はてなキーワード: モスラとは
平成に生まれた私が初めて父に連れられて映画館で見た映画がモスラ2だ。
当時遊んでいた男の子がゴジラ好きだった影響を受けて、叔父にそれまでのvsゴジラシリーズの録画を貰い、何度も見た。
子どもの頭ではストーリーに込められた意味もさほどわからなかったし、ただゴジラがかっこいいというだけだったけれど、間違いなく今の自分を形成する思い出の一部だ。
20年後、シン・ゴジラが公開された。モスラ2以来に父を誘って見に行った。
映画館であの音楽が流れてくるだけで興奮した。既に語りつくされた通り傑作だと思った。
そして先日、KOMが公開。
最高だった。モスラ、キングギドラ、オキシジェン・デストロイア、芹沢博士。小さい頃何度も見た怪獣や設定を拾い上げた怒涛のオマージュ。
アレンジされた最高のBGMをバックに、ゴジラがあの咆哮をあげてとにかく戦って戦って戦う!これが見たかった!!!
芹沢博士によって海に消えたゴジラが、芹沢博士によって息を吹き返した。核すらも抱えていかなければならない時代の、人類の味方として。
そのゴジラが、あのBGMの中、壮絶に戦いまくるあまりの畳みかけに、バトルシーンから最後まで号泣して止まらなかった…最高だ!!!!!!映画館を出てまた泣いた。小さい頃、ゴジラに興奮した私もきっとこれくらい高揚感していたと思う。
早く父を連れて2回目に行かねば。
正直人間側のドラマはそこそこでいいんだ。人類に生み出され、恐れられ、ミサイルをぶち込まれ、疎まれながら、敵怪獣と戦い、結果的に人類を救って海へと帰っていくゴジラの背中が、なんとも悲しくて、でも格好良くて大好きだった。(ゴジラが現れたら自分だけが何か特別な会話で意思疎通ができるはずと思っていたくらい夢見ていた)
今回も、海に帰っていったゴジラがエンドロールに描かれて、たまらなかった。大好きだ、本当に本当にこれが見たかった、ずーっと見たかった。映画館で、あの音楽と一緒に戦うゴジラが、背中が、咆哮が、見たいものが全部全部詰まっていた。
まとめ
これだけ騒いでこれで終わり?
メッセージは何なの?
まー最初に言いたいのは、怪獣でブンドドしたいのか、何か意味深な話がしたいのか、人間ドラマを描きたいのか、どれかに絞れよってことです。
包み隠さずに言えばマクガフィンとメアリー・スーを悪魔合体させた環境テロババアを暴れさせたのがただの舞台装置でしかないからもっと手短にやれ。違うというなら単なる仲直りじゃなくてしっかり描けってことです。
主人公気取りのオルカ一家が丸ごと不要だったとすら言えますね。ガメラシリーズやゴジラシリーズにはちょくちょくああいう家族が出てくることは確かにあるんですけど、それは怪獣映画が子供向けであるが故になんか道徳的なシーン入れないと見せに来た親御さんがモニョるよねって要素の解消としての装置なわけでして、単におっさんオタクがうおおおおするだけのモンスタープロレスでしかないならいらんのですよ。
ドラえもんでもなきゃクレヨンしんちゃんでもないんだから、ただただ怪獣が暴れてりゃいいんですよ。
