はてなキーワード: 慰安婦問題とは
日本側の「信用ならん」の根幹は主に以下の三つ
これに対する韓国側の主張は
こんな感じなので「そもそも回答も反論も必要ない」というのが向こうの方針
https://anond.hatelabo.jp/20191122002119
さらに言えば↑こんなのが日本の世論の総意だと韓国大好きな人達が韓国の政財界に触れ回ってしまって韓国社会全体が勝機ありと勘違いしてしまった
「混同するな」というがあなたの言う「差別と区別の違い」って何なの? ちゃんと定義しよ?
(1)個人の特性によらず、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で
ことを指すのね。従って
たとえば客観的な指標によって測定される「能力」に基づく分け方(まあたとえば入試とか)は〈区別〉。
ただし、たとえば「ある社会的カテゴリー」が一律にその能力の獲得にハンデがあると想定されるときには、個人の特性によると「考えられる」に違反するので差別と認定される場合もあるね(たとえば住民の中の有力層が英語圏出身・白人であるとき、非英語圏出身者・非白人の扱いを低下させるためだけに、実際の職務と関係ないにも関わらず採用条件に「英語能力」を設定するみたいな場合)。
(2')合理的に考えて状況に深く関わると認定できる事柄に基づく場合は〈区別〉
上に例示した「英語能力」が好例だけど、もし募集している仕事の業務内容が「英語圏である本国とのコミュニケーションが必須である」ようなものなら、確かに英語能力は職務と合理的に関係があると言えるので、その場合はそれを差別とは言いがたい。同じく、同社の同国内でのビジネス対象が主として英語ネイティブである場合でも、同様のことが言える。差別か区別か微妙な例というのは、たとえばこういうケースだね。
たとえば男風呂・女風呂は、区分けしていてもどちらでも、使用できる設備等に大きな差が無い限りタダの〈区別〉である。トイレもそう。もちろん、これらが「性差」をベースとした分け方をしているため、肉体的な性と精神的な性が必ずしも一致しない少数者(LGBTQ)は、多数のシスに対して不利益がある、すなわち差別的だ……という主張はもちろん成り立つ(男女差別とは別の問題になるが)。
また、「特に不利益な」場合としたのは、もちろん場合によっては、状況下で特定の人にのみ有利な取扱いをすることに一定の合理性がなければ、同じく「差別」と判断される可能性があるからだ。LADY'S DAYなどの商店のサービスも、「女性客にターゲティングして増加を狙う」ことが経営合理性の観点から妥当であれば差別ではないと言えるが、もし、店主の「女性は常に優遇されるべき」といった一方的な偏った認知に基づく行動である場合には「男性客への差別ではないか」という批判にも正当性が生ずる。女性専用車両については、痴漢への対処コストが一定以上に達した結果による鉄道会社の自衛策としての合理性があれば、差別ではないということになる。
上記の定義は特に珍しいものではなく、あちこちで見られるものだから調べてみてほしい。さて、これらの定義に基づけば、あなたの
「当社では日本人の採用に当たっては、特に英語力の高い方のみです」=区別
ということになるだろう。
×「当社では日本人の採用に当たっては、特に英語力の高い方のみです」(太字部分が(1)により)=差別
△「当社では英語力の高い方のみを採用しています」(微妙だが上記説明のように合理性があれば)=区別
△「反日の人は嫌い」(「反日」の定義にどの定義の合理性・客観性があるか分からないので)=何とも言えない
