はてなキーワード: 疲弊とは
ワイもそうだったけど学歴良いと一次までは通る。
今振り返ると
ってことだったぞ。
一次面接までは通るんだけど、その先がきつい。まあ働きたくないの見抜かれてるんやろな。
片道5時かかる遠方に住んでる祖母が亡くなったんだが、俺は葬式がすごい嫌いで、親戚と会うのも酷く疲弊するし、疲弊しすぎたのがトラウマでぶっちゃけ葬式に行きたくなかった。
だが祖母の顔は最後に拝みたく、別れの挨拶はしたかったので、通夜前の弔問にいってお別れをしてきた。
葬式に行くと周りがガヤガヤしててひどく疲れるので、弔問できてよかったと思った。落ち着いてお別れが出来た。葬儀には参列しないので、相場より多めに包み、香典を渡した。俺は静かに祖母とお別れ出来てとても満足だった。
が、葬式が終わったあと、孫の俺が不参加だったので、親戚からは「冷たい」、「世話になったのに恩知らずだ」と非難があった。
親戚がそう思うなら、祖母もそう思ってるのかな。って思った。やっぱり個人の納得よりも、冠婚葬祭ぐらきでしかあわない、親戚付き合いを優先させるべきなんだろうか。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6695ffdfbbdc470011f21144e2f5116e372ba3f2
の記事だろうけど
疲弊する被災地の医療現場。奥能登地域では、退職を決断した看護師が70人に迫るなど危機的な状況となっています。
(中略)
残り60人くらいはどこの病院やねん
さっき仕事を辞める報告をしてきた
俺は経験年数数年の高卒ビルメンだが今年責任者が退職するにあたり後任として俺に白羽の矢がたった
上長に従順で黙々と資格試験を合格してた姿勢が評価されたんだと思う
しかし俺は愛想は良いがコミュニケーションがすこぶる苦手で、なんならAPDの気質があるので人の言う事の取り違えが多く、人と会話するだけで全神経を使い酷く疲弊する。年配の業者とのやりとりはフリーズすることが多いので、とてもじゃないがそんな人間が責任者として対人折衝なんぞこなせるはずがない
断ればいいだけなのだが、なんだか次の責任者についての話が持ちかけられた時に、俺の心が完全に折れたのがわかった
先輩のサボった仕事の皺寄せの尻拭いや、潔癖なのに仕事としてやるトラブル対応の糞抜きや排水管のU字トラップの取り外しにストレスを感じていたし、辞めよう辞めようと思いながらする仕事も堪らなくストレスだった。辞めなかったのは、辞めても行く先が無いからだ。
しかし、完全に仕事をする気力がなくなってしまった。本当にポッキリ折れたのがわかった。
もう、辞めたあとの仕事なんて考える気にも慣れなかった。体中の細胞フル動員で「辞めよう」と思った。
前々から「推し活」というものにうっすらと疑問や違和感を持ってきたが、最近少しずつ言語化できるようになった気がするので、ここでまとめておきたい。
第1に、「推し活」においてはドラマや映画などの作品の内容や質が軽視されていることである。
昔ながらの映画ファンは、宮崎駿の「ナウシカ」「ラピュタ」は素晴らしいけど「ハウル」は意味わからないとか、黒澤明の「七人の侍」「椿三十郎」は凄いけど「影武者」はスケールが大きいだけで内容はつまらないとか、三船敏郎は黒澤映画では神だけどそれ以外では大根役者でむさ苦しいだけだとか、そういう話を当たり前のようにしてきた。
しかし「推し活」をしている人たちは、その当たり前のことを許さない。「推し」が出演している映画やドラマについて、「あれは出来がよくなかったね」と言ってはいけない雰囲気が強く存在する。事実、近年の日本のドラマがレベルが高くて面白いという話は全く聞かないし、「個人の感想」で言えば5分と見続けられないレベルだと思うが、Tverの視聴回数はドラマが上位を独占しているという。これは、ドラマや映画が「推し」を鑑賞するための舞台背景でしかなくなり、その内容や質が軽視されていることを意味している。
