はてなキーワード: 平積みとは
シュナルムの発言自体は性的消費除けば、レジ横の子供の目のつくところに平積みで置くな、それくらいの良識を持て、だけですよ。
勝手にこんなことを書くと言うことはゾーニング(法的もしくは制度的なもの)を求めているに違いないって決めつけるのは
こんな本を喜ぶオタクは幼女をそんな目で見ているに違いない、と同じ、相手への悪意の『憶測』を事実と混同した態度では無いでしょうか。
「レジ横の子供の目のつくところに平積みで置くな、それくらいの良識を持て」というのは
明確に今ある場所からの排除、しかも目立たないところを要求してるわけだからそれは「ゾーニング(=規制)」の要求だろう。
そうでないというのはあまりに好意的に解釈しすぎようとしてる。
あと私はたかがツイッターでつぶやいた発言を、「世間に対する公的な発言(社会的責任の発生する)」だとは、
特に発言内容自体に違法性があったりデマの拡散だったり差別的で無い限り見なしまていません。
大騒ぎになったから「たかが」と感じられないかも知れませんけど、そこはSNSの怖さなので分けて考えないとツイッターが地獄化します。
「たかが」ツイッターでも大騒ぎになるということが、ツイッターでの発言が「たかが」で済むほど軽くはないということを示している。
ましてシュナムルはそこそこのFFを持つ。自分の発言に責任を持つ必要がある。
今回のシュナルムの案件だと、+社会的な働きかけをした時点で「表現への攻撃」になると思います。
のうりんなら、あんなポスターを町中に張るなよとつぶやいたり人に言うのは共感できないが個人の感想。
クレーム入れて、そこでデザインや掲示方法への配慮やTPOを求めるだけでなく、止めてしまえとまで言ったなら「表現への攻撃」ですね。
ツイッターのつぶやきを大勢に開陳することも「社会的な働きかけ」の第一歩であり、「表現への攻撃」だと言える。
しかも論理的な裏付けもなく他人を悪と決めつけ(「良識を持て」とは「今は良識がない」の裏返しである)断罪して。
そして奴の一派の中には実際に書店に理不尽決まりないクレームを入れてる者すらいる。
その元凶に罪がないとは言えない。
3)
シュナルムの発言自体は性的消費除けば、レジ横の子供の目のつくところに平積みで置くな、それくらいの良識を持て、だけですよ。
勝手にこんなことを書くと言うことはゾーニング(法的もしくは制度的なもの)を求めているに違いないって決めつけるのは
こんな本を喜ぶオタクは幼女をそんな目で見ているに違いない、と同じ、相手への悪意の『憶測』を事実と混同した態度では無いでしょうか。
あと私はたかがツイッターでつぶやいた発言を、「世間に対する公的な発言(社会的責任の発生する)」だとは、
特に発言内容自体に違法性があったりデマの拡散だったり差別的で無い限り見なしまていません。
大騒ぎになったから「たかが」と感じられないかも知れませんけど、そこはSNSの怖さなので分けて考えないとツイッターが地獄化します。
ぶっちゃけあそこまで騒いだのはどちらかというとシュナルム側ではなくオタク側と騒ぎ便乗のネットメディアですし。
今回のシュナルムの案件だと、+社会的な働きかけをした時点で「表現への攻撃」になると思います。
のうりんなら、あんなポスターを町中に張るなよとつぶやいたり人に言うのは共感できないが個人の感想。
クレーム入れて、そこでデザインや掲示方法への配慮やTPOを求めるだけでなく、止めてしまえとまで言ったなら「表現への攻撃」ですね。
最近、ラノベの表紙が卑猥やらゾーニングやら騒がれてる。ちょっと旬を過ぎた感はあるけど。中には「果たして子どもが見て影響を受けるのか」って意見まであった。いや、どこで見たか忘れたけど。影響を受けるんだよ。まじで。
というわけで、1つの例として私の幼少期の実体験を聞いてくれ。
