はてなキーワード: 権利とは
それな、何も得なくていいんだよ、批判で終わりでいいんだよ
これからどうするかも考えなくて良い
うん、俺もオマエがキライ、
はいさいなら、
この世には真理があり、あらゆる物事や価値観に正解が定義できると信じるの辞めね?
LGBT連中の権利は得られたが、LGBTを否とする価値観は殺された
ホンマかいなと、俺は思うのです
そーゆーの過去何度も失敗してなかったっけ
早晩逆転すると予測されている
イスラムが最多になれば我々は一夫多妻を正解と受け入れるのか?
これからどうするか、イスラムの誤った価値観をぶっ壊す行動を取った
批判だけで終わらせて相手の文化を許容したなら軋轢は生じないが
双方が自分たちが正しいと信じて「これからどうするか」を行動した、大勢死んだ
こういうことにしかならない
つまり
俺はオマエキライ
俺もオマエを大嫌い
これで終わりでいい
この対応が特殊なのではなく日本が特殊ってのをいい加減理解したほうがいいよなあ
謎の権利主張しまくりで理不尽に国を叩いて民意だって喚き散らせるのは日本ぐらい
これ、笑えないんだけど、鉄オタが趣味でまわって撮影しただけでも当局が写ってはいけないものを撮影していたと認定したら諜報活動と見做されるってことなのね。— ハールン (@haarun_b) September 7, 2024
いつか機械学習が絵師の言う通りに、無条件で違法化されたとして、法律実施前に大量に狙い撃ちLoraをばらまいてやろうと、AI学習禁止を掲げているマイナーメジャー問わず目立つ絵師の絵をクローリングして流れ作業で狙い撃ちLora作ってるんだけど、まぁいるわいるわ、顔を避け画像のどうでもいいところにウォーターマークつけてる奴が。
あのさ?お前らは画風を判別する時どこをまず見るんだよ?まず顔だろ。顔や髪の毛の描き方や描き込みを見て、その次に服装や小物の特徴を見て、最後に手足とかの体の末端部分だろ。
狙い撃ちLoraを作る時もそこは同じなんだよ。まずはバストアップの画像を集める。なければ切り取って顔だけにするし、絶対的に枚数が少なければ左右反転や色調補正で枚数をかさ増しする。ああ、AIを使って表情差分を作るのも定番の手法だな。お前らがやられるのが大嫌いなコラ画像だよ。そのクセ漫画のセリフ改変で他人のキャラにAIに対するお気持ちを吐かせることに何も感じないサイコパスっぷりは…おっと話がそれたな。とにかく顔と髪の毛が最重要。
服なんて別にどうでもい。むしろ顔から下に興味が薄い適当な絵師の描く服なんてベースモデルの本来の性能を損なうノイズにしかならない。顔以外の部分に情報としての価値がある絵なんてほとんどない。それこそあんたらの言うように、お前らが描いた顔と、公式や上級絵師による身体を切り貼りしたコラージュ画像を作る。10種類くらいの首なし画像を用意しておいて、そこにお前らの絵から切り取ってきた生首をつなげる。
頑張って描いた背景?ただの無駄なノイズだよ。フォトショでバッチで一括除去。ご愁傷さま。トイレで大をする時間くらいは稼げたな。
ここまできたら体の末端部分にしかかからないウォーターマークが無意味なことはわかるだろ?それよりもっと前の段階でそんな部分は切り捨てられてるんだよ。
大体、絵師はAIが手足を上手く描けないと馬鹿にするが、狙い撃ちLoraを今まで50は作ってる身から言えば、それでもAIにやらせる方が絵師に手足の破綻がない絵を求めるより遥かに打率いいんだわ。
俺は過学習になって変な手足が出ないよう、テンプレとしてAI製の破綻のない手足の画像を用意してセットで学習させるね。お前らが描いた手足の情報なんていらねーんだよ。
今までやってきた中で、顔がハンコ絵でもアート系でもなくアニメ系で、ファッションも学習させるに値する程度には独創性が高く、手足にも学習させるに値する特徴や美点があるクリエーターなんて1~2件しか該当しないんだわ。
それでも学習されたくない?じゃあ、そんなお前らに無断学習を防ぐ唯一の方法を教えてやる。
髪の毛、瞳、顔の輪郭線と重なるようにウォーターマークを付けた上で、Glazeを通せ。それ以外はやるだけ無駄。お前らがいくら学習禁止を叫ぼうが抑止力にはならん。
