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はてなキーワード: 通り魔とは

2013-05-22

はてサ達は、日本人虐殺華麗にスルーする。

生野通り魔】「日本人なら何人も殺そうと思った」 逮捕の男が供述 府警が捜査本部設置 - MSN産経west

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130522/waf13052212050018-n1.htm

犯人世界に冠たるレイシスト国家韓国国籍を有してる事が判明したが、はてサ達は案の定、この一件を壮大にスルー

ちなみに犯人国籍が分かる前に、被害者を悼むことすらせず「どうせ日本人だろ。先走って喚いてるネトウヨが慌てるさまが目に浮かぶ」とか言い放った屑も多かったけど。

はてサ的には、今回の乙武案件生野通り魔案件でどう整合性付けるの?

やっぱり「店名晒すきじゃなかった」ように、「加害者名前晒すきじゃなかった」ってスタンス

2013-05-21

散々書かれている乙武さんの件

入店拒否をされたことで、店の実名をあげてしまった乙武さん。

今回、ツイッターであのやり取りを見ていて、心底ゾッとした。

乙武さんのブログの説明記事を読んで、さらにゾッとした。

一応反省したテイで開始されるこの文章、しか反省というよりも、文章の2/3は怒り収まらぬ様子の文章。

この人、軽率だとか自分で言っているけども、多分軽率の度合いがわかってない。

下手したら店が閉店に追い込まれてもおかしくない。人生が狂っても驚かない。

今回、乙武さんがやった行為は、ひとつのことを知らしめたと思う。

それはつまり飲食店等の客商売をしていて、障害者という存在はとてつもなく危険だということ。

今まで作ってきたイメージも客も評判も何もかも、障害者の気に入らない事をしてしまったが最後、晒され、叩かれ、悪者にされ、最悪の場合全て失ってしまうかもしれないこと。

まるで何気なく街中を歩いていて、突然通り魔に命を奪われるようなものだ。

不運としか言いようがない。ああ、障害者には関わりたくない。近寄って欲しくない。性質が悪い。人生滅茶苦茶にされかねん。

このような、全く建設的ではない、障害者も健常者も社会も誰にもいいことのない、ネガティブイメージ

これを知らしめた、ということだ。

乙武さんのこの釈明記事を読んでなお、ネガティブイメージは払拭できないなと思う。

抗議の電話どころではない、電話けが営業妨害ではない。

普通の人なら、自分ネット上で悪として叩かれ晒されているだけで、十分先行きに絶望して日常生活に支障を来すだろう。

でも、こんなことしちゃった僕の気持ちも解って下さい!という文章からはそこに対する気遣いは全く感じられない。

てか相手の謝罪ツイートも見たのか見てないのか知らないが、「許してくれるなら」って、会話する気なしとしか思えない。

なぜ電話であらかじめ手がかかる事を伝えなかったのだろう。

店で面倒をみきれなければ、責任を持ち切れなければ、店だって拒否をする権利はある。

そんなの健常者も障害者関係ない。

だけど先に伝えておけば、店にだって準備のしようがあるだろう。

店側もやむなくどうしても無理なら、また改めて後日お願いできませんか?と伝えることだってできる。

その事前の根回しもなく、当日突然、当たり前に手伝いを要求。

そんなの絶対、店の人だって不愉快だ。怒られても仕方ない行動だ。

念のため、障害者から不愉快というものではない。健常者に求められたって不愉快だ。

それをどうして「障害者差別」と言い放つのか。

障害者だけでなく「何かに対応が可能な準備」には少なからコストがかかる。

インターネットが使えない、或いは苦手な人のために電話対応用の人員機材を用意するのも、

外国語に明るくない人のために翻訳を用意することも、

街中で視覚障害者が自力で歩けるように点字ブロックを道に埋めることも、

ひとしく「対応するためのコスト」を費やしている。

コストであるからには、そして商売であるからには、費やせる量にも上限がある。

乙武さんは、自分が突如手を借りる時に必ず不自由することなきよう、店に人を置いておけというのか。

当たり前に店はそのコストを払い続けて、そして乙武さんはこの店にそれをペイできるほどの金を落とすというのか。

馬鹿馬鹿しい。そんなことはないだろうし、その必要もない。

ただ、事前に事情を説明すればいいだけのことだ。

時間がわかれば、店だって事前にその時だけ何か用意ができたかもしれないのだ。

障害者が健常者に比べて何かしら手間がかかるからといって、障害者の方々はひきこもる必要はない。

その手助けを社会に対して求めることは、当然の権利だと思う。

でも、健常者同様に、相手に迷惑をかけるのであれば、気遣いはしてほしい。

人にひと手間かける時は、すみませんが、ご迷惑ですが、は普通のことだ。

そして、人は必ず手助けができる状況にいるわけではないことも、当たり前に理解しろ

(まあ健常者でも、理解できてない頭の弱い人は多々いるのだけども)

同等、平等っていうのはそういうことだと思う。

手間がかからなければ偉いものでもなく、手間がかかるから下扱いされる謂われなどない。

私は障害者差別しないから、ちゃんと人と人としての気遣いも求める。

それもできないなら、障害者からではなく、人として関わりたくない。

損得や苦楽が判断基準ではない。単にひととなりの問題だ。

それが解っている障害者の方々は多いだろうに、乙武さんの行為はそういう方々の行動を台無しにしている。

不愉快過ぎて、普段文章なんか書かないのについ増田してしまった。


追記(ぼんやりと返信)

