はてなキーワード: 人にやさしくとは
クッションに顔を埋めつつ振り返ると、この2年で生活が大きく変わったことを思い出す。
ものすごく好きだった人と結婚することができ、商店街を抜けた築50年の汚いおんぼろアパートから大きな駅に近い都会のマンションに引っ越し、売り上げ重視の厳しい外勤営業からおっとりとした学校事務に転職した。
新しい仲間たちにも恵まれ、義理の両親もやさしく、夫も自分のことを大事にしてくれる。
そうです!この恵まれた環境にいつのまにか甘え、つけ上がり、酒飲んで上から目線で後輩に「もっとこうしたら〜?」とか言っちゃうマウンティングクソ女さんになっていたのです!!!!
あーーーーーもーーーーー恥ーーずーーかーーしーーいーーーーーーーーーー!!!!!
週明け後輩にごめんねって謝ろう。
おんぼろアパートの時みたいに部屋を大切にして隅々まできれいにしよう。
つつましく、人にやさしく生きれるよう努力を怠ってはいいけませんね。
はあ、恥ずかしい。
みなわかってるのに、一点に注目して喚く人が目立つ。いわゆる切り取りって奴だ。
新年早々はベビーカーだ。あれも状況からして仕方なしなのに差別だ!と強い言葉で誰かが騒ぐと
大騒動になる。実際に寺には抗議の電話がこの忙しい年初に殺到したと聞く。
皆普通に人にやさしくの教育受けてるから、ひどい!差別だ!ヘイトだ!と言われると、普通はウッと心に効く。
その強い言葉を振る前に、一呼吸、落ち着いて調べたり相手を慮ることできないかな。
ちょっとしたことでは昨日のすべらない話で竹山がマエケンの仮通夜の場で、
マエケンの父に息子は竹山君のこと愛してたんだよ!と言われたことをお笑いにしてた。
竹山はしゃべりの構成がうまくなく上手な笑いに昇華できなかったミスはあるが、
親友芸人のマエケンを語りたかった気持ちはよく伝わってきた。芸人ってこうなんだろうなと思うこともできた。
ただそれすら、ゲイであるマエケンに対するアウティングだといってみたい勢、好きだという気持ちを
マエケンはばらされていいの勢に放送直後から攻撃されたりしている。
すこし調べれば竹山の単独ライブや彼らのこれまでの活動から、これは不器用な友情の話だとわかること
なんだが、
人が好きだというのを笑う?男性が男性を好きだというのを馬鹿にする?みたいな
あとね
いじめられたということが大体マイナスの出来事だったという意見が多いけれども、
逆に言うといじめられたからこそいじめを受けている人間の気持ち、弱くて味方もいない人間の気持ちも分かるようになれた。
そういった人に少し優しくしてあげたら、労力の価値以上にすごく恩を感じてくれるんだよね。
弱っている人って実際は困っていることや弱っている様子をあまり表面に出したがらないんだけど、
おかげで恩返しのときに仕事をもらえたり、何かを無償で手伝ってくれたり、人脈が広がったりして結果的に見返りの方が多くなってしまう。
もちろん見返りは嬉しいけれども、それよりも弱い人を助けられる自分に強い自尊心を感じている。
自分のように弱い人間の心を理解でき、助け、一緒に得をする関係を気づいていける、そういった人格的に優秀な人間になれたのは、
ひとえに自殺を考えるまでのいじめ体験があったからこそ、だと考えている。
あとは並大抵のことでは心が折れないとかね、10年生きていた猫が死んだときは流石にヘコんだけど…。
とにかく、いじめを乗り越えさえすれば、いつかプラスに転じることもあると考えたら、
いじめられたほうがマシな人間になれたんじゃないかなあ、という人格の人と比べるとずっと得してると思うよ。
これは本当のことだと思う。
意図的ではないけども、横柄な客、問題のある客の場合、おかず4個がすべて小さいときにそのまま提供したりする。
大抵の場合、大小を見繕って、4個が全部小さい場合は大きいのとチェンジしてバランスをとったりするのですが
そのまま出したりはします。
これは私だけじゃないことは商工会の飲みの席などで確認しております。
なかにはもっと酷いことをしてるところもありますね。書きませんが。
ゴネ得という言葉があります。早い者勝ちとか限りなく詐欺みたいな順番の横入りなどをして
得をしたと思ってる方は多いです。
ただ彼ら彼女らはこういう形でマイナス面もあるのかなと思ったりします。
たぶんそういうのが積もり積もってかなりな負債を背負ってる気はします。
3点/5点満点
_______
I'm full teen!!!!!!!!