最悪の結果になった「セクシー田中さん」騒動について、その背景には間違いなく「推し活」がある。つまり、現在のドラマ作りは、優れた原作や脚本を土台にして配役を決めるという当たり前の順番ではなく、まず「推されている」人気の俳優やアイドルのキャスティングが先にあり、その後に適当な(人気と知名度がありそうな)漫画原作を探す、という逆の順番になっているのだという。そのように、日本のドラマ制作の現場は、主要な視聴者・顧客層である俳優・アイドルの推し活をしている人々の期待に応えることを優先してしまっており、当然ながら原作者の意図や想いなどはほとんど重視されない結果になる。
第2に、「推し」に不祥事があった場合の精神的なリスクが大きすぎることである。
普通の映画ファンなら、たとえ宮崎駿がセクハラ疑惑で文春砲を浴びたとしても、当たり前の話、「ラピュタ」の面白さまで否定されたとは感じないだろう。しかし「推し活」をしている人たちは、「推し」の全人格・全人生にわたって推しているので、「推し」が不祥事で文春砲を浴びてメディアから消え去ってしまった場合、「推し」の出演作を鑑賞するのもつらくなり、精神的に病んでしまうことになる。当人だけのことなら自己責任だが、大抵の場合は友人や家族を巻き込んで、周りも疲弊させることになる。
第3に、最終的に犯罪的行為や人権侵害を擁護してしまうことである。
昔ながらのプロ野球ファンなどは、例えば巨人の選手や経営陣に何らかの不祥事があった場合、巨人ファンが真っ先にそれを批判することも普通だった。しかし近年の「推し活」の場合、旧ジャニーズや宝塚の問題で露見したように、「推し」の不祥事がパワハラや性加害のような事案にあたる場合でも、完全に無視・スルーする人はまだましなほうで、それを全力で擁護したり、報道を虚偽と決めつけたり、被害告発者をバッシングする人たちが目立った。当然外野には全く理解されないし、犯罪的行為の肯定にもなるので、SNSでは大炎上するし、やはり精神的に疲弊して病んでしまうことになる。「推し活」の内部からパワハラや性加害を反省してなくそうという主張や運動は、残念ながらほとんど皆無に近かった。
普段の言動にも色々言いたい事や思う事は多いが、一番駄目なのは今のご時世に圧迫面接をする所。
例えば面接で「あなたは1億円をもらったら片腕を切り落とせますか?」
みたいな意地の悪い質問を平気でする。
応募者が「それは無理です」って答えたら
「あなたの片腕は1億分の働きをしているとでも言うのですか?思い上がりですねw」で不採用。
答えられず考え込んでしまうと
「話になりませんね。質疑応答は社会人として最低限の常識なので社会人未満の人材はいりませんのでお帰り下さいw」
と返して不採用。
こんな圧迫面接で、同席した同僚は流石に絶句して止めに入ったという。
このせいで、ただでさえ応募者が減っているにもかかわらず、まともに新人や中途が入ってこない。
一次面接は現場の人間でやっているからちゃんとしてそうな人も応募してくれているのに、こちらが選んだ人はほぼ全員不採用。
現場の人間が良いねと思った人が全然入社して来なくなって頭を抱えている。
人事の馬鹿女いわく
「ストレス耐性や応用力を試しているだけ。他意はございません」
というが、面接時に意地悪質問や圧迫面接やっている時は常にニヤニヤ楽しそうにしているという証言はいくらでもあるので
何度もクレームは上げているが、彼女は上層部のお気に入りらしく
逆に文句を言った方の立場が悪くなるので、余計に人事の馬鹿はやりたい放題だ。
「とりあえず日本語喋れて無断欠勤しなかったら誰でも良い」レベルで人が足りていないのに
どちらかと言えば隠れホワイト的な会社だったので応募者自体はこのご時世でもそこまで少なくはなかったんだけど、悪評が祟っているのかここ1、2年はかなり減っている。
ハロワやリクルーターどころか近場の大学の就職課からもクレームが入っているという。
ネットで見れば面接の結構な悪口が口コミで書かれていたりするが、気がつくと消えているので、色々手を回して消させている様だ。
馬鹿人事の素敵(笑)な面接を突破した肝心の「ストレス耐性や応用力の高い優れた人材」も、正直色々厳しい。
