はてなキーワード: スペクトラムとは
>好きな作品をつまんない、面白くないなどと断じられて気に食わないのはわかるが、
確かに好きな作品を腐されれば面白くはない、面白くはないがまず言っていいか。
それについて行き違いがあるようなので書く。
(そもそも自分はここに挙げられた作品の大半をそこまで好きではないので「好きな作品」と断じることに疑問があるがまあ書かなかった自分が悪いということで)
まず自分は
>「つまらないと感じた人が一人いる」と認識するでしょう。誰だって。
明確にこの一人でもある。
なるほど、元増田には合わなかったんだな。合う人もたくさんいる面白い作品だが、合わない人がいるのは当たり前だ、仕方がないね。
である。
ツリーには「〇〇を読んであの理解になる増田はおかしい」コメントがいくつかある。
「???本当にその作品を読んだのか???もしかして、同じ名前の別の作品があるのか?」と
首をひねるような表現が多々ある。
まあ、確かに、そういう目で見ようと思えば見られなくもないけれども・・・?????と思うことすら難しい箇所すら頻出する。
念のため書くが自分自身の解釈とずれる(から気に喰わない)という話ではない。
客観的に、というのも難しいが、客観的に元増田はかなり偏った解釈をしている。
少なくとも、元増田記事で取り上げられた漫画の読者の主流とはかなり違う目線で見ているのではないか?
そして、なぜそうなるのか?
その推測を書いただけだ。
つまり、感情でいえば気に喰わないよりも、理解不能なあまりの驚愕のほうが9割ぐらいを占める。
>アスペだの
他のコメントで複数が「のだめはアスペちゃうやろ」と突っ込んでいる通り、
多少なりと発達障害の知識がある者であれば、のだめはアスペルガー症候群あるいはそれに近しいスペクトラムにいるとは到底思えないことは理解できるはずだ。
>それとも自分の攻撃で相手がどう苦しむかを愉しむために人間の内面に興味があるとか?
あなたは「何が人格批判かは自分が決める」と思っているのかな?
それとも「自分が行っているのは"ただの読解を批判"で、お前が言っているのは許されざる人格批判だ」と言います?
あなたは自分が書いた「他人の内面に興味がないタイプなのではないか」が気に入らないようだ。
他人の内面に興味がないタイプを否定しているのはあなた自身では?
自分が否定しているからこそ、私が書いたこの何気ない非難を含まない推測が気に喰わないように見える。
子が自閉症スペクトラムと診断された。
いわゆるアスペルガー症候群というやつだ。
2013年に診断の世界基準とされるDSMが改定された(DSM-5)ことで、アスペルガーは自閉症の一形態ということになっている。
診断と言っても、傾向があり可能性が相当に高いという話ではあるけど。
自閉症スペクトラムがその名の通り連続体(スペクトラム)なので個人差が大きく、
その上血液検査みたいなもので数値判定することもできず、症状が広範で明確に区別できないので診断も難しいと思われる。
今のところ知的障害はないように見える。
自閉症は他人と関わりを構築するのが苦手・或いはできないだけであって、知的障害を伴わないものがある。
幸いというか、数ヶ月前にあるきっかけで自分自身がアスペルガーではないかという疑いを持ち、
田舎であり心療内科の数がほとんどなく予約が取れないこと、主訴(実際に生活で困っていること)がないことから
心療内科にかかることもできなかったけど、思い当たることが多すぎて100%間違いないと確信している。
そしてその才能(アスペ)をいかんなんく発揮し自閉症スペクトラムについて無駄に広範な知識を手に入れ
診断がくだる前から知識武装がされていたこと・パートナーにその事実を伝えておいたことで
それで困難と感じていないのであれば障害ではなく個性と認識される。
その意味で高機能自閉症は「自閉症スペクトラム」であって、「自閉症スペクトラム障害」ではない。
いかに「障害」にしないか、がこれからもっとも重要なところだと思っている。