私は20代女。
それでは、15年ほど前に遡ろう。
小学3年生の通学路、小学校のすぐそばに商店街があった。商店街にはアーケードがあって、その並びには本屋さんがあった。
本屋さんの外、アーケードの下には本棚があった。コンビニにあるマガジンラックと、平積みに出来る台がくっついたようなやつだ。マガジンラックには週刊誌が、平積みにはエロ本が置いてあった。そのエロ本は今のコンビニの片隅に置いてあるような分厚い漫画雑誌だった。
この本屋の前を通りこのエロ本を視認した最初の時、私は「見てはいけないものを見てしまった気がする!」と思った。見たことを友達に見られていないか周囲を見た。そして走って逃げた。それがファーストコンタクト。
次の日は、悶々としながら「(2日連続で見るのはやばい。たぶんやばい。)」と思って、向かい側のアーケードを通ることにした。
またその次の日は「(何か見たい、どうしてだろう…ドキドキするけど、なんで女の子なのに女の裸に興味があるんだろう、わたしっておかしいのかな…。でも見たい、……見たい!!!!!!!!)」と気持ちが爆発した。その日はその本棚を横目で見つつ、ゆっくり通ることにした。「(わたしの体、頭は前を向いている…大丈夫大丈夫)」と自分を勇気づけた。
それからは、たまに本屋の前をゆっくり通るようになった。時にはしゃがんで本棚に隠れるようにしてじっくりと表紙を眺める日もあった。ただ、言い逃れは出来ないだろうと思って、雑誌に触れることはしなかった。大胆な行動を取りつつ慎重になろうとする支離滅裂さ、今思うと小学生ってほんとばかって思う。
エロ本の表紙はむちむち爆乳のお姉さんだった。乳首が出ている表紙もあれば、濡れた浴衣から透けている表紙もあった。リアルめの画風だった。表紙は見ていたけれど、なにせお姉さんの裸を見ることに必死だったから雑誌のタイトルすら覚えていない。今では、濡れた浴衣で透けてるとか最高って思うけど、当時は「服着てるじゃん…」としょんぼりしたのを覚えている。
ここまでが私の幼少期。
それから高校生になるまで男の人の裸に性的興奮を覚えることはなかった。恋愛対象は男性、女性に恋をすることもなかった。中高生時代は、性的対象と恋愛対象がちぐはぐしていてすごく悩んでいた。今では、「女性の身体美しいもんな。しょうがないよな。」と開き直ることにしている。私は処女だからわかんないけど、すごく性欲が強いと思っている。小6の頃からオナニーを始めて今では週7、AV女優にも詳しくなってしまった。性欲の強さは今でも悩んでいて、男の人より強かったらどうしようだとか、みんなどうなんだろう、これっておかしいのかな…などと、うじうじしている。
こんな育ち方のきっかけ、引き金を引いてしまったのはあの本屋だろう。引き金を引いてしまうタイミングはいつか来ることではあったけど、それにしても早すぎた。だから私に言わせてくれ。
と。
エロ本を本屋に置くのは賛成派だし、それを否定していないけど子どもの見える位置、行動範囲に置くのはやめようなって思う。普段誰にも言えない、言えないことを書き連ねることが出来たし、はてな匿名ダイアリーには感謝している。
書きたいこと書けて満足。じゃあね。
きょう書店で娘が心底嫌そうな顔で「お父さん、これ気持ち悪い…」と指さした光景。
2018年9月初頭にこのツイートに端を発するゾーニング問題について、
しかしこの問題、実際はその辺りでは無いのではないかと筆者は思う。
本題に入る前にまずはそれら「ここが問題だ」という部分を見ていこう。
元ツイートを見た通りでは、「親」に「これが気持ち悪い」と報告する娘。
ほんとそうなんです。八歳の子供の目で見たらはっきりと嫌悪感を覚えるものが、
自分自身に対する異性の目を想像し気にするのであれば、いささか不自然ではある。
一般に性に目覚めた頃合いは、それは恥ずかしいものであったり訳のわからないものであったり、
