はてなキーワード: 単純化とは
Uber eatsはごみ捨てが簡単なところに住んでたらこちらで処分していいと許可された時点でサクッと捨てるな。
24時間いつでもごみ捨てられるマンションに住んでて、分類とかも適当でいいならね。
面倒くさい分類を求められるところに住んでいたり、ごみ捨てに課金されるところに住んでいたりしたら引き取れって言うけど....ってこれが量の文化か。
日本でもごりごりの筋押しな人もいれば、量の論理のひともいるよねって思う。
そういえば昔、お給料がちょっと多かったのを修正するために事務員の仕事を増やすよりは、先方に了解を取っているなら無理に返すよりも黙ってもらっておけ的なことを言われたことがあったのを思い出した。
日本でも端数を切っておまけしてくれることが普通にあるけれど、筋の人は無理やり払ってるの?
高額商品なら万以下を切るとか、そうでない場合も1円単位は切るとかあると思うし、飲み会とかでもワイが多めに払ってでも会計を単純化したいと思うのだけど、そうでもない人が多いんだろうか?
そもそも権力のある奴以外を男として認識してねえからそう見えるわけよ
家父長制を問題にする輩にとって、家父長や勝ち組以外の男のことはハナから眼中にないからどうだっていいんだろうね
別に無条件で男尊女卑があるわけじゃなくて、単に男社会で勝った奴や元々持ってる奴が強いというだけのことじゃん
でもフェミニストの皆様はそれを見ないことにして、ひたすら男女バトルに単純化しようとする
あるいはネオリベにかぶれて、自分が勝ち組の枠に入れさえすれば、弱者のことなどどうでもいいという素振りまで見せ始める
それに比べるとレディースデーなんかは典型的だが、女でありさえすれば女尊男卑の恩恵はだいたい誰でも受けられるように見えてしまう
もちろん例えば若い美人の女が同情されやすいということはあっても、ブスやおばさんはそうでなかったりするから、必ずしもそういうわけではない
しかしとにかくお互い見えてない部分が多すぎると思うんだよ
ただ、自分が納得するまで仕方がないこと。
困ったことに、自分が変わるための解が自分が変わるしかない、というトートロジーのみで形成されている。
思考の牢獄から抜け出す手法はそれぞれなので、ぶっちゃけ他人に勧められる方法なんて一つもない。
例えば一つの境地である、いかなる時も自分を俯瞰視する、という成功者の視点も答えがあるのみ。
そこに至る解き方は人それぞれ。単純化すると自分が変われば「諦」が発生し、諦=客観視に繋がる。
では諦に至る冷静さはどうすればいいの、と大体の人は思う。
ないんだよね、そんなの。
人によっては体調不良だと病みやすいから運動した、だから運動が一番だといい始める。
人によっては友達に相談したら解決したので友が最大の解だという。
人によっては哲学書を読んで理屈を理解したので自分の悩みはちっぽけだという(まあこれ、メンタルの足しにはならないけど)。
人によっては自己啓発を読んで(以下略:だいたい足しにならない。実体験が伴ってない)
人によっては占術書を研究して原因究明を求める(運命のシステムが分かるだけで、悩みの解決にはならない)。
人によっては心理学を読んで納得させようとする(幼少期の親の起因が多すぎて今更どうにもならない)。
諦を生みやすい手法は一つだけあって、漫画家のサイバラみたいに全力でその場から逃げること。
学習性無気力が発生してその場から逃げる気力が失われても、嫌々一歩逃げ出すことを考える。
一度抜け出してしまえば、あの荒波の戦場は一体何だったのだろうという思考の隙間が発生する。
逃げる権利は人間だけでなく全生物が持つ特権だ。これを使わない手はない。
上の式が幸せを極端に単純化した方程式だ。幸せは現実と期待の差である。現実 > 期待の時に正の幸せを感じるし、現実 < 期待の時には幸せは負になり不幸を感じ憂鬱になる。