×「韓国人は約束を守らない」=ほぼ差別(全体的に(1)であり論外。慰安婦問題等から「約束を守らない」との主張には合理性があると言いたいのだと思うが、このような「ステレオタイプ」イメージの表出は、容易に異なる取扱いに結びつくという意味では(3)に関わっても論外。)
△「約束を守らない人は嫌いだ」=ほぼ差別ではない(個人に属し、合理性に基づく、異なる取扱いだから。ただし、あるカテゴリーの人がどうしても「ある約束」を守りがたい事情がある場合に一方的にこのような発言をすると、差別の意図を疑われる可能性はある。たとえば「アメリカもかつて奴隷制を採用していた」という話題の出た文脈において、アメリカ人が同席している場で「奴隷なんて人権侵害行為は未来永劫許せない」みたいな発言をするような場合など。)
ということ。「差別と区別を混同するな」と主張するあなたが、一体いかなる定義によってこれらを「区別」としたのか、その定義は一体どこでどのように学んだのか、はなはだ興味がある。参考になるURLなどあれば、ぜひここで示していただきたい。
議論をすべきところはたぶんそのまとめてくれてる「背景となる事柄」最近よくいわれてる文脈とかだと思います
みためが外国人な人をまず在留許可は?から聞き始めることの是非とかそういう事
胸が大きな女性がそこにいるということを示したりそこに胸の大きな女性がいたら
そこに至るまでには様々な状況があったはずなのでそれを問うのかとかそういう事
その人は地元の日本人で人種としてはDNA的からしてアングロサクソンだが国籍は日本で日本語熟達した和ごころあふれる日本人かもしれないし
巨乳の女がそこに描かれていたとして何を理由にそこに上がってきたか情報を得ようとしたり理解しようとしたりすると
話はちがうかもしれない
宇崎さんというのが「うざキ」でいじられることやその苗字の人が二次被害をうけたりすることや「宇佐美」さんもまきぞえを食うかもしれないとか
実在の乳でか女性が延焼したり下世話な漫画を描いた作者あやまれからの巨乳アイドルの親は謝罪すべきとかいわれたり叶姉妹の親は反省すべきとかいわれるのか
アメリカ人はみな日本にくるときリメンバーパールハーバーと言っているのかというとそうではないのはコンテキスト不足なのかどうか
戦争の責任は孫の代が払えといってくる慰安婦問題はコンテキスト的にただしいのか
それが男性的女性的という局面だけで言うならばこのような絵をみてと脈絡のない絵で対比されたりもするわけで
アンパンマンが男性だと男性社会や暴力を肯定していると読み取るべきなのかとか
情報の取得度合いと見解の種類で人がそれぞれの階層にあつまるべきで
義務教育のグレードがそれぞれあるような形で混同しないようにすべきではないか
その混同しない理由は理解度やそれぞれのランクを差別する目的ではなく順序だてて理解をすするめるために経路をつくる目的で
理解度の位置をつけ区別することが目的でスタートとゴールが同じ位置でうごかずまわりから情報をただ与え続けられることではなく
自分の足であるいて位置情報を更新し理解をえたうえで方向性をきめてもらうために
その提示してもらったような情報をえたり、理解したり、理解した範囲で判断したり、判断したうえで行動したりすること
をよりわける必要がる
ということと そうじゃなくいきなり不快だという脊髄反射は生体反応なのでそれを行動に反映しろということについて
どちらかが死ぬまでつづけるべき議論という名の戦争なのか それぞれはちがうところにあるだけの同一の人間の反応の
「事実として存在してるかしてないか」という歴史学的問題より、「強制」という言葉がどこまでを指すかという政治的な問題じゃないのかな。
