はてなキーワード: 上水道とは
なぜNHKがあるかというと、それは「メディア」というのがものすごい公共性の高いインフラだからだ。電気ガスより公共性が高い。なくても社会は一応成立するからな。上下水道含めた水利、道路など交通、これらは「ないと社会が崩壊する」レベルの公共性が高いインフラ。メディアの価値もそのくらいある。
なぜなら、俺らの生きてる民主主義社会では「情報を偏在させない」ことが最も重要だからだ。民主主義社会というのは「みんなで判断すればそれほど間違わない」ことを前提にしてる。でもこれは「みんなが間違った情報しか与えられていない」状態だと当然機能しない。だから、独裁をする国ではメディアを規制するし、独裁『したい』国はいつでもメディアを規制できる存在にしておきたい。北朝鮮が前者、そして、後者に限りなく近いのが……言うまでも無いよね。先進国の割に「報道の自由度ランキング」が低い某国なんかは限りなくその状況だ。
NHKが「公共放送」なのに「国営」でないのは(そして視聴料を税金化できない/しないのは)、メディアが「国家」によって所有されたらその国家の運営者に都合の悪い情報が出てこなくなる(情報の偏在が起こる)からだよ。民営化しないのも同じ理由で、広告主に都合の悪い情報が出てこなくなる。複数のメディアが競争し合えばある程度はその状況は防げるかもしれないけど、メディアを全て民間に任せると「(誰かにとって)儲かる情報」しかメディアに乗らなくなるよね。たとえばNHKの報道番組の内容見てみれば分かるけど、どれもこの社会で起きている重要な問題に関わっているけど「どこかの広告主の不快を買いそう」「売れなさそう」なテーマばかり。こういう情報は、NHKが民営化したり「ぶっ潰され」たりしたら、全て消えて無くなって私たちの視界に入らなくなってしまうだろう。
公営の病院、公立の学校、上水道事業、ゴミの収集……等々、この社会には「儲からないけど誰かがやらないといけない仕事」というのはたくさんあって、NTT、JR、郵政が民営化できたからといって、なんでも民営化できるというもんじゃない。NHKよりコンスタントにいい報道をやってる民放、災害時にCMも入れずひたすら繰り返し冷静に情報を流し続ける放送局、そういった点で国民から一定の信頼を得ている放送局、そういうものが民営で他にあるなら、メディアの仕事を全面的に民営化するのもいいかもしれないが、残念ながらそんなものはない。
今のところ、この社会でNHKがしている仕事というのは他で替えがたい。政権の干渉をはねのける力の弱さとか方向性がブレブレとかいろいろ不満や問題点はあるものの、根本においてはぶっ潰されては困る存在であり、ぶっ潰したい人にはその価値が見えていない(あるいはむしろ充分以上に理解している)のだと思う。
先の記事 anond:20190704095800 はたくさんの人に読んでもらえたようで嬉しかったです。もちろんそれは御本家があってのことではありますが。お目汚し失礼しました。
ブクマコメントも楽しく拝読しました。驚くことに、書いてないこともちゃんと見抜かれていてハテナ界隈の方たちのご慧眼に恐れ入りました。だからぼくはハテナのみなさんが大好きです。
なかでも「これはこれで特殊な才能が必要な暮らし方だから、下手に真似しないほうがいいよ」みたいなコメントや「心(精神衛生面)」に興味を持たれているコメントがあって、確かにそのへんのことを書かなかったなあと思ったので、もうちょっとだけ続きます。本当ならあのまま終わりにしておいたほうがキレイなのでしょうが、あえて蛇足をつけて終わりにしたいと思います。
あまり多くの人に読まれなくてもいいけど、届くべき人にちゃんと届いてくれるといいな、と思います。
お金や人の笑顔に直結する能力は「才能」と呼ばれるよ。でも、お金にもならないし誰も笑顔にしないけど他の人には出来ない「能力」もあるよ。これを「異能」と呼ぶよ。
「節約生活がまったく苦にならないどころか、むしろ楽しい」これもきっと「異能」だよ。他にも例を考えてみるよ。
こういうのも「異能」だよ。異能は誰も褒めてくれないし指摘もしてくれないから、自分でも気が付きにくいけど、ちゃんと棚卸しして自覚しておくことが大事だよ。
自分の異能が活かせるフィールドはどこなのか。勝てるフィールドで勝負していくことがだいじだよ。
勝てないフィールドで勝負をするのはやめようね。少なくとも勝てない勝負に全額ベットするのはやめようね。
