はてなキーワード: アントニオ猪木とは
https://anond.hatelabo.jp/20170621224255
最近、高校生と会話する機会があると「あの言葉知ってる?」と片っ端から聞いてしまう面倒なおじさんになってしまった。
で、高校生数名に聞いて理解されなかった言葉をただ並べていく。
「カセットテープ…?」
「MD…?」
「VHS…?」
「フロッピーディスク…?」
「テレホンカード…?」
「ポケベル…?」
「PHS…?」
「ゲームボーイ…?」
「だんご三兄弟…?」
「ジャイアント馬場…?」
「ノストラダムス…?」
「風太くん…?」
「オウム真理教…?」
ちょっと前まで現役で使ってたモノは大抵知らないし、
10年前の芸人ブームだった頃(2002~2007年くらい)に流行った芸人は当時幼稚園くらいで記憶になく、どういうネタをやっていたかも知らない。(長州小力、波田陽区、ヒロシ、ダンディ坂野、あたり)
極楽とんぼ山本は見たこともなく、加藤は芸人でなくアナウンサーだと思っている。
最近よく出るようになったヒロミは何者なのか全く知らないでテレビを見ている。
よく芸能界辞めたあとはスポーツジムの経営をしていたみたいな話をするので、
ヒロミのことをホリエモンとか与沢翼みたいなもんだと思っている。
有吉がコンビだったことも知らないが、SMAPが6人だったことは何故か知っている。
面白かったのは、俺の観測内では「アントニオ猪木」の知名度は100パーセントだったのに「ジャイアント馬場」の知名度はゼロだったこと。
ノストラダムスについて、当時本気で地球滅亡すると思って犯罪に走った奴が相次いだことを伝えると「日本にそんなのを信じる奴がいたなんてとても信じられない」だって。
1999年当時の話は、彼らにとって、とても野蛮な発展途上の時代のように聞こえるようだ。
「オウム真理教」の知名度はゼロ。自分が生まれる前の事件だし、そりゃそうか。
「オウムを知らないので、よくわからないまま入信する大学生が増えている」と5年前から聞くようになったが納得。
大学内でオウムが「ヨガサークルでーす」と勧誘しているそうだ。原点回帰しただけじゃねーか!
あと、女子高生で「わたしアニオタなんですよ~」「BL好きなんですよ~」「コスプレするんですよ~」とか聞いてもないのにアピールしてくる奴ほど、ニコニコ動画と2ちゃんねるを知らない。
フェイスブックはオッサンがリア充アピールするためのキモいSNSという認識。
ちなみに俺は28歳だが、高校生と会話が噛み合わなくなってきた。
もうオッサンだなあ
新日第三世代くらいまではよく言われているけど、それ以降の世代分けが分からなかったのでまとめた。
表記は「名前(生年/デビュー年)」で、デビュー年順に並べている。
力道山(1924/1954)
ジャイアント馬場(1938/1960)・アントニオ猪木(1943/1960)・坂口征二(1942/1967)
藤波辰爾(1953/1971)・ジャンボ鶴田(1951/1973)・長州力(1951/1974)・天龍源一郎(1950/1976)・佐山聡(1957/1976)・前田日明(1959/1977)
三沢光晴(1962/1981)・川田利明(1963/1982)・武藤敬司(1962/1984)・蝶野正洋(1963/1984)・橋本真也(1965/1984)・佐々木健介(1966/1986)・田上明(1961/1988)・小橋健太(1967/1988)
小島聡(1970/1991)・天山広吉(1971/1991)・中西学(1967/1992)・永田裕志(1968/1992)・秋山準(1969/1992)
真壁刀義(1972/1997)・丸藤正道(1979/1998)・棚橋弘至(1976/1999)・柴田勝頼(1979/1999)・中邑真輔(1980/2002)・諏訪魔(1976/2004)・潮崎豪(1982/2004)
中嶋勝彦(1988/2003)・オカダカズチカ(1987/2004)・宮原健斗(1989/2008)
