はてなキーワード: 通り魔とは
今回、ツイッターであのやり取りを見ていて、心底ゾッとした。
一応反省したテイで開始されるこの文章、しかし反省というよりも、文章の2/3は怒り収まらぬ様子の文章。
この人、軽率だとか自分で言っているけども、多分軽率の度合いがわかってない。
下手したら店が閉店に追い込まれてもおかしくない。人生が狂っても驚かない。
今回、乙武さんがやった行為は、ひとつのことを知らしめたと思う。
それはつまり、飲食店等の客商売をしていて、障害者という存在はとてつもなく危険だということ。
今まで作ってきたイメージも客も評判も何もかも、障害者の気に入らない事をしてしまったが最後、晒され、叩かれ、悪者にされ、最悪の場合全て失ってしまうかもしれないこと。
まるで何気なく街中を歩いていて、突然通り魔に命を奪われるようなものだ。
不運としか言いようがない。ああ、障害者には関わりたくない。近寄って欲しくない。性質が悪い。人生滅茶苦茶にされかねん。
このような、全く建設的ではない、障害者も健常者も社会も誰にもいいことのない、ネガティブイメージ。
これを知らしめた、ということだ。
乙武さんのこの釈明記事を読んでなお、ネガティブイメージは払拭できないなと思う。
普通の人なら、自分がネット上で悪として叩かれ晒されているだけで、十分先行きに絶望して日常生活に支障を来すだろう。
でも、こんなことしちゃった僕の気持ちも解って下さい!という文章からはそこに対する気遣いは全く感じられない。
てか相手の謝罪ツイートも見たのか見てないのか知らないが、「許してくれるなら」って、会話する気なしとしか思えない。
なぜ電話であらかじめ手がかかる事を伝えなかったのだろう。
店で面倒をみきれなければ、責任を持ち切れなければ、店だって拒否をする権利はある。
だけど先に伝えておけば、店にだって準備のしようがあるだろう。
店側もやむなくどうしても無理なら、また改めて後日お願いできませんか?と伝えることだってできる。
その事前の根回しもなく、当日突然、当たり前に手伝いを要求。
そんなの絶対、店の人だって不愉快だ。怒られても仕方ない行動だ。
念のため、障害者だから不愉快というものではない。健常者に求められたって不愉快だ。
障害者だけでなく「何かに対応が可能な準備」には少なからずコストがかかる。
インターネットが使えない、或いは苦手な人のために電話対応用の人員機材を用意するのも、
街中で視覚障害者が自力で歩けるように点字ブロックを道に埋めることも、
コストであるからには、そして商売であるからには、費やせる量にも上限がある。
乙武さんは、自分が突如手を借りる時に必ず不自由することなきよう、店に人を置いておけというのか。
当たり前に店はそのコストを払い続けて、そして乙武さんはこの店にそれをペイできるほどの金を落とすというのか。
ただ、事前に事情を説明すればいいだけのことだ。
時間がわかれば、店だって事前にその時だけ何か用意ができたかもしれないのだ。
障害者が健常者に比べて何かしら手間がかかるからといって、障害者の方々はひきこもる必要はない。
でも、健常者同様に、相手に迷惑をかけるのであれば、気遣いはしてほしい。
人にひと手間かける時は、すみませんが、ご迷惑ですが、は普通のことだ。
そして、人は必ず手助けができる状況にいるわけではないことも、当たり前に理解しろ。
(まあ健常者でも、理解できてない頭の弱い人は多々いるのだけども)
同等、平等っていうのはそういうことだと思う。
手間がかからなければ偉いものでもなく、手間がかかるから下扱いされる謂われなどない。
私は障害者を差別しないから、ちゃんと人と人としての気遣いも求める。
それもできないなら、障害者だからではなく、人として関わりたくない。
損得や苦楽が判断基準ではない。単にひととなりの問題だ。
それが解っている障害者の方々は多いだろうに、乙武さんの行為はそういう方々の行動を台無しにしている。
不愉快過ぎて、普段文章なんか書かないのについ増田してしまった。
有名人ないし著名人は危険、という部分も大いにあると思います。賛同します。
乙武さんでなければここまで大きな話になることはなかっただろうと私も思います。
ですが、仮に今回の出来事を誰もが知ってる芸能人が書いたら、ただの傲慢、感じわり~、だけで片づけられた話でもあると思います。
そして、大多数の著名人は、店名名ざしでこういう話を持ち出したりはしないようにも思うと、添えさせていただきます。
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なんで自ら選んで障害者になったわけでもない方々が、そんな「健常者より気遣う」必要があるのでしょう。
例えば店で買い物をした時に、店員からありがとうございましたと言われる。客はありがとうと返す。
売ってやったわけでもなく、買ってやってるわけでもない関係がそこにはあると思うのですが、
