はてなキーワード: 道徳心とは
家族や親族に自閉症スペクトラムが数人でてる彼が、もし自分の子供がダウン症だったら迷わず中絶するって言ってた。
障害児を育てる苦労を知ってるからこその発言だしそれは理解できるんだけど、
そっちで生まれやすい自閉症児については、生まれてから3年くらい経たないと判断できない。
「命をふるいにかける事」を考えると倫理的な矛盾のループから抜け出せない。
それって奇跡みたいなもんなんだ。
子供を産んだことないのに、元気に笑う子供を見てるとすごい奇跡的なものに感じる。
動物のように弱いものは淘汰されるべきと思う心はあるくせに、ともに支えあおうなんてぺらぺらな道徳心で押さえつけてる。
結局どうなんだ。淘汰をもやむなしとするのか。そうでなければもっと教育なんなりで道徳心を高めてくれよ。
あまりにも「お好きにどうぞ」ってする割にいざとなったらぺらぺらの道徳心振りかざしてくる人の多いこと。そして私もその中の一人であることは間違いない。
周りに比べてどうもゴミみたいな人生送っていて最近その理由が分かった。
まず、非常に消極的。
自分の気持ちをどんな所でもほとんど言わず、周りとの関わりを避ける。
仮に気持ちを言うとしても恐縮しながら回りくどい事を言ってしまう。
そんな事があっても1人で抱え込み
じっとしてやり過ごそうとしてしまう。
これが二番目の欠点だ。
どういう点かというと、プライドが高い点だ。
体は非常に細く、慢性的な精神病にかかっている。 学歴は高校中退。
信頼できる人は0で(親はあまり頼りにならず忍耐または自己否定を提案する)ひどい時は誰かに襲われるのじゃないかと怯えている。
道徳心を持とうだの、他の人よりマシと考えて怒りを抑えようとする。
自分がいつまで立っても上手くいかない理由はこの二つにあると痛感した。
こう大人しくなってしまったのは様々な要因があるが、メソメソ泣いていても周りは変わってくれず容赦なくいじめ抜く、または見て見ぬ振りをされる、哀れに思って意思を汲み取って配慮してくれる人は少ないという事を実感したのであった。
ああ、なんて厳しい社会だ。
不労所得とか、所得格差とか、職場環境の格差とか、そういうものを全て、働く働かないに矮小化して、バイナリーに自分は優れていると思い込もうとしている。
その過程で、自分が周りに迷惑をかけたり、自分が他人に劣後したり、自分がどれほどつまらない人生を送って来たか、全てを棚に上げている。
道徳の際限や客観性を恣意的に設定して、憂さ晴らしの道具に貶めている。
逆になぜそこまで可笑しいのか理解できない。頭おかしいとしか言いようがない。人が職を持たないことがそんなに可笑しいというのが理解できない。隠棲隠遁隠居、そういう熟語を知らないんだろうか?それくらい当たり前に人は厭世だとか世をはかなむだとかして浮世から遠ざかりたがる。それがそんなに可笑しいというのは、非常識だし、普通の感覚ではない。自分の感覚がおかしいのを棚に上げて普通の他人をそこまで笑えるというのは、自意識が寡少な異常人格者だ。
可笑しいし、そこまで構う理由も分からない。いじめの心理だとしか言いようがないし、その善悪を判じたり論じたりすることのできない道徳心の欠如に気づけないことに、呆れざるを得ない。
劣等感が無いはずがない。その裏返しとしてやけに大きな態度に出たりする奴はいるかもしれんが、劣後することは客観的事実で、恰もそういう自認をしていないかのように人格を攻撃するというのは、立派なヘイトスピーチにほかならない。
学歴でブコメの質が決まるとは思っていないが、b:id:hungchang のブコメが素晴らしいのもまた事実だ。
本当に東大卒だとしたら、さらによりいっそう説得力が出て、より素晴らしく感じるのかもしれないなあ。
