はてなキーワード: 道徳心とは
なぜ人を殺してはいけないのかについて答えられる大人がほとんどいないという記事を読んだ
道徳的に、倫理的に人殺しはいけないことは当たり前なのだが人殺しについて考えることをしていくと「戦争では人殺しは正義」というものにいきつく
哲学の根本に容赦のない徹底さというものがあるが人殺しの正当性について状況によって異なるというのはこれ以上ないほど整合性がある
要は人は必要に応じては人を殺しても良いという「解」になるらしい
しかし人は人を殺すだけの理由を持った時、人を殺しても良い状況の時に人を殺しても良いという因数分解のような理論的な解にはどうしても違和感がある
なぜなら人は人を殺すだけの論理や計算式が成り立っていても計算式自体に罪悪感や自尊心や道徳心にこそ迷いを感じるからだ
人は必要に応じれば人を殺しても良いなどという答えなどどうでもいい
そういうのもあるのか。
矜持を持つのがどこなのか、という問題かと思った。体面なのか、内面なのか、社会のルールなのか、仲間のルールなのか。
効率厨という言い方で、ネトゲを想像した。ネトゲでも教育程度 (まぁ実際の所わからない) にかかわらず、BAN されないのだからやっていいだろっていうタイプと、それをやったら自分の技術に対する評価や培ってきた信頼が損なわれるからやらないってやつがいる。BAN されないのだからーという奴はどんな手段を使ってでも良い成績を残すのが正義でそうしないやつこそ馬鹿だと思ってる。技術や信頼が損なわれるからという奴は、一度でも不正を働いたら今まで積み重ねてたいろいろが無意味になるのがまずい。本当に正義感や道徳心から、ルールだからやってはいけない!というタイプもいるかもしれないけれど。
たしかにそうだ。ネトゲだと現実社会ほど抑制が働かないのか、自慢気に話すやつ結構いる。やらないやつが馬鹿だと堂々という人がいる。そういう人がいるってことは、現実社会でも、答案を盗むような奴がいるのは想像できるかも。ちなみに自分は、その手の不正はゲームであれ勉強であれ、これまでの積み重ねが無意味になるからやりたくないって方。なのに若い時盗みはやってたんだ… いろいろなもんだ。
自分はルールがあるからいけないというより、ハッピーになれるやつが少なくなるようなことには、各人が自分のためと思うことからまわりまわって自然とルールができる、と考える。
端的な話、殺人がやりたい放題だったら、自分や自分の大事な人も殺されるかもしれないので殺人はまずい。殺される覚悟のあるやつだけ、殺していいとなる。その上で、殺人を犯そうとする人に理由があったらそれはその人にとって正義なんだろうと思う。そう思うけども、全てそれを認めたらどこかで平均的ハッピー具合が歪むから、殺人はなしってことにしようぜ、ってルールができる。って考え方。
(こういうの、難しい言葉で何かあるのかもしれない。自分には学がないのでわからない)
なので、まず精神よりも感情よりもルール有りきという道徳心には実感がない。法律やネトゲの不正行為に対する規約や校則は、殆ど自分のあずかり知らぬ所で制定されているものだけども、それでもできるだけ多数が不幸にならない方向に多少はできているはず。もしそうでないルールがあるとしたらそれはやばいルールだと思う。たまにどんなにおかしいルールでもルールだから絶対というやつがいるが同意できない。という話を以前知り合いにしたらドン引きされたので、やはり当たり前の正義感や道徳心からダメというほうが多数派なのか?内心疑問に思う人は多くないのだろうか…
例えば
牛肉を食べながら、日本の捕鯨を批判して、「日本人を殺したい」とまで言う人たち。
森にドングリを撒いて、クマを人里に近づかせる人たち。
動物愛護は歪んだ自己中心的な偽善。自己満足は結構だが、それを他人に押し付けるな!と思う。
彼らの動機はきっと、
「かわいそう」とか、そんな、単純なもので、
「もっと、可哀想なのがいるけど?」と言えば簡単に論破できる。そんなものでしか無い。
なのに、なにかが、引っかかった。
「かわいそう」とか「かわいい」とか「助けたい」とか。それ自体は悪いものでは無い。
だけど、その感情を共有できない人に、それを(多くは社会制度・社会負担という形で)押し付けるのが悪いのだ。
それって恋愛してる時と似てるなとなんだか思った。恋をしてる時は、その人のことだけを考えて。その人が別の人と話してたりすると、ヤキモキしたりして。
「そんなことしほしくない」と勝手に思う。思うだけなら罪のないヤキモチだが、それを相手に押し付けたらきっと迷惑に思われる。
動物愛護にも恋愛にも「好き」という気持ちが、前提にあるんだなと、当たり前の事を知る。
動物愛護は政治的になると、ただの「好き」だけじゃ居られなくなる。だってそれだけじゃ支持されないものね。
