はてなキーワード: あいうえおとは
元増田は差別かどうかに言及しているのであって、差別が実際に行われているかどうか、差別が問題なのかどうか、痴漢が問題なのかどうか、ましてや痴漢が男女比どのくらいで被害者がどれくらいいて……みたいな話はすべて、関連する話ではあるけど別の話でしかない。
身を犠牲にしてトロッコに飛び込んでも暴走したトロッコを止めることはできない。
レバーを引くのは正しいことかどうか? ということだ。
もしかしたら、作業員がトロッコを避けられるかもしれないという人がいるのなら、
ではもし分岐の先はつながっていて、作業員が避けることができたらもう片方の分岐に戻ってきてそちらにいる作業員は轢かれてしまうとしたらどうだろう?
または、あまり政治的な問題を扱うのはふさわしくないかもしれないが、アメリカが原爆を投下したことで二次大戦が早く終わったということがもし事実だとして、それを認めることができるだろうか。一定の人数を犠牲にして多数の人間を救うことは正しいことか?
こういう質問を繰り返していって、自分の考え方をより厳密に確認していく(もしくは矛盾点を指摘する)ことがこの手の思考実験の目的の一つだ。
話を戻そう。
血液型性格診断なんてまさに差別そのものだし、あいうえお順にクラスの子供達をならべるのも差別と言えるかもしれない。名前は一般的に自分で選べない。
LBGTという言葉だって、その他の性的マイノリティを無視した差別的な表現なのかもしれない。
自分で選択していない国籍について日本人らしくとか言われるのも十分に差別たりうる。
あらゆる差別を語義通りに撤廃するのであれば、少なくとも今の社会生活は全く成り立たない。
(それと実際に不利益を被っている人がいることも関係がない。)
なぜならば、差別という概念自体が善悪とは別に存在しうるからだ。
現実的な問題として、様々な差別に苦しんだり具体的な不利益を被る人がいて、それをなくしたいというのは筋が通っている。
しかしその問題があまりに広範で捉え方にも差がありすぎるせいで、いつも恣意的なルールと各個人で異なるバックグラウンドを前提としてしまう。
元増田としては、そのあたりを整理するために問題提起したのだと認識している。
これを共通認識としない限り話を先に進めることができないからだ。
逆に言うと、これについて善悪論や感情論で反論する限り、女性専用車と差別の問題は少なくとも解決を目指すことは難しいだろう。
○昼食:おはぎ
○調子
はややー。
行ってきたけど、先生に「病気ではないですね、激しい運動(意味深な笑顔)のしすぎなだけですね」と言われた。
なんじゃそりゃと、ずっこけたが何もないに越したことはないので、よかったよかった。
ただ一応検尿して検査してもらうことになったので、来週もう一回行かないといけないみたい。
うーむ、うちの会社早退の概念がないから、こういう時不便なんだよなあ。
ちょっと考えよう。
あああああああ!
