はてなキーワード: オタク差別とは
オタク差別って、実際にはオタクじゃない人間のステレオタイプによって強化された。
源流をどことするのは難しいが、80年代後半の宮崎勤事件にフォーカスしてみたい。
このあたり、調べてみるといろいろ面白い。
まず、やり玉にあがるのが「宮崎勤」だが、彼は、最初は「アニメやホラー映画愛好家や大量のビデオテープ所持」としてテレビやワイドショーが紹介している。しかし、その後、ペドファイルからオタクという極めて雑な流れでオタクバッシングへとつながった。
このあたりの流れ、極めて重要なのだが、「ホラー映画のテレビ放送の自粛」なども起きており、オタクに対する規制と差別のみが強化された原因はほかにある。
まあぶっちゃけて言うと、「某自称オタクサブカル芸人」なんだよね。
この芸人というのは、宮崎勤後、かなりテレビに出まくった。言ってしまえば奇妙なキャラ付けでオタクを自称し、テレビでオタクってキモいでしょ? という偏見を持ってもらうことを仕事にしていた。
オタクのステレオタイプを強化し、妙なキャラクターづけで、「オタク評論家」としてメディアに露出しまくった。
それだけではなく、いまでいうところのストーカー行為なんかを紙面でやって裁判沙汰になったりしている。
「オタクの元祖」とかいう紹介をされると、烈火のごとくその当時のオタクが怒り出すこともある。
オタクはダサくて陰湿で気持ち悪い異常者、というコンセプトのタレントを、そのままメディアが時流に乗って重宝し、その結果、オタクの差別がより強化された。
なにより反感を感じるのは、そのオタクのキャラ付けが「演じられていること」だったろう。
オタク差別は、その芸人が「気持ち悪いオタク」を演じることによって一気に広がった。
しかし宮崎勤を語っても、「そのサブカル芸人が自分を売り出すためにオタクをコケにする演出を行い、テレビがそれを利用した」ことはなかなか振り返られない。
オタク差別などないという人は、この構図を今一度振り返ってほしい。
おそらく、他の差別に対しても得られる教訓があるだろう。
誰かが言わないといけないことだけれど、だれも言わないから言う。
BL好き腐女子、エヴァ大好き左翼、エロゲアイコンだった学者。
おじさんおばさんのオタクの一部が、差別で自意識を拗らせた結果おかしなことになっているという話だと思って聞いてほしい。
彼らは、エヴァ放送時に、衝撃を受けてこんなアニメがあるのかと驚いた世代だ。もうちょいわかりやすく言うと林原めぐみ直撃世代か、そのもうちょい前。
深夜にアニラジを聞きながら、エヴァを延々と語り、オタクの仲間内で、「この作品なら一般人に見せてもばかにされないんじゃないか」とかひそかに期待していた世代だ。
同時にあの時代のオタクは、自分を肯定して生きていくことが厳しい時代だった。
オタクと呼ばれると、どんなに社交的で、どんなに良い人格で、どんなに収入があっても、社会的信用が失われる時代だ。このあたりの空気を知りたいというひとは、
https://togetter.com/li/1220676 このあたりのまとめがマイルドに教えてくれる。
もっと空気感だけ味わいたいなら、飛んで埼玉! の空気感。バレた瞬間最下層民になるって時代。
だから、アニメ好きは必死になって趣味を隠し、隠れキリシタンならぬ、隠れオタクという言葉が普通に流通していた時代だ。
声優ソングの歌詞を見たら、みごとに「生きにくいオタクの共感を呼ぶ曲ばっかり」だ。
自分らしく生きていくということを大変だけど頑張ろう、っていう曲だ。
そんな時代に作られた林原めぐみの「don't be discouraged」は、差別の垣根を越えて、「ゲイやオカマの心をガッチリとらえた」という現象まで起きた。新宿二丁目では涙を流して歌う人物もいるそうだ。「生きにくい世の中だけど、勇気をもって好きなことに邁進しよう。理解されなくてもきっといいことがあるよ」というのは、まさに被差別属性を持つ人々の心をとらえるだろう。そんな時代だった。
僕らが生きたのは「好きなものを好きというだけで多大なリスクを覚悟せねばならなかった」という時代だ。
余談になるが、当時の深夜アニラジというのは、精神を病んだオタクの駆け込み寺にもなっていた。声優さんにガチの人生相談が舞い込んだ時代だ。
