はてなキーワード: 避暑地とは
豊田市は割と栄えてると思うけど、デンソーやアイシンがある刈谷市はショボショボ。まあそれこそ名古屋に吸収されてるという気はするけど。
言われてみると、豊田市駅も42万人都市の玄関駅の割にしょぼいな
でも、愛知の場合は電車社会じゃなくて、車社会だからっていうのがいちばんしっくり来る
名古屋から豊田でも電車使わずに車で行く連中はかなりいるだろう
浜松が栄えてるのは、東海道の大きな宿場町だった、ってことも結構大きそうに思うわ
岡崎が三河だと大きな街だけど、あれは完全に宿場町の名残と思う
気になったので、豊田、刈谷についても調べてみたんだけど、この二つは大きな宿場町はないことが判明した
豊田の端に足助という宿場町があるが、合併で豊田市になったような端なので、ちょっと例外かな
一方、厚木はどうだったか調べたら、交通の要所で大きな宿場だったらしい
答えは、古くから栄えた街がそのまま現代でも栄えたってことだったっぽいね
明治まで市川は湘南のような避暑地別荘地だったみたいだから、栄えてなかったんだよね
千葉の人間は生活スタイルとして完全に郊外型なので、田舎と同じで駅前商店街が廃れてイオン的なモールに全て吸収される傾向はあるかも。
俺はあまりの酷さに耐えられず車手放した
なんか答えが出た気がするわ、ありがとう
やっぱり地域のこととか知ってないと!って思って面白く見るのよ。
それはそれで地域のニュースを密着したこの時期暑いぐらいって感じの密着度でお送りしていると思うその地域ニュースが
何回も言っているけれど50年に1度の記録を毎日叩き出している記録に残る記録より記憶に残る記録を!って陸上競技のすごい成績を上げた選手が言いそうなぐらい
もうさこの暑さで私も歩くの外だと死んでしまうので、
涼しくない時間帯はバス最近乗るようにして涼しく移動しているのよね。
昔はよく道端で行き倒れている人をよく見かけたけれど、
さすがにこの猛暑で好んで外に出る活動家は環境活動家のグレタちゃんレヴェルでも涼しい室内にいそうよね。
野良猫とかどこで涼んでいるのかしら?
夜中に涼しいところで腹ばいになって寝ている猫に暑いね!って声かけると
声かけないでよ暑いんだからって内容の返事の「にゃー」って声が返ってくるんだけど、
猫も暑そうよねーって。
そして車にどうぞ気を付けてね!って私も声かけるの。
猫にさー猫って声かけたら
人間でもすごい大きな生き物に「おい人間!」って声かけられたらなんかちょっとムッとしそうな感じがするので、
猫にあっても猫!って言わないで、
今日は暑いね!とかさっきも言った車に気を付けてね!って話しかけると
なんか効いてくれてるような気がするわ。
猫はきっとバレていないと思っているけど人の話すことは分かるのよ。
無理矢理ペットが「ごはん!」って言わせられる面白映像を見るとなんか切なくなっちゃうぐらいよ。
で、
なんだっけ?
駅のバスターミナル地下街からドールのバナナの自動販売機を曲がって上に上がると私の乗るバス停のところにちょうど地上に上がれる地下からの階段があるのね。
で最近その階段の踊り場と言っていても誰も全然そこでダンシングヒーローとか見たこと一切無いぐらいの少しスペースのある踊り場で
なんか電話ボックスみたいなボックスオフィス的なのがあったのよ。
あの冷房効いているのかしら?
ちょっと街中で増田を書くにはちょうどよくない?って私はいつかそこを使ってみたいと思うのよ。
映画館のロビーで1人カラオケが出来るようなボックスは見たことあるけど
へーこんなのがあるんだーって
飲み物持ってノートパソコン持ち込んだらペキカンじゃないかしら?
そう思ってるのよね。
中が涼しかったらいいんだけれど。
珍しくのると色々な知らない道通ったりして
でもほんと1回1人ボックスオフィルは使って見たいと思ったわ。
うふふ。
食欲はないことないけどパクパクどーんと食べたい気持ちではないやっぱりこれは夏バテの季節のシーズンの前兆予兆なのかしら?
最近味濃いいと重たいので
うっすら色や香りが付くぐらいの感じが好みかも、
私は認めないわよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB098BF0Z01C22A2000000/
君の人生を困難にしているのは、
学習障害があって文章の意図が読みにくいか、言語化能力が弱すぎるから調べ物が出来ないこと
知的な困難があるならゆっくりペースで成長してるんだな、自分の独自の世界の話をしているんだなって思うけど、どうなん?
