はてなキーワード: 二律背反とは
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
論理的にも事実的にも同等の根拠をもって成り立ちながら,両立することのできない矛盾する二つの命題間の関係をいう。
例えば、命題「私は常にうそを言う」が本当なら、その発言内容からして、うそをついていることになる。そこで命題がうそだとすれば、「うそを言う」のがうそだから、本当のこととなる。
例文)
「もし俺が謝って来られてきてたとしたら、絶対に認められてたと思うか?」
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
前は泣くことなんか一年に一度あるかないかぐらいだったのに、泣いてしまう。syrup16gの生きているよりマシさを聴きながら泣いている。
今いる界隈はどうしても絵優遇で、できることがなくてつらい。わたしがそう感じているだけなのかもしれないけど。
別にわたしが書いたものが注目されるされないは大きな問題じゃない。「目立つ(人権がある)/目立たない(人権がない)」以前に界隈に貢献できることが「ある/ない」という感じ。
2次創作なんか自分本位なものだから、誰かから見られたいとか評価されたいとか、そういうのは二の次でいい。けれどそもそもの行動の選択肢が無いように感じてしまう。
自分でも、こんなことを思ってコンプレックスに感じてしまう自分が嫌で仕方ない。僻まないとメンタルを保てない自分が嫌で仕方ない。できるならもっと健やかに生きていたいものだ。
最近寝付きが悪すぎる。不安になることばかりでそわそわしてしまう。心臓の下のあたりがずっとそわそわしてキュウっと締まる感じだ。落ち着きたい。落ち着いて眠りたい。
それなのに少しぐらい不調な方が、せめてものハンデを負っているように感じて自分が生きていることを少し許せる。生きている罰をもらっているような気がして安心してしまう。二律背反だ。
考えてみた。
・彼はとある言語の勉強しているのだけど、日本でレベルを上げるためにはネイティブの恋人を作るのが一番いいとか言ってくる。
→その考えは正しいと思うし、他意はないと思うのだけど、傷つく。悪かったな、日本人で。
→いいんだよ、勉強したいんだよね、話せるようになりたいし、海外の友達作りたいんだよね。わかるすっごくわかる。でもね応援したいけど、ちょっとさみしいんだ。
→私も私なりに自分の人生たのしく頑張って生きてる。でもここ十年の中で一番不調の今、私にとって眩しすぎるよー。
・いっしょにやろうってさ
→やりたいよーーーやりたい。でもわいには無理なんだよ。。。
3)自己嫌悪に陥りたくない
→嫉妬って自尊心高い人でもするもの?自分に自信がないひとだけ?こんなことに心かき乱されず、自分の人生をきっちり生きたいのに。
→私が彼を尊敬しているのと同じだけ尊敬されたいって思っちゃう。
宮台真司さんと二村ヒトシさんの対談でだれかが言ってたけど、恋すると恋人が光になるゆえ、自分の人生が暗闇だったことに気づいちゃうんだよね。
多分、彼氏に負けないくらい私も自分の人生をストイックにやりきる他ないのだと思うのだけど、彼氏と良い関係を築きたいために自分の人生を頑張るって目的と手段が逆転してるじゃん。。。なんのために生きてるのかわからなくなる。
恋愛は楽しくて辛い。
これなんかツリーで論点がぐちゃぐちゃになってるんで整理しないと俺の意見が説明できなさそう
https://anond.hatelabo.jp/20190722182852
なんで整理するな。俺の立場は反規制派。元増田の分類では右派に属すると思う
自認としてはオールドリベラルで比較的素朴な自由主義者だと思ってる
以下では表現の権利について俺が守りたいもの、不要だと思うもの、その中間などについて説明する。
権力者に好ましくない情報は隠蔽してもいいという法律が作られそうになったら
真っ先に反対する
記者クラブのあり方に反対するとかの問題はここに分類されるはず
これは左右で意見が別れる。ヘイトスピーチとかエロのゾーニングとかが相当する
俺としてはここにそこまで忌避感はない
というか見せる/見せないの二律背反ではなく、テクノロジーでバリアフリーにすべき
ネット上では情報に適切なタグをつけるとか、親ツリーに分類するとか
うっかり見てしまう前にメタ情報にアクセスできることで解消するだろうし
リアル社会では難しいけどエロとかヘイトとかが問題になりそうであれば、特定の区画の特定の時間帯は情報が裏に隠れるとかできればいいと思う
ポイントは欲しい人は簡単にアクセスできるようにすべきという点で
