はてなキーワード: サザエさんとは
スタンダートを変化させるって大げさな話じゃなくて、ごく自然にそうなるだろうって思うんだよ。
どうしてもサザエさんの話はしてもらえないみたいだけど、タラちゃんの保育園の保母さんはサザエさん一家をフグ太一家と認識し、波平さんをフグ太さんのおじいちゃんと呼ぶだろ。カツオの学校の先生はサザエさん一家を磯野一家と認識し、マスオさんを磯野君のお兄さんと呼ぶだろ。そういうシステムを規則で作らなくても、自然にそうしてるだろ。
全く同じだよ。山田太郎さんの同僚は山田-鈴木夫婦を山田一家と認識し、花子さんを山田さんの奥さんと呼ぶ。鈴木花子さんの同僚は山田-鈴木夫妻を鈴木一家と認識し、太郎さんを鈴木さんの旦那さんと呼ぶ。子供に山田姓をつけるなら、子供の先生は子供の家族を山田一家と認識し、鈴木花子さんを山田のお母さんと呼ぶだろう。誰に言われるまでもなくそうするだろ。事実婚状態の家庭では現在もそういうふうになってるだろ。
家族の呼称の運用として、何かシステムが変わってるところはある?
敢えて言うなら、せいぜい従来のシステムの自然な拡張じゃない? サザエさんで混乱しないなら、山田-鈴木夫妻が混乱を起こすことはないと思うんだが。
いや俺も長期の話はしてないんだが。
山田太郎さんと鈴木花子さんの別姓夫婦の家族を指す呼称として「山田さん家」も「鈴木さん家」も併用して使えるよって話をしている。家族の呼称がひとつでなければならない理由などない。
傍証:
(1)別姓可能な国ではそうやってて特に不便は生じてない
(2)家族に別の姓が混ざるのは日本でも珍しくなかった。サザエさんの家族を指すのに「磯野さん家」と「フグ太さん家」を併用しても特に困らない。
(3)家族の呼称は文脈依存である。山田家が二つあれば区別できるように呼びわけるだろ? 要するに文脈の中で区別できればそれが個別の家族の呼称として使えるわけさ。
あなたが「現状機能しているシステム」と言っているのは思い込みにすぎないように見えるし、どうしても代替案が欲しいなら「山田さん家」「鈴木さん家」併用を代替案と考えてくれて構わない (代替案と呼ぶほどのこともない、当たり前の話だけど)
「サザエさん」で中島くん役を務めていた、声優の白川澄子さんが亡くなった。
一方、同氏が出木杉くん役を務めていた「ドラエもん」は高齢化の進んでいた主要キャストを2005年に一新。
アニメの制作を滞りなく進めるにはこちらのやり方が良いのだろう。
でもなあ。
大山のぶ代の現状をみるとなあ。
やりがい、張り合いを失うと認知症が一気に進むとはよく言われる話で。
それが直接の原因と断言は出来ないけど少なからず影響あったんじゃないかなあ。
「退職後のやりがい、モチベを探すのは自分自身でやること。自己責任」て考えもあるだろうけど
国民的人気長寿アニメの主役声優、に匹敵するやりがいなんてそう簡単には見付からないだろうし。
どうやるのが良いんだろ?
