はてなキーワード: サザエさんとは
(コンテンツに思い入れがなければダメだという日本で商業的にもまかり通ってきた俗説を鑑みるに)、やっぱりひとつの創作にこだわりがあると全くダメで、こだわりがなければないほど商業性や一般性というクオリティに貢献できるので商業的には大変有意義な結果を出せるんじゃないかなと思う。GoogleとかAmazonも、多分自分のやってる「コンテンツ」に興味がなくて、プラットフォームとかどうすれば効率的かみたいなことに注力してるんじゃないかと思う。
日本の場合「自分で作ったもの」にこだわりすぎて身動きがとれない。また、プラットフォームを作ろうという人達も自分たちの作ったサービスの動き方にとらわれすぎている。自分の決めたことにとらわれすぎている。
そういうのは作家に任せておけばいいのであって、フォーマットだけ作ればいいんじゃないかなと。
アメコミのヒーローは社会情勢によって変革できるフォーマットをとっている。だからとてつもない時間を生きながらえている。そういう作品って日本にあるかなと考えたら、多分ない。長く居続けているのはサザエさんとアンパンマンくらいで、前者は何も語りはしない。語るけど、せいぜい時代錯誤なことか持っている機器の変化くらい。アンパンマンは設定が普遍性がなく、大人向けに落としこむことが出来ないので(全身タイツの超人/一般人と、頭がアンパンの人造人間の、どちらが感情移入できるかは明白)いついかなる時代の空気を落とし込めることは出来ない。社会性のある、そしてなおかつエンタテイメント性のある作品は作れない。作ったとしても、アンパンマンでは世界全体に届かない。
ドラゴンボールは孫悟空という人格破綻した存在と、世界を脅かす悪役が魅力的だから日本以外の国にも受けている。しかし、ドラゴンボールを鳥山明以外が作ったら受けるかと言ったらそんなことはない。それはドラゴンボールエボリューションでも明らかなことだと思う。ファンが作ったものが最高だというけれど、それは商業には成り得ないし、社会性は得られない。ドラゴンボールという作品自体、社会性は得られない、鳥山明の個人的な世界を描いた作品でしかない。日本の作品はそういうものしかないと思われる。
どんなにクールジャパンだとか政策として日本の作品を世界に輸出しようといっても、作られる物自体が社会性の乏しいものだとしたら一般性は得られないだろう。進撃の巨人も、バットマンやスーパーマンのように80年近く愛されはしない。
日本人が世界に向けて「売れる」作品を安定供給しようとするなら、すべての自主規制的なものを取っ払い、個人的で、誰にも想像し得なく、そして少数の心に突き刺さるインディペンデントな作品を大量に押し出していくしかないだろうなと思う。それは太宰治や夏目漱石、それよりももっと前の作者にしてもそうだと思う。日本は今のところ個人的なものしか作れない。ライトノベルもそうだし、内需しか見えてない。ポリティカル・コレクトネスがどうこうではなくて、作る人間の数メートル先しか見えてない。それは宮﨑駿もそうだと思う。
クールジャパン、あり得るけれどもそれが全世界、普遍性のあるものなんて幻想だ。普遍性がないからこそ求められてる。新堂えるが、トレヴァー・ブラウンが国外脱出した意味を考えるべき。自分のありようを考えるべき。どうしても日本人は、自分から、自分の周辺から抜け出せない。あるいは自分を外部化出来ない。
お、同年代だ。
ガンダムの再放送でアニメにハマり、その後釜と認識していたザブングルだったけど
主人公が丸顔!ロボットはハンドル操作!で「だせえ!もう観ねえよ!」って
それ以降ロボットアニメは観なくなった。
まあ、それでもドラえもんとかサザエさんとかホームズとか、世界名作劇場とか
日本昔話とかは観てた。まあでもここら辺は元増田が対象としてるアニメとは
違うよね。
ジャンプ系アニメはドクター・スランプが好きだった。キン肉マンとか北斗の拳とかは
絵が違う..って感じで時々は観る、程度。
ドラゴンボールは引き伸ばしが露骨になってきた辺りであまり観なくなった。
部活やらゲームやらで忙しくなって、自分のペースで進められないアニメから
離れていった。
んーだからちょうど宮崎事件の頃は観ていなかったことになるのかな。
笑ゥせぇるすまんとかは観てたけど。これも違うかな?
