高畑自身が「原作者に対し悪意を持って描きました」「原作を再解釈して新しい意味を与えました」とか、どっかで言及しているのか?でなければ、監督の内面なんて誰にもわかりようがないのだから、悪意がどうとかは増田の勝手な解釈に過ぎない。
]]>死人であってもアップデートはまぬがれない
ピカソも既に女性差別主義者ということで絵画の価値が暴落してるらしい
ジャニーも世界一ヒットシングルを飛ばしたプロデューサーというギネス記録を死後に剥奪されたし
見た目の売り上げ実績こそジャニーに及ばなくとも、倫理的・人間性的にしっかりしたプロデューサーが現在の真の世界記録保持者に認定されてるはず
]]>高畑勲は原作と別の存在としてアニメを作るのではなく、原作を再解釈し、異なる意味を与えるアニメを作る。だから高畑勲アニメを視聴してから原作を読むと、「アニメとは別モノだね」ではなく、「アニメはおおむね原作通りだったね」という感想を抱きつつ、知らず知らずのうちにアニメの解釈で原作を読んでしまう。
高畑アニメは、原作そのものを改変してしまうアニメ。
『火垂るの墓』の原作は野坂昭如という作家の自伝的な小説で、それ故にこのアニメは3層構造の原作になっている。
野坂昭如の実体験→野坂昭如の小説→アニメ版
実はこの「実体験→小説」の時点で大きな改変が入っている。
それは主人公の清太が死ぬ、という設定変更。
清太=作者なのに、死んだはずの清太が戦後に小説を書いて直木賞を受賞し、歌手デビューしたり、国会議員になったり、テレビのレギュラー番組を多数抱えているのは明らかに矛盾している。
野坂昭如の妹は小説の通り亡くなったが、兄は小説と違い生きている。
高畑勲のアニメでは、そのあたりの冷ややかな視線をさり気なく盛り込まれている。
高畑勲は原作のメインプロットを尊重しながら、原作者に対しこれでもかと悪意をぶつけている。
これについては原作からだいぶ変えてる。
アニメでは子供時代と大人時代が交互に描かれていたが、原作には大人時代が存在しない。
アニメ版の子供時代の描き方は高畑作品としては珍しく、キャラクターがとても『かわいく』描かれている。このかわいさはジブリアニメとしては異質で、悪く言えば観客に媚びた絵柄とも言える。
一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。
この大人時代という追加トッピングに高畑勲の悪意がある。
自分探しの旅に出て田舎体験する夢見がちなアラサー女と、幻想の世界の可愛らしい少女漫画のキャラクターを残酷に対比させ、「お前らの自己認識はこんな感じの少女漫画キャラだろうけど、現実はコレだよ」と突きつけ、夢から覚めない都会の女が最後は『農家の嫁』になるというハッピーエンドともバッドエンドとも分からない結末で物語は終わる。トトロで田舎を知った気になる人たちへの痛烈な皮肉とも言える。
高畑勲の技工が最高潮に達した作品。
ジブリの経営を傾かせるほど金と時間と才能を注ぎ込んだにも関わらず、作られたのは昔話そのままのかぐや姫で、公開当時の観客は拍子抜けした。
それくらい原作通りのアニメだが、ひとつ大きな改変がある。
それは『かぐや姫の物語』というタイトル。教科書にも載ってる原作は『竹取の翁の物語』という題名だ。
竹取の翁の物語はタイトルの通り、竹取の翁が竹藪でかぐや姫を拾った、という形でお爺さん視点で物語が語られる。
一方かぐや姫の物語はストーリーの骨格こそ原作に忠実だが、感情移入する対象が かぐや姫になるように作られている。
『ドラえもん』をのび太視点で描くかドラえもん視点で描くかでぜんぜん違う話になるように、かぐや姫の物語はさり気なく視点をずらして「かぐや姫という異質な存在が周りのみんなを翻弄する話」から「かぐや姫が社会に翻弄される話」にすり替えている。
あまりに見事なテーマのすり替えで、多くの観客が昔話とは別物の作品を見せられているとは気付かなかった。それ故に映画の評価はイマイチで、「作画は凄かったよね」としか語られない映画となった。
しかし水木しげるが妖怪のイメージを上書きしたように、ウォルト・ディズニーがヨーロッパの民話をアニメ化してイメージを上書きしたように、今後数百年のかぐや姫の解釈は高畑解釈で上書きされるだろう。
]]>最終的には1話から最終話まですべて原作者が手を加えた脚本を使って撮ってるわけで
どうせ直されることがわかってるのに不出来なものを渡すメリットがない
手戻りの工数が増えて納期が遅れて経費が増えるだけ
庵野とか駿とか高畑のドキュメンタリーみてたらわかるけど全員が善意の協力者で、その道の一線級だけを集めて、密に密にコミュニケーションとってても
監督の脳内で思い描いてた理想形が手元にくるのは稀なのに
]]>それでこの話はおしまい!!」
ネット民が大好きなこのセリフ、ストーリー全体を知っている人どれだけいる?