有名人ないし著名人危険、という部分も大いにあると思います。賛同します。

乙武さんでなければここまで大きな話になることはなかっただろうと私も思います

ですが、仮に今回の出来事を誰もが知ってる芸能人が書いたら、ただの傲慢、感じわり~、だけで片づけられた話でもあると思います

そして、大多数の著名人は、店名名ざしでこういう話を持ち出したりはしないようにも思うと、添えさせていただきます

--

健常者より気遣いしろという意図はありません。

なんで自ら選んで障害者になったわけでもない方々が、そんな「健常者より気遣う」必要があるのでしょう。

例えば店で買い物をした時に、店員からありがとうございましたと言われる。客はありがとうと返す。

売ってやったわけでもなく、買ってやってるわけでもない関係がそこにはあると思うのですが、

手伝われる方も、手伝う方も、それくらいの気遣いが出来ればじゅうぶんにスムーズだと思います

「健常者より気遣いしろってこと?」という表現は、まるで自炊できずにコンビニ弁当ばかりの人が、

自分料理できないから店員に対して余計に礼を述べろっていうのか?」くらいに思えますよ。

障害者社会に手助けを求めるのは当たり前の権利であるなら、手伝うことは社会の責務です。

その責務を、各々できる人たちが可能な範囲で担当するだけのことです。

ですから障害者の方が無駄に恐縮する必要はないと思います

ただ私は円滑でお互いが気分よくなれるコミュニケーションを求めるだけのことです。

--

もし自分コミュニケーションをとることがとても困難な方の場合は、おそらく介添えの方が同伴されることが多いと思います

何も障害者本人が必ず何かレスポンスを、というつもりは、もちろんありません。

しろ、それが難しい方が単独で居られるなら、それは積極的に手助けなどをしないとまずいのではないかなと思います


追記2(ぼんやりと返信)

私の文章は健常者目線であることは間違いありません。

きれいごとであり、理想論であり、空論であり、なおかつ傲慢でもあるのも、否めない部分があります

さらには承知した上で意図的に強調をしているので、批判や反発もあるべきだと思います

だいたい、匿名ですし。(他に長文をさくっと発表できる場所がないからですが。)

手足がなかったら同じことが言えるか、とおっしゃる方がいらっしゃいました。

わかりません。今のところ、私には手足がありますから

乙武さんの苦労が簡単に理解できると思う程傲慢ではありませんし、全て察せられると思える程の自信もありません。

ですから自分想像だけを根拠に「言える!」と簡単にお答えできるわけもなく、

しかしながら「言えないかもしれない」という生半可な気持ちでもないので、回答は「わかりません」になります

ただ、たまたま手足がある人ですので、手助けの余力がある可能性も高いですし、その立場から手足のあるなしなんか目もくれずに

不愉快なら、「こうだから不愉快だ、「こうすればよいと私は思うのに」と言うだけのことです。

手足があるから、手足がないから、何か遠慮しなくてはいけませんでしたか

それは、腫れ物扱いって言うのではないでしょうか。

2013-05-11

自分は生きる価値のない屑だと普通の人は思わないのだろうか

ちょっとまらないので、初めてここに吐き出してみる。

普通の人は、自分を責めるときにどういう言葉を使うのだろうか?

ここのところ、自分は生きる価値のない屑だと自分自分を罵りすぎている。さすがに疲れた。

8年前にちょっとした挫折をして、まぁ普通な青春のほろ苦い1ページで終わるのだろうが、それがそれまで長閑な田舎暖かい目で見守られてきた自分にはかなり痛手だった。

数年間、生きているんだかいないんだかよくわからない状況になったが、それまでの肥大化したプライドを守るために勉学に励んだことが幸い社会のレールから外れることを防いだ。

しかし、それがかえって、歪みを温存することになったようだ。

そのあとも、恋愛関係や曲りなりに続いていた友人関係で、恒常的な失敗や、絶交や、あと一歩でリアルNiceBoatなところまでやらかした。

そこで、自分は、自分以外の人間自分と同じように人格を持つ人間だと認識していないと気付いた。

独我論というか、利己的というか、自己愛性人格障害ですかね。にーちゃん、アスペと躁病追加しといて。でもあとでいうけどちがうんだって

それから3年か、悩みましたよ考えましたよ。普通の人は(たぶん)小学校高学年から高校生ぐらいで考えるような痛いことを。

Jポップやアニソンとか、けっ!と思ってましたが、あれの歌詞によく出てくる「自分を大切に」「ひとりじゃ生きられない」とかいうのはちゃんと子供のころに素直に受け取っておくべきでしたね。

で、なんとか落ち着いたか、そういうことはもう悩まない、そりゃ人生長いしまだ完成されたなんて言えないけど、人生観みたいなものの根っこはできたかな?というところまできた。

が、治らない。

自分の在り方に対する悩みはなくなっても、ふと気づくと、自殺衝動が出る、通り魔になって殺人する妄想をしている、自分は生きる価値がない屑だ、早く死ね自分自分ののしる

生きることは絶対苦しいことだ、死ぬことは幸せだ。みんな死ね

そういう独り言脳内音声が頭に充満する。それ以外何も考えられなくなり、やる気が出ない、集中できない。

ちょっとした失敗、たとえばスマホを床に落としたりしただけで、お前は無能だ間抜けだと喚き散らす。こういうとき脳内でなく実際に声に出して叫ぶからたまったものではない。

