はてなキーワード: 真摯とは
これ、第一弾批判してた人達も、それに反発してた人達も「勝手に相手が引いたと思い込んでるだけ」ってのが面白いよな。
第一弾批判してた人達は「第二弾は相手が引いて表現が控えめになった」って思い込んでる人も居て、
反発してた人達は「批判してた奴らが掌返した」って思い込んでる。
ただ、第一弾批判してたけど第二弾は批判してない人達には「第一弾はたまたま目に付いたから批判したけど、第二弾がどうなったかわざわざ自発的に情報集める気が無いから知らない」って人も結構な数居ると思う
自分は第一弾が燃えてたときに関東圏で生活してたけど、件のポスターなんて一度も見てないしな。
第二弾も、こうやって逆方向に燃やそうとする連中が騒ぎだすまで第二弾が始まったことすら知らなかったから、今のご時世、真摯に情報を伝えようとしても大した効果無いって事の証左にしかならなくて微妙な気分になる。
そりゃ山本一郎みたいなのが重宝されるわけだわな
そりゃそれでいいと思うよ。
でもその勝敗って別にフェミが社会正義だったからなわけじゃないよね?
声がデカかったから、数が多かったから、つまりは強者だったからだよね? ってのがポイントなわけ。
個人的には、そして多くの人にとっては宇崎ポスターがどうなろうと興味はないのよ。
もっと正確に言えば興味があって今回明らかに(今回だけじゃないんだが)されたのは、「フェミは社会正義を捨てて強者ムーブに入った」って点なわけね。そこさえはっきりすれば他はたいして重要じゃないのよ。
そうなれば、今後の問題は、何が社会正義なんだろう?っていう人類が発展する上で真摯に考えなきゃいけない重要な命題ではなくて、単純に社会勢力で誰が強くて誰を搾取すればいい?っていう勢力争いに還元されるわけで、めっちゃ楽になるわけ。
異種族レビュアーズは「共生」「多様性」の物語だ。そういうと笑われる風潮があるようだが、私はそう思う。単行本をキンドルで一気買いして、感動すら覚えた。
あらすじを軽く説明すると、人間・エルフ・獣人・天使が、各種族のサキュ嬢(風俗嬢)についてレビューするというもの。
私が一番好きな登場人物の台詞は、「この世界にはパネマジ(※)が必要ない、絶対にどこかの種族が気に入ってくれるから」だ。
パネマジとは言わずもがなパネルマジックのことで、現実世界での風俗用語。嬢が自分を良く見せるために紹介画像では加工しまくりで、実際に会うとガッカリするというアレだ。この世界にはそれがない。なぜなら、あまりにも多様な価値観があるから。
象徴的なエピソードとして出てくるのが、人間は500歳のエルフが好き、エルフは50歳の人間が好き、というやつ。「若さ」ということが基準にはなっているのだが、その尺度が全く違うのである。いうて「若さ」を基準にしてるんだろ?それが現実世界のミソジニーとどう違うんだよ?と言われてみれば、全然違う。「若さ」が一本の定規で計られる世界と、百本の定規で計れる世界ではまるで違うじゃないか。百本の定規で計れる「若さ」なら、誰か特定の人を抑圧したりしないだろう。
私が特に好きなエピソードがある。単眼娘の回だ。単眼の村では、目が大きければ大きいほど美しく、価値があるとされていた。そのために、目が小さい(しかし「人間」という種族からすると普通)の娘は、自分に非常にコンプレックスを抱いていたのだ。そして、異種族レビュアーズに、匿名で、単眼娘の店をレビューしてくれるよう依頼する。そこで彼女は学ぶ。「目が大きい」だけが唯一の価値基準ではないことを。単眼娘は「異種族は目の小ささを気にしないというのは本当だったのですね!?」と喜んで飛び跳ねる。「好きな人間に告白する勇気が出ました!」と。