だからその「結婚のコンセプト」のかなりの部分が思い込みだっつうの。
確かに戸籍筆頭者でまとめるという意味での姓の統一という制度自体の歴史は短くはないけど、昭和の中頃まではひとつの家に複数の家族が住んでたり、子供を別の家に住まわせてもらったり、そういうのってありふれてたわけじゃん。家柄がどうのっていう名家ならともかく、庶民にとっちゃ姓なんてのは数多くの手がかりのひとつにすぎなかったんだよ。
ナカジマ君やハナザワさんにとってサザエさんやタラちゃんは友達の家族だろ。「カツオ君の家」と言った時に「磯野家={波平、フネ、カツオ、ワカメ}」でひとくくりにして、「フグ田家={サザエ、マスオ、タラ}」は別の家庭だし、といった観念はほとんど無かったと思うよ。区別する必要がある時に思い出すだけで。
家族=「父、母、子供」になったのなんて、昭和の後期からだぜ。今のある世代以下の人はそれしか知らないから「そういうもんだ」って思うのかもしれないが、そういう観念って1世代くらいで簡単に変わっちゃうもんなんだよ。
そういやかの海産物一家を誰もが「磯野家」と呼ぶけれど、主役たるサザエさんの姓は磯野じゃないんだよなあ。
戸籍の場合は、同居親族でも別姓だと現状では別の戸籍じゃなかったっけか。
昭和の頃は3世代同居とか親戚関係で同居とかで、表札に複数の姓が書いてあるのとか普通にあったけど別に困ってなかったよ。
行政が家族単位で扱う時は戸籍筆頭者の姓で呼べばいいんじゃない? 山田太郎さん一家で奥さんが鈴木花子だったとして、本人は「山田さんのご一家ですね?」と聞かれりゃ自分のことだってわかるだろうし何が問題なのかわからん。
あと、今の制度でも離婚した後再婚して親が改姓しても、子供は元の姓のままだから親子別姓になるよ。子供は子供で改姓の手続きしないとならない。むしろ現在は親子別姓になるのが特殊な場合だけだから色々気を遣うんであって、それが普通になれば誰も気にしないって。
課金のせいってのもあるけど
もっとも肝心なのは終わりがひどいから好きだった人もアンチになりやすいってことよ
「映画やドラマにはゴールがあるから終わるときも笑顔だけど、バラエティはいつも視聴率が理由の打ち切りだから、終わるときはいつも悲しい」
って
ソーシャルゲームって
まぁパズルゲームは例外的に俺も好きだけどさ(課金でひどいことになってなければ)
RPGとかっていつ終わるの?っておもうわけですよ
終わりの見えないものをやり続けると終わるって意味あるんだなってのを考えるよね
終わるからこそ思い出になる
人生に意味なんてないと思ってるからソーシャルだけじゃない話だし
意味を考えたらそれこそゲーム自体意味ないし、映画も書籍も意味ないよね
でもそこに意味を見出すってことは結局いい思い出になってほしいからだと思う
だからこそちゃんとその辺やってほしいよね
あれって人気があるとずーっと続くのよシーズン2,3当たり前で4,5,6ってつづく
あきれてさ、一時期はまってたけど今じゃもうアメリカドラマ自体見なくなっちゃったよね
やはり終わるって大事
終わらないもん
だからワンピースとか読んでる人ってスゲーなって思う(余談だけどワンピース読んでる人のソーシャルゲームやってそうな感なんなんだろう)
終わらないもので例外で好きなのはっていうとドラえもんがそうだし、サザエさんとかこち亀もそうだけど
共通するのは読み切りってことだよね
Twitterやピクシブのフィードにガンガン流れてくるが、流してくる人を切る程度には抵抗がある。
今までこのジャンルが今熱いのねーと思う程度だったのに何故抵抗があるのか不思議だ。
アニメのおそまつさんは好きだ。
日本のアニメもっと可愛くなればいいのにーと常々思っていたので、背景美術の可愛らしさがいいと思う。
キャラはもっと日本アニメ臭さを消してミッキーマウス!みたいに線に強弱をつけてみたり、新しいトムとジェリーみたいに線を消してみるくらいデフォルメした方が可愛いと思う。
腐に抵抗はないというか腐だ。
公式はよくぞおそまつくんを素材に腐をつり上げたと唸らせるほどに腐の扱いを心得ているナンバーワンキャバ嬢なみの猛者だと思う。
ただ何でおそまつくん大流行?的な戸惑いがある。
違和感が凄い。
くれしんやサザエさんやまる子やドラえもん腐には感じなかったのに何故だろう。
違和感が凄いからか萌えてる人も本当に赤塚キャラに萌えてるのか?売名目的で適当に波に乗ってるだけではないのかみたいな穿った見方をしてしまう。
確かに金に困ってる描写はないよね。いつも家計簿見て今日は赤字だと言ってるのび太母とは大違い。
世田谷にでかい家持ってる時点で、現代だったらもっと金持ちなのでは。
という事でサザエを現代的にしたら、優雅なセレブ系専業主婦になるんじゃなかろうか。
生活費の為に働く必要などなく、お洒落を楽しみ(あの髪型は当時の流行だそうだ)、
タラは3歳だから幼稚園行ってて、その間ママ友(タイ子とか)とランチに行ったり
それなら現代にもいそうだ。
しかしやはり誰が見るんだという感じになりそうだけど。
うろ覚えで申し訳ないけど原作版サザエさんのエピソードの一つに母親と息子がかなりひどい言葉で罵り合ってたってのがあったな。
「このクソばばあ、給料受け取りやがれ」「これっぽっちかいこの穀潰し」みたいな感じ。
でも4コマ目のオチで「ああ、これも愛なんだなあ」みたいなセリフでお互いがきちんと家族愛を持っているからこういう言い方も平気みたいなふうにまとめてた。
家族と友人というのでまた関係が違うのかもだけど、増田の論でいくと最も親しい関係である同居家族こそが最もぞんざいに扱われる関係ということになるんでないかと思って書いてみた。
親しい人ほどぞんざい論が東の人間独特の性質とすると、西出身の長谷川先生は東の感覚に合わせてユーモアを作ったことになるんですがどうなんでしょうね?