あの一家がテロリスト活動を通じて何かを取り戻す過程なんてのは、映すにしても映像感をつなぐための接着剤として割り切って10分ぐらいでいいんですよ。
マジでね。
ババアいらね。
娘もいらね。
親父もいらね。
んでまあ次に言いたいのはね、オチショボくねってことです。
ギガデストロイヤーと戦ってるわけでもないのにバーニングしだしたのはビックリしましたけどね。
でもそれやるならもうギガデストロイヤーやスペースゴジラと戦えよって話ですよ。
キングギドラが怪獣として最高なのは確かでしょうけども、この令和の時代に世界中の怪獣をキングコングまで含めて叩き起こしてまで倒す相手としてはちょっとまだ足りないです。
結局はオーバーキルであっさり終わってましたし。
最後にチラっとそんなシーンがありましたけど、あそこまでを開始1時間15分でやって、そんで最後にバーニングしてたら最高だったんすよ。
ゴジラとギドラ死んだ→メカキングギドラ登場人類終わった→実はメカゴジラ作ってた→やっぱ勝てねえ→芹沢とキングコングが犠牲になりゴジラ復活→メカキングギドラ+ファイヤーラドンvsバーニングゴジラ+モスラ+ガメラ
ぐらいのやりすぎ座組でやってこそのKoMでしょう。
怪獣大決戦にスタースクリームと化したラドンおまけしただけの話で終わられちゃ消化不良なんですよ。
そんでまあなんでこの映画が尺とスケールの割にオチがショボかったのかというと、ひたすら人間ドラマやってたからです。
それもまあ怪獣との共存とか未知との遭遇とか科学兵器開発とかよりもメインは、どっかの被災者家族が、頭おかしくなって暴れまわって娘がそれに振り回されてるうちになんかスッキリして和解、っていうただそれだけの話に尺を使いまくったからです。
なんですかコレ?
我々が映画館に払った2800円(3Dメガネ込み)は超弩級の怪獣プロレスを見るための値段なんですよ。
突然リングに上がり込んできた裏方スタッフによる家族への手紙朗読会をブックと言い張って見せられても困るんすよ。
その時間があるなら話をもう一回り回転させろよってことです。
最高クラスの映像も、重量感も4DXとの完璧な相性も、原爆とゴジラの関係性へのリスペクトも、最高すぎるメインテーマアレンジや、しみったれた自衛隊なんてテーマソングすら関わらせてやらねえという割り切り方も、中学生が教室でするような妄想を幼稚園児がクレヨンでコンテにしたためたようなジャンクさも、全部、全部、この勿体なさが台無しにするんですよ。
なんで?なんでこんな素晴らしい映像を作れるのに安っぽい環境テロリストとヒスババアによるくだらん終末論が物語の柱として居座ってるの?となってしまうんですよ!!
テロババアによる凶行なんてのは最初の1時間でかたをつけて残りは全部怪獣と科学者による殺戮パーティーであるべきだったんですよ。
必要ないんです。
世界を滅ぼしたいテロリストはまだしも、愛を叫びながら地球を滅ぼしたがる頭お花畑のおばちゃんも、後悔することが仕事みたいな面した陰気なおっちゃんもいらないんですよ!
結論!
映像 最高!
座組 おしい!
重量感 最高!
4DX 超最高!
リスペクト 最高!
