はてなキーワード: 呉市とは
大阪から沖友天満宮に行く経路を調べているんだが、『乗り換え接続が3分間に合わないせいで1時間待ち』みたいなことが各ルートで発生していて発狂している。
新幹線から在来線への乗り継ぎタイミングもクソだが、電車からバスへの乗り継ぎタイミングがクソなことが納得いかねー!
電車との乗り継ぎタイミング以上に優先されるべきものなんて無いだろ!?
別に公共交通機関の利用者増やしたいとか思ってないのかもしんねーけどさあ、交通ダイヤがクソな地方はそりゃ当然人減るだろって思う。
いいとこだけどね、瀬戸内海。
新幹線で広島や三原まで行ってから呉市に行くよりも、東広島からバスで安芸津に入って電車乗る方が呉市に早く入れるのバグだろ。
東広島市(っつーか芸陽バス?)はちゃんとしてんだなって好感度爆上がりだった。
いや、1時間に1本あるかないかレベルの交通機関で乗り換え接続考慮されてないダイヤがありえねーだけなんだよ…日本中いろいろ行くけどクソダイヤにぶち当たることの方が稀。
占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3,500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[8]。
その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51、暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校4年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[9]。
日本占領後、多くの市民は連合国軍の上陸によって日本女性が強姦されることを恐れていた。こうした懸念から、内務省警保局をはじめ各省庁および都道府県庁は、女性らに自宅待機、避難、日本人男性から離れずいるようにとの注意喚起、また米兵との接触を回避するよう勧告をしている。
米軍が最初に上陸するものと推測された神奈川県では、県警は若い女性や少女に避難勧告をしている[10]。内務省警保局の情報にも「神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初ノ上陸地点タルベシトノ想像モアリ「敵ハ十八日ニ神奈川ニ上陸スル」ノ流言多シ」とあり、戦争関連の諸文書が一斉に焼却廃棄されるなか、行政機関当局にも相当の混乱があったことが窺える。主要港湾を擁する横浜市では、幹部職員の全員逮捕処刑を前提として、緊急措置として市民のうちの婦女子の疎開避難、女子職員の全員解雇などを決定し、これをきっかけとして丹沢方面への疎開騒ぎが広まっていた。
これに呼応し、政府は内務省警保局長名で特殊慰安施設協会(RAA)の設立について全国都道府県に打診し、東京都下の料理飲食業組合、芸子置屋同盟、待合業組合連合会など7団体代表者により、特殊慰安施設協会が急きょ設立され、協会を通し「性の防波堤」となる志願女性を募集した[11]。これにより、各所に「進駐軍将兵慰安施設」が設置され、一例として横浜の大阪商船ビル、日本造船大丸谷寮、箱根、江ノ島の新設施設などがこれに利用された。GHQ当局は1946年1月に、「非民主的であり、女性への人権侵害である」との理由から施設の閉鎖と公娼の禁止を宣言したが、占領軍兵士を相手とする「私的」売春は継続され、兵士たちの間で性病が蔓延した[12]。
ジョン・ダワーによれば、特殊慰安施設協会設置の効果もあり、占領軍の規模と比較すると日本政府の想定よりは強姦の発生率は低かったが、同時に性病の集団感染も引き起こした。一例としては、検査の結果1個師団の70%が梅毒、50%が淋病の陽性反応を示したため、これを主因として売春施設は閉鎖されることとなった[12]。
公娼施設の廃止後、強姦の発生率は約8倍に増加し、ダワーの調査によるとRAAが活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領軍将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した[13]。これに対してブルマは、「毎日40件以上の強姦が行われた可能性があるが、ほとんどの日本人は、アメリカ人は恐れていたよりも規律的だと認識していただろう」と述べている[14]。
テレーズ・スヴォボダは、慰安施設閉鎖後に強姦の報告件数が急増した事から、兵士に対する慰安婦の提供が強姦事件抑制に一定の効果があった事を認めている。スヴォボダはまた、一例として慰安施設の営業開始前に、待ちきれなくなった数百人の米軍兵士が二棟の施設に乱入し、そこにいたすべての女性を強姦した事件についても言及している[15]。 また、スヴォボダによると特殊慰安施設協会の廃止後少なくとも二件の大規模な集団強姦事件が発生している。
東京都の事例
スヴォボダおよび田中の調査によれば、1946年4月4日の深夜、3台の軍用トラックに便乗した米兵50人が東京都大森区(現・大田区)の中村病院に侵入し、号令の笛とともに約一時間の間に女性患者40人、女性職員37人を回姦凌辱した[16]。被害者のうち、2歳の幼女は事後床にたたきつけられ死亡したほか、止めに入った男性職員一名が殺害された[16]。
名古屋市の事例
また、田中によると、同1946年4月11日に名古屋市の住宅街に侵入した30人から60人の米軍兵士が地域内の電話回線を切断後、各家屋に同時に侵入し、10歳から55歳の女性を強姦している[17]。
マイケル・S・モラスキー(日本文学、日本語学研究者)によると、日本の警察の報告を読むかぎり、強姦やその他の重大犯罪は海軍を中心に広まっており、横須賀基地と横浜周辺における占領後最初の数週間の犯罪件数が突出しているが、日本本土全体では一般的ではなかった[18][19]。
