はてなキーワード: レリゴーとは
ゴールドフィンガー的な歌の
「アップサイド、インサイド、アウト!」
ってところ、どう訳しても
「あーちーちあーち燃えてるんだろうか!」
にならないのよね。
なんか歌の訳って適当よね!
もうさ、
生玉子アスファルトに、
もう、すぐ焼けるかと思って
醤油を持って構えてたんだけど
そしたら、
ものの見事にカラスがくちばしで器用に生玉子すくって食べていっちゃったわ!
しょうゆうことね!
彩りサンドイッチよ!
トマトがじゅくじゅくじゃなくて、
ちゃんと下ごしらえしてるから、
本当に美味しいのよん。
もちろん、
なるわけないじゃない~!
うふふ。
すいすいすいようび!
今日も頑張ろう!
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
異端者アピール説が有力だが、今回はちょっと別の切り口で攻めてみよう。
物事には多少の偏りが出るが、それがあまりにもいきすぎるとバランスを保とうとするんだ。
「アナと雪の女王」は覚えているかな(忘れようと思って忘れられるものでもないが)。
私も観にいって「これは素晴らしい作品だ」と当時思ったよ。
その熱を保ったままネットでレビューや、関連動画を渡り歩いた。
そして、それがしばらくすると不安になってくるんだ。
上映から数ヶ月たっても、動画サイトでもレリゴーレリゴー、TVメディアもレリゴーレリゴー。
「もういい」と思ったね。
人は食べ物に限らず、同じことを繰り返せば繰り返すほど嫌悪感が増すからだ。
「コンテンツを消費している」という言い方があるが、その弊害がまさにこの現象だと私は考えている。
「オートバランサー」はその流れを緩やかにするわけだね。
彼らは酷評されまくる駄作に関しても出てくるので、その点で平等だ。
絶賛する人、酷評する人と同じく冷静ではない。
とはいえ、作品というものは評価の対象で、だから賞賛も批判もある。
それらを発する個々の動機だけで是非を語ることにさして意味はないが、汲み取るべき部分があるのならば耳を傾ける価値はあるさ。
まあ、そんな高尚な心構えで常に臨むのは疲れるがね。
君がそれを他者に納得させたいなら、少なくとも「なぜその結論に辿りついたか」くらいは、順序をおって説明できないとダメだね。
どのような高尚な理念で「人それぞれ」、「ケースバイケース」だと言っているのか分からないから。
「YES側」も「NO側」もやっているのだから、君だってそれくらいしなくてはな。
前の質問で私は、絶賛されたり酷評されまくる作品にたいして「それほどでもない」という人間を「オートバランサー」といったのを覚えているかな。
ただ、保たなくてもいいところでまでバランスを行使する人間を、私は「均衡の執行者」と呼んでいる。
そして、彼らは中立的な意見を「YESかNO」より尊いものだと信じているんだ。
だが、両者にとって最も邪魔なのは「YESでもNOでもないのにしゃしゃり出てくる側」だ。
でも、君はその域にすら達していないように見受けられる。
「人それぞれ」、「ケースバイケース」だなんてことは、ほとんどのことにいえるから、誰だっていえる。
大した段階もなしに、その結論にたどり着くのは何も考えていないのと一緒さ。
それを踏まえたうえで、「YESかNOか」議論する意味をもう少し君は考えるべきだな。
学ぶべき教訓はこうだ。
「賢人は必ずしも中立にいるとは限らない」
今日、会社の帰り道にある坂をのぼってたら、自転車に乗った中学生くらいの男子たちが
って歌いながら坂をくだってたんよ。
すれ違ったときは「あー、ゆずの夏色かー。」と思っただけだったんだが、しばらくしてハッとした。
「夏色って17年前の曲だぞ…」
俺は今30歳なのだが、中学生というと2000年頃の話だ。2000年から17年前というと1983年だ。
果たして俺は中学生の時に階段をのぼりながら「おとなの階段のぼる~」とか歌ってただろうか?
猫を見ると「見つめるキャッツアイ~」とか歌ってただろうか?
