はてなキーワード: 全面的とは
https://anond.hatelabo.jp/20200323025005
――ところで、わたしは昔から、最後のスタンザは少し弱いのではないかと思っていたのですが……。
( ・3・) 弱い? 「リング」と「スプリング」とで韻を踏むのはありきたりだとか?
――弱いというよりは、ピンとこないといったほうが正確かもしれません。「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」――これはどういうことなんでしょう。
( ・3・) 彼女のほうが歳上だったんじゃないか? 50歳くらい。
――それはたしかに too late な気がしますが、もし年齢が離れていることが問題なら、彼女が三月生まれであれ、七月生まれであれ、一年のうちで生まれた時期に言及する意味はないはずなんです。
( ・3・) 春に生まれようが夏に生まれようが誤差みたいなものだからな。
( ・3・) ははは、まさか。
――ここに一枚の写真があります。1975年に撮られたものです。
https://twitter.com/kedardo/status/1242030916232339458
( ・3・) ボブ・ディラン、本を読む。
――何という本ですか?
( ・3・) 『クリスタル・マジック』と書いてある。マジックのつづりが変だけど。
――目次には次のような言葉が並んでいます。「ケンタウルスが獅子を狩る」「シャンカラの理論は現実をどう捉えるか」「ハクスリーの知覚の扉」「アジュナチャクラあるいは第三の目」「カバラの諸相」
( ・3・) 神秘主義のロイヤル・ストレート・フラッシュという感じだな。
――星座が何であれば、支配星は何、エレメントは何、という表も載っています。
( ・3・) 本を読め、ただしまともな本を、と釘を刺したばかりだというのに。
――まともな本も読んでいますよ。このころディランはチェーホフやコンラッドに傾倒していたはずです。 [3] [4]
( ・3・) じゃあ『クリスタル・マジック』はたまたま手にとっただけで、内容を真に受けたとまではいえないんじゃないか?
――1974年、コンサート・ツアーを再開した理由を、ディランは次のように語っています。「わたしの惑星系 (my planetary system) において土星が障害となっていた。その状態がしばらく続いていたが、いま土星は別の場所へ移動した」 [5]
――1976年のアルバム『ディザイア』のバック・カヴァーには、タロットが描かれています。
( ・3・) タロット! イタロ・カルヴィーノの『宿命の交わる城』は何年だっけ。ちょっと待って――第一部・第二部の合本が出たのが1973年。英訳は1977年だ。
――1978年のインタヴューでは、占星術を信じているのかと単刀直入に訊かれています。
PLAYBOY: OK, back to less worldly concerns. You don't believe in astrology, do you?
DYLAN: I don't think so.
PLAYBOY: You were quoted recently as having said something about having a Gemini nature.
DYLAN: Well, maybe there are certain characteristics of people who are born under certain signs. But I don't know, I'm not sure how relevant it is.
PLAYBOY: Could it be there's an undiscovered twin or a double to Bob Dylan?
DYLAN: Someplace on the planet, there's a double of me walking around. Could very possibly be. [6]
( ・3・) 信じているかといえば、信じてはいない。星座と人間の気質とのあいだには何か関係があるかもしれないが、どの程度なのかは分からない。――うーん、言質を取られるのを避けているみたいだ。
――もともと質問に率直に答える人ではないのですが。
( ・3・) 思い出した。昔、日本の有名な批評家がイェール大学に文学を教えに行ったんだが、向こうでは占星術が流行っていて、同僚の学者の生年月日がどうのこうのと書いていたっけ。あれも70年代半ばじゃなかったかな。
――期せずして、アメリカにおける神秘主義の流行、というテーマに足を踏み入れてしまいました。
( ・3・) ……引き返そうか。
――「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」の意味をめぐって脇道にそれてしまいましたが、実は、意外なかたちで問題が消滅します。
――いえ、問題自体が消えてなくなってしまうんです。アルバム発表から一年も経たないうちに、歌詞が書き直されて、最後のスタンザは大きく変わります。1975年のライヴ録音を聴いてみましょう。
To know too much for too long a time
She should have caught me in my prime
Instead of going off to sea
And leaving me to meditate
( ・3・) ジェミニを連想させる "she was my twin" も含めて、占星術につながりそうな表現はなくなったな。詩の問題の解決を、人は問題の消滅によってうやむやにする。
――「彼女はわたしの双子だった」も、考えてみれば謎めいた表現です。「本当の恋人だった」と「双子だった」とが置き換え可能かといえば、そうではないと思います。
( ・3・) 歌詞だけじゃなくて、コード進行も旋律も変わっているぞ。
――そうなんです。これまでわれわれが検討してきたことの少なからぬ部分が、このヴァージョンには当てはまらなくなっている。ディランにしてみれば、もう「わたしはそこにはいない」んです。
( ・3・) うなぎみたいなやつだな。
――歌詞の変更は1975年以降も続きます。「彼」と「彼女」とが入れ替わったり――
( ・3・) 体が?