最近バズってる『普通の人でいいのに』とか、少し古いところだと『東京女子図鑑』『東京タラレバ娘』とかの主人公はね、みんな同じ問題を抱えている。自分が何を欲しいか理解していないため、期待値が高くなりすぎて不幸になっている。
Generation Yとも言われるミレニアル世代と同じ問題を抱えてるんだよね。
(参考:https://waitbutwhy.com/2013/09/why-generation-y-yuppies-are-unhappy.html)
小学校低学年までの頃は割と幸せな人が多かったんじゃないか。大人になってくるにつれてどんどん他人と自分を比べていって勝手に不幸になる人は多い。中学生や高校生の時点で既にそういうメンタリティは仕上がってくる。ミレニアルやそれ以降の世代の人達は、人生の良い部分だけばかりが投稿されたSNSを見て、他人の人生を羨ましく思う。自分の人生は良い部分だけでなく悪い部分も全て見えているが他人の人生の悪い部分が見えづらくなってきているため、自分ばかり損をしている気分になる。選択バイアスと観察者バイアスが相互に作用しあって壮大な勘違いをしでかす。その結果人生に対する期待値が膨れ上がってしまう。実際には自分が羨ましいと思っている他人も、実は自分のことを羨ましく思っていたりするものだ。結果、不幸の総量が増えやすい仕組みになっている。
『普通の人でいいのに』『東京女子図鑑』『東京タラレバ娘』で描かれている女も要は同じだ。東京という大量の多様な人がいる場所では当然キラキラした人も多い。そのような人ばかりが目に入ってしまう。またマスメディアに影響された価値観を通して世の中を見ているので、人生の期待値が無意識なうちに爆上がりしてしまっている。田舎にいる時はマスメディアの情報はあくまで別世界の情報として切り分けられるが、東京に来たらそうではない。そこにSNS等の影響も加われば効果はバツグンだ。
人間誰しも自分は特別だと思い込んでいる。世間様が用意した価値観に乗っかって自分はその定規の中で真ん中よりは上だろうと思い込む。現実離れした期待値を内面化してしまう。結果、他人を見下し、自分の周りに用意されたものの価値を見誤る。自分はもっと価値のある人間だという思い込みによって、自分の中での現状の価値を下げていく。自己肯定感が低いくせに自己愛が強い人は世間からの承認を求める。それが無いと自分の価値を確認できない。そのような自己中心的な人物に勝手に価値を下げられた方は酷く傷付く。しかし価値を下げた本人はそれを当然の報いだと思い込んでいるため、罪悪感すらない。自分が不幸なだけでなく、周りの人を不幸に巻き込んでいく。遂に自分の中での価値観が形成され、過去切り捨てた者達の価値に気付いた頃には既に時遅し。自分の愚かさに気付き更に不幸になっていく。
こういう作品に女の主人公が多いのは女の方が人間に興味がある人が多いからだ。男はどちらかというとモノに興味がある人が多い。看護師に女が多く技術者に男が多いのはこの影響だ。人間、他人に興味のある女ほどこの地獄にハマりやすい。SNSが無い時代からSNSのようなことをしてきた人々だ。あの人の旦那さんはどこどこに努めていてこれこれこういう役職だ。あの子の彼氏はイケメンだ。なんとかさんの子供は勉強がすごくできるのに比べてうちの子と来たら。自分のことは棚に上げて、自分が持っているものでマウントを取り合う光景は昔から存在する。更に日本人はコミュ障が多く他人と向き合うことが苦手だ。他人に向き合わないのに頭の中に創り上げられたインフレした価値観で周りを勝手に判断するので、地獄は更にすごいものになっている。自分は自分、他人は他人という切り分けができる賢い人にならないといつまで経っても不幸だ。
http://alger-roi.fr/Alger/enf/ecoles/pages/10_enf_gym_60_lebaz.htm
