はてなキーワード: 報道番組とは
ウソでもきちんと処分しておかないと、今後何を追及しても「CLPではお咎めなかっただろ」ってブーメランが返ってきて終わり感しかしない
お得意の論説「お金に色は付いていない」からの「件の番組制作費」は政党助成金(=税金)だろ
立憲民主党がインターネット報道番組を制作、配信する「Choose Life Project(CLP)」に広告代理店を通じ「番組制作費」などとして約1500万円の支援を行っていた問題
西村智奈美幹事長は12日の記者会見で党の調査結果を発表し「適切ではなかった。国民に疑念を与えた。反省すべきだ」と述べるだけに留まった
決裁した福山哲郎前幹事長の処分については「考えていない」と否定したし、枝野幸男前代表の関与の有無については言及さえしなかった
戦争法案(平和安全法制関連2法案)反対運動をしていたSealdsメンバーのOBが参加して、ブルージャパンという会社を設立した。
ここは、なんの実績もない新設の会社にも関わらずコンサル・広告代理店として立憲民主党という野党第一党から億単位の発注を受けている。
今回のCLPの件もおそらくブルージャパン経由だろう(違うなら教えてほしい)
正直言って、Sealdsのメンバーは使い捨てにされると思ってた。当時、参加者はろくな就職先がないぞと忠告されており、また、参加者からも「就職できない」「クビになった」などの声が挙がっていた。
立憲民主党はできる範囲でSealdsの参加者に金を流して養うとともに、やりがいがあるっぽい(あるとは言っていない)活動をあてがってやってるんやね、見直したわ。
これを見てほしい(見なくてもいい)
https://www.youtube.com/watch?v=4viE2RYAwok
abemaTVの看板番組で若年層を中心にそこそこ人気がある。
昨今のひろゆき人気も、その一端はこの番組のおかげといわれていて、そこそこ影響力のある番組だ。
#アベプラ では過度な演出や切り取りを完全排除。たっぷり時間をかけて、ニュースの本質を探る報道リアリティーショーです。伝えることだけに満足せず、社会課題を解決するには何が必要なのか?出演者や視聴者の皆さんと一緒に考えます。番組には、芸人からジャーナリスト、社会起業家、AV女優まで、幅広いジャンルで活躍する論客がレギュラー出演、カタガキ抜きのリアルな言葉でニュースを斬ります。ほかのメディアでは見られないアベマならではの尖った特集にもご期待下さい。
まあ要するにキー局のワイドショーにありがちな過剰演出、偏向報道をやめて、「まともな」報道番組をやりますよ、とのことだ。
そんなアベプラの新コーナーが冒頭の動画なんだが、これがひどい。
バズリたい素人を募集して、ひろゆきの前でプレゼンさせ、内容が良ければひろゆきがフォロワー130万人のツイッターで拡散する、って企画。
コンセプトからしてマネーの虎を彷彿とさせる時代錯誤感があるんだが、実際放送された中身はもっと酷いものだった。
記念すべき第1回の挑戦者として自称ラッパーアラサー元ニート美大卒の弱者男性が登場。
若いころに画家やバンドなど色々挑戦したが芽が出ず、30代を前にしてラッパーに転向、自身の失敗や苦難、挫折をライムにすると海外で火が付きインドやフィリピンで1000万回再生された、との経歴。
そんな彼はひろゆきのツイッターを通して自分のように報われず希望を持てない若い男性に希望を与えたい、と語る。
彼はまな板の上のサンドバッグとして終始なじられ、笑われ、自尊心をズタズタに引き裂かれていた。
何を言ってもニヤニヤされる。周りが鼻で笑う声が聞こえる。ヤジられる。
一対一なら勝負かもしれないが一対多ならイジメである。さらにいえば彼は喧嘩する気などさらさらなく、ただ誠実に言葉を尽くしているのに、返ってくるのは圧倒的な量の嘲笑なのだ。やるせない。
これが「ニュースの本質を探る報道リアリティーショー」なのか?
これが「ほかのメディアでは見られないアベマならではの尖った特集」なのか?
