はてなキーワード: 道徳心とは
ロシア国民の貧困イメージはヨーロッパの反露プロパガンダでしかないんだよね。
実際にはものすごく豊かに暮らしていて、逆にヨーロッパは移民のスラムばっかで廃退している。
ネットもTVもこんなものの宣伝ばかり見せつけられていたせいでは日本人は夢をなくし衰退してしまった。
それに、リベラル、ポリコレ、フェミニズムなど、、、アメリカの思想は日本民族には到底受け入れられない。
アメリカの製品を買いたいと思う日本人はどれだけいるのだろうか。
家電はすぐ壊れるうえ使いづらい。
車は自動車から戦車にいたるまでゴミ。戦車は数十年前のものから更新できる技術がなく
事故ばっか起こすスペースシャトル。ロシアのソユーズはいまだに無事故。
近代の日本とロシアと何度も戦ったのに、ロシアは韓国のように昔のことで日本を攻撃してこない。
これこそロシア国民が優れた道徳心の持った民族である証拠である。
一度戦っただけで逆恨みしてきたイギリスやオランダとも雲泥の差である。
アメリカのルーズベルトの言っていたことなんてヒトラーと変わらない。
世界が第三次世界大戦の危機に晒され続けているのも日本が親米であることが原因。
オリンピック、サッカーW杯、高校野球。そういった「報道がそればかり」「応援しよう」というイベントが開催されると、ことさらに「興味がない」「無理矢理応援させられているようで苦しい」などと言われる方々がいる。
僕はこれらのスポーツイベントが好きだ。
しかしそういう方々もいらっしゃるだろうし、そう思うこと、その意見を発表されることは個人の自由だと思う。
ただ、そういった方々は少数派の問題(LGBT、夫婦別姓問題、環境問題など)になると、とたんに「これは全国民において理解が必要である」「この問題についてこのような認識はありえない」などと、「圧力」をかけてくる割合が高いと思う。
そこにおいて「興味がない」という発言は、嘆かわしいものであり、先進国に住む国民としてありえないことであり、知性や道徳心の欠如であるかのごとく言われることもある。
別にオリンピックを見なくても、サッカーが嫌いでも、そこまで言わないよ、と思ってしまう。「あ、そう」という程度。
なのになぜ…と思ってしまう。
もちろん、それらは政治的な問題であり、単なるスポーツイベントとは一線を画すものである。それは確かなのだけど、いざ少数派の問題に興味を持っていて、その方の発言を追っていたときに自分の好きなスポーツイベントをわざわざ「興味がない」「興味を持つ人の気持ちがわからない」と言われると、反感を覚えてしまうし、なんとなくそういう問題は放っておこうかな、となってしまう。少数派の問題だから、当事者でない人間にとっては放置しておいても支障はないから。
だからと言って発言するべきではない、と述べているわけではない。ただ僕はそう感じると述べているだけで。単純に違和感があるだけだ。
海外で日本人はスーパーに並んでもマナーが良かったて昔話題になってたけど、あれは常日頃日本人全員がいつでもご飯が食べられるっていう確信があったからだと思う。道徳心や礼儀正しさもあったかも知れない。でもそれ以前にお金を出せば買える、いつでもコンビニやスーパーが開いてるという要因のもといつでも食べられるという確信を得られマナーが良かったんだとおもう
もしその時の日本がいつでもご飯が食べられるとは限らない、必要な分しか作られないだったらもっとマナーは悪かったとおもう。