保育園も含めてどうこれから「介入」していくのかということを考えているときにふと気付いた。
本人を社会に順応させるのが目標ならば、家族は本人を取り巻く環境の一部であって、本人に合わせて介入される側だ。
ある程度知識を得たとしても、それは生半可なもので、臨床経験が豊富な人の意見に従う必要はあるだろう。
子供の教育に介入するのは、プライベートに土足で踏み込んで来るようなもの。
それなら我々が用意しておくのは雑巾(掃除道具)なんだろうなと。知識よりも心の準備の方が大切だなぁと思った。
未満児の段階で自閉症スペクトラムを診断される。
自分が同じように診断してもらえていたら、おそらく全然違う人生を歩んでいたんだろうなと思う。
障害を個性だと主張しても、やはり障害は障害なのだ、目が見えない人はどう頑張っても本を読めないように、
僕はどう頑張っても普通の人のように円滑な人間関係を築くことはできない。
努力で解決すべきか、諦めて他の道を探すかの選択をするときに、
「これは障害であり、自分には不利である」と分かっていたら、どれだけいい選択ができたことか。
姿勢が悪いのを物差しを背中に当てられて強制されるようなこともないだろうし、
(姿勢が悪いのもアスペあるあるらしい、おそらく同じ姿勢をとることがあまりなく自然に体幹が発達しないのだろうと推測)
時間の多くを長所を伸ばすことに当てられたらどれだけ良かっただろうか。
アスペルガーのもう一つの特徴は興味の局所性と集中であり、興味がないことはとことんできないということだ。
人との関係を構築する能力を失う代わりに得ているものがあるそうで、多くは数学的能力(論理的思考)か、言語的能力だそうだ。
自閉症スペクトラムの子供に調査を行ったアメリカの研究では、一人も自分の障害をなくしたいと思っている子はいなかったそうだ。
僕も同感だ。
障害が自分の能力の一部であり、危ういバランスの上にいることを自覚しているのだろう。
自閉症スペクトラムは遺伝性のものであるという強いエビデンスがあって、
自閉症の親から自閉症の子が生まれる確率は通常の50-100倍だそうだ。
そう、100%僕が悪い、と同時に、100%僕の親が悪い、と同時に・・・・遺伝とはそういうものだ。
妻には申し訳ないと思う。しかし生まれつき他人と違うというのは、メリットになりうる。
子にもそう思ってもらえるよう、色々模索して行きたい。
幸いと言っていいのか、僕も通ってきた道だ。
登山で延々藪漕ぎをするのはしんどいが、アスファルトで舗装されていても醍醐味がない。
ちょうどいい登山道を用意し、同時に登山道の作り方を教えて行けたらいいなと思う。
しかし楽観もできない。
知的障害がないとは言えないし、
これから発達が進むにつれて見えなかったものが見えてくるだろうし、
前途は多難だ。
ちなみに今のところ生活に何も困っていないが、特別児童扶養手当の申請はしておく。
困ってからではなく診断が出た段階で申請するのがベストだと思うし、
行政の用意してくれているセーフティネットには引っかかりやすくしておいた方がいい。
運よく検診で拾って貰えたのは本当によかった。
私の読解が間違ってるのでなければ、
Vチューバを採用する問題と、職場の水着ポスターの問題は、前者が「私たちの論理」で後者が対人性愛者の論理で捉えられるべき範疇にある。現実の水着ポスターの問題を解決した対人性愛者の論理を空想のキャラクターに当たり前のように適用するのはフェアじゃない。そうして生じた問題はそもそも、野蛮さも危険さもないVチューバとしての自己表現を歓迎するフィクトセクシャルの常識では起こらないのだ。
このように仰りたいのか? ならば、「助かる」はどうなる。
