はてなキーワード: 八卦とは
「易経」をご存知だろうか。
当たるも八卦当たらぬも八卦でおなじみの易占のテキストであり、儒教の四書五経の一つである。
周の時代に成立した書であるゆえ、これを出典とする言葉や名前も多い。
有名どころでいえば「観光」、「啓蒙」、「維新」、「資生堂」などである。
易経には、「陰」と「陽」の組み合わせで全部で64の「卦」が書かれている。
「卦」はそれぞれ漢字一字または二字の題がついている。
そして、それぞれの「卦」は、六つの「爻」と呼ばれる節から構成されている。
詳しいことは各自ググるなり本を読むなりしていただきたい。
さて、この易経の第三十五卦は、「晋」である。
人名にもよく使われる字である。
そして、皆様ご存知の日本のとある政治家の名前にも使われている文字である。
「晋」の「三爻」には、「衆允。悔亡。」とだけ書かれている。
三浦國雄による読み下しと訳文は以下の通りである。
読み下し:衆允とす。悔亡ぶ。(しゅうまこととす。かいほろぶ。)
日本語訳:みんなから信用され、難儀が消える。
「晋」と「三」から成るあの政治家の名前は、もしかしたら易経に由来しているのかもしれない。
由来は関係ないとしても、占いに頼っていると週刊誌に報じられたこともある彼のことだから、「易経」のこの文言のことは知っている可能性が高い。
そして彼は、自身の名前と関連のある「衆允とす。悔亡ぶ。」を自らのモットーにしているのではないだろうか。
周りの友人たちから信用され、難儀は消さないといけないと考えて、これまでに数々の大混乱を引き起こしているのではないだろうか。
あるいは、居直っていれば、一般大衆からも信用されて、悪い局面は無かったことになるとでも思っているのだろうか。
彼は、「易経」の教えに従っていれば何とかなると思っているのかもしれない。
でも、彼のやっていることは、悔を允にしようとして、衆が亡びる道を作っている。
もうかなり前の話になるが,私も大学受験に失敗し,浪人をすることになった。
(することになった,というのは,したくてしたわけではないからである。)
人生で初めて,目の前が真っ暗になるような思いを味わった。
どうすればいいのかわからず,途方に暮れた。
そのとき,書籍等を通じて様々な先達の経験に触れ,それに励まされてなんとか乗り越えた。
これは遠い昔の一受験生の出来事であるが,ふと思いついて,自分が励まされたように,何かの役に立てばと思って書いてみた。
時代が変わっているので,個々の科目の勉強法等は記載していない。
大事な試験で失敗してしまい,失意の中にある人が,捲土重来を期すのに少しでも役立ってくれれば幸いである。
人生で最も勉強をしたのは,大学受験に失敗し,浪人生活を送った時だった。
その当時は自分なりに辛い思いもした。しかし,その分必死になって努力を行い,いかに状況を打開するかを日々考え抜き,最終的に結果を出すことができたので,得るものも大きかったように思っている。
なお,前提として,私は小中高と地方の公立学校で育った者である。塾にも浪人時代を除いてほとんど通ったことはない。
高校時代は部活をやっていたので,高2の冬までは授業を普通に受けていただけだった。志望校を決めるような段階になってからやばいと思って「受験生」になった,というのがバックボーンとしてあるので,以下の文章はそれを踏まえて読んでいただければと思う。
それまで特に勉強において壁にぶつかったこともなかっただけに,不合格の衝撃は当時の自分にとっては,人生初のものだった。
第一志望しか受験していなかったので,選択の余地なく浪人をすることになったが,仮にすべり止めで合格を得ていたら,果たして浪人という選択ができたか,全く自信はない。
それくらい,浪人するということについて,落胆していた。
同級生のうち,現役で受かった者が嬉々として大学生活に入っていく中で,少なくとももう一年,いろんなものを我慢して勉強に向かう生活を余儀なくされるというのは,たまらなくつらかった。
ひととおり落ち込み終わった後で,考えたのは,一つには,終わってしまったことを悔いても何もこの現実を変えることはできないということだった。
現役で大学生になる身近な同級生を想像し,なぜ自分はそうなれていないのかと身悶えせんばかりに考えたときもあったものの,いくらそのように思ったとしても何も現実は変わらない。過去に属してしまったことは,もう客観的には変えることはできない。そうだとすれば,今できることは,その意味付けを変えることしかないと思った。