手伝われる方も、手伝う方も、それくらいの気遣いが出来ればじゅうぶんにスムーズだと思います。
「健常者より気遣いしろってこと?」という表現は、まるで自炊できずにコンビニ弁当ばかりの人が、
「自分は料理できないから店員に対して余計に礼を述べろっていうのか?」くらいに思えますよ。
障害者が社会に手助けを求めるのは当たり前の権利であるなら、手伝うことは社会の責務です。
その責務を、各々できる人たちが可能な範囲で担当するだけのことです。
ただ私は円滑でお互いが気分よくなれるコミュニケーションを求めるだけのことです。
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もし自分でコミュニケーションをとることがとても困難な方の場合は、おそらく介添えの方が同伴されることが多いと思います。
何も障害者本人が必ず何かレスポンスを、というつもりは、もちろんありません。
むしろ、それが難しい方が単独で居られるなら、それは積極的に手助けなどをしないとまずいのではないかなと思います。
きれいごとであり、理想論であり、空論であり、なおかつ傲慢でもあるのも、否めない部分があります。
さらには承知した上で意図的に強調をしているので、批判や反発もあるべきだと思います。
だいたい、匿名ですし。(他に長文をさくっと発表できる場所がないからですが。)
手足がなかったら同じことが言えるか、とおっしゃる方がいらっしゃいました。
乙武さんの苦労が簡単に理解できると思う程傲慢ではありませんし、全て察せられると思える程の自信もありません。
ですから、自分の想像だけを根拠に「言える!」と簡単にお答えできるわけもなく、
しかしながら「言えないかもしれない」という生半可な気持ちでもないので、回答は「わかりません」になります。
ただ、たまたま手足がある人ですので、手助けの余力がある可能性も高いですし、その立場から手足のあるなしなんか目もくれずに
不愉快なら、「こうだから」不愉快だ、「こうすればよいと私は思うのに」と言うだけのことです。
手足があるから、手足がないから、何か遠慮しなくてはいけませんでしたか?
それは、腫れ物扱いって言うのではないでしょうか。
普通の人は、自分を責めるときにどういう言葉を使うのだろうか?
ここのところ、自分は生きる価値のない屑だと自分で自分を罵りすぎている。さすがに疲れた。
8年前にちょっとした挫折をして、まぁ普通なら青春のほろ苦い1ページで終わるのだろうが、それがそれまで長閑な田舎で暖かい目で見守られてきた自分にはかなり痛手だった。
数年間、生きているんだかいないんだかよくわからない状況になったが、それまでの肥大化したプライドを守るために勉学に励んだことが幸い社会のレールから外れることを防いだ。
しかし、それがかえって、歪みを温存することになったようだ。
そのあとも、恋愛関係や曲りなりに続いていた友人関係で、恒常的な失敗や、絶交や、あと一歩でリアルNiceBoatなところまでやらかした。
そこで、自分は、自分以外の人間を自分と同じように人格を持つ人間だと認識していないと気付いた。
独我論というか、利己的というか、自己愛性人格障害ですかね。にーちゃん、アスペと躁病追加しといて。でもあとでいうけどちがうんだってさ
それから3年か、悩みましたよ考えましたよ。普通の人は(たぶん)小学校高学年から高校生ぐらいで考えるような痛いことを。
Jポップやアニソンとか、けっ!と思ってましたが、あれの歌詞によく出てくる「自分を大切に」「ひとりじゃ生きられない」とかいうのはちゃんと子供のころに素直に受け取っておくべきでしたね。
で、なんとか落ち着いたか、そういうことはもう悩まない、そりゃ人生長いしまだ完成されたなんて言えないけど、人生観みたいなものの根っこはできたかな?というところまできた。
が、治らない。
自分の在り方に対する悩みはなくなっても、ふと気づくと、自殺衝動が出る、通り魔になって殺人する妄想をしている、自分は生きる価値がない屑だ、早く死ねと自分で自分をののしる。
生きることは絶対苦しいことだ、死ぬことは幸せだ。みんな死ね。
そういう独り言や脳内音声が頭に充満する。それ以外何も考えられなくなり、やる気が出ない、集中できない。
ちょっとした失敗、たとえばスマホを床に落としたりしただけで、お前は無能だ間抜けだと喚き散らす。こういうときは脳内でなく実際に声に出して叫ぶからたまったものではない。
スマホを床に落として自分を間抜けと罵りわめくこと自体がよっぽど間抜けなのだが。
とまぁ、それぞれに対して、自分なりの理屈で反論したり、本やネットで仕入れた精神学的な分析をして納得したりはできる。でも、収まらない。
反論分析すること自体、そういう思考を強化してしまうのではないかと、瞑想して思考をストップさせたり、はいはいあとでねと受け流したりした。
ある程度効果はあるようだが、すぐにぶり返し、抑制しきれない。
困った。
精神科に行ってみた。病気みたいだが病気ではないですね。はて、はい?