魔美は自分が横から引っ掻き回しただけと気付いて、救済に走ったけど
ネット民は何もできないよね
魔美みたいに可愛くないし
エスパーでもないし
間違った時に相談する理解ある高畑さんもいないし
コンポコだっていない
わしらネット民がウルトラスーパーデラックス正義マンでいれる場所はどこにもないのさ。
]]>自戒の念を込めて
「大叔父は高畑勲だったと予想したやつは一人もいない」
という教訓を思い出すようにしている。
一応念のために説明すると、
これは宮崎駿の最新作
「君たちはどう生きるか」
のなかに出てくる『大叔父』という登場人物の話だ。
「君たちはどう生きるか」という映画は宮崎駿の自伝的要素がある作品で、
この映画を見ると
この登場人物は誰をモデルにしてるのか?
このエピソードは何を意味しているのか?
を考えてしまうつくりになっている。
ゆえに映画を見た人たちが様々に予想して色々な角度から感想を書いた。
しかし、その中で「大叔父」が高畑勲をモデルとしたものだ、と予想した人は一人もいなかった。
この事実が意味するのは、
人が誰かの創作物を見たり読んだりしたときに感じ取る
「正解」のようなものはほとんどの場合に正しくはないということだ。
ただ、それでも制作者が込めた「思い」のようなものは観客には伝わる。
だから、映画の終盤「大叔父」と主人公たちとの別れの場面で
観客は宮崎が高畑を失った喪失の悲しみを受け取ることになり、
感受性の強いものはそのとき涙を流すことになる。
やや、蛇足が過ぎたが要するにちょっと文章を読んで理屈で考えた予想というのはは大抵の場合間違っているということだ。
]]>劇中では別に眞人と大叔父って大して関わりないし・・・全然大叔父に青春を捧げてなんかないわけで。
単なる人物造形上のモデルでしかなく、関係性はそこまで物語に落とし込んでなかった気がする。
むしろ父・母との関係性の方が大部分を占めていたのに、あの番組ではそっちは全く深掘りしてなかったので、個人的に物足りなかった。
なんか編集や演出がわざとらしくて、一点突破的な番組だったな
]]>ジブリで宮崎や高畑の近くで働いたことがあるんだぞ!というのが自慢の種、飯の種なんだよ。
そういう人が宮崎駿という人をある意味で矮小に描いたドキュメンタリーを見たときに怒りを覚えるのはわかるような気がする。
宮崎駿は神であってくれねばならないんだ、そういう人にとっては。
でなければ、神の側近くで侍っていたということが自分の存在価値である人間にとっては大いなるダメージなのだ。
媚びへつらう。
ということを彼は批判している。
実際に媚びへつらっているのかどうかは知らない。
でも媚びへつらってあの映像が撮影できるなら幾らでも媚びへつらってやる、と思わねばドキュメンタリーなんて制作できないだろ?
なぜそんなことが理解できないのだろうか?
あの映像があるおかけで、大叔父というキャラクターが高畑勲を描いたものであるというのが実感を持って理解することが出来た。
例えば、書籍や雑誌などで鈴木敏夫がインタビューに答える形で、いや実は大叔父っていうのは高畑勲を描いたものなんですよ、と発言していたとしてもピンとは来なかっただろう。
しかし映像の中で宮崎が絵コンテを見せながら、これパクさんに似てるでしょ、と嬉々としているのを見せられれば1万字の文字で説明されるよりも遥かに伝わるものがある。
あの映像は貴重なんだ。
その貴重さがなぜ理解できないんだろうか?
