はてなキーワード: 自己肯定感とは
男性はなぜ女性に比べて圧倒的にファッションに興味がないんだろう?
自分は女だけど、もし次に男に生まれても、おしゃれすることは諦めたくない。
おしゃれは自己肯定感と日々の楽しみに超ダイレクトに繋がっているから。
着る服だけでなくありとあらゆる可愛い小物、インテリアなど見てるといくらでも脳みそ活性化するし、ときめきで肌ツヤ良くなるし、それらに囲まれてるだけで毎日がすごく楽しくて嬉しい。
男性はファッションの幅が狭いとはいえ、今はりゅうちぇるや韓流グループのようにいくらでも工夫できるし、自分ならそうする。顔がイマイチでもできることはいくらでもある。
とはいえ周囲を見回すとその工夫段階に辿り着く人自体が極少数で、殆どの人はハナからファッションに興味がない。
なぜだろう。女の外見には厳しい人たちだから、外見にこだわりを持ってない訳じゃないだろうにね。
母はかなり太っていて、私は痩せている
たまに母に会うと、必ず「いかに私が痩せているか」、「足が細過ぎて気持ち悪い」、「痩せてるからオシャレができて羨ましい」などの体型に関しての言及をされる
私が普通に食べていても太らないことを母は知っているから、ちゃんと食べてないんじゃないか?という親心ではない
そこに脈絡などないし、目的もない(不安から意味のないことを口に出しているだけ)
なんだか疲れる
普段自分から人の体型に言及することなどない私からすれば、母や世の中の少なくない数の人間が太っている/痩せているの話題を好むことが不思議でならない
他人の体についてごちゃごちゃ言う人は精神的に未熟だとすら思う
はてブでもダイエット記事が人気なのかときどきホッテントリ入りしているが、そのブコメ欄で太っていることへのものすごい嫌悪をにじませたコメントを見ることもある
なんだか怖い
健康に問題があるほど痩せている/太っている人が健康を大切にしたいと思った時に、自分でどうにかしたいと思うのはわかる
肥満や痩せすぎが寿命を縮める、というのは価値観でなく事実のようだし
健康でいることがその人にとって重要でそのために体型を変える必要があるなら、それは各自頑張ってくれたらいい
でも人の体型なんてどうでもいいではないか
私が痩せていることで何か迷惑か?
母が太っていると何か悪いのか?
そんなことはないだろう
母が過剰に私と母の体型を比較するようになったのは、世間が「細い方がよい、太いのは悪(または許されないほどに醜い)」みたいな考え方を植えつけたからに思える
そんなものを植えつけられてしまう母の愚かさもどうかと思うが、母だけでなく人は世間の空気というものに影響されて生きている
(私の体型に言及してくる人は母だけではない)
例えば「肥満は悪で痩せていることは善」の別バージョンとして、「赤毛は醜い・金髪は馬鹿」や「筋肉があるほうが偉い」など色々あり、全部同じようにくだらないのだが、それらを自明なことかのように信じている人も少なくない
考えてみるに、世の中には人に劣等感を植えつけるためだけの言説がはびこっている
それらは主にお金を稼ぐために利用されるが、これほど醜いこともないと思う
醜いものを問題とするのであれば、太っていること、痩せていること、髪が少ないこと、肌が荒れていること、背が小さいこと、背が大きすぎること、などなどを醜いと嫌悪する感情こそが一番醜いのだが、それらはあまり(その醜悪さに見合うほど)非難されない
なぜだろう
「劣等感があるから頑張れた」みたいなことも聞くが、適切な自己肯定感はそれよりもはるかによい
だから、みなが住みよい社会のためには、人に劣等感を植えつけるための言説は淘汰されるのがよい
