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はてなキーワード: サルトルとは

2017-10-22

anond:20171022134700

元増田じゃないんだけど実存主義で思い出したことがある。

大学生とき、昔から何もできない自分が嫌でせめて哲学書を読んで思想理解しようと思ってサルトルを読んだりしてた。

それで自分では実存主義理解したつもりになってた。

その後大学の授業である女の子と知り合ったんだけど、その子は幼少期から父親DV、両親の離婚、付いていった母親統失発症虐待、そこからの逃亡とかで苦労してきた人だった。

普通な心が折れるような波乱の人生を乗り越えてきたからか物凄い努力家でめちゃくちゃ優秀な子だった。

ある時、その子の考え方を聞く機会があった。

その考え方っていうのは、物事自分がやりたいかやりたくないかだし、選んだことに対しては責任を持って遂行するしか自分気持ちが救われることは無いということだった。

自分はそれを聞いてびっくりした。

それはサルトルの言う実存主義そのままだったから。

の子は本は全然読まないらしいから、多分哲学書を読んで得た思想とかじゃなかったんだと思う。

自らの経験を通してずっと考え抜いてきて、それに基いて行動していた。

自分サルトルの本を読んで実存主義、というか人間がよく生きるということがどういうことか分かってた気になってたけど、結局それは行動に移してなければ意味がないんだなと理解させられた。

そのことで自分主体性を持つということを学んで、自分はその当時他に比べると少しは興味のあった情報系の学問を究めることにした。

そして責任を持って色々な選択をした結果、今は情報系の研究職に就いている。

自分もそうだったけど、元増田無駄努力はせずにコスパ良く今の社会構造でできるだけマシとされるところに行きたい人なんじゃないかなと思う。

でもその生き方だと元増田が言うように薄っぺら人生に嫌気が差してくるんだよね。

もし少しでも元増田がそこから脱出したいと思うなら、少しこだわりを持ってみてもいいんじゃないかなと思う。

長くなったけど、元増田には今より少しだけ頑張ってみて欲しいと思う。

2017-10-10

https://anond.hatelabo.jp/20171010002131

その人の人生経験とかで何が刺さるか変わってくるから社会科学は。

から一概には言えんが、やっぱマルクス入り口として良い。最近入門書が山ほどあるし(池上彰、ハーヴェイ、不破)、何より単純に面白い

そっからケインズとか読んでも良いし、現代思想に進んでも良いし、キリスト教に行っても良い(マルクス主義キリスト教異端なので)。

ヘーゲルなんかに行っても良いけど趣味

哲学ならサルトルニーチェ辺りがやっぱ分かりやすい。マルクスと合わせて読むとジブリ映画意味が良く分かる。

でもやっぱ行き詰まるので、結局ここでもキリスト教勉強せざるを得なくなるが。

法律学は暇な理系大学生がなぜか勉強してたりするんだけどお勧めしない。

本を読むだと理解できないし、法律根底にある原理内面化して人格が歪む。簡単に言えば橋下徹みたいになる。

あとはもし増田北大生なら内村鑑三でも読んでおくといい。

2017-10-02

https://anond.hatelabo.jp/20171002233022

人によって悩みや関心が違う以上、これを読むべきなんてとてもじゃないが言えない。ネットに山ほどブックガイドがあるし、その中から気になるやつを読めば良い。

(とはい大学生なら大体ニーチェサルトル辺りにハマるんじゃないかと思うけど。)

ただ、いまブックガイド見てたら安直ドストエフスキートルストイを勧める輩が多いんだけど、この辺は聖書理解がないと全然わからんので注意。この点の留保なく勧めてくるやつは大体読んでない。

2017-08-31

[]ニーアオートマタ 5h

インストリー遊園地クリアしてロボットの村まで行って、ろぼっとなのにほんとに人間の敵じゃないの?って疑いを晴らすために、レジスタンスの人に届け物を渡しに戻ったところ

サブをこつこつやってた

迷子の妹ってやつとサルトルの憂鬱ってやつ

まだ現時点ではファストトラベル解禁されてないから移動がめんどくて心折れそうになった

とくに後者

パスカルの村から遊園地との2往復はまだいいとして砂漠までの2往復がうざすぎた

というか時限あっても3週目まで行けば好きに選べるらしいからとりあえずクリアするかな

とりあえずクリアで満足してしま可能性もあるけど、現時点でストレスためて時間かけてやるのは社会人にはしんどい

2017-08-18

オートマタに関しては、

朗読コンサートも是非。

台本から観た千秋楽の衝撃…。

## オペ子6Oの登場する台湾公演や如何に…。

NieR Music Concert Blu-ray人形達ノ記憶≫ NieR Music Concert

| SQUARE ENIX

http
//www.square-enix.co.jp/music/sem/page/nier/concert2017_BD/

小説も如何に…。

小説NieR:Automata(ニーアオートマタ) | スクウェア・エニックス e-STORE

# : http://store.jp.square-enix.com/item/9784757554368.html

オートマタ本編でいうと、

やはり、Eエンドの演出。042の「繰り返す…」の流れ。

三周目の冒頭からの怒涛の流れも良かったです。

上げてから落とすパスカルイベントも…。

エミール追憶からの「同胞達の行方」の流れ。

記憶喪失」や哲学する機械生命体も良い伏線でした。

その他、本編を補完するサブクエたち。

ロミオ達とジュリエット達」や、

A2+ポッド漫才も良き息抜きになりました。

おのれ、サルトル…!