イメージ的には、カシュゼロロク、ワロスハッカー、デス六、シダーコンドー辺りは高学歴かはわからんが、学生時代に勉強を真面目にしていそう。
特に、カシュゼロロクは偏差値じゃなく卒業後の進路とか、やりたい学問とかを考慮して大学を選んでそうだから、あまり知名度が高くないけど良い大学、みたいなのを選んでそうだ。
逆に、msdbkm、リ・カム、け、辺りは不真面目そうな印象があるな。
リ・カムなんかはその印象がずば抜けてて、勉強しなくても偏差値65ぐらいはありそうな印象が凄いある。
すけきょわんわん、ながたふぇは、勉強に興味がなさそうな感じがする。
頭が良いとか悪いとかというよりは、学校が教えることに興味がなさそう。
すけきょわんわんは間違いなく「サインコサインの何が役に立つんだよ!」って思いながらも、口にせずに、しれーっと自分のしたいことをやってそう。
こうテスト始まった10秒後に、テスト範囲どころか、今日のテストの科目自体を間違えて勉強したことに気付いてそう。
勉強以外でも、大事な書類を破くとか、コピー用紙をぶちまけるとか、お茶をこぼすとか、そういうミスをたくさんしてそう。
あと、こういう評価基準とは関係なさそうなのが b:id:sugimurasaburo さん。(なんて読むの? スギムラサブロー?)
今まで挙げた人達は、なんていうかこう、男社会に置ける評価基準みたいなものでイメージを膨らませたけど、
この人はもうそういう基準で計るべき存在じゃないなって思っちゃう。
言い方は悪いかも知れんけど、結婚したときに、2人で共働きするよりも専業主婦やって全力でサポートすることで、相手の年収を二倍以上に上げるようなイメージだ。
ただ、別に本人自身も仕事は出来そうだから、共働きなら共働きでガッツリ稼ぎもしそうでもある。
むにおかみたいな、やる気ないタイプもいるよね。
こいつ勉強とか仕事が出来るとか出来ないとかじゃなく、やる気が根本的に欠けてそう。
金を稼ぐとか、テストでいい点数を取るとか、そういう社会的なあれこれに一切の興味がないタイプ。
でもまあ、一番多いのは、サバみたいな、ほどほどにやる気があって、ほどほどに勉強が出来て、ほどほどに仕事も出来る、みたいな普通の人なんだろうなあ。
舞台「刀剣乱舞」を観に行った。結論から言うと自分のせいで後半半分しか見られなかった。
12時開演なのに14時開演と勘違いし、1時間ほど見逃してしまった。会場に貼ってあるポスターの公演日程をぼーっと眺めている時に気付いた。頭が真っ白になって慌てて受付に行ったら、途中から通してくれた。
自分の勘違いでいろんな人に迷惑をかけてしまった。一緒に観に来た妹にはどんなに謝っても足りない。また、途中入場にあたって対応してくれたスタッフの人にも手間をかけさせてしまったし、何より演出の邪魔をしてしまったことと他の観劇者の邪魔をしてしまったことが申し訳ない。せっかく劇の世界に没頭していたのに、私が入ったことで一瞬でも気が逸れてしまった人がいるかもしれない。絶対いると思う。
やむを得ない事情があっての途中入場ならまだしも、自分の勝手な思い違いのせいで大勢の人に迷惑をかけてしまった。舞台上からも途中入場した人が見えるのか、と考えるといたたまれなくて情けない。同じ作品でもその場限りの、一期一会の劇になるのが舞台の醍醐味だと思う。それをほんの少しでも壊してしまったのが悔しい。自分が馬鹿すぎて泣けてくる。
今回の失敗が起こった要因は以下の3点だと思う。
1、スケジュール管理の怠り
…前日妹に公演時間を聞かれた時、チケットを確認もせず「14時からだよ」と答えていた。また、スケジュール帳を見返したら「14時」と一度書いた上から「12時」に修正されていた。4の字の上から無理やり2を書いていた。