もうダメだ。
課金ゲーいやだ。
いや、課金ゲーは他にもいくつかプレイしてるんだけど、ポケモンの課金ゲー嫌だ。
スパっとやめようかなあ。
ポケモンならなんでもプレイするわけじゃないんだから、やめればいいのに。
(ポケカは前はやってたけど、今はやってないし。ガオーレも二回ぐらいプレイしただけだし)
何より、本編のUSUMがまだ殿堂入りすらしてないってのが、意味不明すぎる。
こんなガチャゲーにイライラするぐらいなら、本編でオンライン対戦やればいいんだよ、お金もソフトもハードもあるんだから、もうかからないし。
●3DS
○ポケとる
文章トレーニングのための新機軸の練習方法を思いついた。まだ思いつきの域を出ていないとは思うが、それはどんなものかと言えば思いついた単語を片っ端から書くというものである。あるいは頭文字が共通している単語を書きまくるというものである。赤ちゃん、あんこ、アンダンテ、アスキー、とかみたいにね。つまりそうやって適当な単語を書きまくっている内に――つまり無秩序に単語を書きまくっている内に――秩序のある文章を書きたいという純粋な欲求が生まれてくることを狙った文章練習法なのである。訳分からんことを敢えて書きまくっていると勝手に訳の分かることを人間は書きたくなるのではないかと俺は思っているのである。どこかの作家が言っていたが「誰にでもできることから始めることで、より高度な行為が可能になる」ということなのだ。思いついた単語を書き並べることは(殆ど)誰にだってできることである。だから、まずは誰にでもできることを行うのが肝要なのだ。俺はそう思う。
例えば、今ここまで文章を書いたところで俺のモチベーションは随分と下がってきているのだけど、あんことかアンダンテとか有馬記念とかみたいな単語を並べることは当然できる。だからモチベーションアップを図ることができるのだ。多分。知らんけど。
ここまで書いたところで更にモチベーションが低下してきた。それでもまだ例の文章練習法に頼る必要は無さそうである。このままとりあえず書き続けてみよう。それで、モチベーションが底をついたところで実際に例の文章練習法を試してみるのが良いかもしれない。とは言え一応文章を書き続けることが(今のところ)できているので、そう、今のところその文章練習法に頼る必要は無い。やったぜ。
そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。独り言のように何とかなりそう何とかなりそうと呟ける内はまだ何とかなるのだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないからである。「そろそろモチベーションが尽きかけてきた」→「何とかなる何とかなる」的な。しかし先程の論法に従って言い換えてみれば次のようになるのかもしれない。「同じことを繰り返し書くことは誰にでもできる。だから、そうやって誰にでもできることをやっている内に、再びモチベーションが生まれてくる」と。そういうことなのかもしれない。書くことに迷ったらあんことかアンダンテとかアルゼンチンとかそういうことを書かずに、今まで書いたことを書写していくのがいいのかもしれない。その方が文章の推敲にも役立ちそうな気がする。今にして思えば。
例えば、今からこの直前の段落を俺は複写しようと思う。「そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないからである。」
やはり同じことの繰り返しとは言え、何かを書いている分には脳の方でも「こいつ何か書いてんな」と反応している感がある。つまり、脳は割と鈍感なのかもしれない。同じことの繰り返しであれ複写であれ何であれ、ともかく何かを書いていれば「こいつ何か書いてんな」と脳は認識し、結果的に「何かを書く練習」になるのかもしれない。つまりは文章技術一般を鍛えるための練習になるのかもしれない。人間の脳なんて基本的に騙し騙されなのだ。適当な文章を何度も何度も複写していれば、まるで新たな文章を五千文字書いているかのように脳は錯覚してくれるのだ。多分。知らんけど。実際知らんけど。そもそも練習になっとるのかどうか知らんけど。結局は脳の判断云々よりも人間が如何に新しいものを書こうとするかに文章の価値の根本が存在しているのだとすれば、今俺が「脳は結構鈍感で勘違いする」とか言ってる傍からオリジナルな文章を書きまくっているその意味もはっきりしてくるのかもしれない。しれない。よく分からないけど、多分そうなのかもしれない。
というか今これだけ色々と文章を書けているのはひょっとしたら昼間に飲んだコーヒーに含まれるカフェインの効能なのかもしれない。それだけのことなのかもしれない。しれない。よく分からない。でもそうかもしれない。何か結局同じことを繰り返し繰り返し書いてるだけにはなっていやしませんかね自分。
