はてなキーワード: 政治とは
判り難いw
あの後「労働」と「出産」の比較に流れていたけど、本筋は「行政が書かれてるような思想を実現する」の方だったのね。
別増田に返事した横に、それは読めないわ。
随分と回りくどいことしてたね。
手段が、強制かばら撒きかは知らんけど、【政治が少子化問題を高く評価すべき】が議論の本筋であったと。
それを最初から言っていれば、大分議論の方向は違ったんじゃね?
これからでも遅くないと思うから、政治がどのように「出産」を増加方向にすべきか議論するか。
政治が方向付けを行えるのは、優遇(負担免除や、施設割引)とか、税制の変更(子供のいない成人に税負担を求める)とかだよね。
学費免除とか既に動いているけれど、そういうのも子供を産むことの負担を軽減する効果が、わずかばかりある。
ちなみに、優遇方向や、(市井の共通認識として)高い評価を与えると、労働よりも出産の方がバリューが高くなる可能性もあるけど、それは論じないよ。
またぞろ、ややこしくなるからね。
「政治的な優先度」を上げることを、高い評価とは言わなくね?
施策が高い評価を受ける、ならともかくさ。
それとも、(少子化にまつわる問題と影響を)高く評価して、政策を決めようって話?
(これは男側からしてみても、「産む女」に市場価値はあっても、義務である「出産・育児」自体には市場価値がない)
君が言っているのは、俺が挙げた例をいじくって市場価値が生まれる形に変えただけ。
市場価値に還元できる場合もあれば、還元できない場合もある。その具体例をと言われたから出したものに対して、かってに手を加えるな。
徴兵制のように、出産を義務化するようにするようになれば、それは市場価値としては還元されない。
政治的配慮っていうのは、そういった施策も含めた出産・育児への誘導だよ。
そして、そういった誘導を生み出すための合意形成についての話をしているのに、「合意されたらそこに市場価値が生まれますよね」という話は、まったく噛み合ってないでしょう、と。
もっと具体的に話をしてくれんと、如何様にも逃げ道があって鬱陶しい。
政治的配慮って何?
還元出来る出来ないってどういうケース?
「政治的介入によって増大した価値は市場価値に反映されるから、市場価値で評価するのに何の問題もない」ってか?
いやそれ違う話だから。
その政治的配慮が市場価値に還元できる場合もあれば、還元できない場合もあるけど、何より、その「政治的配慮」そのものについての話をしているので。
よくある政治系の結論ありきの実態調査(笑)でそういう数字が出てたと思う。
「家事労働は超高付加価値!」っていう結論を出すために無理矢理ひねり出した分析ストーリーだから、政治家以外でそれ使ってる奴は馬鹿だと思っておくのが正解。
前提条件:親が裕福で生活に余裕があり、お金があるのになんで働かなくちゃいけないの?という高等遊民タイプのニート向けです。
年老いた両親が生活を切り詰めながら一生懸命パートで働いて生活を支えてるような家庭の場合は、つべこべ言わずに働いて両親を支えられるようになりましょう。
→遊んで食べて寝てるだけで、殺しも盗みもやってないよ?遊んで食べて寝てるだけで悪だと言うのなら休日の日曜日にゴロゴロしてるお父さんも悪になってしまいます。
→憲法解釈の問題になるので詳しくは割愛しますが、勤労の義務は国家が労働環境を提供する義務と捉えることが出来ます。
また、憲法には「全て国民は~」と記載されているので、定年退職したから、或いは主婦だから労働の義務は関係無いというわけではありません。
なので、これは会社勤めで働かなくては行けないと言う意味では無いのですが、若干の後ろめたさがある場合は家の家事でも手伝えば十分です。
→日本は累進課税の国なので所得に応じた納税をすれば義務を果たしていると言えます。所得が0円のニートの場合は当然課される税額も0円で問題無く納税の義務を果たしています。
→現在の普通選挙へ移行して来た流れを考えれば、低所得者・低額納税者だから政治的な意見を言う資格が無いということはありません。
これを否定することは昭和の時代に普通選挙の普及のために尽力した先人達を侮辱することになってしまいますね。
→親が子供の面倒を見ることの法的根拠は、教育の義務と扶養の義務が考えられますが、扶養の義務は未成年に限定などされていません。肉親である限り扶養の義務があります。
まぁ、一般的には年老いた親を成人した子供が支える義務ですけどね。
もちろん、親がもう義務を果たしたと考えてニートを放り出すのは自由ですが、それは他人が口を挟むことではありません。