ヒロシにだまされるたびに「そんなヒロシにだまされ~」とか歌っていただろうか?
否、そんなことはない。
中学の時の俺は、花火大会の日は「空に消えてった~打ち上げ花火~」と歌ってたし、
にらめっこしてたら「見つめあうと~すなおに~」とか歌ってたし、
あの頃の俺はちゃんと2000年の曲を口ずさんでいたのだ。
でもまぁいまの中学生が懐メロを口ずさんでしまうのも仕方がないのかとも思う。
http://anond.hatelabo.jp/20150805180031
前編では『アナと雪の女王』をサンプルに、ボールが大きくなっていく現象を学びました。
そうして肥大化が進み、反応の多様性が出尽くしたことを『上限』と教授は言います。
後編では、『反復と反発』のことも詳しく教えていただきましょう。
「では、何度もお願いして恐縮ですが、この肥大化したボールを更に投げ続けてください」
ええっ、またですか!?……えいっ!
(レリゴー♪) (やめろー♪) (レリゴー♪) (やめろー♪)
(鼓膜にこびりつく~♪)
「そう、ボールは『反復』することで更に大きくなります。しかし、それと同時に『反発』も大きくなってくるんです」
(評価されすぎ) (いうほど面白くない) (ピクサーのスネかじりが上手いですね、ネズミだけに)
ふぅむ、なるほど……教授、分かりました!
つまり『反復』に対しての『反発』が大きくなりすぎる境界を、『上限』として定義なされたわけですね。
「そうです。なぜ『反発』が大きくなるかは、見てのとおり。ボールが質量に対して大きくなりすぎている。つまり『上限』を超えているからです」
大きいと、その分色々な場所で目につきやすく、ぶつかりやすくなりますからね。
「ああ、失礼。『がっ!こうぐらし』ですね」
それで、この『上限』とは正確にはどう定めているのでしょうか。
「ですね。月並みな言葉で申し訳ありませんが、現状では『人による』とさせていただきます」
ちなみに、駄作の場合はどのようになるのでしょう。
「ほぼ同じですね。通常に『クソ』とか『最低』とか。反発が起きる場合は『いうほど駄作じゃない』とか『過小評価しすぎ』とか」
なるほど……そろそろ終わりの時間がきてまいりました。
「はい。『現象に善悪はありません。ただ、善悪を求める人間がいるだけです』」
それでは今週はここまで、次回またお会いしましょう。
さよならーっ!
「私の著書『ダウナーな自分語りはなぜウケるのか?』買ってください~。読まなくてもいいですから~」
全てが最高♪ 全てが素敵♪
翼広げて♪ 明日へ飛び立とう♪
それらを1年分プレゼント
ハガキに住所、年齢、番組の感想を明記し、ご覧のあて先までお送りください。
注:この番組はフィクションです。実際の物理現象、物理学に沿った化学考証はしておりません。
この番組は世界で起こる些細な現象をカジュアルに説明し、物理学に興味を持ってもらうことを目的としております。
今回お呼びした先生は、いつも有象無象の質問に勝手に答える増田教授です。
「『あなたが質問しなければ、この世に愚問はありません』。どうも、増田です」
教授は物理を学んだ経験が皆無とのことですが、大丈夫なのでしょうか。
「大丈夫です。そんな私だからこそ、学のない方でも分かるよう説明することができるのです」
ほぉ~、『反復と反発』も気になりますが、この『肥大化』とは。
「はい、分かりやすいようサンプルを持ってきました。どうぞこのボールを手にとってみてください」
これは……「アナと雪の女王」ですか。
「そうですね、今となっては有名ですが。順序だてて説明するために、まずは手のひらサイズから」
「お好きなところに投げてみてください。なんならスタジオにいるスタッフや、私にぶつけても構いません」
はい、それでは……えいっ!