「社会」では誰もが数字を背負わされて競争させられているよ。学校の先生や病院のお医者さんでさえ、数字を背負わされて競争させられているよ。
でも、何も持たないぼくらは「競争から降りる」という選択肢をもっているよ。
宮本武蔵が「殺し合いの螺旋」から降りたように、ぼくらは「勝てない競争原理」からさっさと降りようね。イチ抜けた。あとはみなさんでどうぞ。
弱いぼくらは、勝てない勝負からはさっさと逃げて、「異能」を活かせるフィールドでサバイブするしかないよ。
この世のあらゆる競争原理からさっさと降りて、らくちんおだやかなせいかつだよ。その穏やかな生活は、あなたにとってお金では買えない価値を持っているよ。
ぼくらはお仕事をする上で仕方なく「時間」と「責任」を切り売りしているけど、「人としての尊厳」まで売り渡したわけじゃないから、その線はちゃんとまもる必要があるよ。
競争原理から降りると、この世のだいたいのことはどうでもよくなるよ。馬鹿が騒いでても頭のいい人が叫んでいても、いっさいどうでもよくなるよ。楽ちんだね。
それでもあなたを競争原理に巻き込もうとする人がいるし、競争してもないのに上下の格付けをしてくる人がいるよ。その人はまだ競争原理の内側にとりこまれているんだね。そんなときは可哀想なケモノを見る目で見てからニッコリ微笑んでこう言ってあげようね。
「そうですか」は魔法のことば。そうですか。そうですかー。そうですか!! そうですか?? そうですかあ? そうですか…。そう…ですか。
「てめえ殺すぞ」と内心思いながら、グッと相手の目をみて「そうですか」とニッコリ微笑めば、丁寧に会話を終わらせることができるよ。べんりだね。
自分のことを虫けらだと思っていると、他人もあなたを虫けらとして踏みつけてくるよ。あなたの自尊心はあなた自身でまもる必要があるよ。誰もまもってはくれないよ。あなただけのものだよ。
「自分の中にある小さな優しさをまもるための最低限の残酷さ」くらいは隠し持ってても誰も怒りはしないよ。
ぼくらは弱いしお金がないけど、この日本に日本人として生まれた時点で、超ラッキーだよ。
考えてご覧。喉が乾いたら公園に行って蛇口を捻れば水が飲めるんだよ。すごくない?
上水道が整備されてるだけじゃなくて、それが飲める国って数えるぐらいしかないよ。しかもそのへんの公園で飲めるんだよ。ちなみに公園の外に水を持ち出すと窃盗になるから気をつけてね。
水だけじゃないよ。スイッチひとつで冷暖房完備だよ。ボタン一つで火がついて料理ができるよ。図書館に行けば本も新聞も雑誌も読み放題だよ。コンビニではおにぎりとお弁当が 毎日たくさん捨てられているよ。
ちょっとすごくない?世界規模でみたら上位数パーセントの環境だよ。この日本に日本人として生まれた時点で、宝くじにあたったような超ラッキーだよ。当たりくじを握って産まれてきたようなもんだよ。お釈迦様もびっくりだよ。
みんな超絶ラッキーなのに、その中でも俺が上とかお前が下だとかいうおばかさんがいるけど、どんぐりの背比べだよ。きっと頭がよわくてなにも見えていないんだね、可哀想なひとだね。
遠慮することないよ。この超絶ラッキーな環境を最大限に活かして愉しめばいいよ。最悪でも生活保護があるからね。
なんなら、自己責任の名の下にぼくらを見捨てたこの日本を、足元から喰らい尽くしてあげようね。
正しいとか正しくないとか良いとか悪いとかじゃないですで。ぼくらには転んでも資産というクッションもなければお金という杖もないので、致命傷を負いやすいし起き上がることすら難しいので。せめて強いこころを。そのからっぽの手に。砂をつかんで立ち上がれ。怒りをこめてふり返れ。
あ、あと背筋を真っ直ぐ伸ばして胸を張って毎日を過ごすことは、とてもだいじです。根拠なんてなくていーです。背筋を伸ばすのにいちいち根拠なんていらないです。
お金の話について | ヨツピー | note anond:20190704095800
続・お金の話について | ヨツピー | note anond:20190707094714
終わりの話について(完結) | ヨツピー | note anond:20190708072506
整備されたら逆に混雑しますとデータを出された石原某がキレて暴走して893というものをお使いになって道路をつくろうと地上げした結果(なお次代に引き継がれた)
失敗したミニ四駆コースみたいな道路的空き地があちこちにあるよ!
玉川上水潰せばいいじゃない発言には乾いた笑いがでたわ。稼働してる世界最古かもしれない上水道が!