だからこれに関しても今後人々の意識が変わり改善されていくだろうと期待している
とりあえず私個人ができることとして、次回母が私の体型に言及してきたときになんて返せば母の体型へのこだわりを薄められるか、考えているところ
※勘違いしないでほしいが、例えば「顔に大きな痣がある人」を見たときにウワッと思って一瞬嫌悪する、そのようなことは仕方がないと思っている(「顔の痣」を何に置き換えてもらっても構わない)
しかし、そうした嫌悪感情をおおっぴらに表に出すことは問題がある
世の中には同じものを見てもなんとも思わない(嫌悪しない)人がいるのに、そうした嫌悪感情の開陳はそういう人間にも嫌悪をうながし、本来嫌悪しなくて済んでいたものを嫌悪させることにつながるからだ
個人の中で終わらせればいいことだ、といえのが私の考え
長文を書ける場所を他に持っていないからここに吐き出させてください。
本当にただただ、自分の性質について振り返って今気づいたことを書き留めるだけ。
ろくに推敲もしてないからめちゃくちゃ汚いと思う。ごめんなさい。
私は幼いころから典型的な、崖っぷちにならないと本気を出せない人間だった。
で、成長するにつれて、いよいよ崖っぷちに立っても本気出さなくなったりして、それでことがすんじゃったもんだから次から崖っぷちを崖っぷちと思わなくなって、
要するに自分でアウトだと思うラインがどんどん外側になっていって、で、クズになってしまった。
毎日寝てばっかりで、学校の単位はボロボロ落として、留年して、親に学費余計に払わせることになって、
内心それにめちゃくちゃ落ち込んではいたし罪悪感はあったけど、そこに向き合うのが怖いから考えないようにだらだらして、
で、また次の試験の日が来て、これ以上卒業年数伸ばせないし、頑張らなくちゃいけないんだけど、
でもやっぱり駄目だった。
レポートの期日を確認すること。たったそれだけのことすら、ほんのついさっきまでできなかった。期日は昨日だった。
確認さえしていれば。もうなんでもいいからはやく書いて出していれば。
それは早くやらなきゃ、やらなきゃってうだうだうだうだ苦しみ続けることよりずっとずっとらくちんなんだよ。
楽勝なんだよ。わかっているのに、わかっているのにそれでもその一歩が踏み出せない。
なんでなんだろうな。
やっと今、拙いながらもちゃんと言語化できそうな感じがしたからここに書き留めておく。
「失った可能性」は無限にある。これから得るものよりもいっぱいある。
私が怖いと思うのは、今まで失った可能性のことを考えてしまうからなんじゃないか。
今まで行動しないで、本気を出さないで、「失った可能性」は無限にある。
これから得れば得るほど、今まで失ったものの多さに気が付いてしまうから怖いんだ。
その怖さをどうにかしたいとずっと思ってきたけど、たぶんどうすることもできない。
今から走り出せばまだ間に合う、とかそういう問題じゃない。そんなこと言ったらそれはそれで早いうちから頑張ること、本気を出すことに意味がなくなってしまう。
結局すでに失ったものは変わらない。だったら見ないようにしてたほうがいいから、何も行動しないでよそ見して時間がすぎるのをずっとずっと待ち続ける。
だって一度頑張っちゃったら、「普通にがんばったらこんだけできるのに」さぼったせいでどれだけの可能性を失ったかを目の当たりにしたら、
これからはそんな風に取りこぼしてしまうことが絶対にないように、って思いながらやっていかないといけないわけじゃん、つらいよ。
ギリギリになって、いざレポート書こう、ってとき、めちゃくちゃ不安になるんだもん。