学校でオタクだと馬鹿にされてつらいとか、いじめられているとか、そういうはがきが普通に舞い込み、それを声優さんがガチに回答するような、かなり狂った時代。あの時代のオタクの空気はまさにどんよりとした息苦しさをまとい、まさに被差別階層の様相を呈していた。それにしたって、なんで声優さんラジオに人生相談をするんだ、と言われるかもしれないが他に相談できる場所がどこにもなかったのだ。親も、教師も、友人も、兄弟も、警察も、政治家も、すべてがオタクにとっては敵だった。もう顔の見える敵ではない存在が、漫画家や声優しかいないというのは、あの時代を体験したものでないとわからないだろう。当然ネット環境もない。
そんななか、差別に直面し苦闘したオタクたちはオタクと呼ばれるのを極端に恐れていた。
「俺はオタクじゃない。マニアだ(そんな違い、差別する側は気にしない)」
「俺はオタクじゃない。ゲーマーだ(そんな違い、差別する側は気にしない)」
「俺はオタクじゃない。アニメ好きだ(そんな違い、差別する側は気にしない)」
「オタクってキモいよね」と言われたら、正体を隠して「そうだねえキモいよね」と内心冷や汗流しながら相槌を打ってた時代だ。
当時、いじめられ、差別され、迫害され、バカにされていたオタクたちの一部が、「なぜ自分たちが差別されるのか」を必死になって考えるというのは、もうこれは宿痾の妄想のようなものである。
そんな中、一つの逃げ道に走ったオタクがいる。それが現在の左翼系でオタクバッシングをやっているオタクである。
「オタクはダメな奴らだ」とサブカル内部からオタクを批判することで、一般に認められようとする道を選んだ人間だ。
彼らの言い訳は「左翼思想からサブカル的にオタクを分析するためにオタク文化にかかわっている」というものだ。
「自分たちがアニメ・ゲーム・マンガ・ラノベを見るのはサブカルチャーの研究をやっているからだ。だから恥ずかしくない」と理論武装しなければ、好きなものにかかわることができなかった。
大学のサークル棟や居酒屋で、現実に起きた現象とアニメ作品をひたすらに絡めて、融合させて、一つの社会的事象としてとらえようと躍起になった時代だ。
具体例を挙げると、地下鉄サリン事件とオカルト系SF作品の影響を無理やりくっつけてトンチンカンな批評を、朝生みたいにオタク同志で語り合ったものだ。
それを見ていたクリエイターが「いまのオタクは作品も作らず、ただ批評ばっかりしてる」と嘆いていた時代。ただ楽しむではなく、「学問的批評という行動によって、ただのキモオタのブヒブヒ言う声ではなく、この作品が社会に与える影響や、社会的意義がどんなものか、左翼思想に合致するかチェックしている」という言い訳を自分に用意した。
彼らは、何の理屈もつけずにオタク文化を楽しむオタクを「ダメな奴らだ。キモイ。あんな奴らと一緒にしないでくれ」と、さげすむ自意識を持っていた。しかし、オタク文化は好きで好きでたまらなかった。
その鬱屈した倒錯は、傍から見ればただの変態の所業でありながら、それでも本人たちは大まじめだった。
左翼思想やフェミニズム思想を身にまとい、あのコンテンツはここがダメ、あそこが左翼思想から見るとダメ、右翼だ、女性差別だ、と言いながらアニメゲームマンガを消費したのだ。
ほかにも別の一派がいて、無理やり学問にこじつけて、オタク文化を鑑賞し、「CLANNADは人生」とか「fateは文学」とか馬鹿じゃないのかという発言が飛び出すこともあった。ネットで議論する際に「銀英伝」や「マブラヴ」で、政治を語り分析する人間がゴロゴロいた時代。
あれは、「馬鹿」だったのではなく「そうすることが差別を避けつつコンテンツを楽しむ作法」だったのだ。
しかし、時代は加速した。オタクは文化的にかなりの大成功を収めた。
オタク系候補が30万票や50万票取って、自民党の議員バッヂをつけてしまう時代だ。民主系や、社民系ではなく、よりにもよって自民党である。確実に時代は変わった。それも劇的に変わってしまった。(オタクが政治にいかに冷遇され続けてきたかは、それだけで10万文字を超えるエントリーを書かねばならないが、今回は割愛する)
要するにオタクコンテンツが一般趣味として認められつつある時代になったということだ。
そうなると何が起こるか?
