はてなキーワード: アフリカとは
憲法第10条には「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあり、憲法が法律に委譲している状態。
「これ」を定めた法律が、すなわち憲法の定めになることになるため、どんな要件を定めても違憲になることはできない。
法の下の平等に反するだろ!と思うかもしれないが、それを定めた第14条は「すべて国民は、」から始まっておりそもそも第10条の定義に依存している。
またそもそも日本国憲法は日本国に対して効果を発揮するもの(たとえば第24条婚姻の規定は「日本国民」に限定する書きぶりではないが、だからと言ってこれをもってアフリカの婚姻制度が規制できるはずもない。)と解釈するのが当然のはずで、そもそも憲法の全ての規定が第10条と依存関係にあると言える。
日本国民とアメリカ国民の扱いに、それぞれの国の法律の違いゆえに差があったとしても「法の下の平等に反している!憲法違反!」とはならないでしょ?
あのさ、
腕に謎の青アザとかかすり傷とかがあって謎なんですけどー。
いつの間にそんなのできたっけ?って
昨今呑みに行ける感じでもないから、
呑んでぶつけて傷つけた感じではないんだけど、
じゃ?家で?事務所で?ってなるのね。
まったく記憶にないわ。
分からないけどでもたまに紙とかを扱うときに切っちゃうときあるじゃない。
でも肘と手首の間のその箇所擦り傷なるかなーって思いながら
だから何?ってなるんだけど、
まるでザイマンみたいな出だしの様でもあるし。
結局のところよく分からないわ。
私は早くにランチに行きたいんだけど、
今日は何にしようかな~って悩むところがいいところ。
でね、
そのお昼休みの楽しみってランチの他に本屋さん巡りってあるじゃない。
文房具とかも買えて便利なのに、
これも全部アーマーゾーン!の影響なのかしら?
でもいざ本屋さんで本を買うときレジに長蛇の列の並びが長く出来ていたら、
もう秒で諦められる自信があるの私!私!私!って大腕を挙げて言えるぐらい自信あるわ。
もう買い物買うもの少なくてもカートにカゴ入れてって言うスタイルが私の流行。
片腕に重たいカゴをぶら下げながら辛いそうさでグルコサミンなほど辛いことはないわ。
最近はカート使うようにして時間を秒無駄にしない生き方を生きる丁寧さって良くない?
秒は金なりって言うほど、
秒は大切にしたいものだし、
みんなもアフリカでは1分間に60秒もの時が過ぎていると言うことを考えると
そりゃ恐ろしいわよ。
一度は憧れるなんかあのハイジ的なアニメの鍋にてチーズ的な乳製品を作るって憧れるじゃない。
結局あの鍋煮込みチーズ的な料理って何を作っているのか私たちはよく分かってないのよ。
意外とそんなものなのかも知れないわね。
あれはあれで湯葉作ってたりして、
私はこの目で見て確かめるまでは
ドーバー海峡の下に英仏海峡トンネルが通ってるなんて信じないんだかんね!
そんなまだ見ぬ謎よりも
私の腕に出来た青アザやかすり傷の謎をランチの前に解きたいものね。
はて?いったいどこで?って
謎が謎を深めているわ。
うふふ。
たまにはおにぎりもいいけど、
そう思わない?
