はてなキーワード: 高畑とは
・MejaBersihBanget
誰もが期待する前に、この記事では、本当に有名な監督とAnime映画の狭い領域からの例のみを使用しています。
細田監督、新海監督、今監督、高畑監督。最後の例は、原恵一監督の「百日紅」であり、おそらくここにいるほとんどの人々でさえも知らないだろう。
上記に対する返信
・Warm-Enthusiasm-9534
それは残念なことです。複雑な女性キャラクターが登場するハリウッドの名作をピックアップしてみましょう。ハリウッドとAnimeの違いが最も顕著に表れるのは、パルプショーの場合です。
普通のアニメ番組でも、複雑なキャラクターライティング(すべてのキャラクターにそのキャラクターを照らし出すバックストーリーがある)をしているので、千尋や三葉は基本的に典型的なものだと思います。
ハリウッドが10年で制作するよりも、Animeでは毎シーズン10人以上の印象的な女性キャラクターが登場するのではないでしょうか。
男性が主人公の番組でも、一番か二番目に生き生きと描かれているのは女性キャラでしょう。
今年10番目に人気のある番組の3番目のキャラクターが、キャプテン・マーベルのように複雑なキャラクター性を持っていることになる。
日米両国の経験者が「日本はアメリカより性差別が少ない」と言うのを聞いたことがないのは、ちょっと不思議な感じです。
その理由のひとつは、Animeは女性のキャラクターに欠点があっても、あるいは嫌われ者であっても、それを許容する傾向が強いからです。
明らかにろくでなしのキャラクターを登場させ、ストーリーの中で、なぜそのキャラクターがろくでなしなのかを説明し、とにかく好きにさせるのである。
男性キャラクターと同じように、人間の状態を代弁してくれるんです。Animeは毎年ワンダビジョンのような番組を制作しています。(この点では、アメリカのシットコムはドラマより優れている。コミカルなキャラクターには欠点があるからだ)。
もう一つの理由は、Animeの番組には女性のキャラクターがたくさん出てくるからです。
ティーンエイジャーの男の子をターゲットにした番組が、主人公以外のすべてのキャラクターを女の子にすることが大きな理由ですが、これは、キャラクターを区別するために番組がより努力しなければならないことを意味します。
Anime界では、ある番組で、あるいはそのシーズンで、あるいは歴代で、誰が「ベストガール」なのかを議論することが、ひとつのジョークになっている。
(アメリカのテレビ番組や映画で、誰が "ベストガール "なのかを議論できるものがどれほどあるだろうか。スター・ウォーズでは誰が「ベスト・ガール」でしょうか?キャプテン・アメリカ ファースト・アベンジャーでは誰が 「ベストガール」?議論になるほどの女性の登場人物はいません。)
逆説的ですが、ハリウッドは女性キャラクターをうまく扱わなければならないと考えていて、その方法がわからず、あきらめてしまうことが違いの一因だと思います。
だから、『ワンダーウーマン』よりも先に70年代のテレビ番組が映画化されたのです。日本では、それほど関心がないだけです。
例を挙げましょう。Re:ゼロに登場するテレシアというキャラクターは、5分ほどしか登場しませんが、11番目に重要なキャラクターです。
彼女は花が好きで、剣が嫌いで、剣に執着する男と出会うという設定です。
残念なことに、彼女はその年齢で最も偉大な剣の達人なので、義務によって剣聖(国を代表する剣の達人)として奉仕することを余儀なくされています。
彼と恋に落ちた彼女は、彼が剣聖になれるよう、決闘で自分を負かす。しかし、国に怪物が現れ、夫では太刀打ちできなくなり、最後に剣を取ることになり、そこで悲劇的な死を遂げるのです。
この物語をハリウッドのエグゼクティブに聞かせたら、脳みそがクラッシュしそうです。
この物語は、女性らしさについて何を言おうとしているのか。どんなメッセージを送ろうとしているのか?Animeの文脈では、何も言おうとはしていないんです。
女性キャラクターがたくさんいるので、さまざまなキャラクター設定をするスペースがあるのです。
