はてなキーワード: レトリックとは
論文でも指摘されてた
そして少女表象 https://core.ac.uk/download/pdf/267829539.pdf
彼の描く女性の成熟と堕落を軸に展開してい る点だ。 これらの女性達は南部の人種・階級及びジェンダー観に則っており、 その意味 で彼女達はリアリスティックに再現 (前) された南部の女性像というよりは、 寧ろ特定 のイデオロギー的偏向そのものとして表象される。 従って彼女達は一般的な意味で「リ アル」な存在としては描かれない。 その身体性はしばしば捨象され、 イメージと感覚的 形容の集合体として提示されるか、 或いは逆に過剰で耐え難いまでに強調されて前景化 される。 その意味では、 フォークナーの世界に登場する女性とは、 殆ど常にこうしたイ デオロギー的歪曲の対象であると同時にその効果である。 換言すれば、 それはフォーク ナーの幻視するアナクロニスティックな南部という、 客観的には存在しない不在の「欲 望の対象」である。 それ故彼女達は所謂 「リアリズム小説」 の規範に則って、 キャラク ターとして十全に表象されることはなく、 寧ろある種の象徴や記号として存在する。 そ の意味で、 フォークナーの女性/他者表象は常に失敗を運命づけられているとも言える。
本論はそのような 「表象の失敗」 としてのフォークナーの女性像に焦点を絞って、 作 家のアメリカ南部創出と喪失のレトリックについて、 特に彼が創造した少女像を採り上 げて議論する。 フォークナーが描く少女達は、 作中の男性キャラクターにとっては永遠 に手の届かない存在として崇拝され或いは憧憬の対象とされるが、 一方でしばしば彼女 達は、 南部の社会的規範に照らして不適切な形でその処女性を、 しかもしばしば不用意 な形で喪失する。 彼女達を取り巻くこの皮肉な矛盾に満ちた状況に、 女性のセクシュア リティに対する作家の一種の強迫観念を見ることが出来る
https://anond.hatelabo.jp/20240220182530
cinefuk
この人とか本当に読解力が無いってことを自覚したほうがいい。
悪口で言ってるんじゃなくて本当に無い。
まともな読解力のある人なら元増田の文ぐらいなら一目パッとでニュアンスを掴む。
あこれは文章力についての自説を開陳して「ボクすごい」と言うための文だなと。
暇空は自分語りのダシに使われてるだけ。最初と最後にしか出てこない。
どうせ文読めない奴だらけのはてなブックマークで何故殊更cinefukさんのコメントを問題にするかといえば、
はてブに多いタイプは「全体を読むのを放棄して部分の単語だけ拾って内容を想像してコメントする」って連中だから。
(これは冗談じゃなくて、こういう感じでコメントしてる奴が何割かいる。)
でもそういう奴ですら今回のcinefukさんみたいな読解ミスはしない。
cinefukさん本当にすごい。
「短い文でも通して読めずに部分読みする奴」ですら元増田の文読んで暇空ヨイショだとは思わない。
何故かと言うと元増田の文は部分で読んでも冒頭だけ読んでもあんまり暇空褒めてないから。
全体的に良くも悪くも平易な口語体で書かれており、自伝・エッセイの文章としては平凡というか平均レベル。
少なくとも「他人に読ませる」事を意識した文章ではあったので読んでいて文字で目が滑るとかげんなりする、等といった事は無かった。
開幕でこれだぜ?
これがあのXで暇空さん暇空さん言ってるちいかわみてえな心酔フレンズの感想に見えるのか?
この点は素直に感心した。
ここを見て「褒め称えてる」と受け取ったのか?
どう読んだって書き手は自分のことを暇空より大分上だと思ってるぜ?
この「素直に感心」はそういうアレだぜ?
よっぽど部分的に読んだって「筆者が褒め称えたいのは暇空ではなく自分」なのは伝わってくる文だから
脳メモリ激ヨワ型の部分読み文盲でもこの文の文意は間違い辛いわけ。
なのに「暇空賞賛文だ」と読み間違えるcinefukさんはマジでどこを読んでコメントしてるの?
