はてなキーワード: 一部の人とは
一部の人が全員が土日休みだと言わんばかりの態度をとるのはなぜおこるの?
普通に考えて土日に自分が買い物とかするとき店員さん働いてたりするじゃん。
普通の社会人様とやらになると、そういうので土日に働いてる人と関わったりとかしないの?
そうだとしても学生時代の知り合いに土日休みじゃない人がいたり、
ネットで見た色んな意見で筆者が土日休みではないゆえの物があったり、
様々な形で土日休みではない人の存在だって知れると思うんだがなあ。
だいたいなんでネットにいる人間が全員社会人もしくはニートってことになってるのかもわからん
ネタバレなので、気になる人はプロメア観てきてからこれ読んでね
と言う訳で観てきました。CGも頑張ってたし、グレンラガン知ってたら、色々なところで嬉しくなるシーンが多かったし、何よりカミナが主人公というのが良かった。
んーでも、内容を評価すると70点ぐらいです。及第点よりちょっと良かった、くらいの程度
まぁカミナが出てきた時点で、この話はグレンラガンにある多元宇宙の話の一つであろうという事は予想された事だし、中盤にかけて展開される話がいちいちグレンと重なってきながらも異なる話というのにワクワクしていき、後半の怒涛の展開とかは結構楽しめました。CGがちょっと荒くて、画面の流れが掴みづらかった。モーションブラーが欲しかった。あと、カミナが特に最初の方、物語としての立ち位置がかなり滑ってる感じがするんですね。本来のカミナであればもっとぶち切れる展開であるはずが、事態を抑える役目として振舞ったりする。え?カミナってそんなキャラだっけ?、と。後半になるとぶち切れるシーンもたびたび出てくるんで、カミナらしさも出てくるんだけど、それでも抑えるシーンも出てくるので、どうにもカミナというキャラを上手く生かせてない印象を全般的に受けてしまうんです
で、改めてグランラガンで描かれていた話からプロメアを考えてみようと
グレンラガンは螺旋の力とその抑制の話、また引き継がれる遺志の話です。螺旋の力は人の成長、そして可能性を示す力です。一方その力は、制御が出来ず、結果大惨事になりうる、という事も示されています。そしてそれを抑制する力では節制を求め、結果一部の人々に犠牲を払わせる事も示されています。物語上、カミナは螺旋の力を戦う力、そして可能性を主人公のシモンに遺す立場でした。後先考えずに物語を前に進め後の仲間に遺志を残した推進剤でした。一方プロメアではバーニッシュが扱う力が中盤になると次元の力という事が判ってきます。これが物語を推進する力です。ですがこちらもその力を抑制する流れの中でグレンと同じように犠牲を伴う事が示されます
この螺旋の力、次元の力が2つの物語の核であり、違いになってます
しかし、ここで気付きます。カミナはグレンでは物語を推進させる側だったのに、プロメアでは制御する側に立っているのです。そりゃカミナが立場を慮ってカミナらしくない行動をしなきゃならない訳です
後半につれ、バーニッシュの首魁リオとカミナは組んで物語を進めて行くのですが、リオがどんどんぶち切れて物語を前に進めていきます。カミナは抑える側に回ります。これもキャラと立ち位置がおかしいです。リオは力の行使を好んでません。でもバーニッシュの力、次元の力が溢れる事でリオが物語を進めていきます。物語を推進する立場のキャラが力の行使に積極的でないのです。でも映画の画面ではその力が物語を進めてる。物語を進めるべきキャラが物事を収める立ち位置に、物事を進めたくないキャラが物語を推進する立ち位置に居る訳です。そりゃ序盤の物語の展開に齟齬を感じる訳です
そして次元の力です。これがこの映画では単なる力の暴走の源としてしか描かれていません。これが非常にもったいない。話の核になるモノが単に暴走する力、ではプロメアという話に何の寓意も示されません。溢れる力を一度暴走させて次元を切ってしまってはいおしまい。で、これは何の話だったの?と
