はてなキーワード: 自己肯定感とは
コメントありがたいです。
ジェンダー論でもなんでも、自分が楽なものを選べば良いなと思ってるんだけど(ジェンダーロール降りる選択をした方がそれが楽だと思って、実行して、大変だったの後のことは試行錯誤応援してます。自分はそこにはなれませんてしかならない)(すまんけど、なんだ、こちらが女であることを利用したしないに対してはコメントして終わりかみたいな気持ちには少しばかりなる)(セクハラされて結果、人間全般こわいってなった人のことまでは想像しないのかなみたいな)、書き込んだときに楽になりたい 思いついたとこ試したけど、あちこちで言われ続けてる自己肯定感とかその辺りはじゃあどうやったら良いんだろうって思いながら書いた。
小さいことからコツコツとっていうので、一言日記みたいなのもやってるけど、がっと来た死にたい、消えたいに対しては意味が無いようで、とりあえず吐き出した先がここだった。
なんかもっとひどい書き込みあるかと思ったけどそうでもなくて、でもコメントあってありがたいなと思ってます。
仮に死ねって書き込まれて、実際死んじゃってもそれは伝わらないだろうから、そこがある意味増田のやさしさなのかもと思うとちょっと楽しい。
やっぱり自分の体験以上のことは知っても分からないことが多いと思う。
自分は仮に結婚できて養ってもらえたとしてもその対価に対してどうにかできるのかとぼんやりしてしまう。
ジェンダー以前の関わりに、人として生まれて、なんとなくほかの人たちが身につけてる自己肯定感とかそういうものが、経済面で他の人から助けられたとして増えたり身についたりするんだろうかと。
逆に今よりしんどくなりそうだど、そこには行き着けてないからなー。
恋愛は、就職とか趣味を通じた発信だとか、自己肯定感や自信に繋がるもののひとつとして挙げただけ。
2、3試しただけ?どれとどれのこと?10や20は試してうまくいったりいかなかったりして、今のところその自己肯定感みたいなところにはあまり繋がってないなと思ってる。
今は親がまだ働いててたまたま持ち家で嫌な顔はされるけど、とりあえず置いてもらえてるからホームレスじゃないだけ。
実家に戻る前は家賃払えなくて人の家に置いてもらってたこともある。
そこは甘えさせてもらえて感謝してるけど、そこから人並なところまで持っていけなくて、じゃあどうしたらいいんだろうって色々試して数年経ってる。
このままホームレスにすらなれないんなら自死も視野に入れた方が良いのかなってのがここ数日のことだよ。
甘いのは認識してるけど、どうしたらいいんだろうってなってるんだよ。
大学の同期が成人式をむかえる前に書こうと思っていたが、結局こんな時間になってしまった。
この時間になって成人式ねーうん・・・みたいに思ってネット見てる人間が見ればそれでいいや。
「成人式に行かない人って、いったいどんな理由があるんでしょうかね」というのは、改めて考えてみるとこれがいまいちよく分からない。
あるいは自分がなんだかんだ言って結局行った方の人だからなのかもしれないが、行くのを結局決めたのは前日の夜になって「ああやっぱ行こうかな、一応準備だけしておいて寝坊したらあきらめるか」といった具合でいたら当日きっちり目が覚めたので、ええホントに行くの俺?みたいな思いを抱きながら行ったという有様だったので、その辺のところ行くまではかなり割れていたのだが、実際行った後になってああやっぱ行ってよかったなとなるような強い価値観の変化があったので、そのあたりのことがいまいちよく思い出せないし、結局行かない側の人ではなくなったので、行かない側の人としての物言いをしなくなったからだと思う。
というのも、その成人式人生三回目のセンター試験の一週間前だったし。
その頃の自分に何があったかというと、まあなんだかよくわからないことになっていた。少し本題とずれるので、結論だけ見たい人は読み飛ばして構わない。