第1期で一番人気のある女性キャラクターはメイスで人を殴りまくりますが、この作品にある唯一のメッセージは「彼女が生き残って、もっとメイスで人を殴りまくれるようになればいいじゃないですか」ということなんです。
出典
以下の内容でGoogle検索
For the Most Complex Heroines in Animation, Look to Japan reddit
satoviviさんに恨みはない。件のブコメに関しても「あーまた弱者男性に『生活が不健康』『慢性的セルフネグレクト』みたいなスティグマがくっつくのかー」くらいで流してた。しかし、せっかくご本人が丁寧に意図を解説していたので、じゃあまずそのスティグマをべちゃべちゃくっつけるの、せーので辞めようぜ、っていう話をしたい。
もう一回言うが、satoviviさんに恨みはないし、苦言を呈したいわけでもない。会話泥棒と呼びたきゃ呼べ。増田に何期待してんだ馬鹿め。
・筆者の立場について
どうやってもポジショントークのポジションを排除することができないと思ってるので、まず筆者のポジションから。32歳糞田舎毒親育ち彼女いない歴=年齢完全童貞大学院卒奨学金返済残高600万。自認は「いじめ被害者」「非モテ童貞」「典型的ホモソどっぷりの理系」「オタク趣味のない顔だけオタク」。
性犯罪者共の犯罪に対して「非モテに女がよってくるようになると性犯罪を犯す、非モテはクズ」みたいなコメント、見たことないか?私は渡部でも新井でも高畑でも見たぞ。非モテであるだけで性犯罪者予備軍のレッテルを貼られ、実際の性犯罪者を「非モテ」と扱うことで、「モテ」の価値を一切下げずに「非モテ」にスティグマを押し付ける。
まず前提として「○○はクズ」があって、それに汚名をべちゃべちゃとくっつけていく奴、見たことないか?「日本にはアンチフェミ罪が必要だ、根拠はフェミニストに反発する男が多すぎるからだ」ってマジで言ったポル・ポトレベルの素朴(婉曲表現)な男を見て、たとえその男がフェミニストを名乗ってたとしても「フェミは差別主義者で反知性主義(誤用)」って言っちゃいけないのと同じくらい、「男はフェミニズムを理解できるだけの知能がない」って言っちゃいけない。
同様に、「弱者男性は強者男性と戦わない男女差別を温存したい差別主義者」とか、どれだけブコメにあった?「フェミニストは強者男性と戦わずに弱者男性ばかり叩くマッチョイズム」とか、どれだけあった?
まず、全ての弱者属性にスティグマを押し付けるべきじゃないし、いわんや「弱者男性」にもスティグマを押し付けるべきじゃない。上の例示のとおり、スティグマの押し付けは「加害性の押し付け」になることが結構多いのだ。その「お前が自認してる属性、加害属性やぞ」で生まれるのは、加害上等の過激派と、それを名乗らないだけの卑怯または素朴な人と、それを名乗れなくなった人。「弱者男性は定義こそ曖昧だが存在する」という意見の人が(観測上)多いと思われるし私もそう考えているが、「弱者男性」を名乗りにくくなったら残るのは誰か。白いのとか青いのとか手とかが浮かんだら、多分私と考えてることは一緒。で、「弱者男性は加害属性」ってなったら、「定義こそ曖昧だが存在」していた人たちはどうなるか。「加害者」ってレッテル貼られて終わりなんだよ。弱者男性のところをフェミニズムって変えてもいいぞ。変えたら浮かんでくるのは誰だ?任せた。
今すぐスティグマの押し付けは辞めよう。所詮社会的影響力の少ない、ネットの海に漂うただの文字列、藻屑だ。藻屑ができるのは、草の根からの反差別だ。せめてもずくになっていこうな。嫌か?嫌ならそれでもいいんだ、草の根から差別主義の片棒かついでろバカめ。わかめにでもなってろ、お前も所詮草の根だ。
ただ、あんまり重く考えるな、所詮ひじきがのたくった結果奇跡的にできた文字列くらいに思ってていい。ブコメやツイッター見てればわかるだろ?このあまりにも素朴(婉曲)な文字列の向こうに、意志のある人間が居ると思いたくないだろ?あれはめかぶなんだよ、生殖能力があるだけの海藻。偉そうなめかぶ。めかぶ食べて寝よ。