違うでしょ、と。次元の違う世界をもっと掘り下げてくれないと。多元宇宙とは、グレン26話にあるように、今の世界からさまざまな分岐点があった時にそのそれぞれを選んだ世界、つまり、あらゆる可能性が開かれた世界です。多様性の世界とも言って良い。プロメアではバーニッシュは弾圧されている世界です。これは持つ者持たない者が分断された差別のある世界です。次元の力はこれを飛び越えます。自分がバーニッシュである世界、そうでない世界、それぞれの立場を知る事ができるからです
#クレイが力を暴走して捕まった世界、リオが女になってカミナと付き合ってる世界のシーンは欲しいなぁ
相互理解によって、これからの世界を良くしていく源泉となる力です。ここがプロメアにおける着地点でしょう
また、次元の力がそういうモノであれば、カミナがグレンの世界より大人なキャラである事も理由付けできます。暴走気味だったカミナがどこかで次元の力に触れ、暴走した先の世界を学んでいた、とか
次元の力というのが、あらゆる可能性に対して想像を得られる力、とすれば、バーニッシュの人々のキャラ付けも変わっていくでしょう。強い夢を持つ、夢想家である、想像力が強い、共感力が高い、新しい事に挑戦したがる、発明家、注意散漫である等です。だとすると、カミナのところにいるエンジニアとかは実にバーニッシュっぽい人です。そういう作りの方が判りやすかったでしょう。話が進む中でエンジニアがバーニッシュであったから捕まった。それを救う過程でカミナはリオと同調し、バーニッシュ側の立場に近くなっていく、自然な流れです。カミナであればそのままバーニッシュ側に付いてもおかしくないと思います
更に言えば、そもそも何故プロメアの世界では次元の力が暴走を始めたのか、ここにも理由が欲しいです。次元の力の暴走はグレンで言うならスパイラルネメシスです。螺旋力が暴走する状態です。と、するなら、これはこちらの世界のシモンが起こした事ではないか、と。こちらの世界のシモンが次元の力を暴走させようとしていた、それをカミナが食い止めた。そしてシモンは次元の力を制御するに至った(或いは制御出来ない分の力は次元を閉じて封じた)。着地するべき場所へ綺麗に着地した、美しい結末です。やはりこちらの世界ではリオがその位置に付くでしょう
そうだけど、それが何?きちんとコントロールが入ったんだからいいじゃない。
例えば、労働に関してほとんどの企業はうまく回してるけども一部の人はブラック労働を強いられることもあって、法規制が度々入る。
だから会社に勤めることはやめるべきって言う?言わないでしょ。一部がダメだからといって、それ以外の部分が達成・享受してきたポジティブな側面がそれだけで否定される訳がない。
それと同じはずなんだけど、ソシャゲの場合は「ポジティブな側面」を非プレイヤーの人が認識していないから、一部の悪い側面だけをもって「潰せ」みたいな論調が出てくる。
あるいは、悪い部分が一切でてこないアクティビティが存在すると思っている?
少なくとも、成長している分野であるという時点で、それ相応の価値を生み出し、価値を感じる人がいるということだよ。本当に全体的にダメな分野はそもそも成長しないんだから。
http://news.livedoor.com/article/detail/16502032/
これ。山崎製パンの主張はだいたい正しい。
それを受けて一部のブコメが「イーストフード・乳化剤不使用表示は消費者に誤解を与えるから止めろ」と吹き上がっている。
しかし、科学的に安全であればそれを使用していないことを強調すべきでないという意見はその他の食品表示に関する政策と完全に矛盾している。
これも科学的に安全であることは証明されているのだから表示の必要はない。
しかしなんとなく遺伝子組換えでないものを食べるほうが気分が良くはないか?
(まずいという根拠がない場合は常に最安値の食品を選ぶというケチはこの議論には関係ないから帰ってくれ。そもそもそういう人たちには値段とグラムと成分以外の表示なんて関係ないだろう。その行動はある種正しい。)
第二に産地表示。
いろいろ言われているが、海外産だからといって危険な科学的根拠はない。あったら輸入停止にすべきである。国産表示やめる?