発達障害ですか?そのようにみえるがそうではないですよ。
要するに「健常」だが「未熟で幼稚な」「変人」というところらしい。
どうすれば?ときいてみたところ、生きていくうちに自己コントロールの経験積むしかないですね、と。
他のとこ行ってみたら、同じく病気でも障害でもない、ただ、そういう衝動は薬で抑えるしかない、とも。
でもちょっと薬は怖いので遠慮しといた。今少し後悔。
普通の人でも、落ち込んだり、失敗して自分を責めたり、後悔したり、そういうことはあるだろう。
でも、その場合、どういうことに対して、どのような内容で、どのように、どれだけ、自分を責めるんだろうか?
人間の能力はおよそ次の割合で決まっていると思う。5割は遺伝子、3割は環境、そして残り2割が努力だ。
まず遺伝子。これはどうしたって人間みな同じではないから、生まれながらに差がある。遺伝子的に強い人、弱い人というのがいる。病気になりやすい人、なりにくい人、体格の優れた人、劣った人、障害のある人、ない人、容姿の優れた人、そうでない人。コミュニケーション能力の高い人、低い人。個性だとかなんとか言って、人間の評価に公然と序列をつけるのはあまり好ましいことではないが、生物的にははっきりしている。それは生き物として強いか弱いかの差だ。
このことはスポーツの世界で考えてみれば、理解しやすい。どれだけ練習を積んでハードなトレーニングをしたって、誰もがイチローのような名選手になれるわけではない。体格をカバーするために技術を身につけるとか、基礎的なトレーニングに手を抜かないとか、そういう努力が実を結ぶ部分はあるが、じゃあ一流になれなかった選手は努力が足りなかったのかと言うと、そうではない。子供の頃からプロ選手を夢見て練習を積んでいっても、どこかで伸び代には限界があって、大きな大会に出れば、自分には越えられない壁というものがあるのを思い知り、その世界で食べて行くのは無理だという現実にぶちあたり挫折するのだ。
何も一線で活躍するだけが能ではないので、能力の低い人は低い人なりに、活躍できる場面を探せばいい。うまく自分の収まる場所を見つけられなかった人間は悲惨だ。例えば、プロ選手にはなれなかったけど球団職員になるとか、本人がやりがいをもっていきいきとやれれば何の問題もない。だが選手としてぱっとせず、打撃練習用のバッティングピッチャーになったものの、過酷な環境やプレッシャーに汲々としながら給料も安くても生きるためにやっていかなくてはいけないというのは辛い。まあスポーツには全然詳しいわけじゃないので知らんが。
とかく勉強とか、仕事の場面では、全てを本人の努力に求められることが多いように思う。思うように成果を残せないのは、頑張りが足りないからだとか、怠け者だからとか。もちろん本当に努力が足りなくて、もっとできるのにやっていないだけという場面もあるだろうが、ある程度自分ではどうしようもない部分もあるんじゃないか。
鬱病は、誰だってなり得るものだが、ただやっぱり精神疾患に罹りやすい家系とか、なりやすい性格というのはある。身体は資本なので、肉体的に弱い人は大変だと思うが、心が健康じゃないのも生きていくのに辛い。メンタルが弱いとか、自分に自信が持てないとか、それだけで競争に勝ち抜くのに不利だ。本当はそんなこと望んでいないのに、苦しさのあまり自ら死にたくなるなんてどう考えても生物的に欠陥ではないか。全て本人の自己責任とは言えないと思う。
コミュニケーション能力も同様。ずば抜けて何かの能力に秀でている人は周りが放っておかないので人格に多少難があろうが食っていけるだろうが、そうでない大部分の人にとって死活問題。社会的関係をうまく築けない人は、情報を得たり、何かを経験して成長する機会も少なくなっていくので周りから孤立してどんどん差が開いていく。変な人、と見られて近寄り難い存在となって怖がられたりして。普通の人が特に意識しなくてもできる、自然に会話したり周りに合わせたりということができないだけなのに。それとは逆に、タレントになれるような、小さいときから自然と周りに人が寄ってくるというような人は、努力して人に好かれようとか思わなくても自分のしたいように気ままに振る舞ってもそうらしい。そういう人気者は寄ってくる人がうっとうしいと思ったりするらしい。もちろん努力して自分を変えたという人がいないでもないことはわかっているが、レアケースだ。