スマホを床に落として自分を間抜けと罵りわめくこと自体がよっぽど間抜けなのだが。

とまぁ、それぞれに対して、自分なりの理屈で反論したり、本やネットで仕入れた精神学的な分析をして納得したりはできる。でも、収まらない。

反論分析すること自体、そういう思考を強化してしまうのではないかと、瞑想して思考をストップさせたり、はいはいあとでねと受け流したりした。

ある程度効果はあるようだが、すぐにぶり返し、抑制しきれない。

困った。

精神科に行ってみた。病気みたいだが病気ではないですね。はて、はい

発達障害ですか?そのようにみえるがそうではないですよ。

病気でも障害でもないが、病気や障害のような精神状態。

情動コントロール能力の発達「遅滞」。

要するに「健常」だが「未熟で幼稚な」「変人」というところらしい。

どうすれば?ときいてみたところ、生きていくうちに自己コントロール経験積むしかないですね、と。

他のとこ行ってみたら、同じく病気でも障害でもない、ただ、そういう衝動は薬で抑えるしかない、とも。

でもちょっと薬は怖いので遠慮しといた。今少し後悔。

普通の人でも、落ち込んだり、失敗して自分を責めたり、後悔したり、そういうことはあるだろう。

でも、その場合、どういうことに対して、どのような内容で、どのように、どれだけ、自分を責めるんだろうか?

聞いてみたところで、それは自分とは関係がない。それを真似して自分を適度に責めるようにできるわけもない。

わかってはいるが、ちょっと訊いてみたくなった。

2013-03-15

人間能力の半分は遺伝子、もう半分は環境努力

人間能力はおよそ次の割合で決まっていると思う。5割は遺伝子、3割は環境、そして残り2割が努力だ。

まず遺伝子。これはどうしたって人間みな同じではないから、生まれながらに差がある。遺伝子的に強い人、弱い人というのがいる。病気になりやすい人、なりにくい人、体格の優れた人、劣った人、障害のある人、ない人、容姿の優れた人、そうでない人。コミュニケーション能力の高い人、低い人。個性だとかなんとか言って、人間の評価に公然と序列をつけるのはあまり好ましいことではないが、生物的にははっきりしている。それは生き物として強いかいかの差だ。

このことはスポーツ世界で考えてみれば、理解しやすい。どれだけ練習を積んでハードトレーニングをしたって、誰もがイチローのような名選手になれるわけではない。体格をカバーするために技術を身につけるとか、基礎的なトレーニングに手を抜かないとか、そういう努力が実を結ぶ部分はあるが、じゃあ一流になれなかった選手努力が足りなかったのかと言うと、そうではない。子供の頃からプロ選手を夢見て練習を積んでいっても、どこかで伸び代には限界があって、大きな大会に出れば、自分には越えられない壁というものがあるのを思い知り、その世界で食べて行くのは無理だという現実にぶちあたり挫折するのだ。

何も一線で活躍するだけが能ではないので、能力の低い人は低い人なりに、活躍できる場面を探せばいい。うまく自分の収まる場所を見つけられなかった人間悲惨だ。例えば、プロ選手にはなれなかったけど球団職員になるとか、本人がやりがいをもっていきいきとやれれば何の問題もない。だが選手としてぱっとせず、打撃練習用のバッティングピッチャーになったものの、過酷環境プレッシャーに汲々としながら給料も安くても生きるためにやっていかなくてはいけないというのは辛い。まあスポーツには全然詳しいわけじゃないので知らんが。

とかく勉強とか、仕事の場面では、全てを本人の努力に求められることが多いように思う。思うように成果を残せないのは、頑張りが足りないからだとか、怠け者だからとか。もちろん本当に努力が足りなくて、もっとできるのにやっていないだけという場面もあるだろうが、ある程度自分ではどうしようもない部分もあるんじゃないか

鬱病は、誰だってなり得るものだが、ただやっぱり精神疾患に罹りやす家系とか、なりやす性格というのはある。身体は資本なので、肉体的に弱い人は大変だと思うが、心が健康じゃないのも生きていくのに辛い。メンタルが弱いとか、自分に自信が持てないとか、それだけで競争に勝ち抜くのに不利だ。本当はそんなこと望んでいないのに、苦しさのあまり自ら死にたくなるなんてどう考えても生物的に欠陥ではないか。全て本人の自己責任とは言えないと思う。

コミュニケーション能力も同様。ずば抜けて何かの能力に秀でている人は周りが放っておかないので人格に多少難があろうが食っていけるだろうが、そうでない大部分の人にとって死活問題社会的関係をうまく築けない人は、情報を得たり、何かを経験して成長する機会も少なくなっていくので周りから孤立してどんどん差が開いていく。変な人、と見られて近寄り難い存在となって怖がられたりして。普通の人が特に意識しなくてもできる、自然に会話したり周りに合わせたりということができないだけなのに。それとは逆に、タレントになれるような、小さいときから自然と周りに人が寄ってくるというような人は、努力して人に好かれようとか思わなくても自分のしたいように気ままに振る舞ってもそうらしい。そういう人気者は寄ってくる人がうっとうしいと思ったりするらしい。もちろん努力して自分を変えたという人がいないでもないことはわかっているが、レアケースだ。

次に3割を担う、環境という部分。これは生まれてから現在までの生育環境、そして自分の置かれた経済的、人間関係的、地理的、環境だ。人間自分が思っている以上に周りの影響を受けるものだ。周りが頑張っている人ばかりなら自分も頑張らねばと思い、周りが適当人間ばかりなら堕落していくのが人間だ。遺伝子は変えられないから、人を作る上で教育重要なことの理由でもある。

