はてなキーワード: 思い入れとは
けものフレンズ2について1への「悪意」があると良く言われる。あるいは悪意ではなくとも、「1の優しさと相互認証に対して、孤独と自己肯定の物語を描こうとした(筆者要約)」(http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52306934.html)といった意見がある。
確かに、そう受け取れる描写はあるのだが、その多くは、1と2の思想基盤の違いから来てるのではないかと思うのだ。
けもフレ1のジャパリパークは、人間がいなくなって長らく経つ世界で、動物たちが気ままに暮らしている世界である。「ヒト」というのもフレンズの一種であり、対等の存在として描かれる。
一方の、けもフレ2では、人間と動物の違い、人間が動物の上に立つモチーフが強調される。拍手とご褒美を要求するイルカしかり、イエイヌしかり。ここに居心地の悪さを感じるのは当たり前の話であり、「悪意」を見いだす人も多い。
これはしかし、けもフレ2が、けもフレ1を否定しているというよりかは、アプリ版等の大本のコンセプトに近い。今からなら漫画版が一番手に入りやすいだろうか。そのコンセプトは、昔風の「動物園」であり「飼育員と動物」「飼い主とペット」の友情物語である。飼い主とペットに上下関係はあるが、お互いそれに満足しており、飼い主は責任持って、ペットの世話を世話をし、ペットは飼い主を喜ばせ、芸をする。それはそれで、一つの関係だろう。
なぜ、それが、けもフレ1で変わったか。理由はいくつか考えられる。
大きな理由は、舞台が「人間がいなくなってる世界」だからだろう。人間の世話に答えて動物が人間を好きなのは良いとして、人間がいなくなってる世界で、それでも一方的に人間を崇める動物というのは、まぁ、あまり気分のいいものではない。
もう一つ。現代的な動物園は、見世物的な展示、ショーは避け、動物になるべく野生に近い生活をさせ、ありのままの生態を見せる方向へ進んでいる。フィクション上の動物園がどういうものであっても良いと思うが、現実の動物園とコラボ、協力する作品において、旧時代的な動物園を肯定したくない、というのもあっただろう。
けもフレ1は、サファリパークだったり、行動展示だったりする現代風の動物園、アプリ版、けもフレ2は、旧来の見世物的な展示をする動物園と言った具合だろう(参考:http://kemono-friendsch.com/archives/77528)。
けもフレ2は、おそらくは、アプリ版の「飼育員と動物」関係に基づいて話を作ろうとしたのだと思う。が、けもフレ1の続編という形も取ったため、前述の矛盾点が噴き出してしまっている。アプリ版の路線を復活させるならさせるで、どうすれば良いかを練るべきであった(それが許されない環境は多々ある)。
「人間がいないのに、人間を崇める動物」は、気持ち悪い。そこを敢えて描くなら、その悲劇性や罪悪感も描くべきだが、特にそれはない。多分これは「悪意」ではなく、「深く考えていなかった」ことだろう。
同様に「人間と対等な知的生物」としてのフレンズを描いた続編で、「人間に芸を披露して喜ぶフレンズ」を出すのは、えぐい。これも「悪意」ではなく以下略。
気持ちよいお話のセオリーの一つとして、内面世界と外部のシンクロというものがある。
主人公が悩んで心が暗い時は、夜だったり、雨が降ったりして、世界も暗くなる。
主人公が悩みを克服すると、夜が明けたり、空が晴れたりして、バトルで勝利したりする。
リアリティラインが低い作品の場合、深い理由がなく、そのまま内面が世界に反映する。
魔王が復活する時は、黒雲が渦巻いて雷が鳴ったりする。悩みを克服した主人公は、勢いで超パワーアップしたりする。
現実レベルが高い作品の場合、そうはいかないので、偶然で説明できる範囲のささやかなことであったり、なんらかの理由、必然性があったりする。