この話に関連してブラック企業は賃金が低くてつらいとか言われるけど、それ以上にこの仕事を頑張ったら会社が大きくなるという展望がないのがまずいと思う。そして会社だけでなく日本全体も目標がない、展望がない、それによって日本人全体が不幸になってると思う
マジレスすると、ネトウヨを「叩いて遊ぶ」つまり相手を不幸にすることで快感を得るような振る舞いは、
リベラルなメンタリティ(道徳心理学でいうところの公正やケアを司る本能に根差す)と矛盾するからNG。
ネトウヨの優位性は屁理屈があればこまでも嗜虐的になれ、ヘイト活動そのものを楽しめるところにある。
今回ネトウヨ叩きが盛り上がったのは自己検閲を飛ばして単純にネトウヨを困らせて楽しめるからだろう。
同じことをリベラルがやろうとすると、まず公正やケアの本能がやめるやめろと言ってくる。
街を歩くと中国語やハングル文字の表示が多いことに気付く。私企業の案内表示ならいざしらず、公共交通機関である電車や地下鉄の駅やバス停、役所、図書館など、あらゆるところに中国語やハングル文字を見る。中韓は反日教育を行う敵国である。卑怯な彼らの得意技はテロや騒乱を引き起こすゲリラ戦だ。敵に道案内するかのような表示が街のあちらこちらに見られることを異常と感じなくてはならない。国防安全保障の観点から、こうした利敵表示を即刻排除すべきである。所詮彼らは、困った時は手揉みして近づいて来る。だが、潤えば対日毀損を果てしなく繰り広げる。彼らには倫理観や道徳心などかけらほどもなく、その残酷さは破廉恥を極める。隣国だからといって格別の配慮など不要だ。支那朝鮮に対しては、西欧諸国が両国に接するのと同様に、相手を人の住む国とさえ思わず厳しく対処することが最善であろう。悪友と仲良くする者は、共に悪名をまぬがれない。
https://monitor.gov-online.go.jp/report/kokusei201308/detail.php?id=75604
もうね、肉体衰えてきている可哀そうな人たちなわけ。
だから「なんだよ、能力も美貌もなんもないくせに」とあなたが内心、真っ黒な心根でも
一応は言葉だけでも立ててあげないと可愛そうなんだよ。
そしてそれは須らくあまねく人々に訪れるものですので、
少しは優しさで、あるいは哀れみでもいいので、丁寧に扱ったほうが、あなたの価値が上がります。
気持ちの部分で書こうと思うったけれど、道徳心とかそういうのより。
増田の心に響くには、損得で書いたほうが良さそう。
年月で積み上げてきた経験というものについての尊敬の心があるので
私は年長者に対して、嫌な思いをさせられない限りは、礼節を尽くしたいと思います。
民主主義という制度は、ほかのいかなる制度より大衆の知恵と道徳を必要とする制度である。
もし、知恵と道徳心をもたない大衆が多数となれば民主主義が崩壊することを意味する。
弱者とは、知恵も一般的な道徳をもてないかわいそうな人たちである。
弱者ほど知恵や道徳をもつインセンティブは乏しいなどという合理化をする。
https://anond.hatelabo.jp/20171011081045
となれば民主主義にとって弱者とは爆弾であり、排除すべき敵である。
集団にとって敵である存在を救う集団などこの世には存在しないのでないだろうか?
そもそも知恵も道徳も持ち合わせておらず、民主主に対するほのかの敵意をもつ人間が
民主主義に頼るというのは、もはやジョークの域に達しつつある。
弱者は民主主義をよく思っていないだろうが、民主主義もまた弱者をよく思っていない。
では、弱者はどうすればよいだろうか?