(オモシロイ)
反応しましたね。
「まあ、ここまでの現象は皆さんお分かりでしょう。このように、物体を投げることでその反応が返ってくるわけです」
はい、場所によっても変わってきますが、現象はどこでも発生しますね。
「そして、そうやって何度もボールを投げるとどんどん大きくなり……っと。そうやって大きくなったボールがこちらになります」
分かってはいましたが、改めて見るとこれは大きいですね。
「ではちょっと大変ですが、今度はこの大きくなったボールを何度か投げてみてください」
あれ、意外と投げやすい。
「ボールこそ大きくなっていますが、質量は変わっていませんからね」
なるほど。それにしても、数回投げてみましたがほとんど同じ反応でしたね。
「ボールの質量は変わらないので、肥大化していくとその反応の多様さも出尽くしてしまい、このようにほぼ同じ反応になってしまうわけです」
教授によると、この反応がほぼ同じになるまで肥大化した状態を……
ペリッ
『上限』と定めておられるようです。
「おっしゃるとおり。ですが、実はこのボールはまだ大きくなるんです」
あれ? 『上限』なのに、肥大化はまだ終わらないんですか。
「それをなぜ私が『上限』と定めているかは後半で。ここから『反復と反発』も密接に関係してきますよ」
一旦CMです。
♪デデッデッデデン♪
「目を見て話してほしい」
その願い、このメガネをかければ解決!
思わず胸に目線が行ってしまうのを逆手に取り、メガネを胸型にデザイン。
男性用、女性用、どっちでもない用、それぞれS.M.Lの三つのサイズをご用意。
好みや気分、相手に合わせたメガネをどうぞ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
今回は筆者の嗜好が出すぎてしまったので、興味のない人は回れ右を推奨する。
どこかの回答で私はあれを絶賛したが、あまりにもレリゴーが脳みそに刻み込まれたせいで「あの映画は一時間以上に及ぶ音楽PVだ」と感情に任せて言ったことがある。
無論、あれが名作であることは否定しようもないし、その本質的な価値も変わらないが、評価は変わっていくという事例は珍しくない。
コンテンツの反復は反発を生む。
反復そのものは悪くないんだ。
でも、同じことはやればやるほど退屈になっていく。
君だって、今さら「アナと雪の女王おもしろい!」とかいわれても、「そりゃ面白いだろうけど」と、人を腐す衝動に駆られないかい?
私は、ディズニーのアニメに駄作はないと思っているが、蛇足はあると思っている。
そして、それは少なくない。
「アナと雪の女王」の続編が、蛇足かどうか判断するのは早計かもしれない。
だが、少なくとも1作目のような体験を得られるとは私には思えないね。
私がレビューで生計をたてている人間なら考えるが、質問の答えはNOだ。
かといって、未だ熱が継続している人たちを腐すような真似はできればしたくないし、やっぱり「アナと雪の女王」を自分にとっても名作として心に留めておきたいんだ。
となると「ビアンカの大冒険」の「ゴールデン・イーグルを救え!」かな。
まあ、これは1作目が淡白な出来だったせいもあるんだが、その反動を抜きにしても1作目を超えたと断言していいディズニー続編だ。
その点でかなり希少といえる。
イーグルの飛行シーンは、オレの心に眠る小学生が起きっぱなしだったよ。
いわれなくてもレリゴーは挙げないさ。
「レリゴー」並に当時、反響があったのは「ライオン・キング」のハクナ・マタタだったが、私は古今東西ヴィランの歌に魅かれる。
「リトル・マーメイド」、「ポカホンタス」、「101匹わんちゃん」、「ノートルダムの鐘」、「美女と野獣」、「オリビアちゃんの大冒険」、どれも悪役の歌が一番好きだ。
その悪役ソングで、かつ日本語吹き替えでいくなら、私は「ホーム・オン・ザ・レンジ」がお気に入りだ。
あれを聞いたとき、私は自分が牛になったんじゃないかと錯覚したよ。
日本語吹き替え以外なら、「アナスタシア」の悪役ソングが好きだな。
……すまない、「アナスタシア」はディズニー作品じゃなかった。
これは私自身の問題なのだが、そこまで君たちにとって面白いことは語れない。
ディズニーは実写の作品も多いけれど、私の中でディズニーはやっぱりアニメーションというイメージなんだ。
……「ロケッティア」とかが好きだけれど、興味ある?
