はてなキーワード: 社会生活とは
使ったこともないワンセグで望んでいない機能なのに機種に勝手についてきておいて、受信料払えというのは矛盾に感じるのはおかしいのかな?と疑問に思う。
メーカーが勝手に付けてきておいてお宅の携帯ワンセグ付いてるでしょ?受信料払ってよというのは、いささか乱暴じゃないのかなって感じます。
そもそもそれを成立させるのなら、まず携帯会社にワンセグ付いているものはNHKの受信料がかかることを客に案内してねっていう事を
NHK側から携帯キャリア会社に言うべきじゃないのかなと思うのです。
その上で契約の際にワンセグを使用するか使用しないかの機能ロックを携帯キャリアで出来るようにするのは筋じゃないのかなと。
それを行わないで、ワンセグからも徴収しようぜっていうNHKのやり方は横暴極まりない行為じゃないかなと感じました。
東京地裁の判決ではワンセグ持ってるなら払うのが当たり前っていう判決になりましたが、そもそも「設置」という考えであれば携帯は設置するものではないのではないでしょうか。
ここ最近のNHKがらみの裁判を見ていると裁判官の気分でNHK側に勝訴を言い渡している感があります。
たぶん、これは私がワンセグで受信料を支払えという考えに疑問を感じているからだと思いますが…。
我が家では家庭用TVがありますのでNHKの受信料は支払っています。これは昔からの名残で払うものだと思っていたからです。
しかし、ワンセグという別に要らない機能を付けられている携帯を所持しただけで受信料の支払い義務を課せられるのは、おかしいと感じます。
前述したように徴収するにしても、携帯キャリアから事前の説明は必要ではないでしょうか?
機能が使える使えないというロックシステムがあるだけでも、このような問題は避けられると思うのですね。
使いたい人は使います。そういう人はロックをしなければいい話なのです。
選択の自由も使用者に与えずして不要な機能で受信料の徴収をするというのは、どうしても正しいように思えないのです。
ロックシステムに限らず、ワンセグに関してはスクランブル放送にするという事も出来ないことは無いと思います。
そもそも家庭用TVでも散々話題に出ていましたが、NHKはスクランブル放送にすれば良いのです。
それを頑なに行わず、このようにワンセグという機能が付いているだけで受信料を徴収する姿は金に汚いだけの協会にしか見えないです。
仮にNHK以外のchを視聴していたとしてもスクランブル放送にすれば、わざわざ引き起こすことのない諍いを引き起こさず、裁判すらする必要もなくなるでしょう。
そのスクランブル放送に対してNHKは公式HPで回答を出していますが…これにも疑問を感じます。
望んでいる人向けで良い話です。
災害時はどのchも迅速に情報を提供しています。NHKだけが特別ではありませんね。
教育番組などは良いとは思いますが、それもまた教育chの契約をスクランブルで行えばいい話です。
NHKが担っている役割とはなんなんでしょうね。現在のNHKは受信料の搾取に躍起になっているだけに見えます。
その結果が、現在も話題になっている受信料の裁判などではないでしょうか。またNHKの集金人も問題を起こしていますよね。
契約の強要、集金の横領、訪問時に人様の家に立ち小便をする人もいますね。問題が有るのは日本放送協会内ではないでしょうか?
「よく見られる」番組に偏るのはNHKが面白味のない放送を垂れ流しているせいではないでしょうか?