(たしかに昨今のテレビはコンプラに厳しいので、こんな時代錯誤の素人をコケにして笑い者にする番組はつくらないかもしれない。)
ニュースや報道番組で暴力映像を目にするたびに本当にしんどくなる。
近年の話題で言うとアメリカの白人警官による黒人男性への暴力やさらなる問題としてアジア人への暴力。香港やミャンマーでデモ隊を鎮圧する警察官。
日本では入管職員による外国人の人道を無視した暴力の他、理不尽なあおり運転やクレーマートラブル、録音されたパワハラ音声(これは言葉の暴力だけど)等々。
ちょっと古いけど障害者施設の職員が利用者を殴っていた映像とか運動系の部活のコーチの部員への体罰の映像もあった。
何の注意も予告も無く流れてくるので対策の仕様がないのだがニュースを見ないわけにもいかないので本当に困る。
報道する意義があると判断しているのだろうけど、辛くなる人も存在します。言いたいことはそれだけです。
ちなみに数少ない配慮の例として
震災特番で「この後津波の映像が流れます」のテロップと戦争特番で「この後残酷な映像が流れます」みたいなテロップが出ていた。どちらもNHK。
『ダークサイドミステリー』のケネディ暗殺の回では暗殺の瞬間の映像にボカシが入っていた。これもNHK。
BS放送なんて映画だ野球中継だを流して見ていない人にもお金をとっている、傲慢以外の何者でもない。
朝ドラ、野球中継、コント番組、教育番組で流れるアニメ、BS放送、、、、これらすべて娯楽であって見ていない人に押し売りするものではない。
一方で公共の報道機関としての役割も重要であるのは一理ある。だが、現状の番組の実態が公共の報道機関としての機能を失っているのが問題だ。
なので、NHKのあるべき姿は以下だと思う。
1. BS放送の撤退。2chと12chを統合。昼の1時間だけ国会中継を流す&緊急時に緊急放送を流す。それ以外は教育番組。あるいはそもそもテレビ事業から撤退。
2. 教育番組もあくまで放送大学的なアカデミックや教養の底上げを目指す。
2. 国政や海外情勢に関する中立的立場の報道番組は基本的にネット配信orネット記事として報道する。
3. 野球中継、コント番組、ドラマ、朝ドラ、その他報道に関係ない事業は廃止(公共の報道機関の役割から逸脱している)
以下は小山田圭吾さんの辞任騒動をきっかけに、SNSの問題やマスコミの姿勢についての疑問、虐めの本質とは何かを私なりの視点で考えた物です。
本来はTwitterで呟くつもりでしたが、かなりの長文となってしまいましたので、こちらで書く事にしました。
基本私はTwitterであまり呟く事はないのですが、ファンである小山田さんの擁護をきっかけに今回の炎上の渦中に入りました。
そんな私のツイートにリプして来た人の殆どが汚い言葉を使い、怒りの感情をぶつけて来ました。私はそれを〝攻撃〟と呼び、ミュートやブロック等でスルーしましたが、冷静に対話出来ると感じた人とは出来る限りやり取りしていました。
そうしたリプの中に、障害者と直接接触する機会がなかったのか、TVドラマによくある表現に影響されたのか、「障害者は純粋である」とか、障害者はとにかく「被害者となる対象(弱く可哀想な人)だから優しくしろ」と思い込んでる人が多い印象を受けました。「障害者が小山田の音楽を聴く訳がない」と言う人もいました。
しかしそれこそが私は差別的だと常々思っていて、それを今回の辞任騒動で再認識しました。
障害者の中にはして貰って当たり前の態度の人もいれば、席を譲る等の声かけに強く拒む人もいるし、嘘をつく人もいます。多様な人格や価値観があるのは健常者と一緒です。
(その点ではQJを見る限り、小山田さんは障害者である沢田さんを事細かに観察し、〝探究心〟で接しています。先入観なく人を知ろうとする姿勢そのものは、虐めはともかく差別はしていないと思います。)
それを想像せずに叩いて来るのは〝正義感〟ではなく〝傲慢〟であり、自己中心的な価値観の〝押し付け〟でしかありません。
そもそもSNSにおいて、なぜただの擁護者までも攻撃するのでしょう。それはまるで、殺人犯の家族まで同罪のように扱うのと同じ事です。
いえ、元々そう言う思考を持っている人達が攻撃しているのかもしれませんが。