2、雑な計画
…東京に出れば、電車もバスも5分刻みで来るから来たものに乗れば着くだろう。多分1時間前開場だからそれくらいに着けばいいだろう。荷物はどこかに預けられれば預ければいいだろう。全てをそんな風に雑に考えていた。
…今月は様々な舞台・イベントが立て込んでいて、特に忙しい時だった。その分他の予定と時間がごっちゃになり、勘違いが起こったのではないか。
言い訳がましく並べたが、一番思うのは「舞台に対する関心が低くなっていたのでは」ということだ。そんな事はないと言いたいが、「そんなに好きならどうして時間を勘違いするなど馬鹿なミスをやったのか」と言われると返す言葉がない。「そこまで好きじゃないから間違えたんじゃないの?」と言われても、私には反論する資格がないと思う。
いろんな予定が重なって、関心が分散していたことも否めない。あっちもこっちも考えているうちに、ひとつのイベントをちゃんと確認するのを怠っていたのではないか。
どうにか反論できるなら、「関心が低かった」のではなく「不誠実だった」という方が近いと言いたい。公演をとても楽しみにしていて、ちゃんと気を配っていたつもりだったのは本当だ。しかし気持ちだけでは意味がない。実際の行動を客観的に誠実・不誠実の観点から見たら、私は確実に不誠実だ。
言い訳を重ねて見苦しいと思うが、できない人も自分ではちゃんとやっているつもりなのだ。ただし「やってるつもり」の基準が他の人より低いのだと思う。だから気持ちだけで言えば、できる人と同じくらいできない人も人事を尽くしている。気持ちに見合う行動が何なのかを分かっていないから、不誠実になってしまうのだと思う
今回の失態を繰り返さないためには、
◯予定を立てる時でなく、確認する時もチケット等を見て行う。同伴者がいる場合は、一緒に見て確認する。
◯自分のことを信用しすぎない。特に自分の記憶力は信用しない。必ず調べて確認する。
ということを大事にしたい。
しかしこれらができる人なら、そもそもこんな間違いはしないはずだ。これができないから間違える。20数年生きててこんな基本的なことができない人間なのだから、おそらく私は数年後また同じようなミスをする気がする。今はこれほど悔しく思っていることでも、数年経ったらまた油断しそうだ。妙にプライドが高くてめんどくさがりだから、自分を疑うということをすぐに怠るだろう。なので忘れないように、ここに書き記しておくことにする。思っているだけよりは文字に起こした方が自分の馬鹿さと向き合えるだろう。
今回の失態で痛感したのは「注意してくれる人のありがたみ」だった。先に「できない人はできる人と気持ちは同じだが行動の基準が低い」と述べたが、これを治すには行動の基準そのものを是正しないとならない。しかし大人になると、ああしろこうしろと注意してくれる人がいなくなる。そのため自分の行動が正しくなくても、気付くことができなくなる。
私の場合は実家暮らしなので、まだ母が叱ってくれる。今回の件も説明したら大爆笑したのち具体的な改善点やこれから注意すべきことを教えてくれた。上記の反省点も母の言葉を倣った。ちゃんと叱って、教えてくれる人がいるというのはありがたいことだと思った。慰められたり笑い飛ばしてもらったりするのも良いが、注意をくれる相手を大事にしなければという当たり前のことに改めて気が付いた。綺麗事や道徳心ではなく、本当に身に沁みる。