今身を切るように辛く感じられる大学不合格という事実も,たとえば,次の機会に晴れて合格し,20年,30年も経てば,なかったことにはできるわけではないが,その影響は極めて小さくなっているだろうと言い聞かせた。
またおそらく世の中の評価というのは,失敗の数で評価されるわけではないとも考えた。人の失敗の数を覚えている人は多くない。そうではなくて,失敗の数があったとしても,結局のところ成功の数がいくつあるかが重要だろう。
そうだとすれば,まだコントロール可能な範疇に属している,未来を変えることで,過去の出来事の意味合いを変化させるしかないのではないか。
来年の合格という成功によって,今年の不合格という失敗を塗りつぶすしかないと考えるに至った。
期間はあまり覚えていないが,ここまで考えを整えるのに1か月くらいはかかったのではないか。
以上で考えたように,今年の不合格という意味合いを相対化するためには,来るべき「次」の受験で,必ず合格しなければならない。
再来年では駄目だ。また実力だけ伸ばしても駄目で,仮にいくら模試の成績が良かったとしても,現実に合格できなければ全く意味がない。
このようにして,「次」の受験で,「必ず合格する」ということを目標として設定した。
目標が定まった後,「必ず合格する」とは,どのような状態かと考えた。合格する可能性があるというだけでは駄目だと思った。可能性だけならおそらく今回もあった。「受かりうる」というだけでは足りない。「次の一回」で「必ず」合格しようと思えば,「受からないということがない」,「どうやっても受かる」という状態にまでもっていかなければならないと思った。
自分の中では,「100回受けて100回受かる状態」というのを一つの基準としていた。
そうなるためにはどうしたらいいのか。
受験において,本番で出題される試験問題そのものはコントロールできない。
自分が得意な問題が出るかもしれないが,苦手な問題が出るかもしれない。
そうだとすると,たとえば100回試験を受けた際に,自分が得られる得点ないし全体の中での自分の順位としては,一定の幅が生じると想定した。
自分が得意な問題が出れば点数ないし順位は良くなる。苦手な問題が出ればその逆となる。その幅と位置が自分の実力を示していることになる。
受かる可能性があるというのは,自分の中のベストの結果のときに,それが合格ラインを超えているということだ。すなわち,上で述べた実力の幅の上端が合格ラインを超えていることである。そもそもここが合格ラインに届かないというのでは,合格確率は0なのであって,話にならない。
自分の実力を客観的に見積もったときに,現役の受験時点でも,得点幅の上端は合格ラインを超えていると思った。しかし,全体として超えているかというとそうではなく,大半は合格ライン以下に位置していたのではないかと分析した。
この状態だと,運よく自分の実力の上端付近が発揮できるような問題であれば合格という結果になるが,そうでなければ不合格という結果になる。
以上の思考過程を経て,「必ず」合格するという状態を実現するためにすべきこととは,自分の実力を示す得点幅の下端を合格ラインより上にもっていくことだと規定した。その状態が実現できれば,どんな問題が出題されても必ず合格できる。
このようにイメージした。
次に,得点幅の下端を合格ラインよりも上に上げるためにすべきことは何かと考えた。
ただちにこうすればいいということまではわからなかったが,とりあえず実現すべきこととしては,得点できるはずの問題を必ず得点するということだった。先のことはわからないが,最低限,このことを徹底しなければならないと思った。
それだけでいいのかは,未知の領域なので不明であったが,得点幅の最下端を合格ラインよりも上にしようと思ったら,少なくともこの程度のことは実現できていなければ話にならないだろうと思った。
先に述べたように,受験の本番では,試験問題はコントロールの範囲外である。受験会場に来てしまってからでは,いくら「ここを勉強しておけばよかった」と後悔しても,その時点で知らない知識は答えようがない。試験の現場でできることとしては,そのときに持っている力で解けるはずの問題を確実に解くことだけである。
この視点は,いろいろなところに適用できるが,たとえば時間配分のところにあてはめると,「解けない問題で時間を浪費して,解けるはずの問題を解けないということを起こしてはならない」ということであると思った。