パスカル村の大型機械生命体の最後や、

論理ウィルス感染後のポッドの回答までの間も、

何気に…。

ウィンドウショッピングのくだりと2B最後場所…。

セーブ削除後、再度、最初から周回プレイをすると、

初見とは違った印象をもつのもまた…。

→ 「その戦いに誇りを…」を受けた2Bさんの表情、とか…。

→ 「裏切りのヨルハ」では話さな2Bさん、とか…。

バンカーが落ちたからそこ出来た自己犠牲、とか…。

2017-07-12

https://anond.hatelabo.jp/20170712225424

宮崎駿って、①戦争が身近にあった世代で、②マルクスサルトル精通したインテリで、③児童文学をはじめとするさまざまな本を読んでて、④技術力も満点、⑤仕事場保育園があっていつでも作品の受けが確認できて、⑥鈴木敏夫っていう商業主義的なパートナーがいる、っていう点でかなり特異。

これを継承できる人が今後出るかっていうとかなり微妙。とりあえずは庵野秀明なんだろうけど、特殊戦後世界一だった日本映画が徐々に衰退していったように、アニメ映画界も衰退していくような気がする。

2017-04-15

http://anond.hatelabo.jp/20170414183358

スマホで書いてるだけなので、適当駄文になるだろうけど。

何年か前までは毎日のように新聞記事を読み漁っていた。1日5時間かける日もあった。真面目に読んで整理してとやるとそれくらいかかる。

きっかけはイラク戦争前に大量破壊兵器があるという証拠もないのに攻撃が始まり占領後結局なかったこと。

戦争は結局話し合いが決裂したらいつ起こってもおかしくないというものしかない。かつて核開発を放棄した例で、リビアカダフィ大佐がいた。北朝鮮もこの件に関心を寄せていたらしい。どんな交換条件が米などから提示され、カダフィ大佐はどう今後の自分安全を守るつもりかを知りたかったのだろう。

結果カダフィ大佐は数年後の"アラブの春"の一連の政府転覆さなか潜伏場所がばれ自国民になぶり殺しにされた。北朝鮮も当時核開発の放棄をするべきではないとの論説を出していたはず。アラブの春と同じことが北朝鮮で起これば止めようがない。政治とは参加する人が動かすものだ。そもそも我々は日本語ではまともな情報を得ることすら難しい(それが僕が新聞を読み見込まなくなった理由だ)。またこの国には発言権を大きくするために使える力が特にないのだ。政治家も国際会議で何もできないなら黙っていろと言われたらそれ以上何も言えずに帰ってくるのではないだろうか。

一部のリアリストに言わせると、我々リアリスト理論では日本核武装しない理由説明できないが、日本存在するのもまたリアルなので理論修正しないとということらしい(内容は知らないがそれでネオクラシカルリアリズム:新古典派現実主義みたいなのができたのだと聞いた)

また最近ふと考えた。個人主義は、人間はどうしても矛盾してしまうというような問題も、各個人問題として向き合わないとダメなのではないかと。リベラル個人自由を求めているんだから結局は個人主義からそれをやらないとと。保守派というのは、そもそも人間限界を認めているからこそ、古くから続いている制度風習価値を認めているわけで。

ヘーゲルやそれを批判的に発展させたというマルクスレーニン主義は、理性に全幅の信頼を置いていたが失敗した。サルトル最後まで擁護していたというがその後はもういないらしい。つまり人間の理性はどうせ間違えるという考えの人ばかりがこの世界にいる。

みな自分の間違えが明らかになって修正必要があれば修正するという人ばかりだろうか?批判されれば耳を貸すだろうか?

そんなことはない。人間幸せは信じたいこと信じたいように信じることなんだという様に最近考えるようになった。悪いのはやつらだと言い続ければ、自分の信じることが間違っていてもその考えをしばらくは延命できる。ミサイルが頭上に降ってくるまでは。

からいずれミサイルは降ってくる。

前の戦争体験した人は一巡して消えつつある。80年周期で世界は激動気を繰り返すという説がある。太平洋戦争勃発が1941年。その80年後は2021年

人間は結局おろかだし、おろかであるということを認めるのも辛いことだ。リベラル個人の辛さをわやらげる社会でないとと言うだろう。また人モノ金の動きは早すぎて保守をやるにはもう世界は狭すぎるようだ。

日本人戦前から海外から見れば、一見おとなしいが怒りだすと手がつけられなく、何をしでかすか分からない人々という評価が続いている。また中に入って観察した人も、良い面もあるけど、本当の事を言ってはいけないというやり方をどうにかしたほうがいうのを聞く。