単にシンプルな物言いで表したり表されたりしたくないだけなのかもしれないが、一年目も二年目も、センター利用で受かった大学にそれぞれ親に入学金と半期の学費、それから半期の休学費用をハタかせておきながら大学受験をおかわりしていたからである。
結局一度目はもっと高いランクの大学に行きてえと抜かす自己肯定感の欠如と、それでいて自分の有様をよくわかっていないが生きる上では大切な若者特有の貴重な熱意を、18,9年生きててそれだけしか身に付けなかったんかとばかりの崇高な偏差値という単線的指標に振り向けて、それさえ達成できればこれまでも中高大と一度たりと第一志望というものに受かったことのない過去の自分の救済になると信じて突っ走ったものの、大元の問題が何一つ解決されてないがゆえに何一つ解決するはずもなく、終盤完全に行動の伴わない支離滅裂なメンヘラという訳の分からない人になりながら本試は全て落とし、所属するが故の苦い部分から解放されもはや生きてるだけで自己肯定感を補填できる依存先と化していた元の大学と、唯一受かった1ランク上の、しかも受験が終わった後になってどうやら自分が本来大学でやりたいと思っていたものと違うらしいということが分かった大学のどちらにすればいいか迷っていると口にし親父を激怒させて終わった。
二度目のほうはもはや凄惨と言う他はなく、元の問題、つまりは自己肯定感の欠如であるとか偏差値以外の指標を実のところ持ち合わせておらず、大学受験というそういうことの最後の振り分けが終わった後でじゃあ自分が何をすればいいのかがわからない、自分に好きなことややりたいことがあるんだかないんだかわからない、ましてそいつを新しく見つけ出すこともできちゃいないし、前の大学の専門や多分野性は楽しかったし、自分のやりたいことのような気もしていたがそいつは自分でかなぐり捨ててしまった。そうこうしているうちに時間は過ぎ、周囲にいる一つ年下の人間はめいめいにそれを見出したり、あるいはそうでなくても仲間を見出していく。新しい人間を迎えるムードやチャネルは閉じていき、ただ一人、コミュニケーションに長けているわけでもなく、まして19になって未だ携帯電話さえ持ったことのない現代人にあるまじき自分は人間関係からも完全に弾かれたまま過ぎゆくただ時間に溺れ流されていた。前期の単位は夏前に再受験が決まって期末を受ける必要もなくなっていた前の大学のさえ下回り、初めてのバイトもクビになり、夏が終わるころには高校のころ深刻であった鬱状態が完全に再発状態となり、対人恐怖に加えて社会恐怖に陥り、狭いキャンパスの狭い学科で知っている人間と会うのも、知らない人間がそれぞれ彼らなりの為すべきことや適応を見出しているさまを目にするのも耐えられず、大学は来てもまともに講義に出ることもなく普段人の来ない大学の非常階段で横になりながら、人の話し声や足音におびえ、ただ一日中耐えぬ眠気と抗うつ薬の副作用からくる体調不良でくたばっていた。
そのような状況を見かねてか、というより、自身も家族も学生相談室もお手上げ状態と化しており、少時に発達障害でかかっていた大学病院の心理士やら全落ちした中学受験時代の予備校の先生にまで話に乗ってもらい、しまいに温情で元の大学に戻るなり、また別のところに入りなおすなり、リセットの機会を与えてもらったというのが11月、という有様であった。
というような具合だったので、高校を出てから二年間の間で、自分の人生は高校を出るまでは同期で同い年の(自分の周囲にいた)人間が辿っていたそれからは大いに逸脱していた。
二度目の大学の同い年の同期とも、ましてや歳の違う同期からも逸れていた。少なくとも、当時の自身にとってはそうだった。
もとは転勤族で住んでいる地元にそれほど愛着があるわけでもなく、昔から付き合いのある人間もいない。親類ですら、精神・物理的に最も長い付き合いがあり、肉親としての付き合いらしさを覚えはじめていた爺さんは最初の大学受験の途中で突然死した。ましてや住んでいるところの人間など、地理的なり関係性的になり分断が続いたので、初めて親しいらしき人間関係が三年を超えたのは、電車で一時間の高校を出てからのことである。