潰瘍性大腸炎は下痢してトイレ行く回数が増えるだけだろとかたいして知識がない人は言う
寛解期であれば、うんこに関してはほぼ一般的な人と同じような日常生活を送ることはできる
通常時、うんこの雰囲気が来てから出るまで、うんこしたい→うんこ出そう→ブリブリで10分ぐらい耐えられるとする
うんこしたいかも?でトイレを探して目指せば間に合うぐらいだ、尻穴に気合入れていきますで多少は我慢もできる
逆に、活動期はうんこの回数は増え、阻止限界点までの時間が大幅に短くなる
活動期の場合、うんこしたい出そうもうだめブリブリまで1分ないぐらいだ
エスパー魔美で高畑君におしっこをテレポートする話があるが、それのうんこ版ぐらいの勢いで肛門にいきなり大量のうんこが東京テレポートするような感覚だ
催した状態で近場トイレに行ったところで全部埋まってたりすると脂汗で絶望する
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20191019223745
読んだ。花澤香菜や山田長政といった人名があ段のみでできているのは特に面白かった。
思ったのはあ段のみの苗字は赤坂や中山や浜田や高畑、色々考えられるけれど、あ段のみの名前は意外に選択肢がないということ。でも一番豊富。
い段のみの苗字は新見とか市木とか一力とかが考えられる。名前は美紀や利吉あたりか。あ段に比べれば少ない。有名人にはほぼなさそう。
う段。苗字が難しい。名前はゆずる一択。どうでもいいがフルーツって全部う段なんだな。
え段。江部くらいしか苗字は思いつかない。名前も乏しい。寧々くらいか。
お段。苗字としては大野や菰野。名前は友夫とか桃子とか、子や夫をうしろにつければ意外といける。有名人にはいなさそう。
あと、言葉遊びが好きな作家さんとかたくさんいそうだけど、○段のみの作品名は案外なさそうだなと感じた。登場人物の苗字が○段のみとか、いかにもありそうに思うのだけど。
(続き)
これ、『サマーウォーズ』--これは脚本自体は奥寺さんですけどね--の頃からの一貫して細田さんの弱点だと思うんだけど、いわゆるカギカッコつきの“リベラル”的な女性観・家族観の理解がひっじょーに浅薄で浅いんですよ。女性が家長、新しい!女性は子育てをしていて偉い!男はイクメン気取りだけど全然わかってない!主夫の育児なんてドタバタでダメダメ!→ね?俺わかってるっしょ?みたいな意識/無意識ですね。
まず、イマドキ4歳児に「男の子でしょ!」って言って説得するのは“絶対になし”とまでは言えないまでもちょっと古くさい感覚だと思うし、そんなあさーい理解だからサイコ父ちゃんが無慈悲な既読スルーをする一方で、クソガキ様の自転車の練習のとき--この父子モチーフもイマドキ手垢つきまくってませんかねえ--急に古くさい父親のイメージとなるんですよ。要するに無理してかっこつけて大衆に目配せしているおかげで世界観やキャラクターの知能レベルがガタガタなんです。
さらに痛いのがね、ミライちゃんが初めて現われたその動機、ネタバレになるから一応伏せますけどね。何か裏事情があるのかなーと思って見てたらそのまんまで、は?なんじゃそりゃ!っていう。何故そこだけ急に価値観が昭和中期以前になるのかな・・・?キミ、設定上は一応令和時代を育ったんでしょ・・・?ってかそれ、おもしろい、のですか・・・??
ところが、このミライちゃんについては、はあ、それで・・・?未来のミライちゃんにとっての“今”ならまだしも新生児のときのソレってそんな気にするもんなの?というか、我々はリアリティラインをどこに設定すればよいのかな・・・?となっちゃっていて、行動原理が全くロジカルじゃない!ギャグとしても全くおもしろくないし。そもそもね、あれだけドタバタしてたらいい加減お父さん気付くでしょ?何か不思議な力が働いているのかな?ってか結局“現実”ではどう処理されたの?ってのが全く意味不明、というね。
良かった点も一応言っておきましょう!特にクソガキちゃんのクネクネクネクネした動きね!ここに関してはいわゆるアニメーションに疎い私でも「あっこれは気合い入れてるな、金かけてんなー、他の諸作品とは次元が違うなー」と思わせるものがありました!
