はてなキーワード: 実存主義とは
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観た。
セカイ系ハジケバトルだな、と思った。他の運命を辿った自分たちの皺寄せを食らってるってくだりでは、まどマギでもそんな感じの運命が収束してどうのみたいな話があったのを思い出した。
冒頭の前置きは鬱屈とした生活を見せるのに必要なんだろうけど、ちょっと冗長に感じた。
国税庁でのシークエンスはマトリックスのオフィスのそれみたいな緊張感があって良かった。敵の現れ方もなんかエージェントスミスみたいだし。
ペーパーカットは痛みがリアルに分かりすぎてついつい目を背けてしまった。
ブッ飛んだ事を色々試す辺りはおちゃらけに徹してる感があって面白かった。この辺もマトリックスの"I know kung-fu."を思い出した。意識しているんだろうか。この擦られた陳腐な例えはあんまり使いたくないけど、ボーボボのハジケバトルそのものだった。
別世界の自分を呼び出すのはジョジョのD4Cみたいでもあってちょっとかっこよかった。あり得たかもしれない運命を呼び出す、というアクションのトリガーがヘンな事をする、すなわち日常から一歩踏み出すというものになっているのはなんか良かった。
手がソーセージになった世界線のくだりでの2001年〜のシーンはちょっと笑った。ディルドは長すぎでは。
Part.2以降ではおちゃらけから少し離れてシリアス色が強くなった。暗黒ベーグルがどうのの話辺りはほぼ置いてけぼりだったが、「結局意味なんてないんだから、全部終わりにしちゃえばいい」みたいな台詞から、ニヒリズムや実存主義の話が好きなのでそういう文脈で捉えておいた。
冒頭で出たトロフィー?は何かプラグっぽいなとは思ってたけど、最悪の形で伏線回収がされた。局部のモザイクとかもあったが、結構話がシリアスになっていたので反応に困った。
落とし所としては愛による解決という事で、無碍にしていた旦那の「おふざけ」の目玉シールを貼っ付けて、くだらなさを優しさに転じさせたって感じだろうか。愛だねえって思った。
生命が誕生しなかった世界線の辺りからはほぼ理解していなかったが、娘と腹を割って話し合ってハッピーエンドになりセカイ系だあ……と思った。
こういった自己の在り方みたいな悩みって、やっぱり宗教上の理由があるのかな。
キリスト教みたいな一神教下では、神が定めた物だけが真理であるという考え方だから、
自己というものは神が決めるもので自分自身が悩むものではないというのを聞いたことがある。
その後、ヘーゲル哲学のように物事にはいろんな面があるとか、サルトルの実存主義とか、哲学上で西洋の知識人たちが、
答えは出てないにせよ、現代人がかかえる悩みみたいなものは全部考え尽くされてる感があるから、教育って大事だね。
ちなみに鬱状態というのは脳が物理的に炎症してると言われているから、何かしらケアしないと取り返しがつかなくなるから気をつけて。
絵画なんかは文脈依存も強いから単に教養に欠ける部分もあるんでしょうけど。
定量化できないものの評価が非常に苦手。「適切な評価」をつけるのではなくて、そもそも評価そのものをするのが。
だからと言って、定量化できる部分だけを見て、マックは世界一売れてるから世界一美味しい、とかは思いませんが。
「適切な評価」は、「これが世間的には良しとされるんだろうな」というのが過去の経験から何となく察しがつくのですが、自分自身の思う「良し悪し」は全く浮かんでこない。
しかし、例えば食事なら気分による所が大きい。唐揚げの口の日に望みのものを食べてざっくり90点の満足度だなと思っても、別の日には全く同じものを食べて70点だったりもする。この数字も、他の料理の満足度とざっくり順番に並べ、相対的な整合性から適当に弾き出したきわめてアバウトなものです。
料理としての完成度も、何を以て良しとするかは「人による」としか言いようがない。人間なんて個体差はあれほぼ同じ構造なので、ある程度の普遍的な感覚というものはあるのでしょうけれど。
例えば映画なら、この映画は面白い。面白いが、☆がいくつかと言われると困る。「普通の面白さ」なら3つで、「手放しに全てを褒められる面白さ」なら5つなんでしょうけど、そうはっきりする事なんてそうそうない。そのグラデーションに境界を引くのはあまりにも難しい。
ましてや「良し悪し」となれば、恐らくは個人の「好き嫌い」から離れ、普遍的な視点に立たなければならない。