「表参道高校合唱部!」というドラマを観て、毎週泣いていたので合唱繋がりでこちらの作品を観た
やはり人の歌声は自分のゆるゆるな涙腺を揺すり、最後泣いてしまった
予想としては本人が部に働きかけて前向きになってくストーリーかと思ってたけど全然違った
まぁこの予想は「表参道高校合唱部!」を観てたからかもしれないけど
・かすみはなぜ牧村の事が好きなままなんだ!普通嫌いになるだろ!
ってか歌の素晴らしさ知って、誤解とはいえ馬鹿にしてくるような男、清々しいぐらいに嫌って欲しかった!
・湯の学の合唱観たら、うたに前向きになったのは良い
ただその前の「自己中な歌手」感が弱くて、変化の振れ幅が少なかった
・「本当は伴奏の子だって歌いたかったんだよ」が伏線になってるのかと思いきや全然回収してなくてがっかりした
最後のアンコール、伴奏無しで歌って皆の願いが叶った感じにしたらもっと感動するような気がした
・権藤の「川の流れを雄大にたたえた姿に感動した!」という台詞めっちゃ面白かった(?)
それ聞いてもっと高校生の等身大に近い歌を合唱してくれたら見やすかったかも
・かすみの中で物語が完結しちゃってて、他を巻き込むとかなかったのが気に入らなさの根源にあるかもな
全体的に役者がうまくて見応えがあった
夏帆、ゴリ、薬師丸ひろ子はもちろんだけど、ともさかりえが非常に良かった
金のある人間から奪い取って弱者に再分配すればいい、これは本来は政治の業務であるはずだがシルバーデモクラシーの我が国では政治は弱者のためには動かない。厭世感の強い時虐思想が心に沁みついているはてなーなら周知のとおりである
アルバイトでも時給1000円という世界的に見れば破格の金銭的な報酬を得られる日本でもそれ以上に支出があることやと非正規では組織で成り上がっていくことは難しいことから最も現場に近い人間が最も搾取されるというわけのわからない状況である
デスクに座りPCでフェイスブックを覗いている暇人や金をただ投資している無能が株主総会で偉そうに経営に物申す、身体性が欠如し資本主義に頭のてっぺんから浸かりきっている人が悠々自適な暮らしをしている
新幹線が走れば歩くという身体性がなくなり電話が生まれれば対他性がなくなりメールが生まれれば声は消えていくのだ
資本主義では金のある人間が投資することで社会に生産性が生まれ新しい業種やサービスが生まれていくという前提で成り立っているのだがこんな理論、幻想はもう破綻している
新規事業で出てくるものといえばスマホゲームやネットサービスなどIT関係が主だがこれらはパチンコほどではないが依存性を軸に需要曲線をゆがめることで利潤を追求する。そこのおまえだよ、はてなや増田を年がら年中見ているおまえだよ。はてなとおまえの間に社会的な生産性が生まれなどしない
本来の経済活動はいかに質の良い品をいかに低価格で数多く売れるかというものだ。供給曲線をぎりぎりまでシフトさせて利益を生むことを目指しそこに国としての成長があり国際的な競争力というものにも繋がる。そこに社会的な生産性は生まれ新しい価値も創造しうる
しかし今は現場で働く人間が最も損をする、バカを見る時代だ。僕はアルバイトや非正規で働く全ての人間に言いたい
「君の将来が君の正義よりも重いのであれば今すぐにバイトや派遣などやめて振り込め詐欺をしろ」
これは戦争だ
もう社会は成長などしない。若者はいまあるものからいかに搾取すべきかを考えるべきだ。絶望を前提として自我を捨てろ。老人が死んで金が相続税として国に吸われ国債にかわり銀行に流れ融資として経営者に流れふんぞりかえるだけが能の株主にわたる前にだ。今すぐに息子や娘を騙れ
豊穣たる経済活動の帰結として生まれた老人に搾取されるのはもう限界だと知れ
