ。
元増田も、そういう欲求から生まれたものだ。けれど、下手だ。欲求の発散のさせ方が下手。いや、逆に上手すぎる、適応しすぎているのか。当たり障りなく、適当に手短に欲求を発散させ、かつ反応を引き出しやすいやり方を心得ている。それでもやはり、欲求を満たす機会と時間を、こんなチャチなテーマで消費してしまうのは実にもったいない。「いいや、どんなテーマでも大真面目に普遍化して思考訓練の材料にすることは可能だ」という向きもあろう。でもエビ嫌いdisとカキ嫌いageというテーマで本気になれる人がどれだけいるだろう。それを配慮すると、やはり最初からハードコアな話題を振ったほうが良い。でも大仰なことを書こうとするほど、言い出しっぺにかかる期待と責任は増していく。ここが難しいところだ。本気の増田が求められるほどに束縛感が増して、萎縮を招く。でもある程度そういう風でいいと思うのだ。緊張感が大事だ。
不愉快な正論やご大層な暴論の刃をぶつけあう、殺伐とした場になれるポテンシャルがある。2chよりも。それが増田だ。増田には半匿名のtwitterに馴染めなかった人の受け皿としての側面があるのも分かるが、せっかくダイアリーという形で長文が書けるのだから、たまにはあなたにもこういうクソみたいな長文を書いてほしい。この文章のように、推敲もされておらず、同じことを言い続けた挙句言い逃げする時間泥棒のような文章で構わない。私は読んであげないけどね。
やはりというか最後の2センテンスが理解されなかったようなので、ロックじゃないけど言っておく。文章の中段で書いたように、他人に反応してもらうためではなく、まず自分のために書いてほしいんだ。だから、読者への配慮すらも気にせず、拙い文章でもがむしゃらに書いてほしい。私は読んであげないというのはツンデレのようなもので、誰かに読まれることを期待するような媚びた精神を振り払うための呪文だ。内なる情動から湧いてくる言葉をガーッと綴るときに、自分がどう思われるか、誰に読んでもらえるか、なんて視点は一旦置いておかねばならん。エクスキューズやポリティカル・コレクトネスを脇における機動性が匿名の良さなんだから。それこそ、真意を伝えるためには自分が憎まれるような言い方だってできる。それが、最後の皮肉の意味だ。
「改行くらいしないか」と言われているので前々から思っていたことを書く。増田における改行はpタグの挿入を意味する。つまりパラグラフを区切りたい時に改行するのが正しい。二言三言の簡潔な文章のエントリなら1センテンスごとに改行…という名の段落分けしたほうが見やすいだろうが、このくらいの長文になるとパラグラフごとに改行すべきだ。個別ページでみれば、ちゃんとパラグラフごとに字下げと適切なマージンが取られているのが分かる。これなら一般の書籍と似たスタイルで、読みにくいとは思わないはずだ。ただ、トラバの吊り下げリストを展開した表示だと字下げもマージンも取られずに見づらくなる。それは承知しているが、それははてな側の問題であって、HTML上妥当な書き方をしておいたほうがベターだし保守性もいいだろうという判断でこうしている。だから現状、トラバが長文だと思ったら個別ページを開いて読んでもらうのがいい。
「最後はうんこ漏らした話で締めるのが美学」? それは、このエントリで表現を変えながら主張してきた内容に反する。本当に読まれたのだろうか。まあそれに憤る気はない。私の技量の問題でもあり、読み手にとって巡りあう時ではない文章だったという事もあろう。いずれにしろ主張は変わらない。そうやって読者受けを狙って媚びたおちゃらけで締める事こそ、惰弱な精神の象徴。そういう内輪ノリみたいな軟派なコミュニケーション欲求を排して、最初から最後まで舌鋒鋭く自分の言葉で斬りつける。それが私の思う美学だ。ブコメに応えている時点でそれも揺らいでいるが、コミュニケーションを第一目的とするわけではないからあえてidコールもしていない。書くことで自分を研ぎ澄ませるのが目的だから、本来は「伝わらなかった」ことに苦慮する必要もないのだ。ならローカルのメモ帳でいいという批判もあるだろう。だが、あえて直接的に反応を見ない等と決めていても、自分の残したミームの一部がどこかに化学反応を起こしたら、と考えるとワクワクするだろう。それを物書きの動機付けにする程度なら、良いことだと思う。
なぜそこまでコミュニケーションを、他人の反応を忌避するのかと思うかもしれない。その理由は、効率が悪いからだ。ネット上の他人は年齢も育ちも見識も人格もあまりにも多様すぎて、その差異をカバーすることに労力を使っているとアウトプットの量も質も落ちるからだ。とかく我々は、相手も自分と同じような能力や規範を持っていると勘違いしやすい。だからいちいち説教して回りたくなるものだが、その欲求のために個別に相手をしていたらすぐに人生を使いきってしまう。だから、言いたいことがあったら、このエントリで述べてきたように、増田を利用した放言スタイルで重量級のをカマしてみてはどうか、という話だ。