あと渋谷を「近代的」にといって工事してるじゃん。イメージ画どこの少年雑誌の未来だよwww昭和だよwwwwもうオッサンやめとけ?としか言えない。なお東横ホームがかなり文化的で天井もシャンデリア的な未だに未来を感じるデザインだったのが唯のパイプになって3倍に圧縮された。ヤバい色々やばい
1992年くらいまで、田舎の実家は汲み取り式トイレだった。上水道は整備されておらず、山から水をひいて生活用水としていた。
台所、お風呂、手洗いなどの蛇口をひねるときちんと水は出ていたが、ときに水道管が詰まったり凍ったりすると大人が水道管を直しにいく。
その頃わたしは鼻炎で鼻をいつもズルズルいわせている小学生だった。山地の高いところに住んでいたので谷間の小学校とは高低差があり、帰り道に延々と急な坂が続くのが嫌だった。順調に地域の過疎化は進んでいて同世代の子供は少ない。
娯楽も友達も少なかったのでテレビが大好きで、テレビのなかのキラキラとした都会を口をあけて夢中でみていた。
トレンディドラマの絶頂期だった。でも何よりもアニメのシティハンターに出てくるビルや街が一番かっこよかった。
最近そんなことを、20歳くらいの女性がくっきりしたメイクをしているのをみると思い出してしまう。
しっかりと塗ったファンデーション、太めにかいた眉、濃いめで発色の良い口紅。あの頃のテレビや漫画から抜け出してきたように感じる。しかもファッションもなんだか80年代風ではないか。
あの頃のメイクが濃く感じるのは90年代以降、化粧にナチュラルさも重視されるようになったから。化粧品の品質向上や多様化もあると思う。
それが今、薄づきファンデやナチュラル感追及の歴史をすっとばしたような若い女性のメイクをみると自分があの頃にタイムスリップした気分になる。
はなしが違うようだが、わたしは韓国のドラマをシリーズとおして見たことがない。映画や時代劇なら好きなものもある。
http://anond.hatelabo.jp/20161003130854
80年代から90年代にかけて、日本は経済的に豊かになった。生活が大雑把に言って誰にとってもよくなったし、多くの人が下層から中流へと引き上げられていったのだと思う。増田自身がそうだというのではなくて、この考え方がどこかにわだかまっているのを感じ取って書いているのだと思うけど、この「『景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい』ってのは非常に傲慢で気が狂った意見に思えるんだけど、どうだろう?」という発想は、そうやって引き上げられて適応できなかった人たちの言葉なんじゃないだろうか。
人類の歴史のうち、記録に残っているのは紀元前精々数千年だけれど、その間でテクノロジーの進歩が止まったことはなかったはずだ。ヒトは消費を拡大し、経済を拡張し、産業を発展させて、生存をより確かなものにし続けてきた。文明、経済や文化の発展とはエネルギー消費の拡大でもあるけれど、生存をより確かなものにするためのものでもあった。
「景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい」というのは、この認識に対する挑戦だと思う。つまり景気は「上昇しすぎた」ので、「おかしい」が、「おかしくなかった」水準があり、そこまで下降することが現状よりも良い、という意見だ。おそらく経済学を学んだ人なら教科書の最初の章で学びでもすることなんだろう ―― そこにはもっと簡潔で示唆に富んだ言い方で書いてあるのだろうけれど、景気は上昇しなければおかしいし、景気を支えるのは景気だ。経済は静的な系ではない。常に動的で、一時的な、その裏にある人間の日常生活を調停するメカニズムに過ぎない。
彼らの語る"適切な規模の経済"には、いつもどこかから富が湧き出てくることになっている。財やサービスが社会システムによって無から自動的に生み出され、それを絞ることで持続性を確保することになっている。そこに規模の経済などもちろんないし、需要と供給の関係もない。代わりにあるのは、供給と受け入れ可能量だ。大衆は受け入れ可能量をもち、与えられた賃金の中で供給を仕方なく消化するが、受け入れ可能量の伸びには限度がある。だから供給は低く押さえることが望ましい、というモデルだ。