だから、「絶滅危惧」とか「道徳心」とか「動物の知性」とか、説得力のありそうなロジックを持ち出して、支持を得ようとする。
それに対して、反対する側も、「絶滅しない」、「道徳の問題ならまずは人間から」とか、「動物の知性は対したこと無い」とかそんな事から反論する。
でも、そんな反論をされても動物愛護側からすれば、へっちゃらなんだろうね。
だって彼らの原動力は「好き」の感情なんだから。善なんてする気は無いんよ。ロジックだってなんでもいい。
また、恋愛の話に戻る。例えば昔の話。親に結婚を反対された時。そりゃ、息子or娘は手を尽くしてロジックを組み立てるだろうね。
年収が〜、将来性が〜、親戚が〜とかさ。親は子供の為に、家の為に「善い」事をしようと結婚に反対する。子供はそんな善なんかどうでもよくて、とにかく「好き」を大切にしたいと思う。
嘘の善。だけど、「好き」って悪なのかな?
その嘘の善こそ(当人にとっては)究極の善である「愛」なんじゃ無いだろうか?
動物愛護は確かに鬱陶しいし、どうみても愚か。歪んでる。
教育基本法(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO120.html)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
(社会教育)
第十二条 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。
社会教育法(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24HO207.html)
第一条 この法律は、教育基本法 (平成十八年法律第百二十号)の精神に則り、社会教育に関する国及び地方公共団体の任務を明らかにすることを目的とする。
第二条 この法律で「社会教育」とは、学校教育法 (昭和二十二年法律第二十六号)に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動
(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう。
第三条 国及び地方公共団体は、この法律及び他の法令の定めるところにより、社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。
2 国及び地方公共団体は、前項の任務を行うに当たつては、国民の学習に対する多様な需要を踏まえ、これに適切に対応するために必要な学習の機会の提供及びその奨励を行うことにより、生涯学習の振興に寄与することとなるよう努めるものとする。
3 国及び地方公共団体は、第一項の任務を行うに当たつては、社会教育が学校教育及び家庭教育との密接な関連性を有することにかんがみ、学校教育との連携の確保に努め、及び家庭教育の向上に資することとなるよう必要な配慮をするとともに、学校、家庭及び地域住民その他の関係者相互間の連携及び協力の促進に資することとなるよう努めるものとする。
図書館法(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO118.html)
第一条 この法律は、社会教育法 (昭和二十四年法律第二百七号)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。
2 前項の図書館のうち、地方公共団体の設置する図書館を公立図書館といい、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人の設置する図書館を私立図書館という。
第三条 図書館は、図書館奉仕のため、土地の事情及び一般公衆の希望に沿い、更に学校教育を援助し、及び家庭教育の向上に資することとなるように留意し、おおむね次に掲げる事項の実施に努めなければならない。
一 郷土資料、地方行政資料、美術品、レコード及びフィルムの収集にも十分留意して、図書、記録、視聴覚教育の資料その他必要な資料(電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によつては認識することができない方式で作られた記録をいう。)を含む。以下「図書館資料」という。)を収集し、一般公衆の利用に供すること。
二 図書館資料の分類排列を適切にし、及びその目録を整備すること。
三 図書館の職員が図書館資料について十分な知識を持ち、その利用のための相談に応ずるようにすること。
四 他の図書館、国立国会図書館、地方公共団体の議会に附置する図書室及び学校に附属する図書館又は図書室と緊密に連絡し、協力し、図書館資料の相互貸借を行うこと。
五 分館、閲覧所、配本所等を設置し、及び自動車文庫、貸出文庫の巡回を行うこと。
