はてなキーワード: プレイヤーとは
本来店の中で写真を取るのってマナー違反だと思うんだけど、最近それを知らないらしくいひとにあってびっくりした。
いやいやいやいやきみねぇ、本屋で本の内容写メしたりしたら犯罪でしょ?他の品物だって同じだよ。食べ物屋が例外的に寛容なだけで、本来自分のものではないものを撮るときは一言断りを入れるものだろ。最近は肖像権とかだってうるさいんだから、通りすがりの人にレンズ向けちゃだめでしょ。
ということを一から十まで行ってそれでも暖簾に腕押しな返事が帰ってきた上に貸したレンズを服の裾で拭かれたりしたのでもう会いたくない。
一体何なんだあれは、宇宙人か。
しかも美術館でも写真撮りたいとか言っててもうなんというかダメダコリャってかんじ。
それ以外にも熱が出てるのに「お世話になった人が来てるから!」と特攻したり(それうつしたらどうすんだよ恩知らずめ)、
人んちに飯食いに来るのに全く材料費を負担せずにしかも手土産を持って来なかったり(かねだせとは言わないがせめてペットボトルの一本でいいから持って来いと思う…)、
病み上がりだというのにほぼ毎日飲み会に行ったり(死にたいなら一人でどうぞ)、
恋人相手にもひたすら受け身で相手がくれないからとかいってメールを一週間せずにキレてたり(だったら自分からおくれよ)、
旅行の計画を立てると全て開いての言いなりの割に行程ずっと上の空な感じで(ツマランならそう言ってくれたほうがなんぼかましだし、もしつまらんならお前も意見出せよと思う)、
挙句の果てに人のオーディオプレイヤーの中身勝手に見たりプライベートのブログを見せろと迫ってきたり勝手に人の写真撮って壁紙にしてたりなんつーかあんたストーカなんすか?
自分の快さと楽さしか追求してないんだろうなぁ。相手がどう思うかとかどういう労力が払われてるのかとか考えてないんだろうなぁ。ドン引きですよ。
倫理に従って生きるのではなく、生き残った者が倫理という協調ゲームのしくみを有していただけだ。
プレイヤーが一人になるとゲームできなくなる(せねばならない)のではなく、結果的にゲームという概念が消滅するだけだ。
生き残った者=繁殖に成功した者であり,彼らが持っている協調の仕組みは,
・夫婦になることを是とする
・子どもを持つことを是とする
・子どもを育てることを是とする
ですよね.
みなさん堂々と繁殖しているんじゃないでしょうか.
子どもを作ることに罪悪感を持つことはむしろ反倫理的なのでは.
あなたが感じるいらだちは,理性的に考えられる倫理(おそらく自由とか個人の尊重)と,
現実に存在する倫理(生き残った者が有する協調ルール)との齟齬にあるのかな,と..
ベーシックインカムならぬベーシックエデュケーションを施して,
成人になればあとはご自由に市場経済の中で生きてくださいと自由意思を最大限尊重する,
ここでの一本道というのは、EDがひとつしかないという意味ではないことに留意。
女医が教えるセックスなんたらという本のレビューに、「セックスの必殺技を知りたくて読んだのに載ってないし、内容が冗長でつまらなかったです」とあった。
あの本は「セックスに必殺技なんてものは無いよ」と読者に伝えたかったんだと思う。しかし読者は必殺技を期待してしまう。
女の身体をゲームに見立てると私も共感できる。一定のペースでボタンを押し続けると敵がじんわり倒れます~なんて製品があったら、それは酷いクソゲーだ。
必殺技やらコンボやらがキマって、ド派手に倒せるからこそゲームは面白い。そういう意味では女の身体ははっきり言って面白くない。
やりこみの努力をすることで強くなるのもゲームの醍醐味だと思うが、女は男の努力に応じて良い反応を返すようにはできていない。
気分にムラがある。何もしていないのになぜか上機嫌でやたらと優しいときもあれば、良いことをしたのになぜか不機嫌なこともある。
努力に対する正当な報酬が得られないようでは、プレイヤーもやる気を失ってしまうだろう。
ゲーム開始時の初期ステータスがプレイヤーによって違いすぎるのも、やる気を削ぐ一因だと思う。
初期ステータスがやたらと高く、初戦からボス戦で、一回で倒してしまって終了…というパターンもあれば、
初期ステータスが低すぎて最弱のザコ敵すら倒せず、時間だけが経過してしまい終了…というパターンもある。
その「別問題」を一緒くたにして語ってるのは君の方じゃないの?