その貴重なものを撮影するための手段として、媚びへつらいが必要ならなんぼでもやってやる、と思えなければ人に何かを伝えることなんて出来ない。
多分そういうところを理解できない人は創作というものは出来ない。
ものを作るということは並大抵のことじゃないんだ。
その覚悟がない人間が創作なんて出来るわけがない。
]]>で、自分は主人公の少年真人。
大伯父の作った世界が崩壊して、高畑の呪縛から開放されることを描きたかったらしい。
とはいえ、自分も大概80歳近いのに今更開放されても、ってなるけど。
老人が友達の死を乗り越える話なら分かるけど、自分の投影である主人公が少年て。
大伯父の世界が崩壊する直前に、その世界を引き継がず、自分の世界でがんばるって言ってたぞ。
まだやる気まんまんじゃん、宮崎駿。
]]>当時の人々には高畑作品の価値が理解できなかった。
と未来人に馬鹿にされています。
あなたがたは。
こんばんわ未来人です。
そのため宮崎駿のほうが人気があり、高畑勲作品は低評価だった。
それは過去人が馬鹿だからだ
未来からは損な感じです
]]>パンダコンパンダでは、高畑と宮崎はある事柄を発見したと言われている。
何を?
↓
ストーリーがあってないようなアニメでも、子供だちは夢中になってアニメを見る、ということを。
子供たちはストーリーを追いかけているわけではない。
実際に高畑と宮崎は映画館でパンダコパンダを見ている子供達を観察したうえでその結論を得た。
そういうアニメの発展版である、
となりのトトロも当然、お話がない。
テーマはあるけれど、お話はなしなアニメなのだ。
まあ、さすがに子供とトトロがただ戯れるだけのアニメを他人のアニメ会社ならともかく、自分たちのスタジオでする度胸がなかったのだろうか、メイが行方不明になるとかいうクライマックスを設けているが、まああれがオマケというか映画の体裁を整えるためのものでしかないのはあの映画を見た人の共通認識ではないでしょうか。
]]>●13個の石は宮崎駿 作品
●まひとさんは吾郎さん。
●あれは 宮崎駿の物語。大おじ様が 宮崎駿。
宮崎駿が幸せにしなきゃいけない人間だと思ってるのは吾朗さん。それは パンダコパンダから変わらない。
一方で 創作をしながら 築き上げてきた あれやこれやのご縁。その中で 高畑さんとの出会いや製作を助けてくれたおばあちゃんたち。動かしたらダメ、なるほど。守ってくれてる。
創作という魔力を持った大きな石の力を利用して世界を築き上げていく。宮崎駿はかつて世界を愛せるかどうか 鍵 という話をどこかでしていた、愛せる世界であってほしいと。
そのための創作 なんだと思う。これで1日は持つっていうセリフの意味はよくわかってないけど、これであと1日はこの世界を愛せるって意味なんじゃないかなと思う。あの石は宮崎駿の創作 なんだと思う。
世界を捉え直して綺麗に積んであげることで世界を1日だけ愛せる。そういう作品を送り出してきたんだと思う。
3日に1個積みなさいと言ってた。3日っていうのはそのままの3日って単位じゃない気がする。3年とかなんじゃないかな 適当だけど。
それぐらいのスパンで作品を送り出してあげることで世界が愛せる 手伝いをするっていうのがあの創作の石に見られた人たちの任務で、宮崎駿がずっと それをやってきたけどもう限界があるから 誰かにつぎたいと。
まろさんに失敗したこともあったけどそこには 言及してなかったような気がする。とにかく 真人さんに継ごうとしてた。まあつまりはごろうさんなんですけど。
まあ本当に最後の作品になるんだろうなと思うものだった。
だからこそ今までお世話になってきた人やあの人や この人もういなくなってしまった人に思いを伝えたいというのが、切実すぎるほどに伝わってきた。
ひみさんは高畑さんなんじゃないかなと。
ひというのが 何かの脅威を表すとしたら、創作の炎に焼かれていった高畑勲さんらふのことじゃないかと。
今まで戦ってきた数々の戦友たち、その人たちが次々となくなっていった。それでも背負うものがあるから足を止めることはできなかった 宮崎駿さん。その 宮崎駿さんの懺悔と逆にそれを肯定していかなきゃいけないという背景から生まれた作品 なんじゃないかなと思う。
そう考えると最初から最後まで本当に真人さんを中心に動いていて、
創作で今までお世話になった人たちへの感謝や気持ちが全部現れてるように思った。
残すべきものは残した。
さあ君たちはどう生きるか そう 投げかけられてるような気分になった 。これは個人の感想です。
さらに個人的な感想を述べていくと、宮崎駿 眞人さん好きすぎんだろ。作品 全部つぎ込んで 真人さんへのお手紙 じゃん こんなん。
スタッフも豪華。
まだ宮崎駿さんはご存命だけど、献花に近いような作品だと思った。
すべての関係者への感謝と、
伝えられなかった思いの言語化と、
まるで遺書。
わたしもいつかこんな遺書が描ける人間になりたい。
人生何周してもたどり着けない気がするけど、思うのはタダですから。
]]>高畑監督は何にあたるの?