ミサイルが降ってくる前に本当の事をもっと語り合わないといけないと思う。

2016-08-26

http://anond.hatelabo.jp/20160826224858

>それは誰もが知っているように、答えはない。目的があって生まれたわけではない。

サルトルニーチェみたいに無神論に立つとそうなっちゃうよね。

これに耐えられなくて俺はクリスチャンになったよ。ニーチェ読んで神の存在を信じるようになってるんだから皮肉だ。

2015-01-15

http://b.hatena.ne.jp/entry/synodos.jp/international/12340

このブコメ反応を見て、むしろ風刺的表現に反対する人が増えたか?という感じがして(数えてはいないけども)、彼我の違いに改めて思いを馳せた。

そういう宗教的な含みのある言葉を使っているのなら、「(キリスト教的かイスラム教的かはちょっと置いておいて)、宗教的メッセージを伝えた」ということは、

少なくともキリスト教圏の人やイスラム教圏の人にとっては、単純な表面上の意味より深いものを伝えようとしている、ぐらいは、伝わってとは思うんだけど。

ブコメ反応的には、ひょっとして、「宗教的自体アレルギーが来ちゃってるのかなというか。日本人宗教苦手だからかなーとか。

宗教的であるがゆえにイスラム教への配慮が足りない、とかそういう意見もあるし、怒る人が居るのも当然だとは思うけどね。

原理主義の人らはやっぱり挑発だと受け取るだろうしなー。

ここにもあそこにも「文化」の違いはあって、一方で文化が全く違う人同士が接触する・意見を交わす・隣に暮らすのが珍しくもない世の中になってきた今となっては

やっぱり、一定文化的共通性ベースにして、それを外から嗤ったり壊したりすることで面白みを生み出すことが多い風刺表現というもの自体が色々難しい時期に来てるのかね。

文化社会がボーダレス化するほど「風刺」が解体されてしまいそうだな。

あるいはボーダレス化、多様化もっと乱暴にドラスティックに進んで、世界中で通用する共通性(日本語が変だ)を見つけて、それを嗤えるまで続けるか。

当面は「何人爆殺されようがテロの標的になろうが」という決意が必要になりそうだし、血で血を洗うのはイヤだからなぁ。

そしてそうなると、風刺漫画雑誌というよりももはや哲学文学なのかなという気もするな。サルトルとかそういう感じになってくるな。

2015-01-13

エクスキュースとしてのリベラル

http://anond.hatelabo.jp/20150111070135

少し話が違うけれど、年末ネタのような話題があって

を書いたものです。

その記事はてなブックマークに、

mahomi4 全く的はずれすぎ。

というコメントがありまして、この人の見る当を得た見解ってのはどういうものなんだろうとブックマークをたどったところ、

http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0

フランス新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について

という記事にたどり着きました。扱っている事実が同じなのに見解正反対というのもなかなか面白いのですが、少々以上に気持ち悪いと感じたのも事実です。

その気持ち悪さを説明するのも手間がかかるのですが、やってみますと、

さて、そのアンテグラシオンやら政教分離があるので、

親がどの国出身でどんな宗教を持っていようがフランス国民として

平等に生きていけることになっている。とはいえ本当に違いがないか、

住む場所や肌の色、名前判断されていないかといえば

実際には「平等」なんて言えないだろう。アンテグラシオン

うまくいけば(理念上は)素晴らしいけど、そんなに簡単に

適応できないこともある。フランスは今でも階級社会の名残が

あり、地区ごとに生活環境もかなり違うので、移民の子として生まれ

様々な葛藤感情を抱いて育つ人がいるのは想像できる。

(今朝のLe Mondeにはシャルリーの絵に対して今でも怒っている

イスラム教徒中学生の話が載っていた。)

アンテグラシオンやライシテの実態について、その限界認識しながらもルソーまでひもといて、全体的にはフランス万歳!とまとめている点です。ベルばらオスカルでしょうか。

私がすごく気持ち悪いと言うのは、こういうことをフランス人が言うならまだわかるのです。マジョリティの側にはどうしても見えてこないものというものがあります。それは善悪問題ではなくて立場問題です。

有働出人みたいな人がそうでしょう。まあ、あの人の活動はそれなりに有意義な部分がありますが、あの人に代表されるような白人マイノリティは、有色人種の国、それも支配階級にはならない日本韓国に来て、初めてマイノリティ性というものを味わうことになります。そうすると見るものさわるものすべてが刺々しく感じられる。

アメリカにいる時は警察官黒人を狙い撃ちにしてもあまり気にもしていなかったような人が、職務質問日本警察官にされると激怒する。年間何十人と言うレベルで何とかバッシングで死者が出ているオーストラリアから来た人が、じろじろ見られるくらいで韓国レイシストと騒ぎ立てる。

こういうことは日本では私たちマジョリティから言われて初めて気づくという面もあります。言われてもただ反発するだけということもあります。自らがマイノリティとなった時に、マジョリティである時の視線・態度をかえりみるにまでなれればいいのですが、残念ながら、女性暴力を振るう黒人男性同性愛者を差別する女性は珍しくありません。

そしてそれを更にマジョリティの側が、見ろ見ろ、連中はこんなに野蛮だぞとはやしたてる。

あるドイツ人と話していた時、我が国民主的リベラルで、世界に冠たる我がドイツ、みたいな話になって笑ってしまったのですが、まあそれはその人個人の話なので、ドイツ人って全然変わっていないよねとは言わないでおきましょう。ただその人には人種差別はどこにでもあるけれど、東洋人がしつこくチンチョンチャンとまとわりつかれる国はドイツ以外ではそんなにはない、年間百人以上ヘイトクライムで殺されている国はそんなにはないということは「見えていない」のですね。

リベラルであると言うことが、他者を見下すこと、見ろ見ろ連中はこんなに野蛮だぞってなることが、リベラルがそのためのエクスキュースになることがあるのです。

リンク先の記事の何が気持ち悪いかと言えば、日本人で、パリに住んでいて、未だにシャルリー・エブドに怒っている中学生新聞記事しか見たことがなくて、見えないゲットーに守られていてマジョリティのような顔をしている、それがすごく気持ち悪いのです。

国民戦線ルペンだって、アンテグラシオン同化政策と言う意味で、ライシテはイスラム強制的に同化せしめると言う意味で大賛成なのですからね。

歴史をひも解いて言うならば、フランス革命以後、フランスは確かにリベラル原則を打ち立て、それを徹底してきた歴史があります。公平を期して言うならば、第一次世界大戦後、日本列強要求した人種平等原則英国アメリカは反対しましたがフランスは賛成したと言うことも付け加えておきましょう。

しかし同時に、そのリベラルでライシテな共和国下においても、フランスもまた数々の非道をなしてきたことは忘れてはなりません。

フランスでは支配層の横の流動性が高く、文化人メディア関係者政界に横滑りすることも珍しくはありません。新聞人であったクレマンソーが第一次大戦期のフランス首相であったように、エリート層は全体として支配階級形成していますポールデュシャン二十世紀半ばのジャーナリストで、第四共和政期にアルジェリア行政官に就任して、監獄を視察しています。その時、アルジェ独立派囚人たちの身体に、拷問の後があるのを見て首都に報告しています。その拷問の傷跡は、デュシャン自身の身体にもありました。ナチスに捕らわれていた時に拷問された跡です。

パリ解放の日の記録をサルトルが書き残していますルクレール将軍に率いられた自由フランス軍の入城をもってしてナチスパリ占領は終わりを告げて、自由だ!自由だ!というはじけるような喜びを書いています。そうして成立した自由フランス、ライシテなフランスの下でアルジェリアでは拷問が行われていたのです。

インドシナでのフランスの動きも決してほめられるようなものではありませんでした。フランス当局もいちまいかんで行われた人身売買ナチスから解放された人たちの手によってなされたものですし、フランスインドシナ独立を抑えるため、アメリカに対して原爆の使用を執拗に求めています。これも、自由なるフランス言論の自由フランス体制下でなされたことです。

はいちいちフランス過去の悪行をあげつらって、批判したいのではありません。フランスリベラル諸制度国家制度の補完部分であるにすぎず、国家制度のものを、相対化して批判するようにはなっていないということを言っているのです。フランスの内部にいるシャルリー・エブドは水の中にいるため水の重さを知りません。自分がネジであるに過ぎないことを理解できていないのです。それは結局、彼の中にマイノリティ性がないからであってマジョリティ側の暴力について無自覚であったからです。能力問題ではありません。性格問題です。

批判と言うもの嘲笑侮辱にならぬよう、あるいはそうなっても構わないのは権力の側に対してのみ、その注意深さが必要です。風刺画というメディアは明らかに全方位になす批判方法にはむいていません。

2014-06-16

ゆとり哲学

哲学ちょっと齧ったゆとりランチに行った時に、

「僕、ボーヴォワールが好きなんですよー」

ドヤ顔で言われた。

正直言って誰かわからなかったのと、

この話題に興味がなかったので、

「ふーん、それ誰?」

と興味なさそうに聞いたところ、

「え、増田さん、ポーヴォワールを知らないんですか?