「社畜」は、労働力という商品をダンピングして売ってる悪質な取引業者だ、という自覚があんの? キレイゴトにくるみながら平気な顔で市場経済のルール破壊してる社畜とかそいつら洗脳してるブラック会社には、会社のことも社会のことも語る資格はないと思うがね。そういう悪質なプレイヤーには退場して貰う、それがこの社会を守る道だろ。
土曜日になってようやくまともな食事をとったばかりです。
メールボックスは、たぶん読むことはないだろうメッセージでいっぱいになっています。
疲れましたが、私は幸せです。
読者の皆さんが自分の声を政治家に伝えられるようにすることであり、
どちらも成功裏に終わりました。
私たちが用意したツールを使って800万人もの人が自分の地域の議員の連絡先を確認し、
ソーシャルメディアではさらに何百万人もの人が自分の意見を発言しました。
何千人ものジャーナリストがウィキペディアの黒い画面をはりだして記事を書きました。
ここで一度、何が起こったのかをちゃんと理解しておくことが重要だと思います。
私たちの立つ足元が、大きく揺れ動いたのですから。
ジャーナリストは古いメディアと新しいメディアの衝突としてこの出来事を見ていますが、それは間違いです。
彼らがそういう見方をするのは、ふつうの出来事はそうやって動くからです。
元Sunlight財団のClay Johnson氏は、
「こんにち、自分の業界にとって有効な法案を通しワシントンから旅立たせるためには、適切なロビイストに金を払い、適切なキャンペーンをはり、適切な法案を適切なときに書かなければならない」
と言っています。
ちょうど同じように、アメリカ映画協会会長で元上院議員のChris Dodd氏は、ウィキペディアのブラックアウトを評して
「権力の濫用。IT業界の利益を守るため、ユーザを痛めつけ企業の駒として使う行為」と呼びました。
彼にとってこの問題は金と利益に関わる衝突にしか見えないようです。
NPR、 Associated Press、Fox Newsといった報道機関がすべて、この闘いを、
ハリウッド対シリコンバレーと銘打って伝えたのも、そのためです。
Bloomberg が、テレビ・映画・音楽業界がワシントンで使っているお金と、Google と Facebook の支出とを比べているのも、そのためです。
このブラックアウトはプレイヤーを増やしただけであって、また同じゲームが続くのだろうと想像しているのです。
そうではないのです。
インターネットで流れてきたClay Shirky 氏の講演をご紹介しましょう。発言を引用します。
SOPAとPIPAで危機に瀕するのは、ウェブサイトだけでもその所有者だけでもない。私たちが、一人の人間として、他の誰かとものごとを共有してよいという保証がおびやかされているのです。
私たちこそが、SOPAとPIPAに監視される対象になります。インターネット上で最大のコンテンツ生産者は Google でも Yahoo でもなく、私たちだからです。
私たちはそれが本当だと知っています。
ブラックアウトを主導したのは、 GoogleやYahooやFacebookやTwitterのCEOでもなく、ウィキメディア財団でもなかったからです。
ブラックアウトを主導したのは、普通のインターネットユーザでした。
その中心にいたのは、Osarius さん、 SiPlus さん、 FT2 さん、 Titoxd さん、 Fluffernutter さんといった人たちでした。
ウィキペディアがSOPAとの闘いに加わったのは、巨大な利益のためでも、資金のためでもはありません。
ウィキペディアは非営利組織によって(コントロールされているのではなく)運営されています。
そこには守るべき企業利益はなく、著作権侵害で資金を得ることはありません。
Reddit は、リンクを共有しコメントを付けあう人々の集まりです。
Metafilter も Tumblr も Craigslist も Cheesburger network も Oatmeal も 4chan も identi.ca も同じです。
どれも巨大企業ではありません。
15年以上にわたって、インターネットは普通の人々にコンテンツ製作の手段を提供してきました。
私たちがインターネットを使って作るのは、時にはかわいい猫の写真であったり、時には世界最大の百科事典であったりします。
時には腐敗した体制を倒すために使ったりもします。
昨日起こったのは、世界中のインターネットユーザが自分の声を見つけたということです。
自分たちの自由をおびやかす人たちに対して闘うための声を。
著作権侵害が問題であることは確かであり、被害を受ける人たちが自分の問題を解決したいと思うのは当然のことです。
しかし、彼らの問題は、普通の人々が自分を表現し、共有し、学ぶ力を守ることほどに重要ではありません。
聞くところでは、議会はIT企業とユーザに意見を尋ねに来るようです。
何が欲しいのか。
SOPAとPIPAをどう変えれば満足するのか。
OPENにすればいいのか。
新しい法案を作るべきか。
ウィキペディアがブラックアウトで伝えたかったこと、そして他の対SOPA・PIPAの行動が伝えたかったのは、
「ネット上の著作権侵害を撲滅する方法について話し合おう」ではありません。
「これだけ大事なインターネットを壊すな。私たちがこれまでどおり働けるようにしろ。学び、作り、共有できるようにしろ」です。
ここで、ブラックアウトに関わった皆様に感謝したいと思います。
下記に並べた人たちは、私が一緒に働いた、または働くのを見た人たちです。
関わっていたのにご自分の名前がなかったとしても、感謝をお届けしたものとお考えください :-)