特に学校での性教育が概ね浅い内容であるこの国で、娘が(八歳で性教育はやらないだろうが)
得ている性的知識というのは、第二次性徴期での変化や生理に関する所であって、
早熟であったり、或いは性的に嫌な目に遭うなどがあれば、今の知識と結びついて
自覚し始めた、ということはあるだろう。
しかしその場合、真っ先に異性として嫌悪の対象になるのは父親だ。
ましてや自身の性的嫌悪に結びつく話を、異性たる父親にする可能性は極めて低い。
下着を買うときに異性への嫌悪を知っている娘が父親に相談しないのと同じで、
これは信頼の問題ではなく、「それだけの性的意識があるならば父親に対して
実際に娘が現場でどこまで喋ったかはわからないが、ツイートの内容を見る限り、
表紙に描かれた女性キャラクターの露出に対しての吐露というより、
つまり
「自身の女性が商品的に見られているのが嫌だと思うぐらいの意識があるなら、
親とはいえ男性である父親に報告しようとは大抵思わないだろう。
ツイートの限りではラノベコーナーを指さしてるだけのようなので、
ということになる。
デザイン性や売れ行きなどはもちろん、一般書籍として置けるかどうかも
だが実際には露出が多いじゃないか、などの意見はもちろんあるだろう。
しかしそこはいわゆるプロの目線で、いわば「行政に言い訳できる」という
多くの出版社が気にする行政といえば、東京都健全育成審議会だろう。
つまり何らかの問題視がされたとしても、この審議会での基準に対し、
「肌色率が何割」とか「胸の強調の度合い」など彼らの基準で抵触しなければ、
「じゃあ例えばPTA協議会理事より確かな肩書と経験をお持ちなんですか?」
と問えることになる。
出版社独自の基準にしろ、審議会にしろ、そうした議論や法律、過去の事例に
照らし合わせて複数人が出した結論より、ただの一般人が何を規制できるのか。
市民が主役などと言うことは出来ても、では市民の代表たる議員はどうするのか。
法治主義、民主主義の原則を掲げながら、ゾーニングを唱える側はしばしば独裁的になる。
話が大きく逸れたが、さてツイ主の求めるところは実はゾーニングではない。
結局は、胸を強調したイラストを以て女性の性的消費に対する持論を述べているだけに過ぎない。
考えてみれば分かる通り、書店一つには非常に多くの書籍が取り扱われており、
男に置き換えれば股間の性器だけ異様に巨大に描かれたイラストが氾濫してるようなもんだけど、
そういう男にとって不快なものは平積みされてない。身体を性的に誇張されて描かれ、
つまり全体としては氾濫しているとは言い難いのだが、
つまり売り場を整えろという話ではなく、それ自体の存在を無くせということに他ならない。
ツイ主が言うところの、
という主張には、ツイ主の考えるそうした表現自体への異議であり、
この異議を叶えるのなら、ゾーニングをしたところでその表現は消えない。
書店で見なくとも今どきネット広告でもなんでも目に入る機会はいくらでもある。
つまり存在自体を抹消しなければ、ツイ主の主張は叶わないのだ。
まとめると、
「ゾーニングの問題っぽいが、実際には胸を強調するなどの表現そのものを無くせというものであり、
存在そのものを女性差別的に考えているので売り場を分けたところで彼の主張は叶えられない。
ということになる。
フェミニズム思想だろうか、それとも最近の何でもヘイト認定だろうか、はたまたポリコレか。
いずれでもない、これはそもそも問題ですらないのではないかと筆者は考える。
考えてみてほしい。すべて事実だとして、わずか八歳で性的表現を意識し非難の目を向けられる娘。
実に早熟と言って良いだろう。小学2年か3年か、同年代より知的レベルは高いと言えるだろう。
そしてそういう性的意識を早くから自力学習した、ということはまず無い。