ジャッキー・チェンの映画見たらその後数日はカンフーをしたくなるが、
ドラゴンボールはそういう根源的なアクション欲求を満たしてくれる作品だったと思う。
主人公だし!
この頃の好きは単純だったように思う。
ギャグが面白くて好きだった。後、ククリからニケへの好意の描写も多くてよかった。
この作品はアニメ終了後も単行本をずっと追いかけてずっと好きだった。
単行本は終盤の絵柄が好きじゃないとか言う人がいるけど俺は気にならなかったし、
初めて買ったCDはEDの「Wind Climbing 〜風にあそばれて〜」だった。
もちろんククリも好きだが、やはりニケのボケ、ツッコミはこの作品の肝だ。
この作品を知ったのは親父が映画「Air/まごころを、君に」を借りてきたからだった。
OPが非常に好きだ。
あの全部理解させる気のない圧倒的情報量、スピード感はこの作品を象徴していたように思う。
敵も毎回色んな形態、シチュエーションで、全ての話数で飽きさせない、先の読めない展開の連続だった。
BGMのクラシックが非常に印象的で最高の盛り上がりから最後のカヲルくんを握りつぶすタメまで、息の詰まるというか、
心拍数が上がるというか画面の中に意識を囚われて、終わった後も戻ってこれない感覚を味わった。
傾向として、物静かなヒロインより、自己中心的だと捉えられることも多いが、
自分の意見を言う、他人に不利益が例えあったとしても自分の意志を通す、欠点のある人間らしいヒロインの方が好きなようだ。
思うに放送局がNHKでどの地方の人間でも見ることができて、何度も何度も再放送されたことがこの作品の地位を築き上げていると思う。
さくらちゃんは可愛いし、小狼くんと打ち解けていく過程がいいです。
この回は小狼からさくらちゃんへの好意が明確に描かれた回だった。
この作品はそういう視点で見ていたので、この回が印象に残っている。
当時はツンデレという言葉はなかったが、振り返って考えると当時からツンデレキャラが好きだった。
小狼くんはクロウカードを集める関係上敵対的な態度を最初取るが、どんどんさくらちゃんに好意を寄せていく事になる。
最初の印象はポケモンアニメの亜種という感じだったがポケモンアニメがサザエさん的なのに対して、
デビモン編では各キャラクターの紹介。
ダークマスターズ編では提示された欠点の再描写と解決となっている。
デジモンワールドと現実世界を何度か行き来するが、時間の流れが違うおかげで、
デジモンワールドに戻った時に状況がガラッと変わっていて、新たな問題の提示と困難度が劇的に表現されていた。
FF6の崩壊後の世界とかそういうシチュエーション好きなんです。
基本的に各編のボスと主人公勢との間には圧倒的な力の差があって、ボスから逃げつつ、
勝つ手段を探すような感じで、敵の強さの描写とその敵を倒したときの爽快感はすごくよかった。
何だかんだで主人公勢が勝つだろうと安心して見ていたそれまでのアニメと違って、
本当に勝てるのか?という感じで展開が読めない所がよかった。
この回はとにかく異色だった。
当時はアニメ、ドラマ、映画等の面白さはシナリオの面白さのみに依存すると思っていた。
合奏における指揮者は棒を降っているだけで誰がやっても同じだと思っていた。
厳密言うなら、この回を演出した人が監督を手掛けた映画「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」を見て、
その人は今でこそ知らない人はいないほど有名になった「細田守」で俺の中では宮﨑駿と同列になった。
この人が有名になってトトロのように金曜ロードショーでぼくらのウォーゲームが流れることを切に願っていた。
なんか妙な色っぽさがあった。小学2年生なのに。
全部21話が悪いんです。
けど、元気なヒカリちゃんも好きです。
★東芝問題、なんか「財界活動の為、黒字が必達になってしまい、粉飾に及んだ」という気がする。
財界活動に拘らなければ、ここまで「チャレンジ」する必要がなかったのかも。
財界活動とか、政府の各種審議会に入って、そんなに「メリット」があるのか?勲章を貰えるとか?