「“違う”ことは救いなんだよ」というのが物語を通底するテーマなのだ。ある集団においてもし無価値とみなされても、違う集団では全然違う見方をする人がいる。はてなー大好き「ある場所で無能扱いでも転職したら大活躍」なダイバーシティだ。
買春がテーマだけれど、そのような職業を本人たちも全く卑下することがないし、男たちもサキュ嬢を蔑むことは全くしない。そういう意味で、現実世界の買春・売春とはまるで違うのだ。
「○○が作者なんだから、そんなこと考えるだけムダ」「お察し」という意見もある。しかし作品が作者の意図を超えうることが、そのような解釈を許容しうることが物語の醍醐味だ。物語を「作者の意図」なんていう狭い場所に閉じ込めておく必要はどこにもない。
たしかに私も、ヒロインのメイドリーちゃんへのセクハラが酷いなど、部分部分で気になる場所はある。主人公のみなさん、風俗嬢に向けるのと同じだけの真摯さをヒロインにも向けてよ!とさえ思っちゃう。(しかしこのツッコミもおかしい)
今後、出てきたら嬉しいのは、サキュ嬢達からの逆レビューだろうか。「この種族の客は嬉しい」「この種族は嫌」みたいな。たしかに「評価するもの/されるもの」という非対称性は気になるところだが、そのような荒・欠点は多々ありつつも、これは「共生」と「多様性」を謳った物語だ。
どんよりした夜明けの空気に部屋が侵食されていく。カーテンの間から覗くと曇り空がこの街全体を包み込んでいるようだった。
一昨日の新年会の一件を未だに引きずっているのは社内でも自分だけだろう。
ふと上司の言葉を思い出す。「俺は酒が入ると思ったことを包み隠さず口に出すタイプだ。
粗相をしてしまうこともあるが、飲みの席では目立った方がいい。でも俺の良いところはな、
次の日になれば大抵覚えてないんだ。笑笑笑」
自分は言われてどんな顔をすれば良いのか分からなかった。自分も出来るならそうしたいっすよ。面倒な先輩に捕まった後輩と悟られるのが怖くて何も言えず無表情を貫くだけ。
とことん聞いて納得いかなければぶつかって、自分の仕事の幅をどんどん広げて影響力がある人ならなきゃ駄目だと、耳の痛いことをおっしゃってくれた。
自宅に帰ってからムクムクと反抗心が芽生えてきた。
知ってるよ。要領が良い人は、たとえ心の中で
納得いかなくても上司の話を真摯に受け止めてヨイショができて気持ちよくさせることができて可愛がられる。絶対その方が得なの知ってる。
俺はちげぇ、小さいプライドが捨てきれず、つまんねーなー話してんじゃねーよって顔に出ちゃうから必死に無表情を作る。
つまらない顔すんなよって言われて、ごめんなさいしか出てこない。何言えばいいかわからない。決して本音を口にする事はない。胸の内の言葉を喉のあたりで変換して、いつも出てくるのは中途半端な的を得ない言葉ばかり。
元気ないって言われる。 お酌すれば頑張ってお酌しなくていいよって言われる。
本音で生きたい。
溌剌とした表情で生きたい。
こうやって飲み会が終わる度、独り反省会を繰り返してきた。いつまでたってもヘラヘラして大人になりきれない。
それは逃げなのかも。
どんよりした夜明けの空気に部屋が侵食されていく。カーテンの間から覗くと曇り空がこの街全体を包み込んでいるようだった。
一昨日の新年会の一件を未だに引きずっているのは社内でも自分だけだろう。
ふと上司の言葉を思い出す。「俺は酒が入ると思ったことを包み隠さず口に出すタイプだ。
粗相をしてしまうこともあるが、飲みの席では目立った方がいい。でも俺の良いところはな、
次の日になれば大抵覚えてないんだ。笑笑笑」