このニュースについて、ツイッターで「騙された」「これが本当なら橋下を支持するのをやめる」「橋下さーん勉強しろーコラー!」という声が散見された。驚いた。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201202/2012021001065&g=pol
橋下のことを何も知らずに投票したのか、、、相当なお馬鹿さんなんだろうな。橋下のような新自由主義思想を持った男なら、TPP賛成に驚くことはない。
下のキーワードをよく口にする文化人(踊らされてるだけの民衆は含めず)はだいたいTPPに賛成してるから、見分けがつかない人は見ておくと良いよ。
・聖域なき構造改革
・改革を止めたから景気がよくならない
・規制緩和
・法人税減税
・バスに乗り遅れるな
・先送りできない課題
・坂本龍馬
・平成維新
・開かれた日本
・外に打って出る
・市場に委ねる
・これからのビジネスで英語が話せないのは、免許がないのと一緒
・集中と選択
・競争が進むとみんなが豊かになっていく
・自由貿易
・自己責任
・既得権益を潰せ
・老害
・自己責任
・公務員改革
・公共工事削減
・緊縮財政発動
・功利主義
・官から民へ
・ガラパゴス化現象
・国際競争
・神の見えざる手
http://anond.hatelabo.jp/20120207214834
ありがとうございます。私はちゃんとあなたの文章の趣旨を理解できてなかったですね。確認してよかったです。
誠実な議論の「あと」に政治的口論が来るのだ、というこの順番の指摘が興味深いです。
今まで自分の中では逆のイメージだったのですが言われてみると、こちらのほうがありがちであるように思います。
議論の限界を悟っているからこそ、ああいう態度に出るのだ、と思うとものの見方が少し変わってきますね。
その上で、なんちゅーか…議論の限界がクルのが早過ぎるのではないか、議論で物事を解決することの訓練があまりにも足りていないのではないか?
そんなふうにも感じました。
なおさらできる限り先の議論に自分も相手も留めておく、そこで踏ん張れるようにする工夫を考えたいと感じました。
まぁ、佐々木さんの件に関しては、今回の指摘でだいぶすっきりしました。本当にありがとうございました。
日本に限らず、議論する人の能力によらず、「誠実な議論」だけで結論を出したり、解決したりっていうのは、多種の正義や利害が絡むややこしい問題の場合そもそも不可能。
なので、「誠実な議論」のあとに、「政治的口論」が必要。佐々木さんは後者に重きを置いているので、後者の意義がないという前提で批判するのは不適切と言いたくて、これがメインの主張です。
あと、「これは俺もこことかだとよくやるんだけど」と書いたのも私で、相手がダメだという前提のものでなら、議論の中に罵倒があってもよい。ただそれは匿名とか安全にやるべき。という考えに基づいて、実際にやってみたつもりです。
議論が成立していなくて、次のステップにうつったことを示すために、罵倒というのは簡潔で便利な方法だから、使っても安全なときはぜひぜひ使うべきだと思っています。
kenokabeさんが議論に足らないというはあくまで付随的主張です。
産業構造が昔と大きく違っている中で、「道徳を涵養していけば、道徳に忠実にやってくれる人が多くなる」
と思うのは見当違いです。とくに若者はそんなことは考えていませんから、処方箋をいくら出しても、
強制でもする以外、そうはならないでしょう。強制すれば、また違う害が出てくることは明らかですから、強制もできません。
「こういうのがいいんだ」とわかっていても、そうはできないし、そのとおりにはならないのが現在の大きな問題なのです。
やる人がいないし、耳を貸す人もいません。もしいてもそれは少数だけで、根本的な解決にはならないでしょう。
長く人生を生き、戦前・戦中・戦後と一定の視点で人間というものを見ていると、どうも人間というのは、なかなか向上しない、
立派になりにくい宿命を背負った存在ではないかと思うことがあります。戦争のような大きな悪の中では、
個人個人は倫理的で善良になり、平和の中では個人個人が凶悪になっていくという矛盾があります。
かえって人間としては時代を経るにつれて低下していくような気がしないでもありません。戦争中から比べると、
現在はご飯を満足に食べられ、家柄や男女にかかわらず行きたい大学に行け、やりたい仕事に就ける夢のような時代になったはずです。