★(アナリストやマスコミに冷たい)ファナックとかキーエンスなんかは「財界活動?何それ美味しいの?」な感じで、
それでもしっかり利益を出している。
そもそも財界活動に熱中してしまうと、本社を東京に移さなきゃならない。
逆にウシオ電機なんかは(中堅企業なのに)財界活動に嵌まってしまって、姫路から東京に本社移してしまったのだろうか
★「財界人が政府の審議会に入ってご意見する」の元祖は「メザシの土光さん」なんだろうな。言うまでもなく東芝出身。
故人を批判したくないが、土光氏が「財界人が政策に口出しする」のルーツになった。
歴代東芝会長が、政府の審議会の常連になってるのは、土光さんの遺産?
★財界活動とか政府審議会とかに嵌まってしまうと、原稿書くスピーチライターとか事務局とかに、
社内の人材(それもエリートクラス)を10人単位で割かなきゃならない。
住友化学の米倉氏が経団連会長に就任した際に、「住化に事務局スタッフを負担する能力が無かった」のが就任のネックになったらしい
逆に言えば、東芝は常に「経団連スタッフ要員」を社内に抱えてる訳です。
会長が経団連の役職や政府審議会に入らなければ、彼らスタッフが「失業」してしまう
★サブカル論。
東芝は「サザエさん」の単独スポンサーから降りたが、これが今回の事件の遠因な気がする。
東芝がサザエさんの単独スポンサーを降りたのは、「我々はBtoB企業である、と内外に宣言する為」と聞いてるが、
結果的に消費者感覚、市民感覚を忘れてしまい、経団連の論理に染まってしまった
★東芝長老が財界活動とか政府審議会に出入りする理由が「勲章ゲット」のためなら、
勲章制度そのものが老害を助長し、そして東京一極集中を加速させるんだな。
昔の長老は、現役を退いたら、さっさと大磯等に移住していたのに、今の長老は財界活動のために東京に居座り続け、
「地方創生」に反している。
昨今の佐野氏の炎上案件を見ていて違和感がずっとあったのだが、それが何であるかをこの記事を見て分かった。
ようは当事者でない人が、当事者として関わる気もないのに安全な客席から、建設的な批判でなく単なる中傷をしていることが、堪え難いのだ。
そうしたことが出来るのはインターネットの時代だからこその利点でもある。
そして見つけた疑惑を世間に公開するのも良い。そうして悪質な模造や模倣が淘汰されていけばよい。
パクられた(と思わった)本人が怒るのはもっともだし、当事者として批判の声を上げるのは当然だ。
だが、言うからにはそれに伴う責任というか覚悟が必要だろ、と思うのだ。専門家以外は黙ってろ、という言説には同意しないが、無責任で文脈の理解も無く畑を掘り起こして台無しにした後に新しい種を植えるでもなく、ただただ荒らしていくだけの連中がムカつく、という感情は理解できる。
今回の件でいえば、パクリとオリジナルの境界、というか、パクらず制作するにはどうしたらいいのだろうか、とか、商業化されすぎたオリンピックでいいのか、とか、いろいろな問題が紐づいていると思う。それらの問題は実は制作者だけの問題ではなく、クライアントだったり、また、制作物の受けとり手たる消費者・生活者の問題でもあると思う。問題の解決を放棄して、お遊びで人を叩くのは何も前に進まないと思うのだ。「お祭り」として騒いでる連中に対して、お前にも責任があるんだ、と声を大にして言いたい。但し、今回の具体的な問題についての責任転嫁をしている訳ではない。トートバックのデザインにしろ、空港の写真にしろあれはアウトだし責任は佐野氏にある。
サザエさんbotがやったロゴのオープン化は一連の騒動の中で光明に見えた。それは、やんややんや言っている連中に「じゃお前やってみろよ」としたからだ。それは代案を提示する、という問題への分かりやすいコミットである。
とはいえ、世の中の全ての問題に対して真摯に向き合うのは現実問題として不可能だ。だからこそ、真摯に向き合えないのであれば意見やコメントを出すのは慎重になるべきだし、安易なことは言うべきではないと思う。
雑記。
ディズニーに勝てるとか勝てないとか、作り方が間違ってるとか、いろいろ言う人いるけど本当に日本のアニメ見てるのかな?