戦時中において、一部の個人が特殊な手段を使って兵役を回避しようとしたという報道や記録が存在します。その中には醤油を飲んで「貧血状態」を装い、兵役を回避しようとしたという報告もあるようです。
当時の日本では、戦争による兵力不足から徴兵が厳しく実施されていました。兵役を回避するためには、健康上の問題を装ったり、裕福な家庭であればお金を使って兵役を免除されることもあったとされています。これらの行為は違法であり、社会的にも非難される行為であることは言及しておきます。
戦時中の日本において、一部の支配階級や裕福な人々が軽井沢などのリゾート地でパーティーをしていたという記録や報道があります。当時、日本は太平洋戦争を戦っており、国内は厳しい経済状況や食料不足、空襲などの戦争の影響を受けていましたが、一部の富裕層はそれらの影響を比較的受けにくい状況にあったため、リゾート地での贅沢な生活を楽しむことがあったとされています。
軽井沢は、夏涼しく過ごしやすい気候と美しい自然があり、戦前から日本の上流階級や外交官、外国人などが避暑地や保養地として訪れることが多かった場所です。戦争が進行していた時期でも、一部の特権階級の人々は軽井沢での生活を続けていたという記録があります。
これらの情報は歴史的な資料や回想録、報道などによって裏付けられていますが、一部の特権階級の行動が全体の状況を反映しているわけではありません。当時の社会は戦争の厳しい状況により多くの人々が苦しんでいたため、特権階級がリゾート地での贅沢な生活を楽しんでいたことは一般の市民にとっては不平等や不公平な状況として捉えられることもあるでしょう。
白洲次郎(しらす じろう)は、日本の外交官であり、戦後には評論家としても知られる人物です。彼は戦時中、外務省の要職にあったが、病気を装って徴兵逃れをしたとされる代表的な例の一つです。
白洲次郎は、日本が太平洋戦争に突入した時点で、外務省の官僚として国内の情勢や国際的な状況をよく理解していました。しかし、自らが体験した第一次世界大戦の戦場での経験や戦争の悲惨さを胸に抱え、戦争への反対や人道的な理由から徴兵逃れを試みたとされています。
白洲次郎は、病気を装って入院したり、療養の名目で兵役を免除されるように働きかけたりしたと言われています。彼はその後、戦後の日本の外交政策に大きな影響を与える存在となりました。
徴兵制について。昭和2年(1927)までは、お金を払って兵役期間を短縮できる制度がありました。もっと前は兵役免除となる時期もありました。こちらは入営中の経費を負担することで2年の兵役を1年にする一年志願兵への申請書類と選考結果。現在の長野県塩尻市の方です。
信州戦争資料センター
太平洋戦争ですが、私の知ってる金持ちは、誰も戦争に行ってませんが、何か方法があったのですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10158993500
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うちの父も、自らの口で語ってますが「軍部にお金を積んだ」そうです。
最初は、暗号解読とか、通訳の口を狙っていましたが、御殿場の練兵場で終戦です。
食べ物も、ウラから手に入れ、飢えた思いをしたことはないそうです。
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それだけで本が書けるほど。
結果として単純に徴兵に応じたのは
①何も知らない人
②親にカネがなかった
④みんな仲間だからと、抜け駆けはできない人
など。
詳細は省きますが、ウチの親の場合、満洲の炭鉱の課長なので「徴用」扱いで最後まで赤紙は来ませんでした。
叔父は馬の専門家で「軍医」として戦地には赴きましたが、ずっと後方です。
親戚には陸大を卒業し、陸軍中枢の参謀本部勤務のまま終戦を迎えた人もいます。
知人は臨床検査技師で、衛生兵を希望し、最後はシベリア経由で帰ってきました。
著名な作家の多くは、結核の既往歴で徴兵免除になったか、さもなければ報道班の「徴用」で南方に行っただけ。
勉強し過ぎの学徒上がりは、視力不足では鉄砲が打てないと大幅に順位を下げられ、