全体も読んでねえ、部分も読んでねえ、でもタイトルしか読んでないわけでもねえ、
これはもう読解力が無いって言うより、「読む」って行為をどういう風に遂行してるのか隣で観察したいレベル。
cinefukさんの「読む」が尻でスマホの画面撫でる行為であっても驚かねえよ。
iinalabkojocho
「読ませる文章」について手を変え品を変え表現し、さらに書き手と読み手を貶めたりしておられる。
なんか元増田をうまく罵倒しようとしてるけどまず日本語がおかしい。
「そう言う方が読ませる文章に書いておられるのは」
まさに元増田が論外扱いしている「てにをはすら破綻する奴」になってるので俺もこれは論外だと思う。
こういうのも自分がマジで国語の成績低い系だってことを受け止めて欲しい。
この出来は悪口抜きにどうかと思う。
おられるおられるだの高度な諧謔だのたぶん使い慣れてもいない言い回しをやってるけど
そういうこと頑張る前にてにをは頑張れ〇〇〇って言いたくなるじゃん。
加点出来るポイントがない。
なんで上位コメなんだこれ。
agricola
本人が書いて直接出しておると思われるアレコレを読む限りひょん尊師の文章力は甚だ疑わしいのだから、
この人は当て擦りの為の文章で(呆とか(嘲笑とか書くんだよな。
俺は呆れてるぞとか嘲ってるぞとか、それは文中で表現しなきゃダメだろ。
そこで(呆とか(嘲笑とか常態的に書くならお前には日本語要らないってことだろ。
そんなら最初から無駄なこと書かんと「呆!」とか「我嘲笑!」とか漢文で済ませてりゃ同内容で省エネになるし
もうちょっといろどりが欲しければ絵文字やスタンプで会話してろと言う話になる。
(トー横とかに転がってる学校あんま行ってない子はそれに近い方法でテキストやりとりしている)
文章力に強いコンプレックスあって補助輪的にやってることならつつくのも可哀想だなと思ってたが
この話題に堂々参戦してるってことはお前はあの間抜けそのものの表現スタイルに引け目はないってことなのか?
文末にいちいち漢字で意図を補う作文法、俺はこの人と淫夢厨以外で見た事が無い。
淫夢厨はバカっぽさの表現のためにわざとああやって書いている。
それでまた元増田も酷い。
暇空アンチは暇空の語彙や言い回しが幼稚だとかそういうことについてバカにしてるのか?
別に界隈をウォッチしてるわけでもないがあまりそうは思えない。
要するに元増田は自分の言いたいことに暇空を無理矢理溶接して読みにくい文になっている。
だから暇空を全部取ろう。(全部取っても文意も元増田が表現したかったことも全く損なわれないから笑えるぞ)
所謂「文章力」「読ませる文章」というものは決して難しい単語や専門用語、小難しい言い回しや難解なレトリックを使えば良いというものでは無い。
簡素な事柄を専門用語やレトリックを駆使して400字~800字長の文章にする事は可能ではあるが、それは「読ませる文章」では無い。
そのうえでひでー文章だ。
大したこと言ってないのに異様に読みにくい。
要らん飾り削ろう。
「文章は言いたいことが伝わればそれでよい、 難しい単語や書き方を使う必要はない。」
使いこなせない言い回しや要らんリフレインで独りよがりしてるのはお前じゃねーか。
iinalabkojochoとなんも変わらん。というかもっと酷い。
お前や!
お前や!
お前が!?
