はてなキーワード: サルトルとは
なにか自分に都合が悪いこと、直面するのがとても恐ろしいことが起こった時。私たちはそれに対峙するか、逃げるという選択肢を採ることができる。
たとえば自分が不祥事の当事者になった時に、周囲からの追及を逃れようとして、雲隠れしてしまうことも逃避の一種だ。
だが、どこにも逃げ場がなくなった時にはどうすればよいか。
自分自身を消せばいい。
自分自身の力で世界を変えることができないのなら、怖れの苦しみを逃れる手っ取り早い方法は、それを感じる意識を消すことだ。
どこにも逃げ場がなくなって、服毒自殺を図ったり、睡眠薬等のオーバードーズを起こすということは、自分自身の情動をやりくりするための戦略だ。それは魔術じみた子供だましに周囲からは見えるかもしれないが、本人にしてみれば、立派な戦略なのだ。
そんなことを言ってた哲学者がいなかったけか。サルトルだったと思うんだが。
La multiplicité des conduites émotionnelles
Suivant les formes prises par l'émotion, la transformation revêt des formes différentes : l’anéantissement des objets (et parfois de la conscience) pour la peur, l’uniformisation de la structure du monde pour la tristesse passive. Le moteur de l’évasion est l’impossibilité de confronter un objet dans le premier cas ou d’adapter les moyens face à la disparition d’une des conditions de l’action dans le second.
情動が採る形態によって、変容は異なる形態をおびる。怖れにたいして、対象の無化(時には意識の無化である)、受動的な悲観にたいして、世界の構造の画一化といったように。逃避を動機づけているのは、まず、対象に対峙できないこと。さらには、行動するための条件が無くなってしまった状況に適応する術を失ってしまうこと。
http://www.cnam.fr/servlet/com.univ.collaboratif.utils.LectureFichiergw?ID_FICHIER=1295877018192
世界の主人は自分自身なのだから 何が 要る要らないも無い 好きに生きたらええやん 勿論、他人の生命財産に害をなさない範囲でだけど
「人間の本質はあらかじめ決められておらず、実存が先行した存在である。だからこそ、人間は自ら世界を意味づけ行為を選び取り、自分自身で意味を生み出さなければならない」
「人間はだれしも自分のおかれた状況に条件づけられ、拘束されているが、同時にあくまでも自由な存在である。したがって、どんな局面においても人はその状況の限界内で自由に行動を選択しなければならないし、自由に選択した以上は自分の行動に責任を負わねばならない。」
例えばマルクスは、疎外という言葉を、外的条件によって自分の主人でなくなること、事物の奴隷になることの意味に使っている。
マルクスでは、資本主義制度の下での労働です。初期のサルトルはごらんのとおり、「まなざし」なのです。
したがって、マルクスの場合は疎外の克服のためには社会変革が必要となるのですが、
初期のサルトルの場合は、意識の変革、意識の努力が求められる。
それにしてもサルトルはなぜまなざしを向けられることを他有化と考えるのか。
考えの筋道はこうです。
私はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。
ところが他人のまなざしが出現すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界は盗まれる。
そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものではなくなってしまう、と。
私がこうした他有化を蒙(こうむ)るのは当然のことです。
そこでサルトルはこれを「自由の受難」と呼び、「人間の条件」と考えている。
??「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」