また,当時よくしていた勘違いなどのケアレスミスも,本来解ける問題を取りこぼす可能性があるので,起こしてはならないことになる。
これらは,本来解ける問題をこぼしているという点では共通しており,このようなことがあってはならない。
受験本番までは実力自体を向上させることももちろん目指さなければならないが,それと同時に,試験当日に,その時点で持っている実力すべてを最大効率で得点につなげられるようにしておかなければならない。
その観点から,模試などを受けた場合の振り返りとしては,正解したかどうかはあまり気にせず,正解できなかった問題があったとして,「その時点で正解する可能性がなかったのかどうか」を入念に確認した。
知識が足りなかったなどの理由で,そのときは正解する可能性がそもそもなかったのであれば,それはその時点ではもうしょうがないので,ただただ後日正解できるよう,知識を補充するなどして実力向上を図るというだけのことである。
一方,その時点で正解できたはずの問題を取りこぼしていた場合は,全力で悔しがるようにした。
「必ず」合格するという目標達成の観点からは,このような事態は絶対に起こしてはならない。
そのようなことをしている限り,「必ず」合格するという目標は達成できないからだ。
その場合,正解できたはずの問題をとりこぼさないために,なぜそのようなことが起きてしまったのか,再発防止策として何が考えられるかなどを必死で考えた。
以上は基本的に自分の中だけでの問題であるが,一方で他者との比較の視点も生まれていた。
正解可能性について考察しているうちに,自分が正解できなかった問題について,他の受験生はどうなんだろうかという視点が生まれたのである。
自分が間違えた問題の正答率が高かった場合は,それだけ多くの受験生に差を付けられたことを意味するのであるから,試験結果に与える影響は極めて大きい。一方,正答率が低かった場合には,大半の受験生もまた正解できていないわけなので,差を付けられた受験生の数が少なく,試験結果に与える影響は少ないということになる(極端な話,正答率が0%の問題であれば,全員が間違えているということから得点という点だけみればその問題はなかったのと同じであって,間違えたことの影響は0である。)。
このような視点で各問題ごとに正答率を確認するようにすると,感覚的には一般的に明らかに簡単と思われる問題でも,正答率が100%ということはないということに気がついた。受験生は,ごく簡単な問題でも意外と間違えてしまっているのである。
この点に気づいたときには,大げさにいえば勝機を見出した思いがした。
とんでもなく難しい問題まで正解できるようにならなければ「必ず合格」という目標が達成できない,ということだとすると,その難易度はかなり高い。
難問というのは,どんな問題が出るかもわからないから難問なわけで,対策という意味では容易ではない。
しかしながら,正答率が高い問題を取りこぼさない(他の受験生に差をつけられない)ということは,意識して徹底的にやりさえすれば実現できることだと思った。そして,これがきちんと実現できれば,成績的にはかなりのところまでいけそうだと思った。
時期的には,浪人になって最初の方で行われる模試の結果を分析してこう思ったはずなので,わりと早い段階でこのような確信を得られたのはありがたかった。
以上から,正答率が高い問題を重視し,かつ,それを絶対に落とさない,ということが具体的な行動目標となった。このように目標が明確になると,自ずとそれを実現するための勉強法も明らかになった。
自分が正解できる可能性のある領域を増やすことを目的とした勉強(塗り絵に例えれば,色が塗ってある範囲を広くするようなこと)も勿論必要にはなるものの,それよりもむしろ正解できる可能性のある領域での正解率を高くする(塗り絵で言えば,色むらをなくし,より濃くするようなこと)勉強を重視すようになった。
より具体的にいえば,復習を重視するようになったということである。
知らない問題よりも,一度やったことのある問題の方が正解率は高くできるはずで,投入する時間に対して得られる成果が高いと思われるからである。
復習は徹底的に行うようにした。特に記憶が重要となる社会の科目などは,一日の勉強の最初には,それまでやった学習内容をさかのぼってかならず目をとおしてから先に進むようにした。