例えば戦争前後でひどく貧しい生活に陥るなどして、従軍慰安婦として働く以外の選択肢がなくなった場合、それが本人の主観では「強制」と感じるのは普通のことだと思うんだよね。
こういうのって別に慰安婦問題に特殊な話じゃなくて、アメリカじゃ軍人になるしか選択肢がない状況が「経済徴兵」なんて揶揄されてたり。それを「自己責任」と言い切ってしまうのは違うだろうと思う。まあそれ自体の賛否はあれど、少なくとも「人間らしく、当たり前に発生する問題の一つ」ではある。
ただ慰安婦問題のような場合は、「日本政府の責任」とは別に「韓国政府の責任」もあるだろうと思うので、そこも含めて政治的に決着してもらうしかないだろうね。自分も「全面的に日本が責任を認めれば良い」とまでは思わないよ。
学校で慰安婦問題について習ったJKです。長文お気持ち。モヤモヤしたので文にしただけ。Twitterでトリエンナーレ問題とか、韓国人と日本人の言い争いとか見てて、何でこんなに揉めてるんだろ……と思っていたんだが、習った今でも何でこんなに揉めてるんだろ……と思っている。
相当な時間をかけて、残虐さとか、背景とか詳しく教えられたけど、全く罪悪感を感じなかった。これは性暴力が当然なものだった!って思ってるってことじゃなくて、私が罪悪感を感じないといけない理由がわからないという意味だ。痛ましい、繰り返しちゃいけない、忘れてはいけない歴史の一部だということはわかる。ただそれは私とは無関係の赤の他人が行った残虐行為であり、私に非は1mmもない。自分の家の家系図とか見たことないからわかんないけど、もし貴方の先祖が慰安婦問題に深く関わっていました!って言われても変わらないと思う。同じ日本人だとか、先祖だとか、そんな理由で責められても困るし、罪悪感も湧いてこない。その理屈で言うのなら、日本人も韓国人もアメリカ人も中国人もこの世の人間全て、自分と同じ民族の殺人者の罪を恥じながら生きていかないといけなくなる。同じ民族の人間の罪を恥じるって、それこそ団結意識が強い戦時中とかじゃないと無理なんじゃないだろうか。
それを踏まえて、何でそこまで熱くなってるのかがわからない。慰安婦像そんなに嫌か?別にただの歴史の一部じゃん。責められてるような気待ちになるのかもしれないけど、その気持ち自体抱かなくてよくない?やらかした張本人じゃないんだし、他人事っていうか、TVの殺人事件見てるような感覚にはならないの?殺人事件の被害者の女の子を弔う像が建てられてもなんとも思わないだろうに、慰安婦像がダメな気が分からない。韓国の人たちが熱くなる感覚もわからない。殺人事件も強姦事件もほぼ全部の民族の誰か一人は起こしてるだろうし、戦争でのそんな事件も調べれば他に幾らでもあるのに、何でこれにそんなにこだわるの?同じ民族の女性達が辱められた!ってそんなに怒れる気持ちがまたわからない。日本の原爆でも何万人もの人が亡くなってるけど、それは『けして繰り返してはいけない歴史の一部』で、痛ましく思うし、二度と繰り返しちゃダメだって思うけど、アメリカ最低!死ね!って思うか?って言われたら思わない。仮に家族がアメリカ人に殺されたとしても、アメリカ人を恨む人はなかなかいないだろう。恨まれるのはその殺人鬼だ。
なんて言ったらいいんだろう、アニメの一表現とか衣装とかそんな些細なことでもに慰安婦!ってキレたり日本敵視してくる感覚もそれに対して呆れるでもなく、そんなものなかった!ってキレ返す感覚も理解できない。歴史の一部として収束できないものなの?『こういう痛ましいことがありました、繰り返さないために忘れてはいけません』で終わりにならないんだろうか。そこまで民族に熱くなれないというか、恥じる必要性がわからない。歴史というか民族間の軋轢って本当に難しいものなんだな。もうちょっと勉強してみたいと思った。