Vチューバの文化ではライバーがクシャミや、せきをしたとき「くしゃみ助かる」とコメントする文化がある。ホロメンとか人気のVでは「助かる」は大量に流れる。悪いときは当人が嫌がっていてもお構いなしだ。助かるの動機は人それぞれだけど、最も広く受け入れられている説明は、Vチューバが現実の世界に確かに生きていると実感できるから、というもの。有名な話だが、Virtual の翻訳——“仮想” は誤訳だったと言われている。実質上の・事実上の・実際の、がより正確な意味になる。実質上は現実の Youtuber であるアバターを被った存在がVチューバなんだ。フィクトセクシャル増田よ、私の言いたいことがわかるかい。Vの視聴者の中には多くの対人性愛者が、スペクトラムの向こう側の人々が大量に含まれていて、単に現実の女性アイドル・芸人の代替として彼女らを観ている。もしこちら側の人間が大多数だったなら、キズナアイの分裂は成功して今日の彼のVの活動範囲はもっと広くにわたっていただろう。
実際上混ざり合っているリスナーの中に、フィクションを現実として受け取る人がいる。
問題を起こすのは対人性愛者なのだから、対人性愛者用の論理が適用されるのが正しいだろう。
私は横増田だ。
「アバターの格好を否定されたら、主体性を持って自分のあり方を選択した中の人が悲しむ」
こんな風に言っているブックマーカーがかなり多く、いた。それはフィクトセクシャル的な分離の考え方ではありえない判断ですよね? かの増田は彼等をたしなめるために筆をとったのだと思う。
警察が、胸を揺らす女子高生にみえる女性を広告塔として利用する。
フィクションを現実として受け取る人は理解する。なるほど、現実の女性は道具として利用していいんだ。
追記・
私自身はフィクトセクシャル側の深くにいるようだ。増田を読んでいると、思いもよらぬ新しい視点を教えられる事がある。今朝もそうだった。
私はいままでは、オタク側の論者として戦争に参加してきた。でも私には、得られた新しい見方を持ってしても、否定できないように思えたんだ。
「警察の女性V広告採用への弾圧は女性性の抑圧なのに、職場の水着ポスターを全会一致で弾圧したのは女性性の抑圧にならないのは何故?」
今のところ対峙する勇気があったのはフィクトセクシャル増田だけのようだ。
増田を常にウォッチしてるアンチ・フェミニズムサイド の α 増田ブクマカーは高々 20 人程度だろうと思う。増田たちと彼等がアウンの呼吸でこの話題を流してくれれば、波風は立たずに終わる。表現の自由を守るために、フェミニズム批判は続けられる必要があるはずだ。この視点は、向こうからの射線、だけが、通る。一方的に撃たれる。誰かが拾えば負ける。
取り急ぎ追記するが、排除とか多様性とか言っている人がいるが、では職場や居酒屋から水着のグラビアポスターがなぜなくなったのか教えてもらいたい。あれははてブでもセクハラだとして、なくなったことを喜ぶ声が大半だった筈だ。
さらには「私作る人、僕食べる人」以降、「ブレンディ 卒牛式」「志布志市 うな子」「サントリー コックゥ~ん!」「アフロヘア黒人女性 ツヤッツヤのサラッサラになりたい」「リカちゃん 個人情報暴露」など不適切として取り消された広告はいくつもあるのだが、それらは一切取り消す必要はなかったという認識で良いだろうか。もちろん今回の「仕事は、楽しみですか」も含む
それら全てが、本件とは全く問題が異なる事例ですね。(これらはこれらで個別に論点が異なりますが。)
私はこれらに全く興味が無いので、肯定的でも否定的でも、そちらは勝手に論じてくれれば良いと思います。
フィクトセクシュアルという言葉が社会学の論文に現れるようになったのも最近の話ですし、フィクションやキャラクターを性的対象としたり、イラスト・創作表現やアバターを介してファッションやジェンダー・エクスプレッションを表現する人々が確かに存在するということが発見されたのは、つい最近のことなんですよね。
それまでの間、私たちの存在はずっと周縁化され続けてきたわけです。対人性愛者の、対人性愛者による、対人性愛者のための論理によって、一方的かつ不当に断罪され続けてきたわけです。