ストーリー 💩💩💩
キャラ まあまあの💩
前日譚でやられたのはモスラじゃなくてバトラ定期
『GODZILLA 決戦機動増殖都市』について。
生態系の暴走[王蟲/ゴジラ]をロストテクノロジーの最終兵器[巨神兵/メカゴジラ]で止めようとする、が失敗するという話。
他にも、ハルオはモスラの鱗粉(?)を身体に塗られたことでナノメタルに取り込まれずに助かる――ナウシカは王蟲の血を浴びたことで伝説通りの存在となる、という点も似てる。
(さらに宮崎アニメからの影響らしき部分として、無人のまま自己修復をつづけていた都市は「ラピュタ」、フツアのフェイスペイントなどは「もののけ姫」と思える)
だからアニメ「ナウシカ」に沿って、この先の展開を考えるなら、奇跡を象徴するモスラの出現によってゴジラの暴走は鎮まり、人類は自然との調和を取り戻す、といった感じになるという予測ができる。
しかし、第三部ではキングギドラの登場が予告されており、この通りにはならないだろう。
ハルオはメトフィエスからゴジラ以上の脅威として「ギドラ」の名を聞かされる。
原作「ナウシカ」で、王蟲以上の脅威として出現したのは粘菌である。「ナウシカ」における粘菌に対応するものとして「アニゴジ」にはギドラが登場するのではないか。
第三部のタイトル「星を喰う者」も、原作「ナウシカ」の粘菌のすべてを食い尽くそうとするイメージと重なる。
「アニゴジ」の登場人物の布置は、原作「ナウシカ」を参考にしているのかもしれない。
賢者的なエクシフは森の人を思わせるが、宗教家ということでは土鬼の僧正らにも近い。ビルサルドの武闘派のイメージは土鬼兵のようだが、進んでナノメタルと融合しようとする不気味さはヒドラのようでもある。フツアのナノメタルの使用は風の谷の民のようだが、モスラと心を通わせているとすれば森の人のようでもある。
このように単純な重ね合わせではなく、要素を組み替えて使っている。
宮崎駿は尊敬する作家としてよく『モスラ』の原作者の一人、堀田善衛を挙げており、ともに巨大イモ虫によって自然の聖性をあらわした作品として『風の谷のナウシカ』は、『モスラ』の後継に位置づけられる。
この『モスラ』『ナウシカ』を結ぶ線の延長上に「アニゴジ」はある。
巨神兵の作画を担当した庵野秀明は、『新世紀エヴァンゲリオン』にもそのイメージを反映させ、短編「巨神兵東京にあらわる」を経て、54年と84年二つの『ゴジラ』を引き継ぐものとして『シン・ゴジラ』を完成させた。
知識なくってゴジラってウルトラマンの怪獣版で正義の味方なんだと思ってたから
衝撃を受けたし楽しかった
只、夏休みの特番で観てたウルトラマン同様にどうみても作り物だってのは
解ってたよね、屋上のヒーローショーの着ぐるみとはクオリティが違うんだろうけど
結局は同じだよねと思ってた、でも仕方がない怪獣なんていないんだからぬいぐるみで代用するしかないって
そんな中ジュラシックパークの登場ですよ
同時期にやってた安達由美主演「REX恐竜物語」とどっちかにしなさいと親に選ばされて
REXを選んだのは子供だから仕方ない(結局両方観に行けたし、REXもあの時代大したもんだった気も)
で、ジュラシックパーク、凄かったね実際に恐竜が出てくるんだもの
そう思えたのは本当に凄いと思う、ハリウッド映画って凄い感がこれ以後内心MAXになった
なんとハリウッドでゴジラを作るという、しかもジャンレノが出るって
リアル?な怪獣が街中を暴れるという私の期待にきっちり応えてくれた
あんなのゴジラじゃないとか批判も相当あったらしいがそんなの耳に入る機会もないし
そもそも映像的なおもしろさに比べればゴジラとはなんぞやなんぞどうでもよろしい
個人的にこれは最高のゴジラだ、ゴジラが2000年代に復活して尚更思った
あの辺りにはゴジラとはなんぞやを低クオリティで作品をつくる言い訳に使っているとしか思えなかった
子供だましにもならない子供だましが伝統あるゴジラという事になるがそれで良かったのだろうか
ゴジラはつまらなくなって終わった、ゴジラとはなんぞやを語れるはずの連中が
NYトカゲふざけんなと息巻いた結果がこれだったのは虚しい
モスラ発生しちゃう可能性については海に出たり入ったりしてる時点で最早確定事項だろ。
だからこそ毎回ヤシオリなんてできないわけで、通常兵器で迎撃できる算段を整えて迎撃のノウハウと実績を蓄積させるのが急務じゃないの?