あいうえお、あんこ、アンダンテ、秋、憧れ、有馬記念、阿久津主税八段(将棋棋士)。
以上の文章で文字数は千八百文字程度である。こんなに書いたのに、普段目標としている千文字の文章を二つ分弱書き終えた程度の文字数しか稼げていないことに愕然としている。やはり繰り返すしか無いのかもしれない。あるいはあ行の単語やか行の単語を並べていくしかないのかもしれない。
ところで自分が何故このような文章練習法を思いついたかと言えば、それは安眠法の記事を読んだからなのだ。その安眠法は「連想式安眠法」と言って、先程述べていたような頭文字を限定した単語を幾つも幾つも思い浮かぶ限りで頭の中で唱えていくという安眠法なのだが、これが中々人の脳の中にあるざわめきを抑える効果を持っているようで、つまりは実際安眠に役立つのである。で、俺もその安眠法のファンになってしまったのだが、しかし何度も何度も頭文字の共通する単語を頭の中で唱え続けていると、今度は秩序だった文章を頭の中で唱えたい欲求が生まれてきたのである。この文章練習法は以上の体験を元に考案されている。どうだろう。結構この文章練習法良くないだろうか。実際相当文字数を稼げていると思うのだけど、でもやっぱりこれも昼間飲んだコーヒーが純粋に作用しているだけなのかもしれない。だってそんな簡単に文章を大量に生産できるわけがないと思うのだ。今まで俺は文章をたくさん生み出すことが中々できないから焦ったり悩んだりしていたわけであって、それがこんな簡単な方法によって改善するとしたらおかしいではないか、と心の一方では思っているのである。だから、どちらかと言えば自分自身の考案した練習法が功を奏したのではなく、昼間飲んだカフェインの所為と言ってしまう方が安心するのである。変な話だけど。
基本的に俺という人間は人生において空回りばかりをしており、自分の考案した方法が功を奏したことなど数える程も存在していないのだ。あるいは一つとして存在していないのだ、実数は分からんけど俺本人の印象としては一つも存在していないと言いたいくらいなのだ。だから、実際物事が功を奏したとはどうしても思いにくい、そう、「自分の手柄とは思いにくい症候群」が現れているのである。難儀なもんですね全く。ところでキーボードを叩き過ぎて段々指先が痛くなってきた。キーボードを叩くという実にヤワな運動が指先の神経を破壊したりするものなのかどうか俺には分からない。もしそんな事実が存在するのであれば全国の小説家は廃業しなければならなくなってしまう。だって彼らは日常的に三千文字とか四千文字の文章を書きまくっているわけだから、つまりもしそんなペンだことかと同じキーボードだこ的な職業病が存在するのだとすれば全国の作家及びキーボードを日常的に使用する全ての職種の人々は皆等しく指先の神経破損症候群的な持病を抱えることになってしまうのであり、しかし世の中で生きていてもそんな持病の存在について耳にすることは殆ど無いことから、あるいはそんな持病は存在しないんじゃないかと思ったりもする。とは言え、俺のキーボードをタイプする力は常人よりもやや強いのかもしれない。若干指先がひりひりし、指の第二関節が少しばかり痛む程度には俺のタイプチカラは強いのかもしれない。そもそも俺は小指を使わずにタイピングを行う自己流の要矯正タイピング法に慣れ親しみすぎており、つまり他の人々よりも指の負担がやや多くなっている可能性があるのである。小指が本来受け取るはずであった負担を四本の指に分配してしまっている可能性があるのである。そう考えると俺だけがこの指先神経破損症候群的な症状に罹患してしまうとしても強ち想像力の枠外とは言いにくいのではなかろうか。
こんなところでようやく文字数が三千文字を超えていった。とは言えまだ三千文字しか書いていないのかという感覚も存在している。あるいは俺の考えた文章練習法のお陰ではなくカフェインの所為なのではないかという疑惑も依然として根強く存在し続けている。
しかし今ふと思ったのだけれど、やはり効果的な練習法の条件の一つには、人間の心理的なハードルや技術的なハードルを落とすことが含まれるのかもしれない。あるいは技術的なハードルや心理的なハードルを下げることを含む必要があるのかもしれない。だって幾ら効果的な練習法が存在したところで、それが技術的ハードルおよび心理的ハードルをゴインゴインと引き上げてしまったら元の木阿弥で誰も挑戦しなくなってしまうことになるではないか。俺今正しいことを言ってる感覚がある。そう、「誰にでもできることから始めよう」作戦は実に正しいのである。例えば、カメラに習熟したいならシャッターを押しまくれば良い。シャッターを押すだけなら大概の人間にはできるからだ。バカチョンカメラとも言うではないか。誰でもちょんと押しさえすればカメラは大抵風景を切り取ってくれるものである。多分。もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれないけれど。