景気の爆発によって、多くの人が経済や社会を自分の認識する世界と切り離して考えるようになってしまった。あるいはそういう人が新たにたくさん発言力を得た。株式市場というのは一部の人が遊ぶゲームで、経済政策は美麗字句を書いた文書に過ぎない。小さな好景気や不景気は《降って》くるもので、仕事場と帰りに寄るスーパーと自宅の外のことは、そういった仮想世界での事件とは何ら関係なく、「おかしくなかった」水準で永遠に続いていく。これらの人々は胡蝶の夢のごとくそう思い込んで、「仮想世界にのめり込むのはやめよう」と言っているようにも聞こえる。増田の意見、そしてそれに類する意見を見るたび、そういう違和感を覚える。"現実世界"から"仮想世界"のものを排除して、きれいで質素で、自分が必要だと思ったものは無から湧き出ることで変わらず存在していて、必要がないと思ったものはきちんと栓を閉めたのでどこを探しても残っていない、そういう過不足のない世界を作るんだという幻想がそこに見える。
でも、うまく言えないけど、そんな"仮想世界"はないんだ。全国で毎年数百人しか使っていない制度を廃止すると、増田の5親等先から悲鳴が聞こえてくる。平均株価が何ポイント落ちると、コンビニのジュースが何円上がる。コンビニは贅沢か。それなら上水道でもいいかもしれない。飲み水に上水道は贅沢だろうか。
経済は永遠に拡大していくという言い回し、永遠に消費は増え物価は下がっていくというモデルが今一つ心に響かないよ、という気持ちはわかる。しかしそれを理解してほしい。経済は褒めれば伸びる。ときどき発振する。抑えれば、フィードバックがかかってどんどんと落ち込んでいく。スタグフレーションは実在するんだ。支出を抑えて賃金を下げても、誰かの所得が増えるわけじゃない。金の額面は貯めこめても価値は貯め込めない。それは増田も貯金の価値が不変ではないと認めている通りだ。価値は、作らなければ、自然に風化して消えて行ってしまうんだ。
コントロールされた縮小をすれば一定量の幸福を長く保てるなんていうのは幻想なんだ。自分が理解できない経済のメカニズムをぶち壊しても、美徳や気持ちで金銭を置き換えても、その実態は通貨の名前を変えた貨幣経済だ。どうかそれに気付いてほしい。
だいたいの公道はアスファルト舗装がしてあって、雨が降ったからといってぬかるんだりしない。
それは国民が望んだからで、その為に本当に膨大な量のアスファルトが国土全体に敷き詰められています。
上水道の管理は世界一厳しく、そのまま飲めるし、救急車も無料です。
病院や養護施設、保育所まで国は補助金を出しており、利用者はその分割安で利用することができます。
また、農林水産業の一時産業には苗代から機械までかなり広域に助成金を出しているので、本来価格競争に駆逐される可能性のある国産品を国民は消費することができます。
たとえば、最近は自治体窓口の受付時間延長を要望する声も多く、一部ではこれに応える自治体も出てきています。
政府は巨大化していくでしょう。
良く賢しらに「なぜ貧困層は自炊をしないのか?」と煽る馬鹿がいる。
そういう馬鹿に限って、自宅でボーッと待ってればメシが出てくるような生活をしている。
終電も近くまで働いたり、土日も出勤するストレスの高い生活を送ったことも無いようなヤツほどそうやって相手を馬鹿にする。
だから、残念な想像力の人間には理解できない「高ストレス下では意思決定力が鈍る」であるとか「気力」の話はしない。
テレビが映し出す画角の外側を想像できない人間でも判るように、コスパだけで話をする。
ヤカンは持っていて、上水道は引かれており、ガスは使えるとする。
ここでカップラーメンは、伝統的であり満足できる分量であるカップヌードルシーフードBIGを基準にする。
トータル8分+誤差だが、これは待機時間を含む。実働時間は30秒程度となる。
つまり、お湯をわかす準備(10秒程度)+お湯を入れる(10秒程度)+片付ける(10秒程度)
サッポロ一番塩ラーメンに代表されるように基本的に具材を足すのが一般的であり「素」で食うものではない。
野菜を揃え、卵を載せ、各家庭の「具材」の独自性があってこその袋麺なのだ。(それを否定するものではない)
で、良くカップ麺がコスパが良いって話をすると、袋麺と比較する馬鹿が沸くので、ここで比較しておく。
鍋とフライパンと丼、菜箸は持っているという前提を置く。
トータル10分+誤差だが、実働時間は、炒めに3分、準備10秒、丼セット10秒、片付けに5分となる。
ここでは譲歩して、一食分単位に落とし込もう。
つまり、一週間に一度買い物に行き、毎日同じ食生活を送るという前提で使いきれる分量を買ったと想定する。
鍋とフライパンと菜箸、キッチンバサミか包丁とまな板、炊飯器、塩コショウ、茶碗、汁椀、皿、は持っているという前提を置く。