笑ゥせぇるすまん面白いよねー、といってもバッシングは受けなかった気がする。
友人からVHSでエヴァを全巻観せてもらった時は、「おーおもしろいやん」て
思ったけど、他のアニメをチェックするようにはならなかったな。
またアニメを観るようになったのは、正月に実家に帰ったときにたまたまやってた
「電脳コイル」の総集編が面白かったため。「今のアニメはこんなに面白いんか!」
って感じで「プラネテス」とか「グレンラガン」とかをレンタルで借りて全編観たりした。
その後深夜アニメもチェックするようになって今にいたる。
まあ最後まで観るのは週3、4本だけど。
というわけでまとめると、線引きはよくわからないけど
よくできたアニメだった
それぞれのパーツがパズルのように組み合っており
そういう意味でもよくできている
各種ショートコントの後、最終的に六つ子はトト子ちゃんの家にいってクリスマスを過ごしてくれと土下座する
トト子ちゃんは帰ってくれと土下座する
トト子ちゃんの親は毎年の風物詩だとほのぼのする
六つ子もトト子ちゃんもお互いがああだからということで
終わりなきモラトリアム期間を過ごすことを許されてると思ってるフシがある
お互いに抜け駆けするでなく本当につきあうアプローチをするでなく
その距離感に安心して、安心しているからこそサザエさん空間でまったりと生きている
ところが24話。Aパートの「トト子ちゃん大あわて」でトト子ちゃんが動く
それを受けてのBパート
そう24話はつながっている
トト子ちゃんによりホレてる順に動きがあるんだよな
地下アイドルであるトト子ちゃんのマネージメントしていたチョロ松が最初に就職を決め
総集編でいっしょに「まわし」をした長男が拗ねてる
次いでトド、カラ、十四と
興味深いのは最後の一松だ
彼は筋金入りのペシミストで家を出たところでなにがどうなるわけでもないし
マイナス面が多いと肌で感じている
もちろんトト子ちゃんとつきあえるわけもないと思っている
それでも今この家に残る理由がないし理由がないからこそ出なければならないと思っている
誰よりも場の空気を読んだ末に最後まで残るという手を選んだがそれ故に今出ないとダメだと
そして案の定野垂れ死に寸前にクリスマス回でちょっかいを出していたカップルに助けられる(ここもつながってる)
石油を掘り当てられずに骨になった六つ子にとって
今は手は届かないにしてもいつかなんとかなると漠然と思っていた存在がいきなり遠くに感じてしまう
そしてバラバラになった末におそ松はトト子ちゃんにデートに誘われても無視してしまう
そのまま最終話につながる
野球をすることになり
負けそうになる
そこでトト子ちゃんが出てくるわけです
勝てばやらせてあげると
これで六つ子とトト子ちゃんは気がつくわけです
そう彼らは「いっしょ」にトト子ちゃんを相手に童貞喪失したかったわけですよ
そしてトト子ちゃんも薄々は思ってたけどやっと肚を決めて
ひと肌脱いで応える覚悟をみせたわけです
ダメでしたが
六つ子は20歳すぎの青年らしく「セックスがしたい」という思いでがんばっていたわけです
ダメでしたが
だからおそ松が迎えに行ったときにめいめいが自慰行為にふけっていたわけです
だから24話から普通につづいて巣立っていって童貞喪失してニート脱却して視聴者を感動させちゃダメ
二期が楽しみですー
まだおそ松クラスタでつながっていよー
ってほうが健全
S&Mシリーズはみなさんご存じ森博嗣の小説だ。ゲーム、漫画、ドラマ、アニメ化になっている。どれもキャラデザが原作イメージと違うのが特徴だ。
犀川創平と西之園萌絵という二人の天才が議論していたら、いつの間にか事件が解決していたというシリーズ。不適切なあらすじで申し訳ない。
96年発行なのに、VRについて現代レベルに迫っていたり、ツイッターやマイナンバーの登場を予言しちゃっているところも面白いと最近思う。SFでは無いのだが。
メインキャラ二人ともが天才なのだけど、ずば抜けている犀川に比べて萌絵はかなり劣った設定になっている。
これは、そうしないと話が動かないからだ……とメタ視点を持って読みたい。
とにもかくにも、西之園萌絵が主人公の作品だ。彼女はワトソンでは無いのだよホームズくん。
(※作者談)
中盤までを見て、彼女を嫌いだと思った人→わかる。アニメはモノローグ無いから何考えてるか分からないし。
すべF全部読んで、それでも彼女が嫌いだと思った人→わからなくもない。
この違いについては見れば、読めば、分かる。
萌絵が奇抜だったり感情的だったりするのは、一応理由がある(自分だけ運よく助かった、両親の突然の死)。
