はてなキーワード: 戦争映画とは
「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」みたいな定義だっけ?
だとすると俺が読んだことがある純文学は「アルジャーノンに花束を」と「虎よ虎よ」だけかなあ。
え?じゃあ純文学ってなんだ?
恋愛ドラマや戦争映画でサブテーマに人種差別が入ってきてるような感じ?
純喫茶は「純」=「酒の力に頼らずソフドリと飯と雰囲気だけで勝負してますよ」って意味だっけ?
じゃあ純文学も「純」=「内容に頼らずに文学性だけで勝負してますよ」じゃないとアウトなんか?
チョット調べたら「こころ」や「よだかの星」も純文学らしいね。
でもどっちも「"潔癖症的な自己憐憫&自己否定"vs"自己満足的な懺悔&自己破壊"のタッグマッチ」がメインテーマであって、文学としての表現力はそれを盛り上げるための裏方業務って感じじゃね?
裏方凄いなーって所で盛り上がるときがあるのは分かるよ。
サマフェスのスピーカーの仕組みがバズるとか、競馬の名実況で思い出トークが始まるとか、でもそれってやっぱりサブジャンル的な楽しみ方だと思うんだよなあ。
それとも「SF」や「歴史小説」や「架空戦記」みたいに単なる舞台設定の一種なのか?
いやそもそもの考え方が違う気がしてきた。
小説って作品のジャンルを何によって定義するのかが他のコンテンツよりも自由すぎるんだな。
あとテレビゲームの「アクションアドベンチャー」とか「MMOFPSRPG」みたいな合体型のジャンル表現が発達してない。
分類する人間が漠然と一番濃度の高い要素で定義してるだけなんだな。
そうなると「純文学」って言われる作品の傾向がなんか見えてきたわ。
「他にメインジャンルになれるような要素が強いものがなく、かつ純文学のカラーが強い」って場合に「純文学」の棚に分類されていくってことなんじゃねえか?
「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であることは「純文学」の必要条件でしかなく、「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」だったら全部「純文学」になるわけじゃない。
逆に「純文学」と呼ばれている作品はすべて「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であるってことか。
すげー地味なオチだな。
しかしアレだな、こうなると「純文学」ってジャンルに区分されるってのは「それ以外の要素が特定のジャンルに含まれるには弱いね」を意味しているってことだな。
「恋愛小説」や「ライトノベル」っていうジャンルに区分けされるのと「純文学」ジャンルに入れられるのどっちが作者的に満足が行くのだろうかってのは永遠の謎だなあ。
「アルジャーノンに花束を」にしたって文章によって主人公の知能状態を表現しているのは凄いんだが、それを通して描かれる差別問題、知性の絶対性に対する問題定義の方もちゃんと読み込んでやらんとアカンやろとは思うんよな。
絵画の世界だと手段そのものが目的になっていることは結構あると思うが、文学の世界でそうなってる作品ってあんま多くなさそうなんだよな。
結局求めているのは自分が切り取りたい世界観に合わせたより適切なレンズやフィルターであって、それが凄いねって褒められたとして作者的には「いやそれを通して見せたかったものの方の感想言えよ」なのかも知れねえなあ。
「そういう部分もある」では駄目。
これはほぼ100%がそうであるタイプであり、それ以外の部分は繋ぎでしかないと思っていい。
作中に説明不足に見える用語が沢山あるけど、それらは作品の外から持ってくる必要がある。
たとえば戦争映画でわざわざ「日本とアメリカが戦争をしています。日本は最後に負けます」と解説しないのと同じで、作品外から情報を補わせることで作品のテンポを良くしたり仄めかすことでより感情を揺さぶろうとしてる。
まずは作品のラストから遡っていき重要な用語を現実に当てはめて整理していく。
13個目の積み木→宮崎駿の長編監督作品(ルパン2作とコナン1作を含む)13作目が君たちはどう生きるか
血を継ぐものへの継承→宮崎吾朗(アーヤと魔女を見れば分かる通り、継承は失敗している)
インコの王→米林宏昌(それっぽい真似っ子は出来るが……を越えられず、ついには独立してメアリと魔女の花を作っている)
インコ→ジブリのアニメーター(塔(ジブリ)の庇護下にあるときは強いのだが、外に羽ばたいて見せると途端に魔法が解けて拾ってきたときのか弱い生き物に戻ってしまう。インコは結局真似っ子しか出来ねえかんね)
下の世界の死人→アニメーター以外のスタッフ(自分たちでは何も生み出せず、いざ作品が形になると群がってくる)