都道府県の表示も意味がない。産地の都道府県で食品の味が決まるわけではない。同じ産地の同じ作物でもうまいまずいはある。
福島県産の作物は安全であることが証明されているが、「表示をしない」というのは騙されている気がする。別にあえて復興支援のために福島産を買う人も、念の為あるいは政府不信で避ける人もいていいと思うのだが。
エコのために地産地消をしたいという反論があるかもしれない。しかし、それならば運送にかかったエネルギーがいかに少ないかという表示をすべきであって、産地による差別を行うべきではない。遠くからだって効率的に運べる工夫をしているかもしれないのだから。逆に近くであっても無駄に燃費がかかっている可能性もある。
「イーストフード・乳化剤不使用表示」は、いくら安全だろうと化学プラントで作られた食い物を気分的に食いたくない(岩塩のように採掘品が入ってるほうがまだあり)、あるいはそんな安物よりもイーストフード・乳化剤不使用の高級品を買ったほうが気分がいいということで、商品を選ぶ消費者にとっては十分合理的な表示である。それは遺伝子組み換え不使用・国産・名産地の商品を選ぶことと何ら変わりがない。
全てのデンプン・タンパク・栄養素が巨大なプラントで合成され、最低価格で作られた安全な食料が世界中の人々に配給される世界を理想郷とする一部の人々にとってはそんなのは唾棄すべきブルジョアジーのわがままなのかもしれないが。
最安値ではなく気分の問題でちょっと高めな食品を選ぶ一般的な中流市民にとって非難すべきはあくまで「イーストフード・乳化剤不使用表示」ではなく、エセ科学本でありそのことは分けて考えねばならない。
そもそも日本の法律で企業が安全でない食べ物を売るはずがない(建前上は)。むこうは最初からどの商品も安全ですよと売っているのに騙されたと企業に怒るのは身勝手もいいところである。
Hey! Say! JUMPのツアーが中止になった。
開催の告知すらされていないものに対して、ファンクラブから会員宛に「やりたかったが、お前たちの素行が悪いから仕方なくやらないことにした」という旨のメールが突然届いた。
まるで当て逃げされた気分だ。
ツイッターで愚痴れば、自分は悪くないような口ぶりだとか、当事者意識がかけている、など意識の高い他人からの空リプが飛び交う。
一部の人が過激な行為をしているらしいということは聞いたが、現場に居合わせたこともないし、顔もわからない他人のしている行為だ。
ファンクラブ側は「いじめた本人だけでなく、見て見ぬふりした人もいじめに加担してたんですよ」とでも言いたいのだろうか。
友達や身近な人がそのような行為をしているならまだしも、誰がやっているかもわからないことに対して何ができると言うのか。
知らない誰かのせいで中止になったことを愚痴ることも許されないのか。
今日はワクワク学校の当落があったが、はずれてほっとした自分がいた。
もうHey! Say! JUMPをファンをするのは疲れた。
私男だけどさ、そう思ってない人は、SNSでもいじめっ子みたいなろくでもない人間に絡まれるのが、
面倒くさいから黙っているけど、心の中では味方しているよ。
本当は自分が楽しいと思っていることを楽しくやって無視すればいいんだろうけど、そうはいかないよね。
実際、私もいじめられてる時もそういう感じだった。
テレビとインターネットは声の大きい一部の人の声が目立つところで、人は犬を噛んだらニュースになるし、犬が人を噛んでもニュースになるところだよね。
まあ男なんてバカみたいに単純だからにっこりほほえんでいれば、大体かわいいと思うのよ。
といってもほほえまないのは自由だし、不機嫌なら不機嫌でもいいの。
私は一時期、小さなギャラリー兼レンタルボックスによく行っていたのだが、そこでボックスを借りて作品を売ったり、作品展をやったりしている人たちが不思議で仕方なかった。その作品は、手作りアクセサリーだったり、写真だったり、手芸作品だったり、アートなのか何なのかよく分からない物体だったりした。ちょっと不便で入りにくいところにある小さなギャラリーで、その代わりギャラリー代がかなり安くて無審査だった。自分もお付き合いでギャラリーのグループ展に参加したことはあるけれど、あくまでもワン・オブ・ゼムに過ぎず、自己満足でやっているという感じしかしなかった。
これはご本人達に聞くよりオーナーに聞いた方が早いのかも知れないけど、「お金のためにやってる」と言い切れるほど儲かる場所には見えなかった。一部の人の作品のクオリティはかなり高かったけれど、それならばもっと立地のいいところで、宣伝になるようにやらないと意味がない。あくまでも作るのが楽しいからやっているというなら止めないけど、これだけで生きていこうとするとかなり厳しいとお見受けした。それでも手作りアクセサリーなどで人気のある人は、他のレンタルボックスにも作品を出したり、デザインフェスタみたいな大規模イベントで作品を売ったりしていた。ちょっとしたお小遣い程度にはなるのだろうか?