具体的には,使っているノートを基準に最初から前回勉強したところまで必ず全部目を通すということをしていた。それはその一冊のノートを使い終わるまで繰り返した。見直す時間が膨大になってもしょうがないので,時間は一定を心がけていた。勉強が進むことによって見返す領域が広くなることになるが,その分見返すスピードを上げて各ページ毎の見る時間は減らして行った。
ノートの最初の方であればあるほど,何度も目にしているので,時間が短くても問題なかった。時間よりも回数を重視し,回数を繰り返すことで,記憶への徹底的な定着を図った。
これは面倒に思うかどうかだけで,誰にでもできることと思う。そして,記憶力に個人差は多少あれど,何十回と接触した内容については,誰でも記憶には定着しやすくなる。とにかく,一度学習した内容を,二度と忘れたくなかったので,そのようにしていた。
そのような学習法を実践していたことで,知識系の問題については,絶対の自信がついた。
当時は,記憶違いということはほとんど起こりようがないような状態を実現することができていた。
以上のような勉強法を行ってきて,浪人の夏に大学別の模試を2つ受けた。
これはその大学を受ける受験生であれば,たいてい受けるという種類の試験だったので,模試とは言え,その時点でのその大学を受ける受験生の中での位置付けを図る重要な試験だった。
「100回受けて100回受かる」という観点から,冬の大学別模試で100位以内に入ることを目標としていた。
当時,志望学部の合格者数が600名程度であることから,少し目標としては高いかと思ったが,これくらいが実現できなければ,安全圏にあるとは言えないので,あえて高めの目標を掲げたつもりだった。
蓋を開けてみると,夏の大学別模試のうち,最初に結果が返ってきた方は,79位だった。
自分で定めた目標をクリアできたので,非常にうれしかったのを記憶している。
想定していたよりも成績がよかったので,浪人生活全体を通して,このときが一番うれしかったように思う。
(それでも,これは単なる模試に過ぎないので,この程度の成績で油断はいけないと自分を戒め,喜ぶ気持ちを押さえつけた。)
しばらく経つと,もう一つの大学別模試の結果が返ってきた。そちらは20位だった。全く想定しておらず,正直自分でもびっくりした。こんなに結果が伴うとは思ってもいなかった。
ただやはり,「まだ受かったわけでもなんでもないので,いくら模試の成績がよかったところで,本番に受かるという目標が達成されたわけではない,油断だけはしてはいけない,もっと取れたはずだ」と自分に言い聞かせるのに必死だった。
その後も大きな方針を維持したまま勉強を続けたところ,冬の大学別模試では13位と14位という結果だった。
受験本番はどうだったのか,順位は発表されないので分からない。
予備校の発表する模範解答に照らして行った自己採点結果は悪くなかったし,結果はもちろん合格だった。
合格を確認したときには,うれしいというよりは,ほっとした。精神状態としては,「受かっているかどうかドキドキする」という状態ではなく,「絶対受かっているはずだが何かの間違いで落ちてないだろうな」という気持ちだったからだ。
方法論は人に合わせて千差万別なので,以上の方法が唯一絶対ではないと思う。
全く同じ人間が一人としていないように,誰にもピッタリと当てはまる万能の方法などというものはない。
それを前提として,自分の浪人生活のうち,成果につながった要素を抽出するとすれば,以下の点ではないだろうか。
まず一つには,本気で結果を出したいと思っていたことだと思う。
何事につけ,物事には障害がつきものである。そのような前提状況の中,何も考えずにただ臨めば,結果が出るかどうかは当たるも八卦当たらぬも八卦のような確率論に終わってしまう。
「本気で結果を出したい」というのを行動に置き換えると,「受験の優先順位を上げ,その他のことはどうでもいいと考える」ということである。本気でそう思えれば,遊びたいとか,のんびり寝ていたいとか,そんなことは気にならなくなる。
それは「誘惑に打ち勝つ」ということとは感覚的には少し違う。誘惑を感じている状態は,まだ本気度が高い状態とはいえないと思う。本当に結果を出したいと思って,その状態に入ったときには,その他のことは本当にどうでもよくなる。
「その他のことはなんでも差し出すから,とにかく希望している物事について結果を出させてくれ」という心持ちになる。そのときは,優先順位が二位以下のものごとは些事である。