怖くて、こわくて、頭まっしろになって、もう書けないんじゃないかって思う。
だけど、その不安から逃れるために「ダメでもともと」って気持ちになって、ひたすら手を動かすと、ハイになってきたりする。
思い返せば、今までの人生で、自分の物事に対する取り組みって、
考えることを放棄して、投げやりに超高速で仕上げるか、失敗しないようにおそるおそる緻密に仕上げるか、そもそもやらないか、のどれかしかなかった気がする。
自信ないとか自己肯定感とかそんな言葉出てくる以前に、もう避けようのない不安がいつも手元にあるんだ。
だから不安から逃げるように行動を停止したり、逆に思考を停止してがむしゃらに行動したりするんだけど、
どっちみちのがれようのない不安を避ける行為だってことには変わりがなかった。
そんなふうに、努力しなくていいなら、必死になることも逃避なんだって思えたらちょっと楽になった…気がした。
不安という感情は死があるから来るみたいなことをむかしなんかの本で読んだんだけど、
それがほんとかは知らないけど、
だとしたらこれからはもう、不安と向き合おうなんて考えはもうまるごと捨てちゃって、
いっそ締切ギリギリになる前からずっと死ぬまでがむしゃらに粗雑に行動して、行動して、不安と向き合わないように逃げ続けたほうが楽しいのかなって思った。
そんでいつか死んだら、私の不安も逃避も最後は全部死にまとまっておしまいってなるんだったら、
安心して逃げていようかな、って思える気がした。
本当にそんな風にできるかは全然わからないけど、しばらくは無理してでも一生懸命逃げてみたいと思う。というわけでレポートを書いてきます。
自己肯定感ってのは、幼少期の家庭環境などに起因して形成されるらしいね。
それでいうと自分は幼少期は過保護なくらいに親や周りの人たちからの愛情を受けて育ってきた…はずだから低くなりそうにはないはずなのに。
社会人になって多くの人と接するようになり、「自分は井の中の蛙にすぎなかった」ことを思い知らされて、最初はそのことをどうしても受け入れられなかった。
いじめやパワハラ的なものも複数回受けたことがあることが影響しているのか。
しかし今でこそある程度は認められている感はあるものの、「一番認めてもらいたい人」からの承認だけが得られずに結局不満感だけが残っている。
人の目を気にするなとはいうものの、仕事では上司なり誰か他の人から承認(=評価)されないと昇給や昇進など意味のあるものにならないし、恋愛においても意中の相手に承認されなければそもそも恋愛関係は始まらないわけだから、なんだかねー。
ありがちな話だとは思う。
10代の頃から付き合い、大学卒業・就職とほぼ同時に結婚して6年で離婚した。
しかもその相手が自分の知りあいだったので、当然ながら10年分の人間関係は広範囲で滅茶苦茶になり、当時はあらゆるものを失ったと悲観にくれた。
今は自分にも結婚生活において反省すべき点があったこと、自分のために怒り・心配をしてくれる人間が少なくなかったこと、いろいろと落ち着いて振り返ることができるようになった。
※世間は狭いので向こうが楽しげに子育てしている情報を不意に得てしまうとそりゃぁまだむかつきはするが、人に不利益をもたらそうが何しようが自分勝手な人間ほど幸せになる現代社会システムなのでいくら呪っても仕方がない。
そうやって時間を薬にのろのろと生きていたが、三十路も越えてしまったし、そろそろ自分も婚活なりをせねばなぁと少し行動をしてみた。
ありがたいことにどうやら自分はバツイチである、ということ以外は婚活市場でまだ需要のある条件らしかった。
すこし自慢になってしまうが、おかげで失った自己肯定感が回復してきたので他者からの承認はうれしいし、大切だ。