今回は映像作品関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
私個人の評価でいいのならば答えよう。確かに名作だが最高でもない。登場人物が多く、色々な人間に焦点があたり、その場その場で抱える問題も複数ある。君が聡明な人間でなければ、この物語を楽しむのは困難だろう。また、この作品は今のご時世には珍しく飲酒の描写がとても多いが、視聴者はシラフであることが推奨される。
だが、それでもこの作品は、今後も語り継がれるという点でとても有意義だ(その場その場で消費されるコンテンツが劣るというつもりはない)。今後、似たようなテーマでこれより優れた作品を出すことは難しいだろうし、確実に比較される。
私個人の評価でいいならば答えよう。確かに駄作だが最悪でもない。一部、唸らされる部分もあったが、後は良くも悪くも没個性な「女子バトルもの」と化している。君が愚鈍な人間でなければ、この物語を楽しむことは困難だろう。また、この作品は飲酒の描写がこれといってないが、視聴者は泥酔していることが推奨される。君たちは今回に限らず、不必要に期待しすぎてしまう機雷がある。
とはいえ、君のその意見は周りがあんまりにも「クソだクソだ」というから、逆説を衝動的に唱えたいだけともいえるぞ。私はこれを「逆レリゴー現象」と呼んでいるが、残念ながら元の作品のようには流行らなかったね(苦笑)。
しかし、「キャラクターが動いているだけで満足」という人は、これまでの慎ましい生活が伺えて涙が出てくるな。それはアニメーションの大前提のはずなのだが、彼らの世界では動かないアニメばかりなのだろうか。あるいは、元のゲームがそうだったのかな。
http://anond.hatelabo.jp/20150128232843
ぼくはフェミニズムを手がかりとしてセクシュアリティやジェンダーといった問題を考えるようになるのですが(中略)、その理念の中で、我々は社会的に押しつけられた性規範に呪縛されているから、性愛も夫婦や恋人関係も抑圧されているのだ、もっとそこから解かれることによって自由で豊かな生と性を獲得することができる、とされていました。
で、自分も「男らしさ」にこだわらずに「自分らしく」あらねば、そうすることが正しいことなのだ、と日常の場で実践してみたわけです。(中略)態度物腰もやわらかく、というか、ベッタラな感じで、身につけるものもフリルの着いたものやら紫色のひらひらしたものだったり……(中略)まあ、わかりやすくオカマっぽくなった。それが自由で、自分らしいことだと誇らしかったのです。
そのように「自分らしさ」を表現してあまりある自分がなぜかモテない。政治的に正しいはずなのに恋人ができない。どうしてなのだろう。理論的には間違っていないはずなのに……それで周囲のゲイたちを見回してみますと、(中略)一般に求められている男という意匠を体現している人がモテている。そこで自分でも、なるべく自己主張しないようにして、それなりに流行っている服を身につけて、言葉遣いも男らしく、態度物腰も野郎っぽく演出してみると、なんと、食いつきがそれまでとはまったく違ったのです!