中邑・諏訪魔・潮崎の扱いが難しく、デビュー年基準だとデビューが早かった中嶋・オカダと同時期になってしまうが、年齢的には前世代という印象が強い。どうだろうか。
furutanikaede 「この道を行けば、どうなるものか〜」はアントニオ猪木の言葉ではなく、一休禅師の言葉。これ、マメな。(かくいう私も狂四郎2030で知ったのだけど)
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000028008
※追記 11/18
この記事に対するお返事を書きました。
「「結婚をする人の…」を書いた者だけども。」を書いた者だけども。
昨日書いた結婚をする人の気持ちがわからない。に、たくさんのはてブ・コメントが付きました。
なぜ結婚をするのか?、結婚のメリット、についてのコメントをまとめると概ね以下の4つに集約されると思います。
要は金や見栄のために結婚するということだよね。
結婚した方がお得だ・カ・ラ。。。
みんなしてるカ・ラ。。。
ああ~悲しいなあ~。
これはもう法律がいけないんだね。
みんなが悪いんじゃない。
大人になったら結婚!社会保障受けるなら結婚!子ども作るなら結婚!みんなしてるから結婚!結婚!結婚!けっこーーっん!
たくさんのコメントを頂いたので、ここからはそれに対するお返事を書きたいと思います。
まず風俗に行ってセックスのイ・ロ・ハを教えてもらってください。
彼女はその次です。
「この人と一緒に居たい」と思えば一緒にいればいいだけで別に結婚をする必要はない。親友と同じです。
僕は結婚願望はないですし、今までしたいと思ったことも一度もないです。
お互い愛を誓うのはいいが、それをお上に書類出す必要はないよね。でも、愛と婚姻届がなぜか直接リンクしてる人にそういうこと言うとたいてい怒り出す。特に女。宗教と同じで、盲信してるんだと思う。
例え話だよ!バカたれ!
女がずっと独り身で仕事してるとそれだけでつけ入ろうとする人がいたし結婚もできないババアかと壮年の既婚男性の愛人候補にされたり、何かとしんどかった。結婚して本当に救われた。旦那にとても感謝している。
"人の気持ちなんて...それが普通" 故に生計を共にする集団を固定する方がおかしいとすれば、結婚だけでなく家族制度そのものが否定されるがその辺は?一部の機能不全な例をもって制度自体を否定するのは無理があるな
家族制度も正直意味わかんねーな。なくていいよ。人類みんな一つの家族です!
でも「インドカレーしか食べない」と誓わないと、インドカレーを失ってしまうんですよ?すごくインドカレーが好きな人にはそのほうがつらいですよ。
>結婚しても3組に1組は離婚 これよく勘違いされるけどその1年で結婚した人数とその年で離婚した人数比べてるから全く意味ないよ。
食べ物の好き嫌いとかも同じだけど、多くの人が賛成している感覚(物)を受け入れられない時は、自分に何かが不足しているか、見逃している可能性を疑うといいよ。
多くの人が賛成している感覚=正しいみたいな考えほど怖いものはないね。
人生には、心の底から信頼できて、一緒に変化の荒波を乗り越えていけるパートナーが必要。1人でも乗り越えられる穏やかな人生を生きる人には、もしかしたら不要かもしれない。
なぜパートナーは婚姻関係でなければいけないのか?パートナーは結婚とは関係ない。
それとなぜ結婚しないと孤独・一人ということになるのか理解できない。
「結婚子作りをして遺伝子を残すのが生物の義務なのにそれをしないお前は異常、考えを改めた方がいい」って繁殖至上主義者に言われたい? 屁理屈結構余計なお世話と思うだろ。他人だってお前に対してそう思ってるよ
オレは自分の考えに信念を持ってるから人から何を言われようとどうも思わない。
離職率も3割でブラックで辞めたくても辞めれない人もいるから5割は離職したいと思ってる。離職するために就職してるみたいなもん。就職する人の気持ちが分からない。 と聞いてどう思うかな。
全くその通りだと思う。
したくもない仕事をなぜイヤイヤやるのか?なぜフリーランスや起業しないのか?と思う。