最後に、わざわざ舞台「刀剣乱舞」の名前を出したのはこの舞台が最高の舞台だったからだ。私に感想を言う資格もないと思うが、途中からでもすぐ飲み込まれるほどの迫力と展開、役者さん達の演技や役作りの完成度に圧倒される。素晴らしい舞台だったからこそ、自分たちの思い出に水を差したことも会場の空気を少しでも乱してしまったことが腹立たしい。私ごときの途中入場に影響されるほど脆弱な作品では決してないのだが、それでもほんの少しだけでも穴を開けてしまったのは事実だと思う。自意識過剰かもしれないが、本当に悲しくて悔しい。
一時期イベントを企画する仕事に携わってた。色んな修羅場を経験したが、一番の修羅場は「出演予定者が自殺した時」だった。
道徳心をかなぐり捨てて告白すると、正直、体調不良や仕事の都合で欠席される方がまだいい。死なれたらイベント自体が開催自粛だ。
それまで準備してきたものが全部崩れ落ちる徒労感、ファンから「無茶な企画で追い詰めたんじゃないか」と疑われる理不尽さ、
上からリスク管理を責められる絶望感(どうしろって言うんだよ)、他の出演者に俺らが頭を下げに行く虚しさ…
小さなイベントでさえそうだったのだから、例えばテレビ番組やら講演会やら企画している人たちにとって
出演者が「責任とって自殺しようとしたけどムリでした」なんて放言している様子は胃穴レベルのストレッサーだろう。
橋・松「はいどーも〜」
橋「いやー今日もたくさんのお客さんに来ていただいて」
松「はい」
橋「最前列のお客さんなんかもう端から口パク口パク一人飛ばして口パクと」
松「いやいや」
松「よしなさい」
橋「まあ僕らこうして漫才してるわけですが」
松「ええ」
橋「まだまだ支持率が低いんでね」
松「そらまあしゃあないがな」
松「ええですな」
橋「まずはこの僕の隣に立ってる人、最高の相方ですわ」
松「いやいや照れるがな」
松「松?」
松「松?」
橋「ほんで僕の名前は橋に下と書いて」
橋「誰がやねんまだ誰も殺してへんわ」
橋「そのうちね。言うてる場合か。まあホンマ頑張っていかなあかんなー言うてるんですけど」
松「ええ」
橋「まだまだこの国は変えなあかんことが多い」
松「そうですなあ」
橋「たとえば少子化ね」
松「あーこれ深刻やがな」
松「愛人囲ったりね」
橋「多少疲れててもあの手この手で興奮して頑張るべきなんです」
橋「ってワシやないかい! でもまあ子供が増えるだけでもあかんのですわ」
松「教育をせんとね」
橋「これからは知識よりも日本の伝統と文化、まずこれを教えるべきやと」
松「そらええことですわ」
橋「それワシやないかい! まあそんなこんなで大阪も荒みまくって犯罪が多い」
松「これホンマ大変ですわ」
橋「なかでも多いのが詐欺ね」
松「ああ〜けしからん!」
橋「って全部ワシやないかい! きみホンマに僕のこと尊敬してる?」
松「当たり前やがな。一生ついて行きますがな」
橋「ほならええけどやな」
松「その代わり出世の方、頼むで」
橋「まかしとき。まあそのうち国政を牛耳ってやな」
松「うんうん」
橋「僕がキングメーカーになるわけや」
松「そしたら僕を総理大臣にしてや」
橋「お安い御用やがな。ほなちょっと指名の練習でもしよか」
松「ええなええな」
橋「内閣総理大臣」
松「はい!」
橋「松あきら君!」
橋・松「どうも、ありがとうございました〜」
題名だけでもう全てなんだけど。
人間,基本的に他人の不幸に対してどういう感情・行動を持つかというと,
1.自分のことのように共感したり,同情したりして,助けようとする。
2.自分によいことがあったかのように大いに喜び,なお不幸にしようとする。
この二つ。
成立する傾向が強い。
一方,2は,当然のことながら,社会倫理道徳上褒められた行為ではない。
ことに,倫理観や道徳観に普通以上に縛られた人は,2を必要以上に嫌ってしまう。
そのストレスを発散するには,すなわち,倫理・道徳心の強い人が他人の不幸を味わうにはどうすればよいか?