おかげで合コンはもちろんのこと、婚活パーティーや婚活サイト、どこに顔をだしてもそれなりの数のアプローチをいただくことができた。
ここまではとんとん拍子だった。
婚活サービスを利用している人のコミュニケーションに慣れている人とそうでない人の差が自分の想定をはるかに越えていたのだ。
10代あたりであればかわいさになりうるが、30代ともなれば男女とも“それなりの会話や振る舞い”を求められるものだという価値観の環境で自分が育ったためか、コミュニケーションがここまで不得手な人が多いとは思わなかった。
最初のうちは相手が不馴れなら自分が頑張ればいい、とお声がけいただいた方々にこまめに返信などをしていたが、さすがにもう疲れてしまった。
返答に困る質問、卑屈さを感じてしまう文面、唐突な全く関係のない話題…相手は自分を見ているんだろうか。
話の流れ、とよく言うが会話をしながら流れを作っていくのはお互いの共同作業であると自分は思う。
せっかく目の前に細くとも川があるはずなのに、自分がセメントを流し込まされているような感覚になる。
疲れた。
結局、自分と価値観が近い人が多いのは現実の今いる関わりの中なのだろう。
もちろん、婚活サービス内にいい人も一定割合でいるし、お付き合いしたいと思える素敵な方も数多く見た。
ただ、自分には合わなかった。
ごめんなさい。
自己肯定感が低く、めんどくさい性格の男で、正直自分ほど性格的にダメな男は刑務所にしかいないと思います。
それなのになぜかいい友達ができて、みんな自分を優しい人だと言ってくれます。
自分は優しくするために、というか嫌われないために、自分のめんどくさい性格を我慢し、言いたいことを抑えて、やりたいことも抑えて、相手優先でしてきました。
好きな女の人の恋愛相談を受けて、恋を実らせる寸前まで行ったこともありました。
自己肯定感が低いので、嫌いではないかといつも不安で、それを確認したい気持ちがたまります。
それがたまって、弾けてしまい、結局好きな人ほど友情が長続きしません。
自分を変えなければいけないのは分かっています。自分を受け入れるということを何度もして、潜在意識とやらを使ったり、何度もポジティブな言葉を唱えました。
しかし、そんなことをするほど、精神が壊れていきました。理想の自分になれず、結果もでないのに、ひたすらポジティブになるなんて、狂人にしかできません。
自分は、変われません。
ここに書けないぐらい、めんどくさい性格です。めんどくさい男に彼女なんてとてもできません。友達すら最終的にいなくなるのですから。
自分は、人と関わってはいけない気がしてなりません。人を愛せば嫌われるのです。
ここに書いてあることは、自分の素直な気持ちですが、もしそれが世間と大きなずれがあるなら、病院に行きますのでいい病院を教えてください。
同じアパートに住んでた幼馴染、Aちゃんと妹のBちゃん
めちゃくちゃ可愛くて大好きだった。本当に好きだった。Aちゃんがだいすきだった。
Aちゃんのおばあちゃんが習字教室をやってて、そこに一緒に通わない?って誘われて、幼稚園の時から行くことにした。毎週土曜日、13時くらいから15時くらいまで。AちゃんとBちゃんが前の席、私は後ろ。
よく考えなくても当たり前だけど、私だけ他人。AちゃんBちゃんは大好きなおばあちゃんから教えてもらえて、楽しそうだった。私にとっては知らない人だから、すごく緊張した。けど行き始めたし、Aちゃんが大好きだったから通い続けた。