犯罪者死刑囚エピソードを見ると、幼少期にどう育てられたかが影響していることが多いように思う。生まれながらに根っから悪人なんて者がそうそういるわけではなく、身近に愛情を与えてくれる人がいたら、正しい道に導いてくれる人がいたら、別の人生があったのではないか死刑永山基準で有名な、永山則夫ドキュメントを見たときにもそう感じた。通り魔殺人なんか起こした人の報道を見ると、そこに至るまでの段階に本人の責任が大きいし、同情は出来ないし、決して許せることではないが、ただなぜ犯人がそのような心境を持ったのかについては理解できることがある時がある。社会から疎外され(たと感じ)、自分には失うものが何もないと思い、自暴自棄から破壊衝動を起こすというのは異常心理でもなく動機としてはわかりやすい。ただ選択として間違っていたというだけだ。犯罪に至るまでの環境に何か別の要因があれば、また別の未来もあったかもしれない。

どの世界でも一流の、活躍している人には、一流の者同士の付き合いがあり、お互いを刺激し合い、高め合う関係ができている。一方で、一人頭の悪そうな不良を捕まえてみれば、周りは同じような輩ばかり。低学歴低所得の層には犯罪に手を染める物も自然と多くなるし、何かあれば足を引っ張り合う関係がある。転落していく人を助けてくれる人はあまりいないが、下で待ち構え、上昇していこうとする人の邪魔をする人はたくさんいる。だから自分を変えたいと思ったら所属する場所を変え、付き合う人を変えるべきなのだ

あとは、残りの2割が本人の努力だ。努力継続できるかということ一つとっても、遺伝子環境による影響から完全に免れられないことは書いてきた。努力継続するための工夫としては、目標管理の仕方とか、精神と肉体は両輪なので難題に挑戦するときは身体は鍛えた方がいいとかあるが、そういうことは今回の主題ではない。

この数字は僕の経験と知見から導き出したものだ。科学的根拠や出典を問われてもない。だが、そんなに実態と離れていないし、なかなか絶妙だと思っている。半分は生まれながらに決まっていると言うと、ある意味残酷ショッキングだが、環境努力自分で変えられるものから、残り半分は本人次第と言うこともできる。遺伝子と、環境もある程度までは与えられるものから8割が運っちゃあ運ということもできる。

もちろん近代文明社会としては、誰にでも生きやす社会でなくてはいけなくて、生まれもっての能力での差はなるべく埋めるべきだが、理想としてあるべき姿と現実は違う。そうした能力に差があることは誰しもわかっていて、受験就職結婚相手や付き合う人を選ぶ場面で常に競争さらされている。皆少しでもよりよい条件の相手を求めている。能力の劣った人は優れた人に比べてハンデを負って生きていかねばならない。世の中は全然公平になど出来ていない。与えられたカードで勝負するしかない。

2013-02-11

触らぬ神に

オタク文化オタクという人種には、できるだけ関わらないようにするのが処世術であると思う。

はじめにそう感じたのは、電車男の頃に、秋葉原路上喫煙をしていた男が写真を晒されていたのを見たこと

で、

オタクの縄張りを荒らすとリンチに遭う可能性があると意識した。

通り魔事件の野次馬もそうだった。

オタクの興味の範疇は狭いが、その内で事を起こすといつまでも粘着される。

戸松遥ライブでの照明器具落下が、もしアニソン歌手以外のコンサートで起こったら、ここまで騒がれただろうか。

オタクに興味をもたれると本当にロクなことにならない。

一度アニソンを歌うと、その歌手は一生、オタクからアニソン歌手というレッテルを貼られたままだ。

十年くらい前に亡くなった、フルーツバスケット?のアニメ歌手の話題には確実にオタクの反応がある。

それは彼女音楽が素晴らしかたからというより、アニソンという身内の文化に関わったからだ。

オタクには本質的に、身内とそれ以外という二分しかない。

一般人」という範疇脱出することは裏切りだ。

からかつて平野綾は叩かれた。

オタクという人種に関わりを持つのならば、一生関わり続ける覚悟必要だ。

ビジネスとして関わるにしろオタク関連の仕事でなにか間違いがあると、

一般社会で考えられる以上のバッシング覚悟しなければならない。

不可触な存在と思ったほうが身のためだ。

2012-11-27

http://anond.hatelabo.jp/20121127115022

露出狂女子高生性器晒すのはどう読んでもネットに俺理論を書き込むことだろ。俺は女子高生じゃねーけど。この流れでそれ以外の文脈はありえないよ。

根拠を聞いているんだよ。何故「ネットで」「俺理論」の例えがそうなるのか?

箇所がネットであるということの根拠も不明だが(俺理論を開陳するのに最も最適な場所は本だ)、それを措くとしてもどちらかと言えば例えば掲示板に単なる猥語を書き連ねるたぐいの通り魔的な荒らし行為が該当するんじゃないか

単に君が不快を覚えたのでその不快を表明するために引いてきた以上の意味はないんだろ?