]]>持てる者の視点=宮崎
持たざる者の視点=高畑
という評価だったと思う
インテリサヨク高畑は伊達じゃないというか
]]>ちょっとそれはブラックジョークが強すぎない?
たしかに墓の主が高畑で確定したら、アオサギの方は鈴木Pで確定してスッキリするけどさ。
墓の奥からする実態も持たない謎の声が高畑勲ってのはもうそれ自体が映画のパンチラインすぎません?
]]>新海「酷すぎる」
駿「業界の衰退だね」
庵野「恥ずかしくないのかね」
山崎「僕なら引退するね」
押井「才能が枯れたんだろうね」
富野「若者が可哀想」
水島「おまんこ舐めたくなるキャラは任せろ」
高畑「文化が失われているね」
今敏「なんでここに高畑くんが?」
くぅ~~~~廃れました~~~~~
]]>この話は難解という感想をよく見るが、その実は全く逆で、宮崎駿が監督作品として一貫して伝えたかった事を、教養のない愚かな大衆の為に限りなく簡潔で単純なストーリーに落とし込んだ結果、宮崎駿自身も「訳が分からなくなった」作品である。
この作品は宮崎駿の自叙伝であることは既によく知られているが、彼の内面やバックグラウンド、そしてこれまでの作品で彼が伝えたかったテーマの一貫性を保っている。
彼はそもそもこれまでの作品にも自分と周囲の環境とを幾度となく投影してきた。ただし、それは一部のマニアにしかわからないものであった。今回は、そのベースに加えて現実の宮崎駿自身の回想を複雑に絡ませて投影されているだけでなく、そのものずばりで作品のオマージュという形で追想しているのだ。
そしてここからが重要な点だが、当然それは単なる追想ではなく彼が監督作品で一貫して伝えたかった「生きるとはどういうことか」というテーマに対して「自分はこうしたがダメだった」のだというメッセージになっている。
戦闘機の風防を量産する軍需工場の経営をしていた父のもとで軍国少年として育ち、裕福ながらも厳しい家庭で母の愛を十分に受けることができなかった宮崎は、敗戦後左翼に傾倒して東映アニメーションで高畑功と出会い、強い影響を受けて監督作品にそれを秘めるメッセージをこめてきた。
これまでの監督作品で散りばめられていたオマージュや背景設定には、子ども向けの作品でありながら大人には「鑑賞者の教養」をもってして強烈な現代資本主義と衆愚政治に対するアンチテーゼが展開されてそれこそが深みとして楽しめるものになっていたのだ。
だがそれは一部のマニアだけが知るものとなり、実際に「大人」である大衆が想定以上に教養がなかったがためにジブリ作品のストーリーやアニメーションとしてのレベルの高さといった表面的なものばかりが「良い」とされ、宮崎駿や高畑功が伝えたかった事は伝わらなかったのである。
それでも宮崎駿は諦めず、本作のアオサギたる鈴木敏夫にそそのかされて愚かな大衆と私腹を肥やす連中のために作品を作り続けた。いつか伝わるだろうと鑑賞者を信じて。
いや、もう飛べないのに何度も何度も鈴木敏夫に首根っこをつかまれて。
そうして作った過去の作品たちだが、まるで伝わらなかった。そして彼は遂に「諦めた」のである。「諦観」にも近いだろう。戦後の日本人が当然に持っていた強く気高い教養は、戦後75年高まるどころか全く失われてしまった。
まさに劇中のインコのように、脳みそが小さく何も考えることができない、ただぴーちくぱーちくインターネットで喚き、特異なものを攻撃する。コンテンツをひたすら消費する愚かな大衆に対する、宮崎最後の強烈にシニカルな表現である。
そして現代日本人を代表するように庵野のような表現と個人主義的な自己実現による自己救済、新海のような風刺のない純潔な大衆作品、そして特に何もない残せていない息子が残った。中盤から終盤にかけて、継母のタッチが明らかにジブリのキャラではなく、庵野や新海といった顔の印象を残しているのは、「俺はこう生きた、お前らもあとは好きにやれ」という餞であろう。