例えばエロが高スキルの人間がアングラで探さなくてはいけないような社会であってはならない
あくまでスキルではなく、その人が望むかどうかがフィルターになるべき
これは邪悪。ここに無自覚に手を出すのは左派パターナリストであり、反規制派として仲間にしたくない
何を根拠にご自分は今までの規制のない世の中で「正しい」思想に目覚め、
他人を悪の道に進ませたくなければ自分が善だと思った情報で上書きすればよいだろう、かつての自分のように
と、まあ大きく3段階に権利の認識が別れていて、共闘できたりできなかったりするのはどのレベルか見定めたら
「あいつはこっちとあっちで言うことが違ってダブスタだ」みたいな
好ましいかどうかは自分で判断できると思ってる。正しいかどうかは非常に慎重に判断しなきゃいけないので、複数の基準がある方がよいというのが俺の考え。
ちなみに左派よりの人は正しいことを判断するのは誰だという立場にたつのかな?ブコメではそこが読み取れなかった
すまん。右派パターナリストも好ましくない表現にアクセスさせないよう行動する。
左右の違いはおそらく自覚的かどうかで、右派はハナから自由主義を重視していないと思われる
そう、俺とお前にとって2番目と3番目は大きく異なる権利なんだが、ツリー見てわかる通りここがシームレスだと感じる人も多い。
はてブ見ていると貧困系の話が出てきて自分も政府の対応とかには怒りが湧くんだけどさ。
フリーランスで年収1000万あるし、その気になれば海外移住できる蓄えあるし、仕事も完全リモートでできるように環境整えてるし、不労収入が少しずつ増えるように手を打ってるしさ。
ツイッターのフォロワーも1万超えてるから承認欲求も満たされてるし、「まぁ、俺は大丈夫だろうなぁ」と実感するのよ。
もちろんそういうことを頑張るのも将来への不安があるからなんだけど、「非正規で苦しいです」みたいな人よりはぜんぜん大丈夫だろうと安心している自分がいるのよ。
そういう情報を一切遮断して現実に目を背けるのも嫌だし、かといって景気に対しては何もできないし、自分個人がぶくぶくと蓄えを増やすだけなんだわ。
元々ソシャゲに抵抗の強かった古いオタクの俺も、時流に抵抗し続けることを虚しく感じてソーシャルゲームを十個くらいやった。
やってみれば、シナリオはおおむね面白いものが多く、基本的なバトルシステムも数か月は楽しくできるくらいに仕上がっていたりして、イメージは以前より良くなった。
まあ課金中毒を生み出しやすいシステムや空気は本当に危険で、ほぼプレイヤーの自律に任せている現状ではソシャゲに対する反感がゼロになることはないが、とりあえずそれは置いといて、ゲーム面での不満を書く。
ゲームの楽しさは色々あるが、クリアできそうでできない目標に向かってあれこれ試行錯誤するってのは大きな楽しみの一つだと思う。
ACTでボスに有効な武器をあれこれ試したり、行動パターンを観察したり、ちょっとずつうまくなったり。
RPGで、装備の耐性パズルを組み替えたり、PTを入れ替えたり、戦法を変えたり。
色々な工夫と微調整と運否天賦のPDCAをする楽しさはゲーマーの多くは知っているだろう。
でも大体のソシャゲはそれがめちゃめちゃ楽しみづらいというのが非常に大きな不満だ。
何がいけないって、トライ&エラーのエラーのたびに、貴重なリソースが減ることだ。
たとえばスタミナを消費してクエストを回してイベントアイテムを集め、集めたイベントアイテムを消費して任意の難易度のボスに挑み報酬を獲得する、なんていうよくあるイベントなんかがその典型だ。
ちょっと背伸びしたボスに挑んで負けてしまったら、消費したイベントアイテムは無に帰す。つまり消費したスタミナが無に帰す。スタミナは時間回復なわけだが、イベントは期間が定まっている。
要するにソシャゲのイベントはボスと戦える回数が限られているようなものなので、それを負けて消費しちゃったら、報酬がリカバリ不可能に目減りするわけだ。
バトルゲーとしてはギリギリ勝てるかどうかのボスと戦うのが楽しいのに、できるだけ多く報酬を獲得する育てゲーとしては確実に倒せるボスをひたすら回ることが最適になってしまう。
これなんとかなりませんかね。
とりわけもどかしいのが、多くのソシャゲのバトルシステムは、基本は単純だけど組み合わせる要素が多くて、試行錯誤自体はやりやすいようにできているってことである。
沢山いるキャラの中からPTメンバーを組み合わせる、装備を調整する、スキルの発動タイミングを工夫する、その効果をチェックする、だいたいどれもいい感じにやりやすくなっている。
だからちょっと難しいボス相手にそれを楽しみたいのに、楽しんでるとリソースがガンガン減って報酬が減る!