俺みたいな悪質な奴は先行ブロック?俺が2年前からAIに手を染めていることにも気づかず、絵描き仲間、ゲーム仲間、動画投稿仲間と今でも誤認し続けてる程度のお前ら馬鹿絵師共に、適切に敵味方を区別できるとでも思ってんのか?同じジャンルの同じカップリングで、本垢のアナグラムの名前のアカウントで、AI画像もハッシュタグ付きで投稿しているにも関わらず、もしかしての可能性にすらたどりつけないお前らが?思い上がるな。寝言は寝てる時に言うもんだ。
もう一度言う。本気で学習を阻止したいなら髪の毛、瞳、顔の輪郭線と重なるようにウォーターマークを付けた上で、Glazeを通せ。それ以外はやるだけ無駄。
馬鹿が自分で考えようとするな。馬鹿の感情に配慮する奴はいない。そして今の著作権は骨抜きにされて死文化しており絵師の権利の保護にはクソ紙程も役に立たない。お前らにそれが覆せるのか?「著作権侵害にあたるかどうかは、手段ではなく結果で判断される」と言う法律上の大前提すら理解を拒むような頭しかないお前らが法律屁理屈バトルで勝てるとでも思ってんのか。身の程を弁えろ。
具体的で実行力のある手段で自衛しろ。俺のような無断学習をためらわない犯罪者相手に自身の財産と技術の価値を守りたいなら言葉ではなく使えるものを総動員して阻止しろ。それができないななら、お前らが積み重ねてきた時間をすべて機械に吸い上げられて惨めに死ね。
年齢によって扱いが違うのは差別にあたる。
権利はそれと対抗する権利が存在する仕組みになっていて、商売においては施設管理権や契約の自由が差別されない権利を上回る場合がある。
差別が合理的であると考えられる場合 (差別されない自由の行使によって他の人の権利が一定以上に損なわれる場合) には差別を許容するというのが法的な立て付け。
許される差別と許されない差別があるわけではなく、権利が衝突する二者の間の線がどこかという問題として解決が図られる。
誰もが歳をとる (のでいずれ受益者になる) という理屈が通用するのは契約が長期的になる保険だとか国の制度だとかに限られる話で短期的なキャンペーンで年齢区分を設けるのは差別を受けない権利のほうが強い可能性は高い。
詳細な境界は裁判してみないとわからないが、年齢区分を設けるのが差別かどうかじゃなくて、状況によって別の権利との兼ね合いで差別を受けない権利が制限されるって話。
id:nikutetu そりゃあ室内に一番長い時間いる人に権利があるでしょ。風邪引いたらどうするの?ってなると喧嘩の原因なんだろうな。内勤は現場で働いてる人の気持ち考えれんから揉めるよ。
論破されててくさ
道端で小石を見つけたらとりあえず拾って投げる子供
であることを紹介するのように本題の前で脊髄反射するブクマの多いこと
これとかね
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240906192036
サウナの場所は別で用意すればいい話で、男女別でも施設の広さや種類に差がある店もある
論理的に考えるならば瑣末な例は置いておいて「◯◯割」はだめで「◯◯専用」はなぜ許されるのかの問いに答えらなければならない
性別、人種、肌の色、宗教、祖先、または国籍に関係なく、あらゆる種類のすべての事業所で完全かつ平等な宿泊施設、利点、施設、特権、またはサービスを受ける権利があります
とされている
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/agora-web.jp/archives/240903073550.html
君たちの好きな黒人で例えるなら黒人専用店、白人専用店が良いかを考えればいいだけである
さらに言うとそんな法律があっても子供割とシニア割はなぜ許されるのか、女性割はなぜ違法となったのかまで考えてくれると嬉しいが
この実験成功でわかるとおり、差別のことなどこれっぽっちも興味が無い様子なので無理かなぁ
追記終わり
自分の父親は県幹部OBだが、斎藤は直接知らんものの、他のOBや現役との情報交換したところによると、貝原・井戸ともに斎藤とは比べ物にならんほど有能であったとのこと。
貝原は確かに怖い人であったが、理不尽な怒り方をするわけではなかったそう。職員がテキトーな説明や立案をすると「やりなおし」の一言でつっかえしてくるので常に緊張はしていたと。なお後からなんとでも言える震災対応のまずさは、当時の状況では仕方なかったと評価されている。都市直下型の大地震の経験なんか誰にもなかったのだし。それよりも震災対応に忙殺されてテレビに出るたびに日々痩せていく貝原知事を見て(そして映り込む親父を見て)幼い自分は応援していた記憶がある。
