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はてなキーワード: 自由闊達とは

2018-10-30

はてブの一部機能廃止

あれって引っ込み思案な陰キャラでも個を示しつつ自由闊達他人に絡めるという、はてブの一番良かったところをスポイルしてる。

次は増田サービス停止かな。

2018-10-07

anond:20181007192206

あんまり想定外という感じではないが……結局その議論文系教授たちの以外のメンバーを入れたら成立しないのでは?

話題を定めないって自分で書いてるけど、じゃあそういう場の話を、なにかしらの決着を出さないといけない具体的問題を話し合う場の話には適応できないでしょ。

その教授たちが自由闊達意見が言えるのは、その議論の結果がどうなろうと直接的な利害はない、という部分が大きいだろう。

教授たちだって自分たちの給料に関わるような場で同じように公正?に議論できるとは限らないし、自分たち抜きで公正な議論をした結果予算が削減されますと言われたら納得しないだろう。

あと飲み会での即興の話が論理的かどうかなんて、実際には空気読まないと決定できないよね。

2017-04-03

ソニー株式会社退職しました

表題の通り、数年勤めたソニー株式会社退職しました。

個別具体退職理由はいろいろあってそれらは後述しますが、退職を決めた基本的理由は、個人的キャリアパス設計会社方針ミスマッチ労働観のミスマッチ技術投資の考え方のミスマッチの三点に集約できると思っています

キャリアパス設計会社方針ミスマッチ

私はソニーソフトウェアエンジニアとして働いていました。

ソフトウェアエンジニア(を目指す人間)にとってソニーと言えば、"自由闊達理想工場"、エンジニア自由活躍できる会社日本メーカーなのにソフトウェアもちゃんとつくれる会社、などのイメージがあるかと思います。私もそう思っていました。

実際会社説明会などでそういった説明しましたし、そういったイメージを前提に私はソニーを選び、「エンジニアとしてプロフェッショナルになる。品質が高く、お客の求める体験を作り出せる人間になる」というふわっとしたゴールを設定し、いわゆる"プログラマ 35 歳定年説"をガン無視した一生エンジニアキャリアパスを描いていました。

しかし、会社の求める人材像、少なくとも自分が配属された事業部で求められる人材像、キャリアパスは、上記と全く異なるものでした。

昇進の段階としては、現場業務(エンジニア)は基本的に常にマネジメント業務(中間管理職)に対して格下に位置得付けられており、一部オーバーラップする部分があるものの、昇進する = エンジニアをやめてマネージャーになるという状態でした。退職の原因になった上司からも「君は優秀なんだからプログラミングみたいな低俗なことは早く辞めて人を動かせるようになれ。私が引っぱりあげてやる」(意訳)といったようなことを言われ、自身の「エンジニアとして生きる」というキャリア設計との相違は明らかでした。

もちろん、組織としてスケールするために、エンジニア経験を活かしてマネジメントに移行することは否定されることではありません。ですが端からエンジニアリングマネジメントになるための踏み台として"しょうがなくやるもの"として扱うことには強い違和感嫌悪感がありました。

退職の際の送別会で、部署の中でもエンジニアとしてレベルが高いと感じていた40代の先輩が、「ソニーではエンジニアリング評価されない。俺はその方向に進んだけれど、給料最近下がる一方だよ。君はい選択をした」と言っていたのが、未だに記憶に残っています

労働観のミスマッチ

はいわゆるライトオタクで、アニメゲームが好きでコンテンツを消化する時間無限に足りないと感じていたり、自分で何かを考えてものを作るという絶望的に時間を食う行為も好きだったりして、ともかく余暇時間の確保が人生重要課題です。

うご推察されたことと思いますが、ソニーでの私の労働時間はそれなりに長かったです。企画ビジネスユニット主導のスケジュールに開発部隊は圧殺されて、長時間労働常態化していました。私も残業時間が 90 〜 100 時間程度の月が 3 ヶ月ほど続いたこともありました。部署の先輩には、残業時間の"平均"が100時間という方もいましたし、月の半ばで法規制が許す残業時間を"使い切ってしまう"ため月の中盤以降は"定時に帰ったことになっている"デバイス系の同期もいました。正直に告白すれば、私もチームリーダーに「打刻してから席に戻ってこい」と言われたことがあり、そのチームリーダーは次の日悔恨の表情で「昨日言ったことは忘れてくれ」と言っていましたが、数カ月後に突然辞めました。

前述の通り、趣味時間人生の意義になっていた私にとって、これは体力的だけでなく精神的にも非常にダメージの大きいものでした。上司からの「君のチームが他のチームに比べて残業時間が少ないので、(労使交渉で通常の上限の)60時間まで残業時間を埋めてほしい」という指示が決定打となり、退職を決意するに至りました。

技術投資の考え方のミスマッチ

昨今の、シャープ東芝等のニュースで明らかになっているとおり、大企業から安泰ということはもう過去の話です。そのため、自分市場価値を高めておく必要があると私は強く感じています

しかし、会社エンジニアリング軽視であり、またその昇進先であるマネジメントについてもお世辞にもプロ仕事とは呼べないものであり(残業100時間を続けないといけないマネジメントとはなんでしょうか?)、ソニーで働き続けることは私の「労働市場自分市場価値を高める」という方針にとってリスクしかありませんでした。

人事担当者に、現在キャリアパスについて不安があるという相談をしたときにも「増田さんがソニーで(定年まで)働き続けることを考えると〜」のような発言をしており、会社がなくなる / 現状の待遇が維持されなくなるというリスクは全く考慮されておらず、いかにただただ嵐が過ぎるのを耐えるかという発想しかありませんでした。

エンジニアリングについても、昨今の汎用チップスペック的に見劣りする高額のカスタムチップの開発、そのカスタムチップを使いこなすための C / アセンブラによる手動の最適化といった"職人芸"に対する信仰、大量のテスターを雇っての人力テストなど、エンジニアとしてのセンスとしてやや疑問符がつく、ともすればレガシーな開発手法がまかり通っていたりと、この技術職場適応したとして、その人物一般的問題対応できるだろうか?その人物市場評価するだろうか?という疑問が拭えませんでした。

また、業務時間がまるで足りないからとコードレビューすらろくにできないので知見がたまらない、時間がないので勉強もできない(しない)、もちろん職場で最新の技術に対するディスカッションどころか雑談すら成り立たない、という状況で、私がこのような職場業務忙殺されている間にも、世界エンジニア勉強技術力を高めているのかと思うと、相対的自分市場価値を毀損されていると感じ、焦燥感にはちきれんばかりの思いでした。

転職

こういった不安・不満があり、また会社の期待にも応えることが難しいということで、先ごろ無事ソニー退職し、新しい職場で働き始めています。新しい職場は上記の 3 要件についてよくマッチしていると感じており、心穏やかに働けています。幸い年収も多少増える結果となりました。

色々書きましたが、これらはソニーが悪い会社だと言う話ではなくミスマッチだと思っています。上記の内容はすべて私の価値観を元にした一面から評価になっており、他方でここで挙げたような会社の考え方(マネジメント優先・仕事優先・安定優先)に同調・納得できる方もいると思います。残念ながら私とはミスマッチだったというまでです。

また、あくまでこれらはソニーという(さらに言えば自分の配属された事業部という)組織に対する評価であり、尊敬できる先輩・同期もたくさんいましたし、そういった方々と出会えた、幸いにして現在も仲良くしていただいているということは、本当にありがたいことです。

みんながしあわせになるといいな。

おもしろ案件お気持ち表明

ここからは単なるおもしろ案件共有コーナーです。

内定もらった時の風景は今でも覚えていて、友人と一緒に出かけていた先で内定通知の電話がかかってきて、本当に2人で喜んで、とても嬉しかったのを覚えている。どうしてこうなっちゃったんだろうなぁ。

ものつくりの現場で、エンジニアリングバカにされたのは悲しかったなぁ。私がいる間だけでも、ものが作れなくなっていってるのが感じられたのも悲しかった。

2017-03-18

http://anond.hatelabo.jp/20170318182724

社会に生きる人々の自由闊達生活妨害

されても守られるべきマイノリティーの権利とかも有るんじゃないか

結局君は

「俺の日常妨害するな」

と言った主張を「民主主義」とか言葉で誤魔化しているに過ぎない

と、僕は思うけどな。

デモは少数者のための仕組みではないのか?

デモを行なう中で動員数を誇示したり、街中で大声で怒鳴り散らかしたり、大通りを塞いだりすることは、多数者でなければできないことのまさにそれであり、社会に生きる人々の自由闊達生活妨害しようとする行為であり、およそ投票に並立する民主主義権利行使であるとは思えない。

デモとはこのような、議論否定しようとするものとは正反対のものであり、数がものを言う投票では示すことのできない、多数派とは異なる有用意見を持った少数の人々が自分の考えを発信する場であり、そういった有用意見政治に取り入れて民主主義を豊かにするための仕組みではないのか?