しかし、欲望がすべて満たされたら満たされたで、人間はまた悩み始めているのかもしれません。
あれほど未来性を持ったマルクスのような人でさえ、人類がこのような時代に直面するとは予期していませんでした。
世界の現状や個々人の考え方や生き方がこうまで問題の多いものになるとは思っていなかったと思います。
いまの状態は、社会主義国だと言っている国も、資本主義国だと言っている国も
そう変わりばえのあるようなことをしているわけではありません。ひと昔前に声高に論争しあった思想や政治システムといったものよりも、
人間性や人間の本質のようなものが生み出すものや、人間性そのものが問われる時代になっているのではないでしょうか。
そういうことを考えていくと、現代は人類がかつて体験したことのないまったく新しい状態まできているということになります。
もしかすると、これから先、歴史の繰り返し以上に人類はだめになる危険性もあります。
残念ながら誰の考えをたどっていっても、こうまでは考えていなかったろうと思います。これから先のことは、
自分たちで新しく考えていくより仕方ありません。
よさそうでかつ害のなさそうなことをやる、小規模でもやっていくということ以外にこの新しい時代に対処する方法はないように思います。
これは、科学的に社会のことを考えてきた人も想像していなかったろうと思います。そこが現在の一番の問題かもしれません。
一つはっきり言えるのは、いいことをいいと言ったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。
いいか悪いかではなく、考え方の筋道を深く追わなければ、問題の本質が見えてきません。考え方の微細な筋道をたどっていかないと、
解決の糸口を見失ってしまうでしょう。
何はともあれ、いまは考えなければならない時代です。考えなければどうしようもないところまで人間がきてしまったということは
吉本隆明「真贋」より
横だが。
まー、一応解説すると
組織票として動員されない人(要するに、一般人。浮動票と言ってもいいだろう)が投票に行かないと、
組織票がカタい組織(某学会とか)が、実際持ってる票数以上に有利になる。
それは、組織票がカタい組織(某学会とか)と利害を共有しない人にとっては、好ましくない(不利益を被る)という意味だろう。
思いっきり単純化して、世の中が某学会票10%、浮動票90%だとする。
で、全員が選挙に行けば、某学会票は全体の10%取るわけだ。これは民意の正確な反映だから、別にいい。
でも、浮動票の人が1/3しか選挙行かなくて、某学会の人は組織動員だから全員選挙行くとすると
某学会票の得票率は25%に上昇することになる。
組織カタいところばっかり現実の組織の大きさ以上に有利になっていってしまう。
そのような傾向が続けば、政治家は選挙落ちたらタダの人なので、組織票のあるところばかりを見て
政治をするようになるだろう(あるいはもうなってるか)。
そういう状況は、一般の人にとって不利益だと、まぁそんな感じ。
友人に馬鹿な奴がおりまして、「男の非モテはネトウヨ予備軍、女の非モテはプロ市民予備軍」などと申しておりました。
下らないことを言うんじゃないよ、などと笑ってしまいましたが、はたと気づきました。
思想・政治にのめりこむ若者の格好、服、髪型、眼鏡、靴、化粧などを見ますと、確かにリア充らしいものがいない。
はてさて、どうしたものかと、無い頭を絞った考えを、今回発表させてもらいたいと思います。
①非リアは、他人との絶対的な接触時間が少ない。
↓
②a:自分の価値観が揺らいだり、ひっくり返される機会が少ない
b:世界が自分の頭の中で閉じているので、世の中に様々な立場や利害関係が存在する
ということを実感する機会が少ない
↓
↓
④素晴らしい(と自分で思えた)考え方は、自分以外の全人類にとって素晴らしいという
確信がある
↓
⑤本格的な「活動」を始める
ずいぶん薄っぺらい議論でございます。
http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2012/02/23-1903.html
コネ採用と出自性別による採用差別って本質的に違いがないと思うんだが。
確かにコネは努力で獲得しようと思えば可能だが、出自性別は獲得不可能なものだ。
しかし、コネがある人を採用したいという企業側の要求だけ肯定され、特定の性別出自の人を
採用したいというほうは否定されるのは何故か。政治的正しさとやらかな。憲法の基本的人権からか?