いちいち思想とアニメを絡めて面倒くさい批評を書くよりも、萌えキャラがなんか頬を赤らめて「ばか」とつぶやくSS漫画をtwitterにあげるほうがRTといいねが数万単位で跳ね返ってくるようになった。
このアニメはリベラル思想に対して間違っていないか、とか考える面倒くさい学術オタよりも、SNSで萌え絵をアップして焼肉画像を上げてる大学生絵師のほうがよっぽど尊敬を集められる時代になった。
いまの時代、萌え漫画を読んだり、コミケに行ったりする程度で、「あいつはキモイオタクだから石を投げよう」みたいなやつはかなり減って、大勢がオタクであると公言できる時代になった。これは若い人達ほど顕著である。他人にどうみられるかを一番気にして、自意識をこじらせる男子高校生や女子高生たちが、人前で、FGOだのアイマスだのバンドリだののアプリのイベントを周回している時代だ。
オタク差別から逃れるためにくだらないうそをつかなくてよい時代が来た。
しかし、この時代はある一部のオタクたちには実に生きにくい時代になった。オタク趣味を低俗だ、腐敗してる、萌えなど女性差別だと繰り返しバッシングしながら、それでも萌えアニメや恋愛ゲームを消費せずにはいられなかったオタクたちだ。これには女子も含まれる。女子でも乙女ゲーとかそっち系のほうは「恥ずかしいもの」としてバッシングされた過去が間違いなくある。腐女子を恥ずかしいものとしてとらえてバッシングしたのは、「そういう意識が高い系のオタク、女子オタク」だったし、「腐女子の中でも様々な争いがあった」ことは間違いない。
彼らは、同胞のオタクを常にバッシングしてきたせいで、オタクにもたらされた「自由にオタク文化を楽しむ」という時代に参入できない。今更「実は俺も萌えキャラ大好きなんだよ~! バンドリ周回してる! アイマス最高!」とか職場の人間に言えない人生を送ってきてしまった。
ネット空間においてさえ「こんなものは女性差別だ。左翼思想の面から許容できない人権侵害だ。オタクがオタクをダメにした。オタク社会を俺が浄化してやる」ぐらいの発言をしてきた人間だ。
彼らもこっそりオタク文化を楽しんではきた。しかしオープンに楽しむなんてことはできなかった。それが許される時代が来てもできない。
だからこそ、全力でオタク文化が一般になるのを阻止しなくてはならない。
そうでなければ自分のゆがんだ自意識が、ただの卑屈さの産物であると認めなければならないからだ。
林原めぐみの作詞した歌詞のように、ドタバタ前向きに差別を恐れずに自分を肯定しながら生きていくということができればどんなに良かったろう。
しかしそれがいまだにできない。あの時代のえげつない苛烈さ、報道も政治も、だれもオタクを守ってくれない。その時代ゆえの後遺症だ。
だいたいは左翼的なシンパシーを持ち、左翼思想で自分を固めてきた。
左翼思想やフェミニズムが、彼らをオタク差別から守り、他のオタクと異なり特別たらしめている自意識だ。
それを用いて、オタクだとカミングアウトするのが明らかに不利益にしかならない時代を、何とか生き抜いてきた世代だ。
必死に左翼理論と自己演出で、オタク差別されないように自分を防御してきた世代だ。
世の中のオタク表現を常に探し、「これは左派思想に合致しないから規制すべき」とオタクをバッシングするのは、「自分はキモオタとは違う良いオタクだ」と差別を逃れるために左翼思想を選んだから。
若い人たちは彼らを見たら、「こんなことをしなければ生きられなかった悲しい時代があったのか」と思ってほしい。
「好きなものを好きというだけで多大なリスクを払わなければならなかった時代」があったことを少しだけ思い出してほしい。
追記 確かに主語が広すぎたと反省している。ただ、はてなとかで率先してオタクを叩いてるひととかはに、かなり当てはまるのあるケースだと思っている。
青識亜論と石川優実との対談というか論戦ショーがあった。
https://togetter.com/li/1431453