多分今まで俺が日本で言う「デモ」に違和感を感じてきたのは潜在的にこういうふうな考えをしていたからだろう

どうにか、ああいう風な「デモ」が続けられることも、デモ存在否定されることもなくなって、デモ投票に並ぶ民主主義の柱として根付くようになってくれればいいんだけどな

意見お願いしま

2017-01-04

20%プロジェクトができる能力仕事ができる能力は違う

うちの会社はG社にならって20%プロジェクトがあって、自分の好きなプロジェクト業務時間20%を自由に使って良いということになっている。優秀な人が多い会社から入社前はそういうすごいエンジニア自由闊達に意欲的に20%プロジェクトに取り組んでいて、それが新規プロダクトの開発にも生かされているのだろうと思っていた。

入社してみると想像していたのとは違った。まずほとんどの人が20%プロジェクトをしていない。というかまずほとんどしていない。新しく入社してきた僕が、新しいプロダクトを作ってそこそこ流行ったら、やられたー、それは自分が先に考えつきたかった、みたいな反応があるのではなく、すごいね、みたいな。そもそもくやしくもないらしい。

しかしそういう人でも仕事ができないわけではない。むしろ僕よりできる。会社での評価もよい。そこのギャップがしばらく理解できずにいた。

しかし先日ふと気がついた。仕事ができるかどうか、やるべきことを人より上手にできるかどうかという能力は、やらなくてもよいことをやるかどうかという能力とは関係もないのだと。両方持っている天才もいるが、前者だけ持っている人でも会社出世できるし、後者能力が多めで前者が少なめの人は会社の中ではあまり評価されないのだと。会社としてはやるべきことしてくれるひとのほうがありがたいのだが、このあたりを勘違いしていると、会社にとって有意義活動20%プロジェクト等)をやっているのに自分評価されない! といろいろ誤解が生じてくるだろうから会社としては20%などは過剰にアピールしないほうがよいかもしれない。

着実に成果を上げていって脱線しない人というのは正直僕としてはよくわからない人なのだけど、そういう人からみると僕のような脱線ばかりしている人というのは理解できないのだろう。どちらがいいとか悪いとかではなく、いろいろな人がいるのだなと気づいた正月だった。

2016-05-26

政治的正しさと「正しさ」と欲望について

最近、多少揶揄的なニュアンス予防線を込めて政治的正しさ、あるいはPCについて言及されるケースをいくつか目にした。

なるほど、確かに過度な政治的正しさへの配慮自由闊達表現を陰に陽に萎縮させるものであろうし、形骸化された政治的正しさは単にナンセンスだ。

しかし他方で、「それとは全く別の問題として」、多くのことがらがある種の正しさをめぐって回っているように僕には見える。

たとえば(誇張した表現になるが)経済原理主義者は最適化・あるいは効率化こそが正しさを担保すると考えているフシがあるように思えるし、

過度にアニメ制作者サイドに寄り添い「楽しんでる!」と必死タイプ消費者はあたかも楽しむことこそが正しさを調達するとでもいいたげなように感じられる。

(注意:僕はここで経済原理主義者や全肯定的アニメ消費者批判したいわけではない。正しさの調達パターンをいささか戯画的に書き出してみたいのだ。

また、前者であれば最適化後者であれば肯定的スタンス無意味であると断じたいわけでもない。

むろんそれぞれの立場から有益な結果・知見が引き出せることはあるだろう。

ただ僕は、あるタイプの信念・行動からある正しさへの意志ピックアップすることは「権利上」可能であるだろうという前提の上で思考実験してみたいのだ。)

さて、人がある物事に大して価値判断を下す際、無数の観点をとることができるように思えるが、ここでは大きく「正しさ」「効率性」「面白さ」の三つに分けられるとしよう。

たとえば学問では正しさが重視されるし、通常の社会では効率性が重視されるし、共同体では面白さが重視されるだろう。

(注意:学問的な「正しさ」と政治的「正しさ」とでは「正しさ」の意味するものが異なるのでは?というのは正当な指摘だ。

ここでは政治的正しさというフレーズに引きずられてこう命名したが、「真理」とラベルを貼れば言語ゲーム癒着は多少解消されると僕は考えている。

はいえ、これでもまだ混同が起きているという疑問はあるだろう。しかしここはこれで議論を進めるのでご容赦いただきたい。)


しかし、学問で正しさを追求することが「楽しさ」を帯びることは多くの人が多かれ少なかれ知っていることであるし、

ある種の「面白さ」が正しさを担うことも趣味に熱中したことがある人なら知っていることだろう。

このように、しばしば三つの領域は混合する。

この視点から、先ほどあげた例を捉え返してみる。

するとつまり経済原理主義者」は「効率性」を追求することによって「正しさ」を調達するように見えるし、

「全肯定的アニメ消費者」は「楽しさ」を追求することによって「正しさ」を調達しているように思える。

(注意:ここで「そんな深いこと考えていないよ」というのは一旦はそうだ。

はいえ、現に「そう見える」しこれはある種の無意識考察だと考えてもらって差し支えない。)

ここで僕が言いたいのは「なぜ素直になれない!」ということだ。(もちろん僕がこの指摘をまぬがれているというつもりはない)

正しさを追求したいのであれば正しさを追求すればよいし、それ以外の効率性や面白さがウエイトを占めるケースであれば全力でそれに没入すればよいではないか

いそいで付け加えておくと、僕はこのような「正しさ」の追求が悪であると言いたいわけではない。

しかしながらそこに、ある種のねじ曲がった欲望を見て取ってしまうのだ。

なぜ、ストレートに正しさや効率性や面白さを追い求めることができないのだろうか?

程よく住み分けることはできないのだろうか?

これは裏を返していえば、あらゆる価値判断メタレベルには正しさをめぐる判断があり、結局全て(これはレトリックです)は政治であるということなのだろうか?

しかし、全てが政治であるとして、その裏側には欲望が張り付いているのだとしたら、それを上手く調節したり整流することも可能ではないのだろうか?

僕が思うに、今必要なのは欲望論だ。

2016-05-07

http://anond.hatelabo.jp/20160507084347

保守自己責任を掲げるのは100歩譲ってまあわかるとして、朝日新聞のような左派自称する勢力も自己責任を是としていたんだよ。ほんと日本経済思想は狂ってるとしか言えない。

 「スリム効率的政府の下で自由闊達(かったつ)な競争が展開され、新しいビジネス新規産業が次々と勃興(ぼっこう)する ― 」

 「国民一人ひとりが保護規制から一人立ちし、自己責任自助努力ベースとして自由な発想と創造性をいかんなく発揮する ― 」

 いずれも、2年前の戦略会議答申提言された構造改革が断行された後の社会として書かれている。いまこそ実行の時だ。

http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20091025/1256448739

2016-01-07

http://anond.hatelabo.jp/20160106193930

みんないい意味子供っぽくて女らしくなかった

やっぱ異性を意識するって言うのは大きいよ

「いい意味で」ということは

異性を意識することで「いい部分」(この場合自由闊達な何か)

抑制されてしまうと言うことでいいのかな?

2015-05-02

千葉雅也のアンチエビデンス論について」について

10+1 web site|アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い|テンプラスワン・ウェブサイト

千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版) | しんかい37(山川賢一) | note

 最初リンクを「アンチエビデンス論」、二つめを「アンチアンチエビデンス論」と呼ぶことにする。もちろん、この文章アンチアンチアンチエビデンス論と呼ぶ必要はない。

 千葉雅也の「アンチエビデンス論」が出たとき個人的にはそれなりに楽しく読んだけれどその評価別にして、まあ批判は出るところでは出るだろうなとは思っていた。と思っていたらしんかい37氏が「怪文書」なんて比喩まで出してけなし始め、氏がまとめた批判が二つめの「アンチアンチエビデンス論」。(最終版)となっているのは、この文章はいくつかのバージョンが発表されたらしく、(完全版)を読んだつもりがまた新しいのに更新されたということのようだ。この調子で(究極版)とか(最終版・改)とか(帰ってきた完全版)とか出してみてはどうか。そんな正論はともかく、これから取り上げるのは後者の「アンチアンチエビデンス論」についての感想、とりわけその文体についての雑感である

 しんかい氏は、まず千葉の主張をこのように要約する。

千葉は論考の冒頭で、些末なことや自明なことにも過剰なまでに論拠や説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、こうした態度が現代には蔓延している、と述べました。さらに、インターネットの普及した現代では、人はさまざまな行動の痕跡ネット上に残してしまます。そのため、人はエビデンシャリズムによる際限のないあら捜しにさらされてしまう。千葉によると、このエビデンシャリズムは、現代社会を窒息させるものなのです。