――立場がです。第一スタンザで「孤独を感じ」「まっすぐに歩いていればよかった」と願い、第二スタンザで「夜の熱気に打たれるのを感じ」るのは、「彼」ではなく「彼女」になります。80年代にはさらに全面的な変更があり、90年代には――
( ・3・) もはや原形を留めなくなった?
――いえ、それが――。
( ・3・) それが?
――おおむね元のかたちに戻りました。
( ・3・) ……。
――……。
( ・3・) 「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」も?
( ・3・) 抑圧された占星術の回帰……。なくなったはずの問題の再燃……。まるで人生のようだ。
――これで「運命のひとひねり」は概観できました。全体について何かありますか?
( ・3・) 英語は易しめだったな。
( ・3・) 「彼」と「彼女」との間に何があったのか、曲のなかでは詳しく語られないけど、これは、その、いわゆる一夜の関係というやつなの? [7]
――なぜそう思ったんですか?
――ただ、それだと、彼女がいなくなったときの彼の傷心ぶりや、「指輪をなくしてしまった」のくだりはうまく説明できません。
( ・3・) そうなんだよな。じゃあ、ある程度つきあった恋人たちの最後の夜だったんだろうか。
――第一スタンザに、「体の芯に火花が走るのを感じた」とありますが、これは恋に落ちるときの表現だと思います。まあ、よく知っている相手に対して改めて火花を感じる、という可能性もゼロではありませんが。
( ・3・) すでにつきあっている恋人同士なら、見知らぬホテルの前でまごまごするのも不自然だしな。うーん、こんがらがってきた。一方では、彼と彼女とは一夜の関係に見える。ある日の夕暮れに物語が始まって、翌朝には彼女は姿を消している。その一方、物語の後半では、彼は生涯の伴侶を失った男のように見える。
――常識と観測結果とが矛盾するときは、常識を捨てなければなりません。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、と考えて矛盾が生じるのであれば、そう考えるのをやめればいいんです。
( ・3・) いや、でも、ある日の夕暮れから翌朝までじゃないの? ネオンの輝く見知らぬホテルに長期滞在して、数年後の朝に彼女はいなくなりました、なんていくらなんでも無理があるだろう。
――キュビズムの絵画では、ある対象を複数の視点から捉え、平面のキャンバスに再構成して描きます。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、という枠組みのなかに、出会いから別れまでの一切が凝縮されたかたちで描かれているとしたら?
( ・3・) 時間の流れが一律ではなかったということか?
――いいですか、時計の秒針が聞こえてくるのは、彼女がいなくなった後です。それから彼にとっての永遠の現在が始まり、彼女がいた過去は、彼の記憶のなかで遠近法的な奥行きを失うんです。
( ・3・) 時計を一種の仕掛けと見立てて、内在的に解釈するわけか。理屈は通っているかもしれないが、常識を捨てさせるには、まだ十分ではないと思うぞ。
――では、時間の流れが一律であるとは限らないという外在的な傍証を。1978年のインタヴューです。
Everybody agrees that that [Blood on the Tracks] was pretty different, and what's different about it is that there's a code in the lyrics and also there's no sense of time. There's no respect for it: you've got yesterday, today and tomorrow all in the same room, and there's very little that you can't imagine not happening. [8]
( ・3・) おい、詩に暗号が隠されていると言っているぞ。
――その点は保留にしてください。
( ・3・) 時間の意識は失われている。過去、現在、未来が同じ部屋に混在して、想像しえない出来事などほとんどない。
( ・3・) 「運命のひとひねり」の解題ではないんだな?