老人は金を使わない、地道に働いて貯金というものが美徳と教えられてきた悪党だからだ
だから振り込め詐欺が悪だかなんだと宣伝しているがマクロで見るかぎり振り込め詐欺でぽんと金を出せるほど溜め込んでいる老人ほど無意識の悪はいないとも言える。倫理がどうこうは置いておくとしたらだ
老人に優しくと脳髄まで染むほど教えられてきた、けれど人は自らに与えられた善意の総量分しか人にやさしくなどできないのだよ、それが悪い意味での人間的というやつで今は悪さを手放しで否定できるほど甘い時代じゃない
基本的にあの人たちは他人をおもいやる心が強いなって思う。
それがたとえ知らない人でも。
たとえば、
・狭い道で鉢合わせると道をこころよく譲ってくれる。"After you"
・道で鉢合わせて行く方向がかぶるシチュエーションの時に相手は必ず"Sorry"ってあやまってくる。
・ドアを開けたときは後ろを必ず確認。後ろに人がいれば、そのまま開けて待っててくれる。
・他人でも目が合うと、スマイルを返す。
・なにかあれば笑顔でありがとう(thanksとかcheers)たとえば、会計のときとか。バスから降りるときとか。
・会計のときは必ず、コミュニケーションがある。"Hiとか""how are you?"とか"Are you alright?"
・信号のない横断歩道で道路を渡ろうとしていると、すぐに車が止まって待っていてくれる。
・広い道で老人とか障碍者が信号のない場所を横断しようとしてるときも車が止まってくれる。(ちょっと渋滞になる…)
・お爺ちゃんもおじさんもジムの運動の後はデオドラントで匂いの管理、身だしなみもしっかり整える。
ざっくり思いつくだけでもこれくらい。
当たり前のように見えて日本人はなかなかできてないことですよね。
だから、たまに違う国にいくと、逆にイラっとしたりします・・・。
本当にこんな気持ちの毎日です。
「卒業式で桜ノ雨」「お昼の放送でボカロ禁止」といった話題がネットに上がってから3年~5年、
ニコニコ動画におけるVOCALOID初期作品の『みくみくにしてあげる』や『メルト』からおよそ6年半。
青春の音楽=ボカロって層はまだ学生だろうけど、大学くらいでボカロに触れて楽しんだ人が教職に進んでクラス担任を受け持っていることはありえると思う。
すると生徒とくだけた話もするタイプの教師なら、ボカロ好きな生徒との会話を試みて
「先生が学生のころは〇〇Pを聴いてたんだよー」「そんなP知らなーい」「えっ」
といったシチュエーションがあるかもしれない。
でも私が中学校の頃はどんなに若い教師でも、私たち(のものと思っている)の娯楽にすり寄られるとウザいと感じた。
むしろ私たちだけがその娯楽の面白さを知ってればいいとさえ思っていたから、
冒頭で挙げたネタで出てきた「自分の好きなものを否定されて辛い」って感情は
否定してくる相手が同級生なら共感できるけど、教師だとできない。
モーニング娘。・嵐・浜崎あゆみ・宇多田ヒカル・aiko・椎名林檎・19・ポルノグラフィティ・Dragon Ash・BUMP OF CHICKENは私たちのもので、教師が入ってくるのを拒んでた。
「二宮くん可愛いよねー」より「私の1番は今でもかーくんなの!」という女性教師の方が誠実そうに見えた。
吹奏楽部が定期演奏会で『ザ☆ピ〜ス!』を下級生のダンス付きで披露したとき、飛び入りでダンスに参加した副顧問の男性教師にはかなり白けた。
一方で自身の思い入れのある曲・歌手・娯楽を紹介できる教師は、ちゃんと青春を謳歌して大人になったんだなと好印象だった。
『TSUNAMI』、『波乗りジョニー』の大ヒットで当時40代の教師たちがサザンオールスターズや桑田佳祐を熱く語った。おかげで男子に『マンピーのG★SPOT』が大流行した。
