例えば「おまえバカか?」という言葉に対して「バカ差別だ!」と返すのは馬鹿馬鹿しい。「バカ」という品性下劣な言葉で相手を蔑む行為自体は批判されるべきだとしても。
つまり、「バカ」という属性が存在していてそれを侮辱した、という話ではないのだ。この場合、目の前の相手を侮辱する目的のために使われた言葉が「バカ」であるに過ぎない。
一方で、通常「バカ」という言葉が"概ね"指す範囲が特定の属性と広い共通部分を持つ、という話もわかる。例えば、低学歴差別とか、仮に「知的貧困者差別」とでも呼ぶべきものとか。
「オタク」なる総体を属性として扱うには輪郭がぼやけ過ぎていると思う。「趣味に没入していればオタク」なのか?「趣味がオタクっぽいからオタク」なのか?「見た目がオタクっぽいからオタク」なのか?「性格がオタクっぽいからオタク」なのか?どれをとってもそれ一つでは実態に即さないが、逆に言えば「オタクは○○である」という雑な言い切りはそれ自体が差別である。
最近は「クィア(=変態)」という言葉をもってセクシャルマイノリティーを包括的に語ろうという動きがある。しかし「クィア差別」という言葉は聞いたことがない。やはり「セクシャルマイノリティ差別」と言った方が誤解がなくていいだろう。「オタク差別」という言葉もそういうポジションにあると思う。
「趣味に没入する人差別」「趣味がオタクっぽい人差別」「容姿差別」「性格差別」などなど、それぞれ問題はあるが、「問題はどこにあるのか」「どうすれば解決できるのか」などは全く異なる。それらは切り分けて考える必要があると思う。一方で、それらの異なる属性の人々が「オタク」という言葉の元に連帯する価値はあるとも思う。そのためにはまず共通部分を模索して、「我々は一致団結できる」「我々は互いに差別するべきでない」という宣言から始めなければならない。
現状として私が一番問題が大きいと思うのは、「オタク」を自認するある種の被差別者が、別の「オタク」を切り捨て見下すという内部差別の問題。例えばTwitterには瀬川深という過激な差別主義者がいるが、彼もまたオタクを自認している。「オタク」という自認がアイデンティティを確立させることには大切な意義があるが、それと同じくらい「オタク」という自認が頑固なイデオロギーを形成するという弊害にも目を向けたい。