私はフィクトセクシュアルですが、私にとって「私はフィクトセクシュアルである」というアイデンティティの中心は、「二次元キャラクターを性的対象としている」ことよりも、むしろ「人間を性的対象としない」ところにあります。空想のキャラクターを人間の人格と同様、あるいはそこに紐付ける論理、バーチャルなアバターを物理的な身体と同様、あるいはそこに紐付ける論理は、対人性愛を自明視した論理でしかありません。私たちは、キャラクターがキャラクターだから性的対象とできるし、アバターがアバターだからファッションとして消費できるのです。あなた方対人性愛者とは、全く異なる常識、文化圏に生きていることをまずは認めてください。「私たちの論理」を尊重してください。
そして、「私たちの論理」は、必ずしも、私のように対人性愛を一切持たないフィクトセクシュアルのみが共有しているものでもないでしょう。セクシュアリティはスペクトラム状の広がりを持ちます。実際のところ、譬えばバイセクシュアルのように、対人性愛と二次元性愛を両立させている人が大半でしょう。しかし、彼らがキャラクターやアバターを消費する時もまた、「私たちの論理」に即した消費が行われているように私には見えます。対人性愛者の論理と、「私たちの論理」が、ある程度適切に使い分けられているように見えます。(完全に無垢無謬とまでは言いませんが。)
あの程度の表現が、許容できないほどに「性犯罪を誘発する」「ジェンダーバイアスを強化する」と言うならば、「異性と結婚する」ことや「自身のジェンダー・アイデンティティに一致する服装・メイク」などの方が、よほど「性犯罪を誘発」し「ジェンダーバイアスを強化」するでしょう。このようなミラーリングは、先程述べたようなスペクトラムにいる人々にも受け入れ難いもののようですが。
対人性愛者の論理と、「私たちの論理」の使い分けは、時に未熟なこともあるかもしれません。だからと言って、その責任を私たちに押し付けるのはいい加減やめてください。「対人性愛者の論理に一括すれば、問題は起こらない」と、民族浄化しようとするのをやめてください。「私たちの論理」に一括するのではいけないのですか?野蛮で危険な対人性愛を一刻も早く卒業して、誰もがキャラクターのみをパートナーとし、誰もがアバターのみで自己表現を行うようになればいいと私は思います。「(俺たちの)常識に合わせろ」と言うなら、逆に、「私たちの常識」に合わせてくれてもよいのではないですか?
フィクトセクシュアルやフィクトジェンダー、その他スペクトラムのような、迫害を受けてきたマイノリティを批判の対象とする以上、批判側の論理は反論側よりもはるかに緻密で慎重なものである必要があるんじゃないですかね。
「Aは賛同するが、Bは賛同しない」という複雑な立場は、こんな風に論点がとっちらかっていたら答えられるものも答えられない。
など、語るべき論点があまりにも多すぎて「もう少し勉強してきてください」という感じだ。
一応答えておくと、見たいか見たくないかで言えば見たいですかね。
前述の通り、これを答えたところで何にもならないのですが。
法人格には法人格としてのアイデンティティやプライドを持つ場面もあるでしょう。
個人の人格はなくとも、企画チームとしての魂が宿ることもあるでしょう。
実際、例えば侮辱罪や名誉毀損といったものは、法人格に対しても成立します。
老舗ブランドや個人商店、NPO法人などを擬人化して「プライド」とか「礼儀」とかを語るのは、誰もがやっていることだと思うが、それをVtuberに適用することも出来るんじゃないですかね。
まあ、論点としては「Vtuber自身の法人格」よりも、「ファン個々人のアイデンティティ投影先としての、Vtuberというアイコン」の扱いに関するものの方が割合としては大きいのでしょうけど。Vtuberという特性上、「ファン個々人」という総体は、フィクトセクシュアル・フィクトジェンダー、あるいはその周辺スペクトラムに属する人々、迫害を受けてきた(受けている)マイノリティも多分に含むのだから、何か不満があるとしても慎重に対応して貰いたいものでしたね。
人間じゃないから、それに対して湧いてくる感情や情欲は、人間の間で語られるセクシャリティだとかの感覚と同列に語っちゃダメなんよね。まったく別のもの。
「同列」かどうかと、「異なる文化・スピリチュアリティを持っている」かどうかは違うんじゃない?