「読みにくい文の特徴」が全部当人に当てはまってて釣りを疑うレベルだが
自己評価が実態から離陸してるところと言い無駄に文を膨らませて得意がるところと言い三沢文也さんに似ている。
ただフェアネスの為に言うと、仕事の文章とそれ以外の文章は結構違う。
元増田が仕事の決まったパターンの中ではきちっとした文章書けてる可能性はないことない。
それで「俺は文章力ある」という自負を育てたのかもしれない。
だが仕事のパターンから離れて自由なスタイルで書くのは別の能力だから、殆どの人はこんな風にレベル1になる。
元増田は自己顕示欲や自己評価や自分語り欲が少しわんぱくなだけで
文章力自体は普通の人より劣ってるほどではないし、平均よりちょい上ぐらいはあるかもしれない。
張り切って書いたからひでー文になったのであって、要するに仕事以外で書き慣れてない。
「はい自由に作文してネットで読まれる文章書いてくださーい」ってやったら
なんでかというと暇空はなんだかんだ大量に書いてるから。
それに比べて元増田は書き慣れてないのがアリアリとわかるし、殆どのブクマカもたぶん変わらない。
暇空は気に入らないネットフェミニストの人物鑑定みたいなのも大量に書いてた。
あれだってそんなに簡単じゃない。読みやすく人を馬鹿にするのは簡単じゃない。
どっちも当人の深いとこから出た動機や表現したいことがあって、
俺はあの意欲や文量だけでどれぐらい頑張ったかわかる。
それは才能だと思う。
そういう経験がない人はその時点で暇空と対等に口きく水準じゃないし、
実際に作文コンクールしても勝てない。
どんなくっだらねー文でも誹謗中傷でも
暇空と同じぐらいは書いた奴が勝負になる。
またcinefukさんがなんて言い出すかわからないからまとめを書くと、
暇空の文章力は高い!素晴らしい!つってるんじゃなくて
おめーら暇空下に見るほどの能力ないだろって話をしている。
文章力なんてことに意見言うほどの自信がはてなーのどこから湧いてるのか見当つかん。
「暇空のネトゲ戦記あとがきの文がヤバい」という増田もあったが
あれは文章力どうこうより何か精神的にキマった状態の文章だと思う。
義務教育で身に着くのは学校で出るパターンの文の読み書きだけで、
あまりに狭いのでそのままだと何も読めない何も書けない。
パターンから離れたものを自主的に読む習慣が無い人間は読む能力ないし、
パターンから離れたものを自主的に書く趣味が無い人間は書く能力ない。
専門用語やレトリックを駆使して400字~800字長の文章にする事は可能ではあるが、それは「読ませる文章」では無い。
フラゲした。
内容について書くとキモいのが寄って来そうなので、以下は文章力についてのみの感想と個人的な雑感。
全体的に良くも悪くも平易な口語体で書かれており、自伝・エッセイの文章としては平凡というか平均レベル。
少なくとも「他人に読ませる」事を意識した文章ではあったので、読んでいて文字で目が滑るとかげんなりする、等といった事は無かった。
素人エッセイだと、数ページ読んだだけで頭痛くなる悪文な本も珍しくは無いので、この点は素直に感心した。
さて、著者の文章力について何かと批判するアンチ側の人間は少なく無いが、所謂「文章力」「読ませる文章」というものは
決して難しい単語や専門用語、小難しい言い回しや難解なレトリックを使えば良いというものでは無い。
簡素な事柄を専門用語やレトリックを駆使して400字~800字長の文章にする事は可能ではあるが、それは「読ませる文章」では無い。
記述者の言いたい事を相手に伝える事が出来れば良いだけで、洒落た私小説やラノベじゃあるまいし、細部に拘っても意味が無い。
やたら難しい言い回しをした長い「だけ」の文章は、増田や仕事でもたまーに見かける。
ネット小説だと割と見かけるのでげんなりする。
下手に単語や言い回しだけを覚えた、自称文章力が高い人間が陥りがちな罠。
新人や若手がそういった文章をお客さんの前に出したり、プレゼンで使おうとしては、注意して改善して貰っている。
優秀な人間だと大学等で文章添削されて鍛えられているのか、こちらが一々教え無くても「読ませる文章」を書いてくれる。
いわゆる文章力が低い文章というのは、なにも「てにをは」が破綻している・時系列や起承転結が滅茶苦茶などの乱文だけでは無い。
基本的に「他者に読ませる」という事をまるで意識していない文章は、いわゆる文章力が低い文章にあたる。
自分の言いたい事をバーッと垂れ流しているだけの文章は、読んでいる方としては興味がある題材でも無い限り、文字通り「目が滑る」。
専門用語や小難し言い回しを多用した、難解な「だけ」の文章、只管悪意を羅列したネット荒らしの書き込み等が
目が滑って読む気がしないのは、「文章力」の低さを理論的で無くとも感覚的に理解するからである。
恐らく仕事先でも「こいつの文章読みづらいな…言いたい事は何なの?」などと思われており、
そういった人間に限って「文章を読む」力も無いので、他者の文章に的外れなケチをつける「ウザくてキモい人」になっている事だろう。
そういった意味でも「ネトゲ戦記」は、少なくとも人に「読ませる文章」というのを意識していた、と読んで感じた。
家族が読みたがっているので、一通り回し読みした後はメル◯リに回すとするかな。
※基本的に買った紙の本はよっぽどの名著で無い限り、読了した後はメル◯リかブ◯クオフに売っています
<追記>
面倒なので前段は省く。タイトルを見て「アレのことか」と分からない人はスルーしてほしい。