前者に関しては、それを知らないで、序盤でキャラを掴んだ気になって「ビッチだ!」と彼女を嫌いだと言う人に、最後まで見ろ!と言いたくなる。萌絵はバリバリの清純派キャラだ。
アニメや、原作1巻読んだだけで彼女の(犀川の)キャラを捉えるのはとても難しい。あまりにも複雑に作られてしまったキャラクターなのだ。「すべてがFになる」は元々5連作の4作目として作られたというエピソードからしても、「すべF」だけでどうか西之園萌絵のキャラクターを把握しないでほしい。という原作読者の重い想いを、誰か受け止めてほしいのだ。
S&Mシリーズは年を取らないサザエさん方式では無く、キャラはみんな確実に歳を取っていく。
とりあえず時系列を追って考えよう。
S&Mシリーズ10作全て見て、なお西之園萌絵が嫌いだと言う人。
嫌いなのによく読んだな、あんな長いの……というのは(四季の)百年譲って許そう。
S&M、つまり犀川&萌絵(四季 真賀田だったりもする)はシリーズを通して、二人の関係や性格が微妙に変化をしていく。
犀川は次第に優しくなり、社会にほんの少し馴染むような様子を見せている。
まぁそれにも理由があってのこと。ちゃんと全部読めば分かるが、簡潔に言えば彼女は自ら危険に関わることで、自殺願望を満たしているのだ(だから犀川が余計に優しく心配性になる)。
(※補足。萌絵も一応友達が出来たり一般庶民に馴染んだりと、かなり人当たりはよくなっていきます。犀川よりは)
最終巻「有限と微小のパン」での萌絵は、とにかくヒステリックだ。
要するに萌絵は、すべFの時に自らの過去の嫌な記憶を呼び起こした『四季』を恐怖、負そのものと認識してしまった。犀川が四季にとられてしまう、という恐怖もプラスしている。
犀川&萌絵シリーズとしては、四季の介入でスッキリしない終わり方をする。
嫌いと言う人が居るのも……仕方が無いかな。だって萌絵の最後の見せ場がヒステリックなのだ。
犀川が望む生き方を妨害してるのが、萌絵なのかもしれないし(書いてる人はそんな感想抱いていないが)、事実萌絵が話を引っ掻き回すので推理に邪魔だと感じる人が、もしかしたら居たのかもしれない(いやそこもメタ視点で読めよ、という話なのだけど……)。
じゃあ、S&Mシリーズを読んだ人はVシリーズを読んだのだろうか。
このシリーズは時系列こそ違えどS&Mと同じ世界観で、西之園萌絵をメインとした話が一作ある。「捩れ屋敷の利鈍」だ。
(これを読んだ人が、助手の国枝桃子を嫌いな人がさらに嫌いになるか、好きな人がさらに大好きなになるのかも気になる……。)
でもこの話はどうでもよくて、それ以外のVシリーズを読んだか読んでないかでS&Mシリーズへの見方が大きく意見が分かれるところがあるのだ。
『犀川が萌絵を好きになれるのか、もしくは何故好きになったのか』
正直S&Mだけ読んでもここは謎だ。彼の気持ちは分かりにくいし、S&M最終巻時点で彼が萌絵にどうしていくのかはハッキリ見えない。好きなんだろうが、犀川先生はロリコン、で片付けれられても仕方が無い程度にしか書かれていない。
だからこそ萌絵の犀川への気持ちが、あまりにも一方的に描かれてきたのだ。
しかしVシリーズを最後まで読むと、それがとてもよく分かってしまう仕組み、トリックになっている。
犀川の好みの女性が明らかになるのだ。つまり萌絵は犀川にとってドンピシャだったのだ……。
とにかく、犀川は萌絵を選ぶと再確認できるシリーズ、とでも言える(大げさだし、そんなにキャラクターは出てこないのだけど)。
ここまで読んでなお、西之園萌絵が嫌いだと言う人。
マジでなんで読んでるの?このキャラどうやっても主人公だよ?なら紅子も嫌い?よくここまで読んだね!
と言いたいけど、分からんでもないのだ!!(だって森さんの話おもしろいもんね!!)
萌絵の恋愛脳、四季ヒステリックは「四季秋」を経ても変わらないままだし。うん、ヒステリィはうざいもんね。
(ここまで読むと、萌絵が可哀想で犀川酷い男だ!という感想も、当然だと思う。犀川はなかなか酷い男だ。萌絵くらい積極的にならないと関われない。)
じゃあ、短編集「虚空の逆マトリクス」から「いつ入れ替わった?」は読んだだろうか。時系列的には「四季秋」の中盤だ。刊行時期的に「四季秋」は読んでもソレは読んでないという人が多いかもしれない。
それとも萌絵嫌いな人にはどうでもいい話なのだろうか……重要だと思ったのだが……。
そして、「四季秋」の終盤で萌絵は犀川への接し方に対して、ある解答を得ていたりする。今後彼女が彼に対しどうなっていくのか、読者は少しだけ予測することができる。
……それでも嫌い?じゃあGシリーズは読んだ?「キウイγ(ガンマ)は時計仕掛け」、読んだ?
