はてなキーワード: 独立とは
田舎の一軒家でも、子供も独立して夫婦二人暮らし。年取って若い時みたいにバクバク飯食うようなこともなくなったし、脂物も控えるようになった
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テーブルに蛇口付きが増えてきたけど行ったこと無いからどんな感じかわからん
あと蛇口部分が故障したらどうするんだろうってのは気になっている
服着て行ってみるか
そりゃ新築の時はスタイリッシュでいいかもしれないけど、戸建てって修繕しながら30年40年と暮らすのに対して、家電の寿命ってせいぜい10年で10年もすると部品が廃盤になって修理もできない。
うちの実家はコンロ一体型のオーブンレンジがついてたけど、壊れて修理もできなくなった。一体型で全部機能がまとまっていた分、他の家電を置くスペースが全く用意されていなかったし、オーブンレンジだけを取り外すこともできなっかたので完全に無駄空間となり、リビングにIKEAで買ったステインレスの台を置いて、その上にオーブンレンジを置くこととなった。
スタイリッシュさの欠片もない。
後年、コンロが壊れて修理不能になってIHに切り替えたんだけど、コンロに比べて2周り程小さくなったので無駄空間ができた上、コンロを取り外した所は壁紙がないので、ホムセンで売ってるアルミの衝立で油ハネ対策をした超絶ださい空間となっている。
大型リフォームをする余裕があるならともかく、そうでないならビルトイン家電を使うより、家そのものには最低限の機能しか持たせず、広い空間を用意しておいて、その時々に必要な独立した家電を置く方がいいと思うんだけど、どうなんだろうね。
ヒトラーのユダヤ人説の漫画なんて今持ち上げたら荒唐無稽な陰謀論として学者らから叩かれまくって潰されても文句言えない感じなのに、現実では潰されることなく海外でも翻訳されてフランスの大手新聞社が日本の20大漫画の一つに選ぶほど傑作であると国際的評価が固まってる。
ユダヤ人の迫害を描いといて最後にそのユダヤ人がパレスチナで虐殺を行い、ナチスの若者がアラブ人ゲリラに参加して独立のために戦うという逆転現象が戦争の不毛さを描いていて素晴らしいし、今にめちゃくちゃ通じる物語。
エルサレムで一緒に過ごしたイスラエル人とパレスチナ人がフェンスで分断されて虐殺者とテロリストとして銃を突きつけ合うって現在進行系で起きてるんだろうな
塀で囲って独立させるのは有りかもな
自分がされたら嫌なことは、逆に相手にする側になったら相手も嫌がること。
自分がされて嬉しいことは、逆の立場になったら相手も嬉しいこと。
TCGをやればこのことがすぐに学べる。
フィニッシュカードを通す直前に出した釣りに相手が反応して、手札を0にしてくれたら凄く嬉しい。
逆に自分が相手にフィニッシュカードを通されそうになったら、その直前に出した大したことがないカード相手に過剰反応せず、手札が1枚以上の状態を温存したほうが、相手に苦しい状態を続けさせられる。
もし相手に1枚でも手札が残っていたら、それが打ち消し呪文だったらと想像するだけで下手な動きが出来なくなる。
だから、終盤に弱いモンスターを引いたときは、それを雑に出すよりも、「手札が1枚ある」という状態を維持するのに使ったほうが、結果的に強くなる。
「もしも自分が相手の立場だったらどう考えるか……」を意識することによって、相手の気持ちを想像する能力が次第に養われていく。
カードゲームやボードゲームをやることでその感覚を養うことが出来る。
俺はそのことを盲信していた。
相手の気持が分かることと、人に対して親切に出来ることがイコールで結ばれると思っていた。
だが違ったんだ。
カードショップには相手の気持ちがわかった上で、「相手が痛くても俺は痛くないから」と考えるサイコパスが大勢潜んでいる。
言葉巧みに初心者を騙してカードを巻き上げるシャークトレーダーや、風呂にも入らず平然と暮らす発酵チー牛共がその代表だ。
彼らはカードゲームを通して他人の気持ちを理解する訓練を続けるうちに「相手の気持ちと自分の気持ちは独立している」という事を学ぶことに成功した。