親の教育あってのものだ。つまり早くから、防犯意識にせよ不審者対策にせよ、
娘に対して「女性」としての性的意識を教育してきた可能性は極めて高い。
・異性ながら娘に頼られ信頼される良き親
以上を主張するだけの、総じて自己顕示欲を満たすだけのものだと言える。
その上でラノベの表紙を選んだのは、それこそゾーニングの本丸である審議会で、
最近問題視されているBL漫画や、少し前に話題にされた少年誌のグラビアのように、
当の女性から支持されているものや、三次元で一般に理解されるグラビアアイドルと違い、
古い考えとして、オタク的なもので叩きやすかったからに他ならない。
ツイ主の想定外があるとすれば、婉曲な正義感の自己顕示のエサとするべき対象が、
ただのサンドバックではなく、もはや一般の趣味レベルで認知されていることだろう。
程度の差はあれ、今や初音ミクの話題を学校でして罵られる時代ではない。
きっとこうも問題視されあろうことか反論されるとは予想外だったろう。
ともすればインスタ映えを気にするのと大差ない話題が炎上騒ぎとなったわけだが、
いずれは何らかの形でもっとひどい炎上騒ぎになったかもしれない。
なにしろ、
・その商品を批判のために、恐らく店員に無断で撮影するモラルのない父親
・業務妨害で書店や出版社から訴えられる可能性を考慮しない危機管理の無さ
・八歳の段階であれこれと親の思想を植え付け行使させる不自由な教育方針
そうだ。車だの包丁だのも同様の理由で規制されうるが、実際には違う。
しかも車も包丁も全面禁止はされてない。「性の商品化」だけお気持ち主義者の手による規制を受けるいわれはない。
ていうか、性表現においても、たとえば、風俗店は学校の近くでは営業できないとかいう条例とか法律での規制もあれば、
全年齢向けメディアには性的な広告は出さないとか、いわゆる放送コードとか、そういういう業界や企業の自主規制もすでにある。
書籍の表紙の内容やそれを平積みにするかどうかという判断についても、出版社や書店の現場では、ある程度の自主規制が働いてたと思うよ。
ラノベ表紙はそれらの自主規制を踏まえたうえで回避した基準でしかも売り場は独立している。
そんな上で、昨今のラノベ表紙は子ども向けであるにもかかわらず、いわば野放し、エスカレートしているという話だと思うので、規制の良し悪し、規制があるかないかって話からはすでに最初からそれてるよね。
増田はリチャード・ドーキンスの『神は妄想である―宗教との決別』は書店で平積みするべきではないという立場を取る?
このタイトルの表紙が目に入っただけで「殴りかか」られたようなショックを受けるキリスト教徒やイスラム教徒は多いと思うけど。
経験な信仰者の親に育てられて神の愛を信じ切っている子供が見たら心底嫌そうな顔をして親に泣きつくかもしれない。
キリスト教徒やイスラム教徒は日本では人口の1%未満の圧倒的少数者でもある。
書店は日本ではマイノリティである一神教論者に配慮して露骨な無神論を表紙で謳っている本はゾーニングすべきであると考える?
もし増田がドーキンスはゾーニングしなくて良いという立場なら、エロ表紙のラノベとの違いは何?
どちらも表紙を目にしただけでマイノリティを傷つける可能性の高い「センシティブ」な表現では?
子供はラノベのエロ表紙のような性的な表現から保護されるべきだ、それは当たり前の他者に対する思いやり、ラノベの表現の自由は子供の保護に優越しない、それが文明社会。
しかし、子供には神の存在を徹底的に否定しにかかる無神論の表現からは保護される権利など無いのだ、文明社会には表現の自由ってものがあるのだ。
キリスト者の親は神とともに歩んで欲しいと願っている我が子が書店の入り口に平積みにされているドーキンスの無神論に感化されるのを受忍するしかないのだ。
これは差別では?