無作為な順序で: Luke Faraone, Jan Ainali, Puki, André Savik, Dcoetzee, Vituzzu, Stacey Merrick, Dan Rosenthal, Michael Snow, Sumana Harihareswara, Wikitanvir, Jim Redmond, Kaganer, PeterSymonds, Mikołka, ZeaForUs, Spiritia, Iliev, Anubhab91, Ali, Haidar Khan, Joan manel, Davidpar, Cameta, Mormegil, Okino, Sir48, Giftpflanze, Rbmj, Tecsie, BreadMaker, Antonorsi, Mariadelcarmenpatricia, Huji, Tommikovala, Nikerabbit, Lamiot, Seb35, Zetud, Amire80, Rekp, איש המרק, Eranb, עידן ד, Trần Nguyễn Minh Huy, Itzike, Vibhijain, Ruy Pugliesi, Roberta F., Tgr, Kelly Kay, Pagony, Alensha, William Surya Permana, Gombang, Gregorovius, Civvì, Gnumarcoo, Austroungarika, Miya, Whym, Takot, Melberg, Omshivaprakash, Idh0854, Freebiekr, Diagramma Della Verita, RajeshPandey, Mathonius, Romaine, Mwpnl, Whaledad, Wpedzich, Sp5uhe, Przemub, Ency, Przykuta, Teles, Vitor Mazuco, Lvova, OC Ripper, Euriditi, Maduixa, Wikiwind, Јованвб, A1, Олег-літред, Violetbonmua, Prenn, Cheers!, Sameboat, Tbayer (WMF), OhanaUnited, Tom Morris, Wdchk, Sarah Stierch, Risker, Billinghurst, NuclearWarfare, Jimmy Wales, Orionist, Ryan Kaldari, John Du Hart, Aaron Schulz, Kat Walsh, Cherian Tinu, Mike Godwin, Jim Burger, David Gerard, Johnuniq, James Forrester, Prodego, Fluffernutter, Dana Isokawa, Fae, Andrew Lih, Brandon Harris, Jeremyb, Michelle Paulson, DeltaQuad, Pete Forsyth, Fetchcomms, Heather Walls, Rachel Farrand, CMBJ, Erik Moeller, Fifelfoo, James Alexander, Itzik Edri, Katie Horn, Iván Martínez, Matthias Schindler, Ben Hartshorne, Jon Davies, Anthere, Slobodan Jakoski, Victorgrigas, Dimce, Jerry-Yuyu, Patricia Morales, Stephen LaPorte, Varnent, Lennart Guldbrandsson, Neil Kandalgaonkar, Greg Maxwell, Ian Baker, Jeandré, Howie Fung, Ryan Faulkner, Beatriz Busaniche, Philippe Beaudette, Ziko van Dijk, Oliver Keyes, Dimce Grozdanoski, Keegan, André, Guillaume Paumier, Maggie Dennis, Mentifisto, Phoebe Ayers, Arne Klempert, Mike Peel, Gorilla Warfare, Geoff Brigham, Swarm, Peter Gehres, Megan Hernandez, Leslie Harms, Tomasz Finc, Pretzels, Jay Walsh, Whenaxis, Liberaler Humanist, Sam Klein, Andrew Gray, Fifelfoo, Zack Exley, Katie Filbert, Victor Vasiliev, Guy Chapman, Avi, Kenneth/MD, Stu West, Harry, Ryan Lane, Josh Lim, Matthew Roth, Richard Symons, Gayle Karen Young, Yuvaraj Pandian, Evangeline Han, Milos Rancic, James Hare, Adrienne Alix, Samat, Tomasz Ganicz, FT2, Alessio Guidetti, Galileo Vidoni, David Richfield, Alison Wheeler, Siska Doviana, Erlend Bjoertvedt, Анастасия Львова, Steven Walling, Casey Brown, Tim Starling, Patrick Reilly, Arthur Richards, Asaf Bartov, Alolita Sharma, CT Woo – そしてもちろん、ブラックアウトの決定をした、1800人の英語版ウィキペディアンの皆さん。