ストレス耐性が高いだけでも適正が無いとか、単に面接を突破する能力が高い口先マンとか、そんなのばっか。
それでも何とか使える人になってもらえる様に頑張ってフォローしているけど、始めから現場が選んだ人ならこんな苦労しないのにっていつも思う。
何で同業他社で経験あって資格も持ってる人や有名大学の熱意も高くてインターンでも評価高かった新卒の子を落として
口先だけは立派な実務を覚える気まったくなく「何故管理職の仕事をやらせて貰えず現場仕事をやらされるのか」ってキレる様な馬鹿を雇うのか。
本当に理解出来ない。見る目無いというか自分と同じ様なタイプを好んで雇っているとしか思えない。
就職難だったリーマンとかの時代でも圧迫面接だって叩かれているレベルだと思うんだけど
今のご時世にこんな事やって、悪評だけは増えていくだけで何の意味も無い。
もし同業他社の嫌がらせで送り込まれたとしたらこれ程までに有能なクラッシャーは無い。
人手不足でどんどん現場の人間は疲弊してるしブラックになりかけているもの。
多分先は長く無い。自分もどっかで見切りつけて転職予定だけど、会社の要を担っている人間が馬鹿だと
・脚本執筆経験のない原作者が自分で脚本を書くという要望が通った
・原作者と直接の打ち合わせが行われていない
ってのは確実っぽいけど、このように原作者の注文を通してもらえるのはマジで珍しい現場。最後のは特に。
まず大前提として、ドラマの脚本って作品ではなくて設計図なのよ。
家を立てるときに設計図がないと必要な資材や施工期間が割り出せないように、
脚本がないと必要なキャストやロケ地や撮影プランが考えられない。
ちゃんとしたルールもあるのでそれを知らない未経験者に書かせることも普通はない。
んで第一稿上がってきてもそれが一発OKになることはまずありえない。
Pや監督による意見を反映したり各所の事情に配慮したりと色んな手を加えて決定稿になる。
脚本家も基本はフリーランスで案件単位の受注してるだけの立場だからそれらに逆らう権限はないからね。
その一環で原作者チェックも入るわけだけど、
第一稿の時点で可能な範囲でスケジュールの抑えなんかは動き出してるから大きくちゃぶ台返しがあると困ってしまう。
でも原作者の口出しはなんだかんだ出版社との関係もあって局Pですら容易に拒否できないので、なるべくそういう事態は避けたい。
そこでどうするか?というと、原作者と同席での打ち合わせを行うのだ!
大勢の人間、しかもスーツ姿の偉い人や疲弊した現場スタッフを前に「こういう事情でここをこうしたくて…」と言われてはっきり否定できる人間はそうはいない。
文面でのやり取りではいくらでも要望を書き出すこともできるが、
リアルでの打ち合わせの時間内に出せる意見ならある程度数が限られる。
こうして一回打ち合わせをしてしまばもう「作者の了解を得たもの」にできてしまうので、
なんなら立ち上げのときの打ち合わせだけ呼んで「じゃ、後はこっちでやりますんで!」ってこともなくはない。
完全な憶測にはなるけど、今回の場合は漫画家も出版社もテレビ局も脚本家も全員経験豊富なので、
間に入る誰かしらが原作の内容を守るために良かれと思って直接の打ち合わせをさせなかったのかもしれない。
ただその結果として作者が最初に提示していたまず原作通りに書いてくれという条件も正確に伝わら無かったとか。
まあ間に入る各社で決定権握ってるのはベテランだけど窓口業務は経験の浅い若手がやってたりするんで、
ただでさえ複雑な工程を曖昧な基準で物事が進めなきゃいけないこの業界だと、その手の連絡ミスや行き違いは日常茶飯事だ。
ドラマ制作側が、原作者が首つっこまなくても適切にドラマ化をしてくれていたのならば起こらなかった事態だろうよ
その大前提である原作通りにというのも、いざとなればラストは私が書きますというのも脚本家に伝わっていなかったよね
原作者は小学館と日テレの「ドラマ化しましょうよ悪いようにはしませんから」攻撃に耐えきれなくて
連載中作品なので原作通りということなら、という条件でしぶしぶ承諾したんだろうよ