性愛というのは、人格以前に、その人が表象している性別のイメージ、つまりジェンダーをめぐる「欲望」なのだ、ということです。(中略)発情が一義的に、相手の人格的な成熟度とか、コミュニケーション・スキルによって引き起こされるのなら、性愛の対象に性別は関係ないし、例えば、もっとご年配の方がモテモテになってもいいわけです(精神的に成熟しているのだから!)。
人は合理と効率を追及していきますから、記号ゲームに参加していくと、見られる存在としての自分を設定していくことで、ゲームの中でより多くの利益を得られることがわかっていきます。(中略)アメリカでは「クローンゲイ」という言葉がありましたが、それはスポーツジムに通って筋肉を付け、髪型を短く整え……といった形でみんなが同じような見た目になっているありようです。少し前、日本のゲイ・コミュニティでも「イカホモ」という言葉が流通しました。それはいかにもホモっぽいというルックスの人のことで、肯定的な意味合いで用いられています。(中略)「イカホモ」が表しているのは、見た目がある類型になっているのは前提ですが──短髪でひげがあってそこそこ筋肉があってムッチリしていてラガーシャツなんかを着ている──自意識の上でも、ゲイであることを受け入れ、それを楽しんでいて、性愛における「男らしさ」がフィクションであることを感覚的に理解しているありようです。
性愛とアイデンティティが結合していると、ありのままの自分を受け入れて欲しいと望むようになり、それが結果として「他者から発情されにくい自分」になることを招いてしまう。充実した性愛を獲得するためには、発情されやすい自分になることが必要であり、さらにそのためには性愛のためにジェンダーを演じることを楽しむ感性が必要である……という風に読んだ。「イカホモ」を楽しむように、「イカニモ男」「イカニモ女」のステレオタイプを演じるのである。それが性愛における合理と効率の追及であり、「モテ」と「自分らしさの表現」は対立することを受け入れなければならない。「モテない!」と言って怒るのは、「モテ」と「自分らしさの表現」の両方を得ようとしているためであり、片方を捨てるだけでも進むべき方向が見定められて、迷走状態でいるよりも精神的な安定が得られるだろう。
追記:
cyberglass ジェンダーを戦略として利用するとモテる。女性は無意識にそれを会得している。そうやってジェンダー秩序が再生産される。
異性愛者の男性には「それを会得している女性」しか女性として認識出来ないということなのでは。
「それを会得していない男性」「それを会得していない女性」は存在するのに、発情の対象にならないから、
攻撃的な振る舞いをしない限り存在を無視されてしまう。その結果としてのミソジニーやミサンドリー。
quick_past そういう側面はあります。ただそこで評価されることを望んでる人ばかりじゃないと言うのが問題。評価したい部分が違う人同士が評価しあってしまうのも問題。
職場で職能よりも性的魅力が優先して評価されるようではまずいだろう。
フェミニストも、男性会社員が女性会社員を職能ではなく性的魅力で判断することに噛みついている。
職場は乱交パーティーではないが、どんな場面でも異性(同性愛者なら同性)を性的魅力の多寡でしか判断できない常時乱交パーティー状態の人種というのは居て、
精子脳と言われたり、スイーツと言われたり、要はTPOより自分の性的満足を優先する馬鹿とみなされる。
feita 割と世に出てる天才はありのままの姿でレリゴーしても承認されてるように見えるから錯覚しがちだけど、そんな奴ホントレアケースで自分と比較しても仕様がないからね。承認されたきゃある程度自分削らんとな…。
性愛とアイデンティティが結合しているから「自分を削る」と感じるのでは。
性愛用ペルソナ、仕事用ペルソナを演じ分けるようになると、そこで自分が削られることは無くなる。
天才ではなく、演じることも面倒なら、承認への執着を捨てるという道もある。
ysync 「ジェンダーを演じることを楽しむ感性が必要である」男性性に対する嫌悪感(自身の中にあるものも含めて)が強すぎて楽しめそうにない…。
誰も楽しめと強要はしていない。楽しめそうにないなら捨てればいい。
28歳女。飲食店勤務。年の瀬だけど乳首が取れかかっている。佐村河内風に言えば、3年前から少しずつ取れかかっていた。28年間、舐められもせず、吸われもせず、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べてきた私がなぜこんなことになったのだろうか。今流行の妖怪のせいだろうか。一大事~なのは確かである。そんな思いを抱えながら、これまで保湿クリームを塗ってニプレスを貼り、どうにかこうにか凌いできた。ニプレスを剥がすとき、私はいつも『三つ目がとおる』の写楽保介を思い出す。これは私の第三の目なのだ。そう思うことで少しだけ強くなれた。しかしニプレスを剥がして出てくるのは痛々しい乳首。『三つ目がとおる』というより『乳首が取れる』である。そんな私の乳首も今年に入りとうとう限界に近づいてきた。干しぶどうを通り越して今や落ちかけの線香花火、最後の一葉、あるいはクリフハンガーである。薄皮一枚でどうにかぶら下がる様は、このままリポビタンDのCMに使えそうな画である。ファイト一発!私はそうやっていつも乳首を励ましていた。