enWPのブラックアウトを支援するために抗議行動をしてくださった、次の姉妹プロジェクトにもお礼申し上げます:アルバニア語版ウィキペディア、アラビア語版ウィキペディア、ブルガリア語版ウィキペディア、カタルーニャ語版ウィキペディア、中国語版ウィキペディア、クロアチア語版ウィキペディア、オランダ語版ウィキペディア、グルジア語版ウィキペディア、ドイツ語版ウィキペディア、ギリシア語版ウィキペディア、日本語版ウィキペディア、韓国語版ウィキペディア、インドネシア語版ウィキペディア、イタリア語版ウィキペディア、ノルウェイ語版ウィキペディア、ポルトガル語版ウィキペディア、ロシア語版ウィキペディア、セルビア語版ウィキペディア、スペイン語版ウィキペディア、スウェーデン語版ウィキペディア、ウクライナ語版ウィキペディア、ベトナム語版ウィキペディア、ウィキメディアコモンズ。
まぁ人生全体でなくても、人生のうち一定期間のプロセスを疑似体験するものと考えます。
プレイヤーは最初はゲームの仕組みがわかりません。つまり幼児か新入社員という感じでしょうか
むしろひつようだよね、とかありがたいよね、とすら思う。
それがだんだん子供として、あるいは独り立ちできるレベルになってくると、
いつまでも決まった手順で、決まった所作しか行えないのでは不満になってくる。
活躍の場を与えて欲しいと望むようになる。
ゲームというのは基本的に、老年期になって動けなくなる状態(飽きが来てやる気が無くなる)前の
壮年期、働き盛りの頃に、心身ともにピークの状態でラスボスやらクリアできるようになっていたと思う。
(末期状態のJRPGはいつまで断ってもムービばっかり、チュートリアルばっかり、お使いイベントばっか、だったりで
心身ともに充実したと感じる状態に到達することがないまま終わってしまったりしてつらいものもちらほら)
ソーシャルゲームだとこれがない。自分で終わりを決められない人には無間地獄がまっている。
ネトゲーでも格ゲーでも同じやんというかもしれないけれど、違うんだ。
余程のコミュ障でない限り、ネトゲーや格ゲーやカードゲームは誰かと一緒にやるだろう。
まぁこれはこれで仲間に拘束される難点があるけど、仲間いなくなったらなんとなく解散ってやめどきが訪れる。
仲間がいる間が一番面白いんだから、やはりベストに近い状態でやめられるだろ。
ドリランドとかは完全に一人旅だったからやめどきを自分で決められないとやめられない。
しかも、いつまでたっても同じことの繰り返しで何一つ目新しいことが起こらない。
お金を払えば「ゲームのスピードが上昇する」けれど、カード集めとかを除いて「特に目的がない」ので早くすることに意味が無い。
なんのためにやってるのかわからないものを延々とやりつづける。
誰もここで終わりだよとは言ってくれない。 やめるなら自分でやめどきをきめなければいけない。
ネトゲーと違って、友達がいなくなったとか、課金もったいないという言い訳も与えられない。
でも、やめれば「なんでオレはこんなゲームをやってたんだろう」「今までやってた分はなんだったのか」って心の声が痛い。
きっぱりやめない限り、グリーを退会しない限りデータは残り続けるので、復帰しようと思えばいつでもできてしまう。グリーは無料です!
うっかり復帰でもしようものなら、ますます辞めることが難しくなる。
「辞めるのが難しい」くせに
「格ゲーやシレンと違って(友達がいる限り、ダンジョンが生成され続ける限り)成長し続ける、という仕組みもない」わけだ。
こういうデザインのゲームは最初からやらなければよかった、という結論しか出てこない。
http://blog.pettan.jp/archives/50638552.html
という話はここで私よりはるかに上手に語られているのでこちらを参照して下さいませ
この問題については「コミュニティステージを上げる」ことでしか対応できないと思ってるけど
また「自分はどちらでもないがまとめ(ニュース)は見るw」と言う人も、
私のように、好きなゲームを好きな時にプレイするようなスタイルを取っている者にとって、
ゲハ的思考そのものが邪魔な存在ですから、もう管理者一人がどうこうという問題じゃないんですよ。
上で述べた人々は今回の騒動によって、Twitterによって彼の名前を出して馬鹿にしたりしていましたが、
「好きの反対は無関心」であるように、普通の人はそもそも眼中にありません。
ゲームは自分でかってにプレイしますし、ニュースが見たいなら各ニュースサイト、ゲーム会社・雑誌のサイト、
「今時、わざわざ、2chのまとめブログを見ている・気にかけている」時点で、
一般層…一般プレイヤーではないことを自覚して欲しいものです。
何度も言いますが、その「ゲハ的思考」こそが多くのゲーマーの敵です。
管理者一人潰している暇があるのだったら、あなたの考えそのものを改めて欲しい。
ここ数ヶ月仕事もプライベートもうまくいかず、ずっとイライラしている。
かといってそんな荒んだ心を癒してくれる存在のはずの彼女(同棲中)は仕事の愚痴ばかり言い、詳細を聞いてもはっきり答えず泣くか当たられるばかりでこちらのストレスなぞ露知らず。そして性格がだらしなく、掃除が出来ない。物忘れも健忘症レベルで、小さいことも大事なこともすぐ忘れそれの尻拭いをさせられるので癒されるどころかストレスが増す。気分転換にと外を歩きゃ当たり屋紛いに絡まれ文句を付けられる。唯一安らげる通勤時や昼の外食時は金切り声で叫び暴れる子供とそれを全く注意しない親、音洩れ野郎、携帯大音量ババア、ヲタ話を大声で恥ずかしげもなく2ch語で会話するニコ厨、そんなのに毎日のように遭遇する。
そんなこんなで今日ついに限界が来たのか、立ってるのもキツイくらいの頭痛が襲ってきたのでちょっと早めに帰らせてもらい、彼女もまだ帰ってきていないので頭痛薬を飲んで横になった。少し落ち着いて、音楽でも聞こうかとプレイヤーを再生したらハイロウズの日曜日の使者が流れてきて、普段カラオケも行かない自分が大熱唱を始めてた。