二つはあると思っている。
民主主義に好ましくない人間は排除されることが弱者にとって道徳心をもつインセンティブになる。
道徳心をもてば、弱者は民主主義において救われる可能性が少なくとも出てくるというものだ。
こう考えてみれば左翼思想とは人を排除する論理を内包する思想であるとするならば
民主主義とは極めて左翼的であり、民主主義を肯定しつつ左翼を批判するなどは道理が通っていない。
左翼的な思想を除いていきしていけば結果として、民主主義は取り除かれる。
というよりもだね、
猫を殺すような道徳心の無い人物は加虐的な衝動に歯止めが利かない場合がある。そういう犯罪者予備軍を事前に動物虐待などの軽犯罪で知れるならそれは居場所を教えているも同じ。
保釈されようと前科はあるので国外に逃げようとも刑歴を調べ上げられるだろう。大体保釈は容疑者に許される司法的な権利だ。他の犯罪で許されている事を動物への傷害程度で許されない理由はない
実刑判決はまだのようだが、根底に殺人欲求があるならカウンセリングを通じた更正を前提とした処分だって期待できる。単純に動物虐待が好きだとしても増え続ける野良猫一匹や二匹の処分程度なら、保健所が同じ事をしているのだから責められないんだよ。職権があるかないかの些細な違いだけ。おんなじことをしていてもかたや犯罪者。かたや真面目な有職者。
家族や親族に自閉症スペクトラムが数人でてる彼が、もし自分の子供がダウン症だったら迷わず中絶するって言ってた。
障害児を育てる苦労を知ってるからこその発言だしそれは理解できるんだけど、
そっちで生まれやすい自閉症児については、生まれてから3年くらい経たないと判断できない。
「命をふるいにかける事」を考えると倫理的な矛盾のループから抜け出せない。
それって奇跡みたいなもんなんだ。
子供を産んだことないのに、元気に笑う子供を見てるとすごい奇跡的なものに感じる。
動物のように弱いものは淘汰されるべきと思う心はあるくせに、ともに支えあおうなんてぺらぺらな道徳心で押さえつけてる。
結局どうなんだ。淘汰をもやむなしとするのか。そうでなければもっと教育なんなりで道徳心を高めてくれよ。
あまりにも「お好きにどうぞ」ってする割にいざとなったらぺらぺらの道徳心振りかざしてくる人の多いこと。そして私もその中の一人であることは間違いない。
周りに比べてどうもゴミみたいな人生送っていて最近その理由が分かった。
まず、非常に消極的。
自分の気持ちをどんな所でもほとんど言わず、周りとの関わりを避ける。
仮に気持ちを言うとしても恐縮しながら回りくどい事を言ってしまう。
そんな事があっても1人で抱え込み
じっとしてやり過ごそうとしてしまう。
これが二番目の欠点だ。
どういう点かというと、プライドが高い点だ。
体は非常に細く、慢性的な精神病にかかっている。 学歴は高校中退。
信頼できる人は0で(親はあまり頼りにならず忍耐または自己否定を提案する)ひどい時は誰かに襲われるのじゃないかと怯えている。
道徳心を持とうだの、他の人よりマシと考えて怒りを抑えようとする。
自分がいつまで立っても上手くいかない理由はこの二つにあると痛感した。
こう大人しくなってしまったのは様々な要因があるが、メソメソ泣いていても周りは変わってくれず容赦なくいじめ抜く、または見て見ぬ振りをされる、哀れに思って意思を汲み取って配慮してくれる人は少ないという事を実感したのであった。
ああ、なんて厳しい社会だ。
不労所得とか、所得格差とか、職場環境の格差とか、そういうものを全て、働く働かないに矮小化して、バイナリーに自分は優れていると思い込もうとしている。
その過程で、自分が周りに迷惑をかけたり、自分が他人に劣後したり、自分がどれほどつまらない人生を送って来たか、全てを棚に上げている。
道徳の際限や客観性を恣意的に設定して、憂さ晴らしの道具に貶めている。