↑以上読み飛ばし
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↓読み飛ばし了
そんなわけで当時の自分は、血縁・地縁または精神的な人間関係という側面において、また学年や同期など社会的地位としての側面において、そして以前より自分が持っていたイメージ(と現状との乖離)という三つの面において、一般的な「20歳」という存在群から離れていた。(すくなくとも、当時はそう自覚していた)
とはいえ成人式のハガキというものは、本人のそうした事情や自意識とは全く関係なく、ただいつ生まれてどこに住んでいたかということ以外何一つ問わず、だれの元にも届くものである。
ハガキが届いた時点で、すでに自分の人生が同年代の多くの人間が歩んでいるのと同じような人生など望むべくもないと思ってはいても(事実そうだとしても)、である。
これは生まれて20年の1月を迎えるまでの経緯がどんなに平凡であろうが特殊であろうがおそらく同じことだが、成人式というものは、義務教育を終えた人間に来る、「ただ同じ年(度)に生まれたというだけで世間から全く同じ扱いを受ける」最後の機会だろう。ひょっとしたら最後ではないかもしれないが、少なくとも当分同い年というくくりではこれほどの等しさと無差別性を持った体験をする機会はないだろう。たとえ義務教育をどっかでドロップアウトしようが、義務教育後に社会に出ようが、小中高のどっから私立なり特殊な学び舎に通っていようが、あるいはそういうことのなかろうがである。
分かりやすいので義務教育を例にとってはいるが、それ以外であっても人間この国で20年も生きていれば意識しようがしまいがなんがしか本人なりの本人しか持たない(あるいは似たような人しか持たない)部分というものが出てくるものだし、そんなことはないと思っていてもそう思えること自体がそうである。
これは多分行く前はあんまり分かりにくいことだと思うが、ともかく成人式というのはそういうものを可視化してくれるこの上ない機会だと思うんすよね。
自分が変わっていようが、あるいは変わっていなかろうが、それがどう変わっていて、どう変わっていないのか。会場に集まった普段どこに住んでたんだみたいな70年代の珍走団の生き残りみたいな連中やら、無数にいるスーツにトレンチコート羽織った黒い大群やら、量産型みたいな晴れ着の女やら、(ときにキンキラキンの)紋付袴決めた男達やら、そこにいる連中すべてがまぎれもなく自分と同い年という光景は、少なくとも成人式以外にあるまいと。自分が前日にやっぱ行ってみようかなってなったのは、そういう風な光景って実際どんななんでしょってのを見てみたかったのが一つある。これ考えても実際に見てみないと絶対分からないぞと。少なくとも、行ったことは何かの話のタネになるが、行かなかったら何にもならない。あとでやっぱ行けばよかった、がシミのように残ると思った。
成人式のハガキをなくしたのならなくしたと言えば現地で何とかなるし、着ていくものがないならまぁ少しでもちゃんとしてそうな格好をしていけばよいだろうし、そういう成人式だってあってもよいだろう。別に地元に友達がいなかろうが、それはそれで自分にとっての成人式はそういうもので、そっから見える光景というものがあるだろう。ひょっとしたら、意外な出会いというものがあるかもしれない。俺の場合は誰一人知り合いとすれ違うこともなかったが、それはそれで面白かった。久しぶりにでも会いたくないやつがいたとしても、そいつと会うのはその日が最後だ。遅刻したって別に会場に入れてくれないということはないし、まあ既に終わってても贈答品くらいは貰えるだろう。
いずれにしても、成人式に行くことによっぽどの、それこそ生命の危機が伴いでもしない限り、積極的に行かない理由をひりだすことはないんじゃないか?