ワラワラ→未来の太客(面白い作品を見せて育てることで将来的に太い客になってくれる)
ペリカン→客を食い物にしようとするアニメ関係者(せっかく育てた客を食っていく。傷ついた客がアニメに愛想を尽かすすことも)
これがマジで難しい。
アニメーターとしての宮崎駿だと考えることも出来るし、宮崎吾朗の成長物語だったのかも知れないし、鑑賞者の分身だったのかも知れない。
そういった全てが重なり合った存在であったと解釈するのが自然ではあるのだが……。
たとえば自傷行為で心配されているのは宮崎駿が引退するする詐欺で周りを振り回したときの様子にそっくり。
ことあるごとに鈴木敏夫に振り回されているのは宮崎駿もそうだけど鑑賞者側も同じなわけで。
主人公は最初、本当の母親との再開を求めて塔に向かうが、途中から新しい母親を連れ戻すための冒険も同時に進行していく。
塔の中では幼少期の本当の母親と再開し、最後に別れを告げることになる。
また、新しい母親のことを最初は他人行儀に読んでいたのが、夏子母さんと母であることを認めることで取り戻すことに成功する。
結果として、どちらもが本当の母であると言わんばかりの終わり方となる。
これは宮崎アニメにおいて「ヒロインをどのようなキャラクターとして造形するか」についての葛藤を描いているのではないか。
ハッキリ言えば、「ロリコン趣味を疑われながらも少女を主人公とするべきか、そうではないヒロインを描くべきか、それらは物語や世間が求めるヒロイン像により時には重なり合い時には反発する」という話をしたかったのだと思う。
歪な時間軸の中で幼少期の母に出会いヒロインとして共に冒険しながら、もう1人の大人のヒロインを救出に行くという混沌とした物語構成が、常にその葛藤に晒されてきた宮崎駿の複雑な心情を描いているのである。
こうして纏めてみると結構スッキリした話なんじゃね?(むしろドロドロって気もするけどな(笑))
宮崎駿の目から見たジブリの物語を描いてますよって感じなのでは。
「君たちはどう生きるか」というタイトルはこの状況に対しての語りかけで、どこに向けてそれを言ってるのかで意味は変わるんだと思う。
ジブリと関係が深い人に対しては「俺が引退した後好き放題するんだろうけど、何をする気?」みたいな感じだろうし、インコに対しては「真似る相手がいなくなったらお前らもう本当に何も無くなるんじゃね?」とかなんかな。
でもインコの話について観客に対しても「お前らもインコになってねえか?」って圧かけてきててもおかしくないんだよなーこのお爺ちゃん職人気質とかいてパワハラって読むような所あるからさー正論で人を追い詰めるマチズモなんだよなー。
しょーじきここまでメタファーまみれだと「風斬りの7番」とかも分かる人には分かる要素なのかもね(鈴木敏夫の弱点って聞くと咄嗟にとある女性が思い浮かんだりしちゃうが、アオサギ=鈴木敏夫じゃなくて高畑勲って解釈もできるし焦っちゃ駄目ね。高畑勲の場合は柳川堀割物語かな。まあ人間なんかしら人生に汚点はあるからこじつけようと思えばいくらでも出来ちゃうね)。
アオサギを適当な人物に当てはめて「宮崎駿が「お前とは色々あったけど本当に友達だったと思ってるぞ」と言ってるんだ―尊いー(T_T)」って適当に感動しときゃええんちゃう。
作画スゲーだけで終わらせるのも吉。
ジブリは滅びますぞ―のセンチメンタルそのものについて鑑賞者まで深く考えんくていいと思う。
マザコンなのかロリコンなのかハッキリしろって突っ込むとか、宮 崎 吾 朗 wwwwwみたいにヤジを飛ばすとかは見終わってからまでわざわざせんでええのかもなと。
やっぱ全体としてストーリーラインが雑というか、もののけ姫とかに比べて不自然さは凄いし、ストーリーだけを楽しもうとするのは厳しいね。
マクガフィンが母親であることのパワーを過信しすぎて「え?そこまでする?」になってるのがあまりよろしくないのよねー。
メタファー込みで考えると上手い具合に物語に落とし込んだなって感心はするけど、そんなの見せられても困るんですよお爺ちゃんって感じよ。
大人の嗜みとして真っ先に思いつく、アルコールとタバコ。両方弱かったけど、タバコだけはヤニクラに耐えセブンスターを吸えるようになった。
社会性としては、どう考えても付き合い程度に飲めるよう慣れた方が良かったんだろうけど。でもタバコの方が魅力的だった。かっこいいから。
それか缶かしゅっ。ぐびっ。それでハイ終わり。
こう雑に言ったら愛好家に怒られるだろうけど、私にはそう見えた。
タバコは取り出してから火を点け、一息置いて煙を吐き出す。紫煙に目を細めつつ、頃合いを見て火をもみ消す。その一連の所作に、どうしようもなく惹きつけられた。
灰皿とライダーという喫煙具を常備しているのも、なんとなくかっこよく感じた。酒飲みは常に一升瓶握っている訳ではないし。