そして質問その2「作品を作り続けるモチベーションはどうやって維持してますか?」
これ。本当に不思議でしょうがないのだ。私が行っていたところ以外でも、結構あちこちのギャラリーで分かる人にしか分からない作品をせっせと展示している人たちがいて、それなりに格の高いギャラリーではギャラリー代も相当かかるし、沢山の作品を事前に提出してギャラリーの審査に通らないとそもそも展示できない。だいたいどの作品にも値段がついていて、買いたい人は買えるようになっているのだが、わざわざ買って帰って家に飾りたいと思えるものはそうそうない。もっとも私は著名な画家や写真家の作品(複製を含む)であっても、同じものをずっと飾り続ける趣味がないのであまり参考にならないかも知れないけど。どっちかといえばカレンダーみたいに一ヶ月ごとに違う絵が見られるものの方が好きなのだ。
それにしても、私は子ども時代、手作りが大好きだった。折り紙とビーズ細工にはかなり熱中した。子ども時代…といっても高校生になっても続けていたし、当時はわりと高度(?)な作品も作っていた。折り紙だと連鶴(一枚の紙に切り目を入れて、何羽もつながった鶴を折る)やユニット折り紙(沢山のパーツを折って組み立て、さまざまな立体を作る)をやっていたし、ビーズではビーズフラワーなるものを作っていて、ビーズで花びらなどを作って花の形に整え、茎に刺繍糸を巻き付けてまとめて仕上げたものをコサージュにしたり、小さな花束にして人さまにプレゼントしたりしていた。
が、正直作る作業が楽しくてやっていただけで、作り終わった作品はどうでも良かった。人さまにあげたり売ったりするほどの出来でないものも多かったし、折り紙はかさばるわりにつぶれやすいので、運搬や保管が難しかった。でも今ならば、手作り作品をブログで発表したり、ハンドメイド作品販売サイトで売りに出したりすることができる。そんなにお金に執着しなければ値段を安く設定すれば良い。だが、自分のモチベーションがすっかり下がってしまい、地道に作品作りに励むことができなくなってしまった。老眼になって細かい手元の作業が苦痛になったとはいえ、だいたい定時に帰れる職場にいて、時間の余裕はあるはずなのに、何も作れない自分が情けない。ちなみにいまだに折り紙やキレイな柄の包装紙などには目がなくてついつい購入してしまい、材料だけが増えていく状況である。誰か私のやる気スイッチのありかを見つけてくれないだろうか。
他人の適当さや思慮の浅さが、すごく目につくようになってしまった。
3年前はこんなことはなかった。2年前も、多分。
・・いや、2年前というか、新しく入って来た人に対する「なんでココで、注意力を欠くんだろうか」は良く感じていたかもしれない。
それが、ここ数ヵ月は、あまりに多くの人に感じるようになってしまった。
ここ1,2年で入ってきた人だけでなく、それ以前に一緒に働いていた一部の人に対しても。
何を言っても「面倒くさいことを言っているな自分は」という感覚がついて回る。
正論を吐いているつもり。正論つってもさ、言い方はあるよね。
その「正しい」言い方が分からなくなっちゃった。自分の発言は、みんなに面倒臭がられているように感じる。
自分ですら、「俺に話しかけられる人は可愛そうだ」と思うようになってきた。
そういう自覚があるから、自分自身もイライラしてしまうし、それでまた実際の発言も「嫌な感じ」になっている気がする。多分。
もー何も言いたくないよ〜
iPhone 3GSが日本で発売されて以降、カメラ市場(特にコンパクトカメラ市場)はスマートフォンに搭載されるカメラに苦戦を強いられてきたという現実がある。
ただ実は昨今、スマホカメラからカメラ専用機へ回帰するユーザーが徐々に増えているのをご存知だろうか。
スマホカメラの利点と言えば誰しもが想像するであろう「1つのデバイスで撮影から編集、そして他のユーザへシェアすることの出来る総合力」が挙げられる。
いわゆる"写メ"に代表されるガラケーの頃から培われたこのソリューションは、ライトにカメラ撮影を楽しむユーザーを多く取り込み、市場を(現在も)席巻しているというのは常識的であると表現しても過言ではない。