仮に生命の危機があっても相手は少年法の適用外だ。別に贈答品目当てだってよかろう。地方によっては金券まであるらしいし。ぶっちゃけ、ほかの自治体のでも潜ってる人はいるし、そういう手もあるだろう。
成人式という上に述べたような場で何が起こるか、あるいは自分にとっての成人式がどういう場で、どういう体験をしたかってのは、これまでの自分を同じ年齢の違う人間という物差しで照らし合わせて改めて見直すことができるいい機会になりうると思うし、あるいはこれからの自分がどうするかを決める上で一つの観点を得られる機会となることもあるだろう。
俺の成人式の話をすると、その日の朝は普段より早く起きて、普段予備校に行く格好のまま家を出て、最寄り駅のトイレでカバンに忍ばせたスーツと革靴(最初の大学の入学祝い)に着替えて行った。
贈答品は会場に一番近いマクドナルドのクーポン券なのは事前情報で知っていたので、特に期待はない(要らねえけどなんかムカついたから二枚使った)。
日本で最も規模のでかい成人式のひとつなので、夥しい人間がいた。その中で明らかに事前の期待を裏切ってよかったこと・面白かったことが3つと、クソだったことについて書いて終わろう。
まず前座で良かった点、開式の国歌と市歌の斉唱。これは完全に盲点だった。いや、人生であれだけの人数で国歌と市歌を斉唱するという機会は以前もなく、おそらく今後もそうないだろう。規模は地元によって変わるところなので一般化はできないが、大勢で国歌だとか市歌だとかをまともに歌ってみるというのは、歌というもの(または斉唱)が持つ効果について体感することができたし、本人の政治的スタンスによって様々に見方があるものだと思う。
クソだったのは、少しは面白い話するかとほんのちょっぴり期待していた林文子(市長)が死ぬほどつまらない話しかしなかったこと。マジで役に立たねえ話しねえ。1行で要約すると
「携帯電話が普及して直接コミュニケーションをとれる機会が私たちの世代より減ったと思うので密接な人間関係を築けるよう頑張りしょう。」
いやもっと役に立つ話しろとは期待が高すぎたかもしれんがせめてなんかそれについて掘り下げた話はできないのかよなんだそのお手本みたいなお年寄りのお手本トークは・・・というもの。これはこれで、ある種の貴重な機会かもしれない。毎年使いまわしてる可能性があるから横浜市民は要チェックだ。
輪をかけてクソだったのがその次の新成人のスピーチ。まあ新成人代表なんぞに選ばれてスピーチを打つやつはまず間違いなく模範的成人みたいなやつかそれに類するものだと思っていたのだが(それ以前のスポーツ選手みたいなのの紹介とかもそうで)、そいつの語り口が聞いていて気に食わなかった。正直後のインパクトで話してた内容をあまり詳しく覚えてないのだが、まあ今はボランティアとかいろいろやってます系の大学生が自分の人生を語るというものだったんだが、その途中で(当人の人生が実態としてどうであれ)妙に「こいつスピーチの話術として落としをやっているな?」というところがなんか聞いていてイラついてくるのである。「いじめられもしました」の言い方が湿っぽいんだよなんか。でもお前いい人に囲まれててよかったねいい人生だねと市長のスピーチに続いて半ば来たことを後悔し始めたのだが、ここからがとてもよかった。
これは行く前と行った後で最も価値観が変わったことである。かねてから成人式の乱入というものはまぁおよそまともなものではないと思っていたが、しかしその場ばかり、その場の自分にとっては違った。
むかし怪獣特撮で怪獣が町を破壊するシーンで喝采があがったとかいう話が少し分かった気がした。