自分は言われてどんな顔をすれば良いのか分からなかった。自分も出来るならそうしたいっすよ。面倒な先輩に捕まった後輩と悟られるのが怖くて何も言えず無表情を貫くだけ。
とことん聞いて納得いかなければぶつかって、自分の仕事の幅をどんどん広げて影響力がある人ならなきゃ駄目だと、耳の痛いことをおっしゃってくれた。
自宅に帰ってからムクムクと反抗心が芽生えてきた。
知ってるよ。要領が良い人は、たとえ心の中で
納得いかなくても上司の話を真摯に受け止めてヨイショができて気持ちよくさせることができて可愛がられる。絶対その方が得なの知ってる。
俺はちげぇ、小さいプライドが捨てきれず、つまんねーなー話してんじゃねーよって顔に出ちゃうから必死に無表情を作る。
つまらない顔すんなよって言われて、ごめんなさいしか出てこない。何言えばいいかわからない。決して本音を口にする事はない。胸の内の言葉を喉のあたりで変換して、いつも出てくるのは中途半端な的を得ない言葉ばかり。
元気ないって言われる。 お酌すれば頑張ってお酌しなくていいよって言われる。
本音で生きたい。
溌剌とした表情で生きたい。
こうやって飲み会が終わる度、独り反省会を繰り返してきた。いつまでたってもヘラヘラして大人になりきれない。
それは逃げなのかも。
https://www.fnn.jp/posts/00049915HDK/202001241140_naonorikawamura_HDK
年が明けた2020年1月7日、FNNでは改めてチェ・ジェソン議員側に地図の真偽について取材を申し込んだところ、以下の回答があった。その内容は驚くものだった。
『データ発表(地図)は誤っていない。「みんなのデータサイト」の資料だけでなく様々なデータを総合的に反映したものだった。「みんなのデータサイト」が問題にしたのは「(自分たちは)汚染をポイントで表現したが(与党が発表した地図は)汚染を面で表現している」という点だった。私どもは最も高い数値を面で表現したのだ。データを見る上で視覚の差があった。訂正や謝罪の措置は何もしていない』
つまり「地図は誤っていない」と開き直った上で、「みんなのデータサイト」だけでなく、色々なデータを引用して組み合わせたら、あのような地図になったと主張したのだ。地図を発表した2019年9月の会見を改めて確認しても、「みんなのデータサイト」以外の引用元の言及はない。元データの曖昧さを自ら明かした事で、地図の信ぴょう性がさらに下がることは気にしていないようだ。「みんなのデータサイト」の申し入れ書には下記の記載がある。
「同心円状に汚染が広がっていると今回発表された地図は、我々のマップとまったく異なり、我々の情報から作成されたとなっていることは事実に反する。我々のマップは、あくまでも測定地点の汚染度を示すものであり、面的汚染には言及していない」(申し入れ書より一部抜粋)
「汚染」に関するチェ・ジェソン議員側の言及は、これを受けたものだとみられるが、当然ながら「みんなのデータサイト」は面的汚染だけを問題にしている訳ではない。元データの出所の開示や無断使用の経緯などを聞いている。チェ・ジェソン議員側の回答から「みんなのデータサイト」の申し入れ書に真摯に対応しない姿勢が明るみになった。
結局、与党側は地図の根拠を曖昧にしたまま、自らの正当性だけを主張し、訂正や謝罪もせず、このまま時間が経つ中での“既成事実化”を狙っているとしか思えない。
いや、現場がそれほど無理することはないよ。
2000年頃ならともかく、2020年の現在、素人がwebで頑張ったところで対した売上にはならん。
まず増田の中で混乱しているのが、
ってことだ。この2文が直接的につながっていないというのはわかるよね?