攻撃は問答無用で人を傷付ける事ができます。その武器が言葉なら、傷が目に見えない分だけどこまでも攻撃でき、相手が死のうとする迄のダメージを与えていても気付かないのです。その行為こそが「虐め」そのものなのに。
誰かを虐める理由のひとつとして、相手と同じ立場に立った時の想像力が欠けている〝経験の浅さ〟があると思います。それだけなら大抵は躾や注意で改善されるでしょう。
それが駄目なら実際にその立場に立った時にしか気付けないかもしれません。
他には承認欲求が満たされないストレスがその行為に繋がっていると見られるパターン。
劣等感は内に向く人と外に向く人とがいて、内に向く人は自分に自信がなく自分を責めて病む。外に向くと他人を見下したり攻撃的になりやすく、虐めに発展しやすくなる。
劣等感の元は無意識下にあるので、罪悪感が伴わないのではないでしょうか。
最近になって本当にケアが必要なのは虐める側だと言われていますが、そこに本質があると思います。無意識にストレスが存在したままの人は、今回のような出来事がスイッチとなり、ヒステリーを起こすのでしょう。
虐められる側には理由がなく、仮にあったとしても虐めていい理由にはなりません。だから世間は虐めを許さないと言う。学校や会社と言う限られた世界でそうならば、今回の件は異常なまでの規模での虐めです。
しかも真実の検証も本人の説明の時間もない完全に不利な状況で始まっているのです。
それをマスコミはこのまましれっと終わらせようとしている空気になっていますが、私自身は謝罪しない限り許す気はありません。何が出来る訳でもありませんが。
煽られた攻撃者は個人なので、私が何かを要求する義理はく、真実が世に出た時は黙っていればそれでいいと思っています。ただ、最初に誤情報を拡散した人は別ですが。
ここまでで私が言っている事は虐めを容認している訳ではないと解るはずですが、そうでない人は読解力が足りないと言っておきます。
どんな場合でも相手を理解しようとする姿勢で対話しなければ、お互いの考えや価値観を知る事はできません。その上で解り合えなかったとしても、認め合う事はできます。
いきなり断罪しては真実も何もあったものじゃ無い。まだ「真実」には辿り着いていないのだから。
現時点で検証しているのは擁護側(しかも個人)だけで、本来は攻撃側もしなければなりません。QJ全文を読んだけど印象は変わらなかったと言う人がいますが、それは検証ではなく文字通り〝印象〟で留まっているだけに過ぎません。
しかし、双方が検証をしてもやはりまだ〝検証〟の段階でしかなく、何割が、どこが嘘か真実かは
それら全てが揃って始めて〝真実〟と呼べるのではないでしょうか。
こういう事を書くと「汚名を晴らしたいなら本人が会見すればいいじゃないか」等とよく言われましたが、普通に考えればパラリンピックが終了しないとタイミングとして難しいと思います。
オリンピックは終了したと言っても今回の発端が〝障害者を虐めた〟である以上、パラリンピックではより過敏にならざるを得ず、水を差す事になりますから。
私はまずそこまでは待ちたいと思っています。
会見が行われた場合、雑誌社からの証拠の提出やライター本人の釈明がなければ、小山田さんの発言が全てとなります。
そして世に出た情報が嘘であった場合には、彼がこれまでと同じ活動が行えるようになるレベルでの、マスコミやコメンテーターの謝罪を含まなければ終了にはなりません。
逆に、証拠が全て揃わなければ言い訳としか取らない人がいる事は容易に想像できますが、その場合は雑誌社を追及するのが正しい姿勢です。
会見がなかったなら、被害者とされる人が虐められたと思っていたとしても、謝罪文を出していれば本来は〝社会的〟には終了する話であり、これ以上叩く必要はありません。
本人に謝らなければ意味がないと言うならば、謝罪文には〝本人に連絡を取り直接謝罪したい〟と書いてあります。連絡が取れて受け入れられなかったとしても、後は当事者同士の話であり、外野が口を出す事ではありません。会えなかったとしても同じです。
本人に連絡を取っても傷口を広げるだけだと言う人もいますが、それも当事者の問題です。何故なら
その点について言及する人を少なくとも私は見た事がありません。攻撃者が常に小山田さんが〝許されない〟事を前提で話しているのには疑問が残ります。
また、この件について同じ経験のある人を刺激したという声もありますが、それは小山田さんだけが悪いのでしょうか?