それはどのchにも言えることで、視聴者にとって面白く感じない、または実にならないような放送は当たり前の事ではないかなと思います。
「健全な民主主義の発達」など、どの年齢層に訴えかけているのでしょうかね。よくわかりません。
これらを見ても、元々スクランブルにしないようなやり方で無理に金銭徴収を行うのは変じゃないかなと私は感じました。
今回のワンセグの記事を読んで思いましたが、事前に用意するべき説明などもないまま、少しずつワンセグ所持者に詰め寄って受信料を払えと強要する姿は不良がカツアゲするようなレベルです。
それを今回地裁が認めてしまうという事に対して、これらの裁判を務めた裁判官は袖の下を握らされてNHKを勝訴に誘導したのではないかと邪推されても変じゃないかなとも感じています。
支払っている側ですら、おかしいと感じるのにTVを持っていない人たちがワンセグという望んで組み込まれているとは言い難い(もちろんワンセグ機能を求めている人もいると思いますが)もので
学生時代こいつだけは苦しんで1億回死んでも未来永劫許さねえって誓ったクソ林君は割りと底辺寄りだけど普通に社会人になって家庭を築いているし、
最近視界に入っている間中ずっと脳内で死ね死ね念じてるクソ上司に死ねって呪い続けても実際に死ぬわけでも苦しむわけでもなくて、
それどころかネット中の憎悪が向けられて大炎上した大学生やサラリーマンだって多分10年後にはすっかり忘れられて普通に社会生活送ってるわけで、
まあ実際悪人だろうとゴミカスうんこみたいな奴だろうと人一人の人生ってそうそう詰んだりしないんだよね。
多分俺の呪いの発露方法を訴訟とか一発殴るっていう行動に変えたところでそいつの人生の一場面がちょっとだけ面倒くさくなるだけで、結局そのゴミの人生は何も変わらない
とは言っても、あなたが女性であることの受け取り方は環境に大きく依存する。
少し違うたとえ話で悪いけど、30歳男性(ニート)と30歳女性(家事手伝い)、本質的に同じカテゴリでも特定の層からの扱いは大分違ったりするのと同じで。
あなたがそういう人かどうかは分からないけど、扱いの性差の気付いていながらそれを実力かのように言う人はある種のチートを容認してることになる。
性差だけじゃなくて他の生得的な身体的特徴、年齢、社会生活上の身分なんかもそうだけど。
ここ最近、自尊心を守る技術を積極的に身につけるのは重要だなと思ってる。
社会生活には自尊心を傷つけるような出来事が意外と多いと思うんだよね。
俺は朝が苦手でしょっちゅう遅刻してて、なんで他の人と同じように規則正しい生活ができないんだと心底自分に絶望してたんだけど、
あるとき、まぁ自分は他人と同じようにはできないんだと認めて、朝起きれないのも自分の個性なんだから仕方ない、俺は悪くないと考えたらだいぶ気持ちが楽になった。
当然、いまだに朝は起きれなくて相変わらず社会不適合者のままだけど、自分に絶望して鬱っぽくなることはなくなった。
それから会社に遅刻を責められても、心中では「俺は悪くない」を貫いて自分を責めることはない。代わりにどうすれば生活リズムを治せるか考える余裕ができた。
他人からみたらかなりふてぶてしい態度に見えるかもしれないけど、今の世の中を生きるにはこれくらい強引な方法でないと自尊心を保てないと思う。
はあちゅうの童貞いじりを童貞たちが中心になって批判し、謝罪に追い込んだという。恩知らずにも程がある。はあちゅうこそが、お前たち童貞に居場所を作ってくれたのだ。
まず、童貞が生物として劣った存在であるということは誰もが納得すると思う。もちろん病気などの理由で性行為ができないとか、性同一性障害とか、人里離れた孤島などに1人で住んでいる場合などの事情があれば別である。そうではなく、生殖行為に必要な男性機能を有しているにも関わらず童貞である人のことだ。
たしかに現代社会では童貞にも等しく人権が保証されているから、社会生活で差別的な措置を受けることはない。たとえば童貞は社会への貢献が足りないという観点から税金を課すなどの対策は考えられるが、童貞かどうかを機械的に判定するためのチップを埋め込む技術などが普及しない限り、運用は困難だろう。
そうは言っても、自らが童貞であることを他人に知られるのは極力避けなければならない。自らが属するコミュニティから生物として劣っているとみなされることで、童貞からの脱出がますます困難になるからだ。童貞はこうした抑圧を受けることで、実質的に「童貞税」を払っているともいえる。そこに救いの女神として現れたのがはあちゅうだ。