元増田です。キモくて金のないおっさんについては言及してないので被害妄想としか言いようがない。ただそういう存在が蔑ろにされていて、わかりやすい弱者が優先されているのは事実(男の健常者はこれまで強者だったから)。「金のない」はすぐに克服は難しいけど、キモさはかんたんに緩和できるよ。まず清潔でシンプルで自分の体のに合った服を着て(ユニクロで十分、本当に)、背筋を伸ばして立つこと。これだけでかなり見た目も気持ちも変わると思う。
ラノベの件も言及してない。まず多様性の問題とは別な気がする。すごく個人的な感想になるけど、過激な表紙が人目につきやすいのは問題だと思うよ。実際、本が平積みにされた状態って子供の目の高さに近いからすごく視界に入りやすい。エロ絵はやっぱり子どもへの影響が大きいよ。ただそういう本を無くせ!とは言っていないので本屋がどこまで配慮するのかが鍵かな。
基本的に自分は「ポルノとしての性的消費」と「芸術表現としての性描写」には質的に差異があるという立場を取っている。
ラノベやBLなどのポルノは対象の人格をリスペクトするだけのものがなく、都合のいい世界の中でお人形遊びしている(そこに暴力性、差別性などがある)。芸術表現として許容される性描写は深い人間理解と同時に理解不十分というせめぎ合いの中で生まれる(個々人の人格のアンビヴァレンツ、曖昧さ、捉えきれない無限性。もちろん古典では雑な性描写もあるが、今回は女性の人権が拡大した現代の話)。
ラノベやBLによくある都合のいい男性描写女性描写自体が他者の尊厳に対する暴力であり(テンプレキャラクター化とでもいうか)、それを象徴するかのような下手で誇張された表紙は刺激の強いグロテスクな表現だ。ただし、これはポルノ商品に限らず通俗的な「物語」全般に常に含まれる問題でもある。今回ラノベやBLが取り上げられているのは、ポルノ商品はこういった暴力がより際立ちやすいという性質を持っているため。行き過ぎたポルノ商品は芸術表現としては到底擁護不可能であり、全年齢向けで平積みするのは不適切だと考え、適切なゾーニングを求める。
ポルノ商品も社会には需要があるので表現や出版自体を規制することは権力の暴走でもあり絶対に許されるものではない。しかし行き過ぎた暴力を自由として認めることは同時に他の誰かの自由を侵害することにもなり、そこに闘争状態が生じる。だから適切なゾーニングをして被害を受ける人の数を減らすよう努力し、穏やかに棲み分けられるようにしようという話をしている。ゾーニングされてもポルノ商品を求める人は問題なく購入できるし、同時にポルノ商品を求めない人たちはポルノ商品によって無差別な暴力を受けることをゾーニングによって回避することができる。デメリットは購入者にほんの一手間余計な手続き(のれんをくぐるなど)を要求するということがある。想像力の豊かな人はゾーニングが表現規制の引き金になってしまうと危惧するが、それは権力を監視することによって回避するしかないだろう(そういった監視が面倒だという議論はあってもいいが、個人的にはまったく感心しない)。
また、「ポルノとしての性的消費」と「芸術表現としての性描写」を明確に区別することが困難であるという議論はあるだろう。まず間違いなくパラドックスが生じる。完全な境界線を引くことはできない。グレーゾーンは常にある。しかし完全な区別ができないからといって、不完全な区別まで不可能というわけではない。その辺りは政治の問題になってくる。全か無かの話ではなく、程度問題になる。だから冷静で建設的な議論が必要だ。
オタクが「こいつ話にならないな」と思うのは勝手だが、こういう考えの人間もいるということだし、社会の一員として生きて行くということは、こういう考えの人間とも折りあっていかなければならないということだ。フェミニストの言い分が100%通ることもないだろうし、オタクの言い分が100%通ることもないだろう。完全に論破して終わりではなく、妥協点をどこに見つけるかという議論が必要だと思われる。
これは逆。
経営者の感覚で「平積みにする、しない」を選んでいいものだからこそ、エロい表紙のラノベを平積みにした場合の批判を本屋の経営者にすることは、筋が通っていることになる。(かといって、出版社が批判を免れるわけではもちろんない)
タイムラインの時系列表示をすると便利! とか、秒間1kツイートのストリーミングが見られると楽しい! とか、興味が無いんだよ。だって金にならないんだもん。
日本にこれだけアクティブユーザがいる、これだけツイートが投稿されるとか言ったところで、そのツイートの基本的に全部がTwitterで始まって終わる閉じたコミュニケーションで、価値のやりとりがTwitterに一切行かないんだもん。