各難易度のボスの初回クリアまではリソース消費しないゲームもあってそれは嬉しいんだけど、でもそういうゲームも一度倒した後、勝てるかどうかギリギリなボスと楽しく再戦をして負けたら報酬が減る。
ソシャゲでギリギリのバトルを求めるなとか、バトルを楽しむか育成を楽しむか自分で決めろって言われるかもしれんけど、なんかゲーム的にいい感じの解決策が欲しいんだよ。
受け入れがたいとか抵抗があるとかではなく、問題のレイヤーが違うと思う。
そもそも人間は感情がある生き物で、感情論を法に持ち込むなという話ならわかる。
タイトルはマイルドにしてあるけど、中身みれば序盤の論調で権威と紐付けたあと畳み掛けるように共感や同情=悪という印象を植え付けてきてるように見える。
という図式は成り立たないというのに、まるで二律背反関係であるかのように煽ってる。
この世から憎悪を取りのぞくために誰もに権利を=共感は危険です。はぁ?
そもそも大前提不完全な人間を不完全な人間が裁くために生まれたのが法なわけで、その2つは対立関係であるわけがない。
たしかに司法レベルの話になると民意や世論や被害者感情にバイアスがかかったり情状酌量なんて言葉があったりするくらいだから未熟さは感じるけど…だからこそブラッシュアップは必要。それは何においてもそうで、権利に関することばかりではない普遍的な課題でしかない
繰り返しになるが、法において同情や共感や感情論は不要という話ならわかるよ。
でもこの世においてまるで共感や同情は悪であると言わんばかりの思想には寒気がするよ。
はてなでポジティブな意見が多いのは、共感能力に乏しい人間がここには多いから、ああいう記事から許されている感覚と癒しを得て喜んでるだけでしょ。
とにかく、
世に渦巻く憎悪を解消するために
なってしまったという言い方に後悔を滲ませた。
最近の若者が恋愛離れしているというメディアの作為的な記事をみるにつけ、冷笑すると共にどこか他人事ではないなという二律背反した思いがあった。
似たような文脈で最近の若者は酒もタバコもやらないとかいう記事もあった。
「若者」という都合のいい主語でとやかく言うのはナンセンスだが、実際統計上酒もタバコもやっている人数は減ってきているのは確かである。
特にタバコに対しては風当たりの厳しさを社会でも身辺でも感じる。
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やるのも飽きたし見るのも飽きた。
プロレスラーが新しい必殺技使ったり画期的な凶器とか画期的なデスマッチのルール考えたりダッチワイフ相手にエアプロレスしてみせたところで、基本的な部分は一緒だから9割方同じことやってしまうのと一緒。
たとえばね、ドラゴンプリーストが復権しましたとか今のウォリアーはアグロじゃなくてコントロールですとか言われてもハイハイそうですかでも僕前にそれ見たんでって感想にしかならんの。
じゃあお前新しいTCGやればいいじゃんってのはまあそうなんだけど、新しいゲームやる度に飽きるスピードが加速してんの。
たとえばウォーブレなんて始めて2週間ぐらいで何かしらの末期状態になったからね。
そんなに飽きたならTCG辞めろよって意見は間違ってないんだが……でも俺は始めてMTGやった時やゲーセンでCoJに触れたばかりの頃のあの気持をまた味わいたいのね。
これはもはや「薬物依存の悪循環」の図と一緒だね。
次々新しいゲームを始めても耐性がついてるからすぐに効かなくなってまた新しいゲームを求める。
そんで次第に見かけが派手なだけのゲームとか見るからに出来の悪そうな新作βとかに突っ込んでいって、最後には「もうTCGなんてやりたくない!でもTCGで気持ちよくなりたい!」って二律背反に心が引き裂かれる。
今まさにその状態。
どうすればいいんだよ!
