はてなキーワード: カンとは
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
街路樹並木のナゼかそこのその2本だけやけにまるで枯れそうなぐらい茶色く秋色に染まるそこだけ不思議と秋の訪れが早いビッグなイチョウの木がありました。
今シーズン秋刀魚を食べた数の本数をホームラン数で例えるとまだ2本しか打ってないけど
今シーズンどれだけ記録を
秋刀魚って焼き加減が難しいから均一にいつも同じ品質に焼くのは難しいと思うんだけど、
機械でタイマーで時間を計って焼けば美味しい秋刀魚ができる計画を図ることができるじゃない。
大きさもまちまちのちまちまに1つずつ焼いていると言っても、
まあオーダーがあれば複数匹を焼くに決まっているのかな?って思うけど。
毎回上手い焼き具合で感心するわ。
魚の焼き加減は難しいんじゃないかしら?って思うの。
業務用のいい秋刀魚焼き機ってーのが世の中に存在しているのかしらね?
秋刀魚は正当な焼き方ってのあると思うんだけど、
ピッツア職人がピッツアマルゲリータをものの30秒ぐらいで焼き上げちゃう本場のイタリアピッツア窯とかで焼くと
秋刀魚の美味さの仕上がりが良し悪しがぐんとアップするのかしら?
でもそんな安直な考えは
誰しも秋には思い付くかと思うのよね。
そんで
誰かがそれらを実験してあんまり上手く行かなかった上手に焼けない秋刀魚は美味しくなかったのかよく分からないけど
多分きっとそうよ。
その方法が
世の中に流行ってるはずだもんね。
こうやって人類の考えることの大抵は先人の先輩の輩の人たちが実験してもう試してることの事実が10割だと思うのね。
なるー!って感じだわ。
ちなみになるー!って言うのはなるほどー!の略だから
これ何度も言っているから私の秋のキーワードとしてイチオシで使っておきたい言葉の秋の祭典スペシャルなの!
秋のコーディネートはこーでないと!って一番最強のダジャレよりも
私が今一番使いたいことははそれじゃなくて
なるー!なのよね。
かと言って最近すっかり飽きたんじゃね?って思われて止まない山脈に向かってヤッホー!と叫ぶことも
秋の行楽シーズンなので
どんどん今まで忘れていたけど叫んでいきたい所存の次第よ。
秋はやることがいっぱいあって忙しいわ。
秋刀魚も食べなきゃいけないし
スプラトゥーン3もファイアーエムブレムエンゲージもF-ZERO99もやんなくちゃいけないぐらいな忙しさ
さすがに帰宅後に1日にこれらの3つを遊ぶのは大変だわ。
うかうかと遊んでいると
もとい秋刀魚食べる本数も伸ばせないじゃない!
だから
何度も言っているように
記録に残る秋刀魚より記憶に残る美味しい秋の味覚としての秋刀魚本塁打を量産していきたいのよ。
秋刀魚焼き機を私も導入しようかと思ったけれど、
今シーズンは見送るようにしたわ。
もし私が秋刀魚本塁打製造機としての選手を引退するときが来たら
落合博満記念館みたいに
看板で本人在館中!って書いてあるけどウソでしょ?って思っちゃいそうなぐらいな記念館を私も建てて
いや
食べまくった箸を200本本塁打
いや
その時に食べたときの箸を記念にショーケースの中に入れて飾るのよ。
でも私はきっと
その時はこのお箸あげるね!つって病床の手術前の少年いやこの際少女も含む
そう言うちびっ子に勇気を与えるために
そんなメモリアル記念お箸なんてあげちゃうぐらい気前がいいし、
きっとそのちびっ子も
その前後の
199匹目と201匹目を食べたお箸
そして
200匹目を食べたときに使っていた箸置きは
記念館に飾ってもいいかもしれないわ。
そう思った次第よ。
なので
日米通算200匹目を決めるべく
私も二匹目のドジョウにならないように充分気を付けたいと思うけど
終わることにするわ。
二匹目のドジョウをどうじょ!なんても言わないんだかんね!
これ食べて元気出して!っつって、
二匹目のドジョウもそれこそ病院のちびっ子に差し上げちゃうわ!
うふふ。
最近好きで続いている
そうよ!
鮭な!ベイビーな秋の味覚の一つである鮭おにぎりが多かったけれど
今日は梅の気分で
食べたからって美味しかったからってウメーとか言わないんだから。
もう
秋だからって
食欲の秋!
スポーツの秋!
もう恋なんてしないなんて言わなくもない絶対にだよって槇原敬之さんの歌みたいでちょっとセンチメンタルに浸ってしまったわ。
ボトルに水を入れて
今朝のはペキカンです!