1点刻みの100点満点で評価するとか絶対に無理です。5段階でも怪しい。悪い、普通、良いの三段階でも、大半が普通に入ってしまいそう。
その辺の人を捕まえてその場で描かせた漫画と週刊連載されてる漫画を比べたら、流石に優劣はつけても良いだろうとは思います。しかし「なぜ優れていのか」を突き詰めていくと、結局「好き嫌い」に収束してしまうのではないかと。この例での「好き嫌い」にはかなり普遍性がある(ほとんどの人が恐らく後者を評価する)でしょうけど、そう極端な比較ばかりではありませんし。
ファッションに興味を持ってから、今まで変なのと思っていた服や靴をかっこいいなと思うようになった事なんかはあります。
しかしそれはネットでよく言われる「情報を食べている」状態なのではないかと自問した時、違うとはっきりは言い切れない気がします。
実家が割と余裕のある方だったので、色々なものに触れる機会は与えられてきました。それが「適切な評価」を下すのに役立ってはいるのかもしれませんが、「私の評価」の基準にはなっていない気がする。
自分自身があまりに「良し悪し」が分からないもので、世の中の人間もそこまで分かってないんじゃないかと勘繰ってしまいます。
やれこの映画は名作だの、この料理は不味いだの、点数をつけてはいるものの、ざっくりの印象を10点単位でつけて、詳細の加点減点部分を表すそれっぽい1点単位の数字を合わせているだけなのではないかと。
他者の顔色を伺わず、プリミティブな感性と積み上げてきた経験だけで瞬時に「あ、この料理は87点だな」なんて浮かぶ人がいるとは信じがたい。いるのかもしれませんけど。
イデアなんて言葉がありますが、物事に本質的な良し悪しなどなく、(例えば服なら耐久性や透湿性、手入れの手間といった明確な評価軸であらわせないような)あらゆる評価は突き詰めると「個人的な好き嫌い」に収束するのではないかと思っています。「社会的な選好」もまた個人のそれの最大公約数的なものに過ぎないとも。あるいは、誰かしらの好き嫌いがその人の立場によって権威づけられたか。
批判、批評においても、対象の細部について検討はされるものの、その細部を何を以て良しとするかは価値判断がついてまわり、つまる所は好き嫌いの問題になるのではないかと思います。
どれだけそれらしい理由を並べて普遍性、正当性を強調しても、根底は個人の好き嫌いでしかない。
しかし遡及的に見出された理屈であれ、それを言葉にして他者の「好き嫌い」を知り、時に理解し歩み寄る事は大事なのかもしれませんね。
(追記)
この世で本質的に存在する絶対不変の軸なるものはないんじゃないかと思ってはいますが、個人の好き嫌いが積み重なって形成されたある程度普遍的な評価軸の存在は否定していませんし、対外的には尊重しますよ。
究極的には全てに意味がなければ物差しもない、ハイ終わり。というニヒリズムではなく、無意味を認めた上でそこから価値を積み上げていく実存主義的なスタンスという事です。冷笑と言われ少々カチンと来たので、念のため。
(追記)
・定量化できないものを数字にしたり相対評価したりするのは難しい
・評価対象について知識を積み重ねて吟味することは、他者のモノの見方、感じ方を知り、時に自分の中に取り入れる事で捉え方が重層的になるかもしれない
一方で、「情報を食べる」と言われるように、良し悪しを考えるという事が他人の評価軸に合わせる、他者の顔色を伺うような事にもなってしまわないか(それが全面的にダメだとは一言も言っていない)
・評価対象にまつわる知識を積み重ねても、結局良し悪しを決める軸は好き嫌いに帰結しないか
・「世の中一般で好かれる≒良いもの」でもない、「私が好きなもの」でもない、「私が良いと判断するもの」なるものは、何を以てして決まるのか
まとめると私が思っているのはおおよそこんな所です。
それに対して、初めから好き嫌いとはまた異なる「良し悪し」なるものが存在する事を前提として、それが分からないのは理解が足りないからだ。という反応が多かったので、あまり噛み合っていないのではないかと思いましたね。
その「良し悪し」が人々の好き嫌いが集まって作られたものを指すのなら、それは好き嫌いと同じとは言えませんが、全くの別物とも言い難い。さらに、では結局良し悪しとは「情報を食べる」事に過ぎないのではないか、という話に繋がる。
しかし、全ては好き嫌いに過ぎないという態度では美という概念をいささか否定するようで、矛盾するようですがそれもまたどうなのかなとも思ったりします。