一応、結婚契約書を交わして結婚記念日に更新をするようにしているよ。契約書はともかく、更新の作業はすれ違いを修正したり家事の分担とか見直す機会になるので、わりと実用的。
オレはガッキーが結婚をせがんできても芦田愛菜ちゃんが結婚をせがんできても絶対にしない。
なぜなら1ヶ月も一緒に居続けたらどんな美人・可愛くても飽きるから。
いやだから、インドカレーが死ぬほど好きだから結婚するんだって。毎日毎日インドカレー作って食べて、それでも飽きないからするの。逆にそんなに好きな相手が見つからない場合全然しなくてOK
意味がわからない。インドカレーが死ぬほど好きだから結婚するの意味がわからない。
僕はコーヒーが大好きで毎朝欠かさず自分で淹れてるけど、コーヒーとは結婚する気はないし、する必要もないと思ってる。
この先コーヒーに飽きるかもしれないし、飽きたら他の飲み物を飲むかもしれない。
そしてまたコーヒーに戻るかもしれない。
ドラマは全く興味ないので見ません。
北米やヨーロッパでは結婚しない家族もたくさんいるから、日本もそうなっていくんじゃないかな。あっちでは「なんで結婚したの?」って聞かれるらしいですよ。
日本は遅れてる。
ギャンブルをする人と同じ発想ですね。
家に帰っても独りじゃ淋しいやんか
それは知らなかった・・・。
"一緒にいるのが当たり前になったから一緒になる"の意味がわからない。
一緒にいるのが当たり前になった→結婚するってなることが意味がわからない。
何をそんなに荒れているのだ?ふられたか?ちなみにうちは籍は入れてるが、結婚式はしてないから神様には永遠の愛は誓っておらぬ。一緒にいて面白いからいるわけで。
一緒にいて面白いからってなぜ結婚しようとなるのか意味がわからない。
家族でい続けることは、子供、親戚付きあい、住居、金銭などのルールを守ることだ。ルールに縛られるからこそ、その先にある世界で1番大切なものを得ることができる。ルールもなく生きたいなら結婚すべきでない。
結婚しないとルールを守れないようないい加減な人間なのか?自分は?
婚姻制度は財産制度、子供や愛は直接関係ない。労働契約と同じで、自力で条件交渉出来る人もいれば、労働法/公的保障が必要な人もいる。既婚者が正社員だとしたら、損でも自由でいたい自営業型やニート等、色々いる
「子どもを育てるためだろ」というコメントをいくらか見たが、直接関係ないとするなら、その人達は何をもって「子どもを育てるためだろ」と言っているのだろうか?謎である。
完全な自由恋愛(出産)&子供は社会全体で育てるという制度だと、ごく一部の恋愛強者の男性が種を蒔きまくって、他の男性は子供を持てずに税金だけ延々支払ってモテ男の子供を育成する社会になりますね。
なぜ他人の子どものためには一銭も払いたくないという自分本位の考えになるのか理解できない。
付き合っている間は別れようと思えば一方的にいつでも別れられるから不安だ。たとえ何十年付き合ったとしても、相手がその気になれば明日から連絡を絶つことだって出来るんだよ
本来、人間関係というのはそういうものである。出会いがあれば別れもある。
それでも別れることになったのなら相性が悪かったのかもしれないし、タイミングが悪かったのかもしれないし、違う理由があるかもしれない。
人から、社会からどう思われてるのか気にして生きていく人生なんて虚しいですね。
なんでそんなに結婚しないことにこだわるのか分からん。 したい人がなんとなくしてるだけだよ。飽きたら離婚してるだけの話さ。
なんとなくしてる。。。みんな何も考えてないアホばっかということか。
新婚だけど収入増えるからそこそこの物件住めるし魔法の指輪で変なの寄ってこないし頑張って作ったごはん一人で消費しなくて済むし朝自分が起きれなくても起きる人いるから部屋暖まるし良いことだらけ
おっさんにはわかってもらえたのかな。
結婚を気分とか感情だけでするものという思いが強い人なんだろうね。愛情だけが結婚の意義と意味ではない。家族を経営するとか、子供を育てる協力形態とか、生計協同とかの面も見るべき。
それはオレ以外の大多数の人が思っていることではないか?