次に3割を担う、環境という部分。これは生まれてから現在までの生育環境、そして自分の置かれた経済的、人間関係的、地理的、環境だ。人間、自分が思っている以上に周りの影響を受けるものだ。周りが頑張っている人ばかりなら自分も頑張らねばと思い、周りが適当な人間ばかりなら堕落していくのが人間だ。遺伝子は変えられないから、人を作る上で教育が重要なことの理由でもある。
犯罪者や死刑囚のエピソードを見ると、幼少期にどう育てられたかが影響していることが多いように思う。生まれながらに根っからの悪人なんて者がそうそういるわけではなく、身近に愛情を与えてくれる人がいたら、正しい道に導いてくれる人がいたら、別の人生があったのではないか。死刑の永山基準で有名な、永山則夫のドキュメントを見たときにもそう感じた。通り魔殺人なんか起こした人の報道を見ると、そこに至るまでの段階に本人の責任が大きいし、同情は出来ないし、決して許せることではないが、ただなぜ犯人がそのような心境を持ったのかについては理解できることがある時がある。社会から疎外され(たと感じ)、自分には失うものが何もないと思い、自暴自棄から破壊衝動を起こすというのは異常心理でもなく動機としてはわかりやすい。ただ選択として間違っていたというだけだ。犯罪に至るまでの環境に何か別の要因があれば、また別の未来もあったかもしれない。
どの世界でも一流の、活躍している人には、一流の者同士の付き合いがあり、お互いを刺激し合い、高め合う関係ができている。一方で、一人頭の悪そうな不良を捕まえてみれば、周りは同じような輩ばかり。低学歴、低所得の層には犯罪に手を染める物も自然と多くなるし、何かあれば足を引っ張り合う関係がある。転落していく人を助けてくれる人はあまりいないが、下で待ち構え、上昇していこうとする人の邪魔をする人はたくさんいる。だから自分を変えたいと思ったら所属する場所を変え、付き合う人を変えるべきなのだ。
あとは、残りの2割が本人の努力だ。努力を継続できるかということ一つとっても、遺伝子や環境による影響から完全に免れられないことは書いてきた。努力を継続するための工夫としては、目標の管理の仕方とか、精神と肉体は両輪なので難題に挑戦するときは身体は鍛えた方がいいとかあるが、そういうことは今回の主題ではない。
この数字は僕の経験と知見から導き出したものだ。科学的根拠や出典を問われてもない。だが、そんなに実態と離れていないし、なかなか絶妙だと思っている。半分は生まれながらに決まっていると言うと、ある意味残酷でショッキングだが、環境と努力は自分で変えられるものだから、残り半分は本人次第と言うこともできる。遺伝子と、環境もある程度までは与えられるものだから8割が運っちゃあ運ということもできる。
もちろん近代文明社会としては、誰にでも生きやすい社会でなくてはいけなくて、生まれもっての能力での差はなるべく埋めるべきだが、理想としてあるべき姿と現実は違う。そうした能力に差があることは誰しもわかっていて、受験、就職、結婚相手や付き合う人を選ぶ場面で常に競争にさらされている。皆少しでもよりよい条件の相手を求めている。能力の劣った人は優れた人に比べてハンデを負って生きていかねばならない。世の中は全然公平になど出来ていない。与えられたカードで勝負するしかない。
オタク文化やオタクという人種には、できるだけ関わらないようにするのが処世術であると思う。
はじめにそう感じたのは、電車男の頃に、秋葉原で路上喫煙をしていた男が写真を晒されていたのを見たこと
で、
オタクの縄張りを荒らすとリンチに遭う可能性があると意識した。
オタクの興味の範疇は狭いが、その内で事を起こすといつまでも粘着される。
戸松遥ライブでの照明器具落下が、もしアニソン歌手以外のコンサートで起こったら、ここまで騒がれただろうか。
オタクに興味をもたれると本当にロクなことにならない。
一度アニソンを歌うと、その歌手は一生、オタクからアニソン歌手というレッテルを貼られたままだ。
十年くらい前に亡くなった、フルーツバスケット?のアニメの歌手の話題には確実にオタクの反応がある。
それは彼女の音楽が素晴らしかったからというより、アニソンという身内の文化に関わったからだ。
オタクという人種に関わりを持つのならば、一生関わり続ける覚悟が必要だ。
ビジネスとして関わるにしろ、オタク関連の仕事でなにか間違いがあると、
一般社会で考えられる以上のバッシングを覚悟しなければならない。
不可触な存在と思ったほうが身のためだ。
露出狂が女子高生に性器を晒すのはどう読んでもネットに俺理論を書き込むことだろ。俺は女子高生じゃねーけど。この流れでそれ以外の文脈はありえないよ。
根拠を聞いているんだよ。何故「ネットで」「俺理論」の例えがそうなるのか?