これは単体で言えば喜ばしいとで、いわゆるサリーアン問題を攻略することを可能にし、人間関係構築において多くの人が躓くポイントを突破していると言える。
だがその先で得た結論が「つまり、相手がどんなに苦しんでいても、それを意に介さなければ、俺は何も損はしないんだ」になってしまえばサイコパスが誕生する。
人の気持ちはわかるが、人が傷つこうが苦しもうが、それは自分とは無関係なのでどうでもいいと考えてしまうようになるのだ。
人の気持ちが分かれば、他人を不当に傷つけない人間になるなんてのは平和ボケした幻想だ。
本当に恐ろしいのは社会不適合者じゃない。
近所のスーパーはセルフレジを本格的に採用していて、セルフレジ6台と有人のセミセルフレジ(以下、有人レジ)3台体制で運用されている。
セルフレジは一般人が商品にバーコード当ててお金を払って…ってやってるので一人当たりの機械操作時間がそこそこかかる。
スーパーだと買い物の量もそこそこ多くなるしね。
一方で有人レジはバーコードのスキャンは店員がしてお金の支払いは機械端末で客がするので、スキャンと支払いが独立しているしセルフレジより流れが早い。
俺はさっさと帰りたいからいつも有人レジを使ってるけど、有人レジが空いていてもセルフレジに並ぶ客を見かけることがあって不思議なんだよね。
理由を考えてるんだけど、
4.その他
普通に考えて夫が低所得になるほど夫からの離婚が増えるわけはないので、これは妻が夫を養うのが嫌になって離婚してるということだろ
妻が養ってくれないなら、そりゃ専業主夫になりたくてもなれないよね
こういう人って「この夫婦は普通に仲が良い」って前提で考えてるのが不思議なんだよな
現実だと、元々妻は離婚したがってるけど夫に金があれば金の為に我慢をする、でも夫に金が無いなら我慢しない、
ってパターン多そうだけど(熟年離婚なんかもそのパターンだろ、子供がいるうちは金の為に我慢をするけど子が独立したら我慢する必要がなくなるから離婚する)
絵だけ見てもしょうがなくね?
漫画って雑誌や単行本の表紙で使うような一枚絵として描いたのだけじゃ漫画として成立せんだろ(表紙のカラーの漫画絵というのは漫画というよりイラストレーター的な技術で描かれるので、サイレントマンガ、一コママンガとは描き方のレベルでも同列にはできない)
平たく言えばお前は絵ではなく漫画が見たいんだろうから、雑誌の表紙は絵であってもグラビアであってもお前の欲求とは独立してるわけよ。
ドラゴンボール超面白い!ドラゴンボールはやっぱり超面白いと話題に! ←わかるわ。ドラゴンボール面白い
アラレちゃんかわいい!実はアラレちゃんは美少女と話題に! ←わかる。想像してたより美少女だった
ドラゴンボールは偉大!人類の文化発展に貢献し、民族の独立を守り世界平和に一歩近づいた ←????それは言いすぎじゃね????
良くわからないけどボルテスVは神!当時やってたテレビ番組の中で普通に面白かったのがボルテスVぐらいだったから! ←ならしょうがないな……
kjin 漫画云々より今もワイドショーて言葉が若い人に通用するのかが気になった。増田は対応とか好きに思ったらいいしDBで育ったけど鳥山明のマンガに与えた影響とかは思わなかったかなあ。当時自分が夢中になっただけで
元増田に「増田って呼ばれるの嫌」と書いてるのに、増田と書く意図はなんなんだろう?
故意の嫌がらせ?それとも「自称したコテハン」を二人称ないし三人称としてブコメ等に使っても、他のそのブコメを見た人がそのコテハン文字列がどういう文脈を持ってるのかさっぱりわからないことがあるのに対して(固有名詞か慣用句かすらわからないかもしれない)、
「増田」と書けば「増田に書かれた文章の書き手」ということを確実に伝えられるから、っていう配慮の意図が大きいのかな?
それともその趣旨を伝えた最後の文は明らかに本題と独立してるうえに、あまりにも通常の増田の価値観とは異質な文化圏から出てきてる言葉なので「ごちゃごちゃ何言ってるのかわかんねえ」って感じでスルーしてるのかな?