 そして、その上で読者にこう問いかける――

まずこの主張、みなさんはどう思われますか。率直に言って、最近になってそんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしないのですが。

 不思議なのは、ここで「そんな気がするかどうか」という「実感」についての話からこの論を始められる図太さ、というか、ふてぶてしさだ。過剰に説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、それを批判する千葉の態度をアンチエビデンスと呼ぶなら、さらにそれを批判するしんかい氏の態度は、普通に連想すれば、説明責任擁護エビデンシャリズムの擁護となるだろう――そういう予感を持って、読者は、というか私は、読みはじめた。どのような根拠でもって(説明責任果たして)氏が主張を正当化していくか、それが私がいちばん期待していたことだ。もちろん「アンチアンチエビデンス論」の議論の射程は鋭く、こうした「実感」に訴える論法を手厳しく批判している。この論の最後

エビデンスを求めようとしなければ、人の思考個人的な実感のまわりをくるくると回るだけですし、明晰さが求められないなら、言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論がいくらでも可能になってしまます

という風にして終わるのだ。仮に、しんかい氏の主張が〈個人的な実感のまわりをくるくると回る〉だけに留まらないと仮定すれば、〈そんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしない〉と主張するに値するほどの、根拠が示されるはずである――そう期待して読む私は、またすぐに裏切られる

しかに、インターネット上の失言が多くの人に拡散され批判される、ウェブ炎上という現象は近年目立つようになって来ました。エビデンシャリズムという概念は、そうした事柄をさしてもいるらしい。

実感に則さなくても、当てはまる事例があることはすぐに認めている。いったい、しんかい氏の「実感」を裏づけする根拠は、いつになったら出てくるのだろう? (「落ち着いてください!」と隣にいた貴婦人が言う。「まだほんの初めの方の十数行を読んだばかりじゃありませんか。議論は始まったばかりです。これから先も慎重に読み進めていけば、きっと〈個人的な実感〉なんかとは無縁の、素晴らしきエビデンスとやらに出逢えるはずですよ! さあ、続きを読んでください!」)

 さらに読み進めていくと、千葉文章引用したあと、しんかい氏はこのように述べている。

このくだりを読むと、今の企業ではどんどんマニュアル化(「機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除」)が進んでいて、ロボットのようにふるまうだけで給料がもらえる状況になってきている、といっているように思えます。えっ、世の中そんな風になってますかね。フリーターならともかく、現在でも正社員ともなればみなさんいろいろな判断要求されていると思いますけど。むしろ日本では長い不況のせいで、高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている気さえします。

 「思えます」! 「思います」! 「気さえします」! 実感に訴える主張のオンパレード! 「フリーターならともかく」――どのような根拠でこの要素を除外したのか? 「長い不況のせいで」――いったいいつからいつまでのことなのか? こんなにも曖昧表現で何が指し示せるというのか? 「高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている」――さっき例から排除されたフリーターはこの例には含まれないのだろうか? 確かに最初の例のフリーターが、元からアルバイトなんかしていなかったのなら辻褄は通るけれど……ところで、引用されている千葉文章は〈企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで〉といった範囲の広いものであるのに、しんかい氏は勝手企業だけの話にすり替えているし、しか千葉文章に〈給料〉という言葉はひとことも出ていない。

マニュアル化が仮に進んでいるとしても、それは効率化のためであって「個人の責任回避」するためじゃないでしょう。企業に、各社員責任をいちいち回避させてあげるインセンティヴなんてありませんから

 なぜ「効率化のため」という目的だけに話を限定できたのだろう? もし仮に、企業(そもそもなぜ企業だけの話になったのか? しんかい氏がそうすり替えたからの話でしかないのではないか?)が、しんかい氏の思いつきによる目的で動いているとしても、そうすれば、そもそも前段のマニュアル化が進んでいることを否定するような数々の圧倒的「実感」とはいったい何のために書かれたというのか? これらは全てただの思いつきで、論旨を整えずにただ手当たり次第に条件反射的に反発してみただけのことで、最初から根拠なんかなかったのだろうか? 〈千葉はその不明瞭な文体のせいで不評を浴びたわけですが〉と、その次の「不明瞭な文体について」の章で氏は書いているが、確かにしんかい氏の文体千葉に比べればまったくもって明瞭ではある。場面ごとに言いたいことは分かる。ただ、自身の主張に対する根拠ほとんど書かれていなくて、全体を繋げると辻褄が合わないというだけのことだ。しかし、最初から言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論〉がしたいのならともかく、アンチアンチエビデンス論としては、これは致命的なことではないのだろうか?

 この後も、しんかい氏は「アンチエビデンス」的な、説明責任を果たさず、ただの思いつきで主張を言いっぱなしにするだけの批評を展開している。

ぼくもひどい評論ハンターとしていろいろひどい評論を読んできたわけですが、この手の文章を書く人って粘土細工作るみたいな思考回路評論というものを考えてるんですよね。思考論理によってつなげようとするのではなく、とにかくぐちゃぐちゃつき混ぜてれば一体になるにちがいない、という信念に導かれている。

この手の人は、どうやら混ざっている粘土の種類が多ければ多いほど強い、と錯覚している節もあって、批判されるとすぐ、もっと勉強してくださいとか文脈を読んでくださいと言い出す。見ろ!こんなに多くの粘土を混ぜているんだぞ!このすごさがわからないのは、お前が粘土の種類にくわしくないからだ!というわけ。一般社会には通じない理屈ですが、文壇アカデミズムには粘土細工愛好家が一定数いて、ほう見事なマーブル模様ですのうと褒め称えたりするので、彼らの自信はますます高まっていくのです。

 対象になる文章に「粘土細工」という比喩を与えて、その粘土細工のイメージ攻撃する。ありがちな比喩の乱用だが、このあとソーカルによって批判される「科学数学」の乱用に比べれば、反証のしようがないために、確かに優れた方法ではある。

ただし、いまや世界的に、ドゥルーズ的な文体にたいする風当たりはかつてより強くなりました。

 これなどはまだいい方で、一冊の参考文献が提示されている。そのピーターバリーによる教科書引用部分だけで、どうして「世界的」な思潮についてここまで断定的なことが言い切れるのかはさっぱり分からない。

バリーが述べていたように、いまや世界的に「詩的に書く自由」は認められなくなってきたわけですが、じつは、そうした変化を引き起こしたのは、一冊の本でした。二人の物理学者アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『知の欺瞞』。そしてこの本が刊行されたのは、九七年のことなのです。

 また「世界的」なことを一冊の本だけで理解している。しんかい氏は〈千葉が、九〇年代エビデンシャリズムからいまだ自由時代だったと称えている〉ことと、ソーカルの影響によってポストモダニスト難解な記述スタイルに〈致命傷を与えた〉話を、そのまま繋げている。〈それを踏まえると、〇〇年代以降エビデンシャリズムが強まっていったという千葉の主張と、見事に合致します〉。……。時系列ごとに並べると、受験生に嬉しい真っ白な年表ができそうだ。これも千葉世代論に比べると、中身をスカスカに抜いたからとはいえ(ほとんど粘土は混ざっていない)、確かに言いたいことは分かりやす世代論ではある。そこにエビデンスがあるかはともかく。

 だいたい、千葉ポストモダニスト的なよく分からない文体を使っている(これもしんかい氏の主観であり、論の後半にはある部分の引用について〈率直に言ってぼくにはほとんど意味が取れません。おそらく全人類にとってそうなのではないかという気がします〉などと豪快なことを言う。論の冒頭で〈発表直後はネット賞賛の声に包まれました〉という例示と「批判の声」を対比させたのは何だったのか、賞賛の声を上げた人たちは最初からしんかい氏にとっての人類には含まれていなかったのだろうか?)ことと、過去に著名なポストモダニスト問題と論争を巻き起こしたことには、いったい何の関わりがあるのか? ただの連想ゲームしかないのではないか? こうしたカテゴリー混同した主張と、「ジャック・ラカンは、虚数無理数混同している」といった事実に、どのような違いがあるのだろう? 