診断書に手心を加えてもらった金持ちの子弟、自傷して障碍者になった者、わざわざ犯罪を犯して自首したもの(懲役以上の受刑者は徴兵の対象外)、良心的兵役拒否で最後まで出頭に応じなかった、等やり方は無数にあります。
私は高校生の時から、今徴兵が来たらどうするか、そればかり考えて行動していたのでやたら詳しくなりましたが、今後のお勧めは、コンピューターの腕を磨いて、資格をとって、徴兵されても後方勤務になるよう工作するのが一番簡単でしょうね。
二郎の女への憧れって前半ではお絹で表されているんだよな
大学にお礼の荷物届けるときのエピソードで幻影みるときとかの表現でわかる
でも避暑地で成長した菜穂子に再開したあと、それとなく菜穂子はお絹が結婚して子供もいることを告げる
二郎に女っけはないことをわかって外堀を埋めてるっていうシーンなんだよな
というのは結核にかかっていてもう死ぬという女にとって普通は結婚なんて望むべくもないわけだ
当時のお嬢様なのにかなり成長していて未婚だしな
そんなときに二郎というエリートをまんまと仕留めるための最短の行動を菜穂子はとってるわけだ
もちろん二郎の方だってそういうことはわかってて、お互いに残り少ない時間を懸命に生きるということを2人は選択するという物語なわけだ
つまり菜穂子は結核の病状から逃れられない死のなかで夫婦の幸せというものを手に入れようとするわけだし、
二郎には狂っていきまもなく破裂する日本で美しい飛行機をつくるという夢を叶えることに急ぐわけだ
この二つが焦燥感を携えたふたりの暮らしとして後半のドラマに描かれている
そうしてみれば自分の欲しいものを的確に獲得し達成まで持っていくという菜穂子は決して弱くて待ち続ける存在としては描かれていないのだ
ポリコレ的な批判では十分に適切な読解があって初めてその効力が出るものだと思うのだが、いかんせん雰囲気で批判するための手軽なハンマーになってしまったのが誰にとっても損な話だ
確かに工芸品とかをアピールするのもいいけど、結局は現地に行って体験する方が重要だと思う。
そこに行かなければ得られない物って言うのがないと。
食べ物で押すのなら、北海道みたいに種類が多かったり、大阪みたいに大衆文化に馴染んでたり。
文化が独特だとか、そこでしか見られない絶景、食べられない、体験できない事。
本気で県の魅力を考えるなら、栃木はイチゴだの竹細工だの言ってる場合じゃない。
正直スーパーでそこそこのイチゴは買えるし、通販なら上等なイチゴが買える。
竹細工だってそうだし、そもそも絶対的に竹細工である必要がない。
だったら、キャンプやリトリートなどの非日常を体験できる場所として整備と広告をした方が良い。
自分は長野在住だが、長野は軽井沢と山ぐらいしか見る物がない。
しかし、山をキャンプ地として整備し、手ぶらで出来るキャンプ、ホテルキャンプ等などを推進。
結果、家族連れから大学サークルやカップル、あるいは一人での需要が増え、魅力度が上がっていると思う。
特にちょっと贅沢なキャンプや自然体験をするグランピングやリトリートは、避暑地軽井沢に別荘を構えることのできない人たちに人気だ。
ニューヨークからフロリダへとヒッチハイクの旅はトラックを経由した。光り輝くフロリダオレンジの太陽が私の帽子を貫く。木漏れ日に目を細めるとトラック運転手は荷台へ向かって大声を張り上げた。
「おまえさん、こんななにもない場所へどうしたんだい!」
私のうまく起こせない上体はトラックの端にある紐で結ばれている。少し前運転手はバスケットコートのカメラから見るボールみたいに目を大きくした。私の身体は動かず、車椅子に支えられていたからだ。あんたそんなのでどうして遠出しようってんだ、と運転手は感嘆の声を上げた。それが二時間ほど前のことだ。
私は運転手に家族の集会があることを伝え、その用事がバーベキューであることを教えた。それからフロリダ州の看板が見えたので、コントラストを強く投射する景色を風に流しながら、私の名前を伝える。そうかい、メグっていうのかい、と運転手は陽気に答えた。林立するビルを縫って突き抜ける青が歯科医に飛び込んでくる。フロリダはオレンジの国じゃない。避暑地だ。だからバーベキューには都合がいいのだ。多分そうだし、そういうことにしよう。うちの家族に振り回されたことは忘れて。<溶け出しそうな>夏の頃が思い出されたとしても。そういえばあの日もこんな風に感想した風が髪の毛をさらっていったものだ。サングラスが反射する光のその先に目的地があった。