きちんと
・内職の仕事を回してくれ
とそれぞれの論点ごとに整理して考えないと、虻蜂取らずになるぞ。
これって政治の話だよね?「日本死ね」のようなアプローチの仕方かなぁ
BPOやっている会社さんと付き合いがあるけど、その会社さんは障碍者雇用枠の活用として、手すき紙で名刺作ったり、はがき作ったりしていた。
世の中の大会社には障碍者雇用枠があるので、そこで有用なビジネスを探してきたほうがいいのでは。
こっちのほうがいいよ。
食品は、安全性を職員が管理することをしっかりとアピールしたうえで、ストーリーで売るのがよい。
「どんな障碍者がまじめに作っているのか」
「その障碍者にとっての楽しみは何か=(利用者さんは1万円にも満たない工賃を毎月楽しみにしてくれています)」
手作り愛がこもった商品だ、ということがわかれば購入してくれる人は世の中にまだまだいるよ。
で、それはなかなかインターネットの中にはいないので、街中なんじゃないかな。
通販ではなく、イベント告知にインターネットは使ったほうがいい。twitterとかfacebookとかで。
真摯に生きている様を定期的にコンテンツとして提供し、賛同してくれる方に 販売所まで足を運んでもらって、直接障碍者本人から購入する、そんなスキームを考えてみては
音楽はとてもいいなぁと思いながら聞いているんだけど、言葉のセンスが最悪的に苦手と感じている。
自分が初めて髭男を認識したのは、去年の高校野球だったと思う。
歌詞から推察するに、最初から高校野球に向けてのオファーだったのだろうと思うのだが、非常に気持ち悪い。
奇跡じゃなくていい 美しくなくていい
生きがいってやつが光り輝くから
愚直で確実な守備なんかや、場面場面に応じた集中力の切り替え、走り出す瞬間の判断力。
奇跡や美しいプレイが稀に起こった時に感動はするが、別段、それを求めている人は少数派ではないだろうか。
高校野球に、奇跡や美しさを求めているのではなくて、真剣さとか諦めない姿勢を称賛するのであって、奇跡だの美しさは後付けでしかない。
君の運命のヒトは僕じゃない
自分のコミュケーション能力とか相性の悪さを、運命という言葉で責任逃れしているのが苦手だ。
折り合わなかった悲しさはわかるけど、人生や目の前の決裂の責任を、運命とやらに押し付けるのが非常に傲慢だと思う。
別れるのは運命だったというなら、まだわかる。
しかし、運命の人じゃない、という言い方にすることで、まるで運命の人というものがあたかも存在するような、万能の存在があるような物言いに、そして、それが自分じゃなかったという言い訳は、筋違いというか、真摯に相手に向き合っていたのかと思うと、やっぱり気持ち悪い。
運命だとか宿命だとか、こういう言葉に引っかかる自分とは、運命とか宿命の解釈にかなりズレがあるんだろうと思う。
もやもやをいまだに言語化できないけど、髭男のこの二曲は本当に苦手である。
他の曲は歌詞をちゃんと見てないんだけど、たぶん引っかかるんだろうなぁと思ってるし、配偶者が好きなので、どうしても聞くときはあるし、相手にも苦手だということは伝えてあるし、宿命に関しては同意見だけども、ラジオでかかっちゃうともやもやするので、整理するために、言語化できない部分も含めて、ここに置いていく。
最後のここでみんなおわかりだろう。
若い女というのは経年変化して"若い女"ではなくなるわけで、それを求めている時点で行きずりの恋でしかないわけだ。全くもって真摯ではない。
おそらく増田は馬鹿で幼稚な女に啓蒙してやる快感を求めているからこそ若い女に固執している。
馬鹿な女を求めておいてその馬鹿さに振り回されることはよしとしない器のちいささと分別のなさ。同年代のパートナーを求めてもほとんど相手にされずしょっぱい現実を見るだろうから、若い女求めてずっとラリったままハニーハントをつづければいい。
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釣りだよね?
紅白見た? 本人歌唱はないけど3曲が米津作曲作詞っていう待遇。何年か前も浅倉大介の曲が2曲流れたけど今回はめっちゃピックアップされた米津。
私は米津のファンで、次のツアーも行く予定。でもさ、嵐への楽曲提供であるカイト、いくらなんでもあれはなくね????