井戸に至っては職員に怒ったところを見たことがない、と父は言った。長期県政でなあなあになってるところがあったかもしれないが、職員としてはやりやすく信頼していた。
おそらく斎藤は、県職員がほぼ全員井戸側に見えていたので(実際そうかもしれない)少しでも比較されて侮られたと感じればパワハラに出るようになっていたんではないかというのがOB会の感覚である。あと吉村との比較な。
父が若い頃にも、心労で亡くなった同僚の遺児のために募金を集めたことがあるらしい。今回、斎藤側にそれを止める権利が上にあるのか、とめちゃくちゃ憤慨している。
誕生日だった。
この日ばかりはどうしても今までの自分の生き方について考えてしまう。
完全なる中年なのに結婚もしていない。子供もいない。毎日働いて慎ましく暮らしている。
単調な毎日だけど友達にも恵まれて、自分は本当に運が良かった。みんな愛しているよ。
けれど、幼い頃の自分がまだ心の中で泣いているな、と感じるときがある。
思春期の頃、当たり前のように実家に住んでいた自分は、いつも正解を探しながら暮らしていた気がする。
母親がルールの家庭だった。母方の祖父母と同居だったがいつも「母が怒るから」と母親が優先された。
そのため、母と誕生日が近い私にお祝い用のケーキを選ぶ権利はなかった。いつも母の食べたいケーキが用意された。
祖父母がいつも困った風に言う。「私は聞き分けがいいから助かる」
ずっと良い子でありたいと思っていた。可愛がってもらいたいと。
同じく思春期の兄弟はどんどんおかしくなっていった。家庭内暴力がでてくるようになった。
もちろん1番弱い自分に矛先が向けられることが多かった。
「出ていくならあなたが父親のところに行きなさい。祖父母は本当は兄弟のほうが可愛いの。」
自分がまだ幼少期にいなくなった父親に連絡が取られた。久しぶりに顔を見たな。働かず借金をし、女をつくり、もちろん養育費など払ったことがない父親。
父は話を聞くだけ聞いて目の前から消えた。
遠い昔の話だけど、今でも心が痛い。
最近、ヤマシタトモコさんの「違国日記」が無料公開されていたので読んだ。無料で読ませていただけるなんて本当にありがとうございます。
読み進めるごとに、これは大人が幼い頃の自分を救うための物語だな、と感じた。
そして、私も幼い頃の自分を救うために生きているのかもしれない、と思った。
いつも傷付いて愛されたいと泣いている私。
誰かに優しくされたいと叫んでいる私。
素直に言えて偉いじゃん。自分くらいは自分のこと全肯定できるようになるといいな。
なかなか悪くないよね?
「親AIの親玉の法学者がAI訴訟で追い詰められた結果、反AIをブロックしまくって逃亡している!」みたいな言っちゃってて、しかも対象の人名すら正確に書けないレベルで、知性の欠片も感じられない。
別に権利にひれ伏せと言わないし、学者と言えど利益の為にポジョショントークもするから学者が無条件で正しいは言わないし、それが難癖レベルでの突っかかりでも最終的には建設的な意見交換に繋がる確率は限りなくゼロに近くとも完全にゼロではないからやるなとも言わないけど、喧嘩を売る相手の名前くらい正確に書けよ…。
ましてや相手はそんじゃそこらのゴミカスAI絵師()ではなく、著作権問題で多方面で最前線で殴り合いをしてきた百戦錬磨の言論武闘派のバケモノだぞ。
そんなバケモノ相手に「著作権侵害は手段ではなく、結果で、各事案ごとに、個別に、判断される非親告罪」と言う、基本のキですら理解を拒み「AIは無条件で著作権侵害」との自説とゴリ押ししようとような奴らが、相手の名前すら正確に書けないまま突撃して言ったところで相手して貰えるとなんで思えるんだよ…。
BL(ボーイズラブ)が「正しくない」って批判されることがあるのは、いくつか理由があるんだ。
ここで軽くまとめてみるね。
BLってよく「攻め」と「受け」って役割がガチガチに決まってることが多いんだよね。
でも、リアルな同性愛者の関係はそんなに単純じゃないから、これが現実をゆがめてるって批判されることがあるみたい。
BLって、どうしてもファンタジー要素が強いから、現実のLGBTの人たちが抱える差別とか社会的な困難があまり反映されないんだよね。