ドラマ『人にやさしく』でTHE BLUE HEARTSを知った子も多かった。体育教師は持久走の授業で『リンダリンダ』『TRAIN-TRAIN』をBGMに流して生徒が関心を示すと、どこか満足気だった。
一番印象に残ってるのは卒業式とは別にあった、教師のくだけた訓話と生徒の出し物がメインのお別れ会。
男子生徒のバンド演奏で2人の男性クラス担任がボーカルの子と並んで歌った、スピッツ『チェリー』。
『桜坂』は大ヒットしてたけど、後発の桜ソングはまだなくて桜ソング=卒業ソングというイメージもまだなかった時代。
それでも春と旅立ちのイメージで選ばれたんだと思う。
『チェリー』のCDリリースは96年。私たちは小4で、大流行してたJ-POPを主にテレビからどんどん吸収していた。
歌った先生たちは教員になったかならないか、でも『青い車』『ロビンソン』なら学生だった世代。
男子生徒たちは普段Dragon Ashを体をくねらせながらコピーしていたせいか『チェリー』だとかっこつけきれず、はにかむような顔を見せた。
先生たちは学生のころの気持ちに戻ったと言いながら、ノリノリで歌い終わったあと赤面してた。
お互いの照れがとても印象的だった。
これがスピッツではなく19だったら、あるいは尾崎豊だったら、生徒と教師が一緒につくった思い出としては今の私に強く残らなかったと思う。
秋田県 上小阿仁村とかいう「医者追い出し村」の実態wwwwww
http://www.mudainodocument.com/lite/archives/54639402.html
上小阿仁村の一件がたびたび話題になっているのは、「赴任する医師が何度も変わるくらい怖いところ」という噂がひとり歩きしているから。
たいして話題にもならない私の住んでる同県自治体の話をしようと思う。
元々はこの自治体の出身で、東京の大学病院で働いていた若い医師がわざわざAターン(笑)で赴任した。
もうその人は生きていない。数年前に心不全で死んでしまったからだ。それとは別にずっと鬱病を患っていた。
不文律があるンゴwwwwwwwwwww
蔑まれることのほうが嫌ンゴwwwwwwwww
いや秋田県民にとっては
無医村という蔑みは堪えるンゴwwwwwwwww
ジレンマンゴwwwwwwwwwwwww
これは本当。
上小阿仁も私の自治体も、車で30分程度の場所に総合病院がある。大きな怪我をしたり、長期的に病気を患っている人はここへ行く。
住民的には「別に診療所なんてダサい使わないから関係ないけど~、無医村って言われるとすごくダサく見えるんじゃね?」みたいな感じ。
診療所に赴任した医師は他県出身の人が多く、時には上小阿仁と同じ頻度で変わっていた。
でも「また医者変わるんだって~」「ふーん」、もしくは変わったことを知らない人すらいる。
歯科医師はこの自治体出身ということもあり、耐えちゃったんだと思う。
第一、秋田県民は基本的に
人に頭を下げることを嫌うンゴwwwwwwwwww
「治してください」というより「治せんだろ」って感じで
医者にかかるンゴwwwwwwww
もうここの住民は最初っから公営診療所というものを馬鹿にしていている。
オラたちの診療所にわざわざ赴任する医者なんかどうせたいしたことないヤブだと思ってる。
「治せんだろ」→「どうせ診療所でなんか治せない」→「治せない医者はヤブ」
それは仕方がないンゴwwwwwwwww
なんでもいいから貰った薬を飲んでおけばとりあえず安心で、薬を出さない医師はヤブとみなす傾向がある。
同級生や周りの大人たちは、あの公営歯科医院を利用していると聞くと微妙な顔をする。