 しんかい氏はなぜ、ソーカル事件千葉雅也を結びつけて論じようと思ったのだろうか。「おそらく……」などと仮定を挙げてエビデンスのない主張をする気は今のところない。それよりも、根本的な疑問がある。「アンチアンチエビデンス論」において、しんかい氏は、アンチエビデンス批判するどころか、むしろそれに則った、説明責任なんてお構いなしの自由闊達批評をしている。それはそれでいいことじゃないかと思うし、それとは逆にエビデンシャリズムを徹底させた批評の道もあるのではないかと思う。しかし、今回のように、ある種の世代論や、ある人物をどのように評価するかなど、すでにある程度の文脈が与えられた人文学的なテーマ場合科学数学におけるような厳密な方法論などないし、徹底して証拠を走査することは(この私の文章のように)不毛ものになりがちなのではないだろうか。そもそも戦う土俵を間違えているんじゃないか、という疑問がある。「アンチアンチエビデンス論」において批判されている(かのように見えるが、どういう理屈でかははっきりしない)「実感の正当化だって、たとえば何らかの世代論であれば、いくつかの本から有益そうなところを引用して、それなりに理解が深まれば、反事実的条件と現実世界関係に関する考察などといった面倒そうなところから論を始めなくても、それで充分なのではないか、という気はする。これは純然たる思いつきである

 貴婦人はとっくに寝てしまったので無駄話を続けると、だいたい意味が分からないかどうかで評価するのなら、数学科学プログラミングなどの高度な専門書だって(〈一般社会には通じない理屈〉とまで表現するかはともかく)私個人にはまったく意味不明ものだし、別に大陸哲学だけの話ではなく分析哲学の本でさえ、少し高度になるといまの私にはさっぱり分からない。意味不明なことを言っているのと意味がないのは(いわゆる「説明と理解」といった哲学的テーマになるのだろうか)まったく異なるはずだし、ここを突き詰めて考えると分析哲学的にも絶対にややこしい問題に直面すると思うのだが、しんかい氏はその辺りをどうも曖昧に片づけている気がする。

 ところで、「形骸化したエビデンシャリズム」それ自体は、いつから・どの程度顕在化したかはともかく、いかにもありそうな話ではあると思っている。最近某所で話題になっている広島大学モニタリングの話とか分かりやすいんじゃないだろうか。

徹底した大学のモニタリング | 広島大学

2015-04-13

国民政府自由

マハトマ・ガンジーのように非暴力不服従を持ってすれば、自立した人間ないし民族はその自由を達することができる。しかし、それでは優遇を引き出すことはできない。反政府、すなわち左翼的活動化が暴力的になるのにはここに原因があり、彼らは権力から何か自分の欲する金銭ないし待遇を引き出したいのであるから、彼らは暴力に訴えざるを得ない。例えば、もし反原発を行いたいと思うならば、原発のないところに移住し、木製の風車を建て、あるいは自動車を発電に用い、更に節制でもってその生活を達すことはできる。そして、活動家はみなそこに移住すればよい。しかし、左翼的活動家の目指すところはそうではない。むしろ言葉暴力でもって政府攻撃し彼が意に沿わそうとするものである。また、もし在日朝鮮人において不当に彼らが搾取されているというのであれば、非暴力不服従でもってその身の自由を達することができる。しかし、実際には、日本人の3倍もの生活保護を輩出しており、すでに多大なる行政サービス恩恵を受けている。彼らにしてみれば過去日帝の悪行のため、朝鮮人優遇されるのは当たり前ということであろう。どちらも政府を彼が意に沿わそうとするものであり、言葉暴力でもって政府を徹底的に攻撃するものである政府なら侮辱しても構わないというのはおかしい。政府国民のものであるならば、政府への侮辱国民への侮辱に他ならない。

今日に至って、政府民衆のものであるならば、政府にも自由があらねばならない。元々強権を持っている組織であるから本来自由を持つはずであるしかし、現状、この政府の不活性さはどうであろう。幾つかでも抜本的な改革ができたのであろうか。国民主権憲法を土台にして、国民代表者もっと自由に振るうことが可能であって欲しい。国民主権を犯さな範囲において、政府もっと自由活発に活動できるのではないか。愚かな代表を選んだならばその責任国民が贖わなければならない。その上で、政府活動をより活発にするあるいは、われわれの政府自由について考える時期に来ているのではないか。そんなに議員民衆の声を聞く必要があるのか。国のため正しいと思ったことを行うための議員ではなかったか国民は一旦選んだならば、委任した以上これに口を挟まずその政治活動全てを任せ、自由闊達に事が進むようにしなければならないのではないだろうか。あるいはそういう信念をもった議員を輩出することについて考えるべきなのかもしれない。

2014-12-04

完膚なきまでに消滅した同人サークルの読者より

http://anond.hatelabo.jp/20141204170356

増田トラックバックをやるのは初めてなのでちゃんと出来てるかどうか……というのはさておき。

件の増田を読んでびっくりしてしまった。ぼくもムービーパラダイス同人誌を少し買ったことがあって、件の同人誌シリーズも入手し、その自由闊達な内容をとても楽しませてもらっていたからだ。

ショックだった。あのサークルにこんな悲劇があったなんて。

トピ主の愛憎がいかばかりのものか、どれほどの苦しみが生まれていたのか。それらについてはたかが一読者として類推することもできないしすべきでない。ただサークル参加者諸氏の安寧を——生還者がいらっしゃるならその平穏を——祈るのみだ。

ただ、元ネタ作品の装備類や作中内世界の情勢を推察したコーナーの素晴らしさも、ヨーヨーや異常発達筋肉人の狂気も、登場人物たちの過去やサイドストーリーを描いた文字通りの二次創作も……等しく見事だった、というのは主張させていただきたい。

そしてまた評論系の寄稿も、実は一巻目だけでなく他巻にもあったことを報告しておきたい。絶無ではなかったのだ。特に同人誌シリーズ三巻目に収録されていたある評論は、たいへん綿密な考察作品愛に溢れた逸品だった。

の、だが。

実はこの評論、かの元ネタ作品ではなく、同じ監督が撮った別の作品マシンスパイゼロクロー」※1の評論なのである……!!

こんなクソリプめいたトラバを書く理由がこれである。トピ主にとってこのマシンスパイゼロクロー評論はどのような評価(憎悪)の対象だったのか皆目見当が付かない。「評論は0、じゃねーじゃん」などと揚げ足を取りたいのではなく(取ってる場合じゃねぇだろこれ)、二次創作でさえないなにかに対してトピ主はどう反応したのか。

論外。それはわかる。論外にどう反応したのかが知りたいと書いている。頭割るとかページを口に突っ込むとかでは済まなかったのではないか。ビームバリアーなどの光線系攻撃まで持ち出したのではないか。陽電子を使った可能性さえ感じる。

言っておくが、これは荒らしトラバなどではなく(いや結果として荒らしになっていそうなのは謝罪するが)、現実に当該同人誌に他作品評論が載っかっていたのだ。クロスオーバーでさえない。懇切丁寧な(他作品の)評論※2が、ぽん、と載っている。この現実にぼくの正気度は著しく削がれた。もともと寄稿作品全般とも気が狂ってるか気が狂うほど素晴らしいかのどちらかだったにせよ、何かがおかしい。

否、おかしいのはぼくの方か。

それとも、もともとこの同人誌シリーズ自体が狂っていたのか。

もとよりある作品同人作品を作る、というのは一種の狂気だ。正気にては大業ならずとシグルイにも書いてある。それとも狂気を誘発できる力を持った作品同人を呼ぶのか。

そしてたまに、他者狂気自分狂気が噛み合わない、というような悲劇も起きるだろう。そこで相互理解せよとか平和が一番などとのたまうのは、恐らく当事者ではない側の傲慢になってしまう。

から「奴らにとっては、俺こそが怪物だったのだ」というが、恐らく、界隈には怪物でない人などいなかったのだと想像する。

ただ、どの怪物もぼくにとっては最高の傑物だった。

そのような方々が去っていったことを悲しむのみである。仲間割れイクナイ、などとは言えまい。ただただ悲しむのみ。


※1

次元を越えて善と悪のスパイ達が対決するという内容の痛快娯楽作。「スパイにとってごく平凡な武装であるビームライフルリフレクタービットと組み合わせて強攻撃にする」「三次元女性を恐れて二次元世界に逃げ込んだ気弱な敵幹部次元の果てまで追い詰める卑怯クルーズミサイル殺害する」「対人対拠点特化型メカゴ○ラ」「ショタ可愛い」などの奇想が話題を呼んだ。かの監督はこの作品の続編も撮りたいと意欲を見せているが、別の新作「ティアーズ・オブ・ザ・ムーン」「修学旅行血風録」などの撮影忙殺され叶っていない。

※2

ちなみに内容は、痛快娯楽作と目される同作が、それだけでなくより綿密な考証に支えられたSFであったと評するものであった。特にスパイ達を毛嫌いしていた外交官の娘の正体について、それは序盤から伏線が張られていたのだという指摘部分は、かなり強固なエビデンスも揃えられていて瞠目に値する。