よって,自分が悪をけなし,蔑にし,罵詈雑言を浴びせ,それが不幸に陥った時にそれを喜んでも,
それは正義の信念に基づく行動であって,(その人の中では)倫理道徳上正当化される行為となる
なぜ人を殺してはいけないのかについて答えられる大人がほとんどいないという記事を読んだ
道徳的に、倫理的に人殺しはいけないことは当たり前なのだが人殺しについて考えることをしていくと「戦争では人殺しは正義」というものにいきつく
哲学の根本に容赦のない徹底さというものがあるが人殺しの正当性について状況によって異なるというのはこれ以上ないほど整合性がある
要は人は必要に応じては人を殺しても良いという「解」になるらしい
しかし人は人を殺すだけの理由を持った時、人を殺しても良い状況の時に人を殺しても良いという因数分解のような理論的な解にはどうしても違和感がある
なぜなら人は人を殺すだけの論理や計算式が成り立っていても計算式自体に罪悪感や自尊心や道徳心にこそ迷いを感じるからだ
人は必要に応じれば人を殺しても良いなどという答えなどどうでもいい
そういうのもあるのか。
矜持を持つのがどこなのか、という問題かと思った。体面なのか、内面なのか、社会のルールなのか、仲間のルールなのか。
効率厨という言い方で、ネトゲを想像した。ネトゲでも教育程度 (まぁ実際の所わからない) にかかわらず、BAN されないのだからやっていいだろっていうタイプと、それをやったら自分の技術に対する評価や培ってきた信頼が損なわれるからやらないってやつがいる。BAN されないのだからーという奴はどんな手段を使ってでも良い成績を残すのが正義でそうしないやつこそ馬鹿だと思ってる。技術や信頼が損なわれるからという奴は、一度でも不正を働いたら今まで積み重ねてたいろいろが無意味になるのがまずい。本当に正義感や道徳心から、ルールだからやってはいけない!というタイプもいるかもしれないけれど。
たしかにそうだ。ネトゲだと現実社会ほど抑制が働かないのか、自慢気に話すやつ結構いる。やらないやつが馬鹿だと堂々という人がいる。そういう人がいるってことは、現実社会でも、答案を盗むような奴がいるのは想像できるかも。ちなみに自分は、その手の不正はゲームであれ勉強であれ、これまでの積み重ねが無意味になるからやりたくないって方。なのに若い時盗みはやってたんだ… いろいろなもんだ。
自分はルールがあるからいけないというより、ハッピーになれるやつが少なくなるようなことには、各人が自分のためと思うことからまわりまわって自然とルールができる、と考える。
端的な話、殺人がやりたい放題だったら、自分や自分の大事な人も殺されるかもしれないので殺人はまずい。殺される覚悟のあるやつだけ、殺していいとなる。その上で、殺人を犯そうとする人に理由があったらそれはその人にとって正義なんだろうと思う。そう思うけども、全てそれを認めたらどこかで平均的ハッピー具合が歪むから、殺人はなしってことにしようぜ、ってルールができる。って考え方。
(こういうの、難しい言葉で何かあるのかもしれない。自分には学がないのでわからない)
なので、まず精神よりも感情よりもルール有りきという道徳心には実感がない。法律やネトゲの不正行為に対する規約や校則は、殆ど自分のあずかり知らぬ所で制定されているものだけども、それでもできるだけ多数が不幸にならない方向に多少はできているはず。もしそうでないルールがあるとしたらそれはやばいルールだと思う。たまにどんなにおかしいルールでもルールだから絶対というやつがいるが同意できない。という話を以前知り合いにしたらドン引きされたので、やはり当たり前の正義感や道徳心からダメというほうが多数派なのか?内心疑問に思う人は多くないのだろうか…
例えば
牛肉を食べながら、日本の捕鯨を批判して、「日本人を殺したい」とまで言う人たち。
森にドングリを撒いて、クマを人里に近づかせる人たち。
動物愛護は歪んだ自己中心的な偽善。自己満足は結構だが、それを他人に押し付けるな!と思う。
彼らの動機はきっと、
「かわいそう」とか、そんな、単純なもので、
「もっと、可哀想なのがいるけど?」と言えば簡単に論破できる。そんなものでしか無い。
なのに、なにかが、引っかかった。
「かわいそう」とか「かわいい」とか「助けたい」とか。それ自体は悪いものでは無い。
だけど、その感情を共有できない人に、それを(多くは社会制度・社会負担という形で)押し付けるのが悪いのだ。
それって恋愛してる時と似てるなとなんだか思った。恋をしてる時は、その人のことだけを考えて。その人が別の人と話してたりすると、ヤキモキしたりして。
「そんなことしほしくない」と勝手に思う。思うだけなら罪のないヤキモチだが、それを相手に押し付けたらきっと迷惑に思われる。
動物愛護にも恋愛にも「好き」という気持ちが、前提にあるんだなと、当たり前の事を知る。