「団地ともお」見てたか?3DCGでちびまる子ちゃんやサザエさんのようなホームドラマをきっちり作ってたぞ。
「ベイビーステップ」見てるか?漫画原作だけど、ただの根性論じゃない「きちんとした努力」を描いているぞ。
「宇宙兄弟」を見たか?「おじゃる丸」のあの絶妙な空気感のすごさがわかるか?
「カレイドスター」知ってるか?
「ボンバーマンジェッターズ」を知っているか?
そもそも海外のアニメはディズニーしか知らないんじゃないのか?というか海外のCGアニメはみんなディズニーと思ってんじゃないか?
ウォレスとグルミット(ひつじのショーン)という傑作ストップモーションアニメを知っているか?
ヒックとドラゴンは?
個人的な印象では、プリキュアなどの玩具展開ありきのアニメがいちばんディズニーアニメの作り方に近い
たぶん一番シナリオ打ち合わせの回数・人数が多いのがその辺のアニメじゃないのかな
アニメスタッフに加えてホビー事業のスタッフも一緒にシナリオ打ち合わせをやってるはず
1年を通しての玩具展開を含め、どういったテーマで話を作るか、子供になにを伝えるか、を一番考えているのはおそらく玩具宣伝アニメだ
原作モノはいかに原作の良さを出すかを、深夜のオリジナルアニメは誰かの才能に頼ることが多い
流石に3年目になれば粗も出てくるけど、アイカツ!のシナリオも結構よく練られてる
これらのスタッフにはおそらく抜きん出た天才はいない。でもきちんといいものを作ってるよ
結局のところ「金にならない」のが問題でもある
みんなが金を出し合う製作委員会方式もそういう流れから生まれたようなもんだし
玩具販促アニメが多いのも玩具売れないとアニメ作っていられないからだし
ただ、そういう縛りの中でしっかり子供に何を伝えたいかってのはちゃんと考えてある
明日のナージャは世界的に評価が高いけど商業的には芳しくなかったのでだめだった
ムシキングなど販促完全無視で作られて失敗したけど評価自体は高いようなアニメはたくさんあるね
結局お金にならなきゃいいもの作ったとしてもアニメを作り続けることはできないよ
上に挙げたアニメに対して「でもやっぱディズニーと比べるとね・・・」とかいう奴らはいるだろう
「ディズニーすごい」を言いたいだけのために日本のアニメを貶めるなよ
彼らが求めるような子供向けのアニメってのは実は毎年なにかしら作られてるんだよね
今年なんか「シンドバッド 空とぶ姫と秘密の島」っていう子供向けの良質な映画が公開されてるけど、みんな知ってるのかな?