https://www.alamyimages.fr/la-gymnastique-dans-les-annees-1950-la-formation-des-jeunes-femmes-de-la-gymnastique-avril-1954-suede-image224244117.html (訂正。スウェーデンらしい)
やや短パンっぽい。
中国、台湾、韓国と、翻訳にかけて体操着を検索したが、ジャージ姿しか見当たらなかった。
意外なことに、英連邦や共産圏以外にもショーツ型ブルマーが存在していた。
調査により提灯ブルマー及びショーツ型ブルマーは日本のみならず、ヨーロッパやオセアニアにも広く分布していた時代があった。驚くべきことに、ショーツ型ブルマーはナチスの時代にまでさかのぼることが分かった。
つまり、規律や集団行動を重んじる文化圏の外にも、ブルマーが存在していた。つまるところ、ブルマーというのは全体主義の産物ではなく、全く別の理由で広まったものと思われる。
女性が身体を自由に見せる権利の広まりとともに、レオタードや水着姿になる自由の一環として、広まったのだろうか。それとも、逆に美しいとされる身体を見せることを強要されたのか。これだけでは判断することはできないし、両者が混在していることだって考えられる。ここまで踏み込むには、私の知識がまったく足りない。
今回、私はショーツ型ブルマーの世界的な広がりを確認することができた。しかし、これはあくまでも定性的な研究であり、まったくと言っていいほど定量的ではない。すなわち、各地域で、何年から何年までブルマーが使用されていたのか、採用された学校は何パーセントに及んだのか、といった情報が完全に欠けている。
それに、ブルマーの採用は全国的に強制されたものであったのか、学校ごとの裁量に任されていたかも明らかにできていない。下手をすれば、上であげた国家についても、私立の数校でブルマーが採用されていたにとどまる可能性がある。また、バレーボールの授業のみブルマー着用、というケースも考えられる。もしそれが正しければ、常にブルマー姿だった日本は特異的な地域になる。
また、ブルマーそのものがどのような素材で作られていたのかについてもわからないし、どこからが提灯ブルマーでどこからがショーツ型ブルマーなのか、明確な基準を以って調査はできなかった。残念ながら、不鮮明な白黒の写真に頼らざるを得なかったためだ。
課題は他にもある。今回、ブルマーが存在していない地域をいくつか挙げたが、何かが存在しない証明は非常に困難だ。
加えて、ブルマーがその国にどのような文化的インパクトを与えたかについても不明だ。女性解放のシンボルであったのか、フェティシズムやノスタルジーの対象であったのか、おそらく多数の記事を読まなければならないだろう。例えば次のチェコの動画からは、何かの余興なのだろうか、ノスタルジーやユーモアというニュアンスが感じ取れる。
https://www.youtube.com/watch?v=HT0k1Jr8uwM
また、共産圏に多く見られたが、レオタードもまた体育で広く用いられている。ブルマーとは分布が相補的なのか、そこが気になった。たとえば、党大会か国民の体育大会かわからないが、多数のレオタード姿の女性が集っている動画が多数あった。
https://www.youtube.com/watch?v=MteXGWpSH9k
長くなってしまったが、今回は以上である。私の研究は、あくまでも大まかな方向性を示したにとどまる。だが、歴史を過度に単純化する考えから少しでも自由になれるのなら、これほどありがたいことはない。
それにしても、どうして下着同然のショーツ型ブルマーが採用されたのか。思い付きでしかないが、ジェネレーションギャップによるものかもしれない。
例えば、「サザエさん」や「となりのトトロ」では、少女がパンツ丸出しで駆け回っているが、当時としては性的な含みはほとんどなかったものと思われる。「サザエさん」は舞台が博多から東京に移ってからは昭和26年以降、「となりのトトロ」は昭和30年代前半が舞台である。おそらく、当時は下着が見えていても、お尻丸出しではないから構わない、という感覚だったのではあるまいか。