異性愛と同性愛は「同列」のセクシュアリティだけど、異性愛者が同性愛者を語る時に、「女装男子でもめちゃくちゃ可愛いと男でもいいかって思えてくるしな!俺も同性愛者の気持ちわかる!」とか言うのは同性愛者からすれば「全然違うわ」という話になるけど、そういう話に近い気がする。
異性愛や同性愛のような対人性愛も、二次元性愛や対物性愛のような非対人性愛も、「同列」ではあるけれども、対人性愛者から「二次元は理想だし、現実にいて欲しいよな!わかる!」と言われたところで、二次元性愛者からすれば「全然違うわ」となる。
まあ、そこら辺はスペクトラムもあるから色々複雑で、「全然違う」と言えるスピリチュアリティに共感しなければ「真の」セクシュアリティとは言えない、とまで言ってしまうと、また問題があるとは思うけど。
年々、発達障害とされる人々は増えている。
以下、発達障害者を発達と略す。
あと、ここでは「発達障害は障害ではない」とか「スペクトラムの問題だから」みたいなことは扱わない。そんなこと言われても現実にあってないし何の慰めにも奮起にもならない発達は多いだろ。昔は発達にも居場所があったみたいな話も同じく。ただの社会的隔離を美化してる場合がある。
なんで発達が増えてるのか、医者と、教師の知り合いに聞いてみたことがある。それぞれの考えは違っていた。
ある中年男性の医師は、一般生活に求められる技術や社会性のハードルが上がり過ぎたから、と言っていた。つまり殆どは外部の、要因だと。
教師は、ちょっと違ったことを言っていた。後天的な要素もあるけど、それに反応してしまうトリガーについては常に先天的にあるだろうし、それには確かに遺伝があるのでは、みたいな事を言っていた。
上の意見は参考意見として、俺が言いたいのは、発達は新人類じゃないかってこと。そしてそれをめちゃくちゃに、クソみたいに、バカみたいに誇って良いんじゃないかってこと。
クソとかバカとか書いたのは、図書館とかにある上品な福祉本みたいな生やさしい肯定ではなく、社会に敵対したりキモがられたり腫れ物にされたりする存在なのを本格的に誇るために。
これまで、発達はそれぞれ一人一人の苦しみのなかで閉じ込んでしまっていたり、自助グループみたいなのに繋がっても「定型の、現行の社会」に矯正されるための監視された自助みたいなことしか出来なかった。
CPの人たちは青い芝の会という戦闘的な障害者活動をしてたし、なんなら同性愛者もラディフェミも色々やってる。発達もそろそろ似たやり方をとるべきなんじゃねえか。
発達は、よく「挨拶や謝罪の形式みたいな社会的マナーや文化が備わってない」と言われる。いいじゃん。新しい文化作ろうよ。今まで現れてきた色々な文化もマナーも、「新しく」作られた瞬間はあるんだろ。発達もそれなんだよ。それが見れて嬉しいだろ。学者は心配してないで、これについて論文書けよ。
カサンドラがどうとか「発達は身近な人を傷つける」とか騒ぐやつもいる。いいじゃん。俺たちは新しい人間関係のモデルを今作ってんだよ。なんでパートナーが発達だって分かった瞬間「答えが得られた」気になってんだよ。相手が発達じゃないなら「傷つき度25」で発達なら「傷つき度100」なのかよ。
でも、個人的な人間関係ばかりやっても限界があるし根本的な問題は解決しない。もっと根幹に切り込もう。
発達障害手帳の効果が他の手帳よりかなり少ない。役所にみんなで乗り込んで訴えようぜ。
発達は税金関連の処理が苦手だよな。税務署を占拠して「もっと簡単にしろ、発達の税金軽くしろ」って示威しなきゃだめだ。
「ケーキの切れない」とかなんとかで有名になって、発達がかなり牢屋に入れられてる事が分かったじゃん。それでそんな記事みて「なるほどな」って思ってるだけなの?刑務所を取り囲むべきだろ。発達を社会に返せって。社会が発達と直接向き合って新しい文化を作る機会を奪ってるって。
そもそも、少数民族レベルでも自治権を得て、これから増えていく発達の数に見あった土地を得るべきでは?