世間では女性の乳首はさくらんぼに例えられることもあるが、私のそれは実ではなくヘタ(茎・軸)のほう、より専門的に言えば果柄である。口の中で結べるとキスが上手いと言われるアレである。仮に私が大塚愛ばりに「私さくらんぼ!」と乳首を出そうものなら、男性にぎゃあと叫ばれた挙句、大塚愛と法廷で戦うことになるだろう。もし徳永英明が私の乳首を見たら『取れかけのChikubi』というバラードを歌い上げるだろう。スピッツなら『乳首がポロリ』、コブクロなら『取れそうで落ちそうな乳首が今年も春を待っている』、一青窈なら『薄紅色の可愛い君のね、乳首がちゃんと終わりますように』、いくつもの乳首J-POPが頭をかけ巡る。もういっそのことすべてを諦めて、ありのままに任せたらいいのではないかと思うこともある。しかしありのままやっていたら私の乳首は十中八九レリゴーしてしまうだろう。もちろんこれはMay J.の責任問題であり、法廷で戦うことになるのは必至だ。もちろん黒幕は松たか子である。
とにかく私の乳首は無事に年を越せるか分からない。仮に年を越せても再来年は分からない。遠からず乳首が離れるときがくる。子が親から巣立っていくように、いずれ別離のときがくる。だけどそのときは涙は見せず、笑って見送りたいと思う。ぽとりと落ちた乳首はきっと大地で芽吹き、いつか綺麗な花を咲かせるだろう。木になる果実はさくらんぼ。そのとき大塚愛とのさくらんぼ裁判が幕を開ける……。
へー。
流れたみたいだし
ってのはディズニー側が拒否したのか松たか子側が(妊娠のせいかその他の理由か知らんが)諦めたのか
そもそも松たか子のレリゴーってそんなに良かったか?と思うんだけど。
外国でも絶賛!とか言われてたけど、何で外人がわざわざ日本語版に興味持つんだよ嘘くせーとしか。
MayJがとばっちりでやたらこき下ろされてるのも謎。つか聞いても違いが分からん。
勿論その場で聞き比べれば違う人が歌ってる事くらい分かるだろうけど、ただ日本語版のレリゴー聞かされて「どちらが歌っているか」と言われたら絶対分からん。
http://b.hatena.ne.jp/entry/news.biglobe.ne.jp/entertainment/1203/sgk_141203_8390698088.html
正直に言えよ「松たか子なんて興味ないし紅白出ようが出まいがどうでもいいじゃん」って。
そりゃ松たか子なんて誰かが言ってるように15年前は剛力ポジ(親のコネでプッシュされてる認定)だった人だし
レリゴーも本人の実力ではなく映画の実力で大ヒットしたものに運よく乗っかれただけだし
どうせこのブコメ連中の中にも熱烈なファンなんてほぼいないだろう。
それはいい。私も松たか子なんてどうでもいい。そこは本題じゃない。
じゃあ何故そんなどうでもいい松たか子で炎上してるのかと言うと、殆どの人は松たか子という一芸能人の話ではなく
「妊娠した女性が仕事が出来ないのは損失だと言われた」と言う一般論として見ている模様。
「ここ一番という時に女性社員が妊娠し、会社にとっても本人のキャリアにとっても重要な仕事から降りざるを得ず損失だと言われた」
それってその女性社員の仕事能力を高く評価しているからこそ出てくる発想じゃないか。
それに何の問題があるのか。むしろ女だからと言って最初から仕事を制限しようともしないし期待もしている、男女平等()な会社じゃないか。
そこで「妊娠?おめでとう~仕事?いいよいいよそんなの~子供の方が大事だよ~」なんて言う方が
その女性社員の仕事能力などどうでもいいしその女性社員自体居ても居なくてもどうでもいいと言ってるも同然だろうが。
その女性社員個人がどうでもいい仕事能力しか持っていないからそういう扱いを受けるべき、ってならともかく
(松たか子の場合、周囲はそんなどうでもいい扱いをしていなかった、って話だが)
それを全体の一般論として広げるなら「女とはどうでもいい仕事能力しか持っていないし何の期待もしないものだ」と言っていることになるんだが。
本人はこれで幸せなはず、子育てを最優先にすべき、ってか。ハイハイ産む機械産む機械。
産む機械は産む事を最優先にしてろそれが産む機械の幸せだろうが、ですね女が腐るほど言われてきた事ですね。
30代後半だからとか言ってるのもいるけど、ハイハイ産む機械の耐用年数ギリギリで動いて良かったね羊水腐ってるもんねってか?