逆になぜそこまで可笑しいのか理解できない。頭おかしいとしか言いようがない。人が職を持たないことがそんなに可笑しいというのが理解できない。隠棲隠遁隠居、そういう熟語を知らないんだろうか?それくらい当たり前に人は厭世だとか世をはかなむだとかして浮世から遠ざかりたがる。それがそんなに可笑しいというのは、非常識だし、普通の感覚ではない。自分の感覚がおかしいのを棚に上げて普通の他人をそこまで笑えるというのは、自意識が寡少な異常人格者だ。
可笑しいし、そこまで構う理由も分からない。いじめの心理だとしか言いようがないし、その善悪を判じたり論じたりすることのできない道徳心の欠如に気づけないことに、呆れざるを得ない。
劣等感が無いはずがない。その裏返しとしてやけに大きな態度に出たりする奴はいるかもしれんが、劣後することは客観的事実で、恰もそういう自認をしていないかのように人格を攻撃するというのは、立派なヘイトスピーチにほかならない。
学歴でブコメの質が決まるとは思っていないが、b:id:hungchang のブコメが素晴らしいのもまた事実だ。
本当に東大卒だとしたら、さらによりいっそう説得力が出て、より素晴らしく感じるのかもしれないなあ。
イメージ的には、カシュゼロロク、ワロスハッカー、デス六、シダーコンドー辺りは高学歴かはわからんが、学生時代に勉強を真面目にしていそう。
特に、カシュゼロロクは偏差値じゃなく卒業後の進路とか、やりたい学問とかを考慮して大学を選んでそうだから、あまり知名度が高くないけど良い大学、みたいなのを選んでそうだ。
逆に、msdbkm、リ・カム、け、辺りは不真面目そうな印象があるな。
リ・カムなんかはその印象がずば抜けてて、勉強しなくても偏差値65ぐらいはありそうな印象が凄いある。
すけきょわんわん、ながたふぇは、勉強に興味がなさそうな感じがする。
頭が良いとか悪いとかというよりは、学校が教えることに興味がなさそう。
すけきょわんわんは間違いなく「サインコサインの何が役に立つんだよ!」って思いながらも、口にせずに、しれーっと自分のしたいことをやってそう。
こうテスト始まった10秒後に、テスト範囲どころか、今日のテストの科目自体を間違えて勉強したことに気付いてそう。
勉強以外でも、大事な書類を破くとか、コピー用紙をぶちまけるとか、お茶をこぼすとか、そういうミスをたくさんしてそう。
あと、こういう評価基準とは関係なさそうなのが b:id:sugimurasaburo さん。(なんて読むの? スギムラサブロー?)
今まで挙げた人達は、なんていうかこう、男社会に置ける評価基準みたいなものでイメージを膨らませたけど、
この人はもうそういう基準で計るべき存在じゃないなって思っちゃう。
言い方は悪いかも知れんけど、結婚したときに、2人で共働きするよりも専業主婦やって全力でサポートすることで、相手の年収を二倍以上に上げるようなイメージだ。
ただ、別に本人自身も仕事は出来そうだから、共働きなら共働きでガッツリ稼ぎもしそうでもある。
むにおかみたいな、やる気ないタイプもいるよね。
こいつ勉強とか仕事が出来るとか出来ないとかじゃなく、やる気が根本的に欠けてそう。
金を稼ぐとか、テストでいい点数を取るとか、そういう社会的なあれこれに一切の興味がないタイプ。
でもまあ、一番多いのは、サバみたいな、ほどほどにやる気があって、ほどほどに勉強が出来て、ほどほどに仕事も出来る、みたいな普通の人なんだろうなあ。
舞台「刀剣乱舞」を観に行った。結論から言うと自分のせいで後半半分しか見られなかった。
12時開演なのに14時開演と勘違いし、1時間ほど見逃してしまった。会場に貼ってあるポスターの公演日程をぼーっと眺めている時に気付いた。頭が真っ白になって慌てて受付に行ったら、途中から通してくれた。
自分の勘違いでいろんな人に迷惑をかけてしまった。一緒に観に来た妹にはどんなに謝っても足りない。また、途中入場にあたって対応してくれたスタッフの人にも手間をかけさせてしまったし、何より演出の邪魔をしてしまったことと他の観劇者の邪魔をしてしまったことが申し訳ない。せっかく劇の世界に没頭していたのに、私が入ったことで一瞬でも気が逸れてしまった人がいるかもしれない。絶対いると思う。