( ・3・) そうだな、まだ腑に落ちるとまではいかないが、時間の扱いは気に留めておいたほうがよさそうだ。
――はい。実は、キュビズムの絵画や、時間の意識をもちだしたのは、次に聴く曲「タングルド・アップ・イン・ブルー」でも同じ問題がでてくるからなんです。邦題は「ブルーにこんがらがって」。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、まず10位以内には入る。人によっては1位かもしれない。というわけで、ウォーム・アップは終了です。次は少し難しくなりますよ。
そのようにして彼らは「タングルド・アップ・イン・ブルー」を聴き、「シェルター・フロム・ザ・ストーム」を聴いた。窓のかたちをした陽だまりが床を移動し、寝ていたストラヴィンスキーの首から下が影に入ってしまった。もう次の曲に進む時間は残っていなかった。デレク・ベイリーのCDを持って帰らなければ、と彼は思った。マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスならいつでも買い直せる。しかしベイリーは品切れのまま再発されないことだってありうるのだ。
「もう帰るのか?」と上司は言った。
「はい。それで、デレク・ベ」
「おまえの家は一戸建てだったな、たしか。陽当たりと風通しは良好か?」
「陽当たり? まあ、それなりには。それで、デ」
「窓からの眺めは?」
「眺め? まあ、壁しか見えないということはありませんが。そ」
「じゃあ、決まりだな」と上司は言い、リムスキー=コルサコフの両脇を後ろから抱えると、目の高さまで持ち上げた。
「新しいパパだよ」
かくして予言は成就し、わたしは持っていったもの以上を持ち帰ることになる。小さなモフモフと、モフモフの当面の生活に必要なモフモフ用品とを。
まずはこの子に、猫としてまっとうな名前をつけよう。このままだと、もし何かの拍子に迷子にでもなったら、「リムスキー=コルサコフ! リムスキー=コルサコフ!」と大声で呼びながら近所を捜し回らなくてはならない。獣医にかかるときだって、きっと問診票に名前を書く欄があるだろう。常軌を逸した飼い主だと警戒され、信頼関係を築くのに支障をきたすかもしれない。
しかし、猫に名前をつけるのは難しい――T・S・エリオットの Old Possum's Book of Practical Cats にもそう書いてある。クラシックの作曲家では大仰すぎる。ジャズ・ミュージシャンではどうだろう。わたしはCDとレコードの棚の前に立ち、名前の候補をピック・アウトしていく。チェット。論外である。マタタビに耽溺してばかりの猫になってしまいそうだ。ドルフィー。才能も人格も申し分ないが、早世の不安がつきまとう。ベイリー。デレク・ベイリーのCDを取り戻すまで、わたしはあとどれだけの道を歩まなくてはならないのだろう。
わたしは気づく。予言は成就していない。少なくとも完全には成就していない。人知を超えた力によって予言はねじ曲げられ、わたしは持っていったもの以上ではなく、持っていったもの以外を持ち帰ったのだ。新しい家の探検を終え、お腹を上にして眠る小さなモフモフよ、おまえのしっぽが曲がっているのも、運命のひとひねりのせいなのか?
[1] 実際にはEより少し高く聴こえる(テープの再生速度を上げているため)。
[2] これ以降、歌詞の引用は2小節ごとに改行を加えている。
[3] Bob Dylan. Chronicles: Volume One. Simon and Schuster, 2004. p. 122.
[4] Sam Shepard. Rolling Thunder Logbook. Da Capo Press, 2004. p. 78.
[5] https://maureenorth.com/1974/01/dylan-rolling-again-newsweek-cover-story/
[6] Interview with Ron Rosenbaum. Playboy, March 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 236.
[7] 草稿では、第三スタンザは以下のように書かれたあと、大きなバツ印がつけられている。"She raised her weary head / And couldn't help but hate / Cashing in on a Simple Twist of Fate." 初めは娼婦として描かれていた点を重視することもできるし、その構想が放棄された点を重視することもできる。
[8] Interview with Jonathan Cott. Rolling Stone, November 16, 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 260.