確認しておかなかったJOC、沈黙したままの当の雑誌社、問題になったブログ、検証なく報道したマスコミ、間に受けて拡散・コメントしたタレントや識者、それに煽られた一般人。
無闇に人の目に入るような形にしたのは決して小山田さんだけのせいではありません。その点は責任転嫁ではないかと思っています。
本来マスコミは、検証、取材、時代背景、あらゆる面からひとつの物事を捉えてからでないと報道するべきではありません。憶測がひとり歩きするような今回の事態は普通ならあり得ないのです。エンタメ的な雑誌やワイドショーならともかく、公的なニュースを慎重に考察した上で伝えるはずの新聞や報道番組でさえ、エンタメ化しているようにしか私には見えませんでした。
しかも著名な識者までもが感情的にコメントしていた事には愕然としました。連続殺人事件のような大きな事件ですら、冷静にコメントしているのにです。
国民の半数が反対していた五輪だったからなのか、コロナ禍でのストレスが噴き出したからなのか、とにかくどこでも爆発的に感情が横行していた事に唖然としました。
敢えてTwitterの炎上に飛び込みましたが、その異常さを目の当たりにして、文字にここまでの殺傷能力がある事に恐怖を感じました。
木村花さんの出来事が遠い昔でも無いのに、こんなにも簡単に忘れてしまうのかと。
また内容の是非はともかく、その後に起こったメンタリストのDaiGoさんや、アーティストの大森靖子さんの騒動は、ご本人の口から出た確実な証言です。
それを考えると、小山田さんの場合は本来、ここまでのバッシングを受ける物であったのだろうかと違和感を覚えます。
ここまで書いて、ただの擁護という印象を持たれる方もいるかもしれませんが、一度冷静に考えて欲しいのです。「小山田」と言う主語を、貴方の敬愛する誰かに当て嵌めて。
そしてそれを守る為にその時、自分はどうするべきなのかを〝想像〟してみて下さい。
傷つける人、傷つく人が一人でも減る事を祈って。
バラエティ番組にも報道番組にもクイズ番組にも。ほぼバラドルじゃねーか。
このままだと戦隊モノにも出るんじゃねーの。昔みやむー出てたけど。
ナレーションに声優呼んで読ませてるの見るとこっちがオタクなのになんか「イタタタタ」ってなる。
まる見えも「あの人気声優が登場!」って。海外映像吹き替え全部違和感しかなかったぞ。個性出しすぎて映像と合わなかったな。
國府田マリ子の声の良さ再確認したわ。最近アニメ出てるか知らないけど。
15年前なんてマスメディアサイドはミヤザキの時みたいに「犯人はオタクで~」とかやってただろ。伝わらないかもしれないけどヤギ被告の時そんな感じだったよな。
あいつ結局オタクじゃなかったし。何が「段ボール箱を封印する際のテープの型がネウロと一緒」だよ。というかネウロ見てるからオタクって凄い偏見だな。
あの頃たまにバラエティに声優呼んだと思ったら「○○の声やってよw」→伝わらず変な空気に って流れが多かったよな。
逆に今はオタクにしか分からないようなアニメキャラ演じさせて「皆知ってますよ」的な空気出すときあるよな。
あれ嫌だわ。家族と飯食ってるときに「この人知ってる?」だって。あまりにも声優がバラエティでやっている事が恥ずかしすぎて「知らない」って答えるけど十分知ってるわ。
今の声優は実質アイドルだしそいつらのファンもアイドル追っかけと同じ。
だから視聴率取るためにただ何も考えず起用する。ファンはそいつらがデレビに出たら「認められた」と思って喜ぶ。
オタクは金になるのは分かるけどオタク叩くかオタク持ち上げるかの2択しかないのか。テレビ業界はバランス加減もうちょっと考えろよ。
まあ差別的な言葉の揚げ足取りを得意技とする報道番組が、その手の言葉に無神経なわけはないので、ジェンダー問題対策に肯定的な意味を込めているはずだ、という先入観はあったかも。
わかりにくさはもちろん感じた。
一方でハフポストはこんなことばかりやってるから、因縁ばかりつける当たり屋と見られて、公正な社会を望む人たちからもどんどん見限られていくんだけどな。
まず言っておくとあのCMはカスだしジェンダー的にも問題が有る。
ただ、ジェンダー的に問題にできる点があるのに、解釈が可能な点についてもわざと悪意的に解釈しているように見える人が多いので、解説を加えてみる。
解説を加えるのはこの場面。
会社の先輩、産休あけて赤ちゃん連れてきてたんだけど、もうすっごいかわいくって。どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかって今、スローガン的に掲げてる時点で、何それ、時代遅れって感じ