どこに住む何歳の誰で何を売り込めるという完璧な分析があっても、売り込める物がやっすいコンビニの食品とか、数売る気が無い同人誌とか、広告枠を売り込んでもいくらも儲からないような物ばっかりなんだもん。
数万数十万のフォロワーが居るアルファユーザが注目を集めても、パクツイ本が一回平積みになりましたで終わって、それで会社を回せるような何億円ビジネスにならないんだもん。
それでいてやることが表垢裏垢規制垢を5個ずつ作るだとか、手動で8時間に渡って3秒に1回ツイートするとか、高解像度のニッチ絵を連投するとか、とにかく負荷と負担ばっかりかかることなんだもん。
別に法に触れなきゃ何を投稿したっていいだろうけど、夢がビッグじゃないやつ、意図的に表舞台を避ける奴はお荷物なんだよ。
仮にマイケルジャクソンでも「ツアーはしない」「アルバムは500円で1000枚だけ売る」「Twitter上で全編無料公開」とか言うんだったら追い出し対象なわけ。
企業としてのTwitterは金にならないことが嫌なんだよ。だから日本人がやるようなことが嫌いなんだよ。だから個々の日本人が今のTwitterにどういう重さを見出してるかなんてどうでもいいんだよ。
確かに塩野七海さんは多いですね。ちょっと意外。本当に愛読していたのなら。
夏休みとかになると、書店に平積みされたりする類の良くお勧めされる類の、書籍でもありますけれど。
ただ、読みたいと思って買っていても読んでいない積読もあるし、
誰かに「これはいいのでお勧め」といってたくさん新品の本をプレゼントされることはある(私もあったし)
一概になんでもその人の部屋にあった本を「愛読書」とまで言っていいのだろうか。という気持ちはあります。
【余談なので読まないでいいです】
一緒にするなと言われそうだけど、知り合いのお姉さまがお勧めのBL同人を買ってはどんどん送って下さってて
実はそれらはまったく未読なんだけど、人が見たら何と思われるだろうってのは実際あります。
親には「**さんに何貰ったの?」なんて詮索されるしほんとうにキツかったなぁ。
今年の正月に、近場で一番大きなTSUTAYAに娘達を連れて行った。一冊ずつ絵本を買ってあげようと思って。で、児童書のコーナーに入った時に条件を二つつけた。一つはオモチャ絵本(音の出るやつとか、オモチャのレジスターや楽器などに申し訳程度に冊子っぽいものが付いてる物)は買わないこと、もうひとつは図鑑など単価が高過ぎる物は無理という事。それだけ約束させて、好きに選ばせるつもりだった。
長女はひとつ目の約束の時点でテンションダダ下がりだったが、クリスマスにサンタさんと親戚一同から遊びきれないほどプレゼント貰ったばっかりなんだから、と説得。長女は渋々って感じだったが同意した。
長女は本好きで図書館では自由に借りて色々読んでるから、今回は何を選ぶんだろうと思ったら、数多の絵本の中からソッコーで選んだのが、まさかののぶみだった。ジュウオウジャーのやつ。
それは別に平積みされてた訳でなく、むしろ目立たない棚の片隅にひっそりと置かれていた。ひっそり……といってもそれは大人目線でのことで、子供からしたら棚の一番下の段って見つけやすかったのかもしれないけれど。
私は例の『ママがおばけになっちゃった』を読んだ事があるがあんまり良いと思わなかったし、ネットでの評判はあの通りだし子供に有害説もあるので、正直言ってやっぱり読ませたくないっていう気持ちがあった。
それでつい反射的に言ってしまったのが、
「それはちょっとどうかな、ジュウオウジャーもうとっくに終わったし」
ジュウオウジャーとっくに終わったとか自分でも意味不明だと思う言い訳だ。だがなんか瞬間的にあの本を買うのを阻止するべきかもしれないという気になってしまったのだ。
そしたら長女はそれに物凄くショックを受けてしまい、絵本を選ぶのを止めてしまった。しばらくコーナーをさ迷い、自分の買いたくない本を買うという重すぎる任務を背負っているという感じで死んだ目で本棚を見ていた。
長女がふらふらと歩いて行った先に、特撮絵本の棚があった。長女がそれを見て言った事には、
「どうせこれも買っちゃダメなんでしょ?これは絵本じゃないし」
私が
「いや良いよ、これ買っても!これも絵本だし」
というと長女は
「ふーん。でもいいよ。これは絵本だよね、ジュウオウジャーじゃないから」
なんか色々誤解されていた。
長女は結局『ひつじのショーン』のアニメ絵本を数回「これは絵本?」と確認してから「これでいい」と選んだ。
そのしばらく後に、先日のお詫びのつもりでまた娘達をTSUTAYAに連れて行ったのだけれど、長女は絵本の棚には見向きもせずにドリルの棚に向かって行き、入学準備ドリルをチョイスしてニコニコしていた。(以前からドリルが好きなのである)
絵本も買ってあげるよ?って言ったら「いらなーい」だそうだ。