それで、ビッグネーム同士の論戦ということで、各界の大物論客が集まるだろうし、会場はフェミとオタクのプロレスが見れるだろうと期待していた。
しかし、残念ながら、盛り上がりに欠ける展開になってしまった。
理由はネットの政治大好きオタクしか来ず、フェミサイドが閑古鳥だったことに由来する。
会場からフェミサイドの大物が名乗りを上げ「お前らオタクは豚だ。ブヒブヒ泣くんじゃねえ」とか、ネット論客オタクが「オタク差別は許さん。表に出ろ」とかそういう期待されたやり取りは全くなかった。
で、ここからが本題。
フェミ系論客が、「あんなのに参加するべきではなかった。弱い者いじめだ。青識はクズだ」とtwitterでことが終わった後に全員が言ってる。
別にオタクだけが参加するイベントではなかった。もっといっぱいフェミが参加して、青識を精神リンチすることだって可能だったはずだ。
しかしなぜかフェミは参加しなかった。4000円払えなかったのだろうか?
オタクがほとんどで、フェミがほぼいない。これは主催者も、オタクも、フェミも予想外だった。
フェミ系論客twitter漫画家の本が、出版されたのはいいが、実際には支持者がそんな買わずに困ってしまったということもあったが、実際にお金を出したり動いたり、意見を言う人はオタクの比ではないほど少ないということが可視化されてしまった。
宇崎ちゃんは単行本もバカ売れ、献血キャンペーンはめちゃ成功したのに対して、実際に動くフェミはほぼ存在しないということがバレた。
最大の理由は、「フェミニズムが戦う心を忘れて、共感的手法に終始し続ける時代が長すぎた」ことだ。
もっと率直にいうならば、「100%の肯定のみを求めて泣く女」に終始した「被害者ポジションで語る」ことに慣れすぎたからだ(これはもうフェミニズムではないという批判はまったく正当である)。
つまり、面と向かって「あなたの言ってることおかしくないですか?」と言われることを極端に怖がりすぎているのだ。
末端の支持者がそのレベルならまだしも、大学教授や、弁護士などのオピニオンリーダーの姿すらなかった。参加者に至っては「報酬をもらってないから」とまで言う始末である。
参加するのは外の世界とつながらない、ネットの論壇や、雑誌の炎上記事だけで、他者との議論の場に姿を現さず、愚にも似つかぬ根拠のあやふやなエッセイを本として売りながら、学会にすら論文をまともに出さないのがいまのフェミニズムの堕落の姿だ。
彼らにできるのは「炎上を仕掛けて放火する」「雑誌に炎上記事を投稿する」「ネットの絵師を凍結させる」「電凸する」程度で、実際に動くことはまずない。
なにより狡猾なのは、フェミニズムのオピニオンリーダーたちは、自分たちが共感的作法(そうですね、ひどいのは男ですね。あなたは被害者かわいそう)という手法によってのみ勢力を拡大してきたことを誰よりもよく知っていることだ。だからこそ、「自分たちの論法が、自由な議論の場や意見や議論を戦わせ、批判する場に出ていく」ことを極端に嫌がる。大学生の「なにを意見として述べてもよい。しかし客観性のある根拠はつけろ」という基本中の基本すらできていないことを知っているからだ。だから、大学教授ですらが、自由な議論の場に出て行って、自説の正しさを主張することすら怠る。負けることを知っているからだ。それよりも「あなたは被害者。あなたは被害者」と繰り返し言うほうが、楽だし、金も稼げるし、何より危険が少ない。
もう、学者たちは、はっきり言うべきなのだ。フェミニズムは保護されている、と。
フェミニズムが学問であり、その正しさを学問の看板で主張するというのならば、「あらゆる方法でその正しさが検証される」のは当然であり必然である。そこから逃げるのなら、もう学問ではない。
大学院生ならわかるだろう。あの学問のいやらしさを。論文のあらさがしばかりする腐れ外道の魑魅魍魎たちを。学会の質問のいやらしさなんて、青眼鏡の比じゃないレベルでぐいぐい突っ込んできますよ。