箇所がネットであるということの根拠も不明だが(俺理論を開陳するのに最も最適な場所は本だ)、それを措くとしてもどちらかと言えば例えば掲示板に単なる猥語を書き連ねるたぐいの通り魔的な荒らし行為が該当するんじゃないか?
単に君が不快を覚えたのでその不快を表明するために引いてきた以上の意味はないんだろ?
読書が自慰なのはリアクションが期待できない行為でありまた行為者即ち読書するものはリアクションを期待していないから。
何を与えられるにせよ、読書者は自分が何かを得ることを期待しているし自分が何か与える立場になることを前提して本を読んだりはせずまたできない。
本は何も受け取らない。
ネットがややネックか。テルセックスに例えたが、ネットという媒体を介したコミュニケーションのこの手軽な割に規模のでかい感じは性的行為で例え切れてない感じはする。
バイトを始めようとするものの身だしなみに必要な金が揃えられず雇われず
派遣に登録して働き出すものの 可愛いなと思っていた同僚は事故で目の前で機械につぶされ主人公も危うく潰されそうになり
ベンチにはホームレス避けの区切りのせいで眠れず
こつこつ材料を集めて川辺に建てたツリーハウスで夜の寒さをしのぎ日雇いしながら
幸せそうな家族や正社員を横目で眺め「あの中には2度と入れない」とつぶやき嗚咽する
ある冬の寒い日に路上で飢えと寒さに力尽き行き倒れた主人公の冷たい亡骸の横でエサを満足に与えられず骨と皮ばかりになった弱った猫が
主人公の亡骸をついばんでいた
小女子事件のときも今回の時もそうだけど、治安関係者は「本当にやるかどうかわからない以上本気として対処せざるを得ない」とか言うんだよね。
でも、通り魔とか、ネオ麦茶の件とか、実際に発生した事件に対してどの程度の抑止力があったのかがよくわからない。分析・評価がされてるように見えない。
仮に、ネットでの犯行予告はなかったものとして、実際に事件が発生した後から遡及的に捜査をはじめたとして、現状のアプローチと比較してどの程度の差があるのだろうか。「犯行予告だけで真に受けるから犯行予告をする愉快犯」という事件の発生数まで考えると、かえって無視したほうが社会全体としてははかどるのではないだろうか。
というところまで考えて思い出したのが、職質に対する疑問。それも、下手すると「男が一人で歩いてる→職質」みたいなことがある地域もあると聞く(秋葉原とか、池袋とか?)。あれも、「もしナイフなどを持っていたら治安が云々」と犯罪予防効果を主張するのがいるが、実際のところウチの職場でちょっとココロが病んじゃってた子、職場にナイフ(それも戦争映画でしか見ないようなゴッツイの)持ち込んでて問題になってたが、スルーされてた。あれも結局、犯罪の抑止効果なんてロクになくて(宝くじにあたる程度?) それよりも単純に「検挙件数」をかさ増ししてるだけにしか見えないんだよね。やらないほうがマシ、というレベルで。
こういった世の中の(正しそうだけど非効率な)流れに対して通奏低音のような何かがあるのだろうけれども、頭が悪いので何がどう悪くて、なにをどう改善すれば良いのか思いつかない。それでも、ちょっとしたエロマンガでつかまるカナダや、裸で踊ってると射殺されるアメリカや、そもそも何が何だかよくわからないメキシコや、宗教批判のマンガ書いただけで殺人公認になったり、号館された女を犯人と強制的に結婚させて「なかったこと」にするインシュアラーな国々に比べれば、まだまだ平和なんだけどね。
ブスのくせに痴漢の心配してるwwwとか、階段でスカート押さえてるwwwwとかを馬鹿にしてるのを見るんだけど
ブスやデブって、痴漢とかスカートを見えないように工夫してはいかんのか?ブスは女性性を放棄しないとだめなのか?