フィクションにおける小道具として登場するそれへの憧れも強くあった。映画スターがおもむろにタバコを取り出し火を点ける姿。昔はかっこつける気なんかなくて、スマホをいじるくらいにタバコを吸うのが当たり前だったのかもしれない。それがどうしようもなくかっこよく見える。戦争映画なんか観ると、無性にタバコを吸いたくなる。有害なマッチョイズムなのかもしれないけれど、子供がスーパーヒーローに憧れるが如く心惹かれてならない。
嫌煙が「正しい」側の時代だし、たばこ税の歳入が云々と正当化しようとするのも悪手だと思う。毒ガスを撒き散らす害悪な存在と罵られたら、不快に思えど返せる言葉はない。
自分はマックイーンでなければショーン・コネリーでもない。一服というシチュエーションに酔いしれる様をキモい、ダサいと思う人こそいれど、かっこいいと思う人などいないだろう。
なんか昔の「みんな野球を見るもの」くらいの圧で「みんなお笑い見るもの」って感じてる。
関東の住人だから特に、というのもあるし、幼い頃お笑い番組でやってたイジメ芸を学校で真似してる人たちを目撃したせいもある。
お笑い、見なくても良くないですか?
いや、昨今、人を傷つけないお笑いになってきたとは聞いてるよ。でも『地雷踏んだら半日滅入る』話があったように、笑われる属性側に少しでも自分と共感するところがあると、何年も何十年も引きずるんだよね。そのためだけに人との会話もできなくなる。お笑い番組の真似でイジメられてた男の子のように、私がなる恐怖。なる訳ないよと言えるのはいじめる側にしかいたことのない人間だと思うし、実際飲み会の女性グループでは私は『面白い』らしく、プークスニヤニヤされたりする。
そんな状態で「M-1くらい見なよ」って、地雷の上でタップダンス案件なんだよなぁ。
ともあれ。
お笑い見なくてもスポーツ見なくても怪談やホラー避けても戦争映画見なくても大ヒット上映中見なくてもガンダム見なくてもONE PIECE読まなくても飲み会でアルコール飲まなくても美容院で美容師と頑張って会話しなくても、肩身狭くならない社会がいいよね、うん。
数ヶ月前だっただろうか、たまたま読んでいた雑誌で映画の広告を見つけた。
シベリア抑留をテーマにした映画で「ラーゲリより愛を込めて」というタイトルらしい。
主演は二宮和也で、広告には彼の演じる抑留されているであろう男性が大々的に映っていた。
髭の伸び具合を見ると、確かにあまり手入れされていないような印象が見受けられた。
視線を髭から上に向けると、ポスターに漂う雰囲気とは異なる色味を感じた。
抑留されている人間らしからぬ、いや、抑留されておらずともこの白さを持って人間は滅多におるまい。
歯並びも綺麗である。日本人は歯並びが汚いという話を聞いたことがあるが、そんな偏見はどこ吹く風な様相だ。
シベリアではホワイトニングと歯列矯正がサービスで提供されていたのだろうか。
今週公開ということで方方で宣伝されているこの作品だが、その度に私の中では無精髭と白く整った歯並びの対比が思い起こされ、戦争映画としての悲惨・悲哀を押し出した宣伝文句と噛み合わないその様をどうも滑稽で興醒めしたものに感じてしまうのだった。
(🍏の話は関係ないです)
そういえばこの話、漫画やゲームどころか映像作品でも駄目!(だからコスプレAVでナース服に赤十字あるのもダメ!)みたいな話がある(https://mondobizarro.hatenablog.com/entry/2020/05/09/163335)けど、ええー?ほんとにござるかぁ?って思うんだよな。
だって映像作品がアウトなら戦争映画なんてどうするんだよ?戦争映画ならOKです!AVはダメです!とか内容で差別するのか?んな阿呆な。
https://note.com/otakulawyer/n/n1c6081f6ee3d
素直に考えれば、赤十字をマンガや映画の中で登場させることは、「保護的な使用」、「識別的な使用」のどちらにも該当しないので、そもそも、赤十字法の想定する「用いる」に該当しないと解釈すべきでしょう。
このように解釈しないと、例えば、「戦争映画に、赤十字を描いた腕章を腕に巻いた軍医や衛生兵、赤十字の旗、赤十字をつけた車両等を登場させてはいけない」というアホみたいなことになります。
反面、赤十字を付した衣類やグッズの販売等、赤十字を付したビラや看板、書籍の表紙に赤十字をつけること、広告宣伝において赤十字(定義上、モノクロだとそもそも問題にはならない)を使うことについては、「識別的な使用」に該当しうるので、違反となることもあり得るでしょう。
厚生省通知に捉われることなく、赤十字をマンガや映画の中で登場させることは、そもそも「使用」に該当しないと解するべきです。
はあああああああああ、まーーーーーーたTwitterやネットの大先生に騙されるところだったわ!!!!解散解散!!!!