こうした自身の溜まりにたまり、ある種の呪いに近しい諦観を、いよいよ吐き出し昇華せんと最後の力を振り絞って、教養が無くてもそれとわかるように単純かつオマージュもジブリ作品にし、走馬灯のように仕立てた。大叔父は死期を間近に控えた自分自身であり、13個の積み木と世界はスタジオジブリそのものである。自分自身が、自分自身に対してケジメをつけた作品なのだ。
「作家は経験したことしか書けない」は宮崎駿とて例外ではない。自己を総括するように、母性に対する渇望と周囲の女性達との思い出が上手く母・継母・見守るおばあちゃんたちといった具合に添えられている。
この作品を単なる消費物としてみたときの評価は駄作であろう。
だが、この作品は紛れもなく宮崎駿の自伝かつ遺書であり、「君たちはどう生きるか」はこれまで一切メッセージが伝わっていなかった人間達に対する、まっすぐな問いかけである。
追記:
残念なことに、この作品を観て本当の意味で「あぁこれはねぇ~」と嬉々としてはしゃいで満足するのは岡田斗司夫ぐらいで、上記のような内容を今にYoutubeでレビューをするだろう。
]]>ゲスパー線を浴びたエスパー。必殺技はゲスパートマホークとゲスパーブーメラン。
たぬきのちんぽこにしか見えない犬
平成狸合戦ちんぽこの監督
]]>でも金山はちょっと過当競争過ぎるというかクソ店舗含め乱立しては潰れるので場所的には正直あんまよくないよね。
最近だと高畑あたりに妙に店が増えてきた感じがするなあ。
ママからSMSで新人案内があったのでちょっと様子を見に行ってみるか……。
]]>過去のIPこすったジブリパークなんて作って何するんだって思ったけど、息子に仕事を提供してやるわけか。
こういう多角化戦略をスタッフがいるときは作らなかった。スタッフを食わせる気はなかった。
解散とかいう首切りやった後に残った身内食わせるために作った。
首切りを解散なんて言葉で濁すなよって話だよ、加齢による首切りを卒業とか言ってるアイドルグループかよ。
こざかしいにもほどがあるがツイッターじゃそのへんスルーで宮崎駿という巨匠を今日もほめたたえている
元スタッフも信者ばかり集めていたのでそのへんの不満が一切表に出ることはないのがすごい
統一教会みたいだ
そんでまたアニメ作りたくなっちゃった~とかいう教祖のために月15万円で再集結をする元スタッフたち。
しかも作ってるアニメのタイトルが君たちはどう生きるかだっていうから笑える。
これが左翼どころかアカと言われ、東映動画の労働組合で高畑といっしょに経営層と戦ってた連中の末路。
高畑も金食い虫でこいつのせいでジブリたたむことになったわけだが、なんで左翼の末路ってこうなのかね
]]>高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている(結局、仲裁に入った鈴木敏夫の「宮崎は自分で絵が描けるから」という助言で、
それ以外のスタッフについては積極的勧誘をしなかったと記している[10]。米を茶碗に盛り付ける際、手首に付着した米粒を舐め食べる動作など、高畑アニメが追求するリアルな描写の実現は、近藤の強く鋭い感受性あって初めて可能なものだった。その後、再び高畑の元で『おもひでぽろぽろ』のキャラクターデザインと作画監督を担当する。
同作の製作中、近藤と宮崎の間では何度も衝突があり、時には宮崎が演出の変更を求めたり脅すようなこともあったという。
と述べている[11]。また、鈴木によると近藤の葬儀の際、火葬場で関係者が待つ間、あるベテランアニメーターが「近ちゃんを殺したのは、パクさん(高畑の愛称)よね」というつぶやきを漏らすと、間を置いて高畑は無言でうなずいたという[
]]>