追い込まれている自分の現状と歌詞が重なり、今まさに励まされているようで、歌っている途中で涙が溢れ声が詰まった。
ブルハの頃ヒロトは好きで、ハイロウズになってちょっと離れていって、クロマニヨンズはノータッチだったけど、色々聞いて見ようかな。
オライリー本の値段は高いが、質も高い。
自分の専門分野のオライリー本は必ず一冊は持っているのが当たり前だった。「サイ本」とか本にニックネームが付けられてそれで通用するぐらいに、とにかくオライリーの本はwebエンジニアにとって特別な本であった。そして時代は変わる。
日本語で出版されるオライリー本の価値がゆっくりと毀損する間に、技術評論社の書籍の評価はうなぎ上りだ。
うん、ここ最近ではHadoop本は秀逸だった。トレンド技術を捉えてうえで数年は価値が落ちない網羅っぷり。
まだ枯れきっていない分野で日本語オライリー本が存在感を示した最後の例になるかもしれない。
乱立するKVS分野において日本語オライリー本は無力極まりなしで目も当てられない。
cassandraがようやく出たがversion0.8だ。外人さんが書いた原本を数ヶ月から一年かかって日本語に訳し終わる頃には技術自体が進化してしまって日本語版が出版される頃には賞味期限切れ間近という切なさ。時代にそぐわないとしか言いようが無い。以前のように大型技術が確立されたら五年十年それで食えます!ってな時代じゃないんよ。PerlとかMySQLのような大型で枯れきった技術はなかなか出ない。ああそうだいまだにMongoDBの日本語オラ本は出ていない。英語ではもう4冊か5冊は出ているというのにだ。乱立KVSの先頭を走っているMongoDBについて紙媒体の情報がほとんど無い切ない状況はいつになったら変わるのだろう。
この手の話題になるとすぐ「紙が悪い!電子書籍わっふるわっふる!」と叫ぶ人がいるが問題はそこではない。英語を日本語に訳しているタイムラグが問題なのだ。そこに日本語オラ本の致命的な欠陥がある。
一昔前のように大型OSS技術が出て枯れきる、なんてことは滅多になくなってしまった。英語原本を訳してる間にも日々技術トレンドが変わってしまうんだ。なぜ日本人のほとんどは英語が読めないんだろう。文科省のせいにしたって何も解決しないけれど、webエンジニアなら英語ぐらい読めるようになれやお前ら。
おっと話がそれた。そろそろ技術評論社について語ろう。面倒なので三行で語る。
日本人のスタープレイヤーが書いた原稿を元に出版される技術評論社の書籍の評価が最近うなぎ上りだ。
特にWEB+DB PRESS plusシリーズはどれも凄まじい出来で恐れ入る。
公式サイト http://gihyo.jp/book/list?series=WEB%2BDB%20PRESS%20plus
ますます技術トレンドの移り変わりが激しくなった今、翻訳という形態の技術書の価値が無くなろうとしている。オライリーとて例外ではない。
オラの功績はすさまじいものがあるし、足を向けて眠れないぐらいなのだが、それでも俺はこのエントリを書かざるをえないぐらいに最近の日本語オラ本にはガッカリせざるを得ないのだ。
日本語の本は日本人が書けばいい。訳なんていらない。それが当たり前の時代がそのうち来るだろう。
あとwebエンジニアならいい加減英語読めるようになろう。努力すればすぐに読めるようになるさ、来年はそういう年にしよう。
じゃあおやすみお前ら。
よいお年を。
いや、あのー、インカム重視でごりごり金稼ぐこと目的にできてるゲーセンシステムで本当に遊んだ時代があったのか?
あのバカスカ死にまくるゲームバランスで、プレイ回数の少ない慣れないプレイヤーはあっというまに残機なくしてコンティニュー。
もちろんプレイヤーは得なんかしないけれど
基本的にひとつのコンテンツで長く遊んでもらえるように調整されている。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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今度はキミが、「うるさい音漏れにはちょっとくらいのシャカシャカ音は含まれないと皆思ってる」っていうデータを探してみるべきじゃないかな。
という意見に対しては色々探っているんだけど、統計というかきちんと議論をしているコンテンツがないんだよね。
そもそもこれにいちいち反応しているのはマナーやモラルを理由に大声で0.1dbの音漏れも許さんぞっていう人間は実は少数派の声がでかい神経症なんじゃないかという主張だ。
http://anond.hatelabo.jp/20111221124303
「音漏れ=爆音=難聴」というのもおかしい決め付けだと感じる。
これはもう脅迫観念なのかもしれないけれど、ほんの微小な音(プレイヤーの最小設定)で聴いていても「シャカシャカ音」が漏れているんじゃないかと不安になる。
もちろんそういう奴もいるかもしれないけれど「シャカシャカ音」に関してはそういう場合だけではない。
本質として音楽は自由なものだし携帯プレイヤーがこれだけ普及しているのに屋外で音楽を聴く人間はジャンキーなんて意見は頭がおかしいとしか思えない。
まとめると音漏れが良い・悪いの話ではなくて
「盛大に音漏れするのはもちろんダメ。だがイヤホンや音量にも気を使っているのにほんの微量の音漏れだけでも許されないなんて息苦しい。」というのが通勤時に音楽を怖々最小音量で聴いている自分の考え。
たとえば以下のページを見てみると大体わかるんだけど
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=47922
音漏れはどこまで許せるのか、というような議論になると大抵過激な電車内無音至上主義者がマナーやらモラルやらを盾に音楽を聴くのがそもそも悪いというような論になるのだけれど(統計をとったわけではないが)シャカシャカ程度なら気にならないという意見もある程度あるなかで「音楽をいつでも楽しむ権利」を阻害されるのはいかがなものなの?