「保育園落ちた日本死ね」と叫んだ人に伝えたい、保育園が増えない理由
http://bylines.news.yahoo.co.jp/komazakihiroki/20160217-00054487/
この人らの中では、バブル絶頂期も結局のところ子供増えなかったのは、どういう理由づけになっているんだろうか。
そういう理屈らしいが、多分この人らは、事態を改善しても救われないだろう。
いや、むしろ追い詰められるのではなかろうか。
世の中に不備があるのは、ある層の人らにとって良い事だ。
「保育園に入れられないから」「ベビーカーで電車に乗れないから」そういうのは、自分たちが上手くやれない事の言い訳になる。
上手くやってる人はもちろんいる、そういう人と自分を比べてしまう事もあるだろう。
病院で、飲食店で、公共交通機関で、時にパートナーですら判ってくれない。
日本は終わってる。
そう、悪いのはあなたじゃない。
関西のごくごく一部のDQNは「なんかぼーっとしてる人」を「つんぼ」、「不可解な行動をする人」を「がいじ」などと軽い気持ちで突っ込む
やんちゃな男の子が悪ぶって友達をからかったりするときにまれに使ってるぐらいの下品な言葉で、大人になるにつれて使わなくなる言葉
これをなんJに書き込んでいた奴らが皮肉交じりに真似しだしたのが初まりなんだよね
一方「アスペ」は
「発達障害で対人関係をこじらせて孤立気味な人間ほどネットコミュニティにハマる」という共通認識から煽り文句として使われだしたと思う
後者に比べて前者は煽りというより茶化しに近い使われ方をしてきたし
宗教がその代表格だと思うのだけど、現実を見ないことは本当に気楽なのだろうと思う。
逆か。現実をしっかり見つめることが本当に辛いことなのだろう。
時折、終末医療における科学的根拠を一切排除する人に対する是非なんかが耳に入ってくる。
人のことを好き勝手言うのは自由だが、いざ自分の目の前に死が迫った時にその辛さを受け入れられるかどうかは、その立場になってみないとわからないのだと思った。
どちらを選んでも余生にそれほどの違いがないならわたしは辛くない方を選んでしまうかもしれない。
この所よく年配者と口論をしていた。年配者といって60にも満たないくらいのまだ現役で働いているものたちだ。
彼らが口にすることは一様に現実的ではないのだ。
その最たる例は、「全てのアレルギーは簡単に治療できる」というものだった。
わたしの身の回りにはアレルギーで苦しむ子どもたちが沢山いる。
辛い治療に耐えながら、食べたいものも食べられず日々悩み苦しんでいる。思いがけず発症して苦しんでいる姿だって何度も目にした。
そんな姿を目の当たりにして、どうして「簡単に直る」などと口にできるのだろうか。
本当にそれが疑問でならなかった。
「俺が教えてやる。」一言そう言い放ったのだ。
当然相手は医者ではない。今まで誰かのアレルギーを直したこともない。
しかし本人がいうには、自分は治療法を知っているのに相手が聞こうとしないのが悪いということらしいのだ。
その一言で、議論をする意味も気力も根こそぎ奪われてしまった。
その瞬間は大切な時間とエネルギーを最も無駄なかたちで消費してしまったと悔やんだものだった。
ただ、正直そこまで突き詰めて相手の話を聞いたこともなかったわたしは、そのことがしばらく気にかかった。
どうしてそこまでに正しさへの自負がもてるのかが不思議でならなかったのだ。
それからしばらくして、とある著名はてなユーザーの行動が、その人と似ているということに気がついた。
いくつかの決め台詞だけで次から次へと記事を一刀両断していく痛快な人物だ。
(本当は感謝を伝えたいところだが個人名は避ける。憶測もやめて欲しい)
その日も彼はわたしの書いた増田をばっさりと両断して見せたのだが、よくよく考えてみるとわたしは自分が斬られていないことに気づいた。
しかしそんな彼がとある記事へのコメントで普段は見せないような姿を見せたことで、彼が何を斬り続けていたのかがわかった。
いつもは人を人とも思わないような態度で斬り捨てていくくせに、彼はその日、世界とは優しいものだといってのけたのだ。
それで合点がいった。彼が斬り捨てていたのは自分自身に対する甘さだ。
自分の見たくないもの、関わりたくないものを忌むべきものとして括り斬り捨てることで、自らの迷いを断ち切っていたのだ。
その時わたしには、そこに振り切らんばかりの強さと弱さとの両方が見えた気がした。
そこにある現実を受け入れることのできない弱さを、自分なら解決できると思い込むことで強さに置き換えているだけにすぎないのだ。