そして、もしもショーツ型ブルマーが広がったきっかけが東京オリンピックだったとしたら、それは昭和39年前後のことのはずだ。つまり、この戦後生まれが大人になった頃である。当時の教師たちが、「サザエさん」「となりのトトロ」世代の子どもたちであっただとすれば、ショーツをはいているのだから、ショーツ型ブルマーはまったく恥ずかしいものではない、と思い込んでしまった可能性がある。
一方、それ以降の子どもたちは、下着は見えては恥ずかしいものだという意識に目覚めていた。正確な年代は、「パンツが見える。――羞恥心の現代史」に当たらなければならないだろうが、羞恥心の世代ごとの差が、ショーツ型ブルマーとその軋轢の遠因なのではないだろうか。
アルテは恋愛というテーマを最初に配当することで二元的な要素を多重化している。他には画業の習熟と未熟、貴族と平民、恋愛と師弟愛という三つの二元テーマを最初から盛り込むことができている。多重的な二元対立要素は二元という単純化しやすい構造を複雑化、あるいは解決困難にしてしまうためドラマと相性が良い。例えば恋愛と師匠愛というテーマと、画業の習熟は早くから対立概念になる。アルテは師匠から恋愛に現を抜かしていることは知られないものの、仕事に集中できていないとして叱られる。テーマ外ではフィレンツェとヴェネツィアの二元を持ち出し、帰るべきか帰らざるべきかという二元で更に事態を葛藤に導く。ここでは師匠と収入の二つが天秤にかけられている。お得様の高級娼婦とアルテの関係では、高級娼婦の生き方に対する尊敬と顧客を袖にする娼婦の特性に対する怒りとして葛藤が表現される。
アルテの葛藤はヴェネツィアでも続いている。ここでは家庭教師の仕事に就き、こまっしゃくれた子供の面倒を見る。この子供自体が育ての親と実の親との間で二元対立軸を持っており、アルテ自身もこの娘と葛藤しつつ融和する。さらにこの娘の両親は意見の相違で特に奥方が葛藤しており、最終話付近で奥方と娘も融和を見せる。こうしたドラマの中でアルテは貴族出身者という言い回しを久しぶりに聞いて、技術的な面をアップデートしようとして葛藤した挙げ句倒れてしまう。
至って普通のことを丁寧にやってゆくと上の内容になる。
でも裏側では割としつこいことやってるなと。
ただこれ、対立軸だけじゃなく画家独自の通底する概念みたいなものがだんだん分かってくるようになると更に面白かったと思うんだけど。いわゆる一芸は全てに通じる的な。
自分の周囲にはリベラルな人が多く、自分もまたそうである。周囲からもリベラル側の価値観を持った人間と認識されている(恐らく)
当然、フェミニズムには共感的であり、現在の日本にある数々の女性差別に憤りを覚えている。
ただ、時々、きつくなる事が有る。
ツイッターでフェミニストの女性をフォローしている。知り合いも居るし、有名なフェミニストだからと言う理由でフォローしている人も居る。
TLには「時々」くらいの頻度で女性差別に関する話題や、発言が現れる。
それを見て自分は憤り、早く世の中から女性差別が無くなって欲しいと思う。本心からそう思う。
ただ、時々、きつくなる。
そこではいずれも男性が責められている。特定の個人に絞られている事もあれば、性差別的な男性や犯罪者に絞られている事、特定の性癖の持ち主や愛好者に絞られている事、または男性全体が責められている事が有る。
段々と、参ってくる。「参ってくる」と表現すれば良いのか、良く分からない、嫌な気分になる、脳が重く茶色くなる、だろうか?分からない。
理由もはっきりとは分からない。男性全体なら兎も角、ロリコンや(自分はロリコンではない)、痴漢が糾弾されているのに、そうでない自分がストレスを感じる理由は無い筈だ、