はあちゅうは童貞をいじることで、童貞であることを笑いに変えるというコペルニクス的転回をやってのけた。ここに童貞はキャラとして成立した。生きる意味を与えられたのだ。今では飲み会の席などで誰もが自分が童貞であることをカミングアウトできる。童貞を理由に降格されたり、閑職に追いやられたりする社会的不利益を被ることもない。
これに対していまだにアンタッチャブルな存在が「処女」である。社会通念上認められる年齢を超えた処女は極めてセンシティブな問題になり、飲み会の席などで気軽に触れられる話題ではなくなる。なぜなら、万が一自分は処女であるというカミングアウトがあった場合、それを笑いに変える文脈が存在しないからだ。
はあちゅうに童貞いじりをやめさせれば、何が起きるか想像してほしい。童貞はキャラなどではなく、少子高齢化や人口減に苦しむ人類が直面した解決すべき社会問題の1つとなる。やがてペナルティとしての童貞税を課された童貞たちは、はあちゅうが童貞をいじることで作ってくれたあの居場所の温もりを思い出すことになるだろう。
元増田が「政治には具体的な恩恵がないのに信仰ばかりを求めている」と感じるのは、おそらく現代日本の国政と社会生活を意識してのことだと思うのだけれど、それは日本の行政システムや、インフラや、物流などの消費生活向けのサービスが非常に高度に発展した結果、政治的なイニシアチブを誰がとっても短期的には過不足なく豊かな生活を送れるせいだよ。
一方たとえば、小学校の教室で、派閥Aと派閥Bのどちらが主流か? そして自分がどちらにどの程度の地位で所属するか? っていうのも政治に他ならない。そしてその政治は、任意の参加者がいじめられるかどうかに関係する。つまり、その子にとっては死活問題であり、決断に成功すれば十分な恩恵がある(決断の失敗によって災厄が訪れる)。
比較してみればわかると思うけれど、小学校の教室的な意味での原始的政治は非常に不安定だ。カリスマある先導者が独裁をして、教室の参加者の幼少期をどろどろの真っ暗にすることができる。これは別段無関係な比較ではなくて、国政においてそういう事例ってのは十分にあるわけだ。現に今このリアルタイムで、すぐ隣の独裁国家は国民の餓死すれすれの貧困と引き換えに核ミサイル製造しているわけで。
いま日本の政治が比較的安定していて、現政権与党であろうと野党であろうと、政権を取った瞬間即座に隣国のようにならない(民主党のときですら北朝鮮的な意味での大規模人権侵害はなかった)のは、ただひたすらに先人が工夫して政治的災厄を防ごうと思い、法治システムや官僚制度を整備した結果得られた果実だよ。無為自然の結果できたものではなく、努力の結果だ。
増田は「どの候補者を選んでも変わり映えせず具体的な恩恵がない」と思っているようだけど、それはただ単に巨大な恩恵(安定した治安や水や物流のインフラや物価の安定)を「あって当たり前だから加点要素として無視している」だけだ。救われる救われないの話をすれば、その恩恵は日本においてリアルタイムで全国民を救い続けているし、増田もその救われている一人なわけ。増田のその考えは、救いを受けておきながらやれやれポーズを取るという、システムを成立させた先人やシステムの保守点検にコストを払っている隣人の努力に寄生する政治的フリーライダーの考えだよ。
なんか(犯罪とか)するとニュースとかじゃ「教育者としてあるまじき……」みたいな論調になるけど、教師に何を期待しとんねん。
教師なんて普通~にただの人間だしどっちかっていうと頭おかしいやつしかいないだろ。
何が嫌かって、ほぼ自分じゃ選べないで強制的に入信させられることだね。もしくは、圧倒的に不利な状況に追い込まれる。"成績"はもちろん、"学校生活における自分"さらには学校なんか関係ない"自分自身"まで人質に取られて。
手のかからない子の心の摩耗もそうだが、まずこの、教師という宗教が本当に嫌だ。
そりゃ、どんどん高次元な学びになれば、○○先生を師として弟子やら部下やら手下やらなんにでもなれって感じだけど、足し算引き算なんて誰にどう教わっても同じであるべきじゃん。それを宗教が邪魔する。
足し算引き算なんて、まだアレだけど、やっぱり一番は"道徳"の宗教。それぞれの教祖が説く理想に沿わなければいけない苦痛。
いや、あえて、そういう風に個人個人で考えてることは違いますよって、ある特定の思想のみを植え付けられないように、毎年毎年下手すれば毎日毎時間異なる宗教を叩き込んでるのかもしれないけど。