六 読書会、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会等を主催し、及びこれらの開催を奨励すること。
七 時事に関する情報及び参考資料を紹介し、及び提供すること。
八 社会教育における学習の機会を利用して行つた学習の成果を活用して行う教育活動その他の活動の機会を提供し、及びその提供を奨励すること。
九 学校、博物館、公民館、研究所等と緊密に連絡し、協力すること。
(入館料等)
学校図書館法(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S28/S28HO185.html)
第一条 この法律は、学校図書館が、学校教育において欠くことのできない基礎的な設備であることにかんがみ、その健全な発達を図り、もつて学校教育を充実することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「学校図書館」とは、小学校(特別支援学校の小学部を含む。)、中学校(中等教育学校の前期課程及び特別支援学校の中学部を含む。)及び高等学校(中等教育学校の後期課程及び特別支援学校の高等部を含む。)(以下「学校」という。)において、図書、視覚聴覚教育の資料その他学校教育に必要な資料(以下「図書館資料」という。)を収集し、整理し、及び保存し、これを児童又は生徒及び教員の利用に供することによつて、学校の教育課程の展開に寄与するとともに、児童又は生徒の健全な教養を育成することを目的として設けられる学校の設備をいう。
(設置義務)
(学校図書館の運営)
第四条 学校は、おおむね左の各号に掲げるような方法によつて、学校図書館を児童又は生徒及び教員の利用に供するものとする。
一 図書館資料を収集し、児童又は生徒及び教員の利用に供すること。
二 図書館資料の分類排列を適切にし、及びその目録を整備すること。
三 読書会、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会等を行うこと。
四 図書館資料の利用その他学校図書館の利用に関し、児童又は生徒に対し指導を行うこと。
公立図書館は「国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする」(図書館法1条)のに対し,学校図書館は「学校教育を充実することを目的とする」(学校図書館法1条)。
あれをドキュメンタリーとして読むにも客観性に欠けるし、作中の残虐描写が道徳心を涵養するとかないって。単純に娯楽ものなんだから。
図書館を運営する主体が不適切と判断して見せないようにするんならそれでいい。それは各自に任せる。別に出版社に対して、売るのをやめろとか主張してるわけじゃないんだしさ。
はだしのゲンが見れないくらいで表現の自由がとか、戦争の悲惨さを伝えるために必要だとかブーブーいうなら、小学校の図書館にコミックLOが置いてあっても文句いうんじゃねぇって。適切か不適切かを判断する常識的に考えての部分は、価値観の問題だとか政治的な問題であり、法律に抵触していたり、過度で無理な主張がない限り、外野がどうこういう問題じゃない。
そんなことは書いてない。正義かどうかはわれわれの道徳心による、と書いた。そしてそもそも悪は滅ばない。光ある限り、また闇もある。
時代が違えば、オウムは正義足り得た可能性があった。しかしそうならなかったのは、われわれがオウムを正義と認めなかったからだ。なぜなら、彼らの手法はわれわれ自体に危害が及ぶものであり、これを正義とするのは自殺と同じだったからだ。オウムはただの暴走機関に成り下がったのだ。
つまり、われわれに危害が及ばない限りは、彼らは正義足り得た可能性があったということだ。事実、創価学会は潰しておけばよかったのに、という意見はこういう話題になるとよく書かれる。
悪を叩くことが悪であることが考慮されない。つまり、暴力的な正義のヒーローは正義ではなく悪だということをきちんとメディアはやらないといけない。
そのボーダーをどこに定めるか、というのがわれわれの道徳心なのだ。悪を叩くことそれすなわち無条件に悪である、ということも、いや、一定は認める、ということもある。
ブラック企業は悪だけど、それを叩くのは悪かどうか、といえばわかりやすいだろう。ここ(http://anond.hatelabo.jp/20120111092149)のブコメには「こういう奴らのためにブラック企業がある」という類の意見も書き込まれているとおり、結局ブラック企業というのはビルから飛び降りろとか過労死が出ようとセーフティーネットを果たしている。これを規制するということは結局底辺の人間が割を食うということだ。つまり、必要悪としてのブラック企業というわけだ。
Don't laugh, Shut up!