シモーヌ・ド・ボーヴォワールですよ?

もしかしてサルトル苦手系ですか?」

と言われた挙句、何故かサルトルの話を30分聞かされた……。

2013-07-31

不倫は悪くない

不倫ダメなんてことは全くないと思う。

そもそも世の中に絶対的な惡なんて、ほとんどないと思う。

絶対的、というのは、どの文化圏でも、どの時代でも、それをしたらダメでしょ、ってことだよ。

俺の価値観では、殺人窃盗くらいは絶対的な惡のような気もするけど、でもそんなことないよね。

戦争中なら殺人もおっけーだし、昔は仇討もおっけーだったというか賞賛された時代もあるしね。

死刑も合法的な殺人だもんな。

それくらい、絶対的な惡ってないわけだよ。

それが不倫程度、なぜ悪いと言われなきゃいけないんだ?


自由恋愛というか、オープン関係っていうものが、ちゃんと認められている国も実際にある。

アメリカフランスオランダやね。

あと、具体例として有名なのはサルトルボーヴォワール夫婦。

あれほどまで頭のいい人たちも、お互い偶発的な恋愛は楽しみましょう、と認め合ったわけだ。

facebook にもちゃんと、open relationship という選択肢があるよね。

それを選択する人も、サルトルボーヴォワールも、惡人なの?

そんなことはないはずなんだよ。

一夫多妻を認める国も、不倫本質的な違いはないわけで、それを批判できるの? とも思う。




ただし、当事者すべての同意があれば、というのが前提になるのかな、と俺は思う。

いくら、世界のどこかでこういうものを認める場も存在する、とは言っても、当事者で傷つく人がいるならもはや人間としての関係性は破綻しているわけで、事後で言葉を重ねることに意味はないと思う。

サルトルボーヴォワールも、お互い隠さず話せば自由恋愛OK、というのは条件にしていたようだし、結婚するとき契約次第なのかなと思う。

もちろん、当事者すべてというのは不倫相手も含むわけで、不倫相手が独身なら、ちゃんと配偶者がいて同意済みであることを説明する必要があるし、不倫相手が既婚者なら、不倫相手の配偶者にも同意を得る必要があるよ。


で、現在日本では、貞操を守る義務というのが法律的に課されているので、とりたてて新しい契約を結んでいない夫婦なら、この義務に従うべきじゃないのかなと思う。

契約というのは口約束でもいいわけだけどね。

しかし、実際にはボーヴォワールもかなり傷ついていたらしいし、結局関係性は良好とは言えなかったらしい。

そう考えると、真の意味で誰も傷つかない自由恋愛って、なかなか成り立ちづらい部分はあるのだろうなと思う。


しかし、当事者たちの事情も知らずに、第三者たちが自分たちの価値観で批判するべきものでもないと思う。

ちなみに俺は浮気はしない(予定)だし、妻にもしてほしくないです。

うちの夫婦不倫が起きたなら、どうぞ批判してくれてOKです。

http://anond.hatelabo.jp/20130730191554

2011-09-24

最強の上司、A部長 前編

最近多くのメールでどういう上司がいたかということをよく聞かれる。思えば変人が多かったな(笑)

一番印象に残っているのは、俺が25歳から30歳の頃のA部長だ。

最近はだいぶ社内の上下関係カジュアルになって来ているが、当時は若手社員部長と気安く話すなんてなかなか許されない雰囲気だった。

レポートや報告を上げるにしても、逆に何か部長から指示が降りてくるにしても、常に自分の直属の主任課長次長、そして部長と言う階層を通じて行われる、明確な序列があった。

しかしA部長は違った。いつも

「おい、タケシ!ちょっと来い」

と言ってオレを部長席に呼び出したり、向こうからオレの席にふらりとやってきたりして、オレをかわいがってくれた。

また若僧のオレにも

「オマエがオレなら、どうする?」

と忌憚ない意見を求めてくれた。

部長は当時、今のオレと同じくらいの歳だったと思うが、体型はスリムで、どんなに暑くてもスーツをきれいに着こなし、精悍な顔つきだった。今で言えば、かなりのイケメンで(当時、まだイケメンなんて言葉はかったが)、社内の女性らの中でも評判だった。

今の時代なら、GQやLEONとかの雑誌に出ていても不思議ではない、チョイ悪なオヤジだった。

すごいのは、このルックス以上にキャラクターが深くて濃いんだ。

哲学文学芸術ワインをこよなく愛し、食事に行けば、シェリーからまり赤ワインをたしなみながら、高級そうな葉巻を片手に、平気な顔をしてサルトル実存主義について語る。

そんな知的好奇心教養にあふれる人だった。

ヨーロッパ的な気品があって、高貴と自由があいまった雰囲気をこよなく愛する人だった。

でもさ、何かと理由をつけてすぐヨーロッパ出張してしまうんだ(俺も同行させられることが多かった)。

そして仕事がひと段落すると

タケシ、先に日本に帰ってろ」

と言って、自分は2週間くらいヨーロッパを周遊するんだから、困ったもんだよ(笑)

もちろん、本人は「視察」だって言い張ってたけどな。

電子メール携帯電話なんてない時代だったから、A部長ヨーロッパ周遊で不在の間、A部長に指示をあおぐのは大変だった。オレら若手は、A部長が泊まりそうなホテルに、片っ端から電話させられたもんだ(笑)

部長の緊急決裁が必要になり、どうしてもつかまらないA部長を探して部署メンバー総出で、居場所を突き止めるべくフランスのToulouse中のホテル電話をしたこともあった(前々からToulouseでフォアグラ白ワインを飲むのがいいと言っていたので)。