これ1回くらいなら特攻隊もしょうがないかと思うけど何度もゴジラ来るたびに特攻とか自衛隊も民衆も支持しないし
そもそも口の無い個体がきただけでとん挫する作戦だから穴も滅茶苦茶多い。
劇中で何度も来る可能性についても話されてないしあらゆる可能性とかいって台本通りの展開しか行動してない。
って思いついた話。
夏コミも無事に終了したため「シン・ゴジラ」を鑑賞してきました。
ゴジラ氏をはじめとする個性の見える怪獣達に親しみを持っていました。
(当時はモスラが可愛くて好きでした)
更に同時期、我が家でフル稼働していたSSソフト「ゴジラ 列島震撼」をプレイしていたことにより、
私の中のゴジラ氏はすっかり愛着のあるキャラクターと化していました。
※「ゴジラ 列島震撼」…SS向けに1995年に発売されたRTSであり、自軍であるGフォースの兵器を用いて都市部に現れる怪獣を殲滅していくゲーム。
ちなみに難易度が糞高い。基本、複数の怪獣が出てくるステージは怪獣を同士討ちさせることに全力を注ぐプレイが必須。
世間では蒲田くんだなんだと呼ばれて人気の第二形態、あれ普通に恐ろしかったからね!
(しかし早くも二次創作にキャラクター化して落とし込まれる様に日本のオタクのたくましさを垣間見ました)
恐竜とも水生生物ともつかない見た目にエラから露出する赤い中身。
そんな得体のしれない生き物が血を流し、更に大きく進化していく。
最終形態を見たときには絶望しかありませんでした。勝ち目ないじゃん!私アイドル辞める!
今回のゴジラ氏は今までよりも身近な、より現実的な脅威として私達の前に立ちはだかったのです。
さておき、私エヴァも好きなんですね、腐女子的な要素を抜きにしてもすごく。
リアルタイムでは見ていなかったんですが、やはりそこは社会現象。
深夜の再放送などで目にする機会が多く、旧劇場版(区別のため、あえてこう表現します)の
TV版放送のときから新劇場版が上映される今の間にネットなどの情報網も発達し、
隠されていたメッセージや設定など、語り尽くされている感こそありますが
それを置いてなお今も人々の心を捉えて離さない作品だと感じています。
私自身漫画を描く人間なんですが、エヴァのカット割りや間のとり方などの作品に流れるリズムは
今でも参考にしています。
今回の「シン・ゴジラ」、ネットでも様々な方が仰っていますが、
シーン一つ一つの割り方やBGM、果てはヤシオリ作戦への流れ方など
ちゃんとゴジラという枠組みなんですけど、庵野監督の作品に落とし込まれている。
見方を変えれば公式の超金のかかった二次創作との解釈もできてしまうんですが、
多くの人を巻き込んだ一流のエンターテインメントであることは間違いありません。
日本映画の到達した「点」を目の当たりにできたことを幸せに思います。
ゴジラとは綾波レイなのではないか、という妄想、もとい仮説です。
無口で感情に乏しいという日本美少女界のテンプレートを不動のものにしたレジェンド。
彼女は劇中で主人公のシンジと触れ合うことで人間らしさを見せ、
かと思えば新旧劇場版では世界をヤバイ状態に落としこむお茶目さんです。
ミクロな部分で語ると旧劇場版の人がLCLへと変わっていく描写が有名でしょうか。
あの刹那の彼女は、人類それぞれの一番想っている相手へと姿を変えました。
そのキャラクターはシンジはじめ劇中の登場人物、そして庵野監督、
果ては我々観客の望みによって変化し、確立されているように感じるのです。
ゴジラは私が生まれる前から恐怖の象徴として、人類に対峙するものとして、
あるいは正義のヒーローとして、そのかたちを様々に変え今も愛され続けています。
その我々の望みを吸って息をする、ある種世相を反映するあり方に
私は綾波レイと同じ血が流れていると感じたのです。
恐らく今回のゴジラ氏もそうで、あれはきっと我々が望んだ姿なのです。
そしてこれからもゴジラ氏は我々の望みによってその姿を変えていく、
そういう生き物なのかなと。
どんな結末であっても受け止めるのはもちろんなんですが
なかなか希望の持てない現代社会で揉まれる腐女子は思うんです。
考えが浮かんだときはやばい!天才だ!と思ったんですが文章にまとめるとそうでもありませんでした。
お付き合いいただきありがとうございます。熱量を吐き出す場所がほしかったんです。
最後に、多大な熱量でこの作品を生み出してくれた庵野監督には本当に感謝です。
新作のヱヴァンゲリヲン、ご健在のうちに世に出していただければ嬉しいです。
どれだけでも待たせていただきます。
ゴジラ誕生六十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、エメリッヒ版ゴジラ公開二十年を迎えます。
私も六十を越え、製作費の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、怪獣としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の特撮映画の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、特撮ファンの高齢化が進む中、ゴジラもまた下火となった場合、どのような在り方が望ましいか、怪獣という立場上、現行の東宝の製作体制に具体的に触れることは控えながら、私が個獣として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