https://petitcomic.com/news240208/
この文章が一読して耐え難いほどに醜悪な理由を書く。以下、上記URLの文章について「本テキスト」と呼称する。
本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。だから気持ち悪い。
本テキストはそもそも内容が水のようにうすくあいまいだ。それでもなお、執筆者たちの「主張」を読み取ることはできる。
前半が「著作者人格権」について。後半が「小学館はドラマ制作サイドに芦原氏の意向を伝えていたこと」について。
順番に見る。
本テキストでは、まず「著作者人格権」について触れる。その後、「著作者人格権を守ろうとしたこと」を芦原氏が「恐らくめちゃくちゃうざかったと思います…。」と自己評価していたことを明らかにする。そして「私たち編集者がついていながら、このようなことを感じさせたことが悔やまれてなりません」と続く。
ポイントは、執筆者が「何を悔いているのか」だ。本テキストにおいて執筆者が「後悔」を明確に示しているのは、このくだりだけだ。これは非常に重要なことだ。
要約するとこうなる。
「著作者人格権という権利を周知させることができなかったために芦原氏に不要な自責の念を抱かせた。著作者人格権についての認識を広げることが再発防止の「核」になる」
この後に、「これだけが原因だったと単純化はしない」としつつも、あえて本文中に「核」なる単語を使用している以上、ここには明瞭な主張がある。
それは「本件がこのような悲劇に見舞われたのは芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったからだ。その認識を与えることができなかったことを悔いている」というものだ。
暗に「芦原氏は「恐らくめちゃくちゃうざ」いことを自分がしてしまった、という自責の念によって自ら命を絶った」と結論していることになる。
……なんだか、我々とはずいぶん違う世界観をお持ちのように見える。これまでの経緯を振り返って、こう結論するのは相当に無茶なのではないか。
彼女が本当に「ドラマに口を出してしまったこと」を自責した結果として死を選んだのであれば、1月26日以降の騒動はなんだったんだ? 彼女の死に、あの騒動は関係なかったということにならないか? なぜなら「ドラマへの口出し(=著作者人格権の行使)」は、12月時点で終わっていたのだから。
そんなわけねえだろ。馬鹿か。
ここには明らかに問題のすり替えがある。「著作者人格権をめぐる認識」に焦点を逸らし、本質的な問題から目をそらそうとすると極めて醜悪な論理の欺瞞があるのだ。
明らかに本件は「芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったから」起きたことではない。
一連の騒動を振り返って「芦原氏が著作者人格権について深く認識していれば本質的に問題は起きなかった」と思う人だけが、本テキストに同意することができるだろう。
そんなやつ、どこにいんの?
誰がどう見たって本件は多岐にわたる複雑な問題が絡み合って、最悪の結末を迎えてしまった事件だろう。わかりやすい「核」なんてものがあるはずがない。
にもかかわらず、スケープゴートのように「著作者人格権」を持ち出して「核」として据えるのは、故人に対してあまりにも不誠実すぎないか。
素直に考えれば「何のための文章か」という問いに、ここで一度答えが出る。「作家、読者、関係者に「著作者人格権」を正しく認識してもらい、悲劇の再現を食い止める」だ。
つまりね、このテキストは「経緯説明」も「調査報告」も何もかもすっ飛ばして「とにかく「著作者人格権」を知ってもらえれば再発防止につながる!」という、何の根拠もない虚妄によって書かれているのだ。
ごくごくごくごく普通に時系列を追うだけで「著作者人格権をめぐる認識」が事件の本質ではないことは明らかなのに、だ。繰り返すが、論理的に考えてここが「核」なら1月以降の騒動は自殺に関係がないことになる。
ああ、めちゃくちゃ気持ち悪い。
なにが「事態を単純化させる気はない」だ。ここで行われているのは「単純化」などということではない。もっと悪い、明らかに事実関係と時系列を無視した、問題のミスリードだ。
そして、ミスリードした先にある「著作者人格権」を取り上げ、「本質に問題解決に対して寄与しない」とわかっていつつ、ここが再発防止の核であると述べる。
ここには「事態の再発を防ごう」なんていう真摯な態度は欠片も見られない。あるいのは「そういうことにしたい」という卑劣な思惑だけだ。
そうするともう少し穿った見方をしたくなる。
つまり「本件を「著作者人格権の問題」にすり替える」ことが、本テキストの目的だったのではないか、ということだ。
この「著作者人格権」にまつわるテキストの不誠実さだけでも、十分以上に気持ちが悪い。しかしもっとおぞましいのはこの先だ。
要約するとこうなる。
「ドラマに対する芦原氏の意向は、小学館がドラマ制作サイドに伝えていた。芦原氏は納得のいくまで脚本を修正した。ドラマは芦原氏の意向が反映されたものである」
本テキストを読めばわかるが、これに関する一連のセンテンス、どこか誇らしげでさえある。
正気で書いているのだろうか? 芦原氏の「言葉」を軽んじているのは、ドラマ制作サイドなのか編集サイドなのかわからなくなる。
芦原氏の意向は、よく知られている通り「原作に忠実なドラマ化」である。これが小学館からドラマ制作サイドに伝わっていたとしよう。その後どうなった?