「何が正しいか」ではなく「何が得か」を優先するということだ。
それらを絡めて「何が正しいのか」は時代によって変化するという、陳腐化したテーマを持ち出してみたい。
……では本題へ。
東京裁判における「人道に対する罪」や「平和に対する罪」が事後法であるとの議論は有名なところだが、これはすなわち、先の大戦が人々の価値観の転換期であったことの現れであると考えられる。
世界の大国は、それまで人類が滅亡しかねないような戦争を経験したことがなかった。
だから、それまでのように軽い気持ちで開いた戦端が、どこまでもどこまでも拡大し泥沼となっていったとき、本気でビビったのだ。
もちろん、それまでも「戦争は良くない」という倫理は存在しただろうし、戦争を抑止する法的な取り決めだって存在していた。
けれど、いざ大戦が終わったとき、それまでの考え方では甘かったと世界中の人が痛感した。
もっと強力な抑止力が必要だという風に、世界の価値観が変化した。
だから、事後法まがいとの批判を覚悟の上で持ち出した「人道に対する罪」や「平和に対する罪」の適用を、大多数の人々が許容した。
つまり世界の価値観が変化を迎えた時代には、それまでの「正義」「合法」「筋」「論理性」は事後的にであっても「悪」「不法」「別の筋」「別の論理性」へと置き換えて断罪することが可能なのだ。
「何が正しいのか」は時代によって変化する。
植民地支配も同様だ。
少なくとも古代史の時代においては、植民地どころか他国の占領や奴隷支配も公然と行われ、それを禁止する国際規範なども今のようには存在していなかった。
それが、時代の下るにつれて白からグレー、グレーから黒へと徐々に変わっていった。
先の大戦は「侵略戦争」であったとされているが、少し歴史を遡れば、それは数多の大国が公然と実施してきた行為の焼き直しに過ぎない。
無論、当時は国際法や条約が次々と変化し、その時々においての「正義」や「合法」が存在していた訳で、過去において合法だったから日本の戦争も合法であるとの理屈は成り立たない。
厳密にその辺りを議論しだすと、歴史学者でも無い限り、あるいは歴史学者であっても、結論の出ない話になりそうだが、私が問題にしたいのはそこではない。
問題は、当時の戦争が仮に当時の価値観や法律に照らして「正義」「合法」であったとしても、敗戦国は支配地域の割譲・放棄や、賠償の責任を負わされたであろうということだ。
無論、当時の戦争が当時の価値観に照らして「悪」「不法」なものであっても、支配地域を取り上げられ、賠償を負わされる。
どちらであっても結論は変わらない。
負けた時点で結末は決まっている。
でも、なぜそんな暴挙が許されるのか?
価値観が変化する時代においては、事後的に過去の行為を現在の価値観で断罪することがまかり通るからだ。
価値観が変化する時代において、「今」の正しさは「将来」の正当性を担保しない。
さて、ここまで「価値観が変化する時代」という言葉を使ってきた。
これは一体、どういう時代か?
ひとことで言ってしまえば、私はこれを「世界の過半の利害に関わる危機が訪れた時代」だと考えている。
世界の一部が利害を争い、あるいは危機に瀕しているとき、その係争を、あるいは問題解決手段の正当性を判断する裁判官は「世界の残り大多数」が務める。
「世界の残り大多数」は第三者として、「既存の価値観」というルールブックをもとに、正当性をジャッジする。
しかし、世界の大多数が危機に巻き込まれたとき、そして、既存の価値観によるジャッジが世界の多数派にとって不利益となるとき、価値観は一瞬のうちに反転し得る。
民意で作るルールブックは、民意によって書き換えることができる。
では、価値観の変化は再び起こるのだろうか?