でもね、それに関しても、「動きリアルっしょ?」「幼児の動きわかってるっしょ?」という自意識が先に見えてしまって素直に楽しめない自分がおりました。ここもなー、動きを見せようというのが先にあって全くロジカルじゃないんだよな。
擁護派の中には、「アニメーションリテラシーがちょっと高くないと」「『話がどうこう』って言い出すとやっぱり『つまんない』って感想が出てきやすい」っておっしゃってる方もいるみたいですけどねー。専門学校生が卒業制作で作る映画の話をしているならまだしも、あれだけ大メジャー作家のアニメーション映画でそれ言い出しちゃったらダメですよ。動きを追求するにしても「話がどうこう」の最低限のレベルはクリアしてくださいよ。そこは逃げないでくださいよ。比較するのはちょっと残酷すぎるかもしれませんが、宮崎監督作品や高畑監督作品の批評でアニメーションリテラシーの高低の話出てきますか?そりゃリテラシーが高い方の方がより作品世界を楽しめる。そういうことは往々にしてございます。両巨匠の作品もそういった性質のものですし、ポスト世代では、庵野監督作品、片渕須直監督作品だってそのように評価できると僕は思います。
しかしね、それにしても、あれだけの資本がついていて、ちゃんと作品に力があればリテラシーの高低にかかわらず、大衆みながそれぞれの立場で楽しめるものになるはずなんですよ、本来は。
極端なこと言えばリアルなアニメーションが欲しいだけならモーションキャプチャーでウニウニ動かせばいいだけの話で。僕は、それ以前の、物語としての最低限の誠意やマナーの話をしているんです。
その象徴として最たるものがあの“意識高い系”住宅。あれ、わざわざ建築家の方にオリジナル建築の設計を発注したとのことですが、あのねえ・・・これ、建築家の方は発注に答えたまでで全く悪くないと思いますが、新生児と4歳児をかかえたサイコ父ちゃんが仕事をしながらワンオペ育児をする家があの作りって・・・。あのう・・・控えめに言って狂ってるんでしょうか?これも「ためにする」デザインにしか思えないというか、あの家の作りでこの家族--暴れ回る幼児たちやこれから年を取るご夫婦--が一人も頭をかちわらずに天寿を全うできたらそれこそ奇跡なんじゃねえかという(笑)。やっぱりねーそこらへんの視点への気配りも含め、とことん不誠実なんですよ。
あとねー、クソガキちゃんについてもですね、「アナルプラグ(笑)」って書いてきたリスナーもいましたけれども(笑)、未来のミライちゃんに対して顔を赤らめて言うセリフとか、“王子様”に対する態度とか、サイコ母ちゃんのアルバム(唐突に出てくる、結婚式のスライドのようなリアリティのないアルバム。あれだけ小綺麗な写真見せといてなーにが“黒歴史ww”じゃい!)への反応とか、カギカッコつきの“東京駅”での振る舞いとか、ラストシーンのミライちゃんの説明ゼリフとか、もうとにかくその場その場で場当たりでてっきとーにキャラクターを動かしているから、まとめて一本の映画として見させられると賢さの設定がぶれぶれなんです。
特にアナルプラグのクダリなんて完全に大人側の欲望の目線やんけ、これのどこがリアルな4歳児なんすか!というですね。
ぶれぶれといえば、こちらも指摘しておかなければなりません。
物語の根幹かつクライマックスにもかかわる、世界観の設定ですね。
ミライちゃんがこれまた脈絡のない説明ゼリフでとあるタブーを説明するんですが、その数十分後にはたやすくタブーが破られる。そして特にペナルティーもない。じゃああの説明ゼリフはなんだったの?観客ポカーンみたいな。
そもそも未来のミライちゃんが全て知ってるように振る舞っているのは何故?とかね。言い出したら切りがありません!
BTTFシリーズのようにパキッと全ての伏線を回収しろとまでは言いませんよ!けどね、作品独自のタブーを出したらペナルティもあわせて説明してくれないと意味ないでしょ!ってかそれって創作における最低限の誠意、マナーなんじゃないんですか?