嵐の歌唱前にあった本人のステートメントがもう嫌なんだよね。「周りに生かされている。生きていくことを許されている」とかいうの。千葉雅也がTwitterで「生かされているんじゃないくて生きていくんだよ」って言ってたけど、本当それに尽きると思うんだよね。
歌詞も全体的に「糸=他者とのつながり」を強調したものだし……。
私が好きな曲のひとつにTEENAGE RIOTがあるけど、そこに「誰より独りでいるなら誰より誰かに届く歌を」ってのがあるんだよね。これ、本人がなんかの番組で言ってたけど「SNSとか、周りとなじもうとしなきゃみたいな同調圧力への抵抗」みたいなことを含んでいるらしくて、それがとても響いたんよ。でもさ、カイトはなんか「生かされている」って共同体的な考え方が前に前に出てきてしまっていてさ……。もちろん、そういうのが好きな人にはいいのかもしんないよ。私が個人主義だからってのもでかいと思う。そこは個人の嗜好だけどね。TEENAGE RIOTとカイトの米津、どっちが本物なのかってことでもないだろうし、きっとどっちも本当なんだろうし。
米津は変な音たくさん使って電子音楽しい系って面もあると思うんだ。でもなんかカイトはそういうのないんだよね。勿論、嵐の曲だからってのは確実にあるんだろうけど、オーケストラっぽい音がこれまた「お手軽壮大感」を出している気がしてならない……。馬と鹿でその片鱗をちょっと感じちゃったのもあって、余計にね。
カイト歌唱後に、内村が「これが来年、オリンピックでたくさん流れるわけだよね」とにこやかに言ってたのもまたひっかかって、この「他者との繋がり」を強調する音楽がオリンピックとかいうナショナリズムを、創造の共同体を強く結びつけるイベントに乗せられることを思うと暗い気持ちになる……。
結局は、米津玄師が劣化したってことじゃなくて、「ウケるものをわかった」こなれ感を感じてしまったという失望感なんだよな。勿論、本人がどんなものを好むかなんてわかんないしさ、私が勝手に幻想を抱いていただけなのもわかってるよ。でもなんかさ、中高生の時にハチが直撃した身としては米津は「変な文体でファンタジー書く人」みたいな印象が強くて。謎の空想世界を見せてくるようなのもすごく好きだった(パンダヒーローもそうだし、KARMA CITYとか爱丽丝が大好きなのよ)。けどなんか、そういう独自性を感じられなかったんだよね。なんか、薄まったものを、悪い意味でのJ-POPを聴いた気分になった。
これからも応援するしCD買う(高音質マスターがあるならさっさとハイレゾで出してくれ)けど、カイトみたいな方針がずっと続かないように私は勝手に願っておく……。まあ、楽曲提供だけのスタンスもあるだろうし、嵐だからということも絶対にあると思うので、今までの米津とリニアに結びつけるのは乱暴だともわかってる。あと、これが好きな人はごめんな。
【追記】
人気エントリに挙げられ、ブコメもたくさんいただいた。駄文を読んでくれて感謝。
指摘が多かったけど「初期が良かった!!!!」って言ってる自称古参のワガママという面があるのは本当にその通りだと思う。米津自身が「スタンダードにならなければならない」って発言をどっかでしてたのも知ってる。
あと、「これはあくまで嵐の曲なのだから」という指摘も同意してる。米津自身が歌うのと意味が違うだろう、というのもその通りだと思う。
この追記で書きたいことは、「ファンは声を上げるべき」ということだ。私は信者ではなくてファンだし(ファナティックがどうとかは無視)、批判はすべきだと思ってる。ファンなので米津は神のような存在で、その意向は最大限尊重すべきだと思う自分がいる一方で、「作者は死んだ」のだから提示されたものに対して真摯に考えようという自分もいるんだ。
まあ、この文章は全体として「米津の今までの曲が好きになって期待しすぎたけど肩透かしを食らった人の喚き」というものだと受け取っていただければ……。懐古厨にならないよう自戒しつつ、米津先生の次回作に(理性的に)期待します。
(1) 文科省は「いかなる理由でも出席日数が足らないと卒業させない」きまりなど作っていない。