読書自慰なのはリアクションが期待できない行為でありまた行為者即ち読書するものリアクションを期待していないから。

何を与えられるにせよ、読書者は自分が何かを得ることを期待しているし自分が何か与える立場になることを前提して本を読んだりはせずまたできない。

本は何も受け取らない。

リアル対話がセックスなのは相互に干渉し合えるから

ネットがややネックか。テルセックスに例えたが、ネットという媒体を介したコミュニケーションのこの手軽な割に規模のでかい感じは性的行為で例え切れてない感じはする。

お前の理屈だと読書ネットの違いは相手のリアクションあるかないかだから

リアクションのある無しでセックスオナニーを区別するのはおかしいって俺は言ってるわけ。

リアクションの有無というよりはリアクションの有無への期待に基づく態度で区別している。それが即ち「独善性」。

2012-10-23

第1話にて既にハッピーエンド伏線が見えるドラマは嫌だ

バイトを始めようとするものの身だしなみに必要な金が揃えられず雇われず

派遣に登録して働き出すものの 可愛いなと思っていた同僚は事故で目の前で機械につぶされ主人公も危うく潰されそうになり

派遣切りに合い、路上をさまよい

ベンチにはホームレス避けの区切りのせいで眠れず

こつこつ材料を集めて川辺に建てたツリーハウスで夜の寒さをしのぎ日雇いしながら

昼間は図書館ホームレス仲間と過ごすが

ある日洪水ツリーハウスが流され年を取って仕事も無くなり

仲間は一人一人病気自殺通り魔となって減っていき

幸せそうな家族正社員を横目で眺め「あの中には2度と入れない」とつぶやき嗚咽する

主人公の目に入ったのは野良の子

主人公孤独子猫を飼うことで少しだけ癒された

ある冬の寒い日に路上で飢えと寒さに力尽き行き倒れた主人公の冷たい亡骸の横でエサを満足に与えられず骨と皮ばかりになった弱った猫が

主人公の亡骸をついばんでいた

周りの野次馬携帯カメラ画像SNSうpしてウェブ炎上 猫は保健所に連れて行かれ貰い手は現れなかった

そんなドラマ増田は見たい

2012-10-08

職質とネット犯行予告逮捕

小女子事件のときも今回の時もそうだけど、治安関係者は「本当にやるかどうかわからない以上本気として対処せざるを得ない」とか言うんだよね。

でも、通り魔とか、ネオ麦茶の件とか、実際に発生した事件に対してどの程度の抑止力があったのかがよくわからない。分析・評価がされてるように見えない。

仮に、ネットでの犯行予告はなかったものとして、実際に事件が発生した後から遡及的に捜査をはじめたとして、現状のアプローチ比較してどの程度の差があるのだろうか。「犯行予告だけで真に受けるから犯行予告をする愉快犯」という事件の発生数まで考えると、かえって無視したほうが社会全体としてははかどるのではないだろうか。

というところまで考えて思い出したのが、職質に対する疑問。それも、下手すると「男が一人で歩いてる→職質」みたいなことがある地域もあると聞く(秋葉原とか、池袋とか?)。あれも、「もしナイフなどを持っていたら治安が云々」と犯罪予防効果を主張するのがいるが、実際のところウチの職場ちょっとココロが病んじゃってた子、職場ナイフ(それも戦争映画しか見ないようなゴッツイの)持ち込んでて問題になってたが、スルーされてた。あれも結局、犯罪の抑止効果なんてロクになくて(宝くじにあたる程度?) それよりも単純に「検挙件数」をかさ増ししてるだけにしか見えないんだよね。やらないほうがマシ、というレベルで。

こういった世の中の(正しそうだけど非効率な)流れに対して通奏低音のような何かがあるのだろうけれども、頭が悪いので何がどう悪くて、なにをどう改善すれば良いのか思いつかない。それでも、ちょっとしたエロマンガでつかまるカナダや、裸で踊ってると射殺されるアメリカや、そもそも何が何だかよくわからないメキシコや、宗教批判のマンガ書いただけで殺人公認になったり、号館された女を犯人と強制的に結婚させて「なかったこと」にするインシュアラーな国々に比べれば、まだまだ平和なんだけどね。

2012-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20120906115912

たとえば居合同好会で使ってた刀で通り魔したんだったら、

ユッケ食中毒が起きたときのように)

刀剣管理もっと厳しくすべきといった声が上がることもあるだろうが、

「犯行の動機は居合道」「居合いをやっていれば人を斬りたくなる」みたいな報道されれば、

それは居合道家もブチ切れるだろ。

2012-08-10

ブスは痴漢心配をしてはいけないのか

ブスのくせに痴漢心配してるwwwとか、階段スカート押さえてるwwwwとかを馬鹿にしてるのを見るんだけど

ブスやデブって、痴漢とかスカートを見えないように工夫してはいかんのか?ブスは女性性を放棄しないとだめなのか?

誰もお前のことなんか標的にしねーよってのは、ブスが痴漢心配wwwとかって笑ったりすることの理由にはならないと思うんだ。

どうしてもそう思いたい人に分かってもらえるように言うと、標的にされるか否かの事実は問題ではないんだよ。


自分女性であるという意識がある限り、潜在的に自分痴漢や変質者の標的であるっていう拭い去ることのできない恐怖が常につきまとうんよ。

ブスが痴漢にあわない保証なんて誰がしてくれるんだよ。されてからじゃ遅いんだよ。まずはハードル低いブスから始めるかもしれないだろ。勇者ちかんにとってのスライムみたいなもんでさ。

だいいち痴漢なんて存在のものが誰にとっても迷惑だし出会いたくないものから、できる限り避けようとするのはブス美人男女かぎらず合理的な行動だと思うんだよ。

自分でなくても他人が痴漢されてるの見て不快でないなんて、同じ変質者かAV脳、エロゲ脳だけだと思うよ。まともな大人なら男女関係なくリアル世界でこんな光景みたくないわ。


ブスが痴漢心配するのは、幽霊を信じてる人がそれを怖がるみたいなものなんだ。

幽霊を信じてる人は、どんなに幽霊存在しないって説得しても、墓場や廃病院は怖いから近づきたくないよな。

この人の行動規範幽霊なんかいねーから遭遇するわけねーだろ馬鹿がwwwって批判するのは簡単。でもこの人にとっては、自分幽霊存在を感じないで済むかどうかが大事なんだよ。

まり幽霊の恐怖で頭を支配されないで済むなら、気味の悪い墓場を避けて遠回りするか、高いタクシー代を払ってささっとスルーした方がよほどいいんだよ。

それは別に批判されたり笑われることでもなんでもないだろし、それを笑ったりするのもどうかと思うぞ。

幽霊通り魔に変えたらどうだ?遭遇するかどうかも分からない通り魔をできるだけ避けようとする奴を腰抜けと笑うのか?