だからこそ、心という高い次元を、われわれは汲み取る必要がある。
だいたい、区別するのに意味はないんだよ。われわれの心のありようが、区別として現れるのだから。
違うね。法は法で裁け、と書いた。「俺は間違ってない。間違ってるのは法律だ」とか、「俺はこの法律に反対するから俺はこの法律に従わないし罰も受けない」とか言うなら責任逃れだがね。
って、今度は低能呼ばわりかよ、ほんと見下したくて仕方がないんだな。
だが、俺の広い心はお前を受け入れるぞ。なんだかんだで返事くれるしな。
デジタル化が進み、商業作品とアマチュア作品のクオリティ的な差異はなくなりつつある、みたいなことをよく聞くけどどうも、うーん...ピンとこないんだよなぁ。
差異なんかありまくりでしょ?とか思うんだけど、まぁ...数値化とかさ、「見える化」っていうの?できるもんじゃないからねぇ...
モヤっとするよね...
たとえばボカロ?いや、別に悪いとは思わないけどね、うん、良いとも思わない。
ジャンクフードみたいな感じだよなぁ...いや、だから悪いってんじゃなくて、うん、ポテチ美味いじゃん、ねぇ...
ポテチは美味いし、個人的なこと言うと好きよ。でも毎日は食いたくないじゃん。
...まぁ、そういうこと言ってもさぁ...誤解というかねぇ、怒られそうというか...
空気読むならば、うーん、そっとしておいたほうがいいんだよね。きっと......
それでも何かこう子供たちにメーセージをさぁ、なんというか...
「ジャンクフードばかりじゃなくて、もっと野菜とか食べないとダメだよ」
みたいなさぁ...言いたくなるよ、大人(笑)としてはね.....
そういうこと言うとね「ポテチはじゃがいもだろwwwww野菜じゃねーかwwwwwwいい加減にしろwwwwwwww」
ってなるのはわかってるのよ。そうですよ、イモは主食っていう文化もね、世の中には存在しますよ、ええ....ポテチばっかり食ってて悪いことなんてないですよ。
それでもですね、「いや~それだけじゃなくて緑の野菜もね...」とかね、言いたいんですよ。食育っていうのかな。
「え??あんなまずいもの誰が食うの????」誰得?とかンゴwwwwとかですかね...いやよくわかりませんけど、わかりますよ。
葉物なんて今高いですしね。いや、そうそう、あんなものは昆虫の食いもんですよ。
ポテチこそヒトの食い物ですよ、ええ....
でもね...いやいや、なんっていうのかなぁ、えーいろんな食い物が世の中にはあってですね.....ノーノーノーあなたが子供舌だって言いたいわけじゃないんです...えー、うー、えー、
(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!えー、(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!(予測変換ででてきた?)
うーん....何言ってんのか自分でもわかんなくなってきたよ。食いもんの話じゃなくて音楽の話がしたいのにね。
でも、食いもんの話、続けるわ。まぁたとえ話っすよ。
イギリスって料理不味いって度々話題になるけどさぁ、まぁ実際不味いよ。うん。
で、なんであいつら不味いもんばっか食ってて大丈夫なのかってさ、微妙な調査の結果、まぁたぶん、
奴らの道徳心の中で、「欲求を満たすために手のこんだことをするのは罪悪」っていうがあるらしい。
そういうのに対して食い物大好き日本人としてはさぁ
「ええーなにそれ??不味いものばっか食い続けるより、ちょっと工夫して美味しいもの食べれた方が断然良いのに」
「別にうまいもん食ってなくても食ってりゃ死なねーよ!」って感じなんじゃないかな。と
まぁいろんな考え方、世の中にはあるって想像できるけどさぁ...