強めに書いてきたけど。
発達が増えてるとかいう情報に触れて、発達自身が何で卑下しなきゃいけないのか?それに腫れ物ともキモがりともつかない態度で接する社会ってなんなの?その社会は必要な社会なの?って事なんだよな。
そしてそれは、発達が、ホモ・サピエンスの新しい形みたいなこと、そういうレベルにしないと、説明がつかない。
発達は新しい人間。おめでとう。
子どもやケモノやグロや猟奇にエロを見出す勢がいる以上、「これはエロじゃない」ものは存在し得ないような気はする。
以前盗撮写真のみで構成された写真展の絡みで話題になったんだが、検診で取られた内視鏡写真がエロ画像として羅列されていたサイトがあった。
ガチの医療用検査結果写真なので女体どころか内臓を写したものでしかなくて、被写体の情報はごくわずか(何月何日に取られたもので患者は何歳の女性、みたいな小さい添書き)しかない。膣の検査写真ですらなかったような気がする(大腸内視鏡の写真だったような…)。
でもそれも、あのサイトのターゲットにとっては「エロ画像」だったわけだ。
でもそれも「エロ」なんだ。そんなんも内包してしまうもの、それがエロだ。
ただ、大抵のものは、「エロ」に変換する前に一手間挟む必要があるものとないものに分けられるような気はする。
というより、致している直球の画像とか以外は、妄想の連想によって「致しているまたは致すまでの過程」に結びつけられるわけで、その連想を必要とするものは本来エロくはない(=自動的にエロ目線で見てしまう奴は認知が歪んでいる)と考えることは可能なように思う。
自閉症がスペクトラムであるのと同じように、エロスペクトラムみたいな分布図的なのが作れるような気がするというか。
その理屈でいくと、ミニスカ・ロンスカは(めくれていない状態では)スラックスと同程度にしかエロくはなく、単体の女(体)は単体の男(体)と同程度にしかエロくはない。
「スカートをめくりたい」「女とヤリたい」、そういう欲望がそれらをエロくするのであり、自分にそういう欲望があるということを「スカートが/女がそういう欲望を自分に起こさせる」という風に責任転嫁すると、自分が連想と欲望によってそれらをエロに結びつけているというプロセスが意識されなくなっていく。
で、結果として万物がエロく見えやすくなり、何でもないスカートにエロを感じたり、女にセクハラしたり痴漢したりするようになるわけだ。認知の歪みというやつだな。
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/sexspectrum/outline.html
生物の性はこれまで長きにわたって、オスかメス(男性か女性)のいずれかに分類されるものとして捉えられてきました。その一方で、このような二項対立的な性の捉え方では説明がつかない様々な事象が古くから知られていたのも事実です。
例えば、典型的な男性・女性の枠に収まらない人の存在は昔から認識されてきましたし、自然界に目を向ければ、多くの動物種で、メスのような外見や行動を示すオスや、精巣と卵巣を同時にもつ個体などが見つかっています。さらには、生活史の途中で性を変える動物種も多く存在します。
これらはあくまで例外的な性の表現型と見なされてきましたが、ここに来て、種々の実験動物を用いた私たちの研究でも、ややメス寄りの性質を示すオス、逆にオス寄りの性質を示すメスなど、典型的な雌雄の間に位置する様々な性の表現型が見出され始めました。
私たちは、これらの事象をどう解釈すればよいかについて議論を重ねてきました。その結果、これまでは二項対立的な表現型と捉えてきた雌雄を、連続する表現型として捉え直すことによって、上記の事象を含めた性に関する様々な現象を統一的に説明できるのではないか、と考えるに至りました。
このオスからメスへと連続する性の表現型を性スペクトラムと呼ぶことにしました。本領域ではそのような視点のもと、様々な動物種や実験系を用いて雌雄の連続性を検証するとともに、個々の性がその連続性の中に位置付けられるメカニズムを解析します。そのような研究を通して性スペクトラムの姿が明らかになれば、性の「再定義」につながると考えています。