(出自というと被差別部落の人を連想するが、イスラムだったり、キリスト教原理主義を連想される
人は面倒だから落とされてそうだ。)
政権交代させて見たら自民党が劣化しまくっている可能性について覚悟する必要があるだろう。
政策の不一致は、まあ自民党が選挙互助会の寄り合い所帯という宿命だから仕方ない。
が、政権が自民党に移ったら、まず最初に起きるだろう政治的懸念事項は、
大臣病患者のセンセイたちに対する論功行賞人事としてのたな卸し的大臣人事だ。
自民党が圧倒多数で政権を奪取できる可能性が低い以上、谷垣総裁が派閥無視の適材適所人事なんぞを組める目はない。
むしろ求心力維持の為に派閥に報いざるを得なくなる。そもそも自民党自体が「民主党の反対」の先にある
成長戦略を描けてないし、野党時代の民主党さながらの政局遊びに興じている。
下手すると、「民主党時代の方がまだマシだった」という言葉が、当の自民党支持者から聞こえてくるかもしれん。
そうはならない事を祈って已まないが、さてどうなることやら。
木村政昭氏の地震予測を一部の人が知って偉く驚いてるようだけど、なんか過剰評価にしか見えないので。
TwitLonger — When you talk too much for Twitter
ざっとネットで調べても、どうも木村政昭氏の地震の目理論というのがよくわからないんだけど。ちゃんと見るものを見ればわかると思うんですけど今はパス。
精度を調べると、多少見たところ「少なくとも一般の利用者にとっては現時点でそんなには高精度じゃない」というのが私の結論。
せめて 科学的・論理的な姿勢で原発の廃止を求める原発懐疑派のブログ ネット反原発派の極北・「@tokaiama 東海アマ管理人」氏の地震予知は真実かデマか? 並みにチェックしたかったんだけど(これでも本来不十分だけど少なくとも東海アマの予測がでたらめであることだけははっきり分かる)、そこまではできなかった。
ざっと見たところ、東海アマのレベルよりは比較にならないほど当てになる可能性は否定できなかったが、上記ブログにあるような「木村先生が阪神淡路大震災以降、ほとんどの地震の予測に成功されていて、」っていうのは「え、ホントかいな?」というのが私の見解。
まず、見てみよう。
彼の公式サイトのうち、2011/3/11のもっとも直前2011/02/18の日本列島地震予測図だ。
2007年には一度予測していたはずの、三陸沖の予測が書かれていない。
木村説に基づく私案 (2009年8月6日公表)にも、やっぱり三陸沖はない。
そして、2011/3/9、後から「前震」であったとわかった地震直後
これの目があったと突然言っている。
目があったと言っている。しかし、それまでの上記引用すべての図と違うように見えるのだが。
2011/3/9の前震の予兆と2011/3/11の予兆を取り違えることはあってもおかしくはないかもしれない。また、この比較だけをもって、地震の目理論の中身をデータと比較して検討しなければ「地震の目」理論そのものの妥当性(多少なりとも役に立つかもしれない、という可能性も含めて)を否定することはまったくできない。が、現時点で「木村政昭氏は2011/3/11三陸沖地震を的確に予想していた」と言われると、まったく予測してなかったこと断言できる情報には欠けるが、的確な予想が出来ていたというのは無理ではなかろうか。実は予想してたんだけれども政治的理由等で隠していたとか言われたらちょっとまぁ私には手に負えないが。
で、本当はもっと過去の予測と実績を予測履歴と比較すべきなのだが、ぱっとぐぐっても私には見つからなかったので、
みつかったうちの最も古い前述の「木村説に基づく私案 (2009年8月6日公表)」でみてみよう。
このうち、台湾付近(2009±2)のは当たってれば来てるはずなので、とみてみると
NEIC: Earthquake Search Results
…なさそうに見えますが。M5.5以上検索。2009/8/1~本日。当たっていればLAT21付近にあるはずなんですけど(このシステムのデータ漏れがあったらわかりませんが)。そんな地震があったというエビデンスがあったら教えてください…。他のは予測期間が終わってないんで判定できませんが。。。
千葉周辺はなんか最近の他の学者が言ってるのと似てないこともない気がしますので、これは当たるのかもしれません(既に311余波で起こってたりします?)