子どもの頃って、大人が圧倒的に怖くて、教師なんて両親より"怖い"よりの大人で、その大人に、子ども心にも「なんだかよくわからない理由」で怒られるってのは、すごい恐怖だった。なんか、いっそのこと、「俺がそう思うからだよベロベロ~ン」と言ってくれればいいのに、基本、"道徳"を持ち出すよね。
それを、各々異なる"道徳"という宗教を押し付けられつつ、"成績"を人質に取られてまた踏み絵させられる、いつ他の教祖にそれは間違いだと言われるかもわからないことをする、もう、そりゃ、摩耗しますよ。
摩耗に対する、摩耗を防ぐための「心のケア」も、初めから教師に期待するのが間違ってるんだ。
生徒たちは、「心のケア」というこれまた踏み絵をさせられ、"ケアされた"顔にならなきゃいけない__毎年毎日毎時間ごとに。
そう考えると、ドラマの中「生徒はお客様ですよ!」みたいなセリフの、なんと馬鹿馬鹿しいことか。
学校なんて、「社会生活の練習」とか教祖はよく言うが、という名の、心をすり減らす訓練する場所じゃないか。
文字通り、学校で耐久性を何度も何度も何度も何度もテストされ、社会に出荷されるわけですね。客でもなんでもねーよ。
いや、かえって、学校の、授業の時間を教祖のディナーショウだと思えば、お客様なのかもしれない。教祖の、宗教の、言うなれば、サクラ客だね。この宗教はすごいってことをアピールしなければいけない。信者の顔、"ケアされた"顔をして。
長~くなったけど、要するに、教師がなんか犯罪とかしても、「まあするやろな教師なんだし」程度にしか思ってないということ。宗教・ショウを日々開催して、生徒がみんなワッとしてくれていたら("俺"に従わないような生意気なやつもスパイスとして楽しみつつ)、そりゃ頭もおかしくなりますよ。
ちょっと社会生活を送れば今もジジイ世代やそれに影響受けたジジイジュニアどもに女性ってだけで年齢にかかわらず無条件で下に見られるのを経験するんだけどね。
まあネットでしか社会を知らなかったり、社会的適合ができずにドロップアウトした負け犬男にとっては自分たちだけが被害者で差別される対象であるかのように思うんだろう。
何日か前もおんなじ内容書き殴ったけど、もうちょい整理して再投稿。
こんだけ男女平等が叫ばれる世の中だ。
社会生活のあらゆるものの男女比を全部五分五分にしてみたら良いと思う。
そもそもの男女の数の差があるから男:女が6:4まではギリOK。
日雇い土方も運ちゃんも、風俗もコルセンも完全に男女五分五分。
整備士に大工、保育士に看護師、プログラマにデザイナ、消防士に役場受付、ぜんぶだ。
体力差や適正が・・・、伝統的価値観が・・・、なんてカビ臭い横槍は一旦無視。
学校なら、先生も生徒もクラスも野球部も吹奏楽部も綺麗に男女五分五分。
選手もマネージャーも男女半々。競技の性差ハンデも基本的には無し。
工業高校も女子大学も男女半々だ。てか「女子大」という枕は外させる。
レディースデーは、メンズデーを作るか撤廃。女性専用車両は、男性専用車両を作るか撤廃。
神事や相撲の土俵など伝統的とされる場所での女人禁制なども撤廃。
ここで勘違いして欲しくないのはいわゆる「下駄を履かせる」、ってのは絶対に無しな。
「法律ならしょうがないから実力ない男or女をその場しのぎで採用し頭数合わせる」は駄目。
「採用したものの仕事与えずに最低賃金で飼い殺し」とかも勿論NG。あとルッキズムもNG。
これやると全てが台無し。異性側から反感を買ってしまうのでね。ちゃんと実力や資格を重視だ。
あと「男or女が自分の仕事を横取りした」と喚く無能底辺が出てくると思うので、
そいつらは最低限度の社会保障を咥えさせて黙らせる。男女みんなで働けば税収で賄える。
どっかのめちゃくちゃリベラルな中核市とかが試しにやってくんねえかな。
躁うつ病、正確には双極性障害II型と診断されて四年。たぶん"ふつうの人"にはあまりピンとこない、でも想像してみると面白いかもしれない話。
双極性障害は社会生活に支障をきたすレベルで気分が変動する障害で、例えば鬱の時は何週間も全く家から出られなくなるのに、躁の時にはアイデアが雪崩のような頭から溢れ出し、病的に饒舌になるというような嘘みたいなほんとの障害。
この障害を診断され自認するようにってから、ひどく骨を折ったのは「自分の感情を信じないようにする」ということだった。