そのような状態に入れると,仮に何か障害が生じたとしても,手段を尽くし,工夫を尽くして,結果にたどり着くという状態になる。
時間にしろ,エネルギーにしろ,資源が有限である以上,その中で一つの結果を確実に出そうと思えば,何が何でも結果を出したいという状態に自分を持っていくことが必要になる。
不合格という現実に直面したとき,何度も「嘘でしょ。結果を取り替えてくれないか。」と何度も思った。しかし,一度出た結果は変わらない。これが現実である。
自分の周りの環境は自分でコントロールすることはできないということをまざまざと体感した。
不合格を回避したいという思いを,エネルギーを,合格への執着へと昇華させることはできるはずだ。
二つ目は,以上の状態を前提として,「結果を出す」ということを実現するためにどうすればいいのか必死で考えたことではないかと思う。
先に記述した思考過程を経て,自分なりに結果を出すために必要な条件を考え,それを満たすためにひたすら実行した。
小中高と地方の公立学校で育ってきて,全国規模で自分が試されたことも位置づけをはかったこともなかったため,余力を残すという発想がそもそもなかったということも幸いした。
自分みたいな遅れて必死になった者が全国レベルの受験生を相手に確実に合格するという状態に達するためには,とにかく妥協なく徹底的にやり切る以外にはないと思っていた。
後にも先にもこのときほどストイックになったことはない(なお余談だが,このときにあまりに想像以上に結果が出てしまったため,後になってまた別の試練に立ち向かうことになった際に,「あそこまでやらなくてもいいだろう」と無意識に思ってしまい,無駄に回り道をすることになる。何事も,やるなら最初から本気でやるべきである。)。
当時,浪人時代は灰色一色で,とても精神的につらいものであったが,きわめて得るものの多い時期でもあった。
生活のことは親に完全に甘えられる時期であり,徹底的に勉強のことだけ考えていればよかったという意味では,むしろ幸せな時期であったともいえる。
浪人時代を通じて,物事に本気になるとはどういうことか,結果を出すとはどういうことかなどを身をもって体験することができ,その後の人生にも大きないい影響があった。たまたま運よくラッキーで現役合格してしまっていたら,このように自分を振り絞るような努力をする機会は得られなかったの
そやねー
師弟つながりでよければ、
ネットでしか見られないはずのメンターの講演会も東京でならちょいちょいあるかもしれんけど。
あとはもう納得できるまで、
筮竹のかわりにトランプつかえる「当たるも八卦」易経の本も安いぞ
蛇足だがダウジングのコツは設問をアリそうなイエス・ノーで設定しつつたくさんトライすること。
「今日は早くかえったほうがいい?」とか。
とか前提文もしっかり入れる。
そしてダウジング仕草としてはあまり派手にならなくてこっそりできるのがあるぞ。
慣れるとそのうちなんとなくコツがつかめるぞー
そしたら「東京or地方」の大きくても設問を細かく噛み砕きながら占えるようになるぞ
いやはや、あきれた御仁だな。
こちらが
と言ったら、それに対して
と来た。何を言ってるんだか...
そもそも、あなたが何を言おうが(言うまいが)、確率的にしか把握できないことは世の中にたくさんあるということ自体は事実ではないか。事実を述べたら偏見だなんだとわけのわからないことを...
で、あなたが就活生かどうかでこの事実が変わるわけじゃないだろ。(それとも、なんだ、「自分が就活生なんだから、確率的にしか把握できないことは世の中に無い」とでも言いたいのかい?)
と言うけれど、誰も「当たるも八卦で採用している」などとは言っていない。確率的にはどうのこうのと言う話をしている。
高学歴の方が仕事ができる確率が高い。つまり、採用の効率を高めるために学歴フィルターをかけてる。低学歴だけど仕事が出来る人は存在するけど、確率的には低い。
おれが紙飛行機折って調べてやるヨ。
と言っている。学歴フィルターよりも紙飛行機の方が当たる確率が高いとでも言いたいのだろうか? 紙飛行機を飛ばすのは当たるも八卦ではないわけだw
ある人はこのように言った。
男は子孫を残すためにより多くの女性とセックスをしようとする。
しかし、女性はそうではない。セックスした相手を大事にしようとする。
Bullshit.