鹿児島南東沖はまだ予測範囲終わってませんが、気象庁 | 震度データベース検索とかで見る限り、鹿児島震度1以上で震源地とマグニチュードが一致するものは見当たりません。
で、2011/8/9版をみると
随分変わってますね。
まぁ、3/11で大きく事情が変わったとかいうのが地震の目理論に当てはまるかわかりませんが(311でまったく過去のデータが使い物にならなくなってたとすると多分私が見た数ページからして地震の目理論はたぶん、当分の間精度ががくおちです)。
#過去のは図から抜いてるだけで予測を撤回してないって話だと過去のも全部並べて重ねないと予測の意味がだいぶ減ってしまいそうですが)
外れが多かろうとも、一定の精度があるのであれば、まぁ備えることに無意味とは必ずしも言えないので、私が見た限り、「東海アマみたいに信じるのがバカ」レベルであるという判断はできませんでしたが、警戒情報として参考にするならともかく、現時点であまり祭り上げるのはどうだろうかと思うわけですが。
また、上記検証では理論の正しさは何も検証してないので、この理論の今後についてもなんら評価してませんので、将来この手法が精度を上げて実用化される可能性を否定するものではありません(とりたてて肯定もしませんけど)。
音声合成DTM製品「VOCALOID2 CVシリーズ」の第二弾である「鏡音リン・鏡音レン」を用いて作られた一連の楽曲作品。詳しくは検索。
小説とか漫画とか劇化もされてるようだけどそっちはノータッチなので除外。なんか詳細設定とか山のようにあるらしいけどあくまで元動画とその歌詞に情報源を絞る。
前者はある国で暴政を敷いた愛らしい王女が革命によって倒されるまでのことを歌った歌、後者はその王女に仕えた召使いの視点から同じ一連の出来事を歌ったもの。
YouTubeとかに死ぬほど転がっているのでこの文章を読む人にはできれば聞いといてほしい。ネタバレを含むので。『悪ノ娘』から先に。
英語版ならEnnという人? が歌ってるやつの歌詞が好きだな。情報量が多くて。
身も蓋もない言い方だけど「売れてる」から。
ニコ文化が中高生とかOTAKU中心に大人気とは知ってましたが劇って。コミカライズくらいまではわからんくもないが劇。
ファンとはいえそこまでのめり込むほどか。何がそんなに優れてるっつーかウケてるのだろう、という話です。
「優れてるからウケてるんじゃねーよ」というお話はあるでしょうがまあそこはおく。ぶっちゃけ「優れてない」点はいっぱい挙げられるし。
たとえば物語終盤の交代劇とかバレねーわけねーからね常識的に考えて、とか。
・仮にも国のトップなんだから、立てるならもっとマシな影武者を立てるのが普通というもので、脱がした瞬間バレるようなのに気がつかないとか革命が総崩れしかねない。
いや史上の狂乱というのは往々にしてそういう熱狂が高じてもはや狂気〜みたいな面があんだろうことは否定しないけど、そんなの後世には物好きな歴史家とかにケツの毛までひんむかれるレベルまで分析されるのが当然なんだからさ。恥ずかしい性癖が伝わっちゃってる為政者が今どんだけいると思ってんの。読んでないけど正直小説版にはクビ落としてから替え玉と判った革命軍の偉いさんとか偽史として押し通してきた『召使』側の話を証明しちゃったアマチュア研究家とかが裏で始末されるドロドロとかがきっとあった! と信じている。三次創作。
・本物も見物に戻ってくんなよ。そこでバレたらすべてがガチで水の泡よ。危険すぎるだろ。
…とか、突っ込みどころはとってもたくさんあるわけなんですね。文化ルーツもしっちゃかめっちゃかだとかそもそも歌詞がちょっと拙いとかね。
にも関わらず、絶賛者とかいっぱいいる作品でもあるわけで。合唱とか英語版とかあって再生回数すごいし。
何がそんなに人を酔わせるのかしら。それがロマンスというものなのか。
いやねーだろ。これロマンスじゃないじゃん。中世の騎士物語とかほんのちょっぴり読んだことあるけどコレジャナイ感すごいじゃん。
三大悲劇って言われてるけど悲劇ですらねーだろと言いたい。少なくともwikipedia曰くの古典主義的・新古典主義的「悲劇」では絶対ない。
それでは「これ」は何なのか?