家族経営、子育て、生計を共にすることは結婚をしなくてもできるが。
まあ金銭面で結婚した方が若干のメリットがあることは理解したが。
結婚という制度を使って結婚ごっこしようぜ!のノリで15年以上経ちました。子どもいない!生活も別!古い結婚観に囚われてる増田がんばれ!
それいいじゃん。ただそれなら結婚する必要ないよねと思ったが金銭面で得するのかな。
ほぼクリントンで決まりだろうが、かつて日本でアントニオ猪木が都知事選に出た時よりも可能性が高いだろう
何故なら米軍撤退は米国の軍事的な縮小を意味して、そんな事、軍事関係の諸々の有象無象がとてつもない脅威を奮って妨害するであろうからである
しかしながら日本でもかつて語られていたように、ダム利権に手を出したら死人が出る。精肉業界にメスを入れたらただでは済まない。総連に・・・
様々なアンタッチャブルな事象にも次々とメスが入れられ、陰謀論も大したことねぇなと馬脚を現している
案外とやれるかも知れない
今のトランプ旋風はポピュリズムの最たるものだが、アメリカは実はこれに非常に弱い
そんなことに日本が巻き込まれるのはばかげた話だが、いま日本が自覚するのは、日本の防衛が確固たる物ではなく、実は非常に危うい物の上に乗っかっている物に過ぎないという事だ
ただしそれは絶対条件でもある
米軍が撤退することなどありえないと言うのも間違いだし、他国が攻めてくることありえないと言うのも間違いだ
北朝鮮に行ってきた友達がいるんだけど、その人がいうには、北朝鮮の平壌はたしかに発展していて見所もあるらしい。
アントニオ猪木なんかも北朝鮮に行って、好意的なコメントを出すし。
でも、だからといって北朝鮮がいい国とは言えない。なぜなら私たちが北朝鮮を判断するのは、その人権状況であったり、国際問題であったりするから。
それと同じように、フクイチが職場として整備されつつあったとしても、でも一方で故郷を追われた人たちがいる。
ミルの『自由論』は、多数の暴論によって、個人の自由が損なわれる危険も説いているけど、まさに「民主主義による政治」によって故郷に住む権利を剥奪された人たちがいる。
この権利がどうかという問題を抜きにして、いまフクイチがどうであるとか、原発の経済効果がどうであるとかを論議してもダメなんじゃないか。
おれは忘れもしない。
小学校の社会科で初めて農業や貿易について学んだころ、おれは調べ学習のため図書館に来ていた。
そこで手に取ったのは、たしか日本の食糧事情についての本だったと思う。
その中の統計表にあった「熱量」という言葉の意味が、その時のおれにはわからなかった。
だが時を同じくして国語辞典の引き方も教わったばかりのおれだ。
早速家から持ってきていた辞典で「熱量」を調べると、そこにはこう書かれていた。
「カロリー」と。
おれは混乱した。
作物の生産量ならキログラムとかトンとか、重量で記述するものじゃないの?