素直に弱さを認めていればさらなる強者に叩かれることもないのに、なんと悲しい生き方か。
そこで考えてみると、彼らには共通して彼ら以上に強い人間が周囲にいないことに気づいた。
選んだつもりが選ばれていたかのような、どちらにしても誰もが小さなコミュニティの上に立って孤立していたのだ。
わたしが是非を決めるまでもなく、すでに世の中から是非をつきつけられていたのだ。
わたしが強い人間だということをいいたいわけではないし、わたしは自分が強い人間だとは思っていない。
しかし、わたしより弱い存在がある以上、それらを脅かすものから守ってやりたいだけなのだ。
わたしが無意識に目を背けている現実はどれほどあるのだろうか。
知らず知らずのうちに誰かから何かを奪ってしまうことのないよう、自分の力とは正しく付き合わなくてはいけないのだと改めて思うのだった。
それは「自分にはこの行動で失うものがないと思っているから」だ。
アキバで次々と人を殺したあの事件だって彼が既に自分という存在を捨ててしまい何も失うものがなくなっていたからだ。
だが彼らは「まさか自分が何かを失うなんて思ってもいなかったから」こそそういった振る舞いをしたのだ。
彼らは「無敵の人」だったのだ。
失うものがない者、失うものがないと思っている者は信用できない。
逆を言えば失うものがある者がリスクを侵すとき人は彼らを信用しやすい。
有名人が突然訳の分からない事を言い出しと思ったら周りの人間が「何を言ってるのかは分からないがとにかく凄い自信だ」を根拠としてその意見を信用してしまう事がある。
それは彼らがその意見を発する事で下手をすれば信用やひいては立場を失ってしまうからだ。
失う物があるはずの人間がただただ馬鹿なだけの言動をするはずがないという逆説的な信用があるのだ。
「何かを失うはずがない」と思って行動した「無敵の人」の多くは最後にはその行動の異常性によって孤立して社会によってすぐさま排除される。
そうすることで彼らの危険性は大幅に削ぎ落とされる。
恐ろしいことである。
それによってもたらされる被害は時に社会に大きな爪あとを残す。
教祖様が馬鹿な言動をして今更信頼を失ってみせるものかという盲信が彼らを教祖の命令に従わせるのだ。
我々はこの現象に注意しなければならない。
老後って、爺さんのほうが孤独死率高いし
なんでかってと、ばあさんはたとえ一人暮らしになっても
近所のばあさんとしょーもない茶飲み話したりして、なんだかんだと他人との交流がある
っての考えると、友達作っとけとは言わないけど
せめて誰かとくだらない話をする、くらいの習慣はあったほういいと思うんだよね
マジレスすると、「また開いてください」って言われる時点でハブられてない。
で、幹事はさ、一人でもくもくとこなすと確かに孤立しがちだから
2回目以降は誰かに相談しながらやるといい。
できれば参加者のなかでも人望あって中心ぽい人がいい。
そういう人が味方についてくれるとほんとーにマジで何をするにも楽だし、
人の集まりもよくなるから、人気者は積極的に巻き込んでいく方がいい。
相談する内容はなんでもいい。
次の店どういうとこがいいかな、心当たりある?とか
次はもっと人集めたいんだ、告知一緒にやってくんない?とか。
これは遊びでもそれ以外でもそうだけど、
基本、人って決定事項を受けとるだけだと段々「他人事」になって飽きてっちゃうから、
決定前の段階で色々相談して当事者意識もってもらった方がいい。
ただ、人数多くなると船頭多くしてなんとやらだから、
そういう能力ありそうな人数人でいい。
それはしょうがない。
でもその代わりハブられないしいてもいなくてもいい人にはならない。
むしろ誇りをもってパシれ。お前主催の会合でみんなが仲良くなるくらい快適に過ごせたことを誇れ。
心ある人はちゃんとみててくれる。
母親だけ姓が異なっても関係ないというか、姓が一緒だから家族の絆が強まるなんて夢物語(笑)っていうのが別姓派の言い分だと思うんですよ。
例えば、嫁が一人娘だったとして、結婚の時に嫁両親が「娘を嫁に出すのはいいけど、長男を戸籍上わしら夫婦の婿養子にしろ」と条件を出してきた場合とかって、夫婦+子ども2人の家族4人で住んでいても、長男だけが姓が異なるってケースが起こりうるわけじゃんか。そんな家はたまたま俺は見たこと無いけど、世の中広いから珍しくも無いのかもしれないけど。
こういう例に関しては、誰がどう考えても長男がかわいそうだと思うだろうし、疎外感を感じると思うんだよね。嫁実家で一緒に住んでいたとしても、派閥的に感じるだろうし。
じゃあ逆に母親が違う姓だった場合、子どもからみて母親の距離感が遠く感じるわけがないっていう、夢物語(笑)の根拠を聞いてみたい。