ヤキトリを事前に串から外すことの是非が論じられることがある。
串から外すのがマナー違反だという人もいる。
かぶりつくのがはしたないのでマナー違反だという人もいる。
さて、前提としてヤキトリは屋台料理だ。
だから食器が無い状況でかぶりついて食べられるようになっている。
もちろん調理方法の一種でもあるが。
これを根拠として事前に串から外すのはマナー違反かというとそうとも言えないと思うのだ。
だって食器がないという前提が崩されている場合だからこそ串から外すのだから。
前提が違えば行動も違うのは当たり前。
誰がマナー違反なのかというなら食器がある場所でも屋台料理を出すヤキトリ屋だろ。
この件は全面的にヤキトリ屋が悪。
コロナ特別融資と雇用給付をやろうとしている。これは全面的に正しい。コロナで景気が落ちるのが見えている以上、金融政策(特別融資)と財政出動(雇用給付)をやらないと景気が落ちる。
不正が起きるリスクと、経済が墜落するリスクを天秤にかけてどっちが大事かということだろう。明らかに後者だと思う。
無論減らせる不正は減らしたほうがいいのは確かだけど、経済の墜落が見えているのに不正が起きるから経済対策をしないというのは間違いだ。
そして、バブル崩壊や疫病の蔓延で倒産が増えれば、貸金の焦げ付きや借金返済の要請が起きる、企業は保身化する。
企業が保身化すると貯蓄を増やして設備・研究投資不足になる。資金過不足統計で、資金余剰側になる。金の借り手がいなくなり、低金利でも金の借り手がいなくなる。バランスシート不況となる。
ビルトイン・スタビライザーで政府が資金不足側になりやすいのだが、新自由主義のもとだと財政均衡を叫ばれ政府の支出を減らし一層景気を落とすというスパイラルになる。
まずはできる政策で景気の低落防止と倒産、失業の防止をするべきだろう。今の傷が深ければあとの企業の保身化によるバランスシート不況が深くなる。
ただ、出口として、コロナの問題が収まったら、きちんと金を溜め込みやすいやつの金を回してやる税制にしていかないとならない。
企業が自ら資金調達して設備・研究投資をし、資金不足側になれば、政府が財政出動しなくても自ずと景気は回る。その状態に導かないとならない。
大学には調査権も調査力もない。セクハラ加害の教員が退職したのなら自浄力は最低限あるかもしれないが、加害当事者のみならず、その間対応した関係者の「対応が悪かった」ことを追及するのは正直難しいだろう。「言ってない」と白を切られたら、一体どうやって「言った」ことを立証するのか。
たとえば、一定の地位・立場があり、虚偽の発言をすればその立場を失う危険性のある人間が、複数で直接見聞きしたことについて証言を行うなら、あるいは裁判でもってその真偽を争うことは可能かもしれないが、学生はそれに相当しない。たとえば、助教や准教授が虚偽の証言をし、あとでそれが発覚した場合、大学は彼らを首にすることができる。しかし、学生に対して「嘘を吐いた」レベルのことで退学を言い渡すことは難しい。社会人と学生の立場は、かように異なるのである。
つまり、件の教授の発言が実際にあったのだとすれば、それはそういう「責任ある大人」がいないから、平気でやらかしたのだと推測できる。その点は、学生側にも落ち度があった。つまり、大学に相談に行く際に、まず弁護士なりに依頼し、同席してもらった上で相談するなどの手続きをするべきだった。落ち度というと大げさだが、もし、徹底的に詰めるつもりがあるなら、少なくとも一度目の対応を受けた二度目の段階では「大人」を介在させるべきだった。
また、そのような発言や行為が(もしあったのだとすれば)セクシャルハラスメントに相当しないとは言わないが、(仮にあったとしてもそれは)あくまで二次、三次の被害であり、同大の教授陣にセクシャルハラスメントを容認する雰囲気があるとしても、この件をもって、その根を絶ち体質を全面的にただすことができるだろうか、というと、それは難しい。証明のしようのない件をもって、教訓にしたり、実効性のある対策を行わせたりするのは難しいからだ。結局、これは、うやむやにされるしかない話なのだ。
だからと言って、もちろん、このように声を上げること自体に意味が無いとは言わない。大学も、それが苦しい説明であることは承知しているだろうし、その状況に追い込んでいることには、今後への牽制という点で十分な意味がある。しかし結果としてたとえば当該の教員の謝罪等が無かったとしても、どこかで運動自体は落としどころをつけるべきだと思う。そういう「明らかな正義の実現」をゴールにしてしまうと、残念ながら勝ち目のない戦いになる。それより、何が起きて、何を目指して、どう運動し、何を実現したか、反省点はどこか、をしっかり記録に残して共有することが、社会的には価値あるゴールではないかと思う。
『センスメイキング理論』ガーとかいうのもあるけどアレも結論は