「ヤブでしょ?」「となり町の歯医者(民間経営)の方がしっかりしてるよ」
私はその歯医者以外行ったことがないので違いがわからない。その人達も一度も公営歯科を利用したことがないから実態はわからない。
でも「こんなとこに来るくらいだから絶対ヤブ医者」というレッテル貼りはずっとあった。
同級生の中で公営歯科を利用していたのは1割程度で、他の人はみんな隣町の歯科へ行っていた。
※余談だけど、実際この医者の腕はまともで、他県に出てみるともっとひどい歯医者はたくさんいた。
この歯医者は努力の人だった。家業は飲み屋だったが、勉強して国公立医大の歯学科に入学した。
もうその店はとっくの昔に畳んでいるのに、歯医者になっても周囲の大人と同級生から「飲み屋の息子」と言われる。
「飲み屋の息子」に歯医者なんて仕事できるはずもない→ヤブ という偏見もあった。
ここに住んでいる人たちは一旗揚げて帰ってきた人にやさしくない。昔のポジションで付き合いたがる。
歯医者は意外とベッドに座らされてから待っている時間が長い。医者が何らかの用で席を外したとき、歯科助手のお姉さんは私へこう尋ねた。
質問の意味がわからなかったので、素直に「わかんないです」と答えると、すごくつまらなさそうな顔をした。
多分アレは嫌なものを共有しようと話を持ちかけたんだと思う。
先生がいなくなると、歯科助手のお姉さんたち4人くらいは先生の悪口を言い始める。ハゲとか息が臭いとか。それでクスクス笑う。
権力を持った男の人が一人いると、下につく複数の女の人が徒党を組んでその男をバッシングする的なアレ。
確かに頭髪は薄かったけど、息はくさくなかった。なかなかファニーな外見だったけど気持ち悪くはなかった。
なぜなら、公営歯科で働いている助手のお姉さんたちは全員ぶっといコネで入ってきているから。
こういう田舎の自治体ではコネがないと公営の職場で働くことなんてできない。幼稚園もそう。
大体が議員から推薦状持たされて入ってくる。そんな人達をクビにしたら「俺の面子が」という話になってくる。
さらに不幸なことに、事務のお姉さんがちょっとした横領をやらかした。でもクビにできない。
などの状況が合わさり、数年後に歯科医師は鬱を発症した。
けれど仕事はちゃんとしていた。医師の都合で休院になった日はなかった。責任感の強い人だったんだと思う。
自分の生まれ育った自治体だし、何か役に立てるかもしれないと戻って来たんだろうけど、結果逃げられなくなってしまった。
家人がこの医師を他の場所で見かけたとき、元気がなく、ぐったりと肩を落としていた、と言っていた。
ずーっと長い鬱を経て、ある日ぱったり亡くなってしまった。
この歯科医院を利用していた人は悲しんだだろうけど、大体の住人は利用していないし、ヤブだと信じてているから「へー」くらいの反応だった。
ヤブと言っていた住人も、働いていた歯科助手も、医師を呼び寄せた有力者も、誰ひとりとして「あの医師が亡くなり、自分にも少しだけ非があるのかもしれない」なんて思っていない。
だって直接的に何かやったわけじゃないから。鬱になったのは医師が勝手にそうなったんだし、心不全も勝手に医師がそうなって死んだみたいな感覚。
今は診療所、歯科医院ともに常勤の医師はおらず、外部から招聘した医師が診察にあたっている。上小阿仁に赴任した医師は逃げて正解だったと思う。
「すべてのモテ男、リア充は死ね、腹を切れ、又吉イエスに地獄の火に投げ込まれて苦しめ」
と思いました。
と、とりあえず誤解のないように、恋愛に対するスタンスを明らかにしたところで、俺はそれでもやっぱり、自分が姉だったら全面的に弟君を擁護したい。
自分では一度も攻めたことのない、受け身だから悪いというのは、どうなんすかね?