あとな、ブスだから勘違いとか美人は許されるとかそういう考えそのものがどうかと思うぞ。

勘違いってのはそうやって笑って馬鹿にしてる奴らのことだよ。

そうやって自分が叩きやすものを叩いて満足してることの低俗さに気付けない、恥ずかしい奴らのことだよ。

2012-08-05

http://anond.hatelabo.jp/20120805143101

元増田無意識に誰かに迷惑かけて反撃されたのを通り魔だと思い込んでるだけかもしれん

通りすがりに足踏んだとか鞄ぶつけたとか

相手のほうは傍若無人バカップルが不幸になってたらいいのにとか願ってんのかもな

2012-07-14

犯人が分かった。

あくまで状況証拠になるけど。

名古屋妊婦切り裂き殺人事件の犯人だが、大っぴらに報道されない理由が帰化であること。ちなみにその殺人事件が起こる前後に近隣地域連続婦女暴行事件と連続窃盗事件と通り魔事件が発生している。偶然にしては起こりすぎ。

で、犯人ベトナム女性を惨殺し、また別件で下呂死体遺棄したと警察とかマスコミにアピールした後藤明弘。後藤の自宅からはその遺棄した女性を惨殺した画像動画が溢れかえっていた。マスコミにはサイコパスとかネクロフィリアと目されている後藤報道してないのは左寄りの放送局新聞社。まあ当り前か。

ちなみに前科もかなりあるらしい。らしいってのは2ちゃんねるで拾った情報が多いから。それによるとコンビニ店員時代に異なる年度に三回窃盗婦女暴行をし捕まってる。

2012-06-27

http://anond.hatelabo.jp/20120627125131

たかがこれだけの言葉かいがさかしげに聞こえるなんて想像の斜め上を飛ばれた気分だけど

とおりすがりの増田の口調に対してその剣幕でかみついてくるなんて、よほどコンプレックスを刺激してしまったのかな

(と、とられてもおかしくはないよ。口調の指摘をするならね)

元増田に関係ないただの通り魔なら、よかった

もし元増田なら、かきむしってしまって少しすまなかったと思っている

2012-06-13

http://anond.hatelabo.jp/20120613130948

日本人礼儀正しい、モラルがあるとかよくいわれるけど、こういう例(通り魔携帯写真)を見ると

そういうわけじゃなくて、ただ周りとあわせてるだけっていうのがよくわかるよなぁ

http://anond.hatelabo.jp/20120613130948

秋葉原ん時に友達から写メ来た

何かあったみたいだし帰るわってメール内容で、まさか通り魔とは思ってなかったらしい

2012-06-11

迷惑としての死と、自己肯定としての死と。

初めに言っておくけど、通り魔は身勝手邪悪で無残だから否定する。

だが、思考実験として、「凶悪な犯罪を犯す」方に、犯人社会から追い詰められた可能性を一応指摘しておきたい。

死ぬって、そもそも迷惑なことじゃん。どう言いつくろうとも。

単純に物理的に考えても、さっきまで生きてた人間が重量数十キロ、最悪0.1トン以上の、腐敗へと進む有機物の塊に化けちゃうわけだから

けれど、そこで家族なりコミュニティなりの絆がある人間は、悲しんでもらえる、葬儀も出してもらえる。

そうじゃない人間自殺したとして(いや、自殺全般に言えることだけど)、

電車に飛び込めば「電車止めるな、迷惑掛けるな」

水に飛び込めば「死体攫いがどれだけ面倒だと思ってる、迷惑な」

ビルから飛び降りれば「飛び降りだなんて迷惑まりない」

山奥で首吊っても「誰が山狩りすると思ってんだ、迷惑な」

結論としては「死ぬな、迷惑だ」が世間の概ねの意見なわけだ。

じゃあ、世間が「死ね、死んだほうが迷惑にならん」と言ってくれる環境ってなんだと思う?

「凶悪犯として逮捕され、死刑判決を受けて、死刑執行されること」だよね。

生きることも社会に肯定されず、死ぬことも社会に肯定されない人間にとって、唯一の自己肯定を得る手段が

通り魔として死刑に処されて、自分の死を社会から肯定されて死ぬこと」だったんじゃねえの、と思う。

この思考実験が外れてくれること、仮に当たってしまったとしてもこのプロセスを辿って凶悪犯罪に至る奴が二度と出ない事を祈る。

はてブ維新嫌いクラスタ論理マジですごい

大阪ミナミ通り魔事件で、松井一郎大阪府知事は11日、

現行犯逮捕された礒飛京三容疑者が「人を殺せば死刑になると思ってやった」と供述していることに対し、

報道陣に「『死にたい』と言うんだったら自分死ねよと(言いたい)。人を巻き込まずに自己完結してほしい」と発言した。

について、

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/national/news/20120611-OYT1T00224.htm

行政のお前が仕事しないからこういう自殺志願者が現れるというのに!」

みたいなのが大量にいる。

アホ仲間同士でだろうけど星もいっぱいつけてる。


って、

あ~~~んな散発的なキチガイについて行政責任問われてたまるかよw

という以前に、たとえば宅間守が出てきた時にも大阪府知事堺市長を叩いてたのかよこいつらはw

もし叩いてたなら頭パーなりの一貫性はあるけどさあ。

叩いてないよなきっと。


「凶事が起きるのは施政者が悪い」レベル感情を顕にしてるのが

知的で偽科学嫌いのはてなの人って言うのが大笑いだよ。

しかも磯飛容疑者は前日に大阪入りした住所不定無職だってさ。

そんなのを大阪行政がどう防げてたってんだよw

(もちろん磯飛の住民票があるとこの首長が悪いわけでもない、当たり前だ。)


それに軽く行政行政言うけど

もしこれと同じ理屈地方公務員が批判されたらどうよ?