EXID(イーエックスアイディー、朝: 이엑스아이디)は、韓国のガールズグループである。2012年デビュー。グループ名は「EXCEED IN DREAMING (夢を越える)」から来ている。 前事務所との契約満了に伴い2019年以来休止状態となっていたが、2022年に10周年記念シングル"X"をリリースしグループ活動の継続を示した。日本での活動は2022年のファイナルツアーをもって終了したとしている。
エキシディ(Exidy)は、1974年から少なくとも1986年(Chillerがリリースされた年)のビデオゲームの初期に存在した、 アーケードゲーム最大手の企業のひとつである。
Exchangeable image file format(エクスチェンジャブル・イメージ・ファイル・フォーマット)は、富士フイルムが開発し、当時の日本電子工業振興協会 (JEIDA)で規格化された、写真用のメタデータを含む画像ファイルフォーマット。デジタルカメラの画像の保存に使われる。略称はExifで「エグジフ」(もしくは「イグジフ」)。
エクシーガ(EXIGA)は、SUBARU(旧・富士重工業)が製造・販売していた7人乗り乗用車である。生産はレガシィやインプレッサ同様、同社矢島工場(所在地:群馬県太田市庄屋町)。
Eximindsは、モスクワ出身のアレキサンダー・ジュコフ(Alexander Zhukov)と、ドミトリー・モンジコフ(Dmitry Momzikov)による音楽ユニット。世界のレコードレーベルで曲を使用される、トランス・ミュージック界の売れっ子プロデューサーである。
message@ware exire(メッセージ@ウェア・エクシーレ)は、NEC製のNTTドコモのDoPa無線機一体型携帯情報端末(PDA)である。
実存主義(じつぞんしゅぎ、英: existentialism、仏: existentialisme)とは、人民の実存を哲学の中心におく思想的立場、或いは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想である。存在主義とも。
exist†trace(イグジスト・トレイス)は、日本のバンド。
アホな信者が祭壇に向かって居る訳も無い神様を崇めてるどうしようもないカモ集団とかマジで思っているのですかね。(まあ悪質なカルトだとあながちそうではないとも言い切れない気もするが)
ネットの人が絶大の信頼を置く法律とか科学とかの客観的っぽい概念だって所詮人が勝手に考えたもので(本質的に存在したものを「見出した」という考えもあるかもしれないが、面倒なので置いておく)、なぜこれが良い?なぜこれは悪い?その理由は?なぜなぜを繰り返したらどこかで必ず価値判断の問題にぶち当たるし、そもそも自然科学に至っては価値判断の問題についてはノータッチだろう。
人はなぜ生きるのか。そんなものはない。ハサミは紙を切るために、電卓は計算をするために存在するが、人は別に目的を持って存在する訳ではない。生き物はその辺の石コロと変わらずただただ不条理に存在する。何の意味も価値もない。しかしそれだとあまりに生きるのが空虚になる。不安で仕方ない。
そこで神様は人が何故生きているか教えてくれる。何故なら神様は全知全能だから。全知全能について論理的に何かしらの矛盾がありそうであったとして、それは人間側が理解できないだけで、人間の概念を超えた所で全知全能は成立し得る(かもしれない)。
絶対的な価値を得ようとしたらどこかで必ず思考停止しないといけないし、絶対的な足場があって初めてその上に色々なものを積み上げていける。
その思考停止は信仰と言い換えても良いと思う。人権思想を信仰するのか、宗教を信仰するのか、自由意志を信仰するのか、実存主義を信仰するのか。
社会、文化によってどれが主流として選び取られるかは違うけども、大切なのは信仰で、その中身が何であろうが実のところ大して変わらない気もしますけどね。
余談ですけど人生なんて遺伝とか環境とか生まれで全部決まっちゃってさァ!みたいな決定論じみた事言うけど神への信仰とかは特にない、ただただ自分を無意味な運命の操り人形だと思ってる人ってマジで何をモチベーションに生きてるんですかね。
自己催眠で明晰夢の中に入って夢の中で変態行為に及んだり、そういうテーマのゲームやって満足すれば良いんじゃねえのか?