成人式というのは、その主役は新成人である。そこにいる、会場に座っている全ての人間が主役である。彼らの社会的日向日陰此方彼方近郊遠方、全てを問わず、しかし彼らのものであり、選ばれた新成人と、一世一代の晴れ舞台乱入を試み壇上へ駆け上がった名も知らぬ煌びやかな和装姿の彼と、私と、あるいはすれ違うこともないがしかしそこにいるはずの知人どもとの間に、いったい何の違いがあるというのか。誰が彼と彼らと分かちうる権利を持ちうるのかと。成人式とは、生きてきたこと、為してきたことの如何を問わず万人がそこにいる場ではないのかと。
ひとり私は拍手し、心の中で喝采をした。壱萬の大群と自ら選んだわけでもない代表者という構図の中に包まれていた会場を破戒し、否、そうではない、と示した彼の姿に。
そのように見出した彼の姿に心打たれ、ある種の感謝と、自らの肯定を覚えたからだ。彼の行動によって、万人の場としての当市成人式は成立をなしえたのだから。
最後に。これは来ていちばんよかったと思えた光景なのだが、式が終わって駅に行くまでが死ぬほど混んでいたので見物感覚で大回りして駅の空いてるほうに向かっている途中、まあいかにもあまり中学の休み時間窓際で話してそうな感じのイケていなさそうな感じの風貌のダウンジャケットの男二人が、しかし久しぶりに会ったと思わしき感じで、いかにも久しぶりにやるその頃の二人のやり取りという感じで楽しげに歩いている、その光景を後ろから見ているときだった。
こういう成人式も、あるのだと思った。
この点は全く同意なんだけど、
世の親たちは褒めるべきところできちんと子を褒めてほしい。
褒めて育てた子ほど、親に評価されたい一心で生きることになるのでは?
アドラー心理学の視点から書かれた記事によると、「褒めることは相手の自律心を阻害し、褒められることに依存する人間をつくり出してしまうことになる」と捉えているそうで、「褒められたい」と思うことは依存で自律性を欠いた状態であり、人を褒めるということは、その人の自律性を奪うことになるのだそうです。
人が自信を持って行動するのは「上から評価して褒められたとき」なのではなく、「横から勇気づけられたとき」であり、こうした感情を何度も受け取ることによってのみ、人間は自律的に成長していくことができるのだそうです。
だそうな。
頼むから世の親たちは褒めるべきところできちんと子を褒めてほしい。
褒めてもらえないと、成績あがれば褒めてもらえるかな、期待に応え続ければ褒めてくれるかなと、褒められたいという動機づけで物事を頑張ることになる。
そんでもって主観的な評価よりも客観的評価を受けたほうが確実と思い、特にテストを頑張るようになる。
そうするとさ、テストじゃなくて、議論でいかにクリティカルなことを言えるか、場に一石を投じられるか、みたいなことが必要となってくる大学では自信を失って死にたくなるんだ。もう褒めてもらえるすべがないとね。
そうするとね、ツイッターでかまってちゃんをかますようになるんだよ。友達がいなくなるよ。だんだんみんなに反応されなくなってくるから、こうやってブログを書き始めるよ。
親に評価されたい一心で生きていた子どもは幸せにならないよ。自己肯定感も低くなるしね。
お願いだからちゃんと褒めてあげてくれよ。
みんな私を褒めて!一緒に喜んで!!!!!
今まで色々関係があった人たちはみんな周りからダメンズとかひどいとクズって言われていたし、まあ実際一般的にそうだろうなと思うこともあった。
でもそれでも私にとってはいい人たちだったんだけど、とうとう終止符を打ったよ!