※3

っていうか増田ってはてな記法脚注使えないんだっけ……。

2014-10-01

ぶっちゃけ子育て世代社員が増えると自由闊達さが無くなって全体的にギスギスしだすよね

子育てに入ると時間が無くなって余計なこと(=本人が「無駄」と感じること)をやりたがらなくなるから

ちょっと視点を変えて新しいこと考えてみようとか、突拍子もないアイデア検討してみようとかしなくなって、そういうことを言いだす人たちを目の敵にするようになる。

何か思いついても、絶対上手くいく保証がないと言い出せない雰囲気になるし、リスク取ることをサポートすることも嫌がられるようになる。

そうして組織が硬直化して、安全牌の仕事けが行われるようになる。

その状態で10年とか15年とか経って子供が手を離れて余裕が出てくる頃には、すっかり老害になってしまっているのでもう取り返しがつかない。

2014-02-08

傷つき慣れていないんです

部署異動で新入社員世話役みたいなとこに行くことになったんだけど超不安

新入社員ったって技術職で現場でしごかれてきた体育会系者であってオドオドビクビクな全くの未経験者なんかいない。

丁寧に書類の書き方からモノを教えて…みたいなことには十中八九ならない。それどころか逆にこっちの不慣れに対してガミガミ言って来る可能性が高い。

前任者の話を聞くに、事をスムーズに進めるにはとにかく彼らとある程度親しくなっておく必要があるらしいんだが無理すぎる。

当方体質の問題でアルコールは一切受け付けない。飲み会嫌い。人と打ち解けた話とかするのが苦手。空気←読めない。

役割演技的なやり取りなら何とかなる(カフェバイト店員として振る舞う場合みたいな、ある程度パターン化された接客業とか)が、もっと自由闊達コミュニケーションとかそういうのは無理。

いじりとイジメをほぼ同一視しちゃうタイプだし他人にどこまで踏み込んでいいかみたいなのが全然からない。自分が踏みこまれたくない派だから。家庭環境とかちょっとごちゃついてるし。傷つきなれていないんです。

しかしその部署で求められてる最終完成形はカーチャンとか親父的な「何でも知ってて気がついて陰での手配が早くてお小言も嫌がられないようにかつときどき尻ぬぐいも」みたいなタイプらしい。

声を大にして言いたい。

無理です。勘弁して下さい。

いやわかってる、やる前から無理無理言ってたら出来るものも出来なくなる、わかってる。まずは経験、まずは飛び込んで試行錯誤

それはわかってる。作業的な業務だったら喜んで飛びこむし試行錯誤する。

でも意志疎通的なやつだとキツイ。厳しい。ノウハウゼロだ。

PCで喩えればダブルクリック何だかからないというレベルで「人と仲良くなる」ことの何たるかがわかってない。その状態で試行錯誤とかありえないだろ。しかも相手がPCならどれだけ試行して錯誤しても文句は言ってこないが人間は違う。一回こじらせたらリセットが効かない場合の方が圧倒的に多いはずだ。

っていうかそもそも最終形がカーチャンて。無理だろ。他人のカーチャンのなり方なんてわかるか。人を叱るのだってキライなのに。

怖い。不安だ。こわいこわいこわい。

この際「配属後に失敗しないために」というハウツーが欲しいという心理を捨てたい。失敗はするものだし最悪病んで辞めるパターン覚悟したい。

不安をもうちょっと軽減したい。覚悟を完了したい。

…でもどうすればいいんだろう。イメージがまったくつかめない。

2012-04-02

社長、それは御無体だ

から会議ではかなり荒っぽい言葉が乱れ飛ぶ会社になった。

まずここさ、

なにが「だから」なのかさっぱりわかんないよね。

ここの繋がりが全然論理的でないことは議論が好きな人ならわかるはず。


1「自由闊達な議論を推奨する」ことも、

2「意見や提案を入念な議論で精査する」ことも、

3「かなり荒っぽい言葉が乱れ飛ぶ」ことを正当化はしないよね。

そもそも全然つながってねーし。

むしろ3は1や2を萎縮させかねないと思うけど。

そこんところを社長はどうお考えかお聞きかせ願いたい。

これは皮肉で聞いてるんじゃないから是非ご回答を。


形式的なものは一切重視しない、立場上下も無い。意見をひたすら出せ、戦わせろ。という会社風土には満足している。

荒い言葉が乱れ飛んでるって状況は

「自由で柔軟で風通しのいい社風」なんてものとは全く似て非なるものなのに

親分がそこを理解しないまま満足してるのはいけないと思う。


だいたい

俺は攻撃的な人間である

俺が論戦を挑む時はネガティブ意味合いはなく、ただ単にあらゆる側面から

これはすでに矛盾してることにお気づきだろうか。

「攻撃的」というのは議論のネガティブ要因の最たるものだ。

タフな議論が物凄く好きだし、12時間ぶっ続けで討議しても飽きないくらいの議論好きだ。

この性質自体は実用的な能力とは全然違うし、

むしろ他人と接するときにはほとんど「欠点」と言った方がいいことにお気づきだろうか。(個人的には同性質なんだが。)

その性質と仕事での議論を分別してないらしいところが大変危うい。

それで通ってきたのは偏にあなた社長という地位ゆえだ。

(そしてあなたに諫言出来る部下が居なかったゆえだ…)


ところで、最近新しく人を雇った。財務会計スペシャリストで、別の会社から引っこ抜いてきた。

一般的な観点から見れば、高い給料を払っている。会社の規模から考えれば、少々ムリをしたと言えるかもしれない。

しかし、この人材を動かしてみるともちろん専門領域では想定通りの有能さを見せるものの、

議論が成立しないのだ。「反論」を人格否定と受け取られてしまう。

あんたの会社は、

あんたの強引なパワーと、それに洗脳されて従順な子分達のインチキ合議制で運営されてる。

外部からいきなり入ってきた人はそりゃ馴染めないはずだ。一人だけ洗脳受けてないのだから


そして、自分の専門領域以外では一切の発言をしない。

まあこれは一般的に経理マンの特徴って面もあるかもしれない。


俺は、部下の職務内容は100%理解しておきたい人だ。

「私は」。「人間」。「です」。でしょ。

そもそも言葉いからだけでもあんたの独りよがりナルシシズム過多な性格が読み取れるんだよ社長

増田の気安さを差し引いても。

全文そうだけど。


そういうのも会社の推進力になるのかもしれないし

しかしたらそれはあんたの才能なんだろうけど

自分性格の負の面は常に考慮に入れて、自制すべき場面では自制しろよ。

してるならいいけど、あんたの文読むとしてなさそうに思える。


から、彼が提出して来たレポート企画書にも、細かく質問意見を出す。わからないところは教えろと言う。

彼はこれが煩わしいようなのだ

これは無理だよ・・・。

専門分野について知識の土台すらない人に100%の説明するのは不可能だ。

ごく浅い説明をもっともらしい口調でやる、素人騙しなら出来るけどね。

それをやらないだけ誠実な人だよその人は。


社長さんが本気で経理財務を、経験豊かなスペシャリストと同じぐらい把握する気なら、そのガッツはいいと思う。

けど、それならまず最低限として簿記1級をとってもらわないといけない。

それぐらいの労力投下をしたうえで「さあ教えろ」って言うならまだ対等なやり取りといえる。

でももし、自分は経理の知識ゼロのまま「すべて把握させろ」っていうなら

それはそもそも不可能な話の上に、相手にだけ負担押し付けててフェアじゃない。


ウチの会社ジェネラリストっていうか、専門的な職能を持たない人間って社長の俺しかいないんだからさ・・・。

我が社は、誰かが提案を上げて来たら、他のメンバー全てがその提案の粗を探す。

徹底したブラッシュアップを図る。ミーティングは闘争的にやれ、つまらない会議するくらいなら帰れ。

これは余計なお世話だが、

小さい新しい会社ならそのやり方もいいけど、

大きくなればどっち道その制度は持たないと思う。

大会社から経理マンを連れてきたのを見ても、そろそろ過渡期なんじゃ?


確かに、自分の専門領域にケチつけられるのは不愉快かもしんないよ。でも、ウチってそーいう会社で、別にみんな

あなたが憎くてバシバシ議論振って来てるわけじゃないのよ。むしろ、あんたを尊重しているから矢のような質問と反論が来るのよ。

内容にもよるけど、

ほとんどの場合は、

経理実務の話に簿記すら理解してない人から「矢のような質問」をされても閉口するだけだと思う。

その場で時間とって簿記講座から始めるんなら別だけど。


論戦と人格否定は違うし、それは全くかかわりないってことを、どうやったら理解してくれるんだよ・・・。

それが別個のことだと理解してるなら、

まず「かなり荒っぽい言葉が飛び交う」状況は改善すべきだと思う。

それで喧嘩にならずに済んでるのは単に、怖い親分がトップに居るから&全員親分のイニシエーション済み子分だからで、

よその水で育った人(つーより社長んとこの水で育った人以外すべて)にそれは通用しない。


ウチの会議のやり方には慣れてくれ・・・。ウチでは合意と意思疎通のためだけのミーツは一切やらないんだよ。会議は常に議論なんだよ・・・。

まとめるよ。

専門性の高い分野について、実務家と素人の間に「議論」は成り立たない。どんなに素人達が「議論」のつもりでも。

・そもそも社長のところの「議論」の健全性はかなり怪しい。

・本気で部下の仕事を100%把握する気なら、会社が発展すればするほど寝てる暇なんかなくなる。睡眠時間勉強をすべき。


あと最後質問だけど、

社長はこういう突っ込みを部下から受けたことはある?