動物愛護は政治的になると、ただの「好き」だけじゃ居られなくなる。だってそれだけじゃ支持されないものね。
だから、「絶滅危惧」とか「道徳心」とか「動物の知性」とか、説得力のありそうなロジックを持ち出して、支持を得ようとする。
それに対して、反対する側も、「絶滅しない」、「道徳の問題ならまずは人間から」とか、「動物の知性は対したこと無い」とかそんな事から反論する。
でも、そんな反論をされても動物愛護側からすれば、へっちゃらなんだろうね。
だって彼らの原動力は「好き」の感情なんだから。善なんてする気は無いんよ。ロジックだってなんでもいい。
また、恋愛の話に戻る。例えば昔の話。親に結婚を反対された時。そりゃ、息子or娘は手を尽くしてロジックを組み立てるだろうね。
年収が〜、将来性が〜、親戚が〜とかさ。親は子供の為に、家の為に「善い」事をしようと結婚に反対する。子供はそんな善なんかどうでもよくて、とにかく「好き」を大切にしたいと思う。
嘘の善。だけど、「好き」って悪なのかな?
その嘘の善こそ(当人にとっては)究極の善である「愛」なんじゃ無いだろうか?
動物愛護は確かに鬱陶しいし、どうみても愚か。歪んでる。
教育基本法(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO120.html)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
(社会教育)
第十二条 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。
社会教育法(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24HO207.html)
第一条 この法律は、教育基本法 (平成十八年法律第百二十号)の精神に則り、社会教育に関する国及び地方公共団体の任務を明らかにすることを目的とする。
第二条 この法律で「社会教育」とは、学校教育法 (昭和二十二年法律第二十六号)に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動
(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう。
第三条 国及び地方公共団体は、この法律及び他の法令の定めるところにより、社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。
2 国及び地方公共団体は、前項の任務を行うに当たつては、国民の学習に対する多様な需要を踏まえ、これに適切に対応するために必要な学習の機会の提供及びその奨励を行うことにより、生涯学習の振興に寄与することとなるよう努めるものとする。
3 国及び地方公共団体は、第一項の任務を行うに当たつては、社会教育が学校教育及び家庭教育との密接な関連性を有することにかんがみ、学校教育との連携の確保に努め、及び家庭教育の向上に資することとなるよう必要な配慮をするとともに、学校、家庭及び地域住民その他の関係者相互間の連携及び協力の促進に資することとなるよう努めるものとする。
図書館法(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO118.html)
第一条 この法律は、社会教育法 (昭和二十四年法律第二百七号)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。
2 前項の図書館のうち、地方公共団体の設置する図書館を公立図書館といい、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人の設置する図書館を私立図書館という。
第三条 図書館は、図書館奉仕のため、土地の事情及び一般公衆の希望に沿い、更に学校教育を援助し、及び家庭教育の向上に資することとなるように留意し、おおむね次に掲げる事項の実施に努めなければならない。
一 郷土資料、地方行政資料、美術品、レコード及びフィルムの収集にも十分留意して、図書、記録、視聴覚教育の資料その他必要な資料(電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によつては認識することができない方式で作られた記録をいう。)を含む。以下「図書館資料」という。)を収集し、一般公衆の利用に供すること。
二 図書館資料の分類排列を適切にし、及びその目録を整備すること。
三 図書館の職員が図書館資料について十分な知識を持ち、その利用のための相談に応ずるようにすること。
四 他の図書館、国立国会図書館、地方公共団体の議会に附置する図書室及び学校に附属する図書館又は図書室と緊密に連絡し、協力し、図書館資料の相互貸借を行うこと。
五 分館、閲覧所、配本所等を設置し、及び自動車文庫、貸出文庫の巡回を行うこと。