女にだって性欲はある。20代後半の男性がそろそろチンの硬さを不安に思い始める一方、同世代の女性の性欲はうなぎのぼり。とどまることを知らない。
女があんまり公に寝散らかさないのは、この社会に根強くはびこる「ビッチ」に対する強い偏見を内在化させているからだ。
カジュアルセックスの真っ最中に、多くの男がチンを突っ込んでいる相手を「軽い女」と心の中で見下しているのを女たちは知っているのです。
それで付き合ってもない人たちとセックスしている自分自身が、なんだかすり減ってるように感じてしまうのだ。
筆者は30を境にして性欲解放の覚醒の時を迎えたのだが、女性の楽しい性生活に関してあまりにも女性目線の女性のための記事が少なかったので、
男も女も、女がカジュアルセックスを楽しむために少し心持ちを変えてみたらどうかと思ったのです。
Tinderなど特に便利。お金払えばプロフィールを自分が選んだ相手にしか表示できないようになるし、プライバシーも保護できます。
この人となら寝てもいいと思う人を右に〜右に〜スワイプ。
ただ、エチケットとして真剣な相手を探していそうな人は避けよう。
自分もカジュアルな関係を探していることを匂わすために、自己紹介文を短くしたり、旅行中!などにすると伝わりやすいです。
あまりに大っぴらにセフレ募集中!と書くとうざいくらいメッセージが届いて大変なことになります。うまくさじ加減を。
私はシャイなので一回目のお酒でベッドまでいけることもあれば、三回目まで待たねばならないこともあります。
まぁ三回目で寝れるなら悪くないよね。
ちゃんと人の話聞いてない。→あなたのことを完全にマンと見てるかもしれません。最低限の誠意を持って人として扱う人がいいです。前に話した内容とか覚えてるかな?
完全に身元不明→なんの仕事してるとか聞いてみましょう。インターネットで検索してもいい。
生で入れようとする→Tinderなど使ってたくさんの女とセックスしてるはずなのに、性病の危険に対して無自覚なのはセフレになる資格のない男です。
セックスした後に急に態度が冷たくなる→残念くじを引いてしまいましたね。最低限の誠意のある人を選び直しましょう。
(自分か相手の住まいでセックスしたときに)セックス後すぐに帰ってほしそうにする→同上。
まるでこの関係がセフレから彼氏・彼女になりそうなことを匂わす→不誠実なクソ野郎だし、セフレになる資格のない男です。
ロマンティックなことを言ってくる→愛情のあるような素振りをされたら、こっちだって人間だし心が動きますよね。何を考えてるのでしょうか。
彼女や妻の存在をちらつかせる→いらない情報だし、嫉妬させようとしたいのでしょうか?
まとめ:あなたをちゃんと人として扱わない人や、関係性の線引をせずにあなたの気持ちをコントロールしようとする人はセフレには向きません。
コンドームを持参しよう。
当たるも八卦当たらぬも八卦。いいセックスができるように全力を発揮しよう。
ワンちゃんになる可能性もあるので、恥じらいを捨てて自分の触って欲しいとことか好きな体位とか伝えて、満足のできるセックスができるといいですね。
またできるように関係を保ちましょう。
相手が勘違いしないように、お互いに自分が何を求めていて、何を求めていないのかをちゃんと伝えるのは、本当に大事!!