まあアレじゃん。ジェンダー界隈でいう性役割意識がどうこうとかあと男の娘ブームとかなんかそんな。
あとこれ国家の皮をかぶった家庭悲劇なんですよね。一種のセカイ系というか。
このお話は王家に生まれた男女の双子のうち女が王家に残されて(おそらくは凄い抑圧とか受けて)暴君になって、男はどっか養子とか?出されて召使いとして戻ってきたつーことになっていますが、男をイエに残して女はよそに嫁がせるつーのがどっちかというと鉄板ですよねこういうの。
「なんでそんなことになっちゃったの」というのはきっと小説版とかが政治の派閥抗争がどうのとかに絡めて辻褄つけてると思うのでおいといて、「よくこれでウケたな」ってーのをですね。
この作品は基本的にすごいストレスを(受けたくないに決まってるけど)受けなくてはならない人間が見るとツボに来るようにできてるんスね。
よく何かこう、最近の若者は〜的な文脈で、男が女っぽくなっただの女が強いだのと言われますよね。いや印象だけど。自分の観測範囲内の話だけど。観測範囲内でもいい加減下火っていうか言い古されて説得力がアレな言説だけど。
少なくともこの作中ではまさに男がやるようなことを女がやっているわけで、そこんとこのギャップがウケてるっていうのはあると思うの。
鏡音リンってキャラクタ的には妹系ってんですか? 笑顔がかわいくてドジで〜みたいな感じだと思うんだけど、それが女故子ども故の残酷さみたいなのを全力発揮してるあたりのギャップもあると思う。
そう、彼女は良い為政者ではない。聖母聖女は齢14で「お金が足りなくなったなら〜、愚民共から搾り取れ〜♪」なんて言わない。普通の女でも言わない。
彼女はむしろ聖女みたいな女に恋人取られたら相手の国ごと潰して復讐する程度にはやりたい放題の女のコ☆です。
しかもそのレベルの人格破綻者まで「最初は無垢だった、ホントは彼女は悪くない」的な補足が入るわけです。これもウケたツボだろう。
イエのあれこれとか人間関係でむっちゃ我慢とか強いられてるけど正直破裂したい、けど破裂したらあとが面倒だけど破裂したいけどあああああとか思ってる人間にはとてもツボ。
破裂したい人間がなぜ破裂しないかって、破裂すると崩壊するナニカがあるわけで、この王女の話は破裂してナニカを崩壊させてしまったってことなので「ああ、あんな風にならないためにも我慢がんばらなきゃなー」とか、「私がしてきた我慢は正しかった!我慢しなきゃああなってた!ざまあwww」とかいろいろと解釈できて美味しい。
それだけなら単なる破滅劇なんだけれども、これを悲劇にするのが王女と対になる召使いの存在ですね。『悪ノ召使い』は『娘』よりもあとに発表された作品ですが、何千回単位だった再生回数を100万くらいまで押し上げたらしいっす。
「顔の良く似た」召使いは(内緒になってんのか知らんが)召使いってことになってるが王女と双子です。これをまず物凄く突っ込みたい。王家の血縁が人に使われる側に回ることのあり得なさとか。でもまあそれはいい。
召使いは破裂しそうな王女のそばであれこれ世話を焼くわけです。王女の命令なら惚れた相手も暗殺してくる。それくらい自分を殺している。
ある意味王家という枷つけられてる王女と完全に同類なわけですが、召使いはそれほど人格破綻してないというか暴君的な方向に爆発しそうではない。
彼には「王女のため」という大義があるからです。彼が背負っても良かったモノを彼女に背負わしたら歪んでしまった、王女がこんななってるのは彼にも責任がある。
だからその責任を果たすためなら、ほんのちょっぴりの「自分」も捨てられる。盲目的に尽くせる。
完全に「家庭なるもの」の中で板挟みになるガキそのものですね。あとほんのりとした近親愛。これがツボをつく。
オチはもうその最たるものですね。自分を殺して殺して殺して…の召使いは本当に自分を殺してしまう。王女はその代わりに助かる。
要は例えば機能不全気味家庭のお子様らには神話のように美しい物語だということですおわり。
鏡音リン・レンなるソフトは作中やファン間でも双子ってことになってますが公式的には「鏡に映るもうひとりの自分」的な感じではっきり双子ではないらしい。
というのもなんかこう、意味深ですね。
怖ェなーと思うのがこの作品が世界規模ですごい再生回数稼いでるという事実。
機能不全家庭の子どもにばかりウケてるわけじゃねーとは思うが、でも例えば上で述べたような「この身代わりはあり得ねーだろ常考」みたいな意見はたぶん野暮としてブーイング浴びるだろうし、きっと小説版あたりで「そうするしかなかったんだよ…」みたいなことが切々と説かれていたりして要するに反論として封殺されることが明らかなわけです。
実際には例えば召使いの行動として「二人で一緒に逃げる、最後まで王女のそばにいて守り通す」みたいなのがあっても良かったはずだし一昔前なんてそれで逃げ切れなくて死んじゃってーみたいなのが悲劇のテンプレ化してたような時代があった気がするんですが、そうならない。