センスメイキング理論に関係する諸研究は、組織の構成員をどう納得させるか、説得するかを探究する。それは、それぞれが客観的に状況を理解し、合理的に判断してもらうことを必ずしも期待するものではない。重要なのは、組織の構成員が行動することである。目標に資する行動がとられるのであれば、論理的、合理的な理解は必ずしも必要ではない。
なんだよね、とりあえず動いて貰うところまでしか期待していない
マッキンゼーの『非合理な職場 ―あなたのロジカルシンキングはなぜ役に立たないのか』ってのもあってこちらは未読だけれど
『本物のリーダーは引っ張らない チームをつくる4つの感情スイッチ』(こちらも未読)みたいな結論じゃないかなって思う
イケてるアニキ/アネゴになって『うん、そうだね』の共感をしようが説かれているのだと思う
『なぜ人と組織は変われないのか――ハーバード流 自己変革の理論と実践』はなんか面白そうではある
どんなエリート集団にもアガリ型(ポジションを手に入れたら成長と変化を放棄する)の人たちはいるが
ポジションを得るまでは主体的に動いてきたというのは大きな違いではないか?って気がするよ
そういう人らにも適用できるかどうか
派遣の人の話では、コンビニ専門派遣は皆、通常のコンビニ業務の経験があって研修も受けてきたプロだ…………プロなんだけど、コンビニって同系列の店舗でも、店によって仕事内容や作業手順が細々と違うため、初めて勤めるお店でいざ働こうとしても、そこで常勤している人達には、全然全然、及ばないらしい。なので、派遣はどの店に行っても、レジ打ちとレジ周りの仕事しか基本的に任されない。だから永遠にルーキー状態なのだそうだ。
実際、一緒に組んでみると、知識面ではただバイトしてるだけでは知り得ないことをよく知っているし、トラブル解決にかけては本当にプロで頼もしいんだなぁ、と思う。しかしやっぱり雑用を頼むとかなり時間がかかってしまうので、派遣の人にはレジにずっと居てもらった方が、組むこちらとしては楽は楽だ。
けれども、派遣の人としては、どの店に派遣されてもお客さん扱いされて、相棒があくせくホールやバックヤードで働いているのに自分はレジのとこにずっと立っているだけ……というのは心苦しいのだそうで、雑用でも少しは割り振って欲しいと、内心ずっと思っていたのだそう。でも指示待ちしてる方が無難で揉めないので、普段は自分から仕事を下さいとは言わないということだった。
私は根が不精に出来ているので、立ってる者はつい使ってしまう。そんな訳で派遣の人にもホイホイ仕事を任せてしまっている。そんなの、当店では私だけだ。他のバイトの人達は皆、派遣の人にはレジ打ち以外何もやらせない。皆ベテランなので、慣れない派遣の人にやらせるよりも自分でやる方が速いと思っているし、実際速いので、一人で全部やってしまうのだ。
昨日は、派遣の人に雑用までして貰えたお陰でかなり助かった。オーナーからは、レジを全面的に派遣の人に任せて、検品や品出しその他雑用は全部私がやるように言われてたのだけど、一人じゃどう考えても終わらない量の仕事があったので、どうしても派遣の人にも割り振るしかなかった。私以外のバイトだったら皆一人で抱え込んで、残った仕事は次の日の昼勤をあてにするんだろうけど。
ちょっと問題だったのは、私も派遣の人も仕事を相棒と分担してやるということにあまり慣れていないということで、互いに自分の仕事に夢中になってしまって、お客さんがレジに並んでるのに気付かない、という場面が何度かあったこと。自分と相手の仕事のうち、優先度が高いのはどっちか?手が放しやすいのはどっちか?判断するのが難しかった。けれども、しばらくしたら慣れた。
お互いに自分が自分がっていうタイプだったら、険悪になってしまっただろう。しかし、何も言わないだけで「この人と組むとやりづらい……」と思われている可能性もなくはないよなぁ、なんて想像した。普段は、仕事が終わったらすぐに仕事のことは忘れてしまうようにしているけど、こうも何も悪い事が起きた訳でもないのに反省に時間使うなんて、精神的に自主残業してるみたいだな。効率のいいこととは言えないのかもしれない。
この店の先輩として、派遣の人に上から圧力かけ気味に命令してしまった方が、効率がいいのかもしれない。お互い気が楽かもしれない。でも、派遣の人はずっとレジ打ちさせられるよりもやりがいがあると言って、嬉しそうに雑用を請け負ってくれる。物珍しいから喜ぶのであって、すぐ慣れて面倒臭いと感じるだろうか?よくわからない。
私の方としても、派遣の人との仕事のバランスに気を遣って働くのは、戦略ゲームでもしているようで面白いと思ったけど、これが日常になってしまったら疲れるだけかもしれない。
楽しい、けれどこれって、たった時給900円でする仕事?という疑問が湧く。楽しいのは今だけかもしれない、時間外頭脳労働を発生させてしまって、良かったのだろうか?