◆
「どうしてそんな事を言うの」
電話の向こう側でケンがなにかの言い訳をしている。言い訳の仕方はまるで父そっくりだ。もうそんなところばかりだ。わたしときたらそんなケンに向かっていつもは冷静なのだけど、彼が父のように逃げ続けるさまを見ていると、どうしても声を張り上げてしまう。ケンはそんな時に決まって「メグはママにそっくりだよ」と吐き捨てるようにいう。全く美味しくないチリソースをアスファルトにぶちまけるようにだ。理由はこうだ。本当はここで開催される予定だったバーベキュー大会が、父の会社の都合で大きな話になり、他企業を巻き込んだバーベキュー大会に発展したらしい。それも開催地は何故か日本。私はケンに、肉よりも寿司の日本でなぜバーベキューなのかと問い詰めたが、頭に血が上っているのかケンは日本だって神戸牛があるし、開催地としてアメリカとは違った面白さが出せるんだといい始めた。違う、そういうことじゃない。少なくとも久しぶりの家族のバーベキューが行われ、とってもプライベートなものだって聞いていたのに、どうしてそれがお父さんの会社と関わっているのか聴きたいのだ。しかしケンはこれは日本と米国の絆を結ぶためのものなのだ、と主張してやまない。ALS-CoVζ+が未だ収まっていない時期になぜそんなに話を大きくしてしまうのだろうか。そんなことはどうだっていい。それよりも、家族の一致団結できる機会が失われた事実が私にとってショックだった。素晴らしい日差しの下でトロピカルフルーツソーダの飲みながら、サンオイルで日焼けをしている人達もいるのに。
◆
「やあケン。今回は会社から大会の趣旨が発表されてね。ぜひ神戸牛とアンガス牛の対抗戦をという事になったんだ」
「それで、勝った方には?」
「純金製のメダルが贈呈されるだけだよ」
「だけ?」というケンの声がスマートフォンの不協和音とともに響いた。父のノキア製は日本ではマイナーだと聞かされて、その音質に少しだけ疑いを持ち始めたばかりだ。父はケンの懸念事項がバーベキューの開催予定地のことばかりだと思っていたが、どうやらそのノキアで聞く限りそうではないらしいことが理解された。ケンは明らかに家族の集会が壊されたことを怒っており、主催は誰だと問い詰めてきたのだ。父はやむなくドビュッシー会長という人物だと述べたが、俺はクラシックの名曲よりも古いラップが好きなんだと皮肉交じりに父の言葉を投げ捨てた。まるでそれじゃあ、ダディはまたしても「お山」の大将「だ」ろうとまでいう。ダディーはクールじゃないとまで言い放った。それは一体何のジョークだいというと、日本版の4chのセリフさ、と返すばかりだった。ゼータ株はあの頃の僕たちのキャンプを奪ったが、父は僕たちから家族の有り様を奪おうとしているのではないか、そんな懸念がケンの頭をもたげた。そのくせゼータ株は活発に人々を結びつけようとしていやがる。ニューヨークからメグを追いかけるケンはハンドルを回しながらそうつぶやいた。
◆
ケンがメグと合流して数時間後、隔離が完了して未感染者のみが利用できるビーチで突然人が溶けた。その液体は灰色と真っ黒な血をビーチに滴らせ、バーベキューの肉のようにビーチの砂を汚した。それとは関係なく海鳥は通り過ぎ、メグは声にならない声とともにジーザスという単語をピンク色のリップを塗った唇から漏らした。到着したばかりのケンは目の前で人々が弾けて溶けてゆくさまを見て、エボラか何かかと目を疑い、それが数年前に起こった悪夢の再来であることを知覚した。フロリダ州に緊急事態宣言が敷かれ、州知事は政府の圧力によって州ごと隔離されたことを発表した。通信網は途絶え、父との国際連絡も取れなくなったメグとケンは、暴徒鎮圧用のゴム弾を装備したSWATたちに誘導されて収容施設へと向かった。発電の電源はかろうじて発電機型のバッテリーとして供給され、被災地には水が運び込まれた。しかしそのどれもが決死の覚悟で運ばれてくるものであり、運転手は全身防護用の白い服を着て入念な消毒を経た後にフロリダへと入り、そして出てゆく際にも消毒を行わなければならなかった。ひとまずイントラネットとして暫定的に繋がれた外との通信によりニュースだけを見ることができた。