まあ結婚したんじゃなくて、誰とも付き合いたいと思わなくなっただけだけどな。
最後の人と別れてから 1 年経ったから、卒業したって言っていいだろう。
最後の人、好きじゃなかったけど告白してくれたから付き合ったけど、なんかこれで一気に目が醒めた感じだった。
嫌な思いをしたときとかはっきり言えたし、私に八つ当たりしてきたときはやめてって言えたし、私にいう事聞かせようとしたときは話し合いをしようって言えた。
この人は人間性はいいとは言えなかったけど、大事なことを気づかせてくれたから感謝してる。
ダメンズ(またはダウィミンズ?女性版ってなんていうんだろう)ウォーカーになっちゃっている人たち、もし卒業したいならまずは自分の自己肯定感の低さに気づいて欲しい。
気づいてからも難しいけど、あなたが友人や周りの人たちを大事に思って幸せになって欲しいと思うのと同様に、周りの人たちもあなたに幸せになって欲しいんだよ。
漢字の画数もかなり少ない。
テストでの時短効果はかなり言われてきたが、現実には有意な差がないことは明白だ。
それより小〜中学校では名前短すぎ、変、とイジられることが多くて嫌だった。
いじめにまでは発展しなかったが、自己肯定感の低減にはかなり寄与した名前だった。
名前をネタに自己紹介もできるし、何より名前を覚えてもらいやすい。
デメリットはある。
名前が短いこと、名前自体も少し変わっていることからニックネーム的にフルネームで呼ばれることが多い。
病院等で必要に迫られて呼ばれるケースも含め、実はこれはかなり厄介だ。
赤の他人に素性を知られることが思わぬ危険を生む可能性があるというのは、ネットリテラシーの高いはてな民なら同意するところかと思う。
私の場合はこれが日常的に起こりうる。名前の一意性が高いので、ネットやSNSでの検索結果が相当少ないからだ。
今まで散々自分の美貌を使って、いい思いをして甘い汁すすってきたくせにとしか思えません。
日頃から異性からも同性からもチヤホヤされて自尊心は満たされて自己肯定感も育って、挑戦するチャンスを与えられて、きっと仕事の中でも自分の中の女を武器に(美人風顔出しライターにありがち)したときも腐る程あるだろうに、被害者面しやがって。
こちとら不細工は、異性に露骨に美人とは違う扱いされたり(わかんねぇだろうなこの辛さ無力感は)、上司からセクハラといっていい暴言はかれたり(強者側からしたら愛あるいじりと呼ぶのだろうけれど)日頃から心にダメージを負ってるんだっつの。生まれたときから千倍不細工よりいい思いして楽して生きてきてるくせに、弱者のふりすんじゃねえ。女性の代弁者のツラしてんじゃねえ。てめえは強者側なんだよ。同情と賞賛を浴びたい強欲さと、自分は弱者ですって声高らかに言えちゃう強かさが、やっぱり美人(美人風)ならではの傲慢さだわ。
女の敵は女って言うけどな、それあたしのことだから。美人(美人風)の敵はあたしだから。だからはあちゅうのことは絶対許さない。炎上しろ、燃えカスになれ、時代に消費されてただの色欲ババアになれ。次世代の子から見てダサい存在になり腐れ。むしろもうなってるのかな?
でもね電通の女の子の過労死のときも思ったんだ。やっぱり世界は美人に動かされるんだねって。あれ、女の子が不細工なら話題にならなかったよね。天動説、地動説ちがう、美動説だよ。美しいものが好き、美しいものを大切にする、美しいもののために何かする、それが世界の法則なんだよね。
不細工に味方はいない。不細工が声あげても揚げ足とられるだけ。不細工のためにみんな一致団結してくれない。だから、ネットメディアに取り上げてもらったり援護者をつけたり同情をひくこともしない。自分の身の程はよく知ってるから。
日々傷ついても傷ついてないふりして、笑ってひとりで立ち上がって前向いて生きてくしかないし大事な人は自分で守っていくしかない。満員電車に小さい子とかお年寄り妊婦さん乗ってたら体を張って守るしかないし、まずは人に優しくする。それが不細工の不細工なりの生き方。美人と同じ世界に共存して、自分の半径1メートルの世界を動かすための唯一の方法。自分を少しでも好きになるための苦肉の策。