誰もお前のことなんか標的にしねーよってのは、ブスが痴漢の心配wwwとかって笑ったりすることの理由にはならないと思うんだ。
どうしてもそう思いたい人に分かってもらえるように言うと、標的にされるか否かの事実は問題ではないんだよ。
自分が女性であるという意識がある限り、潜在的に自分は痴漢や変質者の標的であるっていう拭い去ることのできない恐怖が常につきまとうんよ。
ブスが痴漢にあわない保証なんて誰がしてくれるんだよ。されてからじゃ遅いんだよ。まずはハードル低いブスから始めるかもしれないだろ。勇者ちかんにとってのスライムみたいなもんでさ。
だいいち痴漢なんて存在そのものが誰にとっても迷惑だし出会いたくないものだから、できる限り避けようとするのはブス美人男女かぎらず合理的な行動だと思うんだよ。
自分でなくても他人が痴漢されてるの見て不快でないなんて、同じ変質者かAV脳、エロゲ脳だけだと思うよ。まともな大人なら男女関係なくリアル世界でこんな光景みたくないわ。
ブスが痴漢を心配するのは、幽霊を信じてる人がそれを怖がるみたいなものなんだ。
幽霊を信じてる人は、どんなに幽霊が存在しないって説得しても、墓場や廃病院は怖いから近づきたくないよな。
この人の行動規範を幽霊なんかいねーから遭遇するわけねーだろ馬鹿がwwwって批判するのは簡単。でもこの人にとっては、自分が幽霊の存在を感じないで済むかどうかが大事なんだよ。
つまり、幽霊の恐怖で頭を支配されないで済むなら、気味の悪い墓場を避けて遠回りするか、高いタクシー代を払ってささっとスルーした方がよほどいいんだよ。
それは別に批判されたり笑われることでもなんでもないだろし、それを笑ったりするのもどうかと思うぞ。
幽霊を通り魔に変えたらどうだ?遭遇するかどうかも分からない通り魔をできるだけ避けようとする奴を腰抜けと笑うのか?
あくまで状況証拠になるけど。
名古屋妊婦切り裂き殺人事件の犯人だが、大っぴらに報道されない理由が帰化人であること。ちなみにその殺人事件が起こる前後に近隣地域で連続婦女暴行事件と連続窃盗事件と通り魔事件が発生している。偶然にしては起こりすぎ。
で、犯人はベトナム人女性を惨殺し、また別件で下呂で死体遺棄したと警察とかマスコミにアピールした後藤明弘。後藤の自宅からはその遺棄した女性を惨殺した画像や動画が溢れかえっていた。マスコミにはサイコパスとかネクロフィリアと目されている後藤。報道してないのは左寄りの放送局や新聞社。まあ当り前か。
ちなみに前科もかなりあるらしい。らしいってのは2ちゃんねるで拾った情報が多いから。それによるとコンビニ店員時代に異なる年度に三回窃盗と婦女暴行をし捕まってる。
初めに言っておくけど、通り魔は身勝手で邪悪で無残だから否定する。
だが、思考実験として、「凶悪な犯罪を犯す」方に、犯人が社会から追い詰められた可能性を一応指摘しておきたい。
単純に物理的に考えても、さっきまで生きてた人間が重量数十キロ、最悪0.1トン以上の、腐敗へと進む有機物の塊に化けちゃうわけだから。
けれど、そこで家族なりコミュニティなりの絆がある人間は、悲しんでもらえる、葬儀も出してもらえる。
そうじゃない人間が自殺したとして(いや、自殺全般に言えることだけど)、
水に飛び込めば「死体攫いがどれだけ面倒だと思ってる、迷惑な」
山奥で首吊っても「誰が山狩りすると思ってんだ、迷惑な」
じゃあ、世間が「死ね、死んだほうが迷惑にならん」と言ってくれる環境ってなんだと思う?