たぶん「自分の能力が信じられない」という人はよくいると思うけど、「自分の"感情"が信じられない」という人はあまりいないと思う。例えば、泣いてるときに「いま私は泣いているが、私は本当に悲しいのか?」と自問する人はそんなにいないと思う。でもこの障害だと、喜怒哀楽すべての感情に対して、「私は本当に〜」とやる必要に迫られる。というのも自分が喜怒哀楽を感じる対象が余りにもコロコロ変わるために、それら全てを自己として認識することがふさわしくないように感じるからだ。
この「自己の感情への懐疑」に思い当たった時、酷く動揺したのを今でも鮮明に覚えている。考えてみて欲しい。自分の感情というのは、当たり前だが、自分にとって最も馴染み深いもので、最も自分らしさを規定してきたもののはずだ。自分の感情と自分を切り離すというのは、いったいどういうことなのだろう、切り離した自分というのはいったい何だろう、そこに何が残るのだろう、というような訳のわからない疑問だけが頭に浮かんだ。
私自身がそうだったのだが、鬱の気持ちがわからないという人は結構いると思う。でも実際自分が鬱になってみて、変な話だが鬱の気持ちというのは自分でもよくわからない。鬱の時の思考や感情というのは、自分にとっても馴染みのないもので、全く新しい自己の一面のようにも感じてしまう。しかし、鬱が長引けば長くほど、果たして自分とはなんだったのか、自分が自分と思っていたもの考え方、ものの感じ方の方が間違っていて、本当の自分とは、ベットの上から起きて、生理的欲求を満たして、またベットの上に戻ることしかできない、今の姿なのではないかと思えてくる。まさに深淵を覗くような気分である。
それでも何週間か経つと今度は世界を変える男はこの俺だ!といったいような誇大妄想を持つようになる。自尊心が増大し、酷く横柄な態度を取るようになり、病的におしゃべりになる。そんな気分のジェットコースターを何度も何度も繰り返した。これではいくつ心があっても足りない。
ケアレスミスの多い子供として育ち、メモを取ってないと凄い勢いで記憶を失う大人として社会人をやっている。
特技は電話口で会話を聞き取れなくて相手に何度も質問すること。
面と向かって会話してても3、4回同じことを言われてやっと理解することが多い。
文章を理解しても文脈を理解できずに相手に何言ってんだこいつとオブラートに包まれながら返されてようやく意味を勘違いしたことに気付くことも多い。
人間は悪いことばかり覚えがちだから自分でそう感じるだけで実際は平均的かせいぜい誤差の範囲なのだと信じて生きてきたが、どうもそうではなく回りと比べて明らかな有意差が出ているぞとそれなりの地位についてる人間から注意を受ける事が年数回。
軽度ではあると思う。
社会生活は他人の多少の善意を除けばこれといった補助もなしに送れている。
たまに被害妄想と加害妄想に脳が真っ黒に染められてメンタルが駄目になってしまいがちな事も多いが、これをはっきり障害と名付けるかどうかはグレーゾーンだろう。
もしも確かめて、その事実がどこかから漏れればその瞬間に社会的な立場が下る。
障害者としてちゃんと認定されて国から補助を受けられるレベルになれば社会的な地位や職場でのポジションも維持されるだろうがそこまでではない。
お菓子の食い過ぎで勝手に肥満になったデブがしょっちゅう体調を崩してスケジュールをかき乱すのを白い目で見られるように、甘ったれた生き方をしてきた奴が精神年齢の低い言動を病気のせいにしているうちに本当に頭がイカれただけの自業自得だと扱われるのだろう。
だから私は自分が発達障害である可能性を感じながらも、それを確かめない。
確かめようとしただけで白い目で見る奴が身近に、ないしはこれから転職した先等に1人でもいるかも知れないならやらないでおく。
確かめた瞬間に様々なマイナスが付き纏うのなら、絶対に確かめない。
薬やカウンセリングなど無くてもよく、むしろそういった事をヘタにやって寝た子を起こすような真似をする方がリスクが高いのだという確証制バイアスに全幅の信頼を置くことを選ぶ。
そうして本来なら薬でも飲むべきなのかも知れないのにそれを行わずにミスを繰り返す私に周りの人間が付き合わされることを、私にそう思わせるにいたるような社会を作ってきた彼らの自業自得なのだと考えて生きていく。
だってそうだろう?
少しでも発達障害の可能性がある人間が念のためにと精神科等で診察受けた事に、ちゃんとお医者さんに行って確かめるなんて貴方は責任感と勇気のある人なのねと言える人間だらけならこんな事にはなってないのだから、それを言えない奴らの自業自得だ。
身勝手だろうか?
身勝手と言われても構わんよ。