今オレを満たしてくれる可能性が一番高いのはお前なんだ!
頑張れ!
先日、麻原彰晃(松本智津夫)をはじめとする複数のオウム幹部の死刑が執行された。
それに関して死刑制度の是非がまた論じられるようになっている。
まあ死刑制度については人によって考えがいろいろあるのだろうが、ここでは個人的な考えを纏めたいと思う。
一つは「報復のため」だろう。目には目を歯には歯を、とばかりに、極悪人には死で償ってもらうというものだ。
二つ目は「スカッとするから」だろう。悪い奴、嫌いな奴、憎い奴が殺されるのは気持ちがいい。もし俺が被害者遺族の立場に立ったら、加害者は殺したいほど憎むと思う。
三つめは「犯罪抑止のため」だろう。だが、これには疑問が残る。もし死刑に犯罪抑止効果があるなら、死刑を廃止した国は、死刑廃止後に犯罪数が激増しているはずだ。だが、そのような話を聞いたことがない。これは話半分に考えておくべきだ。
では、死刑反対について話をしよう。死刑反対の理由はいくつかあるが、
一つは「冤罪の可能性がある」だろう。冤罪の人間を殺してしまっては取り返しがつかない。もっとも、これは冤罪そのものの問題だし、殺さなければいいというものではない。そして、冤罪でないことが明らかな相手には無関係な話だ。
二つ目は「人を殺してはいけない」に説得力がなくなる点にある。国は市民に殺人を禁止しているのに、国が殺人を行うのが許容されるのは、明らかに矛盾している。という理屈だ。「正式な手続きに則っているのだから良い」という意見もあるが、その「正式な手続きを経れば殺人が許容される」という考えがおかしいと批判されているのだから、ここは平行線だ。
さて、死刑反対の話を出すと「欧米ではテロリストを射殺することが多々あるが、現行犯を射殺するのはいいのか」という意見がたまに見られる。
断言するが、このケースは許される。
こういうことを書くと「人を殺してはいけないんじゃねーのかよ」と言われそうだが、これには例外がある。それは「現在進行形で他者の生命や安全が脅かされているとき」だ。
これは正当防衛の論理と全く同根だ。もしあなたの家に刃物を持った強盗が押しかけてきたとして、その強盗に反撃して殺してしまっても、基本的には正当防衛が適用される。
だが、この強盗をひっとらえ、手足を拘束し、身動きを取れないようにするなど、無力化した場合はどうか。相手が自分を殺しに来るような悪人であっても、無力化された人間を殺したり、危害を加えるのは(情状酌量の余地はあるにしても)許容されない。
これが死刑反対三つ目の理由であり、そして最も重要なロジックだ。
「無力化された人間は、いかなる理由があろうと殺してはいけない」
逮捕され、拘束され、刑務所に入れられた人間は、明らかに「無力化された人間」に他ならない。だから、そのような人間を殺すのは許されない。
一方、逮捕されてもいない、武装した強盗やテロリストは、いつ人を殺すか、危害を加えるかわからない。「無力化されていない、かつ他者の生命を脅かしている存在」だからこそ、逮捕せずに射殺が許される。
さて、死刑に賛成の人間が、これに太刀打ちできるロジックを立てられるかというと、不可能だ。だが、死刑賛成はロジックでするものではない。
死刑を望む理由は二種類ある。「悪い奴は殺されるべき」「極悪人を許せない」という義憤や正義感と「悪い奴を、嫌いな奴を殺したい」という欲望だ。
どちらも人類が持つ感情として普遍的なものであり、この感情を否定するのは絶対に不可能だ。
なぜ死刑が肯定されうるか、それは人類にとって普遍的、かつ自然な感情に訴えかけているからだ。
ここまで並べればわかるだろうが、死刑反対派と死刑賛成派は決して交わりえない。