「凶悪犯として逮捕され、死刑判決を受けて、死刑執行されること」だよね。
生きることも社会に肯定されず、死ぬことも社会に肯定されない人間にとって、唯一の自己肯定を得る手段が
「通り魔として死刑に処されて、自分の死を社会から肯定されて死ぬこと」だったんじゃねえの、と思う。
この思考実験が外れてくれること、仮に当たってしまったとしてもこのプロセスを辿って凶悪犯罪に至る奴が二度と出ない事を祈る。
について、
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/national/news/20120611-OYT1T00224.htm
「行政のお前が仕事しないからこういう自殺志願者が現れるというのに!」
みたいなのが大量にいる。
アホ仲間同士でだろうけど星もいっぱいつけてる。
って、
あ~~~んな散発的なキチガイについて行政が責任問われてたまるかよw
という以前に、たとえば宅間守が出てきた時にも大阪府知事や堺市長を叩いてたのかよこいつらはw
もし叩いてたなら頭パーなりの一貫性はあるけどさあ。
叩いてないよなきっと。
「凶事が起きるのは施政者が悪い」レベルの感情を顕にしてるのが
(もちろん磯飛の住民票があるとこの首長が悪いわけでもない、当たり前だ。)
とたんに血相変えて「因果関係が無い」「言いがかり」「公務員イジメ」って言うんだろうにさあ。
こう馬鹿丸出しな言いがかりで叩いてるの見ると「あれ?馬鹿なのかな?」って思っちゃうよねw
まあ馬鹿なんだけどさ。
被害者男性の方がデジターボの南野信吾氏であることが確定してしまった。(もちろん別人だったらいいという話ではなく、理不尽な事件で二人もの命が奪われたことには変わりないので、あまりこういう言い方はしたくないのであるが。)
これまでの流れから見て、おそらくマスメディア…特にワイドショー関連は氏について「ゲーム関連の音楽プロデューサー、ライブ先で悲劇」という方向で報道するのであろう。
このお涙頂戴に安易に走る報道姿勢にも個人的には嫌悪感を抱くが、それ以上に今懸念しているのが、デジターボやニトロプラス関係の出版物、特にすーぱーそに子辺りが大々的に暴露されることなのであるが、私は異常なのだろうか。異常なのだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20120601011200
への反応です。
確かにその原則仰るとおりだと思う。
だけど企業が直面する規制問題というか、企業の法務という考えだとそんな原理原則を言われてもどーにもならないよ。
しかも今回は後出しじゃんけんというか、サブマリン規制と言っても良いかもしれないけれど、すでにそこに法として存在する規制についてどうにかしなきゃならないから余計に。新たに作られる法律ならばいくらでもその手の議論はできるけれど、今回の場合それが可能な舞台はあるのだろうか?
通り魔に襲われて道に倒れている人物に必要なのは、救急医療と明日のパンをどうやって買うかであって、「通り魔の奴ら法を守らないなんて酷い!原理原則を守るべきだ」と話をする人でも、「通り魔に襲われても自衛できるための日頃の備えが必要。あなたはそれが足りなかった」と説教する人でもないよ。
すでに既得権的に規制がそこに存在してしまっている以上、その司法の方面からのみ何とかするには、結局裁判やらそこら辺に訴えるしか無いと言う事になっちゃうわけで。それは現実的では無いし、実際の問題は複合的に現実の現場で発生している問題に対しては解決になるだろうか。だから「法はこうあるべきだ」「正しい手続きはこのようになっているはずだ」という論ではなくてもっと泥臭い所から話をしないといけないと思う。
現実として裁判が行われ、既存の法律は違憲であると言う判断がくだり、立法府が動いて法改正に繋がった、なんて案件、日本でどれぐらいあるだろうか?