おばあちゃんからしたらそうなるのは当たり前だけど、私よりAちゃんBちゃんをよく見て、指導して、ひいきした。私は放置が多くて、おばあちゃん!増田ちゃんもみてね!とかAちゃんが言ってた。でもしょうがないよね、先生から見たらAちゃんBちゃんは可愛い孫、私は他人なんだよなって子どもながらにぼんやり思った。
習字教室は学区外にあった。通い方は、私は鍵っ子だったので自転車で来て帰る。雨の日は1時間とかかけて歩いて行く。AちゃんBちゃんはお母さんによる車での送り迎えがあった。
初めは気にしていなかったけど、小学校6年間それが続いたのはけっこうつらかったんだと思う。
AちゃんBちゃんは小学校入る前くらいに大きな一軒家に住み始めた。庭のある大きくて綺麗なおうち。おとうさんの趣味だという豪華なキャンピングカーなんかもあった。お金持ちだ。
対する我が家は当時はかなり珍しい共働き。ずっと鍵っ子だった(クラスに鍵っ子は私だけだった)。しばらくアパート住まいだったけど、お金が無くなったり色々あって、恐ろしいほどぼろぼろな平屋に引っ越した。風が吹き込み、トイレのドアは薄くて変な木で出来てて勝手に開いた。毎日サバイバルな生活ができる家だった。狭くて、二段ベッドの上しかパーソナルスペースがなかった。でもその家は好きだった。夏休み、毎日庭でひまわりと一緒に過ごせたから。
普段遊ばない友達が家に来たいというのであげたら、その子は偵察部隊で、うちのボロ屋をたくさん観察して、帰ってお母さんに報告して、私のぼろぼろのおうちの話は一気に広まった。そんなことするひともいるんだなと思った。
AちゃんBちゃんはすごくかわいい。本当に可愛くて、いい子で、大好き。おばあちゃんにも愛されてて、習字の後の筆もお湯で洗ってもらえる。私は他人だから洗ってもらえなくて、たまーにAちゃんが増田ちゃんの筆も洗おうよって言って、洗ってくれた。でもほんとうに申し訳なかったから、大丈夫だよ、家で自分でやるよって断ってた。家はお湯が出なくて、水で洗うから冷たかった。
雨の日、かさをさして歩いて帰るけど、小学生には習字道具が重かった。AちゃんBちゃんは車でばいばーいって私に手を振ってくれた。家の方向が真逆なので、私も手を振って別れた。早く帰らないと寒いし、重いし、冷たいし、風邪を引いてしまう。雨はしとしと降り注いだ。
おばあちゃんの家にはおじいちゃんもいて、そのおじいちゃんは明らかに私に気を遣ってくれた。帰り際、私にだけこっそりぽたぽた焼を渡してくれたり、ある時はナイショで自転車の後ろに乗せて家まで送ってくれた。すごく優しかった。
Aちゃんは私にもいつも声をかけてくれて、優しくて、可愛くて、お菓子もくれて、きをつかってくれてた。おばあちゃんも、きちんと習字を教えてくれた。そのおかげで今綺麗な字を書けている。おじいちゃんも、ほんとうにすごくやさしかった。
そのはずなのに、その頃のことを思い出すとぼろぼろ涙が出てしまう。大好きなAちゃんとの思い出がたくさん詰まってるのに。いろんなお話も出来て、楽しかったはずなのに。
帰路、なんであんなに泣きながら帰ったんだろう。
Aちゃんちはお母さんがむかえに来て、お休みの日は家にお父さんもいたけど、なんでうちはお母さんの休みの日はなくて、お父さんは週に一度、木曜日20時から10分、宅配の仕事の合間にしか会えなかったんだろう?
がんばっておしごとしてたんだからしかたないじゃん。お父さんのせいじゃないでしょ。私ががんばって我慢すればよかったじゃん。全然会えなかったけど、どこにも出かけられなかったけど、みんな休み明けにお土産くれる中一度もおかえしできたことないけど、仕方ないじゃん。グアムのお土産とか貰いっ放しだったけど、夏休みは家と近くの公園を行き来してたけど、しかたないじゃん!