「金払ってまでうまいもん食いたくない」とかね、
まぁこういうのは極端としても、
「家庭でカンタン中華の素みたいなのがあるんだから、高い金払ってまで中華料理食いに行く必要あるの?」とか
「ちょっと工夫すればサイゼリアより旨いイタリアンなんて簡単に作れるよ。プロとアマに差異はない。だからイタリアンのシェフに存在意義はないよ」とか
うん、まぁね...まぁなんというかさ、こういう言葉を頭のなかで想定してみて、反論?なんとなく想像できないんだよなぁ、うーん・・・。
でも、ぼんやりと日本人としての「常識」ってやつ?から考えてみて、「中華の素」と「中華料理」、「サイゼリア」と「本格イタリアン」、「金払ってプロの料理を食べること」と「アマチュアが見様見マネで自炊すること」は区別が付いてる自分がいる。なんでなんだろうな、うまく書けない。クオリアなんつって(笑)
「別に耳が聴こえてりゃ音楽なんて聴かなくても死なねーよ」とかもね、そりゃあるでしょ。「生きるために必要じゃない」とか。わかる。わかるよ。生きるために必要なことって何かな。たとえば、まぁ食べることだよね。うん、わかるわかる。食ってりゃ死なないから、それが美味いものである必要なんてないよ。うん、わかるわかる。他に何が重要かな。衣食住は基本として、他には?清潔に暮らすってことかな。体を洗うためにお風呂は重要だね。うんうん。でも体を洗うのに必ずしもお湯って必要じゃないよね。水で十分だよ。いやほんとだよ。必要なものだけでいいんだよ。音楽は必要なものではないよね。
ほんとにそうだよ。でもさ、毎日じゃなくてもいいからうまいもん食いたいし、水風呂もなるべく勘弁して欲しい。音楽もなるべくサイコーなものが聴きたいのですよ。
あのね、確かに音楽は無料で聴けますよネットは。旧譜から新譜までそりゃもう大量に。。でもさ、ぶっちゃけて書くと、クオリティ的にぜんぜん満足出来ない。あんなので満足できるかよ。特に最近のものだよ。いろいろ理由があるんだけど、あのー「アマチュアでもプロ並」とかいうけどね、いや、なんかね、アマがプロの真似してるだけでツマンナイのが多いというかさぁ...プロはプロでこぢんまりと宅録だしな。せせこましいよホント。
悪いって言いたいんじゃないんですよ。満足できるかっちゅー話ですよ。
昔さぁ秋元康プロデュースでねずみっ子クラブっていたんだけどさぁ、要するに「大人っぽい小学生」とかを集めたグループだったんだけど、そこにいる子たちが「大人っぽい」というより「大人のコスプレが似合う子供」って感じでなんかいまいちだった。実際、失敗してるし。いやロリでいいんだよロリで!っていうのが通用しない時代だったしね。
アマはアマでいいじゃない。甘々でいいじゃない。その上でプロの仕事があるっていうさ。ロリもBBAもみんな好き。それでいいじゃない。みんな違ってみんないい。ロリもBBAも違いがわからないなんて人がいたってさぁ、まぁ、いいんじゃよ、はぁ~。。。(何が言いたいんだよクソが)
...いろいろあっていいんだけど、いろいろない気がする。いろいろある気はする。とにかく多いなっていう、そんな世の中ですよ。
「昔はよかった」なんつってね。そんなんで満足できるなんて、そりゃうらやましいっすなぁってなもんですよ。
水風呂の中でポテチ食べるなんてずいぶん文化的な生活じゃないですか。あと若さを感じるしね。
でもさ、それせめて水風呂じゃなくてプールにしてくんない?とかまぁいろいろ思っちゃうんです。露天風呂にしてくれとか。
まぁ、論点はズレまくっていくわけだけど。。。
京浜東北線の赤羽駅あたりの車中で、携帯電話で話す声が聞こえていた。
なんかむかつくー
え?炎上
(話し相手もびっくりして引いていたのか、何度も言っていた)
あまりの会話内容にびっくりして見上げたら、
ヤンキー風情を帯びた黒のギャルぽいミニスカートの服装、でも身長170くらいで、柔道でもやっていたかのような体格。芸能人で例えるならば、北斗晶(鬼嫁)が女装しているような外見のお姉ちゃんでした。北斗晶は根が良い人だから好きですけどね。
向こうも気まずい思いをしたのか、羞恥心か道徳心があったのか、そそくさと別車両へ移動していきました。
数年前のことですけどね。
でも、あんな人に絡まれるのはごめんだわ。いろんな意味で。