・輝く女性 ・STAP細胞はあります ・バックビルディング ・まさ土
・トリクルダウン ・デング熱 ・ダメよ~ダメダメ ・2025年問題
・危険ドラッグ ・アイス・バケツ・チャレンジ ・家事ハラ ・マタハラ
・ありのままで ・レリゴー ・こぴっと ・ごきげんよう ・リトル本田
・J婚 ・ゴーストライター ・タモロス ・マイルドヤンキー ・リベンジポルノ
・JKビジネス ・絶景 ・レジェンド ・ゆづ ・妖怪ウォッチ ・塩対応
・マウンティング(女子) ・こじらせ女子 ・女装子 ・号泣会見 ・セクハラやじ
・集団的自衛権 ・限定容認 ・積極的平和主義 ・勝てない相手はもういない
「妖怪ウォッチ」、爆発的ヒットの極意
(上)http://toyokeizai.net/articles/-/45794
(中)http://toyokeizai.net/articles/-/45795
子供向けに関しては、僕は常に子供の頃にあったものの復興や翻訳ということを企画の基礎に置いています。
(中略)
こういうのを読むと、男児向けは恵まれてるな、と思う。
男児向けは作り手である大人の男性が自分が男児だったころを思い出しながら作る、という作り方で
女児向けは女性が企画を通せる地位に居なさそうだし、居たとしても名誉男性だろうし。
昔ペケと言う漫画で「NHKの道徳番組はいかにも『大人の男が作った話』ばかり」と言うネタがあったけど、アニメも同じ。
男が考えた女向けだから、なんかずれてる。本当に幼い頃は気付かないけど、大きくなるとそれに気付く。
元男の子が大人になっても子供の頃好きだったアニメに良い思い出を持っていて、リバイバルブームが起きる事も多いのに対し
元女の子は大した愛着も無くすぐ忘れる事が多いのは、こういう理由もあると思う。
男児向けアニメを見る女の子も多いけど、そういうアニメの女の子はおまけ程度だし
あくまで「男児の為の女の子」だからやっぱりズレてるし、アニメそのものも男児向けだから疎外感は拭えない。
妖怪ウォッチにしても、上の中で「ケータやクマやカンチはリアルに居そうな設定にして、子供たちが共感を得られるようにした」と言う話があるけど、
実際フミちゃんはリアルではないし、あくまで「視聴者の男の子が共感する存在=ケータの、憧れの女の子」であって
ドラえもんでも、しずかちゃんは「のび太の憧れ」であり視聴者女児の共感の為のキャラではないのと一緒。
(ゲームの方では女主人公=プレイヤーの女の子の為のキャラだから扱いが違うかもしれないけどゲームやってないので知らない)
うちの娘も妖怪にはまってるけど、いつかそういう所で「自分の為に作られてる話じゃないんだなあ」と気付くのか。
タイトルはこうつけてみたものの、もちろんいろんな長女・長男の形があると思う。
けれど、今回は最近急速に空しくなってきたので、「こんな思いをする長男・長女」を増やしてはいけないと思って書く。
上の子はあなたたちの試作品ではない。それ以降の子どもたちに失敗から学ぶ工夫を反映させるための道具ではない。
let it goとか言ってしばらく流行ったけど、現実はそんなにすぐレリゴーできないので、その辺りは親の側から留意してほしい。
以下、私情も交えながらもう少し細かな「やめてほしいこと」を書いてみる。
私の妹は年が少し離れているので、同じ学校に在籍するのは小学生の時しかない。
親は親で、「お姉ちゃん・お兄ちゃんがいるから助かるわ」と私に細かな配慮を丸投げしてきた。
たとえば、家庭科のキットを買うとき、書道の筆の手入れの仕方、アルバイトの選び方、果ては大学の学部選び、ゼミ選びまで。