味気ないけど、
ゆっくりふーふーして飲めば
何の味も付いてないけど、
「甘い」とか「柔らかい」って言っておけば成立するように、
水が甘く感じたら気を付けてね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
事件当時ロマン・ポランスキー監督は不在で(映画でもその通り)、犯人たちに襲われていない。
現在も存命で去年も作品を出している。(少し昔の作品だが、戦場のピアニストはかなり話題になった作品)
しかも殺人犯とは何ら関わりがなく、以前に引っ越した住人と勘違いされて彼女らは殺された。監督らの素性は事件に関係がない。
この映画が救ってみせたのは監督ではなくその妻、シャロン・テートだ。
劇中でも説明される通り、当時売り出し中の女優で、監督との子供を妊娠中だった。
この映画ではシャロン・テートの魅力的な姿が何度も描かれ、しかし最終的にディカプリオが彼女の家に招かれる場面ではインターホン越しでのみ会話し、ディカプリオと同じフレームには映らない。
とても誠実な描写だと思う。
実行犯に殺害を指示したチャールズ・マンソンは額に鉤十字のタトゥーを入れているが、タランティーノは過去のイングロリアス・バスターズで憎きナチの額に鉤十字を刻んだ。(ちなみにこのナチ将校役の俳優がポランスキー監督の映画おとなのけんかで主演してる)
そしてイングロリアスバスターズでは「映画を使って」ナチどもを焼き殺したように、この映画でもマンソンの手下を「映画の小道具を使って」焼き殺す。
1969年は「ロックが死んだ年」ともいわれ、アメリカにとって大きな節目だったことには違いがない。
しかし監督のタランティーノは「ハリウッド監督」ではないし(アメリカ映画=ハリウッド映画ではないのがややこしい)、彼はハリウッドやアメリカなどメインストリーム以外の映画も浴びるほど見ていて、それこそ中国や香港や日本などアジアの映画に多大な影響を受けた人間である。
キルビルが急遽テイストの違う二本立てになったのも、チャイニーズ・オデッセイという香港映画の影響である。(チャイニーズ~は一作目がコメディで、二作目が恋愛もの)
(タラがオールタイムベスト一位に挙げている続・夕陽のガンマンもイタリア産のマカロニウェスタンでアメリカ映画ではない。ちなみに監督のセルジオ・レオーネが撮ったワンスアポンアタイムインアメリカも長いけど大変な名作。セルジオ・レオーネ監督の大ファンでもあるし、タイトルからもわかる通りタランティーノはかなり影響を受けている。~インアメリカについては、ラストのデニーロの微笑みの解説を見ると、また味わいが増す)
ブルース・リーの話が出てきたが、タラはキル・ビルでは死亡遊戯の衣装を真似し(何の説明もなく出てくる「カトーマスク」も、グリーンホーネットでブルース・リー演じるカトーがつけていたマスクのこと)、主人公ブライドの使う技はブルース・リーのワンインチパンチで、必殺技は(ブルース・リーに影響を受けた)北斗の拳の技のようだ。オーレン石井へ敬意を示す闘いは、ドラゴンへの道のチャック・ノリス戦を思い起こさせる。
キルビルで描かれる復讐や暴力の虚しさは、燃えよドラゴンでブルース・リーが奇妙な泣き顔で表現したのと同じものだ。
そして敵役のビルには、ブルース・リーのドラマ企画を奪った俳優デヴィッド・キャラダインを配している。
タランティーノは、そういう監督なのである。ちなみにブルース・リーの主演が叶わなかったドラマ企画が、ちょうどワンス~の時代の頃の出来事でもある。
ちなみに、キルビルが前後編になった元ネタのチャイニーズ・オデッセイの主演はチャウ・シンチー(少林サッカーが有名)であるが、彼もまたブルース・リーマニアだったりする。(ドラゴン怒りの鉄拳のパロディや、少林サッカーやカンフーハッスル等、ブルース・リーネタ多し)
少し脱線するが死亡遊戯という映画もまた、「ブルース・リーという俳優の死後に、彼が生きているかのように撮られた」特別な作品で、その点がワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドと共通している。