六 読書会、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会等を主催し、及びこれらの開催を奨励すること。
七 時事に関する情報及び参考資料を紹介し、及び提供すること。
八 社会教育における学習の機会を利用して行つた学習の成果を活用して行う教育活動その他の活動の機会を提供し、及びその提供を奨励すること。
九 学校、博物館、公民館、研究所等と緊密に連絡し、協力すること。
(入館料等)
学校図書館法(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S28/S28HO185.html)
第一条 この法律は、学校図書館が、学校教育において欠くことのできない基礎的な設備であることにかんがみ、その健全な発達を図り、もつて学校教育を充実することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「学校図書館」とは、小学校(特別支援学校の小学部を含む。)、中学校(中等教育学校の前期課程及び特別支援学校の中学部を含む。)及び高等学校(中等教育学校の後期課程及び特別支援学校の高等部を含む。)(以下「学校」という。)において、図書、視覚聴覚教育の資料その他学校教育に必要な資料(以下「図書館資料」という。)を収集し、整理し、及び保存し、これを児童又は生徒及び教員の利用に供することによつて、学校の教育課程の展開に寄与するとともに、児童又は生徒の健全な教養を育成することを目的として設けられる学校の設備をいう。
(設置義務)
(学校図書館の運営)
第四条 学校は、おおむね左の各号に掲げるような方法によつて、学校図書館を児童又は生徒及び教員の利用に供するものとする。
一 図書館資料を収集し、児童又は生徒及び教員の利用に供すること。
二 図書館資料の分類排列を適切にし、及びその目録を整備すること。
三 読書会、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会等を行うこと。
四 図書館資料の利用その他学校図書館の利用に関し、児童又は生徒に対し指導を行うこと。
公立図書館は「国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする」(図書館法1条)のに対し,学校図書館は「学校教育を充実することを目的とする」(学校図書館法1条)。
あれをドキュメンタリーとして読むにも客観性に欠けるし、作中の残虐描写が道徳心を涵養するとかないって。単純に娯楽ものなんだから。
図書館を運営する主体が不適切と判断して見せないようにするんならそれでいい。それは各自に任せる。別に出版社に対して、売るのをやめろとか主張してるわけじゃないんだしさ。
はだしのゲンが見れないくらいで表現の自由がとか、戦争の悲惨さを伝えるために必要だとかブーブーいうなら、小学校の図書館にコミックLOが置いてあっても文句いうんじゃねぇって。適切か不適切かを判断する常識的に考えての部分は、価値観の問題だとか政治的な問題であり、法律に抵触していたり、過度で無理な主張がない限り、外野がどうこういう問題じゃない。
そんなことは書いてない。正義かどうかはわれわれの道徳心による、と書いた。そしてそもそも悪は滅ばない。光ある限り、また闇もある。
時代が違えば、オウムは正義足り得た可能性があった。しかしそうならなかったのは、われわれがオウムを正義と認めなかったからだ。なぜなら、彼らの手法はわれわれ自体に危害が及ぶものであり、これを正義とするのは自殺と同じだったからだ。オウムはただの暴走機関に成り下がったのだ。
つまり、われわれに危害が及ばない限りは、彼らは正義足り得た可能性があったということだ。事実、創価学会は潰しておけばよかったのに、という意見はこういう話題になるとよく書かれる。
悪を叩くことが悪であることが考慮されない。つまり、暴力的な正義のヒーローは正義ではなく悪だということをきちんとメディアはやらないといけない。
そのボーダーをどこに定めるか、というのがわれわれの道徳心なのだ。悪を叩くことそれすなわち無条件に悪である、ということも、いや、一定は認める、ということもある。
ブラック企業は悪だけど、それを叩くのは悪かどうか、といえばわかりやすいだろう。ここ(http://anond.hatelabo.jp/20120111092149)のブコメには「こういう奴らのためにブラック企業がある」という類の意見も書き込まれているとおり、結局ブラック企業というのはビルから飛び降りろとか過労死が出ようとセーフティーネットを果たしている。これを規制するということは結局底辺の人間が割を食うということだ。つまり、必要悪としてのブラック企業というわけだ。
Don't laugh, Shut up!