たいがい、顔の造形に優れた女って、そんなスタンスじゃない?
告白してくる男を待って、なんとなく付き合ってみて、なんか違うと思ったら、適当に理由をつけて離れてを繰り返す女はザラにいる。
ざっと地球人口が50億、女性半分、男性半分だとして、自分が世界の異性のなかで一番好きな、25億分の一の相手が、相手にとっても25億分の一の相手であることなんて、あるだろうか?
人は、好意を抱かれたら、自分も相手に好意を抱くという、馬鹿な生き物だから、相思相愛なんて成り立つだけだ。
相思相愛が成り立ったとして、女性から男性への好きと、男性から女性への好きが、ちょうどバランスが取れたカップルなんかいるのか?
弟君、時折にじみ出る態度がカチンとくるだけで、夫としての、父としての務めはきっと完璧にこなしているんだろう。
好きじゃない男と結婚した女は、家事も育児も落ち度なくこなしていても、やっぱり叩かれないといけないのか?
今まで、見下した態度で女性を傷つけてきたツケ?
百歩譲って、受け止めるべきは弟君の妻の恨みまでだ。
今まで付き合った女性の恨みまで合わせてツケを払えなんて、まるで前局のドラを乗せてるようなもんじゃないか。
払うのは手役の点数だけだよ。
俺は、弟君が好きになった。
想像だけど、彼は、好意を抱かれたから、自分も好意を抱くということがないだけでなくて、それ以外のことでも、しっかりと自分の気持ちと相手の気持ちを分けて考える力がある。
巷で流行っているから、自分もそれを好きになる、とか、みんなが嫌っているから自分もそれを嫌うとか、そういうことをよしとしない。
みんながどう思っているかじゃなくて、自分がどう思うかで行動する。
見栄っ張りだけど、決して軽くない。
自分が描く理想、あるべき姿があって、常にそれをスタンダードに、行動している。
物腰は柔らかだけど、セルフイメージ、自分の哲学から外れたことは絶対にしない。
自分を誤魔化すことが出来なくて、他人からは時に傲慢に思われる。
世の中は同調と自分に嘘をつく人ばかりだから、クソみたいな慣習や、いじめがなくならないのに、俺たちは、彼みたいな人を攻撃する。
同調はしないだけで、他者を認めていないというわけじゃない。
弟君は、とても優しい。
どんなことをされても、彼は父として、夫としての役割をこなし続ける。
彼女が結婚しても、ババアになっても、弟君のことを嫌っても、墓の中に入っても、弟君は彼女を愛し続ける。
それでも、人の道に外れることはしないし、父と夫として完璧に役割をこなし続ける。
賢くなんかなれない。
空気を読んで、気持ちを誤魔化すことを覚えるだけだ。
同調圧力に屈しているだけなのに、「自分もそう思う」と、自分に嘘をつくようになるだけだ。
お願いだから、世界中が彼の敵になっても、姉のあなただけは彼の味方をしてやってほしい。
人は誰でも くじけそうになるもの
叫ばなければ やり切れない思いを
ああ 大切に捨てないで
人にやさしく してもらえないんだね
僕が言ってやる でっかい声で言ってやる
ガンバレって言ってやる
やさしさだけじゃ 人は愛せないから
ああ なぐさめてあげられない
期待はずれの 言葉を言う時に
心の中では ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも
でも、ちょっとした配慮が欠けているために、とても使いにくい機械が まだまだたくさんある。
回数券を買うために5千円札を入れる。「回数券」のボタンと 「1600(円)」のボタンを押すと、かしゃかしゃと音がして、 “ただいま発券中です”などと言っている。
私は、おつりをしまうために左手に財布を持ったまま、 右手で出てくるはずの切符とおつりを待っている。
発券枚数のデジタル表示が1つずつ増えていき、11になったとき、 回数券と千円札3枚と100円玉4枚が いっぺんにでてくるのだ。
いったい、どうやって全部をいっぺんに取ったらいいんだ?