スマホ登場以降のカメラメーカーの誤りを挙げるのであれば「ユーザーは画質をシェアしているのではなく思い出をシェアしているのだ」という現実を見ず、スマホよりも高画質であることを喧伝することへ終始してしまっていた。
この流れが変わるのは奇しくもカメラメーカーの努力のみではなく、ユーザーの需要の形態に変化が起きたからであった。
何を切っ掛けにユーザーの需要は変化したのか?と言えば、それは"Youtube"や"SNS"へのシェアだ。
Youtubeへ動画を投稿するユーザーが増え、様々な環境や目的でのカメラ撮影を考えたとき「スマホカメラでは性能不十分である」という気付きがユーザーの中で起きた。
明るい環境でも暗い環境でも何が起きているのかを伝えたい、小さなグッズをより良く見せたい、より画角を自由にコントロールしたい、そんな需要から明るいレンズやマクロ、広角に対応できるカメラ専用機に需要が起きたのだ。
更にこれまたiPhoneが示したポートレートモードに代表される美しいボケ味を常に得たいという需要も起きた。
スマホカメラは間違いなく進化している。より手軽により美しくより幅広い表現力を少し前のスマホと比較しても得ている。
しかしながら"一歩先"を意識したユーザーがカメラ専用機へ目を向けた際、カメラ専用機の進化幅はスマホカメラのそれを圧倒していた。
そもそもを言えば、例えばスマホカメラで高画質と評価されるiPhoneやGalaxy、Xperiaで採用されているイメージセンサーはSONY製であるというのはカメラ業界では有名な話である。
そして昨今急成長を遂げた中国新興スマホメーカーでもSONY製イメージセンサー採用がユーザーの購買理由になるほどの流行を生んだ。
そんなSONY製イメージセンサーである裏面照射CMOSのExmor Rや進化型である積層型CMOS Exmor RSはカメラ専用機にて先行採用されスマホへ技術転用されるという流れを持っている。
手ブレ補正も顔認識オートフォーカスもスマイルシャッターもカメラ専用機が先にあり、昨今のムーブメントを起こしている顔認識オートフォーカスの進化型である瞳オートフォーカスも新型Xperiaで採用されることが予告されているが、これもカメラ専用機で採用されているものだ。
つまり、スマホカメラの未来のスタンダードはカメラ専用機にあり、一歩先を意識したユーザーがカメラ専用機の進化に新鮮な驚きを示している。
カメラ専用機は邪魔という意識もGoProがアクションカメラというジャンルを開拓したことにより低減されつつある。
アクションカメラというラフに扱っても良い安心感と、小型なのに驚くほどスムーズな手ブレ補正は、カメラ専用機を経験してこなかったユーザーにとって敷居を大幅に下げる役割を持った。
SONY RX100Ⅵは前述した積層型CMOS Exmor RSを採用し美麗な画質を得つつも、コンパクトカメラの小型さ、自撮りも可能なフリップ可動液晶、光学ズーム、光学手ブレ補正、瞳オートフォーカス、価格が熟れてきた4Kディスプレイに対応した4K HDR動画撮影、ハイアマチュアユースのRAW静止画やLOG動画撮影が可能というコンパクトカメラなのに全部入り。
更に言えば、女性が嬉しい美顔モードを搭載している上、撮影したデータはスマホ連携機能により無線接続でスマホへ保存できる(流石に有線接続よりは遅いが写真数枚撮って転送程度ならばそう待たされる感覚もない)。
重ねてしまうが昨今のカメラ専用機において特筆すべきなのがスマートフォン連携機能であり、撮影したデータはスマホへ無線転送できるので、片手にカメラ専用機、片手にスマホなんていうことが起きないようになっている。
「Instagramのあのアカウントのキレイな写真をどうやって撮っているのか?」という疑問への解答はココにある。カメラ専用機で撮って無線転送してスマホでシェアしているのだ。しかもそのカメラ専用機は小さなカバンにも入るコンパクトカメラ。
こんなムーブメントをリードしたのは一体どこのカメラメーカーなのだろうか?