どういうことか。要するに、タブーが実際に破られる?大丈夫か?大丈夫か?あーとうとう破られてしまったー!そのあと一体どうなるー?、という状況があって初めて我々観客は一緒にハラハラできるわけですよ。たとえるならアレですよ。映画『グレムリン』ありますよね。1984年。ジョー・ダンテ監督の出世作。その中で、例の3つのルール、ありますね。
この作品でたとえるなら、映画内で3つのタブーを説明したにもかかわらず、結局ペナルティはよくわからない。映画の後半でギズモが太陽が燦々と照る真っ昼間にグラサンかけてジャブジャブ海水浴をしている。そんで最後の最後にそれまでの展開と無関係な第4の設定が唐突にギズモの口から語られる。なんじゃそりゃ、みたいな(笑)。もう一体何がしたいの?というレベルですよ。
世界観の設定自体もね、これ、実は初見のとき、クソガキちゃんのインナートリップやらセルフセラピーやらの話かとも思ったんですが、どうもそうじゃない。福山ひいじいちゃんや東京駅のクダリを踏まえると、クソガキちゃんが明らかに経験しえないこと・知りえないことを経験していて、なんでインナートリップのルールからも明らかにはみ出している。
あのねえ、4歳児を主人公にすること、オムニバス形式であること、現実と夢、空想があいまいなことって世界観がグチャグチャであることの免罪符には決してなりませんからね。童話や寓話、不条理ってそういうことじゃあないんですよ。ことほどさように、幼児を、というか人間のあり方そのものなめている所作としか思えません!
細田さん、クレヨンしんちゃん、映画版だけでもいいからもう一度じっくり全部見てくださいよ。全てが100%の傑作というつもりはもちろんありません!ありませんけど、幼児が主人公であること、ギャグマンガであることを世界観の言い訳にしているのはほとんどありませんよ。その上で、幼児の幼児性、第一子と第二子の関係性、ペットとの関係性、親子が親子であること、夫婦が夫婦であること、家族が家族であること、などなど、比べるのもホントおこがましくてしんちゃん側に大変失礼な話ですが、大人も子供も笑えるギャグも交えつつ逃げずに遙かに高度のレベルで達成してますよ。
クレしんとの対比でいえばクライマックスのアレね。あー出た出た細田演出、はいはい。なんて意地悪な僕は呟いてしまったわけですけれども、これもちょっとしたネタバレになっちゃいますが、クレしんの某・大名作映画。監督・脚本は原恵一。ナンチャラ帝国(笑)オトナナンチャラ(笑)の、“あの例のシーン”。これ、見た方はおわかりかと思います。と同じようなシーンをクドクドクドクド・・・。犬まで登場させてクドクドクドクド・・・。そもそも犬ってああやって母犬と別れるのか・・・?違うんじゃねえの(笑)?ってかそれもセリフで説明すんのかーい!見てりゃそれくらい黙っててもわかるわ!それ以前の問題としてに父犬はどこに?ということも含めて、とにかくひっじょーにテンポが悪い!!
あと一つ、これだけは言わせてください。
僕、前から言ってますよね。我々の用語でいうところの、いわゆる一つの“ベロベロバー”問題でございます。
クソガキたちがおどけた何か面白“げ”なことをやれば面白くなると思ってますよね。テレビではそれでいいかもしれないけど映画はそれじゃあ笑えないんですよ。
なおかつ、それ以外のギャグもアナルプラグでしょ!?単に下ネタがダメってんじゃないですが、時と場所と見せ方を選んでください。ただただ不快です。R指定なくていいのか?これ、子供に見せてもいいの?という。
さらに、その滑ったギャグを、全然成長しないクソガキのワガママやサイコ両親の立ち振る舞いで上書きして不快感を増させていくという(笑)。もはや“げ”ですらないじゃないか(笑)!
うるせー!こちらがお前らを「好きくない」んじゃー!とホント上映中心の中で何度叫んだことか。
そんで全然成長しないサイコ両親が終盤あまーい自己満足のセリフを言い合いますよね。はあ・・・。それはまあいいんですが、まずご自分たちのサイコ性に手を当てて顧みていただいて、素晴らしいご両親のご美意識にはお反しあらせられるかもしれませんがご自宅に子供用の転落防止柵をつけるなり、恵まれた収入でハウスキーパー雇うなりしないと死人が出ますよ、なーんてひねくれた僕なんかは思っちゃいますけどね!ええ、ええ、どうもすいませんねえ!ひねくれ者なもので!
これもねえ、今回は残念ながらあざとい部分だけ、“やだみ”ばかり印象に残ってしまいました!