誰も悪くないよ!だれもわるくない!習字のせいにするのやめろ!悪くないじゃん!悪くないのに
そうやって人のせいにする
そういうところ よくないよ
あなたの自己肯定感は全くない、もしくは著しく低い。最近、そんなことを言われた。
みんな悪くないのに、この話が原因かもなんて思ってしまう。今思い出しても涙が止まらなくなる。悪いのはこういう解釈しかできなかった私。みんなごめんなさい。元気になローソン。
自己肯定感を高める薬ってないのかな。
不安な気分を和らげる薬は飲んでるけど、効いてるんだかどうだかわからん。
人に何かを褒められても、それが純粋には信じられない。
「自分が認められるわけなんてない」という思考が根本に根付いてしまっている。
自分はせいぜいレトルトカレーでさ、気楽に手に入るからまるで良いように見えてるだけでさ、
あなた方は高級ホテルのカレーを食べてないだけですよ?みたいな。
根気よく褒めてくれた人はいたけどさ、結局は自分が潰れるか相手が潰れるかばかり。
でもなにか人恋しさのようなものも感じている。
もう自力じゃまともになれん。誰か助けてくれ。
高校を卒業して、進路担当の先生に勧められるまま地元の工場に就職して働き始めてからもう6年になる。
23歳になった。
世の中に楽な仕事はそんなには無いのは知っているが、零細企業の工場で働くというのは、まぁ、それなりにキツい。
体力勝負だし若い社員が少ないせいで、年配の上司にこき使われる様にして毎日働いている。
若いんだから、という理由でキツい仕事はこちらに回ってくる事も多い。
そんなこんなで仕事を終え、家に帰って両親や弟と夕食を食べる。
大学生の弟が今度彼女とデートしてくると両親に話していて、青春してんなぁと俺は嬉しくなった反面、こう思う。
んー、なんか俺このままで大丈夫なのかなぁ、って。
インターネットでここ最近、所謂「キモカネ」という単語を見かける様になった。
キモいせいで性的な魅力も無ければ、経済力もなく、もう若くない人の事。
三重苦だ。
しかしこういった概念に人を当てはめて、抽象化して判断するのは良くない事かもしれないし、こういう事は個人の問題、という意見もある。
だけれど俺は自分自身に対して将来自分がそういった所謂「キモくてカネの無いオッサン」という存在になってしまうのではないかという危惧感を抱いている。
これは肉体労働系の仕事だから仕方がない事で、そしてコレは全く個人の意見でその上ちょっと極論的でもあるから一般論としては見ないでもらいたいのだけれど、男というのは視野の狭い生き物だ。
話題に上がるのは大体風俗とギャンブルの話ばかりこれに辟易している毎日なのだがこれに加えて、肉体労働系の仕事ではまず自分の見た目に対して物凄く無頓着になる。
まずヒゲを剃らなくなる。ヒゲを剃るために早起きしなくてはいけないぐらいなら伸ばして週一で剃るぐらいが丁度良い。
そして次に顔を洗わなくなる。
うちの工場は粉塵が舞うので人によってはマスクを着用して作業するが、そうすると顔を晒す事が飯を食う時と昼の休憩中ぐらいしかないので、誰も見ないなら良いだろうと、俺のような自堕落な人間は考えてしまうのだ。
そうすると、キモくてカネのないオッサンの「キモい」という条件が完成する。
不潔にしてる奴はキモいのだ。
そして次の問題はカネだ。
カネを自らの欲しいものと交換して得られる幸福感というのは、得てして他人から自分への愛によって得られる幸福感の代替と成りうるので、これを欠かしてはいけない。
うちの会社は金払いが悪い。
俺達は金に飢えたマネー・ドッグスなので金払いさえ良けりゃどれだけこき使われようとも納得出来るのだが、うちの会社の社長というのは安く労働力をこき使おうとしやがる上変な所で見栄っ張りなのだ。
社長が「ウチの会社一部上場したぞう」とドヤ顔で言ってきた時は、これで俺たちの給料も上がる!とまだ若い同期や先輩達と喜んだものだったが、社長がしたのはまず自分のダサイ型落ちのスポーツカーを真っ白の高級ベンツと取っ替えた事だけである。