突っ込みばっかり書いたけど、

飲み会免除とか、社長なりにその人に気を使ってるとか、よき上司であろうっていう配慮はわかってるよ。

http://anond.hatelabo.jp/20120402024538

2011-08-19

日本数学事情

日本から天才が出たことがないし、修士博士は、数学天才ではなく、数学の知識があるだけのオタク。仮に数オリ受賞者が研究やってても何も成果が出たためしがない。面白い学問なのに、末路がただ知識ばっかり多い評論家で終わるのが悲惨ペレルマンみたいな自由闊達研究者になって七大難問を解き、フィールズ賞・・・ということにはならない。ただの数学小説家

2011-08-07

http://anond.hatelabo.jp/20110807190149

「今でもあるのか」とか言ってるけど、現在年齢五十代から上くらいの世代のスタンダードからね。

社会に出ればそういう年齢の人とかそういう年齢の人の洗礼を受けた人とかいくらでも居る。

むしろ今そういうのがまったくない場所なんて本ッ当に限られていると思いますよ。

自由闊達個を尊重が最大限許され得る大学キャンパスにさえあるからな。

服が似合わないとか遊びを覚えたってのは問題ではない。

金髪にしてクラブ通いするのとゆるふわパーマフランス語教室に行くのとに本質的な差はない。やりたくてやってるんなら同じこと。

前の友達と付き合いが浅くなったのも、その「前の友達」側の事情もあったりするし一概にどうこう言うことではない。

ただ外部というか周囲の価値観に振り回され過ぎてやしないか

「あれがイイこれがイイ」ではなく「あれできてないのはダメ、これやるのはダメ」で判断してないか

それで身体・精神ともに健康を害しつつあるのではないか

その辺だけお兄ちゃんは気にしてますよってほのめかすくらいでいいんじゃないの。どうこうしろと言うんでなくて、ただ気にかけてるよ、とそれが伝わる程度。

くだくだ説明すんじゃなくて「無理すんなよー」みたいなじゃれる感じの一言でいい。

或いは「あれできてないのはダメって言う奴いるけど、俺はそうは思わない」という風に、別の価値観があることを示してみるとか。本でも勧めるとか。

ちなみに周りを全部切って暮らす方法はとても楽。本当に楽ですこれは。何でも、なーんでも好きなようにしていい。

たった一点、「ぼっちってみじめ」的な価値観を乗り越えられさえすれば。

2010-08-26

議論するなら2ちゃんねるよりTwitterのほうが向いている

別のタイトルを考えていたけど、文字数オーバーだったから釣りっぽくこっちに。

さて、つい今し方、「 議論するならTwitterより2ちゃんねるのほうが向いている - A Successful Failure」というエントリを見たのでその反論。

http://d.hatena.ne.jp/LM-7/20100825/1282742633

まずこの方の意見をまとめると

つぶやきツールとして設計されたTwitterはそもそも議論に向いていない。議論は分散しがちで、2ちゃんねるに比べて知の集積の効率は悪い。

ということらしいけど、その結論に誤りがあるのはそれぞれのアーキテクチャに対する認識が甘すぎることによる。

集合知に必要な四つの要件

上の人はスレッドが1000レスで打ち切られることを重く見ているようだけど、そのことは本質にはまったく関係がない。

一番重要なのはいうまでもなく、議論の性質である。

2ちゃんねるは完全に匿名であり、場合によってはIDすら表示されないことがある。当然それぞれの書き手のバックグラウンドは互いにはわからない。

J.スロウィッキーはかつて「集合知が発生するためには、意見の多様性、独立性、分散性、集約性の四つの要件が満たされる必要がある。」と書いた。

つまり、不特定多数意見を言い合う場を有意義なものとするためには、これら四つが必要である。が、2ちゃんねるにおいてはそれらが充分に確保されていない。

一つずつ見ていこう。

意見の多様性

2ちゃんねる匿名であるがゆえに自由に意見を提示できると思われがちだが、実際には見えない大きな力に左右されていることが多い。

上の人の紹介する『アーキテクチャ生態学』にも書かれてあるとおり、2ちゃんねる集団主義/安心社会型のソーシャルウェアである。それが個人主義/信頼社会型である欧米2ちゃんねるのような匿名掲示板流行しないゆえんであろう。

歴史的に見れば、2ちゃんねる匿名であるがためにお互い空気を読みあって秩序を保っていく必要があった。そのために、AAコピペ等の内輪の文化を醸成させ一体感を求め、部外者を排除してきた。

このような文化的背景と匿名という性質からは突出したオリジナリティーは出しにくく、自然プレイヤーは均一化されるため、多様性が認められることは少ない。

意見独立性(他者の考えに左右されない)

これも2ちゃんねるの集団的性質に依拠する。2ちゃんねるは個をエンパワーメントさせるものではなく、むしろ発言者を反撃不可能な安全地帯の中に埋没させる。

そこでは見えない多数派の意見が支配的となり、少数派はその渦の中に巻き込まれ、自らも多数派の意見同調するかもしくはその場を去ることを余儀なくされることになる。

例えば、「ニュース速報」板においては、斜に構えた反社会的意見が多数派とされる。そこで社会経験豊富な大人がまっとうな意見を書き込んだとしても、そんな豆粒のような匿名の書き込みは大きな流れの中ではまったく注意を喚起しない。

繰り返すが、匿名掲示板は個人が主張を行うためのものではない。

意見の分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)

ネットの性質上、プレイヤーはそれぞれまったく異なる環境に身を置いているため、分散性は確保されていると言えるかも知れない。

ただ、それにより意見が対立した場合は、支持者とアンチというように単純に二極化され、無意味レッテル張りと根拠のない中傷により議論はさながら罵倒合戦の様相を呈すことになる。

意見の集約性(個々人の判断を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズム存在)

意見の集約に関してはいわゆる「コピペブログ」であるとかスレ冒頭のテンプレなどが存在しているが、それらの書き込みはいうまでもなくある個人によって我田引水な思考によって選抜されており、その者の主張を多数の意見引用によって代弁させているにすぎない。

また、そういった悪意がなかったにせよ、少数派の意見吟味されることは稀であり、多数派の意見を流れに沿ってまとめているだけに過ぎない。

このように、2ちゃんねるはそのアーキテクチャ上の制約により到底自由闊達意見の場であるとは言えない。

このアーキテクチャにおいて、議論は不可能だ。そのために2ちゃんねる時代遅れになっているのは否めないが、断続的に情報提供されている事に関しては充分に利用価値がある。

実際にコピペブログを閲覧するにしても、ニュース系やアニメゲーム感想系の「議論によって充分に洗練されていない素人的で極端」な“意見”は毛ほども参考にならないが、VIPや専門板の豆知識には膝を打つことも多い。

Twitterアーキテクチャ

本来的には「つぶやきツールとして設計されたTwitter」は議論に向いていない。

けれど、日本で使用されているtwitter本国のそれとは異なっている。

周知の通り、同じ140字の文字でも日本語では英語に対して2から3倍の内容を詰め込むことができる。アメリカではマイクロブログとしての利用が主だが、日本では一つ一つがブログエントリそのものである。

多くの人が一つないし二つのツイートでその主張を完結させている。

そしてそれに対してリプライすることで相互のコミュニケーションは可能となる。

ネットの利点と言えば不特定多数の人とコンタクトできることであるが、人間の脳リソースには限界があり、数百人に及ぶ意見を公平に処理することはできない。

ぶっちゃけて言えば、多くの人の意見は取るに足らない。集合知を発生させるために多くの意見を集約させ平均化させることができればそれが理想だが現実には不可能だ。有意義に議論するためには発信者側がその反論者を取捨選択しなければならない。

そのため、過去の発言をさかのぼって優秀な書き手を選び取れるブログtwitterに勝るツールはない。

また、同様にハッシュタグを用いて広範な意見を取り入れる必要もない。有識者は同じく前提知識を持つものと生産的な議論を続ければいいし、それがtogetterという形で世に出ることで公共の財産となる。