主人公が悩んでる時に、雨が降ってるのは、「たまたま」「偶然」の範囲であり、悩みが吹っ切れて、主人公がバトルで勝つ時は、「悩みのせいで今まで気づかなかったけど、あいつにはこんな弱点が」という閃きがあったりする。
けもフレ2では、カタカケフウチョウ、カンザシフウチョウが、内面の声を代弁しまくる。キュルルの「思い入れ」が、絵を通したり、通さなかったりして、直接、セルリアンに反映するらしい。これらの深い理由、解説等はない。
ホテルでは絶滅動物のリョコウバトのぬいぐるみが売り切れてたりする。「たまたまリョコウバトだけ売り切れだった」なら「作中現実としては偶然」で済むが、「レッサーパンダとオオアルマジロとリョコウバトが少なく、ハブはいっぱいある」までやると偶然では説明できなくなる。が、これも理由は特に語られない。
ここからわかるのは、けもフレ2は、リアリティラインが低めの、「ふわっとしたファンタジー・童話的な世界」であるということだ。
一方、けもフレ1は、作品内論理の整合性は、SF的に取っている部分が大きかった。ラッキービーストが人の声にだけ反応する、ジャパリカフェに、太陽電池がある等、SF的なガジェットがあり、崩壊世界の日常がどう維持されてるかが目配りされている。もちろん、作中で全部の設定を説明するわけにはいかないにせよ、目につく範囲での、あからさまな矛盾は減らし、それによって、「かばんちゃんの正体」と言った謎に緊張感が残った。
けもフレ2単体で見た場合、リアリティライン低めの作品だと受け止められるのだが、リアリティラインが高めの1を見たあとに2を見ると、アラや問題が多く見えてくる。
ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的にリアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる。ここもまた「悪意」ではなく以下略。
イエイヌの報われなさっぷり、ビーストがホテルの下敷きになったことを誰も気にしてない等は、悪意として描くなら、もっと強調のさせ方、後への繋げ方があるはずなわけで、ストーリーとして処理しきれなかったと考えたほうがよさそうだ。
・かばんさんに何があったかはわからない、偉い人が作るだろうと
・かばんさんの経緯は知らないが、再会の喜びを描いた
サーバルがなぜ、記憶をなくしたっぽいのかも、かばんさんとの間に何があったのかも、監督自体知らされてないのなら、「それっぽい」シーンでお茶を濁すくらいしかできないだろう。
もちろん設定がないだけなら、他にやりようがあったかもだが、こういう状況だと設定がないまま、あーしろこーしろと言われた可能性が強い。ご愁傷様である。
自分が見た範囲では「けもフレ2」に見いだされる悪意は、1,2のコンセプトの差(およびそれに対する無策)、脚本・演出技術の未熟、現場のしがらみ、などで説明がつくものであった。
具体的にはマルティナの扱い
思い詰める性格なだけで潔癖とかはないぞ
男は汚いとかそんなこと言ってるシーンあったか?
社会の底辺で犯罪者でもある盗賊のカミュにも特に抵抗示してない
仲間のスケベ爺さんがエロ本持ってるだけで怒るのに
王に相応しくないからであり自分の保護者だった実質的父親にたいする娘目線だぞ
あの時代の放浪者や旅芸人というのは世間的なモラルから比べるとめっちゃ破廉恥で正解
そんなこと言ってるやつァごく一部であって殆どは喜んでたぞ
いや他のキャラも同程度に雑だろ
これはさすがについマジレスになるわ
全部のキャラが変だよ
でもドラクエってずっとそうだよ
あの設定だけの幼馴染でプレイヤー視点ではさしたる思い出も思い入れもない女の子と結婚させるのとかやめてほしいわ
あのガバガバゲームでマルティナだけが雑ってお前マジで政治思想のせいでメンタマがゆがみ切ってるよ
それはねえわ
あの人数でもとっちらかってるのにそれは多すぎ
あと過去シリーズも含めてそんな「お色気特化」キャラってほぼいない
そうかあ?