グリーは海外にこの金を搾り取るシステムが通用するか試すという。
いろいろ試すのはいいことだ。
このふたつをとりあげていた。
1つ目の「ソーシャル」これはNHKの言葉の使いかたが間違っている。
ソーシャルゲームは何もモバゲーのような携帯電話のゲームだけではない。
仲間と一緒に遊ぶのが面白い、他の人と協力してボスキャラを倒す
ゲームの楽しさを、こう利用者は語っていた。
アホだ。貴重な時間を使ってしまっていることに気づいていないのだ。
自分に必要なことよりも不必要なことに時間を使ってしまっていて
幸せになれると思っているのか。
幸せ=充実感=自分が生きていて他の人に役立っていると実感すること
他の人のために役立つには、何か仕事をしなければいけない。
自分が他の人のために働き、その人のために良いことをしたからお金をもらえる
仕事をするには3つ必要なことがある
学校でまなぶこと
他人のために働く
早いうちに始めるのに越したことはない。
なりたい将来の自分について「紙に書きましょう」
気づこう。
やる必要のないことはできるだけやめることだ。
遊ぶことは必要な場合もある。知的作業の後20分以上遊んだほうが
うまく利用してください。
NHKの放送では、100円で一定時間待たなくてもプレイできたり
欲や怒り嫉妬を発生させてお金を知識のない弱者からむしり取る。
おいおいと思ったが、DeNAも気をつけなければいけない。
しかし
知識のない大人がモバゲーを遊ぶのは
学習や仕事に使えば、これほど役立つ効果のあるものはめずらしい。
例えば
そういうのでもいいと思う。
対戦ゲームで欲を煽るより、協力してお互いのプレイヤーがいいことをする
そういう流れにするべきだ。
http://anond.hatelabo.jp/20111208222023 についてふろむださんより以下の指摘あったので並べ替え。
1から順番に上から今の仕事に適用していってはだめ。これを2→5→7→6→4→3→1の優先順で今の仕事に適用して見直すのがお勧め。
仕事とは作業をやることではない。仕事とは目的を達成することだ。だから、相手から頼まれた方法が必ずしもベストなやり方ではない。相手の目的を達成することが重要だ。だから、その仕事は誰のために、何のために必要で、ゴールは何がどうなっている状態なのか、をしっかりヒアリングすることが大事。ゴールを聞いて、それを達成するための近道を常に考える事。
ほとんどの僕ら社畜にとって、仕事とは「関係している一番偉い意思決定者が満足するものをつくること」だ。だから、誰がその仕事の成果を評価する役割を担っているかを常に追いかけて、彼のニーズ・評価基準を見つけ出そう。これをするだけで、後からひっくり返されることがなくなる。
全てを完璧にしようとすれば時間なんていくらあっても足りなさすぎる。だから、その作業の中で「適当にしていいもの」「絶対に抑えて置かなければならないもの」をヒアリングをして見つけ出し、手を抜けるところは徹底的に手を抜こう。時間内に求められたアウトプットを出すことが仕事の目的で、誰もが見惚れる配色のパワーポイントをつくることは僕達の仕事ではない。完璧主義なひとほど完璧から遠ざかる。捨てるべきは捨てよう。
作業をする方向性の大枠が決まったら、その状態で見せるとムダな差し戻しが防げる。たとえば、パワーポイントを作る作業なら、アウトラインと主なメッセージが決まった時点で見せる。相手がダメ出しをする部分を先に出し尽くせば、ムダな差し戻しなく作業ができる。
組織の大抵の仕事は前例があるものだ。たとえば、コンサルタントの提出する資料のかなりの部分が既存の資料の使い回しかアップデートだったりする。すでにあるものを再度創りだすことほど馬鹿な事はない。遠慮無くパクろう。とにかくパクる。で、自分よりもっとうまいやり方をしている人がいたら、躊躇せず彼の秘訣を聞き出す。とにかく、パクろう。
重いタスクほどすぐに着手するべき。なぜかというと、人間には認知的不協和というのがあって、着手したものが終わっていないと気持ち悪いと感じる心理があるからだ。着手したら終わっているべき、という認知があって、それが解決されていない状態は気持ちが悪い。だから、解決しようと集中して作業できるように心が動く。重い作業ほど、とにかく1分だけでいいので着手しよう。きっと1分は一時間になっているはずだ。
「時間をかけて頑張って解決しよう」と考えている時点で、あなたは最も効率の悪い仕事のやり方を選んでいるといえる。なぜなら、「時間で解決しよう」というのは、創造的な解決方法を放棄していることだからだ。たとえば、「象を3秒以内にかけ」といわれたら、誰でも象を表現するために最適かつ短時間で終わる方法を考えだそうとする。時間による制限は人の創造性を引き出すシンプルかつ効率的な方法だ。だから、「イマイチ効率が悪いやり方をしているようだな」と感じるなら、自分がどれだけ時間を区切って作業できているかをみなおそう
こういうことは本来は誰もが理解しておくべき基本中の基本なのだと思いますが、そうはいってもその基本をわかっていない人がいた時、この基本をどう伝えるかというのは結構大事だと思います。