「こんなの現実とは違うよ!」って指摘が出てくることがあるんだ。
多くのBLは女性読者をターゲットにしてて、男性同士の恋愛が異性愛者女性の視点から描かれてるんだよね。
それでLGBTの人から「それってちょっと搾取じゃない?」って声が上がることもあるらしい。
BLの恋愛って、すごくドラマチックだったり、ちょっとあり得ない設定が多いのよね。
これが「非現実的すぎる!」ってことで、特に若い人が「こんな恋愛がしたい!」って変な期待を持っちゃうのが問題視されることがあるんだ。
一部のBLでは、同意なしに進む関係とか、強制的なシーンがロマンスとして描かれることがあって、これが「性暴力を美化してるんじゃ?」って問題にされることも。
BLはLGBTの文化とか現実にあまり詳しくないまま、エンタメとして楽しんでる感じがあるのよね。
それが「本当のLGBTの権利や文化が軽視されてるんじゃない?」っていう批判につながることも。
そんな感じで、BLジャンルが批判される理由がいろいろあるんだけど、もちろん楽しみ方次第だし、全ての作品がそうってわけでもないけどね。
年金というのは個人個人における収支相当を必ずしも求めるものじゃないので、これは通り難いロジックだな。
個人個人ではなく運営体としての収支相当が満たされていればいいなんてことを許容する、年金なんていう制度はやめてしまえの方向で行けばロジック上はワンチャンあるかもしれん。
ただし、その場合は現役世代から引退世代への所得の移転が年金ではなく税と生活保護等に振り変わるだけで、結局は現役世代が作った消費財やサービスを引退世代と分け合う構図も、その中に寿命の長い女性が多くなる構図も変わらない。まあ大山鳴動して鼠一匹的なものになるな。引退者には健康で文化的な最低限度の生活を営む権利なんて与えるな、とか言ってみるか?
確かに、セルフIDに関する法整備は欧州のいくつかの国で進んでいます。先進的と言われる国々では、個人が自己の性別を選択して法律上認識される制度が導入されつつあります。
日本においても、このような法律が導入される可能性はありますね。ただし、日本では社会的・文化的な背景が異なるため、そのプロセスや法律の具体的な内容は欧州とは異なる形になるかもしれません。
また、性別認識に関する法制化には賛否両論があり、議論が必要です。個人の権利を尊重する一方で、社会全体の合意が重要になるため、日本でもこの問題について広範な議論が行われることが期待されます。
安楽死を拡大して、任意の日を個人できめて使えるようにならないだろうか。(病気とかの要件無しで)
下記のようなことがメリットがはず
個人として
・日が決まっているので丁度資金を使い切れる
・日付を早めに設定すれば健康なうちに資金を使えるので生きている間のQoLが上がる(fireに近いことを享受できる)
・長生きのリスクを担保するための過剰な備えが不要になることによる資金の有効活用が可能になる(保険であったり、資産運用の取り崩しペースであったり)
社会として
・生活保護に頼りたくないが、リスク取ってチャレンジしたいという人のセーフティネットになり得る
・過剰な延命医療がかなり減る
いざその日が近くなって嫌なら伸ばせばいいという緩めの運用であれば個人にとってはデメリットはあまりないと思うのだけどいかがだろうか
社会的デメリットは当然あるが個人の権利を妨げるのは違うのではと思っている。
もし既にこういう制度になっている国があったら教えて下さい
歩行者が歩道でデカい顔するのは正当な権利なんですけど、自転車が車道でデカい顔すんのは「はァ?」って思う。いつか轢きそう。
日本でよく話題になるポリコレは専ら作品に「見慣れたキャラクター」以外が出てくることだけど、これに限っては批判する層も自分のお気持ちや趣味嗜好でしか叩いてないし
所帯をもつ予定がない点において増田くんは未来の日本にとって良心的だけど、関わりのない女性に口出ししてくるところは烏滸がましいね🤪
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
男らしさから降りた男とかいう癖にネットで女が女は言って焼肉屋の半額キャンペーンに目くじら立てて騒ぎ批判されるとフェミがフェミもと責任転嫁するうざくてキモい連中が出来上がっただけだもんな