ホラ見ろそんな注釈自分で付け始めることないのに自分からハードル高くしにいってんじゃねーかと思う。「もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれない」とか言い出しちゃうタイプの人間なのだ俺は。つまり自分で心理的技術的なハードルをゴインゴインと上げてしまうタイプの人間なのだ。俺は。そう考えるとやはり誰にでもできることをやることは、全くもって善なる練習法なのではないだろうか。だって俺がこういう性格しちゃってるもんだから、尚更その「バカチョンカメラ」式練習法が輝かしいものに感じられるのだ。つまり、自分が書いた文章を最初から書写したりとか、あるいは頭文字が「あ」で始まる単語を書きまくるとか、そういう「誰でもできること」がやっぱり大切なんではなかろうか。そんな気がどんどんとしてきた。ホラ、だって今文章が目茶苦茶量産体制に入ってるのは、さっき自分で心理的技術的ハードルを落としたからではなかろうか? そう考える傍から「いやいやカフェインの所為でしょそれ」的な思念が浮かんできてしまうのだが、これは良くないことなのかもしれない。しれない。分からない。小麦粉か何かだ。古いねこのネタ。正直昔このネタ聞いてもあんまり面白いとは思わなかった。恐らくこのネタを楽しいと思うにはそれまでラーメンズが演じてきた演目に対する知識が必要になるのではなかろうか。なかろうか。俺、さっきから「なかろうか」とか「かもしれない」的なことを書きまくってるけど、それは俺の中にある自分が書くものに対する不安の念の現れなのかもしれない。現れなのではなかろうか。しれない。かもしれない。分からない。小麦粉か何かだ。
ようやく四千五百文字を超えた。というか文章を書き始めてからこの辺りで既に四十分近くの時間が経過している。あっという間だ。今俺はライティング・ハイ的な状態になっているのだ。それがカフェインの所為なのか、あるいは俺の編み出した練習法により心理的技術的なハードルが下がった所為なのかは分からないが(その真偽は恐らく明日以降カフェインを摂取しない自分が自ずから証明してくれるであろう)、いや分からんね。そもそも自分が何を書こうとしてるのか分からんから必然的に「分からん」とか「知らない」とか「小麦粉か何かだ」的な記述が増えてきてしまうのです。
ところでアレですよ、最近「なろう小説」というものが流行ってますよね。流行ってるんです。ええ。流行ってますとも。多分。知らんけど。
この「なろう小説」の特徴としては、大体物語の冒頭で主人公が死んで転生するところから始まる。そして転生後の世界で主人公は稀有な才能を持った偉人として君臨することになる。そういう筋書きが殆どなのだ。この呼称はどのように生まれたかと言えば(アノニマスダイアリーに生息する御仁達には説明不要かもしれないが)この小説のジャンルは「小説家になろう」という小説系の投稿サイトで幅を利かせたジャンルなので、「なろう系小説」とか「なろう小説」といった呼称をされているのだ。説明すればするほど醜悪極まりない作法によって書かれた小説ジャンルだと思うが、中には面白い作品もあって、個人的には「異世界料理道」なるタイトルの作品を推しておきたい。これはもう既に商業デビューを果たした作品であり、商業デビューするだけのことはあって世界観の組み立てやストーリーテリングが非常に上手い小説なのだ。二百話近くあるエピソードの半分以上を読んでしまったくらいだ。
で、俺が言いたいのはそういう稀有な面白さを持った小説に対する賛辞ではなくて、その「なろう系小説」を書いている人間の文章生産能力に対する賛辞なのだ。俺はプロになる為には一日最低三千文字から四千文字の文章を生産する能力を持たなければならないと思っているが、いわゆる「なろう系」の小説を書く人間の中には一日に一万文字とか二万文字を平気で書き上げる人間がゴロゴロしていると言うのだから驚きである。一日二万文字と言えば、速筆で知られたかの西尾維新氏が、それくらいの文章生産能力の持ち主だったかもしれない。しかし俺だってカフェインのブーストと心理的技術的ハードルを下げる効果的な練習法さえあればそれぐらいの量の文章を書くことなんてお茶の子さいさいだぜと言いたくなってくる。実際そろそろ五千文字は突破して六千文字に迫るか追い抜くかをしているところだと思うが、あ、そろそろキツくなってきたかもしれない。いやしかし「キツい」キツいと繰り返している内はまだ大丈夫だと先程言ったばかりである。これもまた繰り返している。繰り返し。繰り返し、リピート、リピート。繰り返すことが人間の心理的なハードルや技術的なハードルを下げ、人間に効果的な文章のトレーニングを提供することになるのだ。多分。でも一応今日はこの辺にしておこう。
わかりにくいと思わないか?