後ろに人が並んでいれば、早くその場をどいてあげたいと思うだろう。 もし、悪い人が狙っていれば、どれかをひったくられる可能性だってある。
でも、3つもいっぺんに出てこられたら、お札を財布の札入れに入れ、 100円玉を小銭入れにいれ、そして回数券を取る、と3つの動作を しなくてはならない。おまけに、左手に財布を持ったまま、 11枚の回数券を右手に持たねばならず、券売機の列を離れてからも 回数券を落とさないように財布をしまうのに一苦労なのだ!
すべての券売機がそうかというと、そうじゃない。 東横線の渋谷駅の回数券の券売機はずいぶん賢い。 発券しているあいだにおつりが先に出てくるのだから…。回数券が出てくる前に おつりを財布にしまい、財布をバッグにしまう。だから、 発券が終わった次の瞬間には、回数券を受け取って券売機の列から 離れられる。
これだって十分めんどうなんだけどね。
すぐに気持ちが落ち込んでしまう。全く困ったもので、次から次へと心配の種が出てきてしまう。考えすぎなことばかり。もっとおおらかになりたい。めんどくさがりではなくてざっくりした人になりたい。心が広くて、立ち上がれる人になりたい。人にやさしくなりたい。だけど自然に生きていきたい。呼吸するみたいに外界に開いていたい。
過去の自分と今の自分はまるで違う人間なんだな、と以前住んでいた場所をたまたま見て思った。あのころの私は悩み事もそうなく、率直に考えなしに言葉を発していた。自分のしたいように生きていた。自己反省の欠如。自分の持つ言葉が、どれだけ重いか、人を癒しえて同時に傷つけ得るか自覚しないで。楽だったけれど、きっと私はあの頃間違ってた。 今でも私は意見を言うほうだし、自分に嘘をつきたくないと思っている。でも以前よりずっと、いろんなものが怖くなった。意見が違うことが怖いし、私の発言で人を傷つけるのが怖い。もしかしたら嫌われるかもしれない。すぐ感情的になってしまうし。言わなきゃよかったって思うことだっていっぱいある。 話すことをやめたこともあった。何も言わずに心の中で苦しんでたこともあった。言えないことは私を動けなくさせた。私を知りもしない人が、勝手に私のイメージを決めていって、つらいこともあった。知ってほしくて、わかってほしくて。でも願うだけじゃだめだった。
でもそれは、たぶんこれからもずっとそうだ。意見を言っても言わなくても、私が発信できるのは私の一部だけなのだから。必ず誤差は生じる。私みたいな人間はいつだって生きづらいかも。孤独をいつも感じるかも。 だったら言葉を尽くそう。行動しよう。発言はリスクを伴う。相手と違うことはもっと怖い。だけど分かってほしいなら、誠実に相手と付き合いたいなら、私をちゃんと見せなければ。どうせ発信するならより正確な情報を。怖いけど。でもそれは過剰でもいけない。 そして人の話をよく聞くこと。言葉を聞き、行動を見て、それを理解しようとしよう。それが私にとって受け入れられるかは、その時点じゃ重要じゃない。聞かないまま相手を判断するのは誤解のもとだ。必ず聞こう。そしてまず主観はできるだけ排する。判断はそのあとでいい。でも自分と違うからといって相手を間違いと決めるのはだめだ。そうしてしまいがちだけど。そうじゃない。そうじゃないんだよ。 価値観を合わせろっていうんじゃない。なんでも受け入れろっていうわけじゃない。そうではなくて、許せない自分がいてもいいから、でもそういうもんなんだと理解したい。私は忘れがちだから書いておくけど。そこにはこういう考え方があって、こういう人がいるのだということは、そしてそこに、絶対的な尺度もなければ正解も間違いもなく、私にはその決定権もないということを。