やむを得ない事情があっての途中入場ならまだしも、自分の勝手な思い違いのせいで大勢の人に迷惑をかけてしまった。舞台上からも途中入場した人が見えるのか、と考えるといたたまれなくて情けない。同じ作品でもその場限りの、一期一会の劇になるのが舞台の醍醐味だと思う。それをほんの少しでも壊してしまったのが悔しい。自分が馬鹿すぎて泣けてくる。
今回の失敗が起こった要因は以下の3点だと思う。
1、スケジュール管理の怠り
…前日妹に公演時間を聞かれた時、チケットを確認もせず「14時からだよ」と答えていた。また、スケジュール帳を見返したら「14時」と一度書いた上から「12時」に修正されていた。4の字の上から無理やり2を書いていた。
2、雑な計画
…東京に出れば、電車もバスも5分刻みで来るから来たものに乗れば着くだろう。多分1時間前開場だからそれくらいに着けばいいだろう。荷物はどこかに預けられれば預ければいいだろう。全てをそんな風に雑に考えていた。
…今月は様々な舞台・イベントが立て込んでいて、特に忙しい時だった。その分他の予定と時間がごっちゃになり、勘違いが起こったのではないか。
言い訳がましく並べたが、一番思うのは「舞台に対する関心が低くなっていたのでは」ということだ。そんな事はないと言いたいが、「そんなに好きならどうして時間を勘違いするなど馬鹿なミスをやったのか」と言われると返す言葉がない。「そこまで好きじゃないから間違えたんじゃないの?」と言われても、私には反論する資格がないと思う。
いろんな予定が重なって、関心が分散していたことも否めない。あっちもこっちも考えているうちに、ひとつのイベントをちゃんと確認するのを怠っていたのではないか。
どうにか反論できるなら、「関心が低かった」のではなく「不誠実だった」という方が近いと言いたい。公演をとても楽しみにしていて、ちゃんと気を配っていたつもりだったのは本当だ。しかし気持ちだけでは意味がない。実際の行動を客観的に誠実・不誠実の観点から見たら、私は確実に不誠実だ。
言い訳を重ねて見苦しいと思うが、できない人も自分ではちゃんとやっているつもりなのだ。ただし「やってるつもり」の基準が他の人より低いのだと思う。だから気持ちだけで言えば、できる人と同じくらいできない人も人事を尽くしている。気持ちに見合う行動が何なのかを分かっていないから、不誠実になってしまうのだと思う
今回の失態を繰り返さないためには、
◯予定を立てる時でなく、確認する時もチケット等を見て行う。同伴者がいる場合は、一緒に見て確認する。
◯自分のことを信用しすぎない。特に自分の記憶力は信用しない。必ず調べて確認する。
ということを大事にしたい。
しかしこれらができる人なら、そもそもこんな間違いはしないはずだ。これができないから間違える。20数年生きててこんな基本的なことができない人間なのだから、おそらく私は数年後また同じようなミスをする気がする。今はこれほど悔しく思っていることでも、数年経ったらまた油断しそうだ。妙にプライドが高くてめんどくさがりだから、自分を疑うということをすぐに怠るだろう。なので忘れないように、ここに書き記しておくことにする。思っているだけよりは文字に起こした方が自分の馬鹿さと向き合えるだろう。
今回の失態で痛感したのは「注意してくれる人のありがたみ」だった。先に「できない人はできる人と気持ちは同じだが行動の基準が低い」と述べたが、これを治すには行動の基準そのものを是正しないとならない。しかし大人になると、ああしろこうしろと注意してくれる人がいなくなる。そのため自分の行動が正しくなくても、気付くことができなくなる。
私の場合は実家暮らしなので、まだ母が叱ってくれる。今回の件も説明したら大爆笑したのち具体的な改善点やこれから注意すべきことを教えてくれた。上記の反省点も母の言葉を倣った。ちゃんと叱って、教えてくれる人がいるというのはありがたいことだと思った。慰められたり笑い飛ばしてもらったりするのも良いが、注意をくれる相手を大事にしなければという当たり前のことに改めて気が付いた。綺麗事や道徳心ではなく、本当に身に沁みる。