幸い日本は表現の自由が滅茶苦茶保証されているから同性愛ペドフェリアによる肉体改造リョナみたいなのでもいくらでも見つかるじゃんけ。
リスクや精神的コストに対してリターンが微塵も釣り合ってないだろ。
実存主義拗らせてるから理想をコネコネして生み出した空想の世界じゃなくて、現実に存在する理想的な本物の人間相手じゃないとリビドーしたくない的な奴なんだろうか?
そこにこだわって人生失敗するぐらいなら考え方を宗旨変えして、それぞれの魂の中に存在する理想的性癖の影を共有するための空想の中でチンチンやマンマンをシュッシュッして過ごしたほうが幸せなんじゃないのか?
『私は私だけの世界を生きており、そこに他者は存在しない』(世界と生はひとつである、私は私の世界である、主体が存在しなければまた世界も存在しない)が
受け入れられないってなぜなの・・・?
時間は存在しない(複数の出来事同士の相互作用、世界は物ではなく、実際には出来事の集まりであり、複数の出来事の関係性を、時間のように感じている)事からも
例えばウィトゲンシュタインの下記↓とか『?!』ってならない・・・よね・・?
▼ 追記:
実存主義は次世代育成には神が必要だってのを分かってねぇから無理
例えば1+1=2は数学的に証明可能だが、その証明を理解するのはクソ時間がかかるし難しすぎる
いまこそ実存主義を再起用するべきだと思うんだよな.(哲学に詳しくないため間違いがあったら遠慮なく指摘してもらえると助かります.)
時代遅れな考え方かもしれないし,そもそも哲学は実際の社会に影響を与えないと言われている感じもある.
だけども閉塞感や虚無感に耐え切れず社会自身が「昔はよかった」と回帰するような社会は決して防がなくてはならないだろうから,その際には特効薬の候補になると感じる.
確かに「サルトルは乗り越えられた」なんて言われて,構造主義へと重心が移り,実存主義はそれこそ歴史の中に閉ざされてしまったわけだ.
構造主義がより正しく思えるのは,フィールドワークを基にした裏付けが取れていること,思想の根底にある偏りを見透かすことができたことだと思う.
この点については,自身が西洋とは異なる文化背景にある日本で過ごしてきたからこそ納得感がある気がする.
しかし時代背景が大きな要因の一つになったと思えて仕方がない.
サルトルがもてはやされ始めたのは戦後の混乱期(平穏が訪れるまでの過渡期)だった.
少年期に戦争を経験して,これまでの規範とは異なった生活,のらりくらりと暮らしていた若者が『実存主義者』だとオトナ達に揶揄された時代である.
そんな中でサルトルは「実存主義はヒューマニズムである」という講演をきっかけとして有名になった.(もっともそれ以前のサルトルは実存主義を自称したがらなかったようだが)
他方,レヴィ=ストロースが「野生の思考」を携えて登場したのは1960年代である.
このときにはWW2から既に十数年経過し,ドイツが明確に西ドイツと東ドイツに分断され,朝鮮半島も同じく南北に分割されていた.
このときにはもう冷戦構造が成立しており,生きる目的や規範と言われるようなものが国家もしくは共同体によって掲示されているようなものであった.
それはざっくりと表現すれば,西側諸国では「東側らしくない振舞いをせよ」,東側諸国では「西側らしくない振舞いをせよ」といった具合に.
そんなような状況下になっていったわけだから,構造主義がより理解されやすく,より勢力をましていったのだと私自身は思う.
別に実存主義に分類される哲学者や思想家はサルトルだけではなく,他の著名な人物にはニーチェやヤスパース,ハイデガーなどがいる.
キルケゴールも忘れてはいけないだろう.場合によってはパスカルも実存主義に分類するそうだ.
この実存主義と呼ばれる思想に一貫しているのは過渡期をきっかけとした点にあると言える.
例えば,目の前の状況に対して挫折するだとか,死へと進み続けることを自覚するだとか,大戦によってこれまでの規範が形骸に近くなってしまっていたりだとか.
そういった既存の規範(あるいは構造,世界観)に綻びが生じた状況において,次の新たな規範が構築されるまでの過渡の段階で実存主義的な発想が生じてくると考えられる.
あいにく今現在の私たちの状況を鑑みるに,私たちの考え方の根底は再び綻びを見せてきている.