真水のままではなくって忘れていた入れ忘れていたルイボスティーウォーラーのパックはちゃんと入れたわよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
単に日本最高峰の一角で学びたいだけなのにコスプレやタテカンで変人アピールして承認欲求を満たしたいだけのイキリ連中と一緒にされるのが嫌でならない。
自分が賢いというアピールに京大を使う連中は仕方ないと思うし、自分も将来的にそういうカードとして使うつもりで入学した部分はある。
でも「個性的でしょボク?」みたいなアピールをするために京大というブランドを利用し、そのための手段としてタテカンだのコスプレだのといった恥ずかしい行為をする奴らにはいい加減うんざりする。
それを殊更面白いものであるかのように扱う部外者の態度も苛立つ。
無責任に野良猫に餌をやるような感覚でアホな文化を助長しないで欲しい。
既にあの文化は「つまらない人がつまらないことをやるフェーズ」に突入して長い。
元々そんな面白いものじゃなかったのが何故かここまで続いて伝統化してしまった。
ああいうのが好きな人間が勝手にやるのを無理に止める気はないんだが、それを京大の伝統で象徴であるかのようにさえ扱う風潮はかなりイライラする。
たとえばハロウィンが渋谷の象徴みたいに言われたら、渋谷にあるハロウィン以外の要素が好きな人間はモヤモヤと来るんじゃないだろうか。
わいデブブス汗かきおばさん
警戒されるのが嫌だ、ムカつくってのはまあわかる。
この間夜に家路についてたら小5か6くらいの子が前を歩いてた。
陽が落ちるのが遅い季節はいえ既に日も沈んだ時間だし、この時間に小学生がうろうろしてるの危ないなあ塾かなあなんて思いながら後ろをコツコツ歩いてたんだけど、その子がやたらとチラチラこちらを振り返る。
何かあったのかな?と特に深く考えずにズンズン歩いてたけど、その子に追いつきそうになった瞬間ダッ!と飛び出した。
追い抜かれたくなかったのかな?とかポカンと考えてたけど、家に着いて風呂入ってる最中に「あ、私警戒されてたんだ…」と気づいた。
何とも言えない気分になったよね。ムカつくというよりかは自分が悪人だと勘違いされてることの辛さがすごかったし羞恥心もある。
あんな時間に子供1人で歩いてるのはよくないだろ親は何やってんだとかそういう逆恨み根性も沸いた。
でも自分の見た目も相当良くなかったのもわかる。
私は本当に異常なほど汗かきで特に頭と顔汗がひどいから歩いてると頭びっしょびしょ。
家に帰るだけだからって化粧ぐちゃぐちゃになっても気にせず拭いちゃう。
そんで低身長の肥満体型のおばさんが後ろからフーフー言いながら着いてきたらそりゃ怖いだろう。
女として生きてると他人に舐められたり下に見られることはあっても警戒される事はあんまりない。
こいつは悪人なんだと思われてるかもしれない、その不快感は警戒された経験のある人にしかわからないと思う。
夜の男性はいつもこれに耐えてるんだなと思うとかなり同情した。
だからといって女性や子供に警戒するなともいえない。性犯罪に関係なく、どう頑張っても体力のない女子供が犯罪に巻き込まれやすいのは事実だし。
日本のテレビ局はクソである。利権にあぐらをかいて社会の利を考えず私利私欲にまみれたゴミどものプロパカンダ装置となっている。テレビ番組の質で金を稼いでいる局はほとんどない。みんなテレビ番組を片手間に作っているだけの不動産会社である。不動産会社のゴミどもがプロパカンダを撒き散らすゴミが今のテレビ局である。ジャニーズのようなゴミの世界が力を持っているのはゴミだからである。日本の企業には自浄作用がないし法律的にガバナンスを機能させる仕組みもない。その状態を保って利権を吸い取るためにゴミがプロパカンダを巻き散らかしている。テレビ局のお偉いさんやその取り巻きは全員死んでしまうべきなのである。
「この前吉本新喜劇を見に行ったけど何度も同じことをしていて全く面白さが分からない。なにが面白いのか」という意見をいただいたので、生まれも育ちも大阪の増田から、これに対する回答を書いてみたい。
結論から言うと「吉本新喜劇は面白いか面白くないかを判定しに行く場所ではなく、みんなで同じノリを共有し、楽しむ場所である。吉本新喜劇の価値は、関西圏内に住んでいる人間であれば老若男女誰でもわかるボケとツッコミのセットを発信し続け、それを文化として確立させているところにある。」と増田は考えている。
まず増田は生まれも育ちも大阪であるが、関西の人間が吉本新喜劇を見て笑い転げ、毎週楽しみに見ているかと言えば全くそんなことはない。最後に見たのが何年前か分からないし、なんなら見慣れてオチも全て分かっているのでテレビで一人で見るときなんかは普通に真顔である。
関東の知人が言う「何回も同じことをしていて面白くない」については、たしかに同意できるところはある。
たとえば「邪魔するで〜」「邪魔するなら帰って」「はいよ〜」の流れを知らない関西人はいないのではないだろうか。この流れのセットは増田が物心ついたときから、今現在いい大人になるまで最低でも約20年くらいは吉本新喜劇内で繰り返されている。
この流れを知らない関西人がいないということはつまり、老若男女関西人のほぼ全員が「邪魔するで〜」がボケだとわかり、「邪魔するなら帰って」がそれに対するツッコミ(ボケか?)とわかり、笑いが生まれるということである。
これって結構すごいことではないだろうか?