100文字以上読めないブクマカ向けに要約すると、漫画やアニメやAVは関係ない、衣類やグッズや広告宣伝はアウトっぽいぞ!ってことだな!!!
アメリカンスナイパーって映画が面白かった!
ブラックホークダウン
どっちも超面白かった。
船や戦闘機はあんまり興味なくてトップガンは微妙だけどUボートの映画は面白かった記憶がある。たぶんU-571かな?
SFだけどオールユーニードイズキルも前半の泥臭いアーマースーツ戦も好き。世界侵略: ロサンゼルス決戦は微妙。
スナイパーと言えば山猫は眠らないの1は面白く見れた。2は途中でやめた気がする。
それとジャングルからヘリで脱出するために悪戦苦闘しながら現地民に追われる?映画も見た記憶があるけどタイトルすら忘れてる!
もっとみたいけど映画の探し方が全然わからなくてよさそうな映画が見繕えない!
あるなら見てみたい映画は
戦車(兵)の話
城や要塞の攻防の話
ベトコンやべぇ!みたいな話
旅順の話
ドイツがいけいけどんどんだった話
とかかかなー。現代じゃなくてもいいんだけどキングダムみたいに武将の一騎打ちで決着とかになると白けちゃうのね。
それと日本製の映画って辛気臭くて説教くさくて戦争の悲惨さを打ち出してるって偏見があるからか視界に入ってなかったことがわかった。USAばりに大日本帝国!大日本帝国!なんてなる映画なんてあるのかな?最近の映画にはなさそう。
とりあえず名前だけずっと知ってるフルメタルジャケットでも見てみようかな。
自分は、ガンダムについてはMSや名台詞とかの知識はそれなりにあるけど(小学生当時にSDガンダムの全盛期だったので)、アニメ作品としてちゃんと観たシリーズは多くない。
TVシリーズだとSEED Destiny(SEEDは未視聴)、00全部(劇場版は未視聴)、AGEの2世代目まで。映画だと逆シャア、NT、閃ハサくらい。
漫画も(SD関連以外だと)昔ボンボンに載ってたF91やポケ戦のコミカライズくらいかな…(勿論ORIGINも未読)。
いや、セリフが無いわけではもちろんないけど、主人公の割には寡黙。ガンダムって「会話劇」と言ってもいいくらいセリフが多い印象があったので…。
ホワイトベースクルーやジオン兵、島の子供たちなど登場人物が多いけど、どれも記号的に済ませずちゃんと描き分けられてる。
しかも、ひとつのカットの中で動かないキャラがいない…!(画面にA・B・Cの3人が映ってたら、Aが喋ってる時にB・Cは棒立ちで動かない……ということがない)
ジブリ作品の作画を思い出すとわかりやすいかもしれない(流石にあそこまでヌルヌルとは動かないが…)けど、
こういう作品はテレビアニメだと滅多に無いし、劇場用アニメでも「これが普通」と言えるほどは多くないと思う。
3DCGのロボットアニメだと、戦闘中に「いま何をやってるのかわからない」というシーンがあったりする(閃ハサやシンエヴァでも一部あった)けど、
今作ではそういうことはなかった(戦闘自体が比較的スローテンポだからというのもあるかもしれない)。
「○○ですわよ」とか言ってて「こういう喋り方をする人だったのか…! ガンダムと出会ってから、30年以上知らなかった…」と衝撃を受けました…。