そう頭で分かっていても、その発言に男性嫌悪を感じ取ってしまう、被害妄想だ、(いや、しかし男性嫌悪を抱える女性は実際に存在するだろうし(それが正当な事もあろう)そこで男性嫌悪の感情を表に出すために痴漢を使う事も絶対に有り得ないとは言えないのでは無いか?)などと勘繰ってしまう、それ自体救い様の無い妄想なのか、1%くらいは合っているのかも、良く分からない。
そんな懊悩は全く見せない様にして、さも「私こそ完璧なリベラルでござい」って顔で、リベラルな男性を演じている。
オタクでありながらリベラルである、というのがどういうモノであるか、イメージを出来る人がどの位の割合なのか、いまいち実感は無いが、兎も角居る。
表では、フェミニズムによる表現への批判を分かったような顔で読み、同意を示したりする。そこには本心の同意もある。
女性を蔑視する様な表現は勿論公に出す事は許されない、ゾーニングするべきだ。女性を性的に消費するコンテンツは・・・・・
考えれば考えるほど、いや、そうじゃない、考えない様にすればするほど、分からなくなる。
私は考えない様にする、ゾーニング、しかし「公」とはどこまで?ネットも?民間の組織である赤十字も?コンビニも?どこまでがアウトなのか基準は?私刑では?BLは免罪されるのか、男性を消費する場合は、3次元は?ジャニーズは?objectificationをモノ化と訳すのは誤解を生まないか?元の論文ではobjectificationが全て悪いという話では無かったはずだが、では悪さの基準は?本当に巨乳の女性を叩いていないのか、実際に居ると本人がスクショを上げていたが、ルッキズムはアニメだけじゃなくジャニーズやBLやドラマや俳優やほぼ全てのテレビ番組や女性の好きなかなり色んなモノが該当するのでは?
・・・・そういう事は考えない様にする。
どうせ表には出せない、出せたとしても、何かしら上手く回避した説明や言い訳が返って来るだけだろう、そこで公正で偏りの無い答えが返って来るという信頼を自分は持てない。しかし、何故そんなにも自分はいつの間に色んな者に対する信頼を失くしてしまったのだろう・・・・。
宇崎ちゃん、キズナアイ、ラブライブ、彼方のアストラ・・・・他に何が有ったっけ?思い出せない、随分忘れっぽくなってしまった。
それらが次々に叩かれて、それに納得したり、納得できないのを考えない様にしたり、そうして納得したふりで遣り過ごして、を繰り返して。
疲れてしまった。
時々、TLにフォローしてる人がいいねしたツイートが流れて来る。
フェミニズムへの疑義や、控えめに矛盾を指摘したツイートを、あの人がいいねしている。あんなに普段リベラルっぽい人が、男性が、
とても苛烈な男性フェミニストをフォローしている。彼には私の様な迷いは全く見えない。妙ないいねも見たことは無い。
そんな彼が、最近、シスヘテロ女性やフェミニストによるトランス女性差別を厳しく批判している。
彼の態度は一貫している。私等及びもつかないほどリベラルな価値観をきちんと内面化している彼が何であろうと差別に厳しい態度を取るのは当然だろう、でも、
ふと、考えてしまう。彼もまた、フェミニズムによる男性批判に納得がいっていなくて、トランス女性差別はそんな彼の鬱憤を晴らすのに格好の機会だったんじゃないか?
多分、そんな事は無いのだろう、でも、そんな想像をしてしまう。
女性と話す事もあまり無い、仕事で話す機会もあるが、兎に角下心と思われない様に細心の注意を払う。リスクだからではない、私の様な男が女性に好意を持っている等と誤解されて、「キモい」と思われるのが怖いからだ。
私は女性が怖い。
「キモい」と思われる事が怖い、しかし、顔も、行動も、客観的に見れば「キモい」と思われても仕方が無い。
リベラルである事で得をする事は無い。当たり前だ、得をするためじゃなく、正しいと思うから、そうしている。
フェミニストっぽい発言をする時も、もちろんそうだ、それで得をする事は無い、ただ差別は有ってはならないという当たり前の信念の下に、発言をしている。
ただ、時々、分からなくなる、彼女らは俺より不幸なんだろうか?