「何になるのか?」という疑問は即ち「どのような別の価値に変換できるのか?」と言う意味であり、ひいては「どのような別の価値に従属的なのか?」という疑問となる
つまりここで「何かになる」事はポジティブなようでいて実の所、他の価値に従属させられるネガティブな意味をもち得る
少なくとも「「面白さ」がほかの価値観に従属的なただの付属物ではなく、独立した別の価値であること」を目指すこの文脈においては「何になるの?」と言う疑問は本質的に無意味、というか有害なんだよ
自分も松本の考える笑いの一部に暴力的なものや権力側のもの、弱者を笑うものやその他不適切な物等々あったと思うのだけど、
いつのまにかそれが「松本の笑いとは」と全体化され、さらにいつのまにか「面白いかどうか」と言う別の問題と混同される事になった
そう判断した人達を説得しようという気は無い、というか無理だと思う
なので今回も、吉住のこれまでのネタも含めて同じ事になるのかな?というただの予想
簡単に言って彼らは2段の変換を行っている
まず一部の笑いの性質を「松本の笑い」全体に拡大する「全体化」
それから主に政治的に不適切か、倫理的に問題か、あるいはどちらの党派に味方するものか、といった問題を、面白さという個々の感性に依存する問題と混同する「すり替え」
この2つの操作が誰に対しても平等に適用されると仮定すると、吉住も勿論対象になる
今回の吉住のネタは既に(主に左派間で)政治的に不適切という判断は固まったようだから
その評価はこれまでのネタも含めて「吉住の笑いとは」と全体化され、
さらに「面白いかどうか」という問題とすり替えられて「吉住は元々面白くなかった」、という結論になるのかな?と予想する
ただ、これはあまり言いたくはないのだけど、吉住は女性芸人で、しかも(私個人の主観で言わせて貰えば)そこらへんの凡百の男性芸人より普通に面白くトップ層に届き得るある意味では希望の星なので、
「手加減」されて「今回のネタだけ面白くなかった」と、全体化の方は免れるかも知れない(すり替えの方は既に行われているのを見かけるので難しいかな)
ただ、それって吉住に対してもほかの女性芸人に対しても凄く失礼だし、理屈も通らないので考え直して欲しいなと思う、もう一度全体化とすり替えが本当に適切かどうかも含めて考え直して欲しい
最後に自分個人の感想を言わせて貰えば、吉住のネタはこれまでのものも含めて自分は凄く面白いと思うし、好きだ
今回のデモのネタも自分にとっては面白かった、個人的には決勝ネタより好きかな、個人的な好みで言えば街裏ぴんくより面白かったので自分的には優勝は吉住だった
個人的にはもう、女性芸人などと芸人の中から女性をわざわざ分けるのはナンセンスだと思っている、ヨネダ2000や蛙亭イワクラ、ラランドサーヤ、そして吉住などなど一線級の才能がすでに揃っていると思うから
その「面白さ」の価値、「面白さ」がほかの価値観に従属的なただの付属物ではなく、独立した別の価値であること(それ故に同時に、面白い事は倫理的に免罪されることも意味しない)を認めてあげて欲しいなと思う
A:
量子力学では「測定問題」または「波動関数の崩壊」として知られており、量子の世界が私たちが経験する古典的な世界とどのように相互作用するかについての基本的かつ非常に不可解な側面です。
量子力学では、電子のような粒子は、測定または観測される前に、複数の可能な状態を重ね合わせて存在します。
この重ね合わせは、すべての可能な状態とそれぞれの確率を含む波動関数によって記述されます。
しかし、観測や測定を行うと、重ね合わせが崩れ、粒子の状態は可能な状態の 1 つに「崩壊」します。
したがって、たとえば、測定前にスピンアップまたはスピンダウンできる電子がある場合、その波動関数は両方の状態の組み合わせになります。
しかし、そのスピンを測定すると、波動関数が崩壊し、スピンアップかスピンダウンという 1 つの明確な結果が得られます。
この「崩壊」、つまり測定時の状態の決定は、量子システムの進化にランダムで確率的な要素を導入しているように見えます。
また、測定後にその明確な状態が分かるようになったため、システムに関するエントロピーや不確実性も減少すると考えられます。
このことの意味は深く、物理学者によって何十年にもわたって議論されてきました。
1) 不定の量子領域を明確にする何か特別なことが測定や観測にあることを示唆しています。 しかし、「測定」とは何でしょうか? 私たちの意識的な認識は? それとも環境との相互作用でしょうか?