まず、先払いなのか後払いなのかわからない。
先払いなのがわかっても、その次の関門が切符の買い方。
行きたい駅を探そうにも、タッチパネルはあいうえお順でもアルファベット順でもなく、料金順というのがもうなにを考えているのか。
これもちゃんと説明が欲しい。
俺は速攻でゴミ箱に捨てた。
だってそうだろう。
それに、名前が悪い。
俺なら、普通の切符は「2等客車」、グリーン車は別の切符にして「1等客車」って切符に印刷するよ。
それと、快速とか準急とか、勝手に造語作るならちゃんとわかるような注釈が欲しい。
rapidって英語表記だから、速いんだろうなとは思ったものの、停車駅が少ないとか、それ説明いるだろ。
わかりにくい極め付けはSuica、普通は切符を買う先払い方式なのに、Suicaだと後払い方式。
後払い方式なのに、先払いでチャージ、最初はさっぱり理解出来なかった。
意外に伸びててびっくりしてるんだけど、ブコメ見てると賛否両論って感じかな
つまり一応知り合いという程度の人との繋がりを維持するのに年賀状は有用って考え方
それに対して年賀状に否定的な人達の考え方を大きく分けると2つに分けられると思う
①今の時代に年賀状の様に紙、つまり物理媒体を使った通信で年始のあいさつをする必要なんてないという考え方
②年賀状を出さない事で失われる程度の繋がりなど人生に不要という考え方
考え方は人それぞれだから反論という訳じゃないけど①、②共に思うところはある
まず①の方
俺も将来的には葉書や封書での年賀状はなくなっていくと思ってる
ただ、メールやLINE、各種SNSなどが年賀状の代替を果たせるか? というとちょっと疑問がある
手間がかからなすぎるかなって気がする
お歳暮なんかもそうなんだけど、あなたのためにこの程度は手間をかけましたってのが結構大事だと思うんよ
あくまで俺の経験則に過ぎないんだけど年一回の年賀状と同じ程度の人間関係をメールで維持しようとすると、3ヶ月に1回くらいはメールのやり取りが必要になると思う
SNSだったらもっと短期スパンでの定期的なやり取りが必要なんじゃないかな
メールにしてもSNSにしても、メッセージのやり取りをするツールとしては年賀状をやり取りする相手より親密度が高い人向けって感じがする
もちろん将来メールを送ることが今、年賀状を送るのと同じくらい手間をかけてると感じる価値観が主流になる時がくるのかもしれない
でも今はまだそうじゃないと思う
個人的には今後、年賀状を代替していくサービスは電子年賀状的なものになるんじゃないかと思ってる
スマホやタブレットで年賀状をパラパラめくるように見れて、返事を書くのもそのままスマホやタブレットでできる
あいうえお順などでソートもできて、職場の同僚や同級生などのタグをつけての管理もできる
一枚一枚手書きでも書けるしテンプレートやイラストを引っ張ってきてお手軽にもできる
手作りのスタンプを取り込んだり、写真を貼り付けたり、おみくじシールやキャラクターのイラストを貼り付けることもできる
作るのにそれなりに手間がかかって、なおかつ更に手間をかけようと思えばいくらでもかけられるサービス
多分、すでに似たようなサービスはあるんだろうけど年賀状を代替するほど普及してるとは言えないと思う
お年寄りでも簡単に使えるか? っていうとそうでもないところあると思うしね
それに普及したらしたでスパムメールみたいな悪質な広告やウイルスの感染源にされたりといった事への対策も必要になってくるだろう
ただし、ただめんどくさいとかいう理由で年賀状一枚で維持できる人間関係を捨てちゃうのはもったいないかなって思う
言ってしまえばコネとか人脈って呼ばれてるものってそういう緩い繋がりのことだと思うんだよ
人生の中でそういう緩い繋がりに救われる事ってたまーにある
そういう時の為に手間を投資してると考えればそこまで大損してるって訳でもないと思うよ