これをしくじると変な勘違いや被害者意識が生まれたりするので、相手を傷つけないで楽しくセックスしましょう。
他の線引の方法としては、相手のパーソナルな部分に踏み込まないようにしましょう。
誕生日、バレンタイン、クリスマス等のイベントを豪華なプレゼントで祝わないこと。むしろ全く祝わなくてもいい。
相手の勘違いを避けようと距離を置くことは冷たいのではなく、誠意です。
女性はセックスの最中に脳で幸せと感じる物質が分泌されるそうです(適当)。なので、快楽を愛情を勘違いしてしまうのはよくあること。
好きだという気持ちが抑えられなくなったら
I. 会う頻度を減らす。
III. その人の子を妊娠した自分を想像して、本当にこの人と家庭を持ちたいのか想像してみる。
III.でちゃんと上記の1〜4の付き合い方が守れていたら、あまりにも相手のことを知らないことに気づいて、あ。無理無理。と我に返るはず。
もし「結婚して家庭もちたい!」て思ってしまうようなら、あなたはセフレと恋人の線引に失敗してしまったようです。
あまりセフレを作るのに向いていないのかもしれません。性能のいいバイブを買って楽しくイきましょう。
I. 性欲が強い上に一人の男とのセックスでは満足できない。
この世にはまだたくさんの男との未知なるセックスがあり、未知なる絶頂が待っている。冒険の旅に出よう。
II. 時間がない。
彼氏を作るデメリットは、仕事に割きたい時間を彼氏との時間に割かなくてはいけないことですね。
一緒にご飯食べたり、休日に遊びに行ったり、映画見たり、面倒くさいし時間がもったいない。
サクッと寝る前に会ってセックスして、日中は自分のキャリアのために生産的に使えます。
III. 結婚願望がない/ 別に決まった人がいない・作りたくない。けど性欲はある。
IV. 寝たのに付き合ってくれない、みたいなセックスによって自分の大事なものを失うという感覚がない。
上記のような人はしがらみなく楽しくセックスできる関係が魅力的に映ると思います。
最後に…私の世迷い言を…
セフレで検索すると、たくさんの男のためのウェブサイトが出てきます。
どうやればセフレを作ることができるか、ヤリマンの見つけ方、などのハウツーサイトが多く、まるで女性をモノのように扱っている印象を受けて不快な気持ちになります。
あのねー、女の人ともっと簡単にセックスしたいなら、男性と気軽にセックスすることが女性にとっても普通なんだ、と思わせるような雰囲気を作らなければだめですよ。
ヤリマン扱いされるとわかっても一向に気にしない女性もいますけど、環境を変えた方が絶対にセックスに開放的な女性の母数が増えます。
その方がお互いウィンウィンじゃないですか?
多分ですけど、きっと日本の処女信仰だとか女性の「貞操観念」だとかの言説が男にも女にも心理的な影響を及ぼしているのではないかと思います。
ヤリマンって言葉、女性に対して使うけれど、男性にはそれに相応するような「不貞もの」みたいな言葉あまりないですよね。
色々な女の人と寝てる男の人は蔑まれないけど、女が浮気したり不倫したりしてるのが公になると、すごい叩かれますよね。
前に男友達が、自分は寝散らかしてるくせに、彼女は純粋な子がいい、と言っていてぶん殴りたくなりました。
セックスしながら相手を「軽い女」と見下しているような人が減ればね、
女は付き合っていない相手とセックスしても、自分が「損なわれてしまう」というような気持ちにならなくなって、
ダマされた番組を観ていて、ある芸能人が町ぐるみでダマされていたのだけど、単純に良い子だなあ…って感動してしまった。
自分にはもうない、心の綺麗さや人を信じると言う行為を大人になっても失わず、人のことで涙を流せるって、素敵な子だなあ。可愛いなあ。こういう子はこのまま生きていけたら良いのになあ…って思ってしまうのだ。
とても演技でやってるようには見えない。
それと同じでいつだったか、芸能人の乗っているタクシーに幽霊が現れたら…みたいな番組があって、幽霊について行ってもいいか聞かれた芸能人が、了承するシーンがあった。
どうして了承できるのか私は神経を疑った。幽霊について来られても除霊する力もないのに困るだろうって思った。
同時にやはり良い子だなあ。きっと心がピュアなんだろうなあ…と思っていた。
ところがその話をすると、ヤラセでしょ?と言われるのだ。
失礼な話、どちらも演技力があるようには見えないので、つい本当なんだと思っていたのだけど、テレビ番組なんだからヤラセの可能性はゼロではないのかもしれない。
もしヤラセだとしたら、それに気がつかずに信じている私こそがとんだ騙され易い人だと言うことになる。
こう言っては何だけれど、私は周囲の誰よりも疑い深い性格をしていて、なんとか商法とか押し売りの類だとか、勧誘だとかに引っ掛からないタイプだと自負していたのだ。
だからと言うわけでもないけど、いまだにあれらがヤラセだとは思いきれずにいた。
けれどここに来て、やはり実は自分は騙され易い人なのかもしれないと思い始めている。
ある広告に惹かれて仕方ないのだ。
商品は売るためなら手段は選ばれないし、もっともキャッチーなコピーで宣伝されるものだ。
たまに失敗してるのもあるけど。
少なくとも努力なしで痩せる薬は麻薬だし、福袋は素人のアルバイトが詰めている。
もしくは在庫処理も兼ねていて、少しも福じゃないことが殆どだ。
宝くじは自分じゃない誰かが当たるものだし、占いは当たるも八卦当たらぬも八卦。
朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代の朝鮮における貴族で実業家。日本名は山崎 永春。
目次 [非表示]
1 生涯
2 家族
3 その他
4 登場するテレビドラマ
5 脚注
6 出典
7 関連文献
生涯[編集]