ドラマ化決定する前から主演女優がベリーダンス練習していて局側では既定路線
漫画連載を抱えながら2023年はじめあたりからドラマ化攻勢との折衝をして
決定した後は脚本監修の作業、さらにラスト2話は自分で脚本書く
作品の最終的権限を持つ原作者だからどれも他人に任せられないし悩みや苦労を分かち合えない
そうして放送もなんとか乗り切ったと思ったら脚本家がボヤいてる
他者の動機を悪意のあるものと解釈する,他者に対する根拠のない不信および疑念を持つ
・演技性パーソナリティ障害
虚言癖、キレるウソ松
自分の行動を正当化または合理化する(例,敗者は負けるべくして負けたと考える,自分自身の利益を追及する)、被害者を馬鹿だったまたは無力だったと責める
誇大性,賞賛への欲求,および共感の欠如の広汎なパターン、自尊心の調節に困難を有する
推定有病率の中央値は1.6%であるが,実際は5.9%にのぼる可能性もある
面倒なので前段は省く。タイトルを見て「アレのことか」と分からない人はスルーしてほしい。
https://petitcomic.com/news240208/
この文章が一読して耐え難いほどに醜悪な理由を書く。以下、上記URLの文章について「本テキスト」と呼称する。
本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。だから気持ち悪い。
本テキストはそもそも内容が水のようにうすくあいまいだ。それでもなお、執筆者たちの「主張」を読み取ることはできる。
前半が「著作者人格権」について。後半が「小学館はドラマ制作サイドに芦原氏の意向を伝えていたこと」について。
順番に見る。
本テキストでは、まず「著作者人格権」について触れる。その後、「著作者人格権を守ろうとしたこと」を芦原氏が「恐らくめちゃくちゃうざかったと思います…。」と自己評価していたことを明らかにする。そして「私たち編集者がついていながら、このようなことを感じさせたことが悔やまれてなりません」と続く。
ポイントは、執筆者が「何を悔いているのか」だ。本テキストにおいて執筆者が「後悔」を明確に示しているのは、このくだりだけだ。これは非常に重要なことだ。
要約するとこうなる。
「著作者人格権という権利を周知させることができなかったために芦原氏に不要な自責の念を抱かせた。著作者人格権についての認識を広げることが再発防止の「核」になる」
この後に、「これだけが原因だったと単純化はしない」としつつも、あえて本文中に「核」なる単語を使用している以上、ここには明瞭な主張がある。
それは「本件がこのような悲劇に見舞われたのは芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったからだ。その認識を与えることができなかったことを悔いている」というものだ。
暗に「芦原氏は「恐らくめちゃくちゃうざ」いことを自分がしてしまった、という自責の念によって自ら命を絶った」と結論していることになる。
……なんだか、我々とはずいぶん違う世界観をお持ちのように見える。これまでの経緯を振り返って、こう結論するのは相当に無茶なのではないか。
彼女が本当に「ドラマに口を出してしまったこと」を自責した結果として死を選んだのであれば、1月26日以降の騒動はなんだったんだ? 彼女の死に、あの騒動は関係なかったということにならないか? なぜなら「ドラマへの口出し(=著作者人格権の行使)」は、12月時点で終わっていたのだから。
そんなわけねえだろ。馬鹿か。
ここには明らかに問題のすり替えがある。「著作者人格権をめぐる認識」に焦点を逸らし、本質的な問題から目をそらそうとすると極めて醜悪な論理の欺瞞があるのだ。
明らかに本件は「芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったから」起きたことではない。
一連の騒動を振り返って「芦原氏が著作者人格権について深く認識していれば本質的に問題は起きなかった」と思う人だけが、本テキストに同意することができるだろう。
そんなやつ、どこにいんの?