上述のように、駐留米軍兵士による拉致、強姦、殺人は日本全体には波及していないものの、警察記録と報道記録が示している通り、凶悪犯罪を犯す兵士の多くが、1945年に日本に上陸し、最初の数週間の間に記録的件数の犯罪行為をおこなっており、占領最初の10日間だけで1336件の強姦事件が報告され、その後も9月一か月間の横浜市内での強姦事件は119件にのぼっている[20]。ダワーによれば、被害者が数人以内の場合には警察に報告すらされなかった。[21]
北海道の事例
歴史家の竹前栄治、ロバート・リケッツらは、米空挺部隊が上陸後、札幌市内において略奪、強姦、酔ったうえでの日本人への暴行などを働くことはまれではなく、強姦被害者の中には自殺した者も少なからずいたと述べている[22]。
ロバート・アイケルバーガー第8軍司令官は、非番の兵士から女性を保護するために日本人が自警団を組織した際、第8軍の装甲車に協力を命じ、事件の首謀者を逮捕したことを記録している。しかしダワーによれば、一方で強姦事件の中には警察に報告されないものもあった。
竹前とリケッツらによると、オーストラリア、英国、インド、ニュージーランド軍の一部によって構成され、中国及び四国の9県を占領していたイギリス連邦占領軍 (BCOF)も、また多くの強姦に関与していた。
オーストラリア軍は1946年に広島県呉市に上陸するとすぐジープで若い女性を拉致し強姦していた。被害者がほぼ毎晩助けを求めて泣き叫ぶのを聞いていたが、占領軍による犯罪行為の報道は封殺されていた[22]。中には、一人の少女が20人以上の兵士に回姦される事件もあった[23]。
イギリス連邦占領軍の公式報告では軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し、有罪判決を受けたされる。しかしながら、1946年2月から4月にかけての英連邦占領軍による占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない[24]。オーストラリアの歴史家ロビン・ゲルスターによれば、イギリス連邦占領軍の重犯罪公式統計は米国と同様に過小評価されているが、これには日本の警察が被害報告を占領軍に提出していない場合があり、これにより英憲兵隊が調査を行わなかった事も少なからず影響していると述べている[25]。
ジョン・ダワーによれば、GHQ当局は1945年9月から1952年の占領終了までの間、幅広い検閲(プレスコード)を日本のメディアに対して実施しており、開始当初には左翼活動や軍国主義、超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが、占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し、占領軍による強姦などの重大犯罪や社会問題も幅広く検閲の対象となっていた[26]。
竹前栄治とロバート・リケッツによると、占領軍は、1945年9月10日付連合国軍最高司令官総司令部令「占領活動に敵対的な全ての報告・統計発行物の違法化にむけた報道発表と事前検閲に係る規則」を定め、強姦などの重大犯罪に関する報道を統制していた。占領終了後、一部の日本の雑誌はアメリカの軍人が犯した強姦件数を発表している[22]。
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ナカムラクリニック(内科・心療内科・精神科)(兵庫県神戸市中央区元町通)
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自分はこの日の夜、うかつにも実家のある呉に向かって車を走らせていた。
昼を過ぎたあたりで、フロア中のスマホがけたたましく緊急エリアメールの受信を告げる。
初めは安佐北、佐伯、安佐南。避難準備、災害対策本部設置、避難勧告などと、ほんとうに10分おき位に緊急エリアメールのアラートが鳴り響く社内。江波、舟入、宇品・・・会社がある南区にも、豪雨の濁流が近づいてきているのを感じ、同僚たちは落ち着かない雰囲気で顔を見合わせていた。
自分も仕事そっちのけで市のホームページの緊急情報にかじりついていた。
仕事が終わったのが18:30。いったん荷物をまとめるため自宅に戻る。しかしすでに平和大通りは激混み。段原の同僚から床下浸水したとかなんとか連絡をもらい戦々恐々。普段なら10分もかからない自宅についたのが20:00。
荷物をまとめて呉に向かうことにした。
口田は明るいうちからすでにとんでもないことになっていたのをツイッターで見て知っていたし、それこそ四年前の災害も市内北部で起きたことだ。そして呉市内(中央付近・中心部)に住む両親や姉とのラインでは、二人はいたって普通で、市内ほど緊急エリアメールも届いていないようだった。
とにかく市内から逃げるのが最適解だとその時は思っていた。
しかしその目論見もあえなきさだめとなる。
会社を出た時点ではまだ生きていた広島呉高速道路がついに全域通行止めになっていたのだ。こうなったら焼山経由か31号線で帰るしかない。
家を出る前に確認しておけばよかったと歯噛みした。
(第2の判断ミス。高速が止まったことに気づいた時点で引き返しておけばよかった。)
東雲あたりに到着したころには21時になっていた。普段から混む場所ではあるが、自宅から一時間もかかったことはない。
車のガソリンが切れそうでイライラしていた。今にもエンプティが点滅しそうな領域。
目につくガソスタは全部閉めていた。そりゃそうだ特別警報発令中、ガソスタ店員だって避難してるにきまってる。
雨脚は弱まることはなく、車の天井をたたく雨粒の音でカーラジオもオーディオも聞き取りにくいほどだった。
渋滞に巻き込まれてる間も緊急車両はそこらじゅうでひっきりなしにサイレンを鳴らしていて、数分おきには路肩によけるような状況だった。西区、安佐北や安佐南の署名が書かれた消防車が目立ち、不思議だと思った。なぜなら自分が走っている道は市外へ向かう道。市外から応援が駆けつけてくるならともかく、広島市内の緊急車両が市内を手薄にしてまで市外を目指すなんて妙だ…。この先でなにかがおきているのか…?