(すでに香港ではスターだったが)ブルース・リーもハリウッドでの売り出し中にこの世を去った人なのだ。(ワンス~劇中でシャロン・テートが自分の映画を見るシーンがあるが、ブルース・リーは燃えよドラゴンの公開やそのヒットを目にすることがなかった)
ちなみに作中で喧嘩していたブラピ本人もブルース・リーおたくである。楽しかっただろうなあ。(ファイトクラブでの物真似が彼のアイデアというのは有名)
あとワンス~作中のブルース・リーが調子こいてるのは、実際の彼がああいうキャラだったためでむしろファンとしては大喜びするポイント。(ブルース・リーの物真似をするときは、顎をしゃくって半目で相手を文字通り見下したように眺める。服のセンスも、実際にああいうチンピラのようなダサいファッション)
何より、タランティーノは「超」がつく映画狂で、大げさではなく映画から人生のすべてを学んだような人間だ。
あらゆる映画を吸収し、現実にはモテないスーパーボンクラだったくせに、(映画からの知識だけで)玄人好みの渋い「中年の恋愛映画」すら物にしてしまう監督である。
落ち目だった俳優を「自分が好きだから」という理由で起用し、劇的にカムバックさせたりと、フィクションの力で現実を変えたこともある。
(※ネタバレ注意:この俳優とはジョン・トラボルタのことだが、タランティーノの好きな某映画ではヒロインを救えず、せめて「映画の中だけで生かす」ことを選ぶ。言うまでもなく、ワンス~を思い起こす)
(というよりもともと映画そのものが、亡くなった俳優の生きている姿を見られるタイムマシンのような装置なのだろう。そういう評論はよく見る)
そして、前述のイングロリアスバスターズではユダヤ系の、ジャンゴではアフリカ系の観客の心を、荒唐無稽なフィクションで熱く揺さぶった。
ヘイトフル・エイトでは差別主義者と黒人の和解をそれこそ「フィクション」という小道具を介し、素晴らしい形で描いてみせた。
日本ではネタにされがちなキルビルも実に真面目な女性映画である。「五点掌爆心拳」などという冗談のような技で、男女の歪な恋愛関係を誠実に描いたのだ。この映画では男はみな弱くて使えず、女性は強く逞しい。
(タランティーノは「強い女性」を描く監督としても有名だ。殺人鬼の変態スタントマンが、女性スタントマンたちにボコボコにされる映画デス・プルーフも撮っている)
タランティーノはフィクションの虚しさも当然知っているだろうが、同時にフィクションの力を強く信じている人間でもあるのだ。
(ちなみにデス・プルーフの主演であるゾーイ・ベルはキルビルでユマ・サーマンの「スタント」をしていた女性で、ワンス~にも出演。例の「ブルース・リーとの喧嘩」で車を壊されたひと。死亡遊戯→キルビル→ワンス~と考えてみても面白い)
(ディカプリオについては、ある種かなり本人に近い役。若手時代から演技力が高かったのに、レヴェナントで受賞するまでアカデミー賞からは長年ずっと無視され、色んな人に揶揄されてきた。アカデミーに無視されてきたのはタランティーノも同じ)
もちろんワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドは、ハリウッドやその他の「アメリカ黄金時代」への郷愁が詰まったお伽噺ではある。
確かに災害で家や家族を失ったり、普通に働いてただけなのに放火魔に職場を燃やされ仕事や命を奪われた人たちに比べれば私は「幸せ」かもしれないですね。でもその人たちってそのような「理不尽」に襲われるまで幸せだったかもしれませんよ?京〇ニの社員の方の中には輝かしい業績を残した方もいたそうですね。大変不謹慎だと自覚して敢えて言いますがそうした人生の絶頂期で死ねて、業績が再評価されて、多くのアニメファンに死を悼んでもらって英雄視されて正直羨ましいです。