あの爺はキャバクラ好み丸出しのほうをどうにかすべきだろ
おもしれーからいいけどさ
っていうかマルティナがお色気方面に育てるとエロいことしまくるのは
過酷な生い立ちや姫としての自覚のせいでああいうきりっとしたペルソナがあるだけで
内側には享楽的で堕落的なドSねーちゃんみたいな別の側面があるのだと
なんていうか女性差別がどうのこうのって言う奴って
大概こういう風に物の見方が貧しくて浅いんだよな
なんかすごい刃物を手に入れたみたいにいろんなものをその角度で斬ってあーだこーだ言ってる感じ
頭悪くない人は作品を楽しむ上で
そういう頭悪いリベラルの何十倍もいろんな角度やいろんな考察・妄想で作品をしゃぶってるのにさ
頭悪いと全部同じなまくら刃物で同じ切り方で調理して同じようなけしから無さを発見してそれで終わり
脳が貧しいのよ要するに
最初はさいほう職人をやっていたけど、数値を取って計算してというのがどうにも性に合わず調理職人実装の時に調理職人に転職した。
調理職人は気楽だった。全ては会心が入るか否か。いかに効率よく会心を入れるか手順を考え、乱数に合わせて調整して、祈りながら狙い焼きか会心焼きをするだけ。面倒な計算とはあまり縁のない世界だった。
だが、百戦錬磨のシェフを取ってから2〜3年も経つと流石に飽きがくる。
最近新料理がいくつか出たけどほとんど8割取れる奴であまり面白くない。
そういう料理は当たり前だが単価も10万前後かそれ以下に落ち着くし、18万するオムレツやチャーハンは頑張ってやっとアベレージ3割だ。
調理になってから4年、うち2年くらいは休止してはいるものの、今の総資産は5000万だ。
そしたら、サービス開始時点と比べると別ゲーになっていた。
なにせ常に数値が表示されている。すげーイージーモード。
ついでに結晶装備の存在。めっちゃ売れるし駆け出しでも稼げる相場。
最初は皮手をひたすら作って、レベル35過ぎたくらいから無法腕、レベル40で拳聖のうでわに移行してるけど、めっちゃ楽。
拳聖のうでわはまだ修行が足りなくて5割だけどそれでも儲かる相場。気がつけば1000万。
生まれてからずっと地元に住んでいる。物心付いたころから通っていた床屋が閉店することになった。ご主人と奥さんでやっている個人経営の店だ。二人ともすっかり歳を取ってしまって、いつ引退してもおかしくはなかった。もしかすると、平成の終わりついでに閉店というのもあるのかもしれない。いつか来ることではあるのに、実際そうなるとショックだった。
親に連れていってもらったので、スタートはいつなのか曖昧だ。糞ガキだったから、騒いでうるさかったんだと思う。
一度お金が足りなくて、走って家まで500円玉を取りに帰って、子ども心にとても申し訳なくなったのを強烈に覚えている。
ヒゲが生え始めの思春期のころ、顔そりをしてカミソリ負けで肌がヒリヒリしたのも少し覚えている。
高校、大学、就職、挫折して退職、転職と、人生の転機をまたがりつつも通っていた。たぶん身の上話はそれほどせず、置いてあった漫画本を読んでいた気がする。今思うと、もっと話をしておけばよかった。それでも、少しだけ話していた仕事や家族のことはよく覚えていてくれた。疎遠になった同級生の近況も、床屋の主人を介して知ったこともあった。
床屋は、頑なに変えなかった。不満は無かったから変える必要もなかったし、何より居心地もよかったんだと思う。同級生に美容室に行けばと馬鹿にされたこともあったが、店を変えることは引っ越しなどよほどのことが無い限りしないつもりでいた。結局、進学や就職しても地元を離れることがなく、30年以上通い続けた。
閉店を知っても、床屋という性質上、飯屋のように頻繁に訪れることができない。自分の髪も薄くなり、来店間隔は最近長くなりがちだったが、閉店を知ってからは1ヶ月刻みで行った。変わらぬ店の風景がもう見られないと思うと、急にいとおしくなる。通い始めは子どもだった自分も中年にさしかかり、髪に白髪も少し交じりだした。額がこれぐらい上がってしまったと指摘してくれた。何十年も頭を見てくれたご主人ならではだ。
週末の休みを利用して、最後の散髪に行った。店にはたくさんの常連で混み合っており、花やお菓子やらのプレゼントで溢れていた。自分も30年分の思い入れがあり、精一杯考えて差し入れをした。混んでいたので、最後の挨拶もそこそこだった。本当はもっと感謝しているのだが、それを表現しきれないのがもどかしかった。
今は次の床屋を開拓するのが考えられない気持ちだ。こんな寂しい思いをするんだったら、次からは安くて早くて人の入れ替わりも激しそうな格安床屋チェーン店にでもしようかなと思っている。
ケムリクサ、おさまるところにおさまったなと思った。わかばくんでも操作できなかったやつ、もしかしてりんちゃんかりょくちゃんなら操作できるのか?と思ったけどぶった切られた。
ちょっとずつしか出てなかったキャラにあまり思い入れができてなくて、クライマックスもうちょっと感動したかったなとは思う。12話しかないから仕方ないし、引き延ばしたらだれちゃいそうだし、難しいね。
りんちゃんがキラキラしてよかった。りんちゃんは家族が好きなんじゃないの?とか思わなくもないけど。みんなが好きなことできて幸せになるのが幸せ、みたいな。それが前提みたいな。生存や安全の欲求が満たされてからの高次欲求なのか?
