そうだね。原因をつきとめて、同じ失敗はしないようにするのが建設的だね。
低学歴の負の連鎖(親が低学歴な場合の多くは子どもの教育に無関心)
とかけっこう言われるけど
印象論ばかりで、きちんと論拠を持って検証したのはあんまし見かけないね
実際のとこどうなんだろ
あい、帰ったら風呂入って寝るだけだから暇ー
雇用の流動化が必要だというと、「人々の不安が増す」とか「モチベーションが下がって生産性が落ちる」いった批判がよくある。たしかに会社という繭にくるんで、すべての人をやさしく守ることができれば理想だろう。戦後の一時期には、それが実現したと錯覚された時代もあった。しかし残念ながら、もはやそういうユートピアは失われたのだ。
今われわれが直面しているのは、福沢諭吉以来の「個の自立」という問題である。『福翁自伝』などを読むと、100年以上前の本なのに不思議に単純明快でわかりやすい。本書は、その「新しさ」をハイエクなどオーストリア学派のリバタリアンに重ねて解釈したものだ(絶版)。
ハイエクは福沢の死んだ年に生まれたので、福沢が影響を受けるはずはないが、両者には共通点がある。それは若いとき、ヒュームやミルなどの古典的自由主義の影響を強く受けたことだ。そしてハイエクにとって社会主義との闘いが個人の自由への信頼を生んだように、福沢の場合も「門閥制度は親の敵」という儒教的秩序との闘いが生涯のテーマだった。
福沢以来、丸山眞男や大塚久雄に至るまで、個の自立は日本の知識人の見果てぬ夢だった。しかし今われわれの見ているのは、福沢が生涯をかけて闘った封建的秩序が自壊し、ゾンビ化した状態である。そこに出てきたのは自立した個人ではなく、帰属する集団を失って自殺する失業者と、家族にも見捨てられた「消えた老人」だ。雇用が流動化すると、こうしたストレスはさらに増えるだろう。
本書も指摘するように、福沢のいう「情愛」を排除して論理のみによって人々が結びつく社会は、彼のような強靱な知性の持ち主でなければ耐えられない。テイラーのような北米の人々が近代に築き上げた人工的コミュニティが崩壊して個人主義が強まることを危惧するのとは逆に、日本では近代以前から継承してきた「強い中間集団」が有効性を失う一方、人々は北米型の「強い個人」にはなれないのだ。
しかし福沢以外の道はあるのだろうか。北一輝は個人主義を超克する国家社会主義を提唱し、日本浪漫派は近代的自我を否定して「近代の超克」の道をさぐったが、それは破滅への道だった。戦後の日本的コーポラティズムの意外な成功は、欧米的な個人主義を経なくても繁栄できる「東アジアモデル」を示したように見えたが、それも幻想だった。
いま日本の陥っている袋小路を脱却する道は、おそらく福沢のいう「独立自尊」しかないだろう。われわれは市場経済によって得た富を捨てることができないからだ。そして組織を守ることによって個人を守るのではなく、古い組織を淘汰して社会によって個人を守るシステムに変えるしかない。福沢は、今なお新しいのである。
皮肉じゃなかったのか。すまん。
愛されないし甲斐性もないから心を開いて同情を買ったり共感を得ようとしてみたりするんだが結局愛されないし甲斐性もないので別にどうにもならんのよな。いい年こいて仕事して酒飲んでネットして寝るばかりだ。ああ酒飲めるから幸せか。死ななきゃ幸せだ。でも早死にするだろうな俺。不幸ではないな。他人の愛がないだけだ。いや愛はなくなないか。恋がないだけか。恋はなくてもいいや。ちゅーとかもういいし腰も痛いし好きでもなんでもない女の横に座ってもドキドキはするし。なんだ。なんだろな。一生分信頼されたい。
ホストクラブとかも行ってはみたいんだけどね。どっちかというと人肌とかじゃなくて話のネタづくりのために行く感じになりそー。
オイルというか精油(アロマオイル)。アロママッサージっていえばよかったかな。うまく伝えられなくてごめん。
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・一般のマッサージでは(店に着替えがあっても)服着たままだけど、
アロマだと直接肌を触られるから「マッサージしてくれてる」感がすごく大きい。
・一般のマッサージ点では「指圧」が多いので施術者の上手い下手によってはむしろ「痛てえよ、揉み返しくるよ」となるが、
アロマだと滑るようなマッサージなので施術者の上手い下手があっても自分の身体へのダメージが少ない。
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あと、どっちかというと一般のマッサージ屋は、店と人によっては軽く整体っぽいことをやってくれたりするから
「健康になりに行きますよ!元気ハツラツオロナミンC!」って感じで、「人肌恋しいとき」に行くのはちょっと本格的すぎるかなというか。