しかし、結局、どのホテル電話してもまったく見つからない。本当は権限規定違反なのだが、最後次長が代理決裁して何とかした。

それから数日すると、真っ黒に日焼けしたA部長会社に現れて、「地中海の島で彼女エンジョイしていた」とのことだった。オレたちは日本であわてまくっていたのにさ(笑)。あの時はあきれてものが言えなかったな。

こんなA部長破天荒ぶりを書くと、ただの遊び人趣味人しか見えないかもしれない。

しかし、仕事はすさまじくでき、社内だけでなく取引先や競合企業からも敬意を集めていた。

当時は、朝から晩まで働くようなモーレツ商社マンがもてはやされていた。しかし、ヨーロッパ人を自称するA部長は、そういう連中を「バリュレスな社蓄」と呼び軽蔑していた。

若手社員残業していると、

「今すぐ資料をしまえ」

と言って、ことあるごとにオレら若手を食事に誘い出した(その後、会社に帰って仕事しなきゃいけないから、ますますモーレツ社員をやらざるを得ないんだけどさ・・・)。

食事の席では、普通なら社内政治や昔の武勇伝を聞かせる上司が多い中、A部長の口から会社仕事の話しが出ることはなかった。

文学論、芸術論、音楽論、人生観までをゆっくりと語ってくれた。ウィスキーの飲み方、酒の種類、ワインテロワールホステスへの接し方、葉巻の吸い方など今の遊びの基礎はすべてA部長に教わった(笑)

九州田舎からニセ慶應ボーイになってバブル期調子に乗りまくっていたオレは、「こんな洗練された人がいるのか」と憧れだったものだよ。

おっと、A部長仕事ぶりを書くつもりが、ついつい遊び話になってしまった。

だが、この記事を書いていたら、オレもBourgogneワインを飲みたくなって来た(笑)

部長仕事人としての顔は次回に譲ろう。

続く

http://ameblo.jp/shousha/entry-10969332499.html

2010-09-14

作家になりたいとあがき続けて12年目の俺が読書暦を語る。

http://anond.hatelabo.jp/20100913002509

まぁ、小説書こうなんて奴は大抵の場合友達が少ない。

小学生の頃、中休みや昼休みに遊びの輪に入れず図書室に逃げ込んでいた。

そこで読んだ「十五少年漂流記」や「ロビンソン・クルーソー」辺りが出発点だろう。大丈夫、俺もそうだ。

そして大方の場合小学校~高校までははっきり言ってクソだっただろう。

グレたか孤独だったかの二択しかない。家庭科の授業と体育は大嫌いだ。大丈夫、俺もそうだ。

そんなわけで、自分の才能はどこにあるか小学生の俺は考えた。運動、論外だ。絵、話にならない。勉強、出来なくはないが一番には到底なれそうもない。そんな時、読書感想文コンテストが市の優良賞に選ばれた。そうか、俺の才能文章じゃね?

そんな風にして小説を書き始めた。中学校一年生のときだ。

書きはじめてすぐにわかった、全然面白くない。

そもそも「書きたいもの」がそんなにない。ファンタジーSFラブロマンスも特に好みではない。

なんとなく「文学」に憧れはあるが、そもそも文学ってなんだ。これは本を読まねばなるまい。

そうして本屋に行ってみた。まぁ、太宰とか三島が有名だよね。

とりあえず「金閣寺」と「人間失格」を買ってみた。どっちも意味がわからなかった。ただ、人間失格を読んだとき「要するにゴミ野郎だよね」と思った記憶はある。これのどこがいいのだろうか、と真剣に思った。金閣寺は途中で放り投げた。

仕方が無いので、遊び人のおじさん(36歳、ヒモ)に相談した。面白い文学ってない?おじさんは「これを読め」と安部公房の「壁」を貸してくれた。世界がひっくり返った気がした。あの衝撃は未だに忘れられない。「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」。まさに「衝撃」と呼ぶのにふさわしかったと思う。ようするに、文学とは衝撃なのだとそのとき俺は思った。「作者は何を言いたかったでしょうか?」という国語教育呪縛から解き放たれた瞬間だったと思う。

おじさん、面白かったよ。とおじさんに本を返すと、次におじさんが貸してくれたのは

中島らもの「バンド・オブ・ザ・ナイト」と三島の「不道徳教育講座」だった。今思うと、中一に貸していい本では決して無いのだが。これらの本は「衝撃」という点では安部と全く比較にならないが、とにかく面白かった。中島らものラリった文章と三島と毒たっぷりユーモア。おかげで、俺は加速度的に人生を踏み外していった。その後、叔父さんは叔母さんと離婚しどこかへ消えていってしまった。どこかで野垂れ死んでいるかもしれないが、元気ならいいな、と思う。

さて、高校生になった俺の心を捉えたのは海外文学だった。

もともと、安部公房からスタートした読書遍歴だったのでとにかく「実存主義」というやつに俺は興味があった。

言うまでも無い、カミュである。「論ずるに値する議題は一つしかない、自殺である」(ちょううろおぼえ)のシジュポスの神話、なにより「異邦人」は安部以来の衝撃を俺に与えた。また、この頃俺の心を捉えたのはもう一つ、いわゆるビート文学である。ケルアック、ギンズバーグ、そしてバロウズ(これは中島らもの影響も強い)、そしてもう一つ。読書暦の長い人は次に何が来るか容易に予想が出来るだろうが、ドストエフスキーが直撃した。「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」は当然として、俺の心をえぐったのは「貧しき人々」だった。あの主人公の愛すべきクズっぷり!誰も悪人はいないのに、誰もが加速度的に人生谷底へ落下していく感覚学校をさぼっては喫茶店でひたすら本を読んだ十代だった。しかし、サルトルに関してはさほどピンと来ていなかった。「嘔吐」が面白いとは全然思えなかったのだ。根っこをみたらゲロが出る、それで?といった感じだった。