本当に最低。でもそういうところで戦わずに、「学生相手に講義を一コマ男性社会の悪口を適当な根拠で言って、男性社会の悪口レポートを書かせて単位をやる」みたいな社会学の講義だけやって終わるような真似をしないでほしい。
石川優実さんが立派なのは、そういう自分の正しさを戦わせることを選んだことだ。彼女は理論はともかく、意見の違う他者と戦ったという一点において、紛れもなくフェミニストであり、その一点において肯定されるべきだろう。100%に近い肯定の得られる場所以外はいかないという偽物ではなかった。それだけはこのイベントの収穫であっただろう。
追記 有村悠が凍結された。オタクが凍結させたのかと思ったら左派陣営のフェミ側が怒ったかららしい。そういうところだけは仕事が早い。有村悠なんて、フェミ側の人間だろうに。
追記の追記 と思ったら急に泣き言を言い出した。なんなんだよ。どっちらけだよ。司会者もセッティングもすべて石川有利に作られてたのかよ。しかも青識から一週間前に質問内容を全て教えてもらって、論点まで司会者と一緒に事前話し合ってたのかよ。そのうえで、「私はモノ化された」と泣き言をいうのがフェミニズムなのかぁ。被害者ポジションはそりゃ楽だろうさ。でもそれはフェミニズムじゃない。
インターネット上では、『1989年の宮崎事件の後に長い間、オタクは差別されてきた』と主張する者がいる。
確かに、宮崎事件の後にオタクに対するいじめ、不当な扱いがあったのは事実だろう。そこを嘘松と否定するつもりはない。
それを言うならば、1995年からしばらくは、『名字が朝原だから』『名前が翔子/祥子だから』という理由でいじめられた者がいただろうし、
1997年には『名字が榊原だから』という理由でいじめられた者も間違いなくいただろう。
有名な犯罪者と同じ名字や名前だから・同じ属性だからいじめられるなど昔からよくある話であり
─かつては田中角栄にあやかって息子に角栄と名付けた者が、『角栄が逮捕されていじめられるようになったから』と改名を申請し、裁判になって認められた事例もある─
日本語が読めていませんね、0点。
元の増田ちゃんと読んでたらこんなアホな発言は出てこないぞ。元の増田でちゃんとこう書いたよね。
自民党入党の時点で山田前議員は「超党派のオタクの代表」ではなく「右派のオタクの代表」に変質した。オタクといってもその優先順位には濃淡があり、自民党には絶対に投票したくないと考えている左派オタクが、山田前議員に投票なんてできるはずがない。
オタクの中にも左右があり、山田太郎前議員は「右派のオタク」の代表であって「左派のオタク」は支持できないよね、という話をずっとしていたわけですが。オタク=右派なんて話は一言もしてないぞ。さらに言えば右派だから悪いなんてことも別に言ってないよね。
このレベルで文意読解できてなかったの? 大丈夫? ちょっと党派対立で目が曇りすぎてない? 落ち着いてちゃんと読も? ね?
だから、頼んでない。
何度もいうけどさあ。
オタクなら山田太郎を支持しろって言ってた連中はそのへんにいくらでもいたやんけ。
で、そのオタクの中には左派も右派もいるんだから、左派オタクにとっては左派も山田さんを担げっていう要求になるでしょ。
お互い様じゃねーだろ。
一部の山田太郎支持者の児童ポルノ問題であれだけ頑張ってきた福島瑞穂さんへの嘲弄はすごかったよね。
「オタクはあなたがた左翼を仲間だと思ったことははなからありません」
「あなたがた左翼は誰よりもオタク差別のお気持ちを丸出しにして悪意をぶつけてきたからです」
とはっきり申し上げている。
オタクの中には左派も右派もいる、という前提からはこんな文章出てくるはずないよね。いやあすごいなあ。
(ブコメで「左派のオタク」って名乗ってる人たち何人もいたからブコメもちゃんと読んでみような)
そういう態度がオタクの中の左派をないがしろにしてるって話なんだけど、理解できない?