新型コロナウイルスもその一つだろうし,資本主義を盾にした新自由主義の挙動もその一つだろう.
この繁栄を盲信することのできない過渡期に生まれたことを悔いても仕方がない.
人間は自分自身で時代を選ぶことはできないわけで,その中でうまくやっていくしかないわけである.
原点あたってないけど、基本的に翻訳年を観るとちょうどUFOや超能力が取り沙汰された、70年台の頃の作品だなと。これはあくまで国内事情で、向こうではアダムスキーなど、数年早くブームがきていた。この頃の空気感が自分の子供の頃にはまだ全然残っていて、TVでは超能力特集とか毎度のように放送していたと記憶している。
番組ではクラーク氏の科学観を云々と述べていたいのだが、どこまでいっても時代の制約を人は脱しきれないのだ、という印象が強くなるばかりだった。時代の空気を読んで何かを作らざるを得ない以上仕方ないことなのかもしれない。
科学のカウンターとして宗教的なものを尊ぶという極端なヒッピー文化的な発想、近年の疲れ切った西海岸のIT実業家がカウンターカルチャーとして嵌まるメディテーションとそう変わらない印象を受ける。西洋人はその不自然なまでの実存主義に厭世感を覚えて常に別世界に逃げ込もうとする。
厭世的と極端なユートピア思想の背景は言うまでもなくベトナム戦争にるものなのだろう。両極端な分離した心理で常に葛藤して、それに対して内外圧と極端な癒やしを求める。もはやアメリカ全体がうつ状態なのではと思う。躁鬱の差が激しい国だと感じる。そういえばうつ病になりやすい性格は白黒はっきりつけようとする性格だとか。
社会学の功績の話するときは「統計学」の話してるけど、実際の社会学ってもっと適当だよね
社会学って統計を超えた主張とか思想とか、ざっくばらんなデータの分析とか、データを恣意的に解釈したりとか
そういう結論ありき、あるいは安易に結論を出したがるタイプのものが非常に多いじゃん
社会学がすべて、社会の問題に対する統計学的アプローチと分析のみってことなら学問として認めてやってもよいが
勝手に因果関係を作り上げたり、何かを糾弾したり、勝手な解決方法をおしつけたりするのはおかしいんじゃないか
また、反証可能性で化学や物理の話してるけど、物理の仮説は将来的には反証可能になるものとしているし
仮説は仮説として共有されていているじゃん
地球温暖化も、客観的に言えるのは「地球があったかくなっている」「温室効果ガスが排出されている」ことであって
この二つの因果関係を明確にしめすことはできない。たまたま氷河期が終わりつつあるという仮説もある。
「温室効果ガスによって地球が暖かくなっている」という仮説を組み立てた人たちが「とりあえずやってみよう」としているだけで
科学が断定しているわけではない
フェミなんかは、とくにそう。
フェミはその現象の原因を男性の性欲などに求めたり(根拠がない)、男性の悪意によるものだという考え方をする。
「女性が社会進出できていない」というのは一見客観的に見えるけど
家事も社会活動であるという考え方もできるし、看護士や介護士、パートなども社会活動だと言えるだろうから
本来言えるのは「女性は男がやるようなことをさせてもらえない」=「男女の役割には偏りがある」くらいだろう。
「男女の偏り」の中に安住できない人にとっては悪だと思うが、この偏りに問題を感じていない人もいるのだから
すべての女性にとって悪だとは言えないだろう。
(だから、悪だと認識させて味方をつけるためにフェミは学生を洗脳していくのだと思うけどね)
おそらくはボーヴォワールの実存主義的な思想にからんでるのであって、思想であり、主義であって、科学ではない。
で、他の社会学にも、そういう「主義」「思想」によってバイアスのかかった言論をする人がたくさんいる。
そうそう。そういうこと。君はそう思わないんだね、了解した。で、それは間違っていると思うよ、と最初から申し上げているつもり。
強化学習で言えば、環境から返ってきたフィードバックを報酬として自己のモデルを修正する、ということを繰り返せば、解はある範囲に収束する。
環境は複雑だけど、この程度なら人間の認知力で十分対応できる問題。
じゃあなぜ解釈が乖離するのか。それは現代の若者が学習を怠っているから、という認識。
以上、分かり合えないとは思うけど、しつこくガミガミいってごめんね。