誰がどう見たって本件は多岐にわたる複雑な問題が絡み合って、最悪の結末を迎えてしまった事件だろう。わかりやすい「核」なんてものがあるはずがない。
にもかかわらず、スケープゴートのように「著作者人格権」を持ち出して「核」として据えるのは、故人に対してあまりにも不誠実すぎないか。
素直に考えれば「何のための文章か」という問いに、ここで一度答えが出る。「作家、読者、関係者に「著作者人格権」を正しく認識してもらい、悲劇の再現を食い止める」だ。
つまりね、このテキストは「経緯説明」も「調査報告」も何もかもすっ飛ばして「とにかく「著作者人格権」を知ってもらえれば再発防止につながる!」という、何の根拠もない虚妄によって書かれているのだ。
ごくごくごくごく普通に時系列を追うだけで「著作者人格権をめぐる認識」が事件の本質ではないことは明らかなのに、だ。繰り返すが、論理的に考えてここが「核」なら1月以降の騒動は自殺に関係がないことになる。
ああ、めちゃくちゃ気持ち悪い。
なにが「事態を単純化させる気はない」だ。ここで行われているのは「単純化」などということではない。もっと悪い、明らかに事実関係と時系列を無視した、問題のミスリードだ。
そして、ミスリードした先にある「著作者人格権」を取り上げ、「本質に問題解決に対して寄与しない」とわかっていつつ、ここが再発防止の核であると述べる。
ここには「事態の再発を防ごう」なんていう真摯な態度は欠片も見られない。あるいのは「そういうことにしたい」という卑劣な思惑だけだ。
そうするともう少し穿った見方をしたくなる。
つまり「本件を「著作者人格権の問題」にすり替える」ことが、本テキストの目的だったのではないか、ということだ。
この「著作者人格権」にまつわるテキストの不誠実さだけでも、十分以上に気持ちが悪い。しかしもっとおぞましいのはこの先だ。
要約するとこうなる。
「ドラマに対する芦原氏の意向は、小学館がドラマ制作サイドに伝えていた。芦原氏は納得のいくまで脚本を修正した。ドラマは芦原氏の意向が反映されたものである」
本テキストを読めばわかるが、これに関する一連のセンテンス、どこか誇らしげでさえある。
正気で書いているのだろうか? 芦原氏の「言葉」を軽んじているのは、ドラマ制作サイドなのか編集サイドなのかわからなくなる。
芦原氏の意向は、よく知られている通り「原作に忠実なドラマ化」である。これが小学館からドラマ制作サイドに伝わっていたとしよう。その後どうなった?
(https://piyonote.com/ashiharahinako-twitter/#google_vignette)
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました(略)粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1~7話の脚本の完成にこぎつけましたが…。
加筆修正の繰り返しとなって、その頃には私も相当疲弊していました。
(略)8~10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、私が準備したものを大幅に改変した脚本が8~10話まとめて提出されました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。(中略)原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
これは芦原氏が「小学館と時系列に添って事実関係を確認し、文章の内容も小学館と確認して書かれた」文章だ。
原作者である先生にご納得いただけるまで脚本を修正していただき
馬鹿じゃねえのか。芦原氏は「推敲を重ねられなかったこと」を「悔いて」いたのだ。「加筆修正の繰り返しとなって相当疲弊して」いたのだ。
その文章を確認しておきながら、舌の根も乾かぬうちに「ご納得いただけるまで脚本を修正していただ」いたとのたまう。本当に血の通った人間のすることか? ご納得いただけるまで脚本を修正するという作業がどれほど心身に負担をかけることか、わからない編者者でもないだろう。それを何を誇らしげに「わたしたちに落ち度はありません」と言わんばかりの態度で書いているんだ?