このシリーズ1巻では萌絵の後輩たちという別キャラクターが動く話だと思って読んでいたのだけれど、もはやもう、S&Mシリーズの続編なのだ(ところどころVシリーズが影を見せるし)。
犀川が出てくるだけではなく、確実に萌絵がメインキャラを食っている(海月と加部谷が主役向きじゃ無い)、裏テーマは萌絵の成長奮闘記だろう。
髪もロングになり、美人で優しい先輩だし、しっかりと自分を分析し、過去とちゃんと向き合って、大人しくなって。
(幕間に、Xシリーズを挟み)
「すべてがFになる」で最初に犀川が言ってたとおりの、彼女の本質的な性格に戻ろうとしているのだ。
超良い女、って感じになっている。お子ちゃま萌絵ちゃんは、もう居ない。多分。
犀川にはもったいない!けれど、犀川もこのシリーズで随分丸く素直になっている。なんか禁煙までしちゃってる(読者的にいまだに信じてないし、理由をずっと考えているが)。
萌絵が落ち着いたことで、犀川と距離感すら生まれた。会えない時間が愛育てるのさと、よく言ったものだ。
本当の本当に、彼女はしっかり大人になったのだ。
Gシリーズまで読んでもなお、萌絵が嫌いですか。……残念です。あなたとは趣味が合わない模様。
読んでない方、ぜひ読んでよ。
Gシリーズ相変わらず謎のままだしトリックは浅い(というか、書きたいものがミステリィでは無いのかもしれない)けど、森博嗣が好きに書いてるのは分かるから。
目標地点までキャラクターを育ててあげよう、という意思が見えて、気持ちよかったりもするしね。
そんなこと思ってないって作者に言われたら、「あそう……」だけど。
大人しくなったと書いたけど、今後の展開が読めないので、本当に萌絵が落ち着いてくれるのかは謎です。
ただもう死にたがり萌絵ちゃんは卒業してますし、犀川先生とはあははうふふで、西之園先生になりました。
(ただし結婚していないという謎状況)
萌絵がGシリーズのメインキャラ食うどころか、主役交代劇が起こっているGシリーズの運命を、四季が握っているのは確か……最新刊を、待つ。
※追記
意外に反響あって作品人気を知るのですが、どのキャラも人間味あって可愛くて好きですよ。
特に特化して萌絵批判について考えてみた結果、愛をぶつける形になりました。
加部谷と海月…とくに海月については短編集と合わせて推理中なのですが、やっぱり主人公としては描かれていないのが、私気になります。
Gシリーズで彼の謎が解けるとも思えない…。
サザエさんもそういうのこだわって言うぞ?
サザエさんは監督はいなくてチーフディレクターって役職の人はいるけど、各話で変わるわけではないので特に話題にならない。
原作については、まず、アニメのサザエさんの各話は概ね3パートに分かれてて、
サブタイトル、メイン、エンディングの3つとすると、サブタイトルとエンディングは原作の話が使われることが多い。
まあ、原作未読でも特に問題ないと思うし、あえて原作の話はしないけど。
サブタイトル、エンディングっていう概念はサザエさん音楽大全を参照しました。「サブタイトル」「エンディング」って曲が使われる部分。
毎週見てるとすぐ慣れるんだけど、たまにしか見ないやつに限ってガタガタうるさい。
脚本家の話はよくするけど、雪室先生と城山先生をメインとして、最近は浪江先生が脚本の回も増えてる。
浪江先生はポスト雪室俊一を狙ってるのか、キャラの使い方が雪室先生に似てるけど、レアBGM使う頻度が高い印象。
ポーの一族、11人いる、トーマの心臓、スターレッド、百億の昼千億の夜、エロイカより愛を込めて、エルアルコン鷹、浮浪雲、じゃりんこちえ、サザエさん、いじわるばぁさんなど
漫画日本の歴史、つるぴかハゲ丸、あさりちゃん、ドラえもんなど
銀曜日のおとぎ話、ときめきトゥナイト、おとうさんは心配性、ちびまるこちゃん、星の瞳のシルエット、有閑倶楽部、ねこねこ幻想曲など
バナナフィッシュ、BASARA、THEBBB、はじめちゃんが一番、前略ミルクハウス、動物のお医者さん、笑う大天使、ぼくの地球を守って、ここはグリーンウッド、なんて素敵にジャパネスク、サイファ、月の子、OZ、花咲ける青少年、So What?、×ぺけ