誰かが私に向け発信する言葉を誠実に受け止められるようになりますように。悩みなく見える人も、いつも楽しそうな人も悲しそうな人も、心のうちに必ずいろんな「くるしい」を抱えてる。それでも世界で生きている。そして私と話をしている。隣にいる。そのことの尊さを忘れたくない。それは当り前じゃない。みんな苦しくて、悲しくて、でも人と接することをあきらめずに生きてる。そしてそんな世界の中に私は含まれてるんだ。含んでくれているんだ。それがどれだけ勇気がいることか。 忘れちゃだめだ。それを忘れてしまったら、私のこれまでは全部意味がなくなってしまう。すべての人に敬意を。他者への寛容は同時に自分をも解放する。 そしていつか、自分を認めてあげられたなら、それがいい。だからだいじょうぶ。私はここで息をしているよ。もっともっと前へ進もう。だいじょうぶ。このことを忘れない限り、だいじょうぶ
高度経済成長およびバブル期の失敗してもプラス成長だった時代においては、
体育会系の「とにかくやれ」という姿勢の方が合理的だったのだろう。
当たれば大儲け、外れてもそれなりの儲け。
そんな状況じゃ「慎重に進める」「人にやさしくする」インセンティブは働かない。
当然、体育会系に嫌な思いをさせられた人もいる。
が、当時はそれに見合う報酬があった。
給料の毎年昇給は当たり前。そして会社は定年まで面倒を見てくれる。
だから、体育会系から多少嫌なことされても、体育会系のしりぬぐいをさせられても我慢できた。
それは高度経済成長、バブル時代の体育会系が少なからず上にいるからだ。
彼らは若い時の自分の方法が唯一絶対の最適解だと信じて疑わない。
そのやり方に感染した人間が新たな体育会系として、呪いをまき散らすのだ。
「昇給?何それおいしいの?」
「定年まで面倒みるなんて誰が言った?50過ぎたらリストラだ」
「貧すれば鈍する」
海を感じなさい。五感を震わせて海を感じなさい。その目で波頭を見て、その鼻で潮の匂いをかぎ、肌で東北の海の冷たさを感じなさい。自然を体感しなさい。科学の進歩の意味を、海や自然が教えてくれるだろう。
新聞やテレビで分かった気になってはいけない。今からでも遅くない。震災から1年たった東北を訪ねなさい。今は静かな海、人の絶えた街、うずたかく積もったがれき、動物の死骸。すべて見てきなさい。
君が大人になった時、後の世代から必ず問われるだろう。「あのころ、どうしていたの」と。関係なく生きていたよと、君は答えるだろうか。2012年3月の東北の海で感じたこと、考えたことを自身の生き方に反映させなさい。次の世代へ、次の次の世代へと語り継いでいきなさい。これは君たちの義務なのだ。
人に会いなさい。会って話を聞きなさい。いろんな人が、いろんな考えを持っていることを知りなさい。それが社会を幸せにすることだと知りなさい。
究極の人間らしさとは何か。他人へのやさしさだと、私は考えている。やさしさの語源は「痩せる」である。他人のために自分の身を細らせるという意味を含んでいる。
いろんな人と会い、身が細るほど相手の身になって物事を考えられる。他人と不幸を分かち合える。そんな人間になりなさい。戦後はみんなが貧しかった。今、悲劇は一部に集中している。だから分かち合うことが必要なのだ。弱っている人にやさしくなりなさい。それが人と会うことの意味なのだ。
理想を掲げなさい。老人には描けない、何十年先の理想を掲げなさい。理想を実現するために何をすべきか考えなさい。
敗戦から1年後。日本国憲法が発布された。日本が掲げたのは、戦争放棄という新しい理想だった。戦争から帰ってきた、あるいは戦争へ行くはずだった若者たちが、その理想に夢を託した。戦後日本の繁栄は、彼らがつくったのだ。
震災から1年が過ぎようとしている。今、君が夢を託せる理想があるか。震災後の日本をつくる理想を描けたか。私たち老人も考えよう。君たちも考えなさい。自身に問いかけなさい。