もう数年前のことだけど、3年ほど付き合っていた彼氏が典型的なマウント系モラハラ男性だった。
私がもっと成長すれば…もっと良い彼女になれば……と自分を追い込む日々に疲れていたところ、ある日突然目が覚めて別れを告げた。
別れてからしばらく恋愛はこりごり、と、仕事をバリバリこなして休みの日は色々な趣味の場に行って…と独りで過ごしてた。
独りで過ごすのは楽しかったし、なにより趣味や仕事で自己肯定感も高まってきている気になっていた。
今の彼氏は優しい。優しいというより多分これが普通なんだろうと思う。それでもすごく優しくて感動してる。
嫌なこと・対応が難しいことはしっかり言ってくれるけど、意味のわからないタイミングで怒らない、嫌味を言わない、決してマウントをとって優越感を得るようなことをしない、私の意見を尊重してくれる。
なんでも相談して決めよう、と言ってくれて、人と付き合うってこういうことなんだな…と幸せをかみしめる日々。
ただ、時々それが不安になる。
ほとんどの人にとっては、そのエッセンスだけで十分なのに、10倍くらい冗長・希釈されているケースが多い。
読む前に、各所の評判等を確認の上、
本当にこのボリュームが必要なのか?不要に難解な内容なのではないか?時間の無駄のほうが多いのではないか?などと逡巡し、
ネットでまとめを探して読むだけに留めておいたほうが良いのではないか?などとも思うものの、
それでも、実際に読まないと、そんな意見も主張できないし、自分自身でもその判断が正しいかどうか確認できないため読む。
結局、想像通り、時間効率が極端に悪いだけで、まとめ等読むだけで十分、ということも多い。
世間の書籍に対する評判や、私はこの本を読んだぞという自己肯定感、あるいは読了済の他人との会話、業界の常識。
「自分は素晴らしい」と褒め称えるのは自己肯定感とは全く関係のない精神論。
自己肯定感とは、むしろ自分の感じること考えることを本音ベースで直視することから生まれる。
「自分はどこが駄目でどこが人並みでどこがマシか」
こういったことについて、良心とか建前に負けず言葉にし、直視する。
自己肯定感ってどうやって養うの?
欠点も含めて自分を認めたり受け入れるって、そんなことできる?
なんか、「私は素晴らしい」的なことを唱えれば脳がそう思ってポジティブになる、的な話はよく聞くけど。
自分が自分のままでいいんだよ、っていうことは、今、背負っているものを下ろして、一人で好き勝手に生きていいってこと?そんなことできるわけなくない?罪悪感とか、愛とか、責任とか、人の悲しみとか、背負えるわけのないもの、実体のないものが、どうしても下ろせない。実体がないからこそ、消えない。
夜通し起きて本絞りをちびちび飲みつつダラダラyoutubeを見ながら、ふと○○の同級生、○○のことが気になり探そうとした。その過程で○○先輩のことを思い出して検索。その流れで○○のHP、現校長○○さんの記事などを読むうちに小学校から高校まで馴染みのあった○○、○○、○○、○○、○○、○○など○○の中高一貫校のHPを巡りながら、黒い歴史として一緒くたにしまっていたあの頃の記憶を懐かしみながらメタ認知し、味わった。 自分のふわふわした現実感の無さは、自己肯定感の無さ、過去の自分を認知することを避けて大雑把に恥のベールに包み、奥へ追いやってしまったことによるアイデンティティの喪失ではないかと気づき始めた。高校三年生時からは7年ほどたち、さすがにそれ以前の記憶はどれも懐かしさと愛おしさを覚えるレベルに濾過された。中学受験で上記に落ちたこと、中高での時間の流れ、○○や○○、○○をサボっていたこと、○○で○○のことが好きだったこと、どこにいてもでも異物感を覚え、勉強など何事にも集中できず、途方に暮れていたこと。全て良い具合に、御都合主義的に味わう。噛みしめる。胸の中、頭の中で何かがじわり、温かな気持ちになり、穴が埋まる。