「お姉ちゃん・お兄ちゃんにアドバイスしてもらいなさい」と責任を子どもに丸投げするのは間違っている。
下の子も下の子で調べたり考えたりする手間を自分で経験するのが必要。
上の子のメソッドをかすみとるだけが彼らの人生ではないし、彼らの人生のためにはならない。
はじめての子だから右も左もわからなくて、を言い訳にする人がいるが、それは間違っている。
「はじめてだから」と予備校の面談についてくる親。その面談の相手大学生アルバイトですよ。
その大学生アルバイトの言うことを鵜呑みにし、「さすがたくさんのものを見ているチューターさん!」という感じ。
しかし実際はそのアルバイトはプロでもなんでもない。なので当然ベストの形の出願はできない。
当時の私はいろいろと自分で調べて、いろいろ提案したが「金を出すのは親!」の暴論をかざされてはどうにもならない。
その当時の反省を活かし、妹の入試はとてもうまくいった。正直殺意しかわかない。
③上の子に許されたことは同タイミングで下の子にも解禁してはいけない。
たとえば外泊なんかがわかりやすいだろう。
大抵上の子は外泊を全く許されず、それを周囲にも責められたりするのだが、
下の子は上の子の外泊解禁のタイミングで同じように解禁されたりもする。なぜだ。
大学の時に時間があるからたくさん旅行したり思い出作りをしたいのに、自分は禁止された。
それなのに、下の子は大学生の時からうきうき外泊。もう正直殺意しかわかない。
上の子の青春を世間体とかそういう言葉で握りつぶすなら、下の子にも解禁するべき。
ちなみにこの疑問を親にぶつけたところ、見当違いも甚だしい反論をされ、何の解決にもならない解決法を示される。
だまされてはいけない。
確かに下の子は頼りなさそうだし、小さいし、心配なのもわかる。
けれど、いつもいつも下の子に構っていると、上の子は我慢せざるをえない。
本当は具合が悪いし、正直かまってもらいたい日もあるのに、「お姉ちゃん・お兄ちゃんだから」という理由で放置される。
下の子が小さいうちならまだしも、ひどいのはこれが子どもがいい年になっても続くことである。
上の子が死にそうなくらい疲れていても、下の子にちょっと何かがあれば親はすっ飛んでってしまうのである。
ちなみにこれを親にぶつけると、またわけのわからない理論で返されるだけなので、もうやめよう。
勘違いしないでほしいのは、私達は何も下の子が憎いわけではない。
でも、自分だって子どもなので、親に見守られてる、愛されているという実感がほしいだけなのだ。
それなのに、いつもいつも下の子ばかり構われる、自分が我慢すればすまされる、そういうことを小さいうちからすりこまれると、
親の求める良い子であろうとして無理をし続けてしまうことになる。
でも、その無理ができてこそ自分は親に認められるので、限度いっぱいでもう無理ということをいつまでも言い出せないまま、
なんでこんなことを言い出したかと言うと、今私がこの状態だから。
我慢しないと見捨てられるし自分が我慢をすれば世の中のことはうまく回ると思っていた結果、
具合が悪くなって時々夜中に涙が止まらなくなったり、家の中にいると常に吐き気に襲われたりしています。
でも、これを誰にも言えないので、とりあえずここに投下してみたのです。
これを書いている間はちょっとすっとしています。でも、家庭にも社会にも私を私として受け入れてくれる人はどこにもいません。
こういう思いをしている人が他にいないか、あるいは下の子目線から「上の子が辛いとか言うのは傲慢だ」とか、
誰かが何かを言ってくれないと押しつぶされそうなので、とりあえず書いてみました。