2) 古典物理学を支配する決定論的法則と矛盾する固有のランダム性または予測不可能性を量子事象に導入しているように見えます。
3) 観測とは独立して存在する客観的な現実についての私たちの概念に疑問を投げかけます。 観測するだけで結果が変わるようです。
4) 巨視的な世界では、このランダム性は通常平均化されます。 しかし、ランダムな瞬間に起こる自然放射性崩壊のような小さな観測可能な影響はあります。
コペンハーゲン解釈や客観的崩壊理論のような解釈は、このランダム性を自然の基本的な側面として受け入れています。
多世界解釈のような他のものは、波動関数の崩壊を完全に排除しようとします。
しかし、この測定問題が量子力学と現実そのものの理解に深刻な課題を投げかけていることに全員が同意しています。
A:
意識と量子力学における測定問題の関係は深い謎であり、物理学ではまだ完全に解決されていません。
ただし、あなたの質問に対するいくつかの視点は次のとおりです。
意識とは、認識し、認識された現実を持つという主観的な一人称の経験を指します。
量子の用語では、意識は、測定/観測が行われる前に、可能な重ね合わせ状態の範囲のうちの 1 つの明確な状態のみを経験するように見えます。
意識が重ね合わせをどのように解決するかについては、いくつかの解釈があります。
1) フォン・ノイマン・ウィグナー解釈は、意識が客観的な波動関数の崩壊を引き起こすことを示唆しています。 私たちの心は、重ね合わせから何らかの結果を特定します。
2) コペンハーゲンの解釈は、波動関数の崩壊が起こったとき、観察者の意識は単に確率的結果の 1 つを目撃しているだけであり、波動関数の崩壊を引き起こしているわけではないことを意味します。
3) 多世界解釈では、真の崩壊は存在しないとされています。 考えられるすべての結果は、現実の別の枝として存在し続けます。 意識は実際に選択することなく、それらの分岐のいずれかに留まるだけです。
4) 意識自体は、観察された状態を引き起こすのではなく、根底にある量子状態から生じる高レベルの創発特性である可能性があると主張する人もいます。
正確なメカニズムは不明ですが、ほとんどの解釈は、意識は測定後に可能な状態のうちの 1 つを主観的に経験するだけであることに同意しています。
観察者兼参加者として、私たちは単に自分の意識が枝の 1 つにあることに気づきます。
重要な謎は、意識が分岐を選択する際に積極的な役割を果たすのか(フォン・ノイマン・ウィグナー)、それとも多数の同様に現実的なもの(多世界)の中の 1 つの分岐に単に自分自身を見出しているだけなのかということです。
これを解決すれば、意識の形而上学的性質と量子力学との関係が解明される可能性があります。
A:
量子力学の多世界解釈 (MWI) では、意識が特定の枝または世界に「留まる」または持続するように見える理由は、デコヒーレンスの概念と、枝がどのように本質的に相互作用せず、それぞれの枝から孤立するのかという考えと関係しています。
1) MWI では、測定が行われるとき、普遍的な波動関数は実際には崩壊しません。 代わりに、それは直交成分に分解され、それぞれが異なる可能性のある結果を表します。
2) これらのコンポーネントは時間の経過とともに進化し続け、より多くの差別化された状態、つまりさまざまな結果が実現される「世界」に分岐します。
3) ただし、これらの分岐コンポーネントは、環境の相互作用やもつれにより、非常に急速に動的にお互いからデコヒーレントになります。 これにより、異なる世界は相互に干渉する能力を失います。
4) したがって、すべてのブランチが異なる既存の現実として共存しますが、動的デコヒーレンスは、それらが相互作用しなくなり、それらの間に測定可能な相互作用や遷移が存在しないことを意味します。
5) あなたの意識は、コヒーレントな量子状態自体で構成されており、デコヒーレンス後の 1 つの枝の中に完全に存在します。 別のブランチと再結合したり、別のブランチに移行したりすることはできません。
6) 実際には、すべての枝が等しく現実であるにもかかわらず、デコヒーレンスプロセスにより意識がその枝内に閉じ込められ、他の枝の並行現実を体験できなくなります。
したがって、意識は積極的に分岐を「選択」するのではなく、デコヒーレンスのプロセスによって、最終的には完全に 1 つの分岐した現実の中に存在することになり、多重性を直接経験する能力はありません。 このため、意識は一貫した 1 つの軌道だけをたどっているように見えます。