(見始めたころ、えっ他の子は食べることとか知識欲なのに、この子は男が好きなの?と思ってしまった……。最初は記憶の葉の影響だったけど今はちがうのはよかった)
いろいろ思うところはあるけど、りなちゃんかわいい。EDが好き。
人間の分割というので、どろろと対比する人がいそうな気がするんだけど、観測範囲にはいない。
鬼神倒したら機能が戻るのと、機能分割して死んだ分機能が失われていくの。まあ全然ちがう話だしそれだけで対比してもな、って感じか。目をあげるってどうやったんだろうね。
どろろと違って目も耳も弱いくらいで完全に失うってわけでもなく姉妹で補い合ってるからな。得意なことがちがう、くらいの感覚で済んでるのか。感触がわからないってなんとなく怖い気もするけど。
ファーストしか見てないといったら、じゃあ逆襲のシャアからユニコーンを見るといいと言われた。
早速昨日逆襲のシャアを見たが、シャアがキモ過ぎて無理だった。
以下感じたこと
・作者はロボットに特に思い入れはなくて、ロボットものという資本を利用して自分が描きたい騎士物語を書いている感。
・しかもロボットものだから雑でいいでしょという甘えを感じる。
・シャアはアクシズを落っことすぜという機密をなぜ事前に演説するのか。この世界には諜報活動はないという設定なのか。
・全体的に女に甘えた話。
・「女は感情的な生き物だ。でも男を癒し許すべき。」みたいな扱いワロタ。
・アクシズが地球に落っこちなかった理由が素で分からんかった。
・Wikiで調べたらサイコフレームによる超常現象らしい。知らんがな。
・というか、あんなに核をカジュアルに使える環境なら直接地球を核攻撃すればいいのに。
そして作者がキモイ。
【追記】
集計してみた。漏れがあったらすまん。
Gガンダム 5
∀ 4
F91 2
MSイグルー 2
V 2
ポケ戦 2
Z 2
X 1
ウィング 1
オルフェンズ 1
サンダーボルト 1
08小隊 1
Gレコ 1
いろいろあるなあ。
とりあえずママ友さんのおすすめのユニコーンとMSイグルーを見てから、
一番たくさんの人がおすすめしてくれたGガンダムをみてみようかと思う。
順番はこれでいいのだろうか。
ZとZZを見ないと逆シャアのシャアの気持ちはわからないというブコメがあるが、
Zがだるくてやめたというブコメが2つあった。
でもおすすめも2つあった。
生徒、といっても家庭教師だが。
関わり自体は短い。
家庭教師はあくまで私にとって副業で、子供嫌いなのもあり、基本ビジネスライク。思い入れはこれと言って持たず、お客さんに接する気持ちでつきあっている。
社会人教師だし、それが逆に信頼されるみたいで、親子ともに、担当した家庭からはおかげさまで受けは良い。
明るく朗らかに、優しく、礼儀正しく、授業はわかりやすくその子にあわせて。
それだけ。
なので、こんな風にプレゼントをもらったりするとちょっと戸惑った。
…というのは嘘で、メッチャ喜んだ。
否、喜んで見せた。
相手の負担にならないよう、でも喜ばれるようにと散々考えて頭を抱える。
だから、私が何か贈り物をされたときは、これでもか!と言うくらいオーバーに喜ぶ。
悩んであげたのに反応が薄くて悲しませたくないし、なによりやっぱりその気持ちはうれしいので。
で、今回も大はしゃぎしてしまった。。
わざとらしすぎたかと不安になったけど、生徒の満面の笑みが見えたのでよしとしよう。
負担にならないように、でも、新しい門出を祝うために。
高校に慣れたらまたお願いするかも、と親御さんは言ってたけど、まぁ、話半分に。
私も続けるか分からないし。
彼女にとって中学時代は苦しいものだったろうから、私のことも速攻で忘れて、高校を思う存分楽しんで欲しい。
幸せになってね。
唐突にマカデミアナッツについて、増田になにか書こうと思いつく。
何も思い浮かばない。
なんの脈絡もない。
パソコンで寝転がってゲームをオート設定で流しながら、増田とTwitterを流し見している、日曜日の夜。
明日の仕事は少しだけ面倒くさいが、重い会議はないから心はそこまで暗くない。
なぜ頭に浮かぶのか。
よく考えると、夢ってこういう事なんだな。なんの脈絡もなく頭に浮かんだものが、現実の世界として周りを包む。それが夢。