とたんに血相変えて「因果関係が無い」「言いがかり」「公務員イジメ」って言うんだろうにさあ。


維新が嫌いだから常に叩くチャンスうかがってるのはわかるけど

こう馬鹿丸出しな言いがかりで叩いてるの見ると「あれ?馬鹿なのかな?」って思っちゃうよねw

まあ馬鹿なんだけどさ。

心斎橋通り魔事件

被害者男性の方がデジターボ南野信吾氏であることが確定してしまった。(もちろん別人だったらいいという話ではなく、理不尽な事件で二人もの命が奪われたことには変わりないので、あまりこういう言い方はしたくないのであるが。)


これまでの流れから見て、おそらくマスメディア特にワイドショー関連は氏について「ゲーム関連の音楽プロデューサーライブ先で悲劇」という方向で報道するのであろう。

このお涙頂戴に安易に走る報道姿勢にも個人的には嫌悪感を抱くが、それ以上に今懸念しているのが、デジターボニトロプラス関係の出版物、特にすーぱーそに子辺りが大々的に暴露されることなのであるが、私は異常なのだろうか。異常なのだろう。

病気

大阪心斎橋通り魔事件があったら、やれ在日朝鮮韓国人犯人だ!とか、

高知ご神木が枯れさせられているということがあれば、やれ在日朝鮮韓国人犯人だ!とか、

アメリカの方で俳優(だったっけ?)が強姦(だったっけ?)で捕まれば、やれ在日朝鮮韓国人犯人だ!とか、

どうして確からしい情報が出てくる前からそう決めつけられるのだろう。

画面を通して相手の国籍がわかる超能力を身に着けられたのだろうか。


どうしてネット2ch界隈)はどうしてここまで病んでしまったんだろう。

2012-06-10

http://anond.hatelabo.jp/20120606073855

大阪でも刃物振り回して人を刺す通り魔が出たね

おっかなくてかなわんね

大阪通り魔って

助けて!という声が聞こえたと、各メディアは書いているけれど、

誰も助けなかったってことだよなぁ。


でも、実際自分の前で、見ず知らずの人が刺されていたら、助けにいけるだろうか?



うーん。

2012-06-01

法の原則論で問題は解決できるのだろうか。その切り口で勝てるのか

今北産業

  • 法学意見原理原則に従って戦っても、例え勝てても法論争に勝って勝負に負ける結末しか無いような気がする。問題は経営問題
  • 規制当局は裁判になったら根拠など過去の事件例など持ち出していくらでも出せるはず。それに対して勝ち目があるだけの論理は今のところ見当たらない気がする
  • 司法で無理なら立法行政を動かすしか無いので、結局法の問題で完結することは無理じゃ無いだろうか

http://anond.hatelabo.jp/20120601011200

への反応です。

原理原則よりもあすのパン

いや、経営的(社会的責任)には妥当です。すごくまっとうな話をされてるのはわかる。常識的だ。

けれど、法の手続き論(法律責任)の話としては論外です。

そして「規制」の話は法の手続き論の話だと思うんですよ。

確かにその原則仰るとおりだと思う。

法学的な意見は正しい。

だけど企業が直面する規制問題というか、企業法務という考えだとそんな原理原則を言われてもどーにもならないよ。

しか今回は後出しじゃんけんというか、サブマリン規制と言っても良いかもしれないけれど、すでにそこに法として存在する規制についてどうにかしなきゃならないから余計に。新たに作られる法律ならばいくらでもその手の議論はできるけれど、今回の場合それが可能な舞台はあるのだろうか?

通り魔に襲われて道に倒れている人物に必要なのは救急医療明日のパンをどうやって買うかであって、「通り魔の奴ら法を守らないなんて酷い!原理原則を守るべきだ」と話をする人でも、「通り魔に襲われても自衛できるための日頃の備えが必要あなたはそれが足りなかった」と説教する人でもないよ。

すでに既得権的に規制がそこに存在してしまっている以上、その司法の方面からのみ何とかするには、結局裁判やらそこら辺に訴えるしか無いと言う事になっちゃうわけで。それは現実的では無いし、実際の問題は複合的に現実現場で発生している問題に対しては解決になるだろうか。だから「法はこうあるべきだ」「正しい手続きはこのようになっているはずだ」という論ではなくてもっと臭いから話をしないといけないと思う。

現実として裁判が行われ、既存法律違憲であると言う判断がくだり、立法府が動いて法改正に繋がった、なんて案件日本でどれぐらいあるだろうか?