私は私で、同じレベルの人と有意義に議論することに努めたい。頭のいい人の効率を下げたくないし、馬鹿に重箱の隅をつつかれて妨害されたくもない。

まとめ

2ちゃんねるアーキテクチャに支配されている限りは独自性のある意見をいうことはできないので議論には不向き。アトランダムで単体の情報の仕入れ先にすべし。

Twitterは万能ではないが、建設的な意見を交換し合うことに関しては分がある。

2010-03-21

http://www.asahi.com/paper/editorial20100321.html?ref=any

生方氏解任―幹事長室に風は通らない

 愚挙としか言いようがない。

 民主党が、生方幸夫幹事長の解任を決めた。産経新聞に掲載されたインタビューで、生方氏が小沢一郎幹事長らを批判したからだという。しかし、解任までしなければならないような発言内容とは考えられない。

 生方氏は、小沢氏の政治資金の問題について「しかるべき場所できちんと説明するのが第一。それで国民の納得が得られなければ自ら進退を考えるしかない」と述べた。当然の見識だ。

 「民主党の運営はまさに中央集権です。今の民主党は権限と財源をどなたか一人が握っている」とも語った。

 皮肉まじりの辛口発言ではあるが、的外れ言いがかりではない。

 小沢氏が選挙の公認権と政党交付金などの配分権を握っているのは紛れもない事実だ。元秘書ら3人が逮捕起訴されても、党内から小沢氏批判の声はなかなか上がらない。陰では「小沢独裁」への不満が高じているのにだ。

 解任の理由は、発言の中身というよりも、副幹事長職にありながら党外で執行部を批判した点にあるらしい。そこにいささかの傷を認めるにしても、処分の重さはいかにも均衡を欠く。

 生方氏はかねて幹事長室への権限集中に異を唱えてきた。小沢氏が廃止した政策調査会の復活をめざす会も立ち上げ、鳩山由紀夫首相小沢氏に直接訴えてきた。

 それが気に障るから今回の挙に出たのだとすれば、常軌を逸している。「言論封殺」との批判を免れまい。

 首相も解任に同調しているようだ。内部からの批判を許容しない体質に、実は首相も染まっていたのだろうか。見識を疑う。

 生方氏解任を主導したのは、小沢氏に近い高嶋良充筆頭副幹事長だった。小沢氏は高嶋氏に「円満に解決できないのか」と語ったが、結局は「任せる」と応じたという。

 上に立つ者が考えを示さなくても、下の者がその意向を忖度(そんたく)し、成り代わって行動する。意に沿おうと思うあまり、度を越すことも多い。抜きんでた権力者と、その取り巻きがしばしば見せる典型的な「側近政治」である。

 それによって昨今の民主党は、風通しが悪く、暗い印象が強まるばかりだ。自由闊達(かったつ)を旨とする「民主党らしさ」はすっかり色あせた。

 かつて自民党全盛時代の幹事長室は多くの来客が自由に出入りし、「歩行者天国」と言われることすらあった。自民党でも幹事長をつとめた小沢氏がそれを知らないはずはない。しかし、いまさら氏に改心は期待できまい。

 党風を刷新するなら、内側からマグマが噴き上げてこなければならない。もう待ったなしのタイミングである。それができなければ、さしもの民主党への追い風もやむことだろう。

朝日が珍しく正論吐いてるな。しかも産経元ネタにしている。

2010-01-04

http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010010301000147.html

鳩山内閣議事録残さず 政治主導の検証困難

 鳩山内閣政治主導の舞台としている閣議や閣僚懇談会、閣僚委員会、政務三役会議議事録を基本的に残さない方針を続けている。「議事録作成が前提となれば政治家同士の自由な意見交換が妨げられる」との理由だが、関係者からは「政策決定のプロセス歴史的に検証できない」と懸念する声も出ている。

 鳩山内閣では各府省ごとに閣僚、副大臣政務官の「政務三役」が政策を立案し決定。複数の府省にまたがる重要課題担当閣僚で「閣僚委員会」をつくり調整するなど、官僚に関与させない仕組みだ。

 閣議や閣僚懇談会については旧政権下でも議事録を残していなかったが、これには事務次官会議で事前に発言内容を調整していたという背景もある。鳩山内閣では事務次官会議を廃止したため、閣議での発言はこれまで以上に政策決定の上で重要意味を持つのは間違いない。

 平野博文官房長官議事録作成に否定的な意向を示し「自由闊達意見を述べてもらい方向性を出していく場だ」と強調。「記者会見や背景説明により、透明性を確保できる」との立場を崩していない。

事あるごとに閣僚が「○○と言った」「いや言ってない」でいちいち揉めてる遠因ってこういう事情も絡んでるんじゃないかな。

2009-08-31

民主党政策INDEX2009より

民主党政策INDEX2009より。

http://www.dpj.or.jp/policy/manifesto/seisaku2009/index.html

気になった事項を抜粋。

個人的に、法務政治改革が危ない気が。

内閣

靖国問題国立追悼施設の建立

靖国神社A級戦犯が合祀されていることから、総理や閣僚が公式参拝することには問題があります。何人もがわだかまりなく戦没者を追悼し、非戦・平和を誓うことができるよう、特定の宗教性をもたない新たな国立追悼施設の設置に向けて取り組みを進めます。

子ども男女共同参画

・月額2万6000円(年額31万2000円)の「子ども手当」創設

次代の社会を担う子ども一人ひとりの育ちを応援する観点から、所得税の扶養控除や配偶者控除を見直し、子ども手当を創設します。子どもが育つための基礎的な費用(被服費、教育費など)を保障するため、中学校卒業までの子ども一人あたり、月額2万6000円(年額31万2000円)を支給します。

性的虐待性的搾取から子どもを守る

子どもたちを性的虐待性的搾取から守るため、児童買春・児童ポルノ処罰法を改正します。

児童ポルノ定義の明確化、児童ポルノ取得罪の新設、罰則の全般的引き上げと対象範囲の拡大、被害にあった子どもたちに対する保護規定の見直しやフォローアップ体制確立などを図り、実効性ある内容に充実させることを検討します。

消費者

危険情報公表法の制定

自動車回転ドア公園遊具など、消費者に危害を及ぼすおそれのある製品・物品等に関する情報について、消費者の立場に立って企業に公開を義務付ける「危険情報公表法」を制定します。これにより、一般消費者には製品等の危険情報が迅速に提供され、被害の発生を防ぐことができます。

行政改革

霞が関改革・政と官の抜本的な見直し

与党議員が100人以上、大臣副大臣政務官等として政府の中に入り、中央省庁の政策立案・決定を実質的に担うことによって、官僚の独走を防ぎ、政治家霞が関を主導する体制を確立します。なお、政・官の癒着によって公正であるべき行政が歪められることがないよう、政治家官僚の接触に関する情報公開など、透明性確保のための制度改善を図ります。また各省設置法のあり方を抜本的に見直し、内閣の意思によって柔軟かつ機動的な省庁再編を可能とするよう改めます。

政治改革

政治資金の透明化

政治に対する国民の信頼を回復するため、政治資金の実態をガラス張りにして国民の監視のもとにおきます。

具体的には、(1)政治団体普通預金等や保有する現金の残高を収支報告書に記載させる(2)政党本部や政治資金団体の収支報告書に対する外部監査を義務付ける(3)インターネットによる収支報告書の公開を総務省等に義務付けるとともに政治団体総務省等が収支報告書等を保存する期間を延長する(4)政治団体領収書等を保存する期間を現行の3年から5年に延長する――などを含む、政治資金規正法改正を行い、政治資金の透明化を強く推進します。

衆議院の定数80削減

政権選択の可能な選挙を実現するため、小選挙区選挙をより重視する観点から、衆議院の比例議席180中、80議席を削減します。

また、1票の較差拡大の原因となっている「基数配分」(小選挙区割りの際にまず47都道府県に1議席ずつ配分する方法)を廃止して、小選挙区すべてを人口比例で振り分けることにより、較差是正を図ります。

インターネット選挙運動解禁

政策本位の選挙・カネのかからない選挙の実現、候補者有権者との対話促進などを目的として、インターネット選挙運動を解禁します。

民主党2006年の164回通常国会に提出した「インターネット選挙運動解禁法案」を成立させ、政党候補者に加え、第三者もホームページブログメールインターネットのあらゆる形態を使って選挙運動ができるようにします。インターネット導入に伴って予想される不正行為に対しては、(1)誹謗・中傷を抑制するためにホームページ等を使って選挙運動をする者の氏名・メールアドレスの表示を義務付ける(2)「なりすまし」に対する罰則を設ける――など、きめ細かな対応策を講じます。