そこには脈絡のある時もあれば、ない時もある。無い時がほとんど。
今朝なんて小笠原諸島に船旅に行く世界観だった。なんの関係も無いではないか。
深夜にチャイムが鳴る。
ドアを開ける。
チャイムが鳴っている。
世田谷区と言えどお世辞にも華やかとは言えず、駅前唯一の商店街はもう何年も前からシャッターが閉まったままの店が多い、寂れた駅だ。
駅前の桜が有名ではあるものの、駅から伸びる道沿いに木が映えているだけなので、満足に花見も出来やしない。
他に特筆すべきは、自動車の教習所があるとか、色々な逸話のある巨大な精神病院があるぐらいで、日常生活で楽しめるような施設は本当に少ない。
僕がそんな上北沢に住んで、もう18年になる。
上北沢について聞かれた際に、僕はいつも自虐を込めて「下北沢と間違えられる為に存在している駅さ」と応えている。
事実、金の無いバンドマンだった僕は電車代すらも惜しんで当時仲の良かった女の子たちに上北沢まで来てもらうことも多かったのだけれど、初めて来る子が「駅に着いたけれど何処に行けばいい?」と電話を掛けてきた際に、その後ろに喧騒が聞こえたりしようものなら、大概は下北沢にいるのだ。
この下北沢というのが曲者で、どちらかと言えば下北沢にとって上北沢が曲者というのが正しい表現かもしれないが、二つの駅は隣り合う駅などではなく、上北沢は京王線、下北沢は京王井の頭線と、乗り換えも必要な結構離れた駅なのである。
この二つの駅が離れているのは、どうやらこの辺りには地下を通る北沢川という川があり、その上流と下流に位置しているかららしく、その北沢川をずっと辿っていくと目黒川まで通じているらしいのだ。
こんな豆知識も、住みたい街ランキング上位に名を連ね、音楽の街だの古着の街だの様々な二つ名を持つ下北沢に対するのが全く無名の上北沢では、話したところで「そもそもそんな駅あるんだ」で終わってしまうのである。
散々なことを書いてきたが、僕はこの上北沢という場所が嫌いではなかった。
駅同士の間隔が狭い京王線の新宿寄りの区間において、上北沢は急行まで止まる桜上水と快速まで止まる八幡山に挟まれて、乗り降りする人は朝のラッシュ時ですら疎らだ。
意味も無く学校をサボりがちだった高校生の頃、二度寝した後の昼過ぎの上北沢駅のホームは端から端まで人の姿が無く、蝉の声や風で揺れる木々の音がいつもより大きく聞こえた。
終電を過ぎた時間になれば、コンビニこそあれど休日のオフィス街より静かな駅前で、集まった音楽仲間と無駄に大きい銀行の駐車場に座ってカップラーメンを啜りながら叶いもしない夢について語り合った。
何も無い、人もいない上北沢にも、唯一自慢出来るお店が在って、いつの間にか出来た駅前のベーグル屋だけはそれなりに有名で、インターネットの情報によると国内でも随一の実力派の店舗らしく、確かに美味しかった。
バンドマンという肩書きに騙されてクズ男の実家にこそこそと泊まりに来る女の子を連れては、朝食代わりにベーグルを一つか二つ買って、上北沢駅は素通りして隣の桜上水まで歩きながら食べるのがたまの楽しみだった。
社会人として働き始めてからは日々が過ぎ去っていくのはあっという間で、僕がくたびれたおっさんになっていく一方で、件のベーグル屋は同じ上北沢の中で移転して大きく綺麗になっていた。
因みに、移転先には元々和菓子屋があって、カフェオレ大福という何だか不思議なお菓子が名物で一度食べた記憶はあるもののそれが美味しかったのか美味しくなかったのかは定かでは無いが、まぁ、そんな些細な変化があった。
上北沢と同じように大した変化は訪れないと思っていた僕の人生にも意外や転機は訪れるもので、結婚という人並みに幸せそうなイベントや、就職した際には一生この仕事を続けるなんて思っていた癖にすんなりと決まってしまった転職で、僕はこの上北沢を、東京を、関東からも離れることになったのだ。
離れることが決まると、大した思い入れもなかったはずの上北沢という街が、急にいとおしくなってくるのが不思議だ。
大学時代に長期休みが来ると故郷に帰る友人を羨ましく思っていたが、この山も海も無い、何も無い街が、僕にとっての故郷なのかもしれない。