前述した通りカメラメーカーの努力のみではなくユーザー需要が変化したからであるが、その需要へいち早く反応したのがPanasonicであり、Youtube専用機とまで言われたPanasonic LUMIX GH5だ。
GH5はコンパクトカメラではなく、ミラーレスデジタル一眼と呼ばれる従来よりも小型化されたレンズ交換式デジタル一眼だが、面白いのはビデオカメラではないのに動画撮影機能を意識したデジタル一眼であるという点。
4K動画撮影機能や自撮りも出来る可動液晶を備え、ビデオカメラ以外では難とされていたデジタル一眼の4K動画撮影ではありがちな熱暴走を抑える優れた放熱性能を持つ(デジタルカメラは熱暴走すると撮影が自動停止する)。
GH5が登場した時期はヒカキンなどで注目され始めていたYoutubeが盛り上がっていく時期と重なっており、Youtubeという需要へ上手くマッチしたのだ。
これを見た他のカメラメーカーも自社デジタル一眼製品の4K動画撮影機能を採用または既に採用していたカメラメーカーは強化するという選択を迫られた。
それでもデジタル一眼は写真機という意識を強く持ってるカメラメーカーは多いが、カメラメーカーの大御所であるキヤノンはEOS KISS M、フィルムメーカーの富士フイルムはX-T100、SONYはα6500やα6400で4K動画撮影機能や自撮り可能な液晶を備えている。もちろんスマホ転送可能だ。
そんなムーブメントに、よりライトなユーザーを対象とするコンパクトカメラが追わないはずがなく、前述したSONY RX100Ⅵやキヤノン PowerShot SX740 HS、ニコン COOLPIX A1000、コンパクトなミラーレスデジタル一眼カメラPanasonic LUMIX GF-10などがムーブメントを体現している。
GH5でも注目したPanasonicのビデオカメラでは可動式液晶へ可動式サブカメラを搭載させたワイプ撮りやマルチカメラ撮りに対応しておりコレもYoutube需要へ訴えかけている。
SONYハンディカムはレンズ自体がグリグリと可動する空間光学式手ブレ補正によって手持ちして全力で走っても驚くほどブレない映像を得ることができ、激しいシーンをフレーミングするユーザーに高い評価を得ている。
空撮を一般ユーザーの手中にしたDJIのドローンシリーズ、VRにも対応した360°カメラのRICOH THETAシリーズやInsta 360シリーズはそもそも撮影時のフレーミングという束縛からユーザーを開放させた。
決してスマホカメラの需要は無くならないだろう。無くならないどころかカメラ撮影のメインストリームは今後もスマホカメラのはずだ。
しかし、スマホカメラが席巻してきた需要の一端がカメラ専用機へ回帰し始めていることをキャッチアップしないと時代に乗り遅れることは間違いないと強く表明したい。
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現在のVLOGで人気の一端を担っているデジタル一眼はGH5であることは間違いない。
これはヒカキンを代表に一部の人気Youtuberたちが使っているからだ。
しかし、VLOGで使われているのはGH5だけでなく、それこそiPhoneやGoProも使われており、他にはOSMO Pocketと呼ばれるジンバル一体型小型ビデオカメラも使われている。
画質へこだわりのある層はGH5の後継機であるGH5sへ移行している。
更により画質へこだわりのある層はGH5sよりも画質的に有利なSONYのα7Ⅲを使っている。