誕生以来、私は破壊行為を行うと共に、特撮映画の象徴と位置づけられたゴジラの望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる邦画と外画の中にあって、日本の特撮が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして映画界に君臨し、一般観衆の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、二度の海外版製作を受け、加えて業界の硬直による邦画の質の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように観客を満足させることが困難になった場合、どのように身を処していくことが、映画にとり、ファンにとり、また、私のあとを歩む怪獣にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に六十を越え、幸いに知名度があるとは申せ、次第に進む外画との品質の差を考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって破壊と蹂躙の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
FINAL WARSの公開から、ほぼ十二年、この間私は、特撮作品における多くの喜びの時、また悲しみの時を、沈黙と共に過ごして来ました。私はこれまで怪獣の務めとして、何よりもまず国民に恐怖と絶望を与えることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、モスラの声に耳を傾け、ファンの思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。ゴジラが映画の象徴であると共に、恐怖と破壊の象徴としての役割を果たすためには、特撮ファンが東宝に、ゴジラという象徴の立場への理解を求めると共に、ゴジラもまた、自らのありように深く心し、市場の要望に対する理解を深め、常に恐怖の象徴としての自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ地方都市や観光地への破壊も、私はゴジラの象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。平成シリーズの時代も含め、これまで私が敵怪獣と共に行って来たほぼ全国に及ぶ破壊は、国内のどこにおいても、その地元を憎み、その共同体に鬱憤を抱えた市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、怪獣として大切な、国民を思い、国民のために壊すという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
予算の低下に伴う製作の仕方が、破壊行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、敵怪獣がメカゴジラ(2代目)であったり、スーパーX IIIの超低温レーザーなどにより身体機能を果たし得なくなった場合には、破壊の行為を代行するウルトラシリーズを置くことも考えられます。しかし、この場合も、ゴジラが十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、シリーズの終わりに至るまでゴジラであり続けることに変わりはありません。
ゴジラが人気を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、特撮が停滞し、ファンの暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの怪獣映画のしきたりとして、シリーズの終焉に当たっては、重い責任のなすりあいの行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後なぜダメだったかに関連する議論が、一年以上続きます。その様々な行事と、製作費回収に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残されるファンは、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように、既存の製作体制の下、ゴジラは興業に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い特撮の歴史を改めて振り返りつつ、これからもゴジラがどのような時にもファンと共にあり、相たずさえて特撮の未来を築いていけるよう、そして恐怖の象徴の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
おもろかった!
初代ゴジラにつづいて見たけど当たりだな!