かつて、普通に行われていた侵略と植民地支配が今では「悪」と考えられているように、現代においても価値観の変化は起こり得るだろう。
昨今、日韓関係に限ることなく、世界の至るところで直接的な軍事力を用いない「係争」が激化しているように思われる。
現代の価値観において、これは「不法行為」とは考えられていない。
WTO等の貿易に関する各種の協定は存在するものの、関税や非関税障壁による駆け引きを全面的に「悪」と断じる倫理観は、世界の過半には決して浸透していない。
しかし、今後はどうだろう。
「経済戦争」がどこまでも激化し、明確な「勝利者」と「敗北者」が現れたとき、「勝利者」の側は「敗北者」に対して、経済戦争の戦争責任を事後的に訴追するような事態が訪れるのではないだろうか。
世界の過半を巻き込んだ「経済戦争」が勃発したならば、世界の価値観はきっと「経済戦争」そのものを断罪する方向にシフトする。
そんなものは、価値観が変化したならば、事後的に結論を書き換えることがいくらでもできてしまう。
この前提に立ったとき、昨今の日韓関係に関わる日本のスタンスに、私は一抹の不安を覚えずにはいられない。
だが、これらの正当性は、あくまでも「現在」の世界の価値観における正当性だ。
価値観が変化する時代が訪れた場合、それらの正当性は容易に逆転して「不当」であると断罪される危険がある。
未来の価値観によって遡及的に裁かれ、事後法によって賠償請求されるおそれがある。
価値観が変化する時代が訪れた場合、明らかに日本の不利益となる事態が訪れかねない。
日韓の係争は、利害の絡まない大多数の第三者によって、既存の価値観のもとにジャッジされるだろう。
日本は、どこまでも正当性を示す証拠を積み重ねていけば、それで良い。
変化後の価値観の世界において「多数派」の側に立つという意味だ。
だから、多数派になっておけば、事後法で裁かれる心配をする必要はない。
痛み分けと言ってもいい。
この場合、価値観が変化した後、再び関係が悪化すれば、事後的に問題を蒸し返される危険性が存在するから、将来に渡って永続的に友好関係を保ち続けるのがベターとなる。
もとより妄想だと言ってある。
さっき別のエントリー↓を書いた後にこれ↑(「ただ未熟なだけだった。」)を読んだ。
https://anond.hatelabo.jp/20190817173247
傷つかない側の人が傷つく側の人を非難することについて、さっきのエントリーでは書けなかったので書いてみる。
暴力的に封鎖されたからこそ、自分たちの意図が誰かに対して暴力的ではないかと自問し続けなければならないのであり
天皇と慰安婦関係の作品については本当にこれで、それを見た人によって感情の揺さぶられ方、傷つき方が大きく異なることを無視しては議論にならない。
国家神道は形式的には廃止されたが、もっと原始的な宗教以前のもの、心の拠り所として皇室を大切に思っている日本人は多い。それをぞんざいに扱われる表現は、たとえどんなコンテキストがあったとしても、それとは別にショックを受ける人がいることは考慮しておくべき。悪魔の詩事件は狂信的に過ぎるとしても、ソニーのCMで涅槃仏をゴロ寝の表現として使って大きな反発を受けた件などと共通する、宗教(的なもの)に対する想像力や配慮のなさが問題。
これが戦時中に作られたものであるならピカソのゲルニカを比較に出しても良いだろう。しかしながら日本政府に慰安婦問題の謝罪を求める目的で韓国挺身隊問題対策協議会の依頼により2011年以降に作られた一連の像である、ということで大分立ち位置が違う。
これが日本政府に向けられた(日本国民ひとりひとりに向けられたものではない)社会運動であるとしても、自分たちが戦争犯罪者の息子たちと言われているように感じて傷ついてしまう日本人がいるのはどうすればいいのだろう。
いずれも「天皇写真に宗教的な意味はない」「これは平和の像である」「非難されているのは日本政府であり日本国民ではない」という正論は成り立つ。しかしながら、傷つかない側の人が傷つく側の人を正論で非難するのが正しいこととは思えない。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
さすが津田氏の本業だけあって、文章だと何を考えてどのようなことをしてきたのかがきちんと伝わってくる。普通に危惧されるくらいのことは可能な限り対処してきたのか、とか。これを読んでしまうと津田氏のトークやイベントコーディネートのスキルは文章力に比べて相当劣るように感じてしまう。
この文章で何度も出てくる「検閲」という言葉だが、他人の言葉の引用部分を除くと津田氏本人はかなり慎重に使っている。これは今回の炎上のキーポイントでもある。
辞書的な意味で検閲とは、公権力が表現物を検査し発表を禁止することである。
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E9%96%B2-60273