この年齢になると読書に対する耐性もかなり固まっていたので、バルザックゾラも読んだ、カフカも読んだ。ラテンアメリカ文学にも手を出し始めた。ボルヘスマルケスも悪くはなかったが、なんといっても「ペドロ・パラモ」のファン・ルルフォが心を捉えた。セリーヌ、ジット、ベケットクノー、ロブ・グリエといったフランス文学の一連の流れも好きだった。とにかく読みまくっていたことだけは覚えている。おかげで、センター試験数学は4/200点だった。

そして高校を卒業した。この時期には熱心に小説を書いていたような記憶がある。だが、今読み返しても全く面白くもなんともない。無駄に重苦しい下手糞な文体、意味不明ストーリー展開、自意識過剰さだけがひたすら鼻につくクソみたいな小説だった。大学入試は願書を出すのを忘れた。家にもいられなくなり、家を出た。その後はなんか二年くらい働いた気がする。ある日ふと、立ち寄った本屋テリー・イーグルトンの「文学とは何か」を読んだ。そうか、よし、文学理論をやろう!そう思って大学を受けた。北海道の片田舎で二年も働いただけあって貯金はそこそこあった。なんとなく某私大を受けたら受かった。奨学金を借りて、三畳間に住んで暮らした。死ぬほど楽しかったことだけは覚えている。図書館の充実っぷりと来たらすさまじいものがあった。幸せだった。いつまでもこうしていたかった。

大学の間は一生懸命研究をやったとしか覚えていない。卒業する頃、現実的に大学院はムリだと悟り就職した。その間に小さい文学賞論文の賞を幾つか取ったけれど、デビューには全くつながらなかった。今はとある金融機関の出納担当をしながら小説を書いている。明日も早いから寝なきゃならない。何が言いたいのかさっぱりわからなくなったけど、とにかく小説っていいものですよね。人生って辛いですよね。そういうわけで、リンク先の増田にイーグルトン読めとお勧めしたいだけなんですよ。面白いよ。

2010-08-12

人間ってわりと場所で変わると思うんだ

草食系とか非モテとかそういう談義が大変盛んで、みんなモテたいんだろーなと思うんだけど。

ふと、わたしは一石を投じてみたくなった。それは「どこ」での話なんだろうか。

かくいうわたしはマジでモテない。ルックスは並以下だし、少々学歴は良いものの「とーだい」というレベルではなく、

女の子の好む話題など到底出来ない。テレビは見ない、読書オタク、少々創作文芸も嗜むという

いわゆる「文学部によくいるアレ」である。趣味は一人酒と喫茶店巡りだ。

もちろん、読書好きな人間がまともな青春など送るわけがなく、中学高校と大変に恵まれない日々を生きて来た。

あんまり恵まれなさ過ぎて、蔵書が日々増えた。いわゆるオタク趣味のような仲間の作れるジャンルではなかったため

独り黙々と本を読み、文章を書いて暮らして来た。高校時代、女性と話した時間は断言できるがゼロである。

男女問わず、友人と話した時間で1時間行くかも怪しい。グループワークの必要な授業が何より嫌いで修学旅行は不参加だった。

そんなわたしだが、現在既婚者である。

というのも、わたしは大学では「モテた」とは言えないまでもそこそこ女性と縁が出来たのだ。

わたしの通った大学では「文学に詳しい」とか「ドイツ語が出来る」というのは、そこそこのモテ要素だったのである。

大学に入ったわたしはとりあえず、文芸サークルに入ってみた。折を同じくして、自作小説がとある文芸賞の佳作に引っ掛かった。

これで、人生バーストがかかった。「なんかすごい奴」という風評が立ったのである。

わたしの挙動不審な喋り、垢抜けない服装、無駄な知識量などは尊敬を持って世間に受け入れられた。いわゆる「何かの間違い」である。

ひとたびそうなってみると、世界は全く変わって見えた。わたしは「原著で読むカント勉強会」を主催してみたり、

物語論を読み込む会」を主催してみたり「サルトル再評価勉強会」を主催してみたりと、ニッチジャンル帝王と化したのである。

自分雑誌を主宰してみたり、あるいは「同人誌」(本来の意味での)を主催してみたりとまさに文学部リア充大学生活を送った。

最終的には自主ゼミを二つ持ち、見事フル優で大学卒業した。その勢いで就職奇跡と呼ばれるほど良い場所に決まった。

あの時のわたしは輝いていたと思う、今でもたまに大学生活を夢に見ては枕を涙で濡らしている。

その後といえばわたしは就職前に学生結婚し、赴任地となった職場では見事スタートダッシュに失敗したかと思えば追走も空しく

見事なる「職場キモい奴」として単身寮でゴミのような暮らしを送っている。(ヨメは介護の都合でついてこれなかった)

筆で食う、などという野望はとっくに四散し、その後は送れども送れども何の賞にも引っ掛からず。

ダイガクインニイキタイシゴトヤメタイオレハクリエイティブナニンゲンナンダと呪詛をはきながらはてなを汚して暮らしている。

職場飲み会があれば何とか逃げる手段を模索し、定時になればそわそわと落ち着かず、モテるとかそういう以前に

まず人間関係が無い。いわば、高校時代に見事逆戻ったわけである。支店テポドンでも落ちればいい。

要するにどういうことかといえば、人間には向いた場があるということだ。

ある場所ではクズであっても、ある場所では輝ける人材ということも決して少なくない。

モテたければ、「自分を変える」というのも一興だが、「環境を変える」というのも一つの手である。

要するにわたしは今すぐ環境を変えたい。「辞職届・書式」で検索しながら酒を飲む夜は今夜で最後にしたいのである。

人間というものは栄光の時期がひと時でもあると、その後の凋落が圧倒的に耐え難いものとなる。

誰でも、探せば特技の一つくらいはあるはずだ。「モテる」というのは「場に合っている」という意味である。

自分がいる場所が「場違い」だと感じて、しかも移動が可能ならすぐに動いた方がいい。

しかし移動など不可能なのが世の中の現実であり、わたしはヨメに仕送りをしなければならないのでもうなんかもうアレです。

2010-04-18

文学部によくあること

ハードゲイ」で連想するのはミシェルフーコー

サリンジャーは好きだが読んでる奴は大体嫌い

村上春樹を貶すのは素人臭いので、むしろ褒める。

ex「非常にテクニカルだよねぇ」

中島敦梶井基次郎は大好きだが、熱く語るのは恥ずかしいと思っている

ドゥルーズ理論をフォローするのはイヤだが、どうしてもレポートがまとまらない時の最後の手段として良く使う

純粋理性批判は読んだが判断力批判は読んでない

ポストモダン(笑)とかいいながら、自分自身が相当ポスモ寄り

ドストエフスキーラノベ」とか言われると「そうかもな」と思う

イタロ・カルヴィーノポールオースターといったポスモ作家に憧れるが、同時にイラつく

「巧いとは思うけど、小手先だよな所詮」

東洋哲学をいつかやらなきゃと思いつつ、絶対やらない。

イスラム教には比較的好意的

安部工房が嫌いな文学部生なんていません!