地獄の様だった学生時代の苦しみが何も清算されぬまま、今自分は成人ヘテロ男性であり、つまり強者で、加害者で、抑圧者で、悪である。
学生時代の苦しみは、一体何だったんだろうか?あの時の加害者の中には女性もいる。彼女は弱者で、自分は強者である。
キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人がフェミニストとして、男性を糾弾する。
俺は一体何なんだろうか?
ずっと罪悪感が有る。
石の様に残っているのではなく、スライムの様に、日々追加され、合体していく、TLを流れるツイートを見る度。
そう言う罪悪感を男性に持っていて欲しい女性と、そうでない女性が居る。両方居る。
片方の女性は「そんな罪悪感を持つ必要は無い」と言うだろう、でも、もう片方の罪悪感を望む女性には言及しない。ずっと、女性は見ている。
こんな事はツイッターには書けない。こんな考えを持っている事は周囲の人は知らない。迂闊ないいねは絶対にしない様にしているし、懊悩もおくびにも出さない様にしている。完璧にリベラルだと思われているだろう。
私はこれからも、リベラルを続ける、フェミニストを続ける。疑いも懊悩も表に出さない様にして、
既に若干病んでいる気もするが、離れるつもりは無い、そもそも正しいと思っているから続けている、正しいと思う物から離れる事は出来ない。
疑いを表に出して、例えば周囲の人に解決を委託する、という事もしない。
正直に言って、それが出来る程頭の良い人は居ないか、頭が良い故にそれが出来ない人しか居ないと思っている。
こんな長い駄文を読んでくれる人が居るかは分からないが、居たとして、
出来れば、この駄文を単純化したり、カリカチュアライズしないで欲しい。そういう風に書いた。できるだけ取り留めも無く、よって、感想もうまく考えられ無いような。
海外旅行に行く「自分」がかっこいいと思っている部分は心の中に少しはある。
それは否定しないが、「煎じ詰めればその自意識だろ」みたいに話を単純化したくなくって、それ以外の部分もちゃんと言い当てたくって、じゃあっていうと、海外は知的好奇心や冒険心が心を動かして、わざわざ準備していきたいと思う。
でも国内旅行ではその「あの地方ってリアルがさっぱりわからない」「ちょっとハラハラするかも」みたいのがなくて、ただ「めんどくさい」になってしまう。
多分、自分が一人の旅に求めるものが「心の底からリラックスする」とか「楽しませてもらう」じゃなくって、「自分の中の謎に挑む」「ちょっと油断したら迷って放り出されてしまう孤独と隣り合わせの自由」「一瞬だけ誰も俺を知らない世界」「そんな地獄か天国かわからないところからの日常への帰還」みたいなものだからじゃないかなって思う。
国内旅行や国内旅行勢を批判する気はないけど、旅行趣味でも話し合わないことあるよなーって、そういう人もいるかなって思って。
最近アメリカの暴動が話題になってるからreddit巡回してるんだけどやっぱリアルはちげーわ。
ニュースだと警察が悪いとか略奪が起きててやばいとかなんか単純化されがちだけど、現場の映像見てたらもう何が嘘で何が嘘かわからん。
公園で立膝付きながら演説してるだけで連行される黒人のデモ隊リーダー。
デモパレードに混ざりながら「トラックひっくり返そうぜ」と煽った途端「は?ふざけてんのか?」とデモガチ勢にボコボコに詰められるtwich配信者。
自宅の庭から見物してたら「家の中に入れ!」と有無を言わさずゴム弾を撃ってくる州軍。
「略奪なんかさせねーぜ」とARでがっちり武装しながらにこやかに笑うレッドネック。
トランプが言うように極左の謀略なのかそれとも国民の本当の声なのかはわからん。
けどとにかく現場はしっちゃかめっちゃかで何が起きてもおかしくない。