そうして避難所での生活が進む中、ウィルスで隔離された人々の間に奇妙な一体感が生まれようとしていた。それはヒステリックな怒りであったり、それを鎮めようとするものであったり、また話し合いによって解決しようとする者達や、殴り合ったあとで肩を組み合うレッドネックたちなどによってだ。彼等はお互いをファミリーと呼び合い、外にいる連中をウォーキング・デッドだと笑いとばした。正気が保てない人々は、普段忌み嫌っている低所得層のレッドネックたちの話をよく聞いた。富裕層たちは臨時の学校を開いて塾を作り、黒人たちは放課後と称して子どもたちにバスケットボールを教えた。そうして閉鎖空間は小さな社会になった。ケンもメグもよく話し合った。とりわけ、ゼータ株のことについてだ。彼等は先日の家族のことを思い出して悲憤慷慨し、やがてウィルスによって僕たちの絆が深また奇妙さと、ウィルスによって人々がばらばらになった悲劇を語り合った。
その頃からメグの夢枕には、なくなった叔父の姿が映るようになった。叔父は家族の異事で何かをいいかけていたが、そのたびに消えてしまう。そんな夜が繰り返された後のある朝、フロリダの海岸にある変化が起こった。その変化はイントラネットTVに映し出されると、やがて通信の全てが回復した。日本の企業ソフトバンクが提供する緊急ブロードバンド回線につながったメグたちのスマートフォンは、あるものものしい人物たちを映し出した。それは水陸両用車両のようにも見え、中から防護服をつけた人が降りてくるのが見えた。車両には見慣れない文字が書かれており、不意にケンがそれを見て叫んだ。まるでパーティーが始まったかのような喜びようだった。見なよ、あれは"セルフ・ディフェンス・フォース"だぜ! ケンの指差す画像の向こうにあったもの。それは自衛隊の揚陸艇であった。第十七小隊、フタマルマルこれより状況開始。という声とともに彼等は海岸に落ちた血や散らかった廃棄物、まるでタイフーンにやられた風に映るカビの生えた建築物を撤去し始めた。そんな作業が一週間もつづくと避難場所の衛星問題はすっかり快適になり、自衛隊の面々と記念写真すら取れるまでに改善した。ケンはその時彼等にどうして来たのが十七小隊なんだいと問いかけたが、ある隊員は、十七小隊は俺達のメダルみたいなもんさ。と笑って返すのみだった。ケンはそれを聞いて、じゃあ俺たちはあんたたちに助けられたから十六小隊でいいさ、と破顔した(筆者注:2021/08/01)。
◆
日本にいる無責任な父は流石に心配な顔をして息子たちを迎えた。ただし父は両名が無事であることを確認すると1、バーベキュー大会は玉石混交のパトルロワイヤルでありジャパニーズヤキニクとチンギスハーン、バーベキューの三つ巴の戦いだったと熱く語り始めた。勝敗の決し方があまりに不透明な競技だが、メグにとってそんな話はもはやどうでも良かった。怪しげなバーベ審査員のことにも興味がなかった。父がミヤゲに持って帰ったネギマをケンは頬張っていたが、メグはどうしたって騙されることはなかった。クールビューティーと目される荒川静香のイナバウアーが見たかったというわけの分からい答弁を無視して、メグは今回の隔離事件の顛末を事細かに語った。父はそんな事知ってるさと遮ろうとするが、メグは人差し指を父の唇に当てると子供を諭すように父と目を合わせた。彼女は、「それで今回の事件でとっても頼もしいステディな人ができたのよ。自衛隊員の人なの」、という。父は喋りかけていた口を閉じると、目を白黒させた。あのフロリダオレンジの目を見開いたトラック運転手のようにである。
しかしやはり父は普通の人間と少し違った。それなら早く紹介しなさい。次のバーベキュー大会があるんだ、と彼を巻き込もうとし始めたのだ。メグは両手を上げて首を横に振ると、やはりちょっと前の出来事を少しだけ回想しながらジーザス、と小声でつぶやいた。
ケンはそんな様子を見て、口の中のネギをすっかり胃袋の中に押し込めながら、こいつにケチャップをかけると日本人とも仲良くできるかもね、と一人で口角を上げた。ゼータ株が運んだ全ての問題は、まるでその性質のように全てを溶かして人々をつなぎ、父子は空港で呆れながら仲良く語り合った。避難所のメンバーのメール着信がなり響いてメグがその知らせに目配せする。
※別作者です。おしまい。