判書大監朴元陽の子として京畿道水原に生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉の支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在の大韓民国国旗である太極旗のデザインを考案したとされる。朴泳孝が日本に派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると、8月9日に仁川から日本船籍の明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンとイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦と太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長が八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日、神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日、太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。
帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派(事大党)の反対に遭って挫折。さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデターで閔妃派からの政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本へ亡命。慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。
光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本に亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣の宮内府大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島に流刑処分とされた。
隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵(朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会会長(1911年)、朝鮮銀行理事(1918年)、朝鮮経済会会長(1919年)、朝鮮維民会会長(1919年)、東亜日報社初代社長(1920年)、朝鮮人産業大会会長(1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮総督府中枢院顧問(1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長(1922年)、貴族院議員(1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職を歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府が編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。
今日新人が1人辞めた。会社玄関前には彼に支給していた上着と携帯がひっそりと置かれていた。
携帯にはメモ書きが貼り付けられており、そこには「私は●●株式会社を退職します。これからは自分の夢に向かって頑張っていきます」と書いてあった。
今更もう「今頃の若いやつは…」なんて言うつもりもない。だって俺も過去にやったことあるから。(俺の場合は当時高校生のバイトだったけれども…)
人を入れるのは難しい。彼なりに色々と会社を判断したってことだろう。肌に合わない、給与が低い、激務…俺では計り知れない思いが彼にはあるのだろう。
人を入れるってのはギャンブルみたいなもんだな。いやおみくじだろうか。当たるも八卦当たらぬも八卦みたいにどっちに転ぶかわからない。
彼の性格がどんなもので、どんな環境で暮らしてきて、どんな学校に行きどんな勉強をしてきたのか。それによって彼の人格は形成され、この会社が合う合わないかを判断し、結果的にこの会社は合わないって結論づけたんだな。
まぁ、色んな考え方、働き方があるし否定はしないけど、バックレ逃走は後味悪いからちゃんと言ってやめたほうがいいな。後で給与のこととか話さないといけないんだからさ。
はい、というわけでまた死にたさがこみ上げてきたわけですが
もちろん生きていれば辛いこともあれば楽しいこともあるわけじゃないですか
でも辛いことと楽しいこと、総量として多いのは、
はい、辛いこととですよね
人生楽ありゃ苦もあるけど、均せばだいたい苦じゃないですか
当たるも八卦当たらぬも八卦だけど、だいたい当たらないじゃないですか
箱を開けてみるまで生きているか死んでいるかわからないけど、だいたい死んでるじゃないですか
じゃあ何で生きてるのって話じゃないですか
生きていれば何かいいこともあるっていうけど、そりゃあ何かいいことくらいはあるよ
でも辛いことと釣り合うくらいのいいことはないよね
圧倒的に辛いこととの方が多いよね
体力は落ちていくし、体臭は強くなるし、髪は薄くなるし、良くなる兆しなんてない
貯金もないし、給料も増えないし、もっといい仕事に就けるようになるとも思えない
残業続きの毎日の中で、これ以上仕事のために自分を削ってまで対応しようとは思えない
実力も無いのに、向上心も無い、そんな屑が生きていて何の意味があるんだろう
もう手遅れなんですよ
まだ間に合ったとしても、毎日野菜を350グラム食べる気もないわけですよ
そんなことを強いられながら生きることに何の意味があるのか
野菜が嫌いなわけではないけれど、毎日野菜を食べなければならないという義務を負うことが耐えられないじゃないですか
私は野菜を食べるために生きているわけじゃないんですよ
仕事をするためでもないし、ましてや自分の限界がどれだけかを知るためでもない
でも他の何か目的や理由もなくって、だからといって本当に死ぬ気もなくて、こうしてダラダラと年を重ねていくんだろう
そう考えるとまた余計に憂鬱になっていく