炊飯までの準備が3分程度、炒めに3分、準備1分、盛り付け30秒、片付けに5分となる。
圧倒的にカップ麺が安い。
自炊よりも41%も安い。
しかも大抵の場合、自炊はコンビニでなくスーパーに行くので、プラスで時間がかかる。
つまり煽っている馬鹿は、非常に限定された想像力の上に、具体的な算数すらしていないことが良く判る。(皮肉)
豚骨ラーメンを喰う客に「家で30人前作れば一食300円になるのに、850円も払ってバカなの?」とは聞かないだろう。
寸胴で豚骨煮込む手間は、多少薄らボンヤリとした馬鹿でも想像がつくからだ。
吉野家や松屋に牛丼を喰いに行くオッサンは、牛丼だけに金を払ってるんじゃない。
目の前に牛丼が置かれ、食った後の片付けをする必要がなく、手早く出てくるから金を払うのだ。
食器は必要なく洗う必要もなく、準備も手順もおどろくほど少ない。
「自炊が安いのに」というのは、購入原価以外の手間を金額換算していない。想像力が足りない。
「食生活のバランスが」というのは、ほとんど難癖に近い。低価格でバランスのとれた食事の代替案も無い。
「多少の手間を掛ければ」というのは、もはやコスパの話をしていない。金でなく手間をかけろと言っているからだ。
コスパで計算すれば、どんなコンビニでも手に入るカップ麺に勝るものは無い。
こっちの方が原価が!とかここまで書いても判らない馬鹿は、公園でタンポポでも食ってろ。
俺は疲れてるから塩気のあるシーフードが食いてえんだよ。生臭い草なんぞ食えるか。ヤギかオマエは。
総じて「その程度の手間を」という人間ほど、その手間をかけた経験が無い。
家でボンヤリとしていれば、母親が料理を運んできてくれて、気がつけば洗い物も終わっている生活をしているのだろう。(偏見)
自分が見る食卓以外に、ATMで金をおろし、スーパーで食材を買い込み、調味料を揃え、冷凍食品をやり繰りするという舞台裏が見えていない。
どんなに慣れていて意識せずに運転できたとしても、寝不足の人間は運転してはいけないように、
ほとんど意識せずにできる一人暮らしの自炊生活ですら、気力が削られた状態では、行動できない。
そもそも、カップ麺を食うから貧困なのでは無い。貧困層が自炊したら中流層になれるならみんなしてるわ。
結果じゃなくて経過なんだよ。原因じゃなくて症状なんだよ。阿呆が。
「被曝しているという認識はまったくないまま沢水の簡易上水道を飲み煮炊きしていた。避難してきた人の炊き出しもした。3月20日になって水から300ベクレルが出たと聞いてびっくりした」「私たちはもうたっぷり被曝してしまいました」
なんだかな。
勇気を出して抗議活動を始めた村民の方々の言葉が、ちゃんと人々の耳にとどくだろうか。どうもあんまりメディアにとりあげられている感触がない。
自戒を込めていうなら、わたしたちの身体性はもう多分に問題があるのではないか。
鷲田清一先生が『悲鳴をあげる身体』の中で村上龍さんの『ラヴ&ポップ』冒頭、女子高生の語りを引くくだり(p. 152)。
NHKで『アンネの日記』のドキュメンタリーを見て「心がグシャグシャになった」彼女はもう翌日には「完全に平穏になって、シャンプーできれいに洗い流したみたいに、心がツルンとして」しまう。
感情が持続しない、持続しないから刹那的な快楽を追い求めていく。
あるいは、その持続不可能性への焦りが、周りの人、同じ社会にいきる人々のことを忘れさせてしまう。
この感じ。
震災のこと、また原発のこと、もうなんかみんな遠い昔のことのように「ツルンとした」心で眺めているようなそんな雰囲気を感じる。
本当に「今」おこっている悲しみを私たちはまっすぐに受け止められているだろうか。
僕は幸い被災を逃れたし、放射能の影響も受けえない場にいる。
でも、でも同じ日本人としてどうにかしたいと思う。そしてこの気持ちをちゃんと持ち続けないと。
お前がどこに住んでるのかしらないけど
電気の発電所、上水道の先の貯水池、下水の流れる先、知ってるか?
それらの産地や流通経路、知ってるのか?
知らねえだろ。
そういう言い方をするなら
東京都民がお前と同じような汚い口をきくなら
「田舎もんを支えるためじゃなく、経済を支える為に働いてるんだよ。」
となるだろうよ。
で、こんなこと言ってなんになる?
お前はどこの田舎者かしらないが、
捧げてねえだろ。
捧げる必要はねえよ。
日本中はお互い様だもん。
お互いに支えあってるけど普段意識もしてない。
東京都民にだけ憤ってるんだろう?
要するにくっだらねえ都会コンプレックスだろ?
いい加減にしろ馬鹿。