ワイトも紀元前から受け継がれる “コイツら暇なのかな?” の精神を支持します
社会人になって数年。最近痛感するのが教養の有無と人生の充実の相関だ。
「年収が高く役職持ちな人はみな教養持ちだ」、といった次元が低いことが言いたいのではない。
教養のある人物はなんというか、充実感に満ちており有意義に生きていて感性も見た目も若い気がする。
趣味も多いし、フットワークも軽い。何歳になっても好奇心や知的探求心が衰えないのだろう。
少しでも気になった事があればその日の帰り道で専門書を買って熟読、海外だろうが平気で現地に赴いたりする。
常に勉強を欠かさないし、当人は「勉強」を苦を伴うものと思っておらず、むしろ楽しんでいるのだ。
類は友を呼ぶのか、周囲の家族や友人も相応に知的な人が多く、頽廃的だったり怠惰な人間はあまり見受けられない。
当然、教養のある人はそれ相応の社会的地位についていることも多い。
社会的地位を獲得した後に付け焼き刃で教養を身に付けたのだろうか?いや違う、幼少期からの習慣の積み重ねだろう。
こういった知的な態度を有する人たちに接すると、無教養・無学な自分はコンプレックスを非常に刺激される。
教養のある人達の会話はありきたりな雑談の途中で話題が予想しない箇所に飛ぶのだ。
姫路城改修から池田輝政の功績に飛んだり、クリミア半島からソルジェニーツィンの著作に飛んだり。
ベラスケスやらサルトル、後期コルトレーンの話が出たこともあったが、無学な自分ではちんぷんかんぷんだ。
こちらが話題に参加できないでいると「あ、興味ないよね〜。うんちく晒してごめんごめん。」とすぐに平謝りし、
それ以降はグッと敷居を下げた会話(ワールドカップやらジブリアニメ、近所の旨いラーメン屋の話など)を展開してくれる。
こういう出来事が何度かあると、彼らはそのことを覚えているようで配慮からかハードル高めな話をあまりしてこなくなる。
その「優しい配慮」が、かえって悲しいような悔しいような不思議な感覚を自分の中に呼び起こさせた。
上記の行動は、彼らの衒学趣味由来の嫌味や当てこすりだろうか?私にはあまりそう思えない。(ゼロではないだろうが。)
第一、こんな何処の馬の骨か分からん小僧にマウンティングしたところでなんの得もない。
なんというか彼らの「知」に対する基本的なスタンスは、自分のそれと一から十まで
まるで異なっていて、そのほころびに自分が勝手につまづいて痛がっているだけなのだろう。
痛がっている自分を見て彼らは「まずい!」と察し、ほころびを取り除くために
平易な話題にシフトしてくれいているのだ。その気遣いが余計に胸に刺さった。
加えて彼らの凄いところはジャンルの垣根を設けずに、気になったら徹底的に探究する姿勢だ。
自分は子供の頃から怪獣映画が好きなので彼らとの酒の席でシンゴジラの話題が出た際に、
第五福竜丸被爆事件からゴジラは誕生した、田子の浦港ヘドロ公害からヘドラが生まれ、
バイオテクノロジーの隆盛からビオランテが生まれた、シンゴジラは言うまでもなく津波と原発である、
といったような感じで社会問題とゴジラ怪獣の密接な繋がりを時系列で簡単に話した。
すると彼らは決してバカにする事などなく、「それでそれで」と少年のように目を輝かせて聞いてくれる。
「ありがとう。勉強になった。もう少し調べる。」とその場でアマゾンを使い、DVDと解説本の購入を済ませていた。
うーむ、この人たちには逆立ちしても敵わないなぁ、と帰りのタクシーで溜め息が漏れた。
(次に会った時には彼は初代ゴジラはもちろん、宇宙大戦争やらサンダ対ガイラまで鑑賞済だった。これには舌を巻いた。)
彼らは目の回る忙しさの合間を塗って絶えず教養を身に付けているのだ。多忙な彼らの何倍も時間を有している自分には教養がない。
自分も彼らのような「知」に対して極めて能動的な人間になりたいが、どうやったら彼らに少しでも追い付けるのだろう。
なんにでも興味を持つ知的探究心。古典から新書まで常に読書を怠らない継続力。そして読書で得た知見をすぐに実行してしまう行動力。
おまえらのやってることなんて格差拡大の装置にしかなってねーんだよ。
インターネットが新しい産業になって社会を変えるなんて息巻いたのはもう何十年前だよ。実際にインターネットで起こっているのは格差拡大と嫉妬、怨嗟、承認欲のるつぼで地獄じゃねーかよ。ネットで民主主義も変わるとか言ってた人もいるが結局はさらにタコツボ化が加速して自民党支配のそこらへんの村社会と同じじゃねーか。