何というか、すごい絶望的で、しかもその絶望が絶望のまま肯定されて同類間で共有されてる感がする。
そういう方法で絶望が連鎖して伝播しているような感じがするのです。
漫画家のとり・みき氏の言葉(の引用の引用)だけど、こういうのがある。
人が涙を流すのは必ずしも作品の出来とは関係がないのだ、と。
かつて自分が何かに感動した時にできた涙腺回路のようなものが頭の中にはあって、そこにピタリとはまるような場面だの言葉だのを見聞きしてしまうと、涙というのはどうやら自然に流れる仕組みになっているらしいのである。歳をとると涙もろくなるというのは、つまりそういう回路のパターンが増えているからではないか。
個人的にこれは結構ガチだと思っているんだけど、一点だけズレてる部分がある。
ここで書かれてる涙腺回路の起動スイッチである「感動」っていうのが、自分個人に限っていえば何か崇高なものに触れて心を動かされたとかではなくて単純に傷つけられたときのことを指すようになってんのね。
つまりこの文章に則って言うと、自分はある一定の場面とか言葉だのを見聞きしてしまうと自動的に繰り返し繰り返し傷つくようになってしまっている。
恐ろしいことなんだけれどこの「回路」が結構強固で、俺はこいつを潰しておかないと日常生活が送れないっていうレベルでいろいろと不便。具体的にいうとAED講習で実際の救命現場の録音(子どもが突然心停止して倒れたそばで手当てする人とか救急車呼ぶ人とかその子の名前を狂ったみたいな大声で必死で呼び続ける母親の声)聞いたときとか、アレ本当は命が助かる感動的な場面のはず(「とりあえずはもう大丈夫です」まで録音されてたはず)なんだからすごくイイ話だと理屈では思うしわかってるんだけど生々しいやりとりそのものがあまりにもショッキングでしばらく「親子」みたいなキーワードで突然ぼろぼろ泣くようになって本当に困った。もうすぐ一年になる例の津波関連も未だにいろいろな場面でダメージ。直に被災したわけでもないのに。
閑話休題。
だから例えば映画とか小説なんかで「泣ける」みたいのを売りにしてるのは基本見ない。
そういう作品は大体が回路起動ツボを外していて(かつ、他の例えば大爆笑回路の起動とかには結びつかないので)白けるが故に、そしてごく少数の作品は客観化が十分でツボ自体から適切に距離を取れるが故に、涙腺回路起動までに結びつくことは滅多にないんだが、それでも見ない。
何が楽しくてそんな自傷行為をせねばならんねん。
でも例えばナイフは指を切るだろうとかわかるけど、この作品で泣くようになるだろうとか普通は読んだり聞いたりするまではわかんないわけじゃん。
で、『悪ノ』シリーズも回路の起動スイッチになってしまったので、困ったなー。と思っている。前述の録音ほどの威力はないしもうだいぶ整理して削いだんだけども未だに人前ではこの曲聞けねえ。
あの召使いの台詞で泣かねー奴は人じゃねーみたいなコメントが動画についていたりして、それを「気持ちはわかる」と思ってしまう。
気持ちはわかるけど、実際問題召使い馬鹿だし王女も馬鹿でみんな馬鹿すぎて救いようがないと思う。「崇高なものが犠牲になる」みたいな楽しみ方は視点が狭すぎて阿呆だと思う。
いろんな人が感動してファンになって翻訳とかされてるのはわかるけど、作品としては全然優れてないと思うのです。
他の作品と比較してどうとかではなく、あの物語自体にもっと洗練の余地があるということ。
そして洗練されるとたぶんあれは悲劇オチ(と取ってつけたようなハッピーエンド後日談)じゃなくてちゃんと喜劇にもなれたはずだなー、悲劇にしてももっとレベルの高い悲劇になれたはずだなーと思うということです。
「物語の洗練」を。
機能不全家庭の傷なめ的なものでなくて、もっとちゃんと救いとか絶望とかが欲しい。
具体的にいうとこのネタで小説でも書いてそれで旅行のためのおこずかいとか稼いでみたいんだけども、まあおこずかいにならなくてもいいから二度と回路起動スイッチにこのネタで手を触れられる奴がいなくなるように自分でパテを塗っておきたい、そのために小説を練ってみたい、ということでした。
すでにやってる人いるけどねそれ。舞城とかね。でも最近なんか舞城も振るわないっていうか、「その先が欲しいんだけど!」みたいなあたりで止まっちゃってる感するからね。ジョジョノベライズ期待してます。
「君たちは何のために学問をするのか 何のためにこの松下村塾に来ているのか?
日本のため人々のためといいますが、具体的にはどういう人々ですか?
的を見ずに矢を放っても的には当たりません 目的のない学問はすべてが無駄になります
何のために学問をするのか、それは学問をしたくてもできない人のためにするのです!