ネックになりそうな部分から潰して行って、「時間を区切って仕事をする」ことができる様になる状況を作る。
そうしないと、「時間を区切ってやる」と思っていても、いろんな都合でだめになってそのうちヤル気がなくなる、そういう問題を防ぐ、と。なるほどなー。
日頃から、ライフハックは役に立たないわけではないが、できない人間が実行できるようになる過程をを念頭において書かれていない点について批判的な氏ならではのご指摘といえるかと。
フロムダさんがこういうことを書いているわけではないので注意。
要するに、みんな「時間を区切ってやる」ことの重要性はわかっていても、それを実行することの困難さを十分に認識していない。
できる人なら当たり前にできるから1番手においてくるのだけれど、それができるようになるために、ステップを踏んで行こうという事だろうか。
また、業務の遂行には言うまでもなく意思決定者の存在、意向が先にたつわけで、それは本人が必ずしも自由にできるわけではない。
その部分が明確でない、伝わっていない、という問題は、双方向の問題だろう。この部分を、MBAで学んできて、マネジメントを志す人間が軽視しているというのはダメなんじゃないか。
数字や効率だけで物事を測り、働く人のことを理解せず、自分の思い通りにならないことはただ嘆くだけ、というのは頭でっかちで融通がきかなさすぎるだろう。
さしずめ、プレイヤーとしては優秀だがマネジメントができない上司の3要素、とか並べると
・理屈を論理的に説明できてもけれど、部下を納得させて動かすことができない。
・マネジメント上の問題もすべてその人のやる気や自己愛の問題に還元して自分の問題とは考えない
で、結論としては「自己愛がない」に対して「部下への愛がない」とか「自分がうまく行ってる限り現状に疑問を抱かない」=unlearnできないいう感じになるだろうか。
繰り返すけれど、↑は私が勝手に思ったのでフロムダさんはこんな事言ってないですので誤解のないよう。
ライフハックとか自己啓発とかの記事の中には、単に昔から上司が部下に教えてきた「普通の仕事の常識」のポイントをまとめたものにすぎないものも多くって、それって、どこが啓発でどこがハックなんだよ、単なる新入社員教育じゃん、みたいなところがある。
能力の高い上司が丁寧にやり方を教えても、能力不足の自分のやり方に固執して仕事ができない部下は、自分よりも能力の高い人間の能力の高さを認識する能力がないか、プライドが高すぎて自分の能力不足を認められない人。前者だと絶望的。後者だと生き方を変える必要があるがそこまで上司の役割なのか?
元記事は伝え方がダメダメだったのと、それに対する対処を投げ出しているような印象を与えたために批判を受けただけで、考え方自体は間違ってないんだろうなぁ。
上司が部下に踏み込み過ぎるとすぐパワハラとか言って逆ギレすることが許されかねない時代に、上司にどこまで責任を持てるのかってのは考えてみると難しそう。
早川教授の問題と含めて考えたい。 もうそんだけ部下が仕事もできなかったり迷惑をかけておきながら自分の権利だけは一丁前に主張して指導を拒むのであれば、
もう面倒見切れないから全部自己責任でいいんじゃないかな、と思う上司の方がいても責められないかも。
こういう時代だと、上司が部下の期限をとってまで気持ちよく仕事をやらせるなんてのは不可能だ。
部下の側からすれば、なんとかして上司のリソースを自分から模擬取りに行く必要がある。
ならば、本当に学ぶ気概があるなら積極的に部下の側から上司にその姿勢を示し、役に立つことは受け入て実行するところを見せるべきだろう。
そういうのを漠然と表現すると、素直さが必要だ、って話になるんだろう。
ただし、部下側が上から見たら「素直な」態度を心がけるのは「自分が生き残るために必要だから」だろう。生存戦略だ。
生きるための必要に応じて自己変革するのであって、それは性格の問題ではないと思う。選択の問題ですらない。これができないやつは生存本能が壊れているとすら言えるかもしれない。そのくらい言い切っても良いのではないかと思う。
きちんと現実を示して危機感を持ってもらった上で、態度は心構え次第で変えられるし、ヤル気のある部下には上司も応えるよって姿勢を示す必要がありそうだ。
って偉そうなことを書いてはみたけれど、難しいなー。私も役職持ちではないけれど、後輩の指導でよく悩むのと、昨日「灼熱の小早川さん」読んで色々思う所があったのでだらだらと書いてしまいました。
ともだち地獄云々の記事を読んだけれど、
要するにこれは友達が云々というよりは「普通」の枠がどんどん狭く、ハードルが高くなってしまって
その気持ちはよく分かるし大変やなー、と思うんやけれど、この部分気になる。
別に俺はドMだからハードモードでやりたいんだって人はそうしたらいいけれど、ちょっと荷物下ろして道端で休んでる人を鞭打つ必要もないでしょう。「死のロングウォーク」(スティーブン・キングの超絶傑作)はフィクションとしては死ぬほど面白いけど、現実では一番やっちゃだめなフィクションだってのに、なんで好んであのゲームをやりたがるのか