派遣の人の為にもなったのだろうか?本人は楽しんでたみたいだけど、他では指示待ちでただ使われるだけの立場だというし、私とたまたま組んだことで、他の人と組んで指示待ちする事が苦痛になったりはしないのだろうか?
主張には全面的に同意する。私の日々の考えとも同感でもある。細かい例(異種族レビュアーズどうとか)はよくわからないのにもかかわらず。
私は女で、昨日はこんなエントリを書いたりもした身だけれども…。(読まなくていいけど)https://anond.hatelabo.jp/20200204131907
私はひごろから、人間関係での問題はほとんどが程度問題を含むと考えている。増田のいうグラデーションは私のいう「程度問題」とほぼ同義であると感じたのが最初の感想だ。
グラデーションの問題以外にも、同じ言動でもTPOや対人関係で適切・不適切が変わる部分抜きで話はできないと思う。
書店で、オタク向け美少女微エロの単行本の表紙として見たなら違和感は持たなかったと思う。これよりきわどい本をごく幼いころから見慣れている。
だから、不快感の一部には献血のポスターまでこの路線なんだ、というTPOでの不適切さが含まれている。
でも増田がいうように(増田の使い方これであってるよね?)、極端なエロというわけではない。
ただ「オタク対フェミ」の構造で切り取っているけれども、この話、結局根っこは「男対女」になるのではないか?
オタクとはほぼ
>二次元美少女コンテンツの熱心な消費者のことを指す場合が多い
なのではないか?
「女を自分の性的欲求解消のためのコンテンツとしてみなす男性」
は珍しくない。
性差という点で、男性は性的衝動が強く、攻撃性が高く、社会性が乏しいつまり他人がどう考えるかそれによりそう共感性を発揮したり、
特に「自分の考えは正しく、相手の考えは誤りである」とみなすことが多く、他人の自分とは違う感情を即座に否定し拒絶する率が高い。
こういう他人の内面への把握の不得意から男性は女性を「性的な物体」とみなす、女性はほぼ持たない性質を持っている。
男尊女卑の傾向が強いほどこの「女=性的オブジェクト」とみなすようになるというが…。
とにかくこういう性質のため、
「自分が女を性的消費する快感が100%正しいと信じて疑っておらず、そこに疑義を挟む意見(主に女から)に腹を立て、
男性特有の高い攻撃性のまま自分の快楽の邪魔をする者として攻撃する」
宇崎ちゃんのポスター論争において、ポスターを擁護した男性のすべてがオタクではなかったはずだ。
グリッドガールの廃止に異議を唱えた男性の中には普段はF1レースを見ないような男性も多くいたはずだし、
そのほかの同様の事例でも同じであろう。
増田にはこういう念押しは不要だと思うが、私はオタク対フェミの構図で切り取ることに異議があるわけではない。
むしろ逆だ。
より狭く明確な構図で切り取ることに成功すれば、その背後にある広く抽象的な問題をもっとシャープに見せてくれる。
そうなると、このエントリを読んでの私の疑問は、
オタクは「自分がなじんでいて受け入れている美少女性的消費コンテンツは、公共の場ではふさわしくないことを受容するか」である。
私がツイッターで見ている限りでは、オタクの中にはオタクは迫害されてきた、オタク的表現はわけもなく理不尽な差別に晒されてきた、
という認識を表明する人がけっこういる。
こういう人が、「二次元美少女性的コンテンツを公共性に合わせたグラデーションにまで落とすこと」を理解し、受け入れるだろうか。
「オタク対フェミの不毛な対立」の解消は増田エントリを読む限り、2点ある。
フェミ側、オタク側の両方がグラデーションを理解し、それぞれの批判を取り扱うことである。