もちろん今ならわかる。
食料自給率をカロリーベースで見るだとか、そういう意図の下で作られた統計だったのだろう。
だが当時は混乱した。
ところで現状を振り返ってみてほしい。
何か盛り上がっている様子や、勢いがあるさまを「すごい熱量」と表現しているのを見かけたことはないだろうか。
おれはこの表現がどうしても納得いかないのだ。
そこは「熱意」とか「熱気」とか「すごい勢い」とか、他に適切な表現があるじゃないかと。
おれが思うには2012年、満島ひかりが中島みゆき「ファイト」を歌うカロリーメイトのCMがきっかけだと思っている。
とどけ、熱量。
このキャッチコピーのせいではないか。
このコピー自体の出来はともかくとして、言わんとしていることはわかる。
カロリーメイトは、カロリーも含めた様々な栄養素を豊富に含んだ食品である。
それを届ける大塚製薬は、人々にエネルギー(カロリーという意味でも、もっと精神的な活力という意味でも)を届けたいという思いをこのコピーに込めたのだろう。
それ以外の文脈で「熱量」を使うと、それはもうカロリーという意味である。
みんな、ちゃんと意味を把握せずに使っているんじゃないか?
印象的な「熱量」シーンがある。
元博報堂の社員で、ブログの退職エントリーが話題になった人だ。
彼が以前、自分の参加したプロレス興行について、その盛り上がりをもっと広めていきたいという趣旨のツイートをしていた。
個人的な意見になるが、この三富というレスラーは勘違いをしている。
アントニオ猪木以降、プロレス界のスターというのはみんな見かけによらずクレバーだと言われている。
プロレスにおいては、アスリート的な能力だけでなく観客を盛り上げる能力が必要とされる。
前者は練習あるのみだが、後者はかなり頭を使わないと発揮できない部分だ。
そしてこの三富だが、彼はプロレスラーがみんなクレバーであるからといって「おれって考えてますよ」アピールだけをする男なのだ。
頭で考え、体で発信する、これがプロレスラーの仕事である。これらはどちらが欠けてもいけない。
しかし三富は頭で考えたことを、ツイッターなどで発信するだけなのである。
彼はパーソナルトレーナーの資格を持っていながら、体はお世辞にもグッドシェイプとはいえない。
単に増量期なのかもしれないが、それは見る者には関係ないのだ。
そして博報堂と兼業でやっていたために試合の機会は少なく、名勝負製造機からは程遠い選手である。
そんな彼が「俺はプロレス界を盛り上げる」などと言っていても説得力がないだろう。
ましてや「熱気」でいいところを「熱量」という誤った言葉で表現してしまうという配慮の無さである。
意識の高さは結構だが、その発言は勝者が行ってこそ意味のあるものである。
話を戻そう。
もちろんおれだって、言葉の意味が時代によって移り変わることは知っている。
他人が何と言おうが、辞書に何と書いてあろうが、言葉の意味は使う人のものだ。
他者とのコミュニケーションの場合でも、両者が了解しているならばどういう意味で使おうと自由である。
それに、拡大解釈すればおれが誤用だと思っている「熱量」もあながち間違ってないように思えてくる。
その場の盛り上がりとか雰囲気のすごみを伝えるなら、熱”気”とか熱”意”とか、客観的に測れないものを使う方がそれらしいじゃないか。
その場の空気を感じている人たちだって、その感動は量より質という類のものであるはずだ。
熱量警察と言いつつ、おれも別に見つけるや否や指摘するような真似はしない。
しかし自分がどういう意味を相手に伝えたいのか、それにはどういう言葉が最適なのかをよく考えてほしい。
それが君たちの周りにいる人たち、支えてくれる人たちに真摯に向き合うということなんじゃないかな。
でも忘れないでくれ、熱量の意味は熱エネルギーだということを。
そして、何か感動を覚えたとき、とっさに思い付いた言葉がそれを形容するのにふさわしいかどうか、よく考えてほしい。
これがおれの「熱意」だ。
電王君用意したり、
演出面においてなにかしら新しい試みをしようとしている痕跡はあって、
そこはちゃんと認めてあげたいのは山々なんだけど、
本編の部分がすっかすかに見えちゃってて気持ちが入ってかないんだよねぇ。
それにその演出も金かかってる割に空回り感が半端ないという。
どこにモチベーションを見出して見ていいのかを表現しきれてないから、
電王戦があること昨日まで知らなかったし。
なんの条件もなしにやったら棋士がボロ負けして勝負にならないし
ショーというか番組というかコンテンツ的にも売り物として成立しないから、
一生懸命棋士側が条件つけてできるだけ良い勝負っぽくなるように必死になってるだけ
って感じにまで差がはっきりしちゃったから
尚更どこを焦点に見たらいいか観客的には分かりづらくなっちゃってるよねぇ。
無難に無難に行きましょうよって感じが今まで以上に強くなっちゃったよねぇ。
これじゃつまらないよなぁ。
コンピュ-ターにびびってる棋士相手じゃ見てても対決ムードにならないから白けるんだよねぇ。
アントニオ猪木みたいに
「いつ何時、誰の挑戦でも受ける!」
そして勝負にもちゃんと勝つっていうヒーローが出てこないと、
今後の継続が危ぶまれそう。
弱小一般市民がいわれのない中傷を受けて実生活に大きな影響が出る場合は、法による救済を受けるというのは当然。
でも文筆業の方々がその手段をすぐ使っちゃうってのはなんかモニョる。
あくまで一般論だが名誉毀損罪の保護法益である外部的名誉というのは、被害者の言い値で決まる部分もある。
そして現行の運用下では知っての通り警察は無礼状で発信者情報をゲットできる。
つまり被害者が「名誉を毀損された」と警察に駆け込めば、その内容はさして吟味されることなく警察は易々と発信者情報をゲットする。
裏を返せば、いけすかない奴のちょっとした言葉尻を捕らえて陥れる手段に出来なくもない。
(その場合は逆に虚偽告訴罪で捕まるかも知れないが。専門家じゃないんでよく分からん)
逮捕、勾留手続きで令状審査はあるけど、警察が介入するっていうだけで結構な心理的プレッシャーにはなる。
それは警察や事業者の問題であって被害者の問題ではないが、事例が増えれば現行の運用が既成事実化されてしまう。
そうなると文筆業の方、とりわけ批評家の方々なんかは必要以上に言葉尻に気をつけるようになる。
場合によってはやめる必要のない発表をやめたり。
都条例もビックリな、ものすっごい萎縮効果が発生する恐れがあるわけで。
文筆業の方々が気安く警察に駆け込むことで訴訟リスクは吊り上がり、
それに警察頼みというのは、失礼ながらご自身の筆力を過小評価していないか?
筆一本で生きている皆さんには、不当な表現にはまずは表現行為で対抗して欲しい。
理不尽なのは百も承知だが、文筆家の社会的責任ってことで耐えてもらうってのは望み過ぎか?
逆に易々と警察の介入を受け容れるような表現はマジでやめて欲しい。
訴訟リスクを一番吊り上げているのはああいう考えなしの表現をする人達。みんな迷惑。
わざとだとしたら本当に性質が悪い。
なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?
しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督に尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督はリアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。
つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。
CASSHERNは、人間の感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)
CASSHERNのクリティカルさというのは、そう、ブライのセリフに集約されている。
「つまり、憎しみとは、人間也!」
さらに、キャシャーンはキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味のモノローグを語っている。
・人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)
これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説がベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。
しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間に
「憎しみとは、人間也!」
というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画のテーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。
このテーマを容認できない人にとっては、監督の独善、ということになるのだろう。
伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼の儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士や三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。
しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。
しかもキャシャーンは抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこの映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。
が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。
では、鉄也の懺悔は無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画のテーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズの「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。
さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエス・キリストの物語を髣髴とさせる。
だから、キリスト教圏では、この映画は日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。
過去に、日本のアニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジが救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジは人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造の映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。
もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオの誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械の触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。
ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画のひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画の黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。
80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹の逮捕とホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清や三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画のシステムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画をとりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。
無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というその姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズでカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的なプロレスファンは旧来のプロレスのシステムを破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。
従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターがカリスマ化していく作品としては、「最強伝説・黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。
すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。
僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督の製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERNが賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。
そしてこの映画のテーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。
このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的な能力が皆無なので……。
(04/5/1 本田)