私の人生はどうしようもないくらい大きな不幸にはまだ襲われてはいませんが、生まれてからずっと緩やかな下り坂です。生き続ければ続けるほど人生は悪くなるだけです。生きてる分ハッピー?葉っぱの下りからして昔のコミックソングにかなり影響を受けてらっしゃるようですが、あの歌詞よく読めばかなり自暴自棄で無責任なことしか言ってませんよ。この葉っぱって実は「ヤバい」葉っぱのことなんじゃないんですかね、知らんけど。意地悪されて布団に入って寝ても、意地悪された事実は無くなりませんし、ストレス抱えすぎて悪夢しか見れなくなりました。寝ても覚めても私の人生に「ハッピー」はどこにもありません。
とにかく他人の幸不幸を自分のデタラメな尺度で測らないでください。あなたの言ってることは、いじめられて不登校になった子供に「アフリカの子供達は学校に行きたくても行けないんだぞ!」と言ってるのと同じだと理解してください。
数日前に、はてブで反出生主義について書かれた記事が話題になっていた(有料部分は読んでいないが)。
人間が生まれることは本当に良いことなのだろうか。昔からよく考える。むしろ、何一つ自分の思い通りにならなかった昔の方がよく考えていたかもしれない。
小学校低学年の頃、週刊ストーリーランドという番組があって(この番組は途中で打ち切りになっちゃったみたいなので、年齢がバレてしまうが)、読者からストーリーを募ってアニメ化するという趣旨のもので、私はとても面白いと思って観ていた。
占い師のおばあさんの超怖い話など、インパクトがあるものが多かったので記憶に残っている人も多いのではないだろうか。
この番組で私が特に印象に残っているのは、神様が世界中の人に同時に語りかけ、願い事を叶えてあげる、ただし叶えるのは1番願った人が多いもの1つだけね、と告げることから始まるお話だ。願いは1つだけだから、多数決でどんな願いにするか決め、皆でそれを願おうということになった。当然もめにもめまくるし暴動が起きるしで大変だったが、なんとか最後は心を一つにしてお願い事をしてハッピーエンド。と思いきや、実は神様は世界中の「人」ではなく「生き物」に語りかけていて(人間は自分たちだけに語りかけられていると思っていた)、人間以外の動物たちの共通の願いはただ1つだったので、世界中から人間だけいなくなったというオチだった。
コロナウイルスの蔓延っぷりを見ていると、鬱々としつつも、ずっと昔に流行したスペイン風邪とかペストの時代の人々の心境と今きっとシンクロしているんだなぁと妙に感慨深くなったり、自分がパニック映画のモブキャラであるような気持ちになったりする。そして、イッヌとかネッコにも感染るようではあるが、死にまくっているのは人間ばかりのようなので、上記の週刊ストーリーランドの人類粛清のお話を思い出したりした。
日本でちょっと前に人気を博した韓国のインフルエンサーのホン・ヨンギさんという女性がいる。彼女は、中3くらいからモデルとして活動を始め、高校生から服のECサイトを経営してめちゃくちゃに稼いだ。一見すると、ファッション好きな可愛くて商才のある女の子のサクセスストーリーだ。しかし実は、これまでの活動は彼女のお父さんの借金(約3億円)を返すために始めたことだった。返しても返しても利息分にしかならない。彼女が自分の出産・育児のために借金の返済が滞ったときがあり、子供の100日祝いの場に取り立てが押しかけてきたという(多分闇金だと思う)。その後も取り立ては続いた。これまで長きにわたって実家と新しい家族の2家族分を彼女が支えてきたが、もう精神的に限界で、肩の荷をおろしたいとインスタに綴っていたという。
彼女は子供の頃本当に貧乏だったらしい。サイズの合っていない靴を履き、中学校に入学しても小1の時のカバンを使うしかなかった。家庭の事情でなんども引っ越すのが嫌だった。それが、モデルの仕事を始めて注目されるようになって、サイズの合う靴を履けるようになるかと思うと嬉しかったらしい。
こういうクズな親の話はよく耳にするので、その度に、やはり産まれることが良いとは手放しに思えなくなる。