今日から俺は、うしおととら、パトレイバー、ジョジョの奇妙な冒険、スラムダンク、ドラゴンボール、キャプテン翼、星矢
絶愛
アーシアン、源氏、聖伝、東京バビロン、GoWest、ダンディドラゴン
おー、返事サンクス
「失われるのは、全体としての○○家という概念」これがまだピンとこない。
(1) 書類上の概念として、山田-鈴木夫妻を「山田家」あるいは「鈴木家」という単一のラベルで扱えなくなる、というのはわかる。だが事務手続きの話ではないという。
(2) 結婚式や親戚づきあいの場面で、「山田家に嫁ぐ」「貴女もこれからは山田の人間だ」みたいなとらえ方をする人はまだ多いだろう。そこで改姓が一種のコミットメントとして機能していることもあるだろう。だけれど日常生活でそれが顔を出す場面なんて、盆暮れに親戚で集まるときくらいで、しかもそれが顔を出すコンテキストというのはあくまで山田一族の内輪の話だ。外の人間が山田-鈴木夫妻を呼ぶラベルが失われて困る、というのとは全く別の話のように思える。コミットメントの話を除けば、集まった親戚は誰もが山田-鈴木夫妻が山田家の親族であることを知っているわけだから。
(3) それらを除いた、日常で「◯◯家」全体を呼称するラベルということを考えた場合、それは現状でも「家族の誰かを起点とした関係」で完全にカバーされている話であって(山田-鈴木夫妻の息子の保育園の人は△△君のお父さん、お母さんという認識であって、現在でも親が事実婚で姓が異なる場合はあるが、そんなこと気にしないだろう)、従ってコンテキストにより「山田家」「鈴木家」を呼び分けることに余分なコストがかかるように思えない。
サザエさんはもちろん、制度としては夫婦同姓を守っているわけだけれど、日常で「◯◯家」が必要となる文脈においては「家族の誰かを起点とした関係」で全て済んでるように思えるので、コストが増加しない例として出した。他の実例として、俺の親の代くらいまでだと兄弟で親戚の家に預けられて育てられたとか子連れで戻ってきた姉が同居とか、複数の姓からなる家族というのが珍しくないってのもある。
何か具体的なシチュエーションで、「◯◯家」全体を呼称する唯一のラベルが失われることによる不具合ってのを出してくれたら、俺も理解できるんじゃないかと思うんだが、例えばどんなケースがあるのかな。
遅くなって悪かった。
まず、「ひとつの家族になるときにひとつのファミリーネームを共有する」ことのシンプルで強力な理屈があるわな。
これは「ファミリーネームを共有していなければ家族ではない」という命題の裏(対偶ではないが)として、同一姓であることが家族であるということをある程度保証してくれている。
そもそも夫婦別姓には、スペイン人のような系譜を示す機能があるものを除いて、合理的な機能がない。
それに対する俺の主張は、「適当な呼称は無くならない。複数の呼び方が使われるだけ。それは従来の呼称(サザエさん一家の例)と同様の運用」ってこと。
君が代替案として言っているのは、家族の誰かを起点とした家族関係なわけな。「山田さん一家」も「鈴木さん一家」も。
で、失われるのは、家族の誰を起点にするわけでもない、全体としての○○家という概念なの。
ちょっと待った。話が微妙にシフトしてる。(別増田が出てきたのかもしれないが)
変更のコストをどう見積もるか、って話は個別にいろいろあるんだけど、俺が http://anond.hatelabo.jp/20151223155930 に反応したのは「個別の家族を指す適当な呼称が「無くなる」のが問題。」の一点だけ。
それに対する俺の主張は、「適当な呼称は無くならない。複数の呼び方が使われるだけ。それは従来の呼称(サザエさん一家の例)と同様の運用」ってこと。
で、通称使用を拡大したとしても「山田-鈴木夫妻の呼び方の多様化」は生じるはずなんで、「個別の家族を指す適当な呼称が無くなる」という点において別姓と通称使用拡大でどういう差異があるのかよくわからないんだ。上で参照してる増田は「事務的な問題というより~認識しずらいという点が厄介」と言っているので、役所の手続き書類の問題ではなく日常的な呼称の問題だと解釈したんだが、だとしたら山田-鈴木夫妻のどっちかが通称なのか、それとも別姓なのかは問題ではないはず。