まして相手が警察検察である場合さらに、一般人に理解されにくい(と言うか正論暴力的な「そんなことは無くても暮らしていける。犯罪に繋がるなら一切禁止すれば良い」と言った言動から発生する、リアルでは表だって賛成しにくい部分)話である場合、どれだけ動いているだろうか。

一方、厳しい法規制に対して業界が音を上げて、もっと現実的な規制にしてくれと働きかけて規制が変わると言うのはそれなりにある話だよ。(ただ、こう言う後で問題になりそうな細則は大抵政令によって定める事になってて法改正までは必要にならないことが多いようだけれど…)

この場面で法律手続き論の話はあんまり出番が無いのでは

経営の話で法律的ではない。そう思ってます必要なのは司法の話じゃない、今ある状況をどう手当てして、どう先に進むかだよ。

ぶっちゃけ、法的には勝利を勝ち取ったが、経営的には破綻して潰れました、クラブがあった所にはペンペン草すら生えませんでした、では今いる人々の救いにはならないよ。

こう言う所だと、誤用とされる用法ではなく、本来の意味での「確信犯」的な外部の人が出てきて原理原則を突き通せ、正義あなたにあるのだから戦い続けるんだよって話になりやすいんだけど、それって結局戦いに勝って勝負に負ける事が多いと思うんだけど。こういうのって

といったいわゆる昔から左翼運動の問題になりやすい部分で非常に多い。別にそれが悪いと言っているわけじゃ無いよ!こういう人がいるから世の中変わっていくし、問題が常に社会に提示され続けることで一定の歯止めになっている。

ただ実利を取るにはこれじゃだめだってこと。社会正義は果たされた、けど、みんな不幸になったで終わっちゃ困るでしょ。

あと、この方面で参考にするのならば

http://www.pot.co.jp/matsukuro/20120130_124823493926982.html

ここから始まる一連のエントリーじゃ無いかなと思いますどうでしょうか。多分今回の運動の論拠にされている震源地の一つ。

必要なのは今ある問題をどうするかであって、法律の話なんてその後でいい、そう思いますがどうだろう。

その上で司法的な部分で勝負するとしても…

その上で、司法的な部分で勝負するにおいても、だけど、規制当局は規制の根拠を十分示してない、と言えるのだろうか?

自分が知る限りだと、一番まとまっているのはこれ

http://www.pot.co.jp/matsukuro/20120130_124823493926982.html

で、あとはこれをもっと硬い文体に直したり、弁護士名で違う言い方をしたりしているだけでだいたい同じことを言っている。その中身は過去の経緯と今は違う、規制が古いんだと言い続けているだけで、今法によって保護されている部分に対する手当がやっぱり出てこないのよ

古かろうが新しかろうが、規制されていることで保護されている部分があって、実際裁判になって規制当局にどういう規制の意義があるのかと聞けばぞろっと資料を出してくるでしょうけれど、それに対して十分な反論できるであろう資料が無いの。規制当局が今、表だって資料を出していないのは、すでにある法律からで法として存在する時点でその責任果たしていると考えているからではないかな。(意地の悪い言い方をすると、現状維持で良いとする側はあえてそう言う努力をする必要が無い。原則論じゃ無くて、現実として)だけど、裁判になれば根拠をいくらでも持ち出して来ると思うよ。(規制に根拠があるか示せ、という請求をする方法裁判しかいからこうなっちゃうわけだけれど)

もちろんそうじゃ無いんだ、と言う強弁はあちこちから聞こえてくるよ?だけど、それに具体的な内容が伴ったものがどれだけあるだろうか?

活動の中心的なサイトにすら、そう言う資料が全く出てこないの。これは何故なんだろうか。

この原理原則すら守れているかと言うと大いに疑問。この切り口で法律闘争に持ち込んだとして、何とか勝てるだろうか?

自分は大いに疑問なんだけれど。

司法で戦うのは無理筋では。勝負に負けても実利を取るべき

結局司法でやり合うには無理があると思う。いくらみんなで原則はこうだ、と言い続けても、それで何か動いたというのあまり記憶に無いか。またこう言った問題で規制当局が地裁など手頃なレベルで手を引いたと言う話も聞いたことが無いので時間がかかる事は必至だと思う。

それが社会正義的に合っているかどうか、間違いだとかそういう話は別だよもちろん。

あるクラスタには法律手続き論に見えるかもしれない。けど、実際はいろいろな問題が絡まっているから、法の手続きの問題じゃないよやっぱり。

そうなると立法府行政を動かすしか無い。つまり政治力になる。政治を動かす一番手っ取り早い方法大衆共感を得ることで、それには文化で押し切るのではなくって、もっと通しやすい所から話を通さないと、と思うわけなんだけれど‥‥。

2011-12-19

刑法典の「真意」

 松戸三郷通り魔犯は動物虐待からエスカレートしたそうだ。

 ふと思ったが、動物愛護法虐待処罰規定の存在意義って、

 行為自体の違法性重大性が問題なんじゃなく、

 「将来殺人罪などの重罪に走りかねない『犯罪者予備軍』の

 スクリーニングに、法の存在意義があるんじゃないのか?

 でなきゃ、「ネコいじめるのは法律違反だが、ネコを食べるのは法律違反じゃない」という

 矛盾したことにならない。

 こういう「法律存在意義は別のところにある刑法文」って、結構ありそう。

 例えば「死体遺棄罪」というのは、ホンネのところの存在意義は、

 「殺人容疑者が目の前にいるが、殺人容疑で拘束するには根拠不十分、という場合に、

  立件しやすい死体遺棄罪で逮捕状を請求し、でも実質は殺人罪の取調べをする」

 というところじゃないか

 要は殺人罪立件の道具としての死体遺棄である

 本来の趣旨がそうなんだから、「親の葬儀代が出せなかったから、仕方なく死体をそのままにして、

 処理に困ったから庭に埋めた」というのに杓子定規死体遺棄適用するのは、

 「本当の立法趣旨を理解せずに」、単に条文の字面だけで法適用している気がする。

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