α7Ⅲを使っている層はハイアマチュア以上だという認識で間違いない。最早VLOGとは言えない映像作品レベルのものを公開しているビデオグラファーに採用例が多い。
最近は手軽にVLOGを撮るという需要から携帯性や画質とコスパを考慮してCANON KISS MやSONY α6400が使われるようになっている。
コンパクトデジタルカメラならばSONY RX100Ⅵがなかなか強いが、4Kが撮れて自撮りできるコンデジならば様々に選ばれている印象はある。
ただ、VLOGで最も使われているカメラは間違いなくiPhone、そしてGoProだ。
VLOGを頻繁に撮影しようと考えるようになってくると動画撮影のためiPhoneのバッテリ残量が気にかかってくる。
カメラ専用機を導入すると当然ながらiPhoneのバッテリ残量を気にせずとも良くなる。
そこでカメラ専用機を(ググったりして)最初に検討へ挙がるのがGoProであることが多いのだ。
GoProはアクセサリが豊富で自撮り棒は当然あるし、自動車や自転車、バイクにマウントできたり、ヘルメットへマウントすることも可能であり、カバンへのマウントや自身の首へネックレスのようにぶら下げることだって可能。
しかもGoProはiPhoneやiPadとの連携にも強い。専用アプリがあるので撮影中の映像をiPhoneやiPadでリアルタイムプレビューすることもできる。そのまま編集へ移行することも可能。
自身の撮影スタイルへ合わせやすいのでGoProが選ばれやすい傾向にある。
「GoPro女子」なんていう言葉を見かけた時は「またカメラ業界のごり押しか・・・」と怪訝さを持ったものだが、個人的な感覚では「半分嘘ではない」くらいの印象。
海や山、観光地などへ行くと確かにGoProを構えている女子は居る。圧倒的にiPhoneの方が多いけれど「まぁ・・・嘘ではないかな?」と思える程度には居る。
このような状況なのでiPhoneやGoProと比較するとGH5は人気がないと言って良い。
GH5は人気Youtuberを志す極一部のユーザーから一種の神格化を受けている印象がなくもないのだ。
GH5にはGH5sという後継機がある上に、後継機であるGH5sよりもKISS Mやα6400の方が設計が新しいので、GH5信者か特定のYoutuberへ憧れを持っていない限り旧世代のGH5を選ぶ理由があまりないのである。
従って「GH5が人気」なのはVLOGをやっているユーザーの中でも極一部のユーザーに人気ということになる。
これからVLOGというか「動画による思い出の記録をしたい」と考えるのであれば候補として以下を羅列しておくので検討に活用して頂きたい。
○一番お手軽
○高画質デジタル一眼
上記は単純に「4Kで撮影できて自撮りがしやすい」という独断と偏見的な基準で抜粋したもので、上記から選んでおけば大きな失敗はないという程度のもの(撮れるっちゃ撮れるけど思ってたのと違ったくらいの失敗はあるだろうが)。
つまり、自撮りを考えなければ他にいくらでも候補は挙がり、例えばBlackMagick PocketCinemaCamera4Kのようにデジタル一眼の形態を持ちながらも動画撮影へ強くフォーカスした製品もある。
別の増田がホームビデオ=VLOGと表現していたが大幅に間違ってはいない。語源はVideoLOGだがビデオBLOG的な感覚の言葉なのだからオシャレである必要もなく、BLOGで書きたいことを書いたようにVLOGで撮りたいものを撮れば良い。