最後に、わざわざ舞台「刀剣乱舞」の名前を出したのはこの舞台が最高の舞台だったからだ。私に感想を言う資格もないと思うが、途中からでもすぐ飲み込まれるほどの迫力と展開、役者さん達の演技や役作りの完成度に圧倒される。素晴らしい舞台だったからこそ、自分たちの思い出に水を差したことも会場の空気を少しでも乱してしまったことが腹立たしい。私ごときの途中入場に影響されるほど脆弱な作品では決してないのだが、それでもほんの少しだけでも穴を開けてしまったのは事実だと思う。自意識過剰かもしれないが、本当に悲しくて悔しい。
一時期イベントを企画する仕事に携わってた。色んな修羅場を経験したが、一番の修羅場は「出演予定者が自殺した時」だった。
道徳心をかなぐり捨てて告白すると、正直、体調不良や仕事の都合で欠席される方がまだいい。死なれたらイベント自体が開催自粛だ。
それまで準備してきたものが全部崩れ落ちる徒労感、ファンから「無茶な企画で追い詰めたんじゃないか」と疑われる理不尽さ、
上からリスク管理を責められる絶望感(どうしろって言うんだよ)、他の出演者に俺らが頭を下げに行く虚しさ…
小さなイベントでさえそうだったのだから、例えばテレビ番組やら講演会やら企画している人たちにとって
出演者が「責任とって自殺しようとしたけどムリでした」なんて放言している様子は胃穴レベルのストレッサーだろう。
橋・松「はいどーも〜」
橋「いやー今日もたくさんのお客さんに来ていただいて」
松「はい」
橋「最前列のお客さんなんかもう端から口パク口パク一人飛ばして口パクと」
松「いやいや」
松「よしなさい」
橋「まあ僕らこうして漫才してるわけですが」
松「ええ」
橋「まだまだ支持率が低いんでね」
松「そらまあしゃあないがな」
松「ええですな」
橋「まずはこの僕の隣に立ってる人、最高の相方ですわ」
松「いやいや照れるがな」
松「松?」
松「松?」
橋「ほんで僕の名前は橋に下と書いて」
橋「誰がやねんまだ誰も殺してへんわ」
橋「そのうちね。言うてる場合か。まあホンマ頑張っていかなあかんなー言うてるんですけど」
松「ええ」
橋「まだまだこの国は変えなあかんことが多い」
松「そうですなあ」
橋「たとえば少子化ね」
松「あーこれ深刻やがな」
松「愛人囲ったりね」
橋「多少疲れててもあの手この手で興奮して頑張るべきなんです」
橋「ってワシやないかい! でもまあ子供が増えるだけでもあかんのですわ」
松「教育をせんとね」
橋「これからは知識よりも日本の伝統と文化、まずこれを教えるべきやと」
松「そらええことですわ」
橋「それワシやないかい! まあそんなこんなで大阪も荒みまくって犯罪が多い」
松「これホンマ大変ですわ」
橋「なかでも多いのが詐欺ね」
松「ああ〜けしからん!」
橋「って全部ワシやないかい! きみホンマに僕のこと尊敬してる?」
松「当たり前やがな。一生ついて行きますがな」
橋「ほならええけどやな」
松「その代わり出世の方、頼むで」
橋「まかしとき。まあそのうち国政を牛耳ってやな」
松「うんうん」
橋「僕がキングメーカーになるわけや」
松「そしたら僕を総理大臣にしてや」
橋「お安い御用やがな。ほなちょっと指名の練習でもしよか」
松「ええなええな」
橋「内閣総理大臣」
松「はい!」
橋「松あきら君!」
橋・松「どうも、ありがとうございました〜」
題名だけでもう全てなんだけど。
人間,基本的に他人の不幸に対してどういう感情・行動を持つかというと,
1.自分のことのように共感したり,同情したりして,助けようとする。
2.自分によいことがあったかのように大いに喜び,なお不幸にしようとする。
この二つ。
成立する傾向が強い。
一方,2は,当然のことながら,社会倫理道徳上褒められた行為ではない。
ことに,倫理観や道徳観に普通以上に縛られた人は,2を必要以上に嫌ってしまう。
そのストレスを発散するには,すなわち,倫理・道徳心の強い人が他人の不幸を味わうにはどうすればよいか?
よって,自分が悪をけなし,蔑にし,罵詈雑言を浴びせ,それが不幸に陥った時にそれを喜んでも,
それは正義の信念に基づく行動であって,(その人の中では)倫理道徳上正当化される行為となる