こいつ「死のロングウォーク」ちゃんと読んだんか、と思ってしまう。あと進学校とか友達多いやつは別にドMじゃねー。
ネットでの受験や勉強に対するイメージというのはいろいろとおかしい。
例えば東大合格するには1日10時間勉強しろだとか、訳の解らんことを言ってる奴を見かけるし、
そもそも受験勉強をバトルロワイヤルのような蹴落とし合いだと勘違いしてることがまず変だ。
(これはあほな親の影響かもしれん。低学歴の親ほどこのイメージを持っている。受験とか勉強にネガティブイメージ持ちすぎ)
上のような理屈で言えば、進学校では弱肉強食の世界が繰り広げられる。プレイヤーは生き残るために
いじめが多発しているように思われるかもしれないが、そんなことは一切ない。むしろいじめは極端に少ないだろう。
なぜなら、進学校における受験勉強は、バトルロワイヤルではなく、ロングウォークだからだ。
ゆったりとペースを守って歩き続ければいい競技だ。しかも休憩ありだし特定の地点までいけばゴールさせてもらえるヌルい仕様になっている。
ロングウォークを知らない人に一応説明しておく。詳しくはWikipediaよめ。というか原作読め。
100人の少年が、時速4マイルをキープして休みなく歩き続けるだけの競技。
時速4マイルを下回ると警告が発せられ、警告の累積が4回になると射殺される。一定時間警告を受けなければ、その累積は消滅する。
またこの競技は強制的に徴収されるものではなく、志願者が審査の上選ばれるものであり、その点でもバトルロワイヤルと全然違う。全く違う。
ロングウォークにおいて、参加者は、ゲームで勝つという絶対的な目標がある、
ゴールという絶対的な存在に対して、にわかな友達関係や、友達どうしの上下関係などゴミのようなものである。
つまり参加者はその絶対的な対してどこまでも対等であり、孤独である。
友達が多いことには価値がなく、友だちが少ないことはマイナスでもない。競技上はそこに意味はない。
周囲の人間を殺すことは許されていないし、周囲の人間を殺すことに何のメリットもない。
殺すような奴は即刻警告を受けて退場させられるだけだ。
大事なことは「退場させられない」ことであり、「余計なことをして自分の速度を落とさないこと」である。
これが守れる範囲で自由にすることはできる。
しかし、この条件が厳しいので、いじめなどというくだらないことをやっている隙がない。
競技のルールを守る以上は、同じ競技者としてリスペクトされ、競技のルールを破る奴は、違反者として相手にされない。ただそれだけだ。
しかも、厳密かつ明確なルールと厳しいゴール条件があるとき、人は攻撃しあうのではなく、助けあう。
シビアな状況では、本来的同士のものであっても、時に助け合い、支え合うのだ。本当に争うのはゴール手前くらいである。
お互いルールを共有し、リスペクトしあっている場合、仲間でなくても人は助けあうのだ。ソッチの方が強いのだ。
もちろんロングウォークでは脱落者は出るけれど、別の受験では実際に死ぬわけじゃない。でも脱落するのは苦しいから皆頑張る。
イジメなんざ結局、明確なルールや、高めのゴールを持たない、暇を持て余したやつらの破滅願望みたいなものだろう。
イジメ以外に序列をつけるものがないんだろ? 原始人でもできるからな。力で序列決めるとか。
ようするに、イジメやってますって時点で、それは自分たちはサルと同程度の社会能力しかありませんって言ってるのと同じなんだよ。
何ひとつ明確なルールがないから、ともだちみたいな曖昧なものを無理やり旗印に掲げてしまう。
ともだちなんかマイルールの典型みたいなものだから、ともだち集団ごとのマイルールの押し付け合戦になってバトルロワイヤルになる。
子供らが考えるともだちなんて完成度が低くて脆弱な仕組みだと、クラス全体を支え切れないから、常に外部に怯えないといけないから
自分から敵を作って攻撃的になる。 なんか本当に話を聞いてても馬鹿馬鹿しい。
サルですら、序列さえ決めてしまったらあとは安定する。戦いはボスを巡る争いに限る。それすらもできない。サル以下だ。
無駄にプライドばっかり高くて、やってることはサル以下。イジメをやるってのはそういうことだ、と教師は子供に教えるべき。
まぁ教師もストレス多いのか、職場内いじめとか多そうだけどなー。派閥争いとか無駄なことやってそうだけどなー。
はい、どう考えても少しの人間だけが救われて外部の人間は救われてないですね。傲慢と卑屈が合わさって最悪ですね。
子供の浅はかな知恵で、わがままを制御して十分に機能する社会が作れるならSFはいらねーての。私にだってよく分かんねーよ。
まーでも真面目な話、進学校になればなるほど、共同体の一員であることの価値が大きくて、イジメごときでそれを台無しに仕様とは思わないし、
いじめというものが実に非生産的であることが分かるからあんまりいじめってやらないと思うんだ。
あとそもそも、ロングウォークもそうだけど、こういう「競技」に参加する人間ってたいていイジメ被経験者だから、いじめに強い嫌悪感あることが多いね。
高校に通ってもいじめやったりいじめられてるやつらってさすがにちょっと甘いんじゃないか?
タイトルと違うけど、