ずっと抱えてきた現在時間での心、あたまの所在なさは、過去の肯定、自分を受け止めること、怯え逃げることによるものが大きいかもしれない。一つ前に進んだ。生きてきた時間、人生がすこし、輝きを持ち始める
私の親は毒親というほど毒々しいわけではないのでしょうが、とにかく人の気持ちを先回りする人でした。
「この色の洋服を着た方がかわいく見える」
「将来のことを考えるならこの学校の方がいい」
そんな感じでとてもたくさんのことを言われてきました。
何でもかんでも決めてくれることを楽だと思うこともありましたが、先日私の進路について父親と話をしているのを聞いて
「あの子は競争に向かないから推薦で入れるところを探した。そっちの方が合ってる」ということが言われているのがすごくショックでした。
仮にそれが正論であったとしても、どうして私にとっての幸せを別の人に決められないといけないんでしょうか。
きっとそのうち「結婚したら幸せになる」とか言って相手を勝手に見つけてきそうな感じもします。
さっきからの流れをみていてそんなことを感じました。
男が男として生きることから社会的に離脱した物語なんて山ほどあると思うけどね。
はぐれ雲とかに出てくる、甲斐性がないけど自由に生きるスタイルの男モデルみたいなの。
孤独のグルメのゴローちゃんだって、仕事に生きているという意味ではマッチョイズムの中にあるけど、生き方のスタイルはどちらかというと社会的に逸脱した組に入ると思う。
要するに、社会的に求められる「男」像って「強くたくましく、リーダーとして弱みを見せずに頑張る。そして戦って勝つ」みたいなものだから、それを逸脱して何の肩書も持たずに身一つでフラフラ生きるということが既に男が男として生きる苦悩から開放される一つのアンサーになってたわけでしょう。
じゃ、女はどうかというと社会的に「男(社会)に迎合しなさい。弱い存在になりなさい」というプレッシャーを強く感じるもので、それはどんなに社会的地位が高くなってもつきまとう。
日本のメディアでは政府要職に就くようなトップの女性にすら家庭的であることを求めるし、格闘技やスポーツでトップになるような女性アスリートにも恋する乙女な一面を持たせたがる。
そういう、本来の強く生きたい自分、自立して自由に生きたい自分に対して「弱くあれ、やさしくあれ、しとやかであれ」とその延長になる「男に従順であれ」という、自分の力だけではどうしようもない圧力が苦悩として描かれるんだと思う。
というと「今時の女は十分男より強い」とか「そんなこと世間は求めていない」とかいう反論があるかもしれないけど、それは十分に社会的圧力に歯向かう力と自信がある人だけの論理。
あの漫画で出てくるような自己肯定感が低い女性は、なんとか社会に受け入れられるために卑屈な態度でいなくてはいけないという劣等感の中にいて、そしてその社会的に求められる女性像を演じてさえいればなんとなく受け入れてもらえるという気色の悪い空気感が多くの女性の心をつかんだんだと思うよ。
仕事でほんのすこし落ち込むことが重なった。
身だしなみも満足にできなくて、
仕事もできない奴なんか死んだほうがましだな、
と、割とかんたんに思ってしまう。
そういうとき、こんな心情が増田に書かれていたら…と妄想をするようになった。
誰かがこんなことを書いていたら。
自分が書きそうなのは、そんな当たり障りない適当な励ましとかだろう。
そういうことじゃなくて、増田はたぶん今圧倒的に自己肯定感が足りていなくて、
それを与えてくれるのは自分でなにかを成し遂げたと思える実感だけで、
そう、だから、確かにそのためには痩せるとかなにか前向きな一歩を踏むことが有効で、
そんなこたあわかっているんだけど、
ここから一歩を踏み出す力がないのだ。
自分がそれをしてくれないのに、
そんな状態なのに、そんなとおりいっぺんのブコメなんか役に立つもんか。
と、こんなぐあいに増田の自分とブコメの自分が言い合っている。
虫歯だけでも治れば違うだろうか。