人々のためとはそういうことです 諸君が松下村塾に来るのは 松下村塾にも来れない人々のために来ているのです
それがわかれば一分一秒もおろそかにはできないはずです みんな私の代わりに力のかぎり戦ってください」
吉田松陰の講義は平地にありながら最新の情報に溢れており、藩校である明倫館をしのいでいたとされる。
(松陰と京都で知り合った勤皇思想家梅田雲浜=安政の大獄第一の逮捕者もこの頃松下村塾を訪れ各藩の政治状況を伝えたりしている)
とはいえ罪人の開いた私塾であるから白い目で見られ、上士の子である高杉晋作や久坂義助などは親の目を盗んで通ってくることになる。
(その他の生徒は貧農の子伊藤俊助、足軽の子品川弥二郎、中間の子山県小助など。)
松陰は一方的に教えるのみではなく、様々なテーマを与えて生徒に調べさせ、
順番に教えあい、その時は松陰も生徒となって学ぶ。これは野山獄時代と同じ。
学問といっても磁極を論じたりしているのであるから、しょっちゅう凄まじい議論となり、
先生も生徒も一緒になって朝まで大激論を戦わせたりするのであった。
したがって、松下村塾には遅刻も早退もない。各自の都合で来れる時間に来て、時にはその場で働きながら学ぶといった様子であった。
働きながら学び、学びながら働く。松下村塾は常に熱気にあふれていた。
物置を改造した松下村塾はあまりにせまく、毎日入りきれない生徒が庭にあふれていた。
(桂小五郎はこの時江戸にいて、吉田松陰とは往復書簡による師弟関係)
#薩摩 精忠組#
斉彬復帰後も、改革が第一優先であり
お家争いを防ぐため、「高崎崩れ」の犠牲者救済は、政治的バランスを考慮して後回しにされ、
結局流罪にされた者は2年以上放置されることになる。
この当時は、お家の安定が個々人の身分より優先されるのは、むしろ武士であれば当たり前、という時代だった。
斉彬は参勤交代から帰国し、洋式の事業も見通しがつき、斉興・久光派も落ち着きを取り戻してから
ようやく高崎崩れの流罪者が赦免され流罪からかえってくることに。
斉彬に直訴状を書いた。
書いているうちに、まず百姓の上に胡坐をかき、私服を肥やす役人どもへの怒りにうつり
さらに元凶たるお由羅派をなぜ処罰しないのか、という批判に及び、
勢いはどんどんエスカレートしてついには蛮学に湯水のごとく金を使う斉彬への彈劾となった。
(基本的にこの当時の武士というのは全員無知である。何も知らされていないから当たり前だが。
特に薩摩武士は武芸や忠誠がやかましく、下級武士である西郷は狭い学問でも実力は下の下であった。
だから、目についた農村の貧しさについて、その歴史も理解できず、目の前のことがすべてになってしまう。
西郷はこのあとも、斉彬の意図を全く理解できず、そのくせ忠義と称して暴走を繰り返している
しかしこれでも農村の痛みに気づいただけまだましな方というから、どれだけ当時の武士が
ものを知らされず、また忠義と称して暴走しやすい困った気質の持ち主であったかよくわかる。
江戸時代に行われていた偏った儒学や忠孝の教えでは、基本的にこういう愚か者を作ることしかできない)
→しかし、島津斉彬は彼を用いた。そのくらい「手駒としては仕える」人物だった
「考えは180度違っているが、それは今後の教育でなんとでも変えられる
おいそれと変わらぬのが、そちが持って生まれた無私無欲の心 そこを見込んだ。今日からわしの片腕となってもらいたい」
水戸斉昭さえ制御しようとしていた斉彬は、自分が死んだ時や、動きを制御しきれなかった時の危険については一切考えていなかっただろう。
→私はこの頃の西郷のような直情径行ガ忠義という概念とセットに成った、視野が狭くすぐに他人に攻撃的になる人間が嫌いだ。
西郷に関しては当時のことだから納得はできるわけで、現代でもたまにこういう奴がいるのを見ると吐き気がする。
「これといった目的もなく、落ちているものを探すのでもなくただなんとなく歩いているのですか?
我が国でも風流人はそういうことをしますが、それは楽隠居の道楽です。
あるいは無法者、ゴロツキ、怠け者のたぐいです。
江戸で何もせずに歩いているだけの人間など、挙動不審とみなされしょっぴかれても文句は言えませんな」
「日本の役人は世界最悪と言える 犬が何も考えられないのと同じ」
とまぁこれはいいけど、やれ風呂はだめだの山菜は食えないだの、ヤンキーはほんとにwww
「この1年は何だったんだ…国際社会の常識を知らぬ無知な国が相手だ。
彼らには経緯を持った対話を重ねて教えていくしかない。そう思い私は之までずっと耐えてきた。
しかし彼らは頑として心を開かなかった それがどうだ たった一艘の軍艦を見た途端
向こうは大砲に動揺した 私も相手が怯えるように話した
ハリスよりペリーが正しいのなら、言葉はなんのためにあるのだーーーー!」
#攘夷志士の怖い習慣#