カラーになってたのがすごく新鮮だった
とりあえず感想に書いときたいと思ったのは、庵野秀明が嬉ションしそうな描写があったところ
具体的には、ゴジラを倒すために高圧電流を流す、っていう作戦のために、鉄塔の仕組みがウィーンガシャンウィーンガシャンって動く描写がめっちゃ接写でうつされるカットがあって、
エヴァのシーンとクリソツだなwww庵野秀明のフェチのツボ押しまくりだなwwwwと俺も興奮してしまったwww
カメラワークっつーか戦車をうつすカット割りもかなり似てるなあ、影響受けてるんだなあと、一作目につづいてしみじみ思った
肝心の作品について
なんかでっかい卵が外海にあらわれた
興行仕掛け人は万博っぽい会場つくって人寄せてもうけようとたくらむ
興行仕掛け人のところの小美人がきて、島から流されたものだから卵を返してくださいという
でも興行仕掛け人はいうことを聞かず、小美人も捕まえて見世物にしようとしたため、小美人は逃げた
新聞記者(初代ゴジラで隊員やってた人だった。初代のときよりちょっとふっくらしてた)が小美人と会う
正義感から新聞に書いて卵を返すように仕向けようとするけど、宣伝になるだけで全然ダメージくらってないことからやけくそになる
(この上司がめちゃくちゃ良い上司で、みててすごく気持ちよかった
(たいていこういうのって現場はいろんなことやりたいけど上司はわかってくれないパターンだけど、むしろ投げやりになる主人公を鼓舞してた
そんなときふとした会話に「モスラに倒してもらえばいいんじゃないか」というアイデアが出てくる
主人公の新聞記者たちは小美人、モスラがいる島へお願いしにいく
(ここの島の先住民の描写がインディージョーンズ魔宮の伝説とそっくりだった
最初はダメっていわれたけど、これからがんばるからおねがいっつってどうにか約束とりつける
戻ってゴジラとモスラが戦うけど、モスラは寿命と羽にゴジラの熱線くらったのとで死ぬ
ゴジラはまだ逃げ遅れた人がいる島へ向かう
逃げるための時間稼ぎをするために幼虫がよいしょよいしょって島へ助けに行く
島では幼虫とゴジラが熱戦をくりひろげる
幼虫は二手に分かれて糸吐き攻撃をする
ゴジラも熱戦で対抗するけど、幼虫はたくみに岩陰に隠れながら糸を吐くため、そのうちゴジラはすっかり糸に包まれて何もできなくなってしまう
ゴジラはそのまま海に落ちた
終了
えっ!?あれでおわり?ふつうに糸やぶってゴジラ復活してくるんじゃないの?と思ったけど、
あんだけ包まれて熱線もはけない状態だからもうゴジラの負けってことなのかなー
初代ゴジラの圧倒的なまでの勝ちと違ってちょっと物足りなかったけど、まあ幼虫ができることとかたかが知れてるよなあ
こわいっていうよりかはかわいかったw
しっぽが鉄塔にひっかかってぎゃーぎゃーさわぐ姿とか、溝に足取られてすっ転ぶところとか、それいる?(笑)っていうコミカルさが随所にあった
でも逃げてるじーさんとか子どものエキストラが笑ってたのもちょっといただけなかったなあ
思いがけずいい人だったと言えば、議員もいい人だった
干拓地について自分の利権とか評判ばっか気にしいかとおもいきや、ゴジラがきてるけどまだ逃げ遅れがいるんだ!船をだしてくれ!私には責任があるんだ!って熱くなるところとか、なんだおまえいいやつだったのかと気持ちよかった
全体的に悪人が興行仕掛け人+バックのやくざ?だけで、それ以外はみんないい人だった
勧善懲悪、出てくる人も気持ちいい、ゴジラもこみかるだけど、ゴジラ対人間、ゴジラ対モスラ(+幼虫)の2戦がボリュームたっぷりに入って90分ってのは、すごく密度高くて、めちゃくちゃおもしろかった
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。
あのシーンはノートPCのインカメラを使って撮影するという、いかにも若手がやりそうな演出をアニメ映画とはいえベテラン監督がやっているのが、見ているこっちがこっ恥ずかしくて印象に残った。