まして相手が警察・検察である場合、さらに、一般人に理解されにくい(と言うか正論の暴力的な「そんなことは無くても暮らしていける。犯罪に繋がるなら一切禁止すれば良い」と言った言動から発生する、リアルでは表だって賛成しにくい部分)話である場合、どれだけ動いているだろうか。
一方、厳しい法規制に対して業界が音を上げて、もっと現実的な規制にしてくれと働きかけて規制が変わると言うのはそれなりにある話だよ。(ただ、こう言う後で問題になりそうな細則は大抵政令によって定める事になってて法改正までは必要にならないことが多いようだけれど…)
経営の話で法律的ではない。そう思ってます。必要なのは司法の話じゃない、今ある状況をどう手当てして、どう先に進むかだよ。
ぶっちゃけ、法的には勝利を勝ち取ったが、経営的には破綻して潰れました、クラブがあった所にはペンペン草すら生えませんでした、では今いる人々の救いにはならないよ。
こう言う所だと、誤用とされる用法ではなく、本来の意味での「確信犯」的な外部の人が出てきて原理原則を突き通せ、正義はあなたにあるのだから戦い続けるんだよって話になりやすいんだけど、それって結局戦いに勝って勝負に負ける事が多いと思うんだけど。こういうのって
といったいわゆる昔から左翼運動の問題になりやすい部分で非常に多い。別にそれが悪いと言っているわけじゃ無いよ!こういう人がいるから世の中変わっていくし、問題が常に社会に提示され続けることで一定の歯止めになっている。
ただ実利を取るにはこれじゃだめだってこと。社会正義は果たされた、けど、みんな不幸になったで終わっちゃ困るでしょ。
あと、この方面で参考にするのならば
http://www.pot.co.jp/matsukuro/20120130_124823493926982.html
ここから始まる一連のエントリーじゃ無いかなと思いますがどうでしょうか。多分今回の運動の論拠にされている震源地の一つ。
今必要なのは今ある問題をどうするかであって、法律の話なんてその後でいい、そう思いますがどうだろう。
その上で、司法的な部分で勝負するにおいても、だけど、規制当局は規制の根拠を十分示してない、と言えるのだろうか?
自分が知る限りだと、一番まとまっているのはこれ
http://www.pot.co.jp/matsukuro/20120130_124823493926982.html
で、あとはこれをもっと硬い文体に直したり、弁護士名で違う言い方をしたりしているだけでだいたい同じことを言っている。その中身は過去の経緯と今は違う、規制が古いんだと言い続けているだけで、今法によって保護されている部分に対する手当がやっぱり出てこないのよ。
古かろうが新しかろうが、規制されていることで保護されている部分があって、実際裁判になって規制当局にどういう規制の意義があるのかと聞けばぞろっと資料を出してくるでしょうけれど、それに対して十分な反論できるであろう資料が無いの。規制当局が今、表だって資料を出していないのは、すでにある法律だからで法として存在する時点でその責任を果たしていると考えているからではないかな。(意地の悪い言い方をすると、現状維持で良いとする側はあえてそう言う努力をする必要が無い。原則論じゃ無くて、現実として)だけど、裁判になれば根拠をいくらでも持ち出して来ると思うよ。(規制に根拠があるか示せ、という請求をする方法が裁判しかないからこうなっちゃうわけだけれど)
もちろんそうじゃ無いんだ、と言う強弁はあちこちから聞こえてくるよ?だけど、それに具体的な内容が伴ったものがどれだけあるだろうか?
活動の中心的なサイトにすら、そう言う資料が全く出てこないの。これは何故なんだろうか。
この原理原則すら守れているかと言うと大いに疑問。この切り口で法律闘争に持ち込んだとして、何とか勝てるだろうか?
自分は大いに疑問なんだけれど。
結局司法でやり合うには無理があると思う。いくらみんなで原則はこうだ、と言い続けても、それで何か動いたというのあまり記憶に無いから。またこう言った問題で規制当局が地裁など手頃なレベルで手を引いたと言う話も聞いたことが無いので時間がかかる事は必至だと思う。
それが社会正義的に合っているかどうか、間違いだとかそういう話は別だよもちろん。
あるクラスタには法律の手続き論に見えるかもしれない。けど、実際はいろいろな問題が絡まっているから、法の手続きの問題じゃないよやっぱり。
そうなると立法府か行政を動かすしか無い。つまり政治力になる。政治を動かす一番手っ取り早い方法は大衆の共感を得ることで、それには文化で押し切るのではなくって、もっと通しやすい所から話を通さないと、と思うわけなんだけれど‥‥。
でなきゃ、「ネコをいじめるのは法律違反だが、ネコを食べるのは法律違反じゃない」という
矛盾したことにならない。
こういう「法律の存在意義は別のところにある刑法文」って、結構ありそう。
例えば「死体遺棄罪」というのは、ホンネのところの存在意義は、
「殺人容疑者が目の前にいるが、殺人容疑で拘束するには根拠不十分、という場合に、
立件しやすい死体遺棄罪で逮捕状を請求し、でも実質は殺人罪の取調べをする」
というところじゃないか?
本来の趣旨がそうなんだから、「親の葬儀代が出せなかったから、仕方なく死体をそのままにして、