(https://piyonote.com/ashiharahinako-twitter/#google_vignette)
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました(略)粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1~7話の脚本の完成にこぎつけましたが…。
加筆修正の繰り返しとなって、その頃には私も相当疲弊していました。
(略)8~10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、私が準備したものを大幅に改変した脚本が8~10話まとめて提出されました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。(中略)原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
これは芦原氏が「小学館と時系列に添って事実関係を確認し、文章の内容も小学館と確認して書かれた」文章だ。
原作者である先生にご納得いただけるまで脚本を修正していただき
馬鹿じゃねえのか。芦原氏は「推敲を重ねられなかったこと」を「悔いて」いたのだ。「加筆修正の繰り返しとなって相当疲弊して」いたのだ。
その文章を確認しておきながら、舌の根も乾かぬうちに「ご納得いただけるまで脚本を修正していただ」いたとのたまう。本当に血の通った人間のすることか? ご納得いただけるまで脚本を修正するという作業がどれほど心身に負担をかけることか、わからない編者者でもないだろう。それを何を誇らしげに「わたしたちに落ち度はありません」と言わんばかりの態度で書いているんだ?
ここに事実を捻じ曲げる意図がまったくないとでも言うのだろうか。
そもそも「意向を伝える」ことは伝書鳩のように「言いましたよ」ということではあるまい。なるべく芦原氏に負担がかからないように交渉を詰めて、芦原氏が心身を疲弊させながら手ずから「修正」をしなくてもいいように、ドラマ制作サイドに「条件の履行」を求めるのが「意向を伝える」ことではないのか。ガキの使いじゃねえんだ。「ちゃんと言いましたよ」で責任を逃れるビジンスシーンがどこにある。
明らかにドラマ制作サイドに芦原氏の意向が「伝わっていなかった」から、彼女は修正を繰り返し、自らを追い詰めなければならないことになったんだろう。そこに「伝わるまで伝えなかった」小学館の責任はないのか?
無論、担当編集者やメディア担当者が「仕事をしていなかった」というつもりはない。担当者が誰よりも働いただろうし、想像するだに困難な局面の連続だっただろう。いまの心痛はいかばかりか。結果は最悪なものになってしまったが、それは決して現場の担当者たちを非難していい理由にはならない。
繰り返すが、現場の担当者個人の責任を追及せよと言いたいのではない。むしろ、それは決してやってはならないことだ。しかしまた同時に「頑張ったから」「努力したから」「不運としか言いようがなかったから」という事実は、決して責任を消滅させる理由にもならないのだ。
小学館に責任はある。絶対的にあるのだ。それは「著作者人格権にまつわる認識を周知徹底できなかった」ことなどではない。芦原氏の意向をドラマ制作サイドに理解させることができずに、結果的にドラマ制作過程において芦原氏を心身ともに追い詰める結果を招いたことについて、責任があるのだ。
にもかかわらず、そうした自らの責任にまったく目を閉ざし、ひたすら問題を矮小化させ、ミスリードしようとする意図が、行間に充満している。
それこそが本テキストが歴史的に気持ち悪い理由のひとつだろう。
書くまでもないことを最後に書く。
ここまで確認してきたように、本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。
その最後に付された言葉が、芦原氏への「寂しいです、先生。」だったことは、瞠目すべきだろう。人間どこまでも恥知らずになれるらしい。
この一文が本当に気持ち悪いのは、SNSで言われるように「TPOにそぐわぬポエティックなもの」だからではない。
欺瞞と自己保身のために芦原氏の言葉さえ踏みにじって醜悪なレトリックを駆使した挙句、そもそも本テキストの「宛先」でさえない芦原氏を「文章の結び」のためだけに泉下から引きずり出し、まるで批判除けのお守りのように利用してしまう、学館第一コミック局編集者一同の浅ましい精神性が悪魔濃縮されているからだ。