それまでの携帯電話っていうのは基本的にガラケー。つまりディスプレイとボタン(操作パネル)が別々で、画面を大きくし、さらに携帯性を高めるために二つ折りが基本形。PHSとか色々あったけど、基本的にはおんなじ。マウススクロールボタン見たいのが携帯のど真ん中に配置されてたのもあったかもしれない。ボタンぽちぽちして、番号の六押したら画面が右スクロールとか、8押したら下に移動とか、とにかく直感的に操作できなかった。あいうえおの”お”も何回も連打するのが普通。(違う入力方法もあったけど直感的ではない)それがiPhoneでは画面を直接触って操作するようになった。デジタルな機械の携帯電話をアナログな方法で操作できるように工夫されたので、それ以降猫でさえiPhoneを操作できるようになった。画面を見ながら操作するって簡単に見えるけど、iPhoneとガラケーだと次元が一つ違う。操作した時のフィードバックにしたって、バイブ機能使ってちょっと震えるようにするとか、パチパチ音を出すとか、ちゃんと考えられてた。こういう細かい操作性にしても当時からすごくよく考えられてて、画面上のボタン一つで英語入力にもかな入力にも、さらに今でも一般的なフリック入力がiPhone出た当時から使えてたし、出た当時から既に完成しているスマートフォンだった。
当時iPhoneが発売された当時に一番他の人に自慢して「おー」と言われたのがマップ機能。当時はGoogleマップだったと思う。住所入力したらその住所の場所が出てきて、ちょっと操作したらそこまでの案内してくれる。当時僕は営業で、出先に会社から「これこれこの場所のお客さんが話を聞きたいそうだから向かってくれ」って言われて分厚い地図片手にどこ行きゃいいんだって調べてた。携帯でもできたけど、iPhoneの操作性は当時飛び抜けてた。分厚い地図を持たずに走り回れた。それに携帯電話に自分の必要な機能やゲーム、アプリケーションなんかを入れられる拡張性もガラケーより全然あった。コンパス、セカイカメラ、音楽、Gmailや他のメールとの同期:会社のメールと自分の個人のメールを一つのアプリで受け取れたし、iPhoneあればかなりのことができたと思う。
基本的にこの二つがすごかったんじゃないかな。革新的なUI、アプリでの拡張性と利便性。当時からiPhoneの基本的な構造って変わってないし、今もほぼ全てのスマートフォンが真似して、機能を追加してる。一発目から今でも通用するスマートフォンの基本形を築いたって意味で本当に凄かったと思う。
でもほんとに無能すぎてわけわかめ。っていうか開発者はろくに使ってみてないだろ。
使えば欠陥たくさん見つけられるのにね。
・表示中のタブを保存して閉じるという機能
左上についてるけど、間違って押してタブを全部閉じてしまうことがある。
・タブを切り替えると別ウィンドウで開きなおす
タブの切り替えの時、クリックしただけなのにドラックしたと勘違いしてそのタブだけ別ウィンドウに切り替える。
これほんとしんどい。なんとかしてほしい。
便利だけど、時々サムネイルが表示されっぱなしになる。何とかしてくれないかなぁ。
・すぐに半角になる
全角で検索する→よし別の言葉を検索しよう→すでに半角になってる。
新しくタブ開いたときとかならまだしも一つのタブで、検索しただけで半角に戻されるのははっきり言って異常。
firefoxで試したけど全角のままだった。当たり前だよなぁ。
か|
となってしまう。
「このページを表示できません」
開発者はこんなブラウザで使いやすいなぁとでも思ってんのかなぁ。
相当な馬鹿だな。
私は、これからデッサンを学ぶ。これから書くのは私がなぜデッサンを学ぶかということだ。