はいカメラパンしました。時間が経過しましたよ。これ省略だよ。映画的でしょ?というのもさー、それはそれでいいと思うし、正直さすがうまい演出だなあと感じたカットも中にはありました!冒頭の息でガラスを曇らすシーンとか、雪のシーンとかですね。でも、これは演出じゃなくて脚本の方の問題かもしれないけど、とにかく登場人物がクドクドと設定を喋る喋る。別に未来の人だからってイコール全知の人じゃないですからねえ?
これもそれなりの理由があれば設定を喋ること自体は全然いいんですよ。
さっきたとえにあげたBTTFシリーズのドクとか、顕著な例ですよね。要は、彼は物語の構造上、観客が知らないことを「知っている」から、タイムマシーンの設定を「知らない」マーティン(=我々)に対して多少くどく説明しても全く嫌みにならないじゃないですか。ちゃんと時間が変わって彼が設定上「知らない」世界のことは観客が知っていても一切説明してないでしょ。
このあたりもなー。知識レベルの設定が全然統一されてない。観客は最初から最後まで悪い意味で置いてけぼり。
たとえばこれ僕からの一つの稚拙な提案ですけどね。ひな人形を巡るくっだらねードタバタをどうしてもやりたいんなら、おじいさんのエピソードも、一見するとくだらない代々の言い伝えである迷信的なナニカを律儀に守りました→そうしたらおばあさんとめでたく結婚できました→ミライまでの血脈が繋がりました→だからミライもそれをなぞったのです、ってすればですね、まあ設定のレベルとしてはひとまず統一できるじゃないですか。そのあたりも含めてとにかく“雑”の一言に尽きるんですよ。
あと、これ、感想メールで指摘していたリスナーもいましたけど、父ちゃん側の血筋はガン無視?問題ですね。誰しもそうですが、父と母が「両方いて」初めて今の我々に繋がるんじゃねえの?おいしいところ、ドラマチックなところのつまみ食い的な、「ファミリーヒストリー」をそのままやりたいならわかりますよ?でもこの映画のテーマって、平凡な一家族の、非・ファミリーヒストリー的な部分にあるんじゃないんですか?
「ファミリーヒストリー」的にいってもですね、もうこれ作品の根幹の価値観の話なんですが、サイコな両親とは距離を置き、血縁を自分からは繋がず、一人で自己完結してアナルプラグで遊んで暮らす一生は果たして「不幸」なのか?「何かしらの罰を受けなければいけないこと」なのか?という問いにはこの映画、実は全然答えられていませんよね。そのように考える人は、排除され、存在しえない世界となってしまっている。ここ、最初にも述べた“この光景は果たしてユートピアなのかそれともディストピアなのか(笑)!”という問いにも繋がるところですが、このあたりも、昨今生産性だなんだとニュースになったりしていますが、イマドキの価値観でいえば、全体としてはどんどん多様な個人の価値観を尊重する方向に向かっていっていますよね。少なくとも、僕個人はかくあるべきだと考えています。「家族派は家族派」、その立場はもちろんそれで否定しないけれども、一方で「アナル派はアナル派」だし(笑)、「乳首派はもちろん乳首派」(スタッフ爆笑)、本当はね、みんな違ってみんないいと思うんですよ。
このあたりも細田さんの“臆面のない傲慢さ”の意識/無意識、いわゆる“やだみ”がどうしても透けて見えてしまっているというか。というよりも、悪いこと言わないからもう細田さんはこれ以上家族のテーマは触らないか、触るとしても設定から脚本から何から全部外注して演出だけに専念する方が良いと思いますけどねえ。僕は。
というか、そもそも幸せって他人と比べてしまった時点で大概幸せにはなれないですからね。“あの”東京駅の“あの”新幹線の設定を踏まえるとどうもここはそういう世界ではないようですが。僕はこの世界は断固拒否したいです。絶対に嫌です。別にひとりぼっちでも本人が幸せならそのままで全然いいじゃねえか、というね。僕なんかはそう思ってしまいますけれども。
あー時間がない!声優のお話とかもしたかったんですけどね。福山雅治さんの意外なはまりっぷりとかね。
結論としては、申し訳ないですが、僕個人は「好きくない」類の映画と言わざるを得ませんが、山下達郎さんの主題歌を劇場の音響で聴きたい方、幼児がアナルプラグを刺して絶頂する場面を超絶作画で見たいという方に対しては・・・・・・オススメです!
(終)