演出はやや古めかしいところもあるが、それが逆に「わかりやすさ」「とっつきやすさ」としても機能しているかもしれない。
(「出﨑演出3連発」みたいなシーンでは場内から笑いが漏れてた)
全体の雰囲気は世界名作劇場みたいだし、「巨大ロボットに乗って戦う」という点を除けば普通の戦争映画と変わらないし、
「今までガンダムというものに触れてこなかった」という人でもすんなり観られる作品ではないだろうか。
「凄い傑作だから絶対見に行くべき」とまでは言わないが、じんわりとした面白さで、見て損はない作品だと思う。
「ドアンは(直そうと思えばすぐに直せるのに)、なぜ電気を使わなかった(使わせなかった)のか?」というのがわかんなかった…
フォネティックコードというのは無線通信で、MとかNとか、BとDとかを聞き間違えないようにブラボー、デルタって呼称することらしい。
昔の戦争映画を見てるとたまに出てくるやつです。
こういうのって日常生活でも使ってほしいな、って常々思ってます。
アルファベットに限らず聞き間違いしやすいものってたくさんありますよね。
そういうの工夫して新しい呼称を決めていくのも社会規模的なライフハックとして進めてほしいなって思ってるんですけどね。
社長室と車掌室が同じ建物にあるとしたなら、せめて片一方だけでも全然違う名称にすればいいじゃないですか?
でも、そういう工夫ってどういうわけか頑ななまでにしないでしょ?わたしたちって。
変えてはいけないと思っているのか変えたほうが便利になるって気づいていないだけなのか、
発想がないのか面倒だと思っているのかはわからないんだけど。
でもこういったハックって少しずつの積み重ねをしていくことで気づいたらとても快適に生活ができるようになることじゃないですか。
ふと気になった。
現実でもサバイバルゲームみたいなモデルガンを使った戦争ごっこ遊びがあるけど
そういう「銃器を使った遊び」が好きだったり、「銃器に対する憧れ」がある人間…って
やっぱり「いつ銃を人間に向けて発砲するか分からない危険な人間」って思われてるんだろうか?
俺は戦争映画とか銃器が出てくるゲームは好きだけど、実際に自分が撃ち殺されたり撃ち殺す側には立ちたくないと思ってる
銃はカッコいいと思うし、銃を上手に使える人もカッコいいと思う、実際にゲームとか仮想の世界の中で大活躍する銃を見るのは好きだし
思想とか置いといて緊迫感が薄いよな〜って感じ続けてた。
さっきたまたまMAD動画(今世紀上映された著名作品、戦艦の最後の出撃が舞台)を見かけて気づいた。
兵隊が戦ってない。
対空機銃を撃つシーンで始終
「あ゛〜〜〜〜!!!」とか
「うをおおおおおお!!」
みたいに叫んでる。
カットが切り替わる度に「ああああああああぁぁぁ」が始まるんだ。
いやいやいや、敵に集中できないし号令も聞こえないし、戦闘にならないよ。
撃たれてパニクって声あげるのはわかる。敵機に弾が当たったら喜びの声をあげることもあるだろう。
なんで引き金引くだけで「ああああああああぁぁぁ」なんだよ?