だれしも生きていれば色んなコミュニティに属し、コミュニティ内での定番のノリなどがあると思うが、コミュニティ内の人間にしか通じなく、例えばコミュニティ外の人が同席していた場合、その人間はポカンとなってしまう。
はたまた、お笑い芸人の定番のツッコミなんかが流行ることもあるが(最近だと千鳥の「シンプルに口がくせぇ」とかだろうか。最近ではないね)、ほぼ一年単位で入れ替わり、かつなかなか老若男女全員か知ってるとは言いづらく、若者間で通用しても中年以降は全く知らないといったことも普通にある。
それに対し、吉本新喜劇内で行われているボケ、ツッコミは、老若男女、知人初対面関係なく通用するノリなのだ。
吉本新喜劇は劇を通し、その定番と言われるボケ、ツッコミの流れを数十年にわたり発信し続け、関西圏内に定着させ、それを文化として確立させている。
ちなみに関西人のノリの良さや、あらゆる場でも笑いを作る貪欲さみたいなのも、この誰しもが共有できる笑いがあることが起因しているのではないかと考えている。
吉本新喜劇はいわゆる漫才のように、新しいネタを期待し、面白いか面白くないかの判断をする場ではなく、老若男女関係なくみんなで同じノリを共有する場。それを文化としてきちんと確立させているところに価値がある。
この投稿を読んで、関西に無縁だった方々にも吉本新喜劇を楽しんでもらえると、さらには関西を好きになってもらえると、増田としてはとても嬉しい。
フェルナンデーッス
本日は日本においては防災の日、二百十日、くいの日、キウイの日、レビュー記念日、だじゃれの日となっております。
そうです、防災の日です。
だから防災訓練だの避難訓練だのスマホがキンコンカンコン鳴るだの発生してると思います。
あの音ほんと心臓に悪いですよね、でもそうでもしないと警告音にはなりませんからね。
ですから鳴らなかったら、それはそれで気にしておきましょう。
ということで本日は【定期的な点検よいか】でいきたいと思います。
テレビに出ているお笑い芸人が知らないのは私はテレビを見ていない
だがYoutuberは知っているのを当然にされても困る
ヒキカンぐらい有名なら私も知っているが
◯◯技術系で有名な△△さんとか
PC組み立てで有名な□□さんとか
常識と扱われても反応に困る
流石にそれよりは下になるがRubyのまつもとさんとか
その当たりまでいって常識にしてくれ
カンピロの濃度は均一ではないというところに難しさがあります。
湧き水の流水なので、全体に均等拡散してるわけじゃなくて、所々に、野生動物の糞と一緒にカンピロが混ざっていて、
その濃度の濃い部分でそうめんを食べると感染確率が一気に上がる状態です。
少額決済して放置されてると分かったら
不正利用のよくある奴
3月に使ったら、5月くらいが引き落とし、払い戻し関連で余裕見て8月
で、クレカ決済は、3D認証入れて、対応してるサイトでのみ使用するべき
Vtuberやってて一応R18用のイラストタグも用意してるんだけど
イチャラブ系のイラストはふーん、こういうことしたいんだなぁって思えるんだけど
凌辱系、暴力系とかだと、え、こんなことしたいの?ってなっちゃう
ちょっとえっちなガワをつけてやっている以上、性的に見られることに関しては
なんなら性的に見てもらえることに対して優越感というか承認欲求が満たされる部分はあるんだけど、
自分に対する暴力衝動みたいなものをドカンと視覚的に見せられるとさすがにギョッとしてしまう
こういう自分に対する暴力衝動を目の当たりにする機会ってほとんどないんだなぁ
って改めて思わされる