まず前提としてこれは報道番組のCMであり、ジェンダー平等等にまつわる社会問題を重要な事柄だと印象付けたい意図が有ると想定すべきである。(報道に付加価値を意識付けたいなら当然そうなる)
そして実際、ここで「時代遅れ」なのは「ジェンダー平等を問題にすること」ではなく「スローガン的に掲げる事」だと解釈可能である。
「スローガンを掲げるだけでは意味が無い、実際にジェンダー平等の為に動かないと」ということだ。
このCMが「すでに日本はジェンダー平等を達成している」と主張しているのだと解釈している人が居るが、これは誤り、というより他にもっと良い解釈がある。
ジェンダー平等を達成していなくても、「スローガンじゃ役に立たない」と主張することは可能だからだ。
複数の解釈が可能である時、わざわざ悪意のある解釈を取って決め付けるのは真摯な態度ではない。(ただ、このCMはメッセージを伝える上で非常に拙い事は否定しない。しかしそれは善悪ではなくクオリティの問題である)
赤ちゃんの話と政治家の話がうまく頭の中で繋がらない人も多いと思う。実際ここは接続が甘い。
ただ注意深く読み取れば、繋がりを見出すのは不可能ではない。
重要なのは産休でも赤ちゃんが可愛かった事でも無い、「先輩が赤ちゃんを職場に連れて来た」事だ。
議会に子供を連れて来た議員然り、職場に赤ん坊を連れてくる事を許容するかどうかというのは世界的にもまだ達成されている所の少ない、社会問題である。
CMの女性の職場ではそれを達成している、それと比較して「まだスローガン程度で止まっているどっかの政治家は時代遅れ」という事なのだ。
比較されているのは彼女の職場と政治家(その背景としての日本の政治)であり、つまりこれは日本の政治のジェンダー問題の遅れへの批判だと読み取る事が可能なのだ。
ま、そもそもここまで努力して意識的に読み取らないとここまで読めない時点で、あのCMはカスである。
更に「そもそも職場に赤ちゃんを連れてくるのはジェンダー平等の話なのか?確かに重要だが、これを女性差別の問題として扱うのは、育児を母親の仕事だと考える前時代的な価値観を前提にしていないか?」と言う批判はあり得る。
これは多くの人が指摘している事だが、化粧品等の非政治的な事柄を意識の中心として描いている点は女性を馬鹿扱いしていると解釈され得る。
恐らく(化粧などの)身近な問題と(消費税などの)政治的な問題を接続し、その接続を意識している人物像として「報ステを見ている女性」を提示したかったのだろうが、CMの女性は話が散発的過ぎて意味不明な発話しか出来ていない。もう少し問題を深堀する人物として提示するべきだっただろう。
そうした問題がちゃんと有る、にも拘らず他に解釈が可能なジェンダー平等のくだりをわざと悪意的に解釈して問題化するのは、却って問題の本質を暈してしまう悪手だと言わざるを得ない。
ただし、そうした解釈を多くの人がすることは自由である。誰にでも読解力が有る訳では無い。
問題なのは、専門家やメディアの記者がそれら一般人と同程度の浅い解釈しか出来ずに批判してしまって居る事だ。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/93358
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_605a808ac5b65d1c28107da8
例えばあのCMを撮影する際、問題を感じた人が1人も居なかったとは私は思わない。
しかし問題を感じたその人が、問題の本質を捉える読解力を持っていなかったらどうだろう?とっさに「これは不味いです」と言えずに黙ってしまったり、周囲を説得できず押し切られるかもしれない。
現場での抑止力が正常に機能するためには、問題を問題だと感じるだけではなく、「どこがどう不味いのか」翻訳する読解力が必要なのだ。
そしてそうした読解力を今回の様なケースでの解釈を通じて示し、大衆に広める事こそメディアや専門家の役割の一つだろう。それが現在全く機能していない。
あのCMを批判するべきである、という事には同意する。しかしそうした目的を優先する余り拙い安易な解釈で批判を行えば、社会全体で問題の本質を捉えることができなくなり、力が衰える。
私が言いたいのは「真面目にやれ」という事だ、遊びでやるな、可能な解釈をした上で「本当に問題である事」や「~~の様な(悪意的な)解釈も可能な表現になってしまって居る事」「CMとしてのクオリティが低い事」を論うべきだ。