まるでオタクの中に左派はいないかのごとき前提で超党派でのオタクの結集を呼びかけられても困る、って話をずっとしてるんだけど。
もし本当に「オタクの大同団結」を目指すならオタク内部にいる左派に配慮すべきだし、左派への配慮なんてしたくないっていうなら「オタクの大同団結」は諦めて「オタクの中の右派を代表します」と自覚して行動してくださいね、ってこと。わかる?
福島瑞穂さんの活躍http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/176/futaku/fu17600650145.htm http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/176/yousi/yo1760145.htm http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/187/mifutaku/mi1870321.htm
ご指摘ありがとう。これは恥ずかしながら知らなかった。これを見たら福島さんも支持できないな……残念。
いちおう彼女は児童ポルノに関してはまっとうな指摘(http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/blog-entry-681.html)もしているのだけれど、陵辱ものへの規制に賛同している以上彼女を支持することはちょっと難しい。
それは運動という場においては正しい理屈だけど、国会議員でそれやるの難しいよね、って話なわけで。
漁師さんが海の保全だけやってるのは自由だし、それに対して「森林保護もやれ!」って絡むのは頭どうかしてると思うけど、
環境保護を訴えて漁師代表として国会に送り出されて森林保護法案に反対票投じてたら「森の問題にも真剣になれよ」って言われても仕方なくない?
・そもそも君達は君達の森林保護イシューの議員を国会に送り出すことを頑張るべきじゃない?
という話なんだが。
たとえば海洋団体が君達森林団体に共闘を呼びかけてるなら別だよ?
でも別に呼びかけてないじゃん。
海洋保護活動や議員擁立に対して憎悪に満ちたネガキャンと妨害ばっかりしてきたから。
君達みたいに感情優先で「森林保護の邪魔してやる!」なんて積極的嫌がらせはしません。
という話。
それが最初の増田で言った、シングルイシューって難しいよね国会では、という話なわけよ。
もしもそれがオタク関係の問題ばっかり話し合う場ならそれでもいいんだけど、実際にはオタクとは基本的に関係ない報道の自由とか共謀罪とかそういうのも話し合う場なわけですよ。
人を右派とか差別主義とか決め付けて執拗に攻撃してくる左派と手を握りたいなんて思ってません
正直言って、あなたがた左派が基本的権利を自分達の党派性より優先できる人達だという信頼は全く持ってません。
そして権利の中に含まれてるはずのものでもあなたがたが嫌いな対象を喜ばせる権利であれば積極的に否定してしまう人達だということを知っている。
でも、表現規制反対以外の重要なイシューで食い違う人を議員として担げって言われても困る。議員は表現の自由以外の問題にも必然的に口を出す職業なわけだから。
だから、頼んでない。
何度もいうけどさあ。
頼んでないから。
我々が望んで敵になったのではなく、
あんたらの根深い憎悪と悪意によって我々は敵対してるんでしょうよ。
我々もお前らにそんな期待を持ったことも要請をしたことも無いだろ。
何度も何度もしつこいな。
あんたらは一生内ゲバとネガキャンで生きて行けばいいけど、オタクを巻き込むな。
でもそれはお互い様でしょう? 左派の人が右派と全面的に一致するのがありえないってことは、逆もまた然り。右派の人からしても、表現規制反対のシングルイシューで左派の人を担げって言われても困っちゃうでしょ。その一点以外で食い違っているわけだもの。
お互い様じゃねーだろ。
オタクがいつあんたがたの表現規制反対派候補の川田龍平さん?にあんたらのような団結した悪意で持ってネガキャンをした?