デッサンを学ぶ理由については諸説ある。それが現在においても、最も簡単な視覚的表現方法であるという人もいる。デッサンがアートにおける基礎であるから。という人もいる。忍耐力をつけるためという人もいる。というように、書籍や、インターネットで調べれば様々な答えが出てくる。つまり、これが「答え」というものはない。つまり、自分で何のために学ぶのかを考えておく必要があるだろう。実態が完全に掴めていなくても、とっかかりとなる「やる理由」が必要だ。実態が掴めてくれば、また学ぶ意味を見つけることはあるだろう。このブログを見つけた人でデッサンを学ぶ理由を探している人は、あくまでもこれは私見であるので、参考までにとどめておいてもらいたい。
私なりの答えとその理由をここに置いていく。
デッサンとは、「高度な観察(入力)」と「高度な表現(出力)」である。
私の知る限りでは、デッサンはまず筆を持つということはなく、描写する対象を時間をかけて穴が開くほど観察する。文章で書くとこれだけなのだがこれが実に奥が深い。例えばリンゴをデッサンの対象にするとしよう。見始めて間もない頃は、部位ごとの色の違いがぼやけて見えるのだが、時間をかけて観察すると、網膜に焼け付くように色の違いがくっきり見える。そうすることで、リンゴを実際に描くことに一歩近づく。だがそれだけで書けるだろうか。デッサンをやったことがない人はデッサンのために適した紙、エンピツ、その使い方を知る必要もあるだろう。ツールを知り、その使い方を知ることも重要なのである。それを知ってもまだ描き通すには程遠い・・・
一方デザイナーとは、私の中では「特定の誰かにとって価値のある視覚的表現を生み出す職業」である。
そして、デザインにおける工程では、まず、顧客が欲しいものを見つけることから始まる。つまり、顧客を観察することである。これをおろそかにしてはいい成果は生み出せないであろう。観察して見つけたものを表現する必要がある。それは言葉でも、絵でも写真でもできるかもしれない。何で表現するかを見極め、どのように表現するか考える必要がある。そのためには、表現するためのツールを知り、その使い方を知る必要がある。
というように、デッサンの素人、デザインの素人である私でも、いくつか共通点が見つけられる。ここから私は、デッサンにはデザインの基礎が秘められているという仮定にたどり着いた。もっとも、これはデッサンを実際にやらなければ気付かなかったことであろう。実際にやっていない人は、何もわからないままデッサンのやり方を調べてやってみる必要もあるだろう。
幼い頃、「あいうえお」を学ぶ意味を理解して学んだだろうか。私は知らないことだから学んだのだと思う。
「あいうえお」の組み合わせで単語が生まれる。なら、「ひこうき」や「あざらし」といった単語を1つ1つ覚えるよりも、「あいうえお」を覚えてしまえば、どんな単語だって扱える。
デッサンもきっと、デザインにおけるその類だと思う。というか、自分なりに意思を持ってそう解釈していく
おわり
PANASONICの20万くらいの最新のテレビを買ったんだけど、リモコンがとにかく使いづらい。
地上波等のチャンネルを切り替えたりする分には特に困らないんだが、
感覚としては「スマホのアプリをガラケーで操作している」感じ。
横スクロールで動画を選択したりするのも、「カチカチカチ」といちいち横ボタンを押さないといけない。
FireTVのリモコンであれば横を押し続ければスルスルとスクロール出来て、スピードも長押しで早くなる。
Youtubeの検索も、あいうえおと文字が並んでいるのを十字キーで一文字づつ入力しないといけない。
しかも予測変換はしてくれず、全文字入力して、適正に変換しないと、検索結果も意図したものが出てこない。
「ネットとか良く分からん」世代がメインのターゲットの製品なので分からないではないけど、
せっかくネットの機能がついているのに、操作感がガラケーじゃ使う気にならないよ・・・
オプションでも、スマホアプリでも良いから、ガラケー操作感から脱却できるリモコンが欲しい!
もはや日本の家電メーカーにそこまで望むのは酷なんだろうか。それともSONYあたりはもう少しまともなのかな?
おとなしくFireTVを使うことにするか・・・