私は、どんな子も、色々あったとしても、数年単位で積分した場合になんとかプラスになるような人生であってほしいと心から思う。でも、この社会ではそれは難しい。恵まれた者とそうでない者の落差が大きすぎるのだ。上にいればいるほど、底に近い場所のことは暗くてよく見えない。底に近ければ近いほど、上の方は眩しくて、手を伸ばしても空を切るばかりだ。そんな社会で、子供を作ろうと思える人はどのくらいいるのだろうか。その結果が出生率の減少に現れているのではないか。
落差について考えたとき、映画「パラサイト」のことが頭に浮かぶ。とても緻密で素晴らしい映画だったが、かなりショッキングな重苦しいテーマを扱った作品であることから、数日間は精神的に浮上できなかった。
映画の最後の方で、半地下のお父さんが咄嗟にしてしまった行動の理由が、私にはわかった。人間としての尊厳を粉々に破壊されて、でも破壊した相手は自分を「同じ」人間だとは(一切の悪意なく)思っていなくて、それがわかっていてもどうしようもなくてああするしかなかったのだと思った。
映画を観た後に、一緒に観に行った知人と感想を言い合っているとき、彼女が「あ、それそういう意味だったんだ!」と驚いていた。彼女は、地方都市出身だけど私と違って都心部に近いところで一人っ子として溺愛されて育ち、色々な習い事をして東京のそこそこ偏差値の高い私立大学を出た人だ。映画も本も音楽も好きで教養がある人だ。そのような人が、あのシーンの意味がわからなかったというのは結構衝撃的で、というのは多分だけど解釈不足ではなく想像が及ばなかったからだと思うからだ。そんな風に惨めな思いをしたことがないから。
私の一人暮らしの家にはテレビがなく、「逃げるは恥だが役に立つ」の新春スペシャルはTVerで観た。けど、途中で観るのをやめてしまった。前回のドラマも途中で観るのをやめて、その時は二人の恋愛模様が何だか気持ち悪くなってしまったという理由だったが、今回は、現実の社会問題をこれでもかとふんだんに詰め込んでおきながら、登場人物の設定は全部ファンタジーというちぐはぐさがあり、何だこれは?となってしまったからだ。ツイッターでは、恵まれた人の恵まれた物語、「持てる人」しか出てこない、などの声がある一方で、感動した!すごく良かった!という声もあった。
学生時代、研究者の人が昨今の就職難について嘆いていて、公募受ける時だけ女になりたいなと冗談めかして言っていた。最初、言っている意味がわからなかったのでどうしてか聞いたら、女性枠があるからだという。私はふいに怒りを覚えたが、ぐっと堪えた。
結局のところ、皆自分より下の階層については鈍感であるか、鈍感であろうとしているのだろう。私がパラサイトを観てショックを受けたのも、いつも自分が一番不幸だと思っていたのに、自分より下の見えなかった分断を突きつけられたからだと思う。アフリカの恵まれない子供達、肋骨が浮き出てお腹が膨れて上半身裸の彼らのことを知っているのに、普段は頭の片隅に追いやって考えないようにしている。私たち全員が、今より高いところとの間にある分断を見ていて、眩しくてつらい気持ちになるのに精一杯でいる。人生は不幸なことばかりで、自分より恵まれている人を憎んでいるのだ。その一方で、自分より下の分断も見たくない。
こんな気持ちを抱えてずっと生きていくのはつらい。
ゲリラが支配するミャンマー北部に潜入し、アヘン栽培に密着するルポ。
アヘンは悪だ!やめろ!という説教臭くはない。現地民と一緒に栽培していくさまが良い。
高野秀行さんのルポは、大学での探検部の体験を元にした「幻獣ムベンベを追え!」も良い。
バッタを専門とし、死ぬときはバッタに食べられたいと夢見る昆虫学者が、蝗害をもたらすサバクトビバッタの研究を親しみやすくまとめた本。
光文社新書で出ている「バッタを倒しにアフリカへ」も面白い。こちらの方がレーベル的にも入手しやすいが、紹介した本の方が前なので、できるなら、孤独なバッタ〜を先に読んだ方が楽しめる。
ジョン・クラカワー 空へ
1996年のエベレスト大量遭難に偶然行き合った著者が記したルポ。ツアー型登山の問題点や、標高8000メートルの山で徐々に限界に追い詰められていくさまが描かれる。