原恵一ががんばってファミリー向けの映画を作ってもなんにも売れない
細田守ってのは才能はともかく、「金になる大衆性」をもったアニメを作ってくれる人物だから持ち上げられてんだ
彼の所属するスタジオ地図ってのは「世界一小さいアニメ会社」を自称する、本当に細田がアニメを作るために作られたワンマン会社だよ
追記
一応子供向けってのを意識していろいろアニメ挙げたんで、深夜アニメのいろいろはあえて抜いてる部分あります。(あとなるべく最近のを)
なので京アニとか無くても怒らないでね
http://anond.hatelabo.jp/20150708154932
まあ、実際にはフジテレビが凋落した理由は幾つかあってリモコンの並びはその中のひとつなんだろうけど。
主要民放4局 5点
NHK総合 5点
テレ東 3点
で振り分けると、アナログ放送の場合は、リモコンの並びで言えば、第1列・第2列が5+1+1+5+5=17点、第3列・第4列は5+1+5+1+3=15点で、そこまで差は開いていなかった。
これが地上波デジタルになって、第1列・第2列が5+1+1+5+5+5=22点、第3列・第4列は3+5+1+1=10点で前半部分にウェイトが集中した。
そのため後半部分が切り捨てられやすくなったとは言えるかと思う。
もちろんこの並びは首都圏の話なので、別の地域については別の見方をする必要があるだろうが、視聴率は首都圏のもの、あるいは首都圏のウェイトが高いものがとられるので、首都圏で構造的な劣勢を強いられるデメリットは大きい。フジテレビが10chであったテレ朝に負うていた部分は思いの外大きかったということだ。
それ以外の部分では、フジテレビには中程度の長寿番組が少ないことが弱点として挙げられる。
「サザエさん」「ミュージックフェア」「めざましテレビ」などだが、日テレやテレ朝に多い、10年以上続いている長寿番組が少ない。なぜ、打ち切られたか分からない番組も多い。「トリビアの泉」や「世にも奇妙な物語」などは続けていればそこそこ視聴率を稼げていただろう。
日テレやテレ朝は、少々不振になってもしゃぶり尽くせる限り、番組をしゃぶりつくす。フジテレビでそれに相当するのは「アンビリバボー」くらいで、日テレやテレ朝は「不調でない限り好調」のスタンスが垣間見られるが、フジテレビは「好調でない限り不調」で、番組を切って来た。それが調子がいい時は、全体の視聴率が底上げされる結果になったのだが、リモコンの並びのように構造的な負荷を負うようになってからは、長寿番組による安定票が望めない、という結果になってしまったのだと思う。「世界まる見え特報部」と「ナニコレ珍百景」がないのがフジテレビの今の弱さの原因だ。
リモコンの並びはいまさらどうにもならないので、フジテレビは現状に合わせて戦略を根底から再構築する必要があるだろう。フジテレビはテレビ朝日になったのだ。
もはやトップは目指せない立場だ。人件費もせめて日テレ並には下げる必要があるだろう。
フジテレビが目指すのは長い時間をかけて長寿番組を育てる、ということだ。月9などはそもそも長寿番組にはなりようがないので、ああいう短期ドラマ枠は削るべきだ。ドラマでも「相棒」や「水戸黄門」のようであれば安定票を望める。
というかも知れないが、水谷豊だって相棒が始まる前は、過去の栄光はあってもものすごい人気者というわけでもなかった。沢口靖子だってそうだ。番組が俳優を育て、俳優によって番組が育てられるのだ。舞台俳優などを中心にまったくの新人を起用するのもいいだろう。ジャニーズのように、短期ドラマしか駄目、ネットでの宣伝もダメというようなのと付き合うから置いて行かれるのだ。
実際、「うちのママはどうしてまるちゃんやしんちゃんの家みたいにずっと家にいてくれないのか」って子供はいるんだよな。
専業家庭の朝のドタバタと、共働き家庭の朝のドタバタは本質的に違う。家族を送り出して、母親がやれやれと一息・・・とはならねえよ。
そりゃ興味の持ち方が違うって話であって、サザエさんでもしんちゃんでもまる子でも、どんだけ親との関係が描かれているか、ちょっとみればわかるだろうに。
よくわからんこそ、「なんで来ないの?」ってドラマになるんだろ。はい分かりました・・・では話に起伏も何もないだろうな。
共働き家庭を「さらに少数派」ってどんだけ認識古いんだ、お前。昭和脳?
90年代初めに、共働き世帯は専業主婦世帯を上回って、差は広がる一方。
http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/qa/a07-1.html