もし日本が法に縛られていない無法地帯の荒涼たる大地であったならば「白は血が映えるから良い色だよね!!」と叫んで、マチェテを振りかざす気の触れた俺と対峙する事になったであろうから。
それはともかくとして、こういうことがあるのを踏まえた上、6年間も働いているのに未だ昇給しない事も考えると「全く金のない」という事にはならないだろうが、「同年代の中年男性と比べて」金のないオッサン、という事にこのままではなりそうである。
やがて訪れるその瞬間まで人々は悲しみを味わい喜びを噛みしめるのだ。
その様子はまるで狂乱の渦に巻き込まれていくパレードの様で、誰ひとりとしてその宴の列を抜け出す事は出来ないししてはならないのだ。
だがなっていたいのは、自らをキモくて金のない中年だと自称して悲しみに暮れるおっさんではない。
俺はモテなくてもいいし、特別金持ちでなくても良いから(ポップコーンとドリンクを買って映画館で映画が見れて、楽しみにしていた新作ゲームを躊躇なしに買えるぐらいには金が欲しいけれども)ユーモラスなおっさんでありたいのだ。
支離滅裂な怪文書の様になってしまったけれども、自己肯定感さえ持っていればキモカネおっさんから抜け出せると信じていたい。
私の周りにもそういう男性いた。既婚上司からされた時は本当に参った。
貴女の助けになるかはわからないけど、私が自分の経験上で気づいた事を上げると、
相手の男性の傾向と文面から貴女の雰囲気を鑑みるに、雰囲気の柔らかくて優しそうで怒らなそうな貴女なら、優しくしてくれそう(歯向かわれなさそう)、自分でも大丈夫だ、なんとかできるって、相手は満たされない男性的な支配欲を刺激されるんだと思う。
そういう男性は貴女が好きなんじゃなくて、貴女を自分の欲求の捌け口にしたいだけ、貴女を見ていない。
それはモテじゃない。周囲の人や巷ではモテとかいうのかもしれないけど。
私は優しそうとか言われたり笑顔で愛想よくしてても隙がないって言われたので。
だから貴女に隙があるとすれば、なんとなく感じる自己肯定感や自尊心の低さ、謙虚すぎて気弱に感じる姿勢、言い方が失礼だけど幸薄感とか。言動、行動、雰囲気から相手の男性は察知するんだと思う。
対処の仕方としては、服装も髪型ももっと好きにしてみてほしい。それでもっともっと自分のこと好きになって、自信をもってほしい。魅力と幸せが表情や雰囲気から出るぐらい。可愛いかブスかは関係ない。
仕事はパートっていうことで任される業務に限界があるかもしれないけど、集中して積極的に打ち込んで。もう今めっちゃ仕事に集中してるんです!みたいに。テキパキ動いて話して、仕事の話しかしない。
歩くの遅いのも、そう思うならテキパキ早く歩くようにしてみて。
趣味にも集中して打ち込んで。脇目触れないほど好きなんです!みたいに。極端にいえば暇そうだなって思われたり、感じさせないように。歩くの遅いのはそう思わさせるところある。
とにかく優しくはしても、隙を感じさせない。
挨拶も別に笑顔じゃなくていいんだよ。ハッキリと聞こえるように挨拶だけしてたら、そういう相手には目も合わさなくていいし。
相手の男のしょうもなさもあるけど、自分で張れるバリアがあると思う。で、そのバリアはギスギスして貴女自身を損なうものではなくて、貴女を今よりも魅力的に輝いてみせるものにしてほしい。服装髪型趣味、何でもいいから。
そうしたら、そういう類の男は好意よせても話しかけづらくなるかもしれない。
次は別の傾向の男、チャラ男が寄ってくるかもだけど、その時はこいつは遊べない女だって思わせたらいいし。
あと好意を断る時は、彼氏がいるって絶対に言ってほしい。嘘でも。
それ以外の断り方だと、相手の男性は自分が拒否された事にプライド(よくわかんないけど)傷つけられて絶対に攻撃的になるから。
貴女の感じだと、最近のmetooのこと知ってる思うしもう見てるかもしれないんだけど、そこで発言してる人や内容に触れてみるのもいいかもしれない。
私はフェミじゃないし過激なフェミニストは嫌だけど、同じような女性の方が多いと思うから、フェミじゃないけどっていう人。