シンゴジラ批評が盛り上がっているので、個人的に気になったことを…
見終わって、あちゃー、立った状態で逝ってしまわれたか、と思ったのは俺だけじゃないはず。だって、一応、放射性物質だから、あのあとコンクリートで覆うんじゃないの?あんな風に自立してたら超巨大建造物になるけど、そのデザインは一体誰が?ザハ先生がご存命であれば、たぶんすごいデザイン案が出ただろう…と本編後のことが気になっている。
せっかく凍結状態にしたのだから、生き返りでもしない限り爆破するようなことはないだろう。とすると死体の処理方法は、そのまま放置、周囲を覆う、解体して移動する、丸ごと移動する、の4つに絞られる。
まず放置した場合、東京で経済活動を続けることが難しくなる。福島原発事故のときのように、外タレが日本に来てくれないどころの話じゃなく、たとえ都市機能が維持できていても、人が集まらないので経済活動を維持できなくなる。
ではコンクリート壁で囲った場合、それで安心して人が集まるのかといえば、それも疑わしい。穴を掘って埋めるという方法もありがちだが、工費がかかるわりにメリットはそれほどないはず。
解体に関しては、怪獣の闇マーケットが存在するハリウッド映画であれば簡単なのだが、日本映画ではそうもいかない。あちらの世界ではキングギドラの肝とかモスラの糸が闇マーケットで取引されているんだろうが、こちらの世界だと「人間が手を出すとしっぺ返しをくらう」のが怪獣映画の鉄則だ。オカルト的ではあるが、無性生殖によって増殖したり、細胞から新たな怪獣が誕生するのがこちらの伝統である。つまり解体という選択を選んだら、おそらく続編は怪獣大戦争ルートに突入すると思われる。
では丸ごとどこかへ移動するとした場合、まず放射性物質なので国外へ持ち出すのは難しい。当然ながら国内にも受け入れ先はない。せめてお台場まで運ぶとして(ガンダムと並べたら価値がありそうなので)、それだけで国家予算並の費用がかかってしまい、その費用を別の目的に回したほうが良さそうだ。あるいは東京湾に捨てることも可能だろうが、復活する可能性を考慮すると実行しづらい。
こうして考えてみると、結構やっかいな難題である。おそらく政治家たちが遷都とか首都機能移転に夢中になりつつ、民意は翻弄され、マスコミは東京を守ろうとキャンペーンするような、どうしようもなく何も進まない状態が、後日談として妥当なセンではないだろうか。
ここで、この話は一気に残念な方向に向かう。というのも、シンゴジラのストーリーは核攻撃を回避したことでハッピーエンドになっていたのに、この後日談の推測では、その実態は「核攻撃されたのと大して変わらなかった」ということになるからだ。
話をまとめるとこんな感じになるだろう。
ゴジラが放置される。石棺による封印が検討されるが専門家の意見が別れる。あと石棺のデザイン案で揉める(頭だけ遠くから見えるようにしたら、新しいコマ劇の本物みたいで楽しそうだ)。都心から15キロ圏内は避難指示、30キロ圏内は避難勧告が出されたまま解除されない。首都圏の土地は大暴落する。逆に首都圏以外は土地バブル。急激な円安とインフレになる。不安心理から出生率が向上。首都機能移転が推進され、京都遷都が実施(京都民大歓喜)。9条が憲法改正される。ゴジラ対策を名目に核保有を宣言する。
怪獣映画というのは敵のいない戦争映画みたいなものなので、シンゴジラがどこかネトウヨ寄りになるのは仕方ないとしても、こうして想像すると果たしてあのストーリーはハッピーエンドだったのかどうなのか。
まあこういうのって、死体がしれっと消えるのが怪獣映画のお約束なので、深く考える意味はあまりないのだが、お約束に頼らない現実寄りのフィクションであるところにシンゴジラの価値があるとすれば、もし続編があるとしたらこうした後日談も描いてほしいところである。