・永住外国人地方選挙

民主党は結党時の「基本政策」に「定住外国人地方参政権などを早期に実現する」と掲げており、この方針は今後とも引き続き維持していきます。

法務

国籍選択制度の見直し

国籍容認へ向け国籍選択制度を見直します。

日本では1984年国籍法改正により「国籍選択制度」が導入され、外国人との結婚外国での出生によって外国籍を取得した日本人は一定の時点までに日本国籍外国籍のいずれかを選択することとなりました。法改正以後出生した者がその選択の時期を迎えており、就労や生活、父母の介護などのために両国間を往来する機会が多い、両親双方の国籍を自らのアイデンティティとして引き継ぎたいなどの事情から、重国籍を容認してほしいとの要望が強く寄せられています。こうした要望を踏まえ、国籍選択制度を見直します。

人権侵害救済機関の創設

人権侵害を許さずその救済を速やかに実現する機関を創設します。

民主党2005年の162回通常国会に提出した「人権侵害による被害の救済及び予防等に関する法律案」(人権侵害救済法案)では、内閣府の外局として中央人権委員会、各都道府県地方人権委員会を設置し、人権侵害に係る当事者への助言・指導などの一般救済手続きと調査・調停仲裁等の特別救済手続きを行うことができるよう定めています。報道機関による人権侵害については特別救済手続きの対象とはせず自主的救済制度をつくる努力義務を定めています。

人権侵害の救済へ向け国際機関への個人通報制度を導入

人権侵害の救済機会を広げるため、国際機関に対し個人が直接に人権侵害の救済を求める制度(個人通報制度)が適用されるよう、政権獲得後速やかに関係条約の選択議定書の批准等の措置をとります。

個人通報制度を規定する人権条約には、女子差別撤廃条約選択議定書、自由権規約選択議定書、拷問禁止条約22条、人種差別撤廃条約14条があります。

●外務・防衛

日韓両国信頼関係の強化

東アジア世界の安定と平和寄与するために、日韓両国信頼関係を強化します。

韓国は、6者協議の当事国でもあり、良好な日韓関係の再構築は、北朝鮮による拉致・核・ミサイル問題の解決はもちろん、朝鮮半島平和と安定のために重要です。東アジア世界の安定と平和寄与するため、両国信頼関係を強化し、さらに日韓中3カ国の強力な信頼・協力関係を構築していきます。日韓FTA締結や竹島問題の解決等に取り組みます。

自衛権の行使は専守防衛に限定

日本国憲法の理念に基づき、日本および世界平和を確保するために積極的な役割を果たします。自衛権は、これまでの個別的・集団的といった概念上の議論に拘泥せず、専守防衛の原則に基づき、わが国の平和と安全を直接的に脅かす急迫不正侵害を受けた場合に限って、憲法第9条にのっとって行使することとし、それ以外では武力を行使しません。

農林水産

農業者戸別所得補償制度の導入

米、麦、大豆等販売価格生産費を下回る農産物を対象に農業者戸別所得補償制度を導入します。この制度は、食料自給率目標を前提に策定された「生産数量目標」に即した生産を行った販売農業者(集落営農を含む)に対して、生産に要する費用(全国平均)と販売価格(全国平均)との差額を基本とする交付金を交付するものです。交付金の交付に当たっては、品質流通直売所等での販売)・加工(米粉等の形態での販売)への取り組み、経営規模の拡大、生物多様性など環境保全資する度合い、主食用の米に代わる農産物米粉用、飼料用等の米を含む)の生産の要素を加味して算定します。これにより、食料の国内生産の確保および農業者の経営安定を図り、食料自給率を向上させ、農業の多面的機能を確保します。

●文部科学

教育の無償化

高等学校希望者全入とし、公立高校授業料無料化、私立高校などの通学者にも授業料を補助(年12万~24万円程度)します。この内容を具体化した「高校無償化法案」は参議院で可決されましたが、引き続き同法案の成立を目指します。

義務教育就学前の5歳児の就学前教育の無償化を推進し、さらに漸進的に無償化の対象を拡大することによって、保護者教育費負担の軽減を図ります。

経済産業

中小企業支援予算3倍増

中小企業支援予算の大幅増加を実現します。現在中小企業対策予算に加えて、最低賃金の引き上げに対応した中小企業支援のための財政金融上の措置にかかわる予算中小企業研究開発力の強化のための予算などの確保に努めます

●厚生

中国残留邦人支援

老齢年金の満額支給や生活支援給付の実施を定める改正中国残留邦人等自立支援法が、民主党も含めた超党派の働きかけにより2007年成立しました。旧満州(現中国東北部)で終戦を迎え、親と死別・離別した日本人孤児など中国残留邦人に対する支援策を盛り込んでいます。民主党は改正法の実施にあたって、生活支援の収入認定について2世・3世と同居する者が不利にならないこと、残留邦人等が死亡した場合は配偶者も生活支援の対象にすること、医療支援については医療機関の選択を認めること等、きめ細かい運用を図ります。

労働

若者雇用就労支援

雇用失業情勢の悪化に伴い、派遣労働者を含む多くの非正規労働者が職場を追われ、ネットカフェ等で寝泊りしなければならない人が増加しています。この状況を改善するため、「住まい仕事の確保法」を制定し、住居がなく、安定した就職が難しい若者等に対して、ハローワーク自治体企業連携のもと、カウンセリング職業紹介、職業訓練賃貸住宅への入居などを支援します。

自立を希望する若者が安定した職業に就けるよう、(1)「若年者等職業カウンセラー」による職安での就労支援(2)「個別就業支援計画」の作成などによる職業指導(3)民間企業での職業訓練――等を行います。必要に応じて就労支援手当(1日1000円、月3万円相当)を支給します。

教育機関企業・国・自治体連携して、職業体験学習企業見学インターンシップなどを行い、若い世代の就労意欲の向上を図ります。

最低賃金の大幅引き上げ

まじめに働いた人が生計を立てられる水準まで最低賃金を着実に引き上げます。2007年に成立した改正最低賃金法には、民主党の修正提案により、「労働者健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう」との文言地域最低賃金の原則に加わりました。中小零細企業最低賃金の引き上げが円滑に実施されるよう財政上・金融上の優遇措置を実施します。そのうえで、最低賃金を全国平均1000円まで引き上げることを目指します。

●国土交通

高速道路無料

高速道路は、原則として無料とします。これにより、(1)生活コスト企業活動コストの引き下げ(最大2.5兆円の国民負担の軽減が可能、家計消費増や企業設備投資賃金引き上げ等で内需拡大)(2)地域活性化(生活道路地域道路としての利用、サービスエリアパーキングエリア活用を含む観光産業活性化など)(3)温暖化対策(渋滞の解消・緩和、CO2の発生抑制など)(4)ムダづかいの根絶(バイパス建設抑制による財政負担の軽減など)――を図ります。

首都高速阪神高速など渋滞が想定される路線・区間などについては交通需要管理(TDM)の観点から社会実験(5割引、7割引等)を実施して影響を確認しつつ、無料化を実施します。

実施に当たっては、道路会社の職員の雇用首都高速阪神高速株主たる自治体の理解、競合交通機関への影響及び交通弱者等に対する十分な配慮を講じます。

交通基本法の制定

交通基本法」を制定し、国民の「移動の権利」を保障し、新時代にふさわしい総合交通体系を確立します。

その内容は、(1)国民の「移動の権利」を明記する(2)国の交通基本計画により総合的な交通インフラを効率的に整備し、重複による公共事業のムダづかいを減らす(3)環境負荷の少ない持続可能な社会を構築する(4)都道府県市町村が策定する地域交通計画によって地域住民のニーズに合致した次世代型路面電車システム(LRT)やコミュニティバスなどの整備を推進する――等です。

憲法

・国民の自由闊達憲法論議を

憲法とは公権力の行使を制限するために主権者が定める根本規範である」というのが近代立憲主義における憲法定義です。決して一時の内閣が、その目指すべき社会像や自らの重視する伝統価値をうたったり、国民に道徳や義務を課したりするための規範ではありません。民主党は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という現行憲法原理は国民の確信によりしっかりと支えられていると考えており、これらを大切にしながら、真に立憲主義確立し「憲法は国民とともにある」という観点から、現行憲法に足らざる点があれば補い、改めるべき点があれば改めることを国民の皆さんに責任を持って提案していきます。民主党2005年秋にまとめた「憲法提言」をもとに、今後も国民の皆さんとの自由闊達(かったつ)な憲法論議を行い、国民の多くの皆さんが改正を求め、かつ、国会内の広範かつ円満な合意形成ができる事項があるかどうか、慎重かつ積極的に検討していきます。

最後の憲法自民が過半数以上の今なら、国民投票憲法が改正されることもあるのかな。

てか、財源どうすんだろ。

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