しかしながら、図らずも今回あきらかになったように作品展示を中止する要因としては公権力ばかりではない。むしろ現代日本ではそれ以外の方が多いようだ。
(3) キュレーター
(4) アーティスト本人
(5) 一般市民
このうち公権力によるクレームや強制力によって排除されるのが狭義の「検閲」。
主催側の立場は「金は出すけど口は出さない」のが理想ではあり今回もわりとそうだった。ただし事業である限り本来の主旨に合わないものやデメリットがメリットを上回る場合は、主催側が展示会の方向性に意見する自由はあって当然。
キュレーターはむしろ何を展示して何を展示しないかの権限を任されているので、それを行使するのが本業。
アーティスト本人の意向。ときとしてキュレーターの意思よりもアーティストの意思は尊重される。ある意味当然だがこれが強すぎると美術展がキュレーターの思惑とズレることがあり得る。そして今回ズレた。
声の大きいのが実は一般市民。ネガティブ、ポジティブに関わらず主催に対して意見を言うことは原則として問題ではないが数が多すぎると窓口業務に支障が出る。
そしてそれが悪い方向にエスカレートすると反社による脅迫になる。
実際のところ多数の一般市民からの苦情や反社からの脅迫が原因で、このままでは来場者やスタッフの安全性が確保できない、という判断を主催側、キュレーターがすることで展示中止となっているものが多いようだ。
「表現の不自由展・その後」各作品の展示中止理由について調べてみた。
https://censorship.social/artists/
ちなみに「《平和の少女像》は正式名称を「平和の碑」と言い、「慰安婦像」ではない」という言葉が津田氏のエントリーにも作品のキャプションにもあるが、これはかなり微妙な言い方で、「慰安婦像」という“名称”ではないものの、慰安婦を表現したものであり、日本政府に慰安婦問題の謝罪を求める目的で作られた一連の像のひとつであることは作者が明言している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%83%8F
https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%8F%89%ED%99%94%EC%9D%98_%EC%86%8C%EB%85%80%EC%83%81
https://en.wikipedia.org/wiki/Statue_of_Peace
これらを見ると、多くの場合主催側やキュレーターが公共性や展示会の主旨を理由に展示中止しており狭義の検閲にはあたらないように見える。また、天皇関係のうち3作品は、富山県立近代美術館事件に関するもので、これは反社(右翼団体)による脅迫が契機となっている。
表現の不自由展実行委員会は、表現の自由 vs 公権力による検閲 という構図に見せたがっている。ただ公立美術館や芸術祭の主催自治体は、公権力というよりも主催側という立場であり、中止の判断も現在の体制では安全性が確保できない、公共性ポリシーに反するなどである。
そこを巧妙にすりかえて、「検閲」という強い言葉を使うことにより強大な国家権力に立ち向かうアーティストという演出をしている。
現代日本における検閲らしい検閲といえば、表現の不自由展実行委員会メンバーである永田浩三氏の受けたNHK番組改変問題があり、こういった経緯の作品があれば説得力は増したと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E7%95%AA%E7%B5%84%E6%94%B9%E5%A4%89%E5%95%8F%E9%A1%8C
ここからは完全に余談。
津田氏のエントリーには、候補として上がった作品として、会田誠《檄》や、鷹野隆大《おれとwith KJ#2》、ろくでなし子《デコまん》シリーズが挙げられている。
鷹野隆大《おれとwith KJ#2》は男性器が写った写真を展示していたところ、通報されて警察から注意を受けたというもの。明確に違法な図画を作品としてクローズドな場所に展示するのはOKかNGかという議論は見たかった気がする。
https://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/pdf/2014/apmoabulletin2014p54-63.pdf
ろくでなし子作品が展示スペースの都合で候補から落ちたという件、カヌーみたいな大きなものではなく手のひらサイズ(実物大?)のものもあるので、スペースなんかどうにでもなるだろうと思ったものの、慰安婦や天皇がらみの作品のすぐ横にデコまんがあったらそれはそれで別の意味が発生しそうなのでやむなしか。
掲示されていた「年表」にそれらが含まれているか知りたかったがよくわからない。ネットに上がっている写真を見ると「イケメン官能絵巻」の文字が見えるので「年表」にはエログロも含まれているのかも。誰か知っていたら教えてください。