カフカカミュについて論じるのは恥ずかしい

サルトルは見下しているが、実は尊敬もしている

レヴィ・ストロースフーコーならレヴィさんが格上

しかし、ストロースについて論じるのはニワカ臭いのでヤコブソンについて話したがる

ゲイレズに限らず、ド変態に詳しい

変態を論じ過ぎてて、並の変態プレイでは驚けない

記号論が具体的にどんな学問なのか説明できない

脱構築って言っとけばなんとかなると思ってる

カルチュラル・スタディーズの全体像がわからない

ソシュールについて語るが、原著は無論読んでない

ソクラテスよりディオゲネス

ベルグソンって・・・読まなきゃダメ

共産主義については理解しているが、むしろ資本主義をわかってない

故に、経済論議をすると恐ろしく不毛

院行きたいね、は文学部で「こんにちは」の意

しかし、実際の院生を見ると同情を禁じえない

この世で一番ムカつくのは、講談社学芸文庫の値段設定

河出文庫チョイスの意味不明っぷりが大好き

就職活動を始めると、むしろ疎外感を味わう

ホモが嫌いな文学部生なんていません!

2009-11-27

http://anond.hatelabo.jp/20091127174712

サルトルは転校先のラ・ロシェルにうまく溶け込むことができず、後に挫折の年月と述懐している。この時期のエピソードとしては、母の金を盗んだことで祖父から見離されたことや、美少女を口説こうとして失敗し、自身の醜さを自覚したことなどが知られる

なんていうか

サルトルってアイタタタタの非コミュ非モテだったんだな

相当イタい

2009-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20090228140441

その昔「ニューアカデミズム」というのがあってだな、まあ簡単に言えば学問ごとに閉じこもるのやめて他のもの(他の学問だけじゃなく社会も含む)と混ざっていきましょうって考えだったんだが、いつのまにかなかったことになってしまったな。

リベラルアーツ」なんてのにちょっとだけ残ってるくらいだけど。でも実際に今リベラルアーツやってるのなんてFランクばっかりだけどな。

http://blog.goo.ne.jp/268tkfpp5znlw/e/7f09e7dd47904e1657d5784ddcc4f6f2

↑この辺が分かりやすい。

ブルース・リーなんかは哲学専攻でその辺ちゃんとふまえてたから、格闘技の中(外)ですんごく高レベルな一種のリベラルアーツをやってるね。

ドゥルーズのリゾームなんかと並走してたんだろうな。この辺の人らはソーカルにボコボコにされたけど、内容はともかくソーカルが来たってだけである種の目標達成でもあるからねえ。

さらに言えば構造主義ベースでリゾームなんかがあるとすれば、その前段階には実存主義があったわけだけど、その教義(?)の一つとして「アンガジェマン」ってのがあって、文学者社会参加とかそういう訳し方されてるけど、その辺が回り回ってリゾームのルーツなわけだ。で、実存主義全盛時代、左翼運動の中心には文学者であるサルトルがいて、そういうのの影響をもろに受けてるから石原慎太郎政治家やってるわけだね。

2009-08-01

書評】 近藤大介『日・中・韓“準同盟同盟時代』(光文社

本書は評者からみると不思議な本である。実に面白い、同時に反米的な歴史記述とCIA陰謀論に挟まって中国重視論の独特の言い回し、つまり三つの部分が混載されている。ひょっとしてチョコレートでくるんだ毒入り饅頭かも。

題名だけをみると保守派の多くは反発を抱くだろう。しかし誤解を恐れずにアイ・キャッチを狙うあたりは著者ではなくて版元の商業主義的魂胆かも知れない。

冒頭から脱線で恐縮だが、この光文社ペーパーバックスのシリーズは、本書が135冊目。執筆陣は浜田和幸松本道弘藤井厳喜、野間健、徳本栄一郎の各氏らと何故か知り合いも多い。とくに浜田藤井両氏は、このシリーズから数冊上梓されていて、執筆陣も左右混交である。

新世代が読むだろうと思う。というのも、横組みで英語ばんばん入るからだ。逆に小生のように日本語の書物は縦書きでないと親しめない世代にとって、最初はこのシリーズを読むのに骨が折れた。仄聞するところでは、横書きシリーズ、伸び悩みがあって間もなく終巻らしい。閑話休題

さて近藤大介氏、期待の新作である。近藤氏は『週刊現代』前副編集長。元北京大学留学組。平壌にも小泉訪朝に随行、スクープが多い。日本米国を捨てて中国同盟し、韓国も仲間に入れようか、という提言日本外交現実を無視しているが、さすがに中国語韓国語が流暢な著者だけに、情報には格段のおもしろみがある。しかし結語の三国同盟は納得しかねる。

サロンマルキストという比喩は、革命ワインを飲みながらサロンで語る知識人。典型はサルトルなど。本書を通読した最初の印象はそれである。サロンにおける理想主義日本共産党は歌を忘れたカナリア、飽きたらず暴力路線に走った反ニッキョウ系は、三派四派五派と分裂し、中核派はと革マル派は互いに殺し合った。

本書に何が欠けているか。暴力革命政権を取った中国共産党十三億人の無辜の民を壟断し、支配し、反革命勢力、すなわち民主主義者、独立運動家を「テロリスト」と名付け、逮捕拷問し処刑する。敵は殲滅するのがかれらの掟である。