龍平さんに思うことなんて「あ、久しぶり。大変な病気なのに頑張ってるんだねー」ぐらいだよ。
だから、そういう分断があることを認めませんか、って話よ。
だから何度も何度もさあ
「オタクはあなたがた左翼を仲間だと思ったことははなからありません」
「あなたがた左翼は誰よりもオタク差別のお気持ちを丸出しにして悪意をぶつけてきたからです」
とはっきり申し上げている。
分断どころか元から仲間じゃねえ、って何回言えばわかるんだ。
ついでに言えば、
もし仮に共闘なんかしてもあなた達のやれることなんてどこまでもネガティブで陰湿なネガキャン・嫌がらせ・仲間割れぐらいじゃん。
戦力として役に立つどころか厄介ごと呼び込むだけだね。
なんでそうなるかわかる?
立憲民主党の候補に投票するときですら、その候補の開く明るい未来に胸をときめかせてるっつーより
その人が当選することによって落ちる自民党の議員の吠え面を思い浮かべて暗い憎しみを楽しんでるでしょ。
この分断に目を向けずに、つまり自分が右側の人だってのを認めずに超党派でございみたいな顔されても困るんですわ。いや、左側からすると受け入れられませんから。そこちゃんと自覚してくださいよ。そういう話。
好きに言ってて下さいよ。
何度でもいうけど
オタクはヘイト集団である左翼を仲間と思ってないし受け入れられようなんて思ってません。
左翼の皆さんこそ誰よりもオタクヘイトが強い集団であるという自覚を持ってくださいね。
あんた達は「左翼に頭を下げて気持ちよくさせて利益も供与しないと協力してやらんぞ!」って言うけど
実際のあんたらは協力どころか執拗なヘイトと嫌がらせしかしてねーからな?
例えば「おまえバカか?」という言葉に対して「バカ差別だ!」と返すのは馬鹿馬鹿しい。「バカ」という品性下劣な言葉で相手を蔑む行為自体は批判されるべきだとしても。
つまり、「バカ」という属性が存在していてそれを侮辱した、という話ではないのだ。この場合、目の前の相手を侮辱する目的のために使われた言葉が「バカ」であるに過ぎない。
一方で、通常「バカ」という言葉が"概ね"指す範囲が特定の属性と広い共通部分を持つ、という話もわかる。例えば、低学歴差別とか、仮に「知的貧困者差別」とでも呼ぶべきものとか。
「オタク」なる総体を属性として扱うには輪郭がぼやけ過ぎていると思う。「趣味に没入していればオタク」なのか?「趣味がオタクっぽいからオタク」なのか?「見た目がオタクっぽいからオタク」なのか?「性格がオタクっぽいからオタク」なのか?どれをとってもそれ一つでは実態に即さないが、逆に言えば「オタクは○○である」という雑な言い切りはそれ自体が差別である。
最近は「クィア(=変態)」という言葉をもってセクシャルマイノリティーを包括的に語ろうという動きがある。しかし「クィア差別」という言葉は聞いたことがない。やはり「セクシャルマイノリティ差別」と言った方が誤解がなくていいだろう。「オタク差別」という言葉もそういうポジションにあると思う。
「趣味に没入する人差別」「趣味がオタクっぽい人差別」「容姿差別」「性格差別」などなど、それぞれ問題はあるが、「問題はどこにあるのか」「どうすれば解決できるのか」などは全く異なる。それらは切り分けて考える必要があると思う。一方で、それらの異なる属性の人々が「オタク」という言葉の元に連帯する価値はあるとも思う。そのためにはまず共通部分を模索して、「我々は一致団結できる」「我々は互いに差別するべきでない」という宣言から始めなければならない。
現状として私が一番問題が大きいと思うのは、「オタク」を自認するある種の被差別者が、別の「オタク」を切り捨て見下すという内部差別の問題。例えばTwitterには瀬川深という過激な差別主義者がいるが、彼もまたオタクを自認している。「オタク」という自認がアイデンティティを確立させることには大切な意義があるが、それと同じくらい「オタク」という自認が頑固なイデオロギーを形成するという弊害にも目を向けたい。