「坂で土砂崩れ」
「瀬野川氾濫」
このときにようやく自分が向かっているところは安全じゃないと気づいた。なんだか予想以上にとんでもないことがおきている。
そもそも呉にたどり着けるルートは完全に失われているようだった。
その時にはすでにバイパスに乗っており、引き返すことができない状況だったうえにガソリンも切れる直前だった。
とにかくいったん海田に抜けて、ガソリン入れてから考えよう!と思った。
渋滞中、ガソリン節約のため空調を切っており土砂降りのため窓も開けられない蒸し暑い車内で、あわててツイッターなんかで情報取集すると、呉も地元もひどいありさまだった。
見慣れた景色が土砂や濁流にのみ込まれている様子は、どこかリアリティに欠けて見えた。
そしてガスメーターのエンプティマークは点滅していたけど、頼むから持ってくれ!という気持ちで覚えのあるセルフ24hのガソスタをところどころ勃発している通行止めにイライラしながら目指した。
悲痛な願いは届き、蛍光灯と値段表示でらんらんとかがやくガソスタにたどりつけたときは半泣きになった。
ガソスタの床には、流木やゴミが散らばっており、一時は冠水したのかも、と思い背筋が凍った。
ふんずけてパンク、なんてことにならないよう、細心の注意をはらって車を進めた。
救急車も給油していた。
さて、ガソリンも入り車内空調にようやく電源が入り曇りまくっていたフロントガラスもクリアになったところで0時過ぎ。
1.市内の自宅に引き返す
2.そのへんで車中泊する
ぶっちゃけもう運転はしたくなかったので車中泊をしたい気持ちもあったが、すでに一部冠水していた海田町にとどまるのはおそろしい。すぐそばには荒れ狂う瀬野川もある。
帰宅してしまえば鉄筋マンションの6階の自宅は流されることはないだろう。かといって市内の状況もわからない。マンション付近が浸水していたらジ・エンドだ。この時ばかりは、リバービューに憧れて部屋を選んだ自分を恨んだ。
それにどこかでまた通行止めで立ち往生する可能性もないとは言えない。
これ以上判断ミスするわけにはいかない。いろいろと取れる限りの情報を収集し、迷った末に、市内の自宅に引き返すことにした。渋滞に巻き込まれている間に対向車線を確認した限りでは、下りはそんなに混んでるように見えなかった。(逆にどこかで通行止めしてるんではないかと不安でもあった。)
運転時間はぶっ通しで6時間にのぼろうとしていたけど、この判断が間違っていないと信じて、がむしゃらに車を走らせた。幸い通行止めも渋滞もなく、恐ろしいほどスムーズに広島市内に帰ってこられた。
驚いたのは、緊急車両が市内に向かう車線を逆走しながら市外へと向かっていたところだ。当方は片側三車線の最も左を走っていたので何事もなかったが、なんの警告も交通整備もなく逆走しているのをみて世紀末を感じた。。
(それくらい市外へ向かう道は混んでいたというのはある)
市内に帰ってくると拍子抜けするくらい渋滞もなく浸水もないようだった。緊急車両よりタクシーが多かった。
最悪週末は一歩も部屋を出られない覚悟を決めてコンビニでアホほど買い物をし、自宅に戻った。
この時すでにコンビニの水のペットボトルの棚は空白が目立っていた。
自宅につくと、おそらく間違っていなかった判断に安心し、疲れていたので風呂も入らずに眠った。
皆さんに忠告。
最新の総務省のデータでやってみました。総務省|電子自治体|全国地方公共団体コードね。
なんか間違ってたら教えてね。