SNSが自由な発信の場だとか言ってるお花畑連中もどんだけ自分の無謬性に無警戒なのか笑うわ。おまえらの自由ってのはおまえらが見たいものだけ見て村化する自由だろ。そんなのは昔から各地で点在してたんだよ。それがインターネットを介してるから新しいんだってアホか。おまえらは所詮人間なんだよ。
クソクリエイターどもも一緒だよ。ネットでクリエイト云々なんて言ってるけどおまえらの創作物なんて他人の時間を無意味に奪うだけのクソシステムにしかなってなくて功利的に人類の幸福にまったく寄与してねーんだわ。残念ながら。クソ言論も一緒だよ。おまえらの言ってることなんてすべて過去の歴史に存在していてネットで得る思考とか価値観なんてものはニーチェやサルトルの足元にも及ばないわけ。
クソオーソライザーどももだよ。ランサーズとか完全に格差拡大のクソ業者だろあれ。バリューとかタイムバンクも一緒だよ。おまえらのやってることは市場化してその市場の恩恵のかすみをすくってるだけでいっさいの社会的意義なんかないんだよ。どれだけ綺麗なオフィスで承認顔して仕事してんのか知らねーけどな。
ゾゾタウンもヤフーもアマゾンもてめーらみんな同じだよ。権利市場化することで需要の奪い合いに着手して金儲けしてるだけでなんの意義があんだよ。てめーらのクソ市場のせいでせどりとか転売するクソが増えてクソが出す注文のせいでトラックの運転手が月給20万で家にも帰れず運転してんじゃねーか。クソ死ね。
インフルエンサーも同じだよ。そもそも人を啓蒙しようとか私は人に影響を及ぼせる人間だとかいう人間がクソほど嫌いなんだけどよ。おまえらのやってることも結局需要の奪い合いでしかねーじゃねーかよ。どんだけ自己肯定感つよいんだよ。その自己肯定迷惑だからやめてくんねーかな。
インターネットが自明だとか時代だとか自然だとかいうクソ言い訳はもう聞き飽きたよ。定量的、功利的に判断してインターネットで巻き起こっているすべてのことはクソだろ。ビジネスにしてもSNSにしてもてめーら結局金と承認が欲しいだけなんだろ。いちいちお題目みたいにクソ理念を綺麗な表情で唱えてうざったいんだよ。じゃあな。クソインターネット。
ざっくり言えば、ストーリーがある物語は通時性の性格を持っていて、元増田のいうキャラクターと世界観は、共時性の性格が強いのでしょう。
これって、神話など、伝承的な物語とかでもはっきりしたストーリーのないものがあったりするので、そうおかしなことではなくて、むしろこれまでのあり方が通時性に偏重していたと考えてもよいのかもね。
ネットを通じて、不特定多数の人と、共時的な場の共有ができるようになったけれど、それまでは、直接にあったときにしか、共時的な体験をすることは難しかったんじゃないかな。
もうちょっとにわか知識をひけらかすならば、通時性の共時性に対する優位を主張するのは、サルトルの実存主義の負の側面であって、両者に本質的な違いはないと構造主義的に(ないしはレヴィストロース的に)思います。
ここやネットに投稿したときに文章自体についてのコメントではなくて本文内容そのものにコメントがもらいたい。
とりあえず本を読もうと思った。そしてそれは20年くらい続けている。
私は年間100冊~300冊は本を読んでいるが内訳はだいたいアイドルの写真集だ。
本を読めば文章がうまくなったり、頭良くなったりするんじゃなかったのか?
100冊の内訳は
70~90冊が写真集で
残りの30~10冊が「入門○○」的なもの
小説は5年に1冊くらい
ちなみに上手に文章を書く方法的な本は過去に20冊くらいは読んでいるつもり。(年1冊程度)
ここ最近で読む気になった小説は以下で団地妻とメイドの話くらいしか全部読めていない
団地妻の話
メイドの出てくる話
IQ86(とても読みやすくて三分の一くらいは読んだが全く続きが気にならずに読む気になれない)
ノルウェーの森(上に同じ)
サルトルの本(哲学書らしいが小説仕立てになっていて全く面白く感じなかった)
私はどうして小説を読み進められないのだろう
面白い小説を知らないからというアドバイスが欲しい気もするが、これだけは読んでおけという小説、ドラマやアニメ・・・。
なぜか全く見続けられない。
我慢してみることはできるがアイドルや折り紙の本を読んでいるようなわくわく楽しいなという新鮮な感覚には至れずその結果二度と見るかというループにはまってしまい現在に至る。
小説が好きな人は芥川龍之介が好きで興味があってマニアなのか?だから読み終わるのか?