中華民族というスローガンは他民族漢族へ「同化」することであり、これは五族協和日本理想とはほど遠く、孫文のそれは「漢族」が「満蒙回蔵」を強制同化し、支配することを意味する。

ウィグル絶滅のためにはロブノール近辺から楼蘭にかけて、46回の核実験。おそらく数十万人が被爆して死んだ。7・5ウルムチ暴動では平和デモ隊に軍が出動して水平撃ち。おそらく二千から三千のウィグルの無辜の民が虐殺されただろう。

中国本質暴力支配、特権階級は富を独占し、その体制を可能な限り長く持続しえるそのためには外交も利用する。本書は、こうした事実をあえて論じない。だから不思議な本である。

では面白い部分はどこか?日本では親中派政治家はみんなCIAの謀略で失脚したそうである。田中角栄、カナマル某ほか。小沢がニシマツでやられかけたのもCIAだそうな。まだある。金正日がある日、北京から帰国のおりに列車爆破。流川とかいう駅だったが、あれを仕掛けたのもCIA。金正日のコックだった藤本某にはCIAから接触があり、毒殺依頼があった由。こうなると007の世界だ。盧泰愚陳水扁の失脚は反米姿勢だったから?

真相にちかいことは、陳水扁国民党戦術=「野党を貶める生け贄」であり、台湾では司法独立しておらず、もし陳水扁汚職をいうのなら馬英九も宋楚楡も似たようなスキャンダルを抱えていながらなぜ司法の追求が突如止んだか。だから台湾における司法中国共産党と同様に司法権独立曖昧で、国民党の顔色を窺う裁判官が多いからである。CIAとは関係がないのではないか。盧泰愚の「自殺」は身から出た錆、でなければ謀殺の可能性も否定出来ない。

というわけで田中の失脚はロッキード証言だが、日米の司法取引の差であって、米国陰謀ではなかった(徳本栄一郎氏が田原総一郎陰謀説を批判した。田中ブレーンだった小長氏自身が『そういう線で裁判マスコミ対策を処理しようと提案したら田中総理は「おう」と言った』と証言している)。

▲斯界で話題の孫崎享『日米同盟の正体』を連想

本書を読んで考えさせられる箇所も多い。評者が本書を読みながら、どうしても孫崎享氏の書いた『日米同盟の正体』(講談社現代新書)を連想せずにはおられなかった。

外交官出身の孫崎享氏はイラクイランミサイルの雨の中、外交を展開してきた人で三月まで防衛大学で教鞭を執った。(そうそう、これもどうでも良いことだが、バグダッドの在イラク日本大使館で宮崎は、孫崎(当時は公使)と会ったことがある。88年だったと記憶する)。

その外交官イラク戦争突入アメリカ人の「旋風のような愛国心」の結果であり、リーカーン南北戦争真珠湾攻撃と似ているとする。反戦ムードを一気に好戦へもっていく謀略は政治に付きものであり、その点は近藤氏や孫崎氏の分析に同意するが、なぜか孫崎本には外交的結論がない、つまり日本の自立外交模索してもいなければ対米追随が悪とも言っておらず、最後の最後はアメリカ核の傘は機能しないだろうと言いながら、日本核武装は反対という。

つまり本書の著者と孫崎防衛大学前教授スタンスは徹底して政治のリアリティ、外交の合理主義である。

外交道徳が入ると機能せず、倫理を持ち込むと、外交の基本が成立しない。打算と国益の追求。しかし戦争の回避。軍事力の背景がない日本は、だからといって「ふつうの国」のように外交独自路線を採用することが不可能である。

したがって「日中韓の準同盟」とは米国の手のひらの上での話ではあるだろうが

2009-06-29

http://anond.hatelabo.jp/20090629174707

横だが、中島義道2009年4月16日朝日新聞の「大人になる君へ」という特集に「他人のせいにしない姿勢を」という文章を寄稿しているのだが、その中島義道メッセージ元増田に届くといいと思うので、抜粋して引用します。

 きみが自分を「才能のない人間」と決めることはそういう自分を選ぶことであり、自分を「もてない男(女)」と決めることはそういう自分を選ぶことである。

 この意味で―サルトルとともに言えば―誰でも否応なく「自由」なのだ。だから、すべてを誰かのせいにするのもきみの自由である。面倒なことは考えずに、自分を物のように固めていくのもきみの自由である。すべてを諦めて幽霊のように生きるのもきみの自由である。だが、そういう選択の積み重ねはきみから生きる力をそぎ、きみをますますやせ細らせるであろう。

 学力の低い親のもとに生まれたから、教養のかけらもない環境に育ったから、魅力的な肉体の遺伝子を受け継がなかったから・・・・・・自分はこんなにだめな人間なのだ、ときみは言う。だが、とにかく人間のことは皆目わからないということを思い起こしてほしい。

 その中できみは自分本質をそう決定し、それが人生を規定すると解釈したのだから、その責任はきみにある。自分の「だめさ」を固定してそれを親や状況のせいにしたのはきみである。その意味で、きみは自分を「だめ人間」として選んだのだ。だから、きみは未来永劫にわたって「だめ人間」になるであろう。

 だが、何が一人の人間の行為やあり方を決定するかは、じつのところまったくわからない。だから、どんな人でもどんな瞬間でも、「いままで」を完全に断ち切って新しいことを選べるのだ。

2009-05-03

ネットでもリアルでも成功者はてなサヨクの好んで使う語

  • 俺は頭がいい
  • 本文とは関係ないけど
  • 本文と関係ないけど
  • 本文と関係ないですが
  • 本文は読んでない
  • 読まずにDIS
  • 読まないけど
  • 読んでないけど
  • 将来に亘って読まない
  • 元記事はどうでもいい
  • 元記事読まずにぶくま
  • 主旨からずれますが
  • 正直どうでも良いけど
  • 言っていいですか
  • 言及された
  • 言及されました
  • 言及されますた
  • 言及しましたね!
  • 言及に感謝します

はてサの主力メンバータグ一覧を浚って、うまくネタにまとめようと思ったんだけど、

こんだけ悪意によどんだネガタグの一覧を前にすると、正直ふつうの神経なら参っちゃうみたい。

3,000くらいから1/10までしぼりこんだところで心が折れますた

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