多くの高校に2/3以上、または1/2以上の出席が必要、などのきまりがありますが、これは単なる「内規」です。そして、その「内規」の最低限である「1/2」の根拠としては、昭和28年文部省初中局長通知による「一般的にいって、第三学年の総授業時数の半分以上も欠席した児童生徒については、特別の事情のない限り、卒業の認定は与えられないのが普通であろう。」が挙げられますが、ここでも、「一般論」であり「卒業認定の話」であり、かつ「特別の事情」には配慮することが述べられているので、文部省の時代から、「特別な事情」への配慮は可能だったわけであり、つまり「いかなる理由があってもアウト」なきまりなど、一度も作られたことがないのです。
その後さらに平成に入ると不登校問題への理解と対応が進むことになり、「登校拒否問題への対応(平成4年)」通知や、平成5年の神戸地裁で、修了認定などは学校長による「高度に技術的な教育的判断」であり「単純な学業成績の評価や出席日数の多少だけでなく」総合的判断によるべきもの、との判例が示されました。
以来、出席日数は根本的には「目安」に過ぎず、単純にそれだけで決まるものではない、というのが一般的見解です。
(2) 「先生に休暇がないことも、卒業が学力とほとんど関係ないことも、こういうバカな制度にしたのは文科省」
まず、先生にも有給はあります。取得できるかどうかというのは別問題ですし、事実多くの人が年休を消化しきれていないのは事実ですが、それは勤務管理の問題であって制度の問題とはまた別では。それに「全く有給をとったことのない先生」もまずいないのではないかと思います。次に、「卒業が学力とほとんど関係ない」というのも事実誤認で、それはおそらく「学校の指導に乗る限り、学校は卒業/進級できるように指導する」ことを誤解しているのだと思います。つまり、どうしても卒業/進級したいという意志の下に学校の適切な指導に基づいて真摯に取り組んだとしたら、人より時間がかかっても、(入学できている以上は)その学校で習うレベルの課程の修了認定を得ることは不可能ではない、と考えられますが、学校の指導に同意しなかったりそもそも学校の指導を受けなかったりする場合、その課程の修了認定を行うことが不可能になります。そうすると、見た目は「学校の言うことを聞いていれば成績が悪くても進級」「同じ成績でも学校の言うことを聞かなければ進級できない」という状況になりますが、それは、「卒業が学力とほとんど関係ない」と言うのとは違います。(もし、本気で卒業が学力とほとんど関係なければ、先生方がなんのために補習を課して必死に指導しているのか、という話になります。)
それから、「こういうバカな制度」については二点とも事実誤認だというご説明をしましたが、当たり前ですが文科省はただの行政機関であって制度(きまり)を作るのは立法機関=国会の仕事です。つまり「こういうバカな制度にした」のは国民の代表である議員の皆様ですよ。
(3) 「SMAPがむりやり解散になったのも文科省が著作権の乱用を放任してるからです。」
すみません、意味不明です。SMAPを解散に追い込んだのはジャニーズ事務所では?
(4) 「どこで仕事してるのか目に見えない」
全国どこにでも義務教育の学校があり、国民の就学率がほぼ100%であるのは、誰が仕事をしているからですか?
「大学の事務は標準化されてなくてボロボロで日本一の天才学者を雑用ですり減らすことしかしてない」→確かにある程度そうですが、それも政治の問題では?
「コンピュータでビッグデータつかえ AIに本気で恐怖してんじゃねえ」→確かにある程度そうですが、それは全省庁の問題では?
「理系採用しろバカ そして新人を「文科省なりの教育」してスポイルすんなよバカ」→確かにある程度そうですが、それは全省庁の問題では?
「最近の文科省バカなことしかしないから来年もバカに低い予算しかつかねえよ」→確かにある程度そうですが、今に始まったことではないのでは?
中学生の頃の話なので、もう何年も前のこと。
授業で戦争の話を何度も何度も聞いて、そのたびに感想を求められ、何を言えばいいのかわからなくなっていた。
(ある「一定の答え」を求められている気はしていたけど)
あるとき、例の虐殺だったか民間人への圧政だったかの感想を文章で求められ、困り果ててしまい、
「自分がこれだけ悲惨なことを引き起こしてきた人たちの末裔であることを恥ずかしく思う」
と書いて出した。「一定の答え」とはたぶん違うけど、一理あると思ってはいたし、真摯な気持ちを表すには充分だろうとも思った。
あとで先生に呼び出され、『それは違う』と言われた。
少し和らいだ気はしたけど、違和感は残った。
それは『よい感想だ!』とキャッチアップしてもらえなかったかもしれないし、同胞の先人が関わってきたのは確かなのにそれを否定されたからなのかもしれない。