念の為さっきアメリカ映画を再生してみたけど、銃で撃たれたとか敵を倒した時以外変な声あげてなかった。あとパーティーやる時。
まあ昔のアクション映画だと「オア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!」とか叫びながら撃ちまくるシーンとかあるんだけどね。
表題のとおり。
恋愛したいけど、自分が好きになれる人とどうやって知り合えばいいか分からない。
女、今年26歳、職業SE、過去に彼氏が二人できるもどちらも深い関係にはなれず
見た目→顔はフクロウとかベッキーとか言われる。普通だと思いたい、普通体型、運動不足
性格→熱しにくく冷めにくい(好きな映画は何年経っても大好き)、友達少ない、友達には表面上はポジティブだけど中身はネガティブだと言われる、すぐ顔に出るとも
趣味→洋画•漫画•アニメ(偏りあり。戦争映画とか手塚治虫好き)、世界史の本を読む、美術鑑賞、クラシック音楽鑑賞、フィギュアスケートテレビ観戦
これまでの遍歴
中高まで恋愛の気配なし。恋愛してるやつは馬鹿だとか、恋愛なんて時間の無駄だと思ってた。
大学生の頃、人生経験に必要かと思って彼氏を作ろうと決意。1年生の夏に告白されて、流れで初彼氏。しかし、段々と「なんかこの人つまらないな」と思ってしまう。「どうして他の誰かと似たような意見言うのかな」とか「そんなに私に好かれてどうしたいのかな」とか「私に愚痴なんか言って、慰めてほしいのかな。つまんねーやつ」と思ってしまった。しまいには「この人と会うためにおしゃれして遠出するなんて時間と金の無駄。疲れた」と思うようになり、連絡を取らなくなってしまった。
二人目は大学3年の冬、ゼミの同期の紹介。告白されて、今度こそちゃんと好きになろうと思った。ボディタッチしたり、自分なりに頑張った。なにかしてくれたら「格好いい」とか「優しい」と言うようになった。本当は思ってもいなかったけど、言葉にすれば現実になって本気で好きになれると思った。でも、段々一人目の人と似たようなことを考えてしまった。「女は皆イルミネーション好きだと思ってるのかな?つまんねーやつ」「ネットで皆が言うようなこと言ってんじゃねーよ、つまんねーの」と思ってしまった。本当は自分が一番つまらなくてしょうもないやつだと分かってたけど、やっぱり相手に本気になれなかった。また連絡をしなくなり別れた。
別れたあと、本当に反省した。相手は自分を好きになって勇気を出して思いを伝えてくれたのに、自分は“飽きた”とか“つまらない”とかで裏切って誠意になれなかった。次からは本気で好きになってから付き合おうと思った。
それから色んな人とデートした。5回以上デートした人もたくさんいた。みんな何となく楽しかったけど、でもなんとなくつまんなかったのは同じだった。多分、デートしてくれた人も私と話して楽しいとは思ってくれてはいたんだろうけど、私がなんとなく冷めてるのは分かってたんだと思う。告白されることもなくなった。
顔が好きだなと思った人もいた。勇気を出してデートに誘ってもみた。でも話してて、やっぱりしっくりこなかった。この人とこのままデートを重ねても、相手も薄々私が冷めてることを察するだろうし、途中で自分が飽きて放り投げるんじゃないかと怖くなった。
最近はコロナ禍もあってデートしてない。一人暮らしも長くなり、人と接する機会が減った。加えて、もうすぐ自分が26歳になるのにまともな恋愛経験もないことに、寂しさを感じた。結婚できなくてもいいから、20代のうちに本気で恋愛したいと思った。でもどうすればいいのか分からない。本気で好きになれる人とどうやって会えるのか知りたい。だからここに投稿した。なにか意見があればしてほしい。
理想のデートは……、映画一緒に見て語り合ったり、色んな美術館とか博物館に行って知的好奇心深めたい。サイゼリヤとかでもいいからずーっとおしゃべりするデートに憧れる。自分馬鹿だから知識豊富な人に憧れるんだけど、高学歴マウントとか傷つくし楽しくないからそういう人は嫌だ。
それが私だった。
感動するストーリーや戦争映画に涙する自分のことを優しい人間だと思ってた。
友人に優しいと言われたことはなかったが、皆が気づかないだけで、根は優しい人間だと。
でも30歳を超えたあたりで気づいた。
他者へ優しい態度を取ってる人が優しい人だと評価されるという当たり前なことに、こんな歳になるまで気づかなかった。だれか知ってたらもっとはやく教えてほしかった。
お前の態度は優しくない、と。
殴らない、怒鳴らない、人間のことを他者は優しいとは評価しない。それをしないことが当たり前なことだし、取らない行動に対して評価されることは少ない。
そして上記のことがわかったことでまたわかったのは優しい行動というのは、面倒だ。
他者を気遣う、手伝う、助ける、みたいなものが優しい行動だと思うが、それを実行するのはちょっと大変で。今までだったら面倒で見てみぬ振りをしてるところだ。
だからそういう事ができる人がモテるし、好きなタイプは優しい人とよく言うが優しい人は貴重なのだと感じた。
なんとなく優しくなりたいし、優しい人間だと思われたいから、とりあえず会社の中で誰かの手伝いをすることが増えた。他社評価を軸に行動を変えることが果たしていい事かはわからないし、すぐに結果が出ることはないが、なんとなく枯渇していたコミュニケーションが増えたな、と感じるよ。