男性向けのエロを描いたり好んだりする女性って、大体以下の3パターン(またはそれらの混合)だと思う。
(私は男性なので「女性のセクシュアリティ」を勝手に考察するのは失礼だと理解してるんだけど、名誉男性的なレッテルを貼る人々の横暴も目に余るので、私の目から見た私なりの考察というか妄想をボソッと。どのパターンも、少なくとも「男性のため」とかそういうのじゃないと思うし、何ならセクハラとか人一倍嫌う人が多いと思うよ。)
精神科に行って「強自閉スペクトラム(知能・言語は通常なのでアスペルガー)と、強ADHD」と診断された。
dsm5, Hallowell-Ratey test, weis、stai, lsasj, tegii, aq, caars などテスト済で、かつカウンセリングを通して診断された。現在は音の過敏対策用の抗不安剤と、ADHD用の精神安定剤と、睡眠薬をもらってる。
まぁ精神病なのは昔からわかってたんだけど、「自分は、大嫌いだった糞親に似ている」と若干気づいてた部分に対して「自閉スペクトラムはほぼ遺伝です。後天的な要素はほぼなくて、生まれつきのもので一生治りません」って言われたのが一番グサってきた。
絶望しかねーだろ。当たり前だけど俺は子供作らない事にした。この負の連鎖はここで断ち切らなきゃって。それとともに、「むちゃくちゃ対人関係とか努力したのに、あれ全部無駄だったんすね・・・苦しんでるの自分だけだったんすね。。。。」ってなった。
するとね。すげー楽になった。「あ、俺は一生治らないんだ。じゃあもう目を合わせられない癖も直さなくていいし、会話が苦手なのも頑張らなくていいし、カラオケとか仲間内の行動苦手なのも合わせなくていいや」ってなった。「駄目って言われたら精神病って言えばいいじゃん」みたいな。
仕事はいまのとこ順調だけど、このリミッター外したことで退職するようになったら精神病の免許みたいのもらえる。それもらってなんか手当とかもらえる。
はっきりした線引はできないよ。
ただオタク気質というのは、自閉症と強い相関関係があると思う。マンガやアニメが好きでもオタクという雰囲気が出ない人は自閉症じゃないんだろう。
オタクという言葉自体は自閉症を意味していないが、世間一般で「オタク」と蔑まれる傾向の人間は自閉症気味だと思う。
自閉スペクトラム症と言われるように、症状は多岐にわたるし、コミュニケーションが出来ないレベルから日常に差し支えないレベルまで多彩(程度の差があれ、しかし共通の傾向はある)だからスペクトラム症。
https://www.smilenavigator.jp/asd/abc/
”定型発達児が家族の真似もテレビ・映画のキャラクター真似も可能であるのに対して、自閉症児では家族の真似は困難だがテレビ・映画のキャラクターの真似は可能”
よく「着る服に無頓着なオタク」として語られがちな人々というのが、実際には決して「ファッションに無頓着」なわけではなく、マジョリティとは異なる形でgender expressionを捉え、ファッションを生産・消費してきたのではないか? という問題意識をいい加減共有してもらいたいんだよなぁ。
宇崎ちゃんの献血ポスター的なものというのは、その意味でのgender expressionとして機能しうるものの一つではないのか? という問について真面目に考えて欲しいんだよなぁ。
ポルノ的な要素・消費のされ方が完全に0とまでは言わないが、全てはスペクトラムであって、いい加減100%ポルノ扱いすること自体がそもそもフィクトセクシュアル・フィクトジェンダーに対する差別意識そのものだとも気づいて欲しいけど。宇崎ちゃんの献血ポスターに関しては言えば9割がた「ポルノ以外」の要素が占めてるだろうと、フィクトセクシュアル当事者の感覚としては思うよ。(ナラティブなのでエビデンスはない。)