ここに事実を捻じ曲げる意図がまったくないとでも言うのだろうか。
そもそも「意向を伝える」ことは伝書鳩のように「言いましたよ」ということではあるまい。なるべく芦原氏に負担がかからないように交渉を詰めて、芦原氏が心身を疲弊させながら手ずから「修正」をしなくてもいいように、ドラマ制作サイドに「条件の履行」を求めるのが「意向を伝える」ことではないのか。ガキの使いじゃねえんだ。「ちゃんと言いましたよ」で責任を逃れるビジンスシーンがどこにある。
明らかにドラマ制作サイドに芦原氏の意向が「伝わっていなかった」から、彼女は修正を繰り返し、自らを追い詰めなければならないことになったんだろう。そこに「伝わるまで伝えなかった」小学館の責任はないのか?
無論、担当編集者やメディア担当者が「仕事をしていなかった」というつもりはない。担当者が誰よりも働いただろうし、想像するだに困難な局面の連続だっただろう。いまの心痛はいかばかりか。結果は最悪なものになってしまったが、それは決して現場の担当者たちを非難していい理由にはならない。
繰り返すが、現場の担当者個人の責任を追及せよと言いたいのではない。むしろ、それは決してやってはならないことだ。しかしまた同時に「頑張ったから」「努力したから」「不運としか言いようがなかったから」という事実は、決して責任を消滅させる理由にもならないのだ。
小学館に責任はある。絶対的にあるのだ。それは「著作者人格権にまつわる認識を周知徹底できなかった」ことなどではない。芦原氏の意向をドラマ制作サイドに理解させることができずに、結果的にドラマ制作過程において芦原氏を心身ともに追い詰める結果を招いたことについて、責任があるのだ。
にもかかわらず、そうした自らの責任にまったく目を閉ざし、ひたすら問題を矮小化させ、ミスリードしようとする意図が、行間に充満している。
それこそが本テキストが歴史的に気持ち悪い理由のひとつだろう。
書くまでもないことを最後に書く。
ここまで確認してきたように、本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。
その最後に付された言葉が、芦原氏への「寂しいです、先生。」だったことは、瞠目すべきだろう。人間どこまでも恥知らずになれるらしい。
この一文が本当に気持ち悪いのは、SNSで言われるように「TPOにそぐわぬポエティックなもの」だからではない。
欺瞞と自己保身のために芦原氏の言葉さえ踏みにじって醜悪なレトリックを駆使した挙句、そもそも本テキストの「宛先」でさえない芦原氏を「文章の結び」のためだけに泉下から引きずり出し、まるで批判除けのお守りのように利用してしまう、学館第一コミック局編集者一同の浅ましい精神性が悪魔濃縮されているからだ。
本件の内幕はおそらく当事者たちにすらもう分からなくなるくらい複雑化していることだろう。
小学館を悪者にして幕引きをすればいいという性質のものでもない。巷間指摘されているように、メディア化における構造的な問題、TV局の体質的な問題、悪意を増幅させるSNSというシステムの問題、他にも種々様々な問題が複雑に絡み合っているはずだ。
それでも、この悲劇を防げたプレイヤーの一人であるはずの小学館が、「ことなかれ主義の上層部」「責任回避の編集局」という内実を露呈していることは、必ず批判されなければならない。
騙されてはならない。
問題ではあろうと、普通に考えれば、人が死ぬほどの問題じゃなかろう。
会社員が自殺した時に、仕事でトラブったからだと思う奴はまずいないだろう。
職場の人間関係とか、先の見えない過重労働とかが積み重なって疲弊した結果と考えるのが普通だろう。
それだけが原因であるかのように報道され、ドラマの脚本家や関係者が死に追いやったかのように言われるのは幾らなんでも短絡的過ぎる。
me tooみたいに我も我もと実写化マンガ家陣が嫌な思い出を語ってるが、その中に自殺まで考えた人がいるのか?
ドラマ脚本の問題は問題としても、自殺とは分けるべきだ。本当にドラマ脚本の問題だけが原因で自殺したというのなら、俺は関係者の方に同情する。そんなトラブル一発で死なれたらかなわん。