本件の内幕はおそらく当事者たちにすらもう分からなくなるくらい複雑化していることだろう。
小学館を悪者にして幕引きをすればいいという性質のものでもない。巷間指摘されているように、メディア化における構造的な問題、TV局の体質的な問題、悪意を増幅させるSNSというシステムの問題、他にも種々様々な問題が複雑に絡み合っているはずだ。
それでも、この悲劇を防げたプレイヤーの一人であるはずの小学館が、「ことなかれ主義の上層部」「責任回避の編集局」という内実を露呈していることは、必ず批判されなければならない。
騙されてはならない。
あと再放送。ほんま職業レベルと経済レベルで話通じねぇなって思う
これについて真面目に言いたいんですけど
現代ってテレワーク(在宅勤務)なんですよ。ワイなんかパジャマのままで仕事してる
テレワークがデフォじゃなかった時代は会議時はカメラONがデフォだった
けど今はある程度の規模感だとデフォでOFFなんだね。負荷がヤベーからだね
(まぁ外資だとそうじゃないとこもある。GAFAMのどれかとか)
それから、清潔感の演出ではなく、臭いや汚れに配慮ができない、マジで衛生上の問題を抱えた人が、
在宅勤務してるとかではなく通勤してくる、当たり前に身の回りいるって、
給与の高い低いをなんらかの指標にする場合、割と深刻な事態だから重く重く受け止めた方がいいぞ
ワイくん、面接時と商談時は全力で盛るものの、在宅だと衛生に含まれること含めてあらゆること放り投げるけど、
ワイくんのオフィスに臭いや汚れに配慮ができない、マジで衛生上の問題を抱えた人は身の回りに1人もいないぞ。それなりのお賃金で働いてるからだ
(仕事は『やり甲斐』や『社会貢献性』や『プライベートを優先しやすい』など、給与の高い低いだけで決まるものではないっちゃないけどね)
ある程度のお賃金のお仕事って基本感情の発露とか疲労感アピールって許されてないと思うので、
ルッキズムが人種差別や障害者差別からくることを知らない闇深増田
合わせられる健康状態ならいいが、そうじゃない場合が問題だと思うんよ
絶対不細工(実在しない。学習でそう思い込んで入るだけ)って何かって考えた時に、
もう文字量についてこれていないと思いますけど、わかりやすい他の増田の投稿も転載しておきますね
「清潔感」という差別の正当化
まあ、ブコメでの指摘のとおり「清潔感」っていうのが、差別の正当化として機能しているのはそうですよね。
身体に対する清掃のし過ぎが、生体的なバリアを破壊して感染しやすい状態になることが珍しくないですが、そういう人は清潔感があると思われやすいでしょう。また、過去の人種差別や疾病(特に皮膚病)差別におて、不潔であるといった理由が付されてきたわけです。
ただ、この清潔感を巡る問題は、まさに今日的な問題であるなと思うわけです。これは、公的な場において差別は許されないが、私的領域において差別は自由であるというルールが、私的領域の事柄について公的に語るときに矛盾として露呈してしまうということです。
例えば、交際相手を人種や性別、容姿、金などで選ぶことは差別ではあるでしょうが自由です。しかし、同じ理由で役所の申請を断ったり、商店で販売拒否をすることは許されません。
anond:20231213133417 anond:20231213133617 anond:20231213133846
まあ、ブコメでの指摘のとおり「清潔感」っていうのが、差別の正当化として機能しているのはそうですよね。
身体に対する清掃のし過ぎが、生体的なバリアを破壊して感染しやすい状態になることが珍しくないですが、そういう人は清潔感があると思われやすいでしょう。また、過去の人種差別や疾病(特に皮膚病)差別におて、不潔であるといった理由が付されてきたわけです。
ただ、この清潔感を巡る問題は、まさに今日的な問題であるなと思うわけです。これは、公的な場において差別は許されないが、私的領域において差別は自由であるというルールが、私的領域の事柄について公的に語るときに矛盾として露呈してしまうということです。
例えば、交際相手を人種や性別、容姿、金などで選ぶことは差別ではあるでしょうが自由です。しかし、同じ理由で役所の申請を断ったり、商店で販売拒否をすることは許されません。