これで山岳遭難の本が気になれば、
K2登山した女性登山家が次々なくなっていく様を追った「K2 非情の頂」
クラカワーの視点が気に入れば、
モルモン教徒が起こした事件を題材にした「信仰が人を殺すとき」
自然の中で生きたいと、若者がアラスカの荒野で生きようとし、結果餓死した事件を追った「荒野へ」
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安倍政権が他に類を見ないほど外交上手であったのなら彼が最長政権を維持できた理由は説明できるかもしれないが、別にそんなことはなかった。
また、増田自身が「民主党(含む野党)がだらしないから」という論に安易に乗ってしまっている気がするが、安倍政権が時々失敗していたなら、適切な外交政策を打ち出して勢力を伸長する党がその間現れなかったことも不自然である。安倍が外遊に力を入れていたことは事実だが、対露外交の失敗は増田の言うとおりであるし、ヨーロッパ・アフリカに対する中国の派手な外交と比して世界の地勢に橋頭保を築き得たというほどのことはなく、彼方の首脳陣との間に個人的な信頼関係を築くこともできていない。またアメリカ・イスラエルに寄り過ぎて、中東関係では初歩的なやらかしもしている。そもそも身近なアジアにおいても、対韓国では朴大統領との間で交渉を進めた結果、逆に文政権の成立に手を貸したようなもので、文政権成立後何もできていないし、北朝鮮にはトランプから「口を挟むな」とでも言われたのか、結局あれほど課題だ課題だと言いながら8年間何もせず、できなかった。つまり「安倍政権が外交で評価された」という主張自体、事実ベースで見れば成り立たず、実体はただのイメージ論に過ぎない。
よって、安倍政権が例を見ない長期政権を築き得た理由、ファクターXは、これまでの政権とは全く違う、別の部分にある。では、安倍政権がやった、そしてほかの政権がやらなかったこととは何か?
私見では、それは人事統制・情報統制の2点だと思う。内閣人事局による官僚支配、そして、徹底的なメディア管理だ。
2014年に設置された内閣人事局は、菅官房長官・安倍総理による官僚支配の象徴である。これは、安倍政権の、それ以前の政権とは全く違う性質を象徴する。モリカケ問題はその象徴の一つに過ぎない。
一方のメディア管理については、NHKへの露骨な圧力問題(総理就任前の2005年の番組改編問題から始まり会長・経営委員会に自己人脈の人間を多数送り込むなど)をはじめ、強権的な体質を隠す気もない。世界報道の自由度ランキングでは、民主党政権の3年間(2009~2011)は17位、11位、22位だったが、安倍政権2012からは53位に急落し順調に低下。現在は安定して60~70位をキープする、先進国中最低水準の有り様である。
正直な話、第二次以降の安倍政権を象徴するのがこの2つで、この2つを欠いたらあの長期政権は成立しなかったというのが最も正しい判断だろう。
では、「そんな簡単なことを、なぜ他の政権はやらないのか?」という問いがあるかもしれない。それだけのことで長期政権が取れるなら、みんなやればいいのでは? これに対する答えは極めて簡単で、そんな恥知らずな真似は普通できないから、ということに尽きるだろう。議院内閣制における官僚支配、民主主義国家での報道支配は、いずれも政治運営上のタブーであり、これをやれば、誰も政権に歯止めをかけることができなくなり、確実に国家は衰退・弱体化する。それをやったのが安倍晋三という人間である。国民が彼を選んだという説明も、本来は微妙に怪しい。国民はまさに彼を選ぶしかないと、この8年思わされ続けてきたのだから。ただ、そのメッキはコロナで脆くも剥がれ落ちた。「これは自分の手には負えないこと」と引き際を見極めた逃げ足はさすがである。後始末のような面倒は、部下の汚れ専門の実務家に任せればよいと考え、ことが済めばのうのうと